加悦鉄道
丹後ちりめんの里をのんびりと走っていた加悦(かや)鉄道。
営業当時から加悦駅構内のSL広場が有名でしたが、
車両陣もデカ顔のキハ08、荷台付キハ101など個性派揃いで
全線5キロ余りの小私鉄でありながら独特の存在感を醸し出していました。
昭和60年(1985年)5月1日廃止。 今鉄道公園に居る 元東急3100と元南海1201よもや架線の無い山陰地方の地方私鉄の
形見になった構内で手を繋ぎ余生を送るとは、現役時代はよもや予想も出来なかっただろうな。 >>74
無粋な質問で恐縮だが、車内の暖房は効いていなかったのかな? 古典客車なら期待薄
車内にはストーブなどあったのだろうか >>78
末期の冬季なら08だろう、恐らく折り返しが遅れたんじゃないかな。最終の加悦着が昼過ぎだから恐らく朝の通学時間帯の話だな。 >>81
当時出物のDCが他にあったか?って話なんだけど関東鉄道が全国的にめぼしい車両買い漁ってたからな、 政治家と暴力団の絡む仕手筋に乗っ取られ、
「天橋立急行電鉄」とか無駄に壮大な社名に改称され
勿論電化もされず急行運転もないまま、
詐欺まがいの出資金集めと株式分割によるマネーゲームの餌食になり
いつの間にか路線ごと消滅してたりなんかしたら……嫌だ。 上手いw
沼尻が磐梯急行を名乗ったのなら
加悦が天橋立急行を名乗っても、いいかなw 信用度ゼロのツアーバス屋になった時点でJRは思いっきり距離を置き始めたね。 >>85 それでも加悦や 末期に記念券乱発の 有田 は、鉄道を愛していた事業者だと思うぞ。 関鉄がかっ浚いをしてたとしても
国鉄からお古を買うことはままならなかったのかな >>90
俺は加悦鉄道の決断を支持!
おかげで関西在住の俺でも
キハ08を撮影して乗車も出来たw
加悦が買わなかったら北海道限定気動車だろ? >>91
俺も関西人で廃止前に08目当てで乗りに行った一人だが、
その発想は無かった
関西から北海道となると気軽に出掛けられる距離ではないからさ >>93
しかも北海道では昭和40年代に廃車だから
時間的にも間に合わなかった。
まさに加悦のキセキのようなキハ08。
もっとも他の2両のDCもキセキのような存在だったがw >>84
仮にも磐梯急行は、国鉄連絡駅の川桁を出て裏磐梯地方に向かってたが、
「天橋立急行」の場合は、丹後山田が線内で一番天橋立に近く
乗れば乗るほど天橋立から遠ざかる罠w
まあ、詐欺師集団なら
「大江山を越えて福知山まで延伸し、大阪・天橋立を最短距離で結ぶ」
(宮福線計画は無視)
構想をぶち上げてカネ集めするぐらいはやるだろうけど。 なんか>>95氏の投稿見てたら金名鉄道を連想してしまった >>13
不幸な事故だった
信楽事故のあとだっただけに、
テレビのニュース番組やワイドショーで鉄道の安全性云々と講釈垂れる評論家が
うざかったわ キハ08は乗り鉄と撮り鉄が可能
一粒で二度楽しめる >>96
大社宮島鉄道もなw
それはともかく、加悦でキハ08に乗ることができた幸運には感謝しとります
乗務員さんにも親切にしていただいた
加悦には個人的に良い思い出が詰まってますハイ。 てゆうか昔のローカル私鉄はどこでも余程失礼のない限りはしっかり対応してくれたよ
国鉄は別な
昭和50年代は
加悦鉄道、別府鉄道、尾小屋鉄道など
神話のような非電化私鉄が最後の輝きを放っていた。
片上や岡山臨港、水島、有田、紀州を含め西日本に偏在していて、
関西在住の俺なんかは
日帰りで堪能できた幸せ者だったわ。 >>102
>片上や岡山臨港、水島、有田、紀州
偶然だろうが、全部、内陸部と港を結ぶために建設された路線だな。 >>101
それに甘えすぎたツケが今返ってきてるのだよ ちょっと極論すぎるよ
ファンも世代交代があるし、会社側も当然人は入れ替わってゆく マナー。
言わんでも判る人には判る。
判らない、判ろうとしない、低レベルな奴によって趣味の豊かさも失われる。
これも理解しようとしない奴相手に繰り返してもダメ。
結局、「民度」とやらの限界に頭を押さえつけられて、民度にお似合いの貧相な世の中になる。
まぁどうでもいいや。 一つ忘れた
言葉にしなくても分かり合える、理解してもらえると考えるのは
子供か引きこもりの特徴な マナーってのは多少口が達者でも平気で無視できる。
今はその手の人格に病名がついてる。 道路に吸殻を捨てる馬鹿を止める具体的な手段がないというのは、本当だな。
吸殻を捨てる馬鹿が、それを粋がってる。どうしようもない。道路は汚れてゆく。 除雪には苦労してただろうなあ
専用の除雪車を持っていたのかな >>73
超亀レスだが俺も似た体験あり
大学の頃、所属してた鉄研で先輩が雑談のなかで「かえつ」と何度も言ってた
