加悦鉄道
丹後ちりめんの里をのんびりと走っていた加悦(かや)鉄道。
営業当時から加悦駅構内のSL広場が有名でしたが、
車両陣もデカ顔のキハ08、荷台付キハ101など個性派揃いで
全線5キロ余りの小私鉄でありながら独特の存在感を醸し出していました。
昭和60年(1985年)5月1日廃止。 加悦のSL保存館行きたいが、京都駅からは遠いんだよね? >>56
遠いよ。鉄道やバス一本で行ける所ではないよ。
駅からレンタカーが最速(2h位)の手段かな? 今回、2軸客車じゃなかったんで、やめた。
片軸内燃の101も貴重だけどやっぱり2軸客車に乗りたい
あと、今度からハフ11以外も使ってほしい 道の駅に隣接してるから食うものに困らずに日がな一日ノンビリしてられるのが良い 確かに、あそこは滞在時間を長めに見積もった方がよいな。
他に見るべきところもなし。 >>34>>36>>37>>46>>47>>48
興味深い議論だ
俺は食パン顔の方に軍配をあげたい 「フハ2」について疑問なんだが、
加悦鉄当時の内部資料(車体簿など)で「フハ」になってることが間違いなく確認されてますか?
車体表記からだけで「フハ」と認識しているだけですか? >>64をなぜ書類で確認したいかというまと、
フハ
2
って表記ですよね。
俗にいう、戦前に多い「右書き」ってのは
本当は「縦書き1字改行」なんですが、
(現在と同じ「左書き」も戦前から存在している、
つまり右書き→左書きに改めたというわけではなく、
縦書きと左書きという別個のものであり、
戦後は前者の縦書き(1字改行)を用いなくなったというだけ)。
だから、ひょっとしたら「ハフ2」かもしれないので。
縦書きで記された車体書類を確認すれば
間違いなくハフかフハかが判明すると思ってさ。 >>64
一週間以上も他人からのレスを待っているのであればあなた自身で調べてみるのもよいかと >>64 >>66
ttp://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?no=100910131360&c=&y1=&y2=&id=&pref=&city=&org=&word=&p=250
公共機関のサイトに掲載されているので並の個人サイトよりは信憑性のありそうな資料だけど、これだけじゃ不満かな
国立公文書館デジタルアーカイブ
ttps://www.digital.archives.go.jp/
を「加悦鉄道」で検索すると、
「伊賀電気鉄道、加悦鉄道に客車譲渡の件」と言う昭和02年07月09日の
文書があり、また「免許・加悦鉄道・(大14〜昭2年)」の項目を開くと
中には「伊賀電気鉄道所属客車譲受使用の件」と言う同日付の文書の存在も確認出来る
この他にも「客車設計変更の件」、「客車竣功の件」、「車両竣功図訂正の件」などと
興味深い文書があるようだが、何にせよ文書そのものの内容は東京の国立公文書館に
行かなければ読めないので今の俺に言えるのはここまでだ 鉄道ピクトリアル1960年12月増刊号私鉄車両めぐりには1960年撮影の写真はハブ2となっていて私鉄紀行 丹波の煙伊勢の径―昭和30年代近畿・三重のローカル私鉄をたずねて〈下〉 (レイル)掲載の1967年の写真にはフハ2となっている 戦後を走った木造車〈2〉に1959年撮影があるがこれもハブ2 >>67
待ってたわけではないよ。
64を読み返したら意味がわからないだろうと思ってセルフ補足したんです 世界の鉄道68年度版掲載の私鉄諸元表のフハ2の注記に現車標記ハブ2とあるな ここも社名は一見さんではなかなか読めないかも
「かえつ鉄道」って大真面目に読んでる奴いたもんなあ
それは富山県だったつうのw 冬に訪問したことがあって、すごい雪で出発が少し遅れてるとかで
待合室で寒さに震えていた数人の客に
