思い出の富士急行を語る [無断転載禁止]©2ch.net
中央線の夜行鈍行で大月で乗換え、深夜臨時の元17m国電で富士吉田。
そこから吉田口五合にバスで行き、富士登頂して下りは吉田口砂走り経由。
それで吉田口五合夕方発の新宿行きバスに間に合った。山小屋泊まる必要がなかった
。ここの砂走り閉鎖の少し前のこと。 客車時代から国鉄が入れる規格だったけど、規格改修は何時行ったの?
それも数回繰り返していそうな気もするのだが・・・。 朝日新聞の投書欄に、富士急は日本一運賃が高い癖によく遅れるという苦情が載ってたな。
40年位前のこと。 レス7だけど、3100形の脱線転覆事故が起きて数年後、昭和48、49年頃だったと思う。
当時は、吊り掛けの旧型車がほとんどだったし。電車もぼろいと言ってたような。 >>9 車両の経年だけで考えたら当時も今も然程変わらんよ。
相対的に車両のレベル、技術革新が鈍り大都市、大手私鉄と変わらんようになっただけ、
それと毎日ゲタ電が東京から乗り入れて来るし・・・。 >>6
昭和4年に開通して9年には直通してるんだから
最初から国鉄規格なんじゃね? 富士急3100が転覆している事故現場の写真が新聞の一面に大きく載っていたのを、見た覚えがある。横倒しになっていた。
その半年位後の近鉄特急青山トンネル事故の方は、覚えがない。家では朝日新聞の東京版取っていたけど。 3600は古い電車の車体を延長したものだったんだっけ? フジサン特急走らせるようになったのは、中央高速経由のバスの営業成績が伸びなくなってきたからかね?
それまで、高速バスがドル箱で、鉄道は手を抜いても構わないという考え方だったのかも。 富士急の沿線に、小田急の「ネコ」は何台か残ってるけど、所謂「小田急顔」はもう残ってないんだよね >>14
少し認識が違うよ。
最初からフジサン特急だったんじゃなくて当初は特急ふじやま号。
これは京王5000系の譲渡を受けた1000形のクロスシート車を用いて誕生した。
7000・3600・3100の時代はクロス車が主力だったが旧小田急の5700形で置き換えた事でクロス車は生え抜きの5000形だけになっていた富士急に久々のクロス車が生まれ、これを活用した形。
あまり高速バス事業とは関係なく、単に僅かな特急料金ででも日銭を稼ぎ少しでも業績アップに結び付ようと考えた苦肉の策。
1206〜1208Fの3本が特急用として整備されたが多客期の増結や検査入場時の代車として一般車が用いられる事もあり、今と違って少ない投資で最大の効力が得られるよう合理的に考えられていた。
しかも特急ふじやま時代が富士急行線の最速時代で以後は改正の度にスピードダウンしていくという体たらく。
フジサン特急になったのはJRで用途廃止となったJTのパノラマエクスプレスアルプスを譲り受けて投入してから。
この時、車両のグレードアップを名目に特急料金の値上げも行われた。
今でも代走特急が走る時の料金が安く設定されてるのは特急ふじやま時代の名残。 痛ましい事故だったね ›暴走事故
後ろの車両の方が衝突の衝撃が少ないだろうという想定のもとに乗客を避難させたのが
裏目に出たというのも不運
どんなに踏切の遮断機能を上げてもクルマが突っ込んできたらどうしようもないよな
究極の防止策は全区間立体化だろうが 3604号だったかなぁ?