周りで聞いていた後輩は俺も含めて誰も間違いを訂正できなかった 場所が全然違うけど京都市に嘉悦という名の学校があって
語感としては「かえつ」は定着してるので加悦もそう呼んでも仕方ないかなと
鉄道撤退後「カヤ興産」に変更したのは会社の良心によるものかな 読み間違いで新たな取引先を逃したりとか、実害があったんでしょう。 >>81
今となってはもう調べる方法もないけど
ヲタとしては想像をあれこれ巡らせられるだけでも楽しい 寅さんで荷台付きの気動車を見たような気がするが・・ 加悦SL広場、閉園したら2号機関車、二軸客車など遺産的な機関車、客車は、
京都鉄道博物館か梅小路蒸気機関車館で保存、食堂として使用されている南海1201は、南海が引き取って保存するか、または和歌山電鐵に引き取られて保存か、
客車改造の気動車キハ08は北海道の市町村に引き取って保存してもらうとか、
バケットカーやそり他の車両も保存先はいろいろありそう >>123
行きたいけど、土日はちょうど良い時間帯のバスがない キハ08に乗りたくて、二回行きましたが、残念ながら二回ともバケットカー
これも貴重な体験でしたが、残念といえば残念
キハ10が入る直前の1980年頃 3/31行くからサプライズで最終運行してくれNPOの中の人
一度も行ったことない
保育社カラーブックスで知ったけど一度も行ったことない
本当に3/31最初で最後なんだ >>130
加悦鉄道が出てるカラーブックスって何巻?
見てみたい >>131様
カラーブックス598「日本の私鉄24 近畿」1983年4月、です。
本当は鉱山駅跡への移転前に訪問したかったです >>130
まだ加悦駅がある
展示品も充実してるしSLも来る
これっきりと思わないでどうか状況が落ち着いたら訪問してほしい、それだけの思いがあるなら絶対後悔しないはず >>130
最終日、なんもなかったみたいね。
俺がNPOの理事長ならサプライズでやるわ。加悦のための専門のNPOでしょ、ラストなんだからそれくらいはやる 冬の加悦駅に降りたったらSL広場を観た後は何もする事なくて町をブラブラしてたら町にはなんもなくて、そこらの家からちりめんの機織りの音だけがガチャコンガチャコンと鳴ってたのを思いだす。 帰りはバスで乗り込むと運転手はせっせと窓を拭いてて客が寝込むとポマードがガラスにベットリと付くんだよと溢してた。丹後山田まで客は私1人、雲が厚くて丹後の冬は日中でも暗かった。 今は運送会社?
トラックの後ろに社員募集、フェラーリに乗れると書いた広告が貼ってありましたが? もう限界だよ
アフタコロナの社会で観光業の生きる道はない 1983年夏、丹後半島への海水浴の道中で丹後山田に立ち寄り。
何の変哲もない田舎駅で、停車中のキハ10をチラ見しただけで撤収。
キハ08すら撮らずじまい、
後年なぜ加悦まで足を伸ばさなかったのか、
たかだか5キロぐらいだったのにと悔やんでも後の祭りだった 加悦駅の保存展示は当時から一見の価値あり
立ち寄るなら丹後山田じゃなくて加悦でしょ普通は 昭和60年4月末日(?)だったかの加悦行き最終に乗車したときは、さすがに物悲しかったです。
沿線にある幼稚園の園児たちが一斉に、こちらに手を振っていた光景がとりわけ印象深いです。 丹後山田に立ち寄ろうとした動機を教えて
何を期待したのか >>158
車両にビニールシートがかけられてるみたい 昭和56年夏にキハ08に乗車
車内は満席、デッキ部にも立客がいた
扉は開放のまま
恐らく乗り慣れてないと思しき家族連れが
扉開放を、危ない危ないとしきりに騒いでいた 自動ドアが当たり前とおもってる人からしてみれば
珍しく見えるだろう 扉開放の他では、単行で走るのが珍しいという声も聞いた
東京暮らしならそうなるか 一昨年にNHKで六角精児がここの取材に行っていたが
キハ08に思い入れがあるらしく熱い思いを語っていた ニワカ鉄ちゃんやビジネス鉄ちゃんが横行するなかで六角さんは数少ないガチの鉄ちゃん >>168
その人、人間的に割とガチでクズなのがな。。やっぱり顔に出てる
そうでなくても俺らは役者として彼を見知ってるから
普段こそ、一切そうは思わないにせよ、
もし役者でなく、そういう先入観を一切除外して見れば
ギリ健の顔貌、いわゆるキモヲタだし。 1980年に行った時は、お目当てキハ08ではなくてキハ51が稼働
最初で最後のバケットカーに乗車
加悦→丹後山田、の帰りでは、
丹後伊山田到着でリアカーを使い、駅員総出で荷物を運搬していた >>171
その方がむしろ機械式でラッキーじゃないか、と思うけど08が目当てだったんですね >>173
その通りで、お目当てはキハ08だったのですが、キハ51も貴重な体験だったようです
機械式でしたか
機械式のDCもこれだけかもしれません