ここでは寒かろうと事務室で暖を採らせてもらえたことを思い出した
もう末期で経営は苦しかったはずで社員さんは先行き不安だったろうが
親切な対応に感謝すること頻りだった 今鉄道公園に居る 元東急3100と元南海1201よもや架線の無い山陰地方の地方私鉄の
形見になった構内で手を繋ぎ余生を送るとは、現役時代はよもや予想も出来なかっただろうな。 >>74
無粋な質問で恐縮だが、車内の暖房は効いていなかったのかな? 古典客車なら期待薄
車内にはストーブなどあったのだろうか >>78
末期の冬季なら08だろう、恐らく折り返しが遅れたんじゃないかな。最終の加悦着が昼過ぎだから恐らく朝の通学時間帯の話だな。 >>81
当時出物のDCが他にあったか?って話なんだけど関東鉄道が全国的にめぼしい車両買い漁ってたからな、 政治家と暴力団の絡む仕手筋に乗っ取られ、
「天橋立急行電鉄」とか無駄に壮大な社名に改称され
勿論電化もされず急行運転もないまま、
詐欺まがいの出資金集めと株式分割によるマネーゲームの餌食になり
いつの間にか路線ごと消滅してたりなんかしたら……嫌だ。 上手いw
沼尻が磐梯急行を名乗ったのなら
加悦が天橋立急行を名乗っても、いいかなw 信用度ゼロのツアーバス屋になった時点でJRは思いっきり距離を置き始めたね。 >>85 それでも加悦や 末期に記念券乱発の 有田 は、鉄道を愛していた事業者だと思うぞ。 関鉄がかっ浚いをしてたとしても
国鉄からお古を買うことはままならなかったのかな >>90
俺は加悦鉄道の決断を支持!
おかげで関西在住の俺でも
キハ08を撮影して乗車も出来たw
加悦が買わなかったら北海道限定気動車だろ? >>91
俺も関西人で廃止前に08目当てで乗りに行った一人だが、
その発想は無かった
関西から北海道となると気軽に出掛けられる距離ではないからさ >>93
しかも北海道では昭和40年代に廃車だから
時間的にも間に合わなかった。
まさに加悦のキセキのようなキハ08。
もっとも他の2両のDCもキセキのような存在だったがw >>84
仮にも磐梯急行は、国鉄連絡駅の川桁を出て裏磐梯地方に向かってたが、
「天橋立急行」の場合は、丹後山田が線内で一番天橋立に近く
乗れば乗るほど天橋立から遠ざかる罠w
まあ、詐欺師集団なら
「大江山を越えて福知山まで延伸し、大阪・天橋立を最短距離で結ぶ」
(宮福線計画は無視)
構想をぶち上げてカネ集めするぐらいはやるだろうけど。 なんか>>95氏の投稿見てたら金名鉄道を連想してしまった >>13
不幸な事故だった
信楽事故のあとだっただけに、
テレビのニュース番組やワイドショーで鉄道の安全性云々と講釈垂れる評論家が
うざかったわ キハ08は乗り鉄と撮り鉄が可能
一粒で二度楽しめる >>96
大社宮島鉄道もなw
それはともかく、加悦でキハ08に乗ることができた幸運には感謝しとります
乗務員さんにも親切にしていただいた
加悦には個人的に良い思い出が詰まってますハイ。 てゆうか昔のローカル私鉄はどこでも余程失礼のない限りはしっかり対応してくれたよ
国鉄は別な
昭和50年代は
加悦鉄道、別府鉄道、尾小屋鉄道など
神話のような非電化私鉄が最後の輝きを放っていた。
片上や岡山臨港、水島、有田、紀州を含め西日本に偏在していて、
関西在住の俺なんかは
日帰りで堪能できた幸せ者だったわ。 >>102
>片上や岡山臨港、水島、有田、紀州
偶然だろうが、全部、内陸部と港を結ぶために建設された路線だな。 >>101
それに甘えすぎたツケが今返ってきてるのだよ ちょっと極論すぎるよ
ファンも世代交代があるし、会社側も当然人は入れ替わってゆく マナー。
言わんでも判る人には判る。
判らない、判ろうとしない、低レベルな奴によって趣味の豊かさも失われる。