3600形で唯一の3扉車で、やったら窓が大きかったの
走ると大きな窓が逆に災いしてガタピシ喧しかったけど明るくて好きだった ブレーキは最低でも複数系統装備、
まず出来ることはこの程度から。
立体化など都市部でないと費用対効果が無さ過ぎるからなあ。 鉄道の連続立体化は大変だから、道路側が単独立体化してくれればいいのに 車体更新を受けた上に電動車のモハ3600や3630は比較的スタイルに統一感があったけど、3630がペアとして組んでたクハ3660は前歴も含め怪しい形体のが多かったな。
特にクハニから荷物室と荷室用ドアだけ撤去してクハになったのなんかは扉配置がメチャクチャだったし、モハと違って鋼板屋根に埋め込みヘッドライトだから編成の前後で印象まで変わるというカオスっぷりw
中には恐ろしく腰板が高くて隣のモハと窓の高さが合ってないなんちゅう垢抜けないスタイルのクハもいたし。 今考えると よく1M1Tで40‰の坂登ってたなあ
釣りかけ車両はトルクが強いのかな >>23
あまり軽量化も考慮されてなかった時代の旧型車は車重(軸重)も大きかったし
そもそもの釣り掛け駆動が車軸に電動機の重量を負担させるという線路には優しくない代物
山陽本線のセノハチなんかでも80系とか旧型電車は自力登攀してたけど初期の平坦線用高性能車は補機を必要としていた
電動機出力こそ大きいものの富士急に縁のある201系やE233だって4連で2MだからMT比なら1M1T 小田急1900のドンガラだけ貰って来てデッチ上げた富士急5200
小田急がモーターやら旧4000系に流用して回してくれなかったから3600のを使い回し
おかげで故障頻発と大して活躍もしないまま同じ小田急出身の5700に僅か5年で駆逐される
5200って富士急の中で最も影の薄い存在じゃね? 20年位前 田野倉駅のホームに
ロープウェイの搬器が待合室として置いてあった記憶があるんだが
あれってカチカチ山のやつ? 買って暫くもしないうちに消えてしまったのはそんな事情があったのか
乗る機会もないままでろくに撮影もできず自分の中でも影の薄い電車です。 実車じゃないけど模型で影が薄いというか幻みたいな存在の話
・GMが出したレジン製の富士急5000
富士急の製品化許諾を取らずに売り出しちゃったから即効で販売禁止
ほとんど市場に出回らなかったレア商品だけど後に鉄コレが出したから更に影が薄くなった
・モデモの富士急8000フジサン特急
模型ショーのモデモブースで3連に短縮されたRSEを見たとういう報告
リリースは時間の問題と憶測を呼んだが以後は音信不通に
・謎の富士登山電車
少し毛色が違うけど鉄コレの富士登山電車が発売前に都内の中古屋に放出された
試供品を渡された関係者が流したんだろうと噂に もう一本
知り合いから聞いた話の聞きかじり
けっこう昔の話らしいけど時間によって葭池温泉前や上大月を通過する普通電車があったらしい 高橋留美子の名作「めぞん一刻」に富士急の電車が出て来る。それも何故か社形じゃなくて17m国電払下げの7000形。
五代と三鷹が響子さんと連れ立ってスケートに出かける(特に記載はないけど当然のように行き先は富士急ハイランドと思われ)シーンにワンカットだけ。
MT編成で3本在籍した7000形は7031・7032の2両がクロスシートで残りの4両がロングシート車。クハの7061と7062は正面に貫通路があるタイプ。
7033+7063の編成だけが両端非貫通顔で整ってたけど実は7033号は両運車で連結面に実際には使ってなかったけど半室式の乗務員室(運転台)を備えてた。
リベット打ちの無骨な風貌は当時でも古臭く社形の電車とは一線を画す雰囲気を漂わせていた。 富士急行の冬の風物詩
なんといっても千葉からのスケート臨だった
大月まで165系の6連で来て大月から3両づつに分割
力行時の電圧降下を避ける為で、だから帰りは6両のまま坂を下って大月へ
これは現フジサン特急のPEAが団臨として入線した時も同じ手法が取られてた
後年、電力事情の安定化と終電後で影響が少ないことも考慮されて下りも6連で運転化
富士吉田駅で6連列車が3番線で着発するスタイルもハイランドスケート号が元祖 >>32
何駅のホーム?
