>>68
裏事情は知らないけど新京成改軌については京成本体の要求。
 100%京成子会社として鉄道連隊松戸演習線の払い下げを受けて
後背新興住宅地ができはじめた輸送需要を津田沼で全部国鉄に渡しているのを嫌ったことは確かで、
狭軌の新津田沼駅を放棄して、徒歩10分乗換の藤崎台駅(現廃駅、新京成2代目津田沼駅)に
移して馬軌に改軌して京成津田沼に繋いでるから、その改軌は京成全体の要求。
当時の新京成は単線で途中まで開業だったから改軌規模は小さかったが、経験蓄積とはなっていた。

2代目新津田沼のあまりの遠さと、不便さに、5年ほどで前原で支線を分岐し初代新津田沼駅を馬軌で復活、3代目新津田沼駅となり、
2代目新津田沼駅は藤崎台と改称された。
長距離を歩くのがいやな新京成の客は津田沼乗換を止めて船橋で国電に乗り換えていたから、2代目新津田沼はお客無視の暴挙だった。
その後、周囲全部を線路に囲まれた地域を再開発、千葉工業高校、京成第2工場、鉄道技研分室、大栄車両工場、自衛隊宿舎を移転し、
線路を3代目新津田沼駅からの延長に付け替えて現在の4代目新津田沼駅と商業ビル街となり藤崎台を廃駅とした。

標準軌改軌はどうも新京成から始められたようで、それをテストケースに京成本体は千葉線の幕張以東から着手、
一晩で10kmほどを改軌すると、幕張駅が別軌間の接続駅になり、そこで上下の客が入れ替わって折り返す形で尺取り虫的に改軌が進んだ。
改軌済み区間は赤電3050の2連だけが走って青電を一掃したから、目立ったのなんの。
ま、暫くすると全鋼製車2200+750は改軌改造されて青電のまま戻ってきたが、その間の3050化は改軌済みの恰好の宣伝列車となった。

京成改軌については準備期間が長く取れて、ブレーキ系などを事前に改軌対応させていたし、台車10台そこそこなんて微々たる需要じゃないの?
名鉄は災害復旧の大義名分があって、どさくさ紛れに改軌www。元々全線停まっていてやりやすかった。