これも理解しようとしない奴相手に繰り返してもダメ。
結局、「民度」とやらの限界に頭を押さえつけられて、民度にお似合いの貧相な世の中になる。
まぁどうでもいいや。 一つ忘れた
言葉にしなくても分かり合える、理解してもらえると考えるのは
子供か引きこもりの特徴な マナーってのは多少口が達者でも平気で無視できる。
今はその手の人格に病名がついてる。 道路に吸殻を捨てる馬鹿を止める具体的な手段がないというのは、本当だな。
吸殻を捨てる馬鹿が、それを粋がってる。どうしようもない。道路は汚れてゆく。 除雪には苦労してただろうなあ
専用の除雪車を持っていたのかな >>73
超亀レスだが俺も似た体験あり
大学の頃、所属してた鉄研で先輩が雑談のなかで「かえつ」と何度も言ってた
周りで聞いていた後輩は俺も含めて誰も間違いを訂正できなかった 場所が全然違うけど京都市に嘉悦という名の学校があって
語感としては「かえつ」は定着してるので加悦もそう呼んでも仕方ないかなと
鉄道撤退後「カヤ興産」に変更したのは会社の良心によるものかな 読み間違いで新たな取引先を逃したりとか、実害があったんでしょう。 >>81
今となってはもう調べる方法もないけど
ヲタとしては想像をあれこれ巡らせられるだけでも楽しい 寅さんで荷台付きの気動車を見たような気がするが・・ 加悦SL広場、閉園したら2号機関車、二軸客車など遺産的な機関車、客車は、
京都鉄道博物館か梅小路蒸気機関車館で保存、食堂として使用されている南海1201は、南海が引き取って保存するか、または和歌山電鐵に引き取られて保存か、
客車改造の気動車キハ08は北海道の市町村に引き取って保存してもらうとか、
バケットカーやそり他の車両も保存先はいろいろありそう >>123
行きたいけど、土日はちょうど良い時間帯のバスがない キハ08に乗りたくて、二回行きましたが、残念ながら二回ともバケットカー
これも貴重な体験でしたが、残念といえば残念
キハ10が入る直前の1980年頃 3/31行くからサプライズで最終運行してくれNPOの中の人
一度も行ったことない
保育社カラーブックスで知ったけど一度も行ったことない
本当に3/31最初で最後なんだ >>130
加悦鉄道が出てるカラーブックスって何巻?
見てみたい >>131様
カラーブックス598「日本の私鉄24 近畿」1983年4月、です。
本当は鉱山駅跡への移転前に訪問したかったです >>130
まだ加悦駅がある
展示品も充実してるしSLも来る
これっきりと思わないでどうか状況が落ち着いたら訪問してほしい、それだけの思いがあるなら絶対後悔しないはず >>130
最終日、なんもなかったみたいね。
俺がNPOの理事長ならサプライズでやるわ。加悦のための専門のNPOでしょ、ラストなんだからそれくらいはやる 冬の加悦駅に降りたったらSL広場を観た後は何もする事なくて町をブラブラしてたら町にはなんもなくて、そこらの家からちりめんの機織りの音だけがガチャコンガチャコンと鳴ってたのを思いだす。 帰りはバスで乗り込むと運転手はせっせと窓を拭いてて客が寝込むとポマードがガラスにベットリと付くんだよと溢してた。丹後山田まで客は私1人、雲が厚くて丹後の冬は日中でも暗かった。 今は運送会社?
トラックの後ろに社員募集、フェラーリに乗れると書いた広告が貼ってありましたが? もう限界だよ
アフタコロナの社会で観光業の生きる道はない 1983年夏、丹後半島への海水浴の道中で丹後山田に立ち寄り。
何の変哲もない田舎駅で、停車中のキハ10をチラ見しただけで撤収。
キハ08すら撮らずじまい、
後年なぜ加悦まで足を伸ばさなかったのか、
たかだか5キロぐらいだったのにと悔やんでも後の祭りだった 加悦駅の保存展示は当時から一見の価値あり
立ち寄るなら丹後山田じゃなくて加悦でしょ普通は