ホームに公衆電話は珍しくないけど、電話ボックスはすごいな あれは鉄道電話で一般人は使えないよ。
合理化で大部分の駅が営業だけの委託駅になり運転業務が出来る駅員不在に。
そこで列車への通告、列車からの報告等の連絡用に設置された。
携帯電話(今は携帯無線)で代用するようになって役目を失い撤去された。 >>35
当時ホームの有効長自体は4両が限界だった。
ただ踏切の直ぐ脇、丁度6両目の運転台の位置に古枕木で組んだステップが設置されてた。
富士山駅への改良工事が完成する前は6連のホリデー快速も同様の扱い。 5000形は事故で廃車になった3100の補充って意味合いが強かったんでね?
そういえば赤錆びた3100の廃車体が長いこと富士吉田にダルマで転がってたっけ
なかなか処分しなかったのは証拠物件だったからなんかな?
富士急のキハ58は短命だったな
国鉄に翻弄された感じ 115系に切り替わる前の山スカ山ゲタ71・72系が好きだった。
元は同じ旧型国電でも富士急の7000形はビャンビャン跳ねるような走り。
それに比べ、どっしりと重厚な感じで71・72系は走る。
どこか富士急の電車とは違う国鉄の匂いを強く感じる電車だった。 「富士山駅」の屋上や6000の暖簾に書いてあるあのマークは、旧社紋なんだな >>37
昭和31年 富士山麓電鉄の設立30周年記念として3100形新製投入
昭和36年 旧500形の車体更新で3600形登場
昭和45年 7000形(旧型国電)導入
昭和46年 列車暴走事故
昭和50年 5000形新製投入
昭和52年 5200形(小田急1900)導入
本来なら5000形は創立50周年記念として建造が予定されていたと推測
しかしながら事故による車両不足を補うために前倒しで投入されたのでは?
事故に伴う賠償や収益の悪化が無ければ5000形増備の可能性はあったと思う
ただしデビューは1年遅くなってたかもしれない 昭和50年からきてるのかとばかり思ってた
7000は忌み番を避けて西暦で いつごろのことだったか正確に覚えてないけど
風邪ひいた時にかけるマスクみたいな格好の幕に
でかでかと富士急ハイランドの宣伝を書いたのを
電車の前んとこに縛り付けて走ってた頃があった
幕の大きさは1m×2mぐらいあったと思う 1978年頃じゃないかな。
コロタン文庫の「私鉄全百科」には、この幕をつけている7030、5000、5200の各系が
写ってたよ。 昭和52年に小田急1900の車体と戦前製の車両の台車やモーターを組み合わせた5200形造る位なら、西武の351系を譲渡してもらった方が良かったのでは?
17m級車体に湘南型の前面のやつ。この時期に、上毛電鉄や大井川鉄道への譲渡が行われているのだから、可能性はあったと思うが。
勾配の多い富士急には向かなかったのか?
これでなくとも、西武所沢に頼めば、パーツ流用して適当なものを造ってくれたそうな気がするが・・ >>47 そういえば富士急って車両供給で西武絡みがナイよな?
傘下の岳南は、ソコソコ西武絡みの中古入手もしてきたのに・・・ >>44
デビューは昭和50年だから年号で合ってるんだけど<5000形
初めの頃、お買いもの電車と称して河口湖〜都留市を特別ダイヤで走ってたね。
これは時を同じくして完成した富士吉田のターミナルビル(当時はイトーヨーカドーが入居)への集客を狙ってのもの。
たしか正面の方向幕は今みたいに行先を表示せずに固定で富士急行とだけ掲出してた。
代わりに車体側面には伝統の赤い金属製サボが取り付けられてて終端駅でパタパタと引っくり返してたっけ。
冬季の半自動ドアも不慣れな人が多く、ドアの前で戸惑ってる人がいたのは今や笑い話。 なんだか最近は茶色い特急電車が物議を醸してるようでw
でも本当の意味で富士急最後の茶色い電車は荷物電車のモニだぞ
しかも側面は広告スペースになってて広告電車でもあったし 5000とキハ58が共存した時期はあるの?
何気に顔の似ている両車の対面を見てみたかった。 入れ替わるようにして消えたのではなかったかな>キハ58 大月駅のJRと富士急に挟まれた今は駐車場になってる場所に昔は荷扱所があって、その頃は荷物を積んだターレがホームの上を走り回ってたのなんて覚えてる人いないだろうな キハ58000導入は将来を見通す力が無かったのか
それとも止むに止まれぬ差し迫った事情によるものだったのか?
昭和35年、キハ55系の投入によって本格化した中央本線の高速化は早くも翌36年にキハ58形へと更なる進化を遂げる
私鉄でキハ58の同形車を新製保有したのは富士急行だけで先輩格の南海電鉄や島原鉄道はキハ55の同形車、富士急行のキハ58000導入は昭和37年だから車種の選定は順当と言える
しかしながら昭和39年には上諏訪電化で早くも165系電車による急行たてしなが登場、翌40年には松本まで電化区間も延伸されている
キハ58系列で組成されていた優等列車も次々に電車に置き換えられ遂には気動車運用2往復にまで減少、更に昭和50年の全面電車化によって併結相手を失ったキハ58000は用途廃止に
電気車と気動車(内燃車)では操縦免許も異なるから面倒だし車両整備のノウハウも異なると相応のメリットが無ければ電化鉄道が気動車に手を出す理由は無い、だったら電車急行による乗り入れまで僅か数年なら待った方が利口だったんじゃないのか?
真相は知らないけど推理してみた
小田急の御殿場乗り入れは御殿場線非電化時代の昭和30年から始まっている
当初は2往復だったのが昭和34年には4往復と倍増、これが新宿から表富士を経由する観光ルートとして定着するのを危惧したのでは?
対抗したくても中央線経由には魅力的な列車が無いし、やっと優等が設定されたと思ったら使用車両がコロコロと入れ替わって方針が定められない
さすがに電化完成を待ってからの対応では出遅れると考え、一日でも早く中央線ルートを定着させようとした結果ではあるまいか?
ぐずぐずしてたら箱根や伊豆をめぐる戦争が富士山にも飛び火して来るじゃないかなんて焦りながら 現在JRの車両の片乗り入れだけど当時も国鉄車両で良かったのに 現在の予讃線松山以東に気動車特急が入る事情にちょっと似てる?
中央東線をキハでは下り列車がきつそう
165系の中に富士急が鉄道債券買って造られた分があるとか
そのうち一部はパノラマエクスプレスアルプスになったとも(あとはお察し 富士急5700形の5701‐5702と5705‐5706の2編成は元小田急の特急車2300形。
格下げ改造の時に4両固定から運転台を増設して2連2本になった。他の5700形より少し幅が広くて特急車時代を思い起こさせる狭窓4つが扉間に並ぶスタイルが異彩を放っていた。
富士急行では5200・5700の小田急譲渡車が主力になるまで正面には行先表示が無くサイドサボで対応していた。ただ「河口湖行」「大月行」と「行き」の文字まで書き込まれてたのが少し田舎っぽい。
次の1000系からは「行」の文字は消えて幕も電動式に変わったけど。 3100系の正面窓のところに 行先表示板なかったっけ? 少し前に、CSのヒストリーチャンネルで奥井さんが、記録した総天然色の列車達を見たのだが、
ソコに往年の富士急車も記録に残っていた 小田急旧型が大挙してくる前のプロパー旧型3600や旧型国電クモハ14とかが現役の頃
・・・ソコに荷電が出てきたのだが、改造した?側面の荷電部分だけ、改造後に部分塗り(追加塗装補修跡バレバレ)でスゴイみすぼらしかった。
観光路線故か旅客車ではソコソコレベルの高い電車を投入しゲテモノとは縁遠そうな富士急にしてはこの差(極端な程 投げやりというか、横着な処置)はナニなのだろう? >>59
それは横サボを撤去してからのこと
>>60
その窓を埋めた荷室部分が広告に使われてた
スポンサーが変わるか手を退くかして前の広告を塗り潰したとこじゃないか? 今は岳南鉄道のこと岳南電車って呼ぶんだっけ?
ひと頃は沼津の方まで伸ばすなんて眉唾な噂もあったけどw
あそこって元は駿豆鉄道の資本が入って開業したことになってるけど昭和31年に富士急傘下に変わってるんだよな
駿豆線てば泣く子も黙る西武グループの一員だろ?
岳南って観光のイメージ無いけど、ひょっとして西武VS東急の代理戦争に富士急も巻き込まれてた? >>54 そこまで政治的と云うか経済競争の背景を鑑みるとは、ナカナカ鋭いね。
まあ 富士急は、近隣大手鉄道事業者を刺激することなく 中古車供給や富士急ハイランドへの観光ツアー共同企画とか巧みな舵取りをしている点興味深い
し確かだな。 >>62 岳南が西武系から寝返った(と云っても岳南の意思に関係なく 西武系の駿豆が富士急に渡してしまった)は、
静鉄や越後交通の東急撤退みたいに結構平和裏(その後の関係を見ればお解かりかと)に進んだみたいよ。
富士急もそうだが、観光事業に力を入れる駿豆が、産業鉄道的志向の強い岳南を手離したのは、その辺では・・・
なら富士急が手中にというのは?だが・・・将来の表富士と裏富士の縦断とか狙ってというのは考えすぎだろうか?
時系列にてき微妙だが、ひょっとしてら西武は岳南を差し出すことで、小田急、東急連合軍に対し
地元の事業者である富士急や東海自動車を見方に付けてコトを有利に運ぼうと云う戦略があったのかも知れない? 富士急は岳南の傘下の大富士ゴルフ場がほしかったのでは?
伊豆箱根は、岳南の株を富士急に譲渡して得た資金で、箱根駒ヶ岳の観光開発などに充てたのでは。
伊豆箱根は東急や小田急の進出に対抗すべく、観光や不動産の開発に力を入れている。ともかく、喉から手が出るほど資金がほしかった。
一方の富士急には富士観光開発という長年のライバルがいる。こちらは鉄道業はやってないが、富士スバルラインの近くに富士桜別荘地を保有し、観光産業の一等地を押さえている。
富士急は、河口湖周辺だけでは限界があるので、表富士の観光施設や不動産を手に入れたかった。
鉄道業なんて、グループ全体からすれば副業に過ぎないんだよ。メインは観光施設や不動産の取り合い。 補足。富士観光開発は、ゴルフ場運営のため1959年設立。
1950年頃から、富士桜別荘地付近の土地をめぐって、地元の旧鳴沢村を含め画策があったらしい。
富士急に土地を売るのを拒み、富士観光開発を起こしてゴルフ場等の開発に乗り出したということかな。
だから、富士急グループの主な観光施設は、富士急ハイランド以外は表富士にある。
富士急は、富士桜を手に入れられなかったから、岳南の株取得を図ったのかもなあ。 富士北麓にゴルフ場が作れなかったから南麓のゴルフ場を手に入れて溜飲を下げる? 富士急行は独立系で伊豆箱根のような後ろ盾も無いのにリスキーな賭けに手を出しますかねえ?
観光開発の為の資金調達だけが目的なら無理に伊豆箱根が身を削らなくても直々に西武のネームヴァリューを利用した方が効果も大きいだろうし。
それに富士急行線が富士吉田からスイッチバックして河口湖に向かう河口湖線を建設し現在の姿になったのは戦後のこと。 それ以前は線形そのままに山中湖方向へ延伸するつもりだったようで一部は用地も取得、
かつて忍野にあった富士急ホテルは取得済だった鉄道用地を利用して建てられたという話を聞いたことがあります。
なら無理して河口湖方にゴルフ場や別荘地を用意しなくても山中湖方だったら自社の沿線で勝負が可能だった、それこそ静岡なんかに手を伸ばさなくても鉄道事業者ならではの不動産業が実現可能だったということになりませんか?
ハイランド以外なにも無いという割に以前は富士急ホテルの代名詞だったHマウントフジも山中湖畔ですしゴルフ場だけが理由では根拠に弱いと思いますが。 >観光開発の為の資金調達だけが目的なら無理に伊豆箱根が身を削らなくても直々に西武のネームヴァリューを利用した方が効果も大きいだろうし。
どうやって? 大株主の名前出すだけで伊豆箱根がどこかから融資受けられると思ってんの?
個人間の金の貸し借りの問題じゃないんだよ。
>・・無理して河口湖方にゴルフ場や別荘地を用意しなくても山中湖方だったら自社の沿線で勝負が可能
山中湖付近はあまり空いてる土地がない。河口湖に向かう国道の西は米軍(当時)の北富士演習場。
国立公園地域だから開発規制もあり、広いゴルフ場や別荘地を造る余裕がない。
峠挟んで南側、須走の辺りも西には東富士演習場があり、東側は争奪状態。
大富士ゴルフ場の辺りが、手つかずで残っていたのさ。そこに伊豆箱根、そして富士急が目をつけた。 そーゆーことにしといてやれやウザイから
みんな誰かに尋ねられたら「何よりゴルフ場が大事」って答えるんだぞ
はい終了終了 >>70 文句言うのは、時代背景、社会情勢とか根拠ある情報で話題振りしてからにしてくれ!
マトモに興味深いネタ振りする情報、話題もないくせに・・・・。 >>73 小銭稼ぎたいからだろ。長野電鉄でも、たった1時間位しか走らない有料特急走らせて、小銭稼いでるわけなんだし。 株式会社は名乗っていても同族経営の呪縛からは逃れられない富士急さん
よそ様の思惑に乗せられましたなんて認めたらプライドが許しません罠(笑
そのくせ地元や富士観光開発への恨み節は決して忘れませんよっと(爆
小田急を敵対視してたなんてのもウソですよって無かったことにしとかなきゃ
ヘソ曲げられて古枕木やレール融通してくれなくなったら困るモ〜ンwww >>75 此処は、往年の富士急を懐古、疑問を解決する所で
アンチが悪口を後年まで安置するスレではないのだが・・・ 初めて乗ったのが,小学校のときの遠足。
ワッペン列車の「マウント富士」号で河口湖まで。
富士急行線に乗ってどこだかの駅で3両キハと
少しの間「併走」したような記憶ばある。
どこだったかな。
その年の冬場は「ハイランドスケート」号の上りを
上立川踏切でよく狙ったなぁ。 小田急と同じ全線電化なのに、ディーゼル車があった。 南海や小田急と同じで乗り入れ先や併結列車の都合だからなぁ >>78
全線電化の小田急と同じで、未電化中央線新宿乗り入れの為に、ディーゼル車を持っていた。 >>80 昭和30年代に新宿・大月間の中央線に未電化区間が存在した、という妄想鉄道のお話ですね。
以前、乗り入れ車スレで回答出てたから、過去ログ調べてみたら? キハを繋いだのはあくまでも新宿〜大月だけなんでしょ?
直通の普通列車なら以前からあったのに、わざわざ未電化区間へ行く列車に合わせてDCを買うなんてなぁ。
国鉄の使用料払いがスゴく良くて、投資してでも借用料との相殺に役立ったとか? レス54にある通り、富士急キハ58の運用が始まったのは、中央線の165系急行定期運用開始の1年位前でしょ。
当時、165系を中央線に回せる余裕が少なかったわけ。併結できる国鉄急行電車がない、絶対的に足りなかったらしょうがない。次善の策として、DC急行型車両を造り、同形式のと併結させて運用するしかないでしょ。 >>83 何気にコレって当時の国鉄関係者の嫌がらせ(背後に大手私鉄のコネとか)?
それでも気動車を新調した富士急に根負けというコトか?
南海は撤退。
遠州の二俣線への中古キハ04乗り入れはゴネ得?
茨交 湊線の水戸乗り入れ、島原の長崎併結乗り入れは、いずれも当時の地元有力政治家の圧力?
故に引退後?廃止
有田、定山渓、名鉄北アルプスの乗り入れは交換、既得権。
常総筑波 筑波線の水戸線小山乗り入れは、常総線客車上野乗り入れ再開をチラつかせ餌にした 新型気動車の召上げ利用! >>84
とりあえずなにも知らないんなら黙ってれば?
いつまでスレを引っ掻き回すん? いや、だからそこまでして急行列車併結に拘る必然性が、富士急側にどれほどあったのかなという疑問だよ。
貴兄の書き方だと電車に余裕がないからってだけで、国鉄が民鉄負担で付き合わせたことになるがそういうこと? 中央線新宿・高尾間において、富士急からの乗入れの3両、多くても6両編成の列車を走らせる筋が確保できたのか?
より長編成で甲府、松本方面に向かう列車の増発枠の方を優先するのではないか?
そういうことを考えれば、新宿・大月間併結で行くしかないんじゃないの? >>83
>当時、165系を中央線に回せる余裕が少なかったわけ
まだ165系自体存在してないんじゃ? >>88 「当時」というのは、1962〜1964年頃という意味。初登場ないし営業運転開始という点で見れば、ご指摘のように、富士急キハ58の方が165系より1〜2年先行している。
ここの前のレスで、富士急が気動車造らずに少し待ってから165系の自社版を造った方が良かったのではないかという趣旨の主張があったが、それは64年の中央線165系急行定期運用開始の時点では、難しかっただろうと考えている。
どっちみち、国鉄が数年内に中央線急行の電車化を図ることが確定していたとしても、すぐには数がそろわないし、それを待ってたら富士急への直通乗入れ急行運転開始が相当遅れることになる、という見通しがあったのではないかな。 >>89
1962〜1964年頃の話して何か意味あるのか? 1962年4月:下り急行・上り準急(後に急行に変更)に併結する形で
富士急キハ58新宿乗り入れ開始
「かいじ」として新宿〜河口湖1往復の運行。
1963年3月:165系営業運転開始
1963年4月:165系、臨時列車として中央東線営業運転投入
1965年5月:中央本線松本電化
同じ年、三鷹からの転属を含む165系64両が松本運転所へ配置
新宿-松本の気動車急行7往復14本のうち6本が165系化
1968年10月:急行「かわぐち」定期3往復・不定期3往復を設定。
うち定期1往復は富士急キハ58が新宿〜大月間でDC急行「アルプス」に併結
1975年3月:中央本線新宿発DC急行廃止、キハ58使用「かわぐち」165系化 で富士急がキハ58を新造までして新宿乗り入れにこだわったのは、
1961年富士急ハイランド・スケートセンター開園と、それに平行して富士五湖周辺の
観光事業を強化する思惑があり、一刻も早く首都圏から優等列車を富士急に直通させたかった 昼ライト点灯虫マニャデチLGBTQ性欲欠落アスペ300系3重障壁バセドウ箸ワタアメJAL123死ね 7年で用途廃止か…
富士急行にとっては黒歴史なんだろうな
用途廃止後も キハ58じゃもてあますってんで 安く買い叩かれただろうし 減価償却は済んでいないけど元は取ったんじゃないか?
黒歴史って言葉使いたいだけじゃないの? そもそも7年ってなんだよ?
1962年4月から1975年3月迄なんだから
12年だろ? 富士急が国鉄に「ディーゼルカーなんて買いたくないよ。電車で乗り入れさせろよ。」って言ったらどうなってた? 3100を増備し高尾ないし八王子まで2両ないし4両で乗り入れさせるとか・・八王子・大月間のダイヤの余裕があるかどうかだな。
国電からの乗り換えが必要になる。 >>97
「べつに乗り入れしなくってもよくてよ」って言われるだけでしょ 371、新宿まで来いよ。目立つぞ。20000もな。 国鉄、JR所属車両で富士急行線乗入れの実績があるのは、101系、201系、70系、115系、165系、167系、183系、185系、189系といったところか?
NEXなど最近のものは除くが。
中央線(中央快速線)上で定期運用についていた車両で、181系は乗入れたことがない、103系は高尾以西の乗入れがない。
80系や153系は中央線での運用がほとんど無かったから乗入れたことなし、と考えて良いのか?