懐かしの大阪環状線
大阪市内を約40分で一周する大阪環状線のスレッドです。 アーケードが茶色に変色してるから日中は商店街全体が茶色に見えた >>81
桃谷は、昔の雰囲気が残ってるが、
天満は、天神橋筋商店街がリニューアルに熱心だし、店の新陳代謝も活発だから
あまりセピア的雰囲気がしないね。
もう25年以上も前、桃谷駅前に初めてファーストフード店が開店した時
ついにここにも店ができたか…と感激した 桜ノ宮か天満か覚えてないが、駅ホームから「財界二世学園」みたいな名前の看板が見えたのをすごく覚えてる 何を教えてたんだろうw >>18
各駅停車なら高速でぶっ飛ばす必要もない罠 確かに出足は悪かった
阪神と環状線を乗り継いで通学してたから余計にそう感じる 天満:駅出て西行くと向かい合いの焼肉屋があり客の取り合い。駅裏にはストリップ東洋ショー?
桃谷:とびこめ、やマルエー、ちょっと外れて串の坊、
今でもあるんかいな? >>88
ジェットカーと103系か
凄い組み合わせだなw 出足の良し悪しよりも夏の冷房が無いのが致命的だった
冷房付に乗れる確率が大手私鉄並みになったのは、
いつ頃からだろうか 関西大手でも南海や近鉄は非冷房車も割と遅くまで残ってたで 天満や桃谷もいいけど福島も
ここが梅田の目と鼻の先とは思えない
鄙びた空気が味わえる 福島は阪神と国鉄の間に挟まった地帯がDEEP感濃厚。
ケニヤという名前の喫茶店、まだ残ってるかな 春日塗113系デカ目が「大阪=奈良」のHMを付けて颯爽と大阪駅環状ホームに乗り込んできたときのワクワク感が印象深い
HMは大小2種類あったんだっけね 最初が大で途中から小になった。
あと1989年の僅か数ヶ月のみ「奈良」の部分が「大和路」に書き換えられていたな。 春日塗りの快速は「奈良快速」と環状線内各駅では案内放送されていたが、あまり浸透しなかった。
やはり「大和路快速」の方がイイネ >>91
昭和52年ごろ、片町線が101系化された時に大半が冷房車になった。 外回り、京橋を出たら右手川沿いに大阪砲兵工廠跡が
不気味な存在感を漂わせとった。
大阪城公園駅やOBPが出来る以前。 >>102
ネーミングを捻りだして一新感を出そうとしたが、やっぱり奈良といえば近鉄であって、
関西線は脇役だったんだなあ。 >>57
あれはむしろ、変な正義感に燃えた駐輪ボランティアのおっさんが
腕力に自信があるのか、おっさん特有の若者には居丈高な態度なのか知らんが、
高校生や学生に乱暴な態度をとっていて怖かった
駐輪場の整備をしなかった当時の大阪市が悪いんだし、おっさんの個人的感情で仕切るなっての
駐輪場の整備が進んだのは平松市政
維新信者からはチャリ松とか自転車整理のおっさんとか中傷されて散々だったが
平松さんにしても堺の竹山さんにしても、ああいう生活密着の地味なところをする行政が一番いい
橋下なんて目立つところだけ取ろうとして、実際は足引っ張り以外は何もしてないパターンだし 環状線自体大阪市内の交通では脇役的存在だけどな。
大阪市内はやっぱり地下鉄と市バスがメイン。
地下鉄とバスの乗り継ぎ割引システムも割と早くから整備されてたし。
JRになってから環状線も快速の増発やUSJの開業などで利用しやすくなったけど、
国鉄時代は特に西半分なんか昼間のダイヤは郊外並みの疎らなダイヤだったから、
当時は梅田−天王寺の移動でも地下鉄を使うのが殆どだった。 >>105
てか、「奈良快速 奈良ゆきです」では
なんか収まり悪い。 >>104
陳腐な表現だがあれは正に大阪都心部に残る戦争の爪あとだったね 40数年前、朝8:30頃天王寺で電車待ってたら、「伊賀号」が入線。
今みたいに高級一眼レフ持った鉄ちゃんみたいなヤツ、あんまりおらんかったような。
バカチョン持った小僧らが せいぜい2〜30人くらい。 いちいち噛み付くのがどこのスレにもいる、駅そばで何が悪い、阪急そばや都そばもあるだろ う〜ん、大阪だから駅うどんとは頷けないな 既出の通り、大阪発祥のそば店があるわけだし 玉造駅の横に貨物の引き込み線のようなものがあった記憶 昔は京橋で片町線と繋がってたな。
一部の列車は片町線車両で運用されてたような。 >>118
片町線車両じゃなくて淀川区の城東線或いは環状線車両な。 >>114-115
その返答は話題視点がずれてるよ。
うどん文化圏にある麺喰わせスタンドの呼び名くらい
駅うどんと呼ぶ程度には柔軟にせいと言ったまで。 >>119
環状線の101系時代は片町線での運用はなかったな。
ただ1963年、1974年頃に短期間片町線で使われたことはあった。 高架の電車から下を玉造駅の下にワム23000や60000が止まっていて
日通の黄色い三輪トラックや事務所を見たのを鮮明に覚えているよ。昭和38年くらいのことだったかな。
貨物取り扱い駅だったかな。 ↑慌てて書いたので間違った。高架の電車から下を見ると玉造駅のホームの下にでした。スマソ。 大阪城公-森ノ宮にある高架分岐部から玉造まで旧地平区間を貨物線として残したんだったね。 >>124
Wikiの玉造駅の項によると、残したのではなく別線として建設したとの事
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%80%A0%E9%A7%85
>1932年(昭和7年)3月29日 - 高架化される。ただし貨物駅は地上に残したため、
貨物駅と猫間信号場(森ノ宮駅北側付近にあった)まで貨物用の別線が敷設された
http://warheads.s5.xrea.com/tetsuro/jouka/jouka_m30.html すまん途中で送った
もひとつよくわからんな。
ネット記述だけじゃなくて誌史系書籍で出典あんのかな ……………………
JR九州(九州旅客鉄道)が上場します
https://www.youtube.com/watch?v=b2-U8Z5ytBw
1987年に旧国鉄(日本国有鉄道)から分割民営化されて設立されたJR九州「九州旅客鉄道」が、
2016年10月25日に株式上場します。
本業の鉄道事業では赤字が続いていますが、ホテルや不動産事業、販売や飲食事業で多彩な収益源を持ち、
経営安定化基金の処理によって財務体質の健全性が増し、国鉄から分割民営化されて30年近く経過して、ようやく上場することとなりました。
…………………… >>124
「Wikiの玉造駅の項によると、残したのではなく別線として建設」.そのwikiを
誰が、素人が、あるいは一定の権威ある人が記入したのかは知らないが、小生
の持つ昭和3年発行の大阪市街地図の桃谷〜鶴橋〜玉造〜森ノ宮を見る限りは
(未だ未高架時代の)城東線の線路はまっすぐ北へ一直線に画かれているが、
いざ現在先頭車運転室のかぶり付きに乗って見ていると玉造を出て森ノ宮へ到
着する寸前に、少し右へ、そして左へと不自然なSカーブを画きながらホームに
進入するのが非常に良く分かる。これは地上旧線を使用しながらその右側(西
側)に、左側(東側)にと苦心をしながら高架線の建設を進めて行った痕跡が
よく現れているというところである。現玉造駅の東側には駅前に広場的スペー
スが、現森ノ宮駅では広場的スペースが西側になっている。また寺田町〜桃谷
間も西側はスペース(市道)が非常に広く、東側は民家やマンションの軒先を
かすめるように高架が続いている。これも従来の旧地上線の東側に高架線を建
設して行ったのが良く分かる痕跡ある。但し、桃谷〜鶴橋間の東西両側は微妙
であるが・・・この理由は小生はよく理解できない。鶴橋〜玉造はまた現線路
の両側にスペースが広がっているが、やや東側の方が広い。
長くなったので、また書きます。 でもまあ、何れにしても
大阪城公園-森ノ宮の西側にある側線は
地上線分岐部の残骸なのは間違いないよ。 >>124
小生は寺田町駅の西側にある広いスペースを目にする度に下記のサイト
で発見したイラスト 大正8年8月の寺田町駅を彷彿しています。
「生野のむかし」http://www.mydo.or.jp/ikuno/mukashi.html
非常にのんびりした良き時代ですね。 城東線と呼ばれていた頃のかすかな思い出なんでスマソが、寺田町→天王寺や
天満→大阪へ向かう時は、対向電車が向かいのホームへ入線してから、ノッチを
入れて発車していたと覚えているのだが、子ども心にもどちらも複線施設である
のになんで?と思った。まるでそれぞれ1区間1閉塞の単線のようであった。
大阪駅は城東線用ホームは1線しかなく、同じ1線の向こう半分は西成線停車用で
あったのがその理由だが、なお関西省電の故 野村董氏の書によれば、終戦から
しばらくは天王寺〜寺田町は単線であった(鉄材の戦時徴用で撤去してそのまま
放置状態であった)ともあるが・・・・ 天王寺〜大阪間は外回り、内回り両方とも、今も昔も19〜20分の所要時間で
あるがなぜか10年前に201系が入線するまでは電車がのんびりと走っていた
ように思う。いまは力行inで70kmでoffだが、以前は60km手前で0ff
だった。僅か10kmの差だが何故か気ぜわしい。101系オンリー時代はDT
T21の2100o軸離独特の歯切れの良いのんびりとしたジョイント音を楽し
みながらゆっくりとした時間を車内ですごしながらも、20分で半周していたの
だが・・・・今は何故か飛ばしても同じく20分を要する。不思議だ。(もちろ
ん大阪城公園や今宮が増設されたことも理由の一つだが)とは云え、森ノ宮〜京
橋〜桜ノ宮は思い切り今以上に飛ばす区間もあって楽しみだった。しかし本格的
に環状運転が始まった頃には天王寺〜大正は途中に駅がなかったにもかかわらず
飛ばさずにのんびりと走っていたのである。これも不思議だった。 連投スマソ、今では天王寺駅名物の駅ハトも殆ど姿を消したが、昔は14番の
りば以南のホームにはいっぱいハトが居り、鉄道弘済会の売店でもハトに与え
る豆を長方形の透明セロハンの袋に入れて売っていた。次の外回りの電車が来
るまでのしばしの楽しみとして、子どもには良い時間だった。実際電車に乗っ
てどこへ行く目的は無くともただ駅へハトと戯れにいくための良き遊び場だっ
た。(ちょうど、南隣の近鉄百貨店の屋上遊園地へ行くのと同じレベルだった。
今のように転落防止柵・ホームドアなどとは無縁の時代だった・・・・) 本来ならば「そろそろ皆が忘れてそうなこと」「平成生まれが知らなