昔の静岡鉄道を語る
現存する静岡清水線や、廃止された清水市内線、駿遠線、静岡市内線、秋葉線の思い出を語ろう! 同じ事情で駅ホームの端っこにも道路と同じスタイルの反射鏡が付いた
子供の頃、鏡に向かって変顔して鏡に映る様子を見て友達と笑い転げてた
平和だった…… >>59 100系や300系と同じ顔をしていて、一枚ドアの電車がいた記憶がうっすらあったのがこの電車だとわかりました。
100系の第一編成は一枚ドアで以降は二枚ドアになったと思ってました。
私はそれよりも、国鉄80系を小さくした20系が好きでした。
小学生の低学年の頃に廃車になっても、写真撮影ができませんでした。
300と350は静鉄在籍時に、100は熊本電鉄に行き、撮影と乗車をしましたか、単行になった601の静鉄似のカラーと青系の熊本電鉄カラーの500の2連を撮影しました。たしか、阪神大震災発生の翌年に熊本で撮影しました。 もし、駿遠線が改軌して、狭軌そして、大井川にしっかりした鉄橋をかけていたら相良か、榛原ぐらいまでは残っていたと思う。
今、藤枝駅北口の再開発で新藤枝駅あとはテナントビルとマンションになったけど、一階を駅と商業施設、高層階をマンションにという作りになっただろう。
車両も天浜線で使っているような、ディーゼルカーになって、バス同様に後ろのり前降り運賃後払い整理券方式で、磁気カードのパサールカードも使えただろう。
有人駅は、新藤枝、大井川、遠州神戸、上吉田、榛原町、相良。
住宅地化した相良駅が車庫併設で全検をしただろう。 350形の廃車体がある場所が特定出来たんだけど行く方法が無いな
最寄り駅からは片道5キロも離れてるし路線バスは皆無だし
タクシーを使うにも具体的な行先を言いにくいし
レンタカーを使うにしても場所が場所なだけに近くに停めたら確実に怒られそうだし
仕方ない、最寄り駅から歩いて行こうかな >>78
自家用車かレンタカーで行って近所の人に停められるか尋ねればいいじゃん
場所も明かさないでいろいろ言われてもな >場所も明かさないでいろいろ言われてもな
具体的な場所だけはここでは絶対に言えないな、どうも個人の持ち物のようだから
私有地云々に関しては道路に面した場所だからギリセーフみたいだけど
というか凡その場所は現地の画像込みで既に情報が出回ってるし
あとは映ってる背景を航空写真等で照らし合わせて俺ですら見つけられたからそう難しくはないぞ
ちなみに自家用車だけは無理。現地まで遠過ぎるから 5キロくらい歩けよ。
ゆっくり歩いても往復4時間は掛からん。 まあ半分冗談のノリで書き込んだからな
嗚呼冗談と言っても行く事自体は本当だから >どうせ報告はねえんだからな
わざわざここで報告する程の事なんてある?車体が最近銀電青帯仕様に塗り替えられた事はとっくに知られてるし
というかここで報告したところで聞く耳持つ人いるの? >>68
車体が垂れ下がってドアすらまともに閉まらないって証言があるんだが
滑稽なのはどっちなんだか 今日久々に1001に乗ったけど、落成当時は貫通路の広告灯が動いたんだよね 訂正
× スレタイに関係ない発言をする奴が問題なのさ
○ スレタイに関係ない発言をいつまでもネチネチ続ける奴が問題なのさ つまりどうでもいい事を何日も経ってからわざわざ訂正してくる貴様の事か >>36,41,45,46,47,48,49
滑り台付で有名だったプールでアイドル歌手のミニコンサートみたいなのが年に一、二回あった
記憶にあるのは江戸真紀と志村かおり
コンサート終わりの電車内はお揃いの法被&鉢巻に身を包んだ親衛隊が満足の表情で大勢乗ってきた
B級マイナーアイドルでも親衛隊が付くものかと不思議に思った 1000系は客室から前方の見通しが素晴らしくてかぶりつきに最適。
土曜の学校終わりにハンディカムを持って撮影してたっけな
国鉄は113系で論外
運転士車掌の態度も良くなかった 狐ヶ崎ヤングランドに行ってたのかな?5時に夢中美保純さんは言ってましたが あの程度のアトラクションでも十分に楽しめた時代>ヤングランド
幼稚園児や小学生でも普通にTDLやUSJに行く現在とは隔世の感がある >>74
昔は前もって鏡を拭いておくと滴になりにくい成分を染み込ませた
化学布巾があった(黄色かオレンジ色のやつ)
だから用をなしてないことはない >>96
一枚下降窓が珍しくて面白半分で全開にしたりしてた。
保護棒もなく簡単に外へ飛び出せそうな塩梅だった。
夏は、クーラーが付けられるまでそれが当たり前の光景 静鉄にクーラー付きが走り出したのは昭和55年頃?
世間では省エネが叫ばれてたのに時代に逆行してると感じた クーラーが世の中に普及し初めて来て、静鉄もサービス面で付けなきゃならなかったんだろうな クーラー化はバスに先行されて鉄道がようやく重い腰を上げて投資にかけ始めた頃かな。
一年のわずか4分の1しか使わない装置に大金つぎ込むのかみたいな感覚? >>71
モンゴル軍にあんな戦車いないよな。
当時のモンゴル軍主力戦車はT34とかT55。今なら軍オタに突っ込まれてる。 近江鉄道も静岡鉄道も自社製湘南顔は貫通車より前にあっさり廃車
編成組み換えが面倒だから? 静鉄の場合はそれ以前に短い車体故輸送力の無さが原因で廃車になったかと
3両化するにしても長さ的に中途半端にホームからはみ出してしまうし >>105
えっ?当時は冷房化を時代に逆行と言うような風潮だったの? >>77
「駿遠線は経営面でいいタイミングで廃止できた」と、当時の川井社長がインタビューに答えていたのを、書籍で見た記憶あり。 >>109
戦後すぐのミリタリー知識でも無いわと言いたくなる間違いだよ、あれは。
宮崎駿が知ったら大激怒だったろうな。 >>109
戦車ではないが、この種の軍用トラクターに似てなくもない。
http://www.ms-plus.com/55195
大戦中のソ連では、農業用トラクターをベースに、砲牽引用車両やら簡易自走砲のような軍用トラクターを生産していた。素人から見れば、砲がむき出しでろくな装甲施してなくても、軍用のキャタピラ付き車両とあれば「戦車」とされてしまうわけだから。 もっと似ているのもあった。これも民間用トラクターの軍用転換型。
「蒙古の戦車」と言い出した人が、実際にこれを見ていたかどうかは知らんが。
http://www.ms-plus.com/72234 駐ウランバートル大使かノモンハン事件経験者でもない限りあの時期にモンゴル軍と接触した人はいないから、ミリタリー系の本読んで>>116>>117みたいなのを見た人がなんとなく名付けたのかな?現代モンゴル軍好きとか相当レアと思うが。 >>118
ジンギスカン鍋食ってるうちにモンゴルに興味持ったんだろ >>112
オイルショックから50年前半は省エネ言い始めた頃で、家庭屋オフィスの冷房、ガソリンなんかは「節約しましょう」みたいな雰囲気だったと記憶してる >>120
ならば冷房車の登場は50年代半ばだからギリおkか 桜橋が入江岡のように橋の上に改札があり跨線橋でホームに降りてく形だったのはいつまで? >>124
違うかもだけど、俺がなんとなくホームの工事したの覚えているから、昭和47〜9年頃じゃね? 新参者なんですが
21型〜25 5編成↔1001〜1005 昭和48年
101〜106 3編成↔1006〜1008 昭和51年
107〜110 2編成↔1009〜1010 昭和54年
350型 1編成↔1011 昭和59年
と置き換えの編成数が同じなのに
300型 3編成↔1012 昭和60〜61年
最後の1012だけ置き換えの両数が違うのは単に乗客の減少による運用数の減少だけが理由? 昭和60年頃って営業状態の旧車は300系だけ残っていて他は1000系だったからいい加減処分したかったのもあるかと >>76
熊本に行った100にのった時に車内蛍光灯がえらく長い60wのやつ使ってた?記憶。 100形唯一の現存車である109が日立市の某所にある事は古い情報として知ってはいたが
最近ようやく具体的な場所を突き止めてまだ残ってる可能性が高い事も分かり
しかもこちらは352と違ってバスも近くまで通ってて容易に行けるからつい先日行ってきたけど
何というか、写真でも見たのと同様に蔦に覆われててあれが元静鉄車だとは言われなければ分からないだろうな
情報によると運送会社の敷地らしいが、奥まった場所だから近寄れなくて裏手が市の施設で許される範囲で何とか近付けたが
よくよく見ると顔の方が建物側に向いててしかも近接してるから例え蔦を取り払ってもご尊顔を拝する事は叶わないだろうな
もし仮にだけどお金さえつぎ込めば(件の廃車体を)引き取りたいと言えば引き取れるものなのかな?
一応倉庫代わりとしてらしいが見たところ今は使ってるようには見えなかったが 蒙古の戦車ネタだが海外向けに英文を添えていた某HPに、解説としてモンゴリアンタンクとあったのには悶絶したな。
日本人相手でさえ判りづらいのに、予備知識がない外国人にモンゴリアンタンクという紹介はないだろうw 秋葉線、モハ3だけ頑丈なパンタグラフを載せているのは何故なんだろう? 蒙古の戦車というのは、日本軍の戦車の事かもしれない。
ノモンハン事変に従軍した生存者が戦後、例の機関車を見たらどうなる。
帝国陸軍のチハなど、平面的な構成ではないでしょうか。
ノモンハンは一応、敗北というか言いにくいが内蒙古、外蒙古という表現はアリかと思う。 >>132
>>134
九十七式中戦車とは色合いも形も違うな
モンゴル軍のT55とも。 似ているかどうかは他の比較対象があって初めて成り立つもの。
一兵卒が「それ」しか見ていない場合、違うなどと言う感想はない。
次に、一兵卒の立場から言えば、トラックにありあわせの鉄板を張った様なものでさえも、復員してからの感想では「戦車」になりうる。
誰も正確さなど求めてないからな。 様々な国や年代の戦車を比べられる立場や視野、知識を、「蒙古の戦車」命名者が持っていた保障なんてどこにもないって事ですよ。
むしろ逆に「戦地で見たなんだかよく判らないものがすべて戦車」という可能性のほうが大きい。
軽便鉄道の現場の人だって戦車の型式とか、さらに言えば「戦車の定義」等まったく興味なかろう。
トラックに鉄板を張ったものは戦車じゃないというレベルの反論すら無意味って事ですよ。
兵器マニアの人には残念なお知らせですが。 そんなに古い話でもないが2000年頃に1000系の車内第二エンド上部に広告用のディスプレイが出来たときは少し嬉しくなった
当時は首都圏関西圏でも付いてるのはまれだったと思う 静鉄観光のツアー企画とか、静鉄不動産の分譲住宅とか、
グループ会社の宣伝ばかりだった? 駿遠線だとTMSの210号(1965年12月号)で旧中遠鉄道区間を「静鉄スカ線」と呼んでいるのがあったなw
確かに「横須賀」に行く鉄道だが・・・ 祖父母からは中遠線としか聞いたことがない
静鉄スカ線は、マニアの造語か? 駿遠線は好きでよく文献を漁ったりしたこともあったが
静鉄スカ線は初めて
見逃してたか… 車内放送の新清水を新シリーズと聞き違えて
一体どこなのかと思っていた。 最近やっと図書館に出回った静鉄百年史によると、近代化方針の一環として1968年に車両製造部門を廃止したとあるが
だから>>59-62で取り上げた16形が350形のように機器流用の車体新造が出来なくてリニューアルで妥協したのか?
もし16形に手を付けるのが早いか車両製造部門廃止が遅ければ機器流用の上350形の一つになってたのだろうか? でも 自社製車はおしなべて早期廃車じゃないか
20形なんかも 下回りは古物だとしても 12年くらいで廃車 譲渡先もない >>152 当時の鋼製車の車体であれば設計し自社製造ができたということだろ。
大手私鉄の18m3ドア車の模倣ではあるが。自社製造止めたからステンレスの1000系導入できたんじゃない? 車両を自前で調達できたことがある意味社員達の誇りというかアイデンティティーというか、
意欲発揚のツールになってたとは考えられまいか
他の中小私鉄ではまずあり得ないことだったから。 ここと近江、両方とも路線の特徴が原因で大手私鉄からの譲渡車をそのまま入れられなかった、西武所沢工場の小型版のような部品かき集めで組み合わせ、改造して自製する必要があったからなんでは?
例えば、運輸省の指導でロクサン入れる代わりに旧型車を出した東武から、長野電鉄は中古を得ることができたが、こちらはそれができなかった 買収国電の譲渡車や東急のお下がりなど多様な車両入れてるんだな。雑多な車両の整備、改修しなくてはならないから、自社工場の技術力が向上したんだろう。 大晦日終夜運転がなくなって、どれくらい経ったのだろう 70年代ごろまで朝の初電は5時だったな
その代わり終電が今より早かった
世の中が今より早寝早起きだったんだろうな 田舎のローカル私鉄になると終電が日没前などというのがあるから
22時台にも走らせてくれてるだけで御の字 車掌がのっていたな、急行で車内改札があったような。 >>162 今は始発が6時か。清水の魚市場に電車で行く人がいたからとか? >>168
新幹線がない時代、国鉄に乗りかえて遠くへ通勤や出張する人は
5時台の電車に乗る必要があったのかもしれない
新静岡発時刻
5時 10 25 30 45
6時 00 12 26 37 42 47 52 57
新清水発
5時 00 25 50
6時 05 20 31 40 48 54
静岡市内線
安西発 始発 5:18
清水市内線
港橋発 始発 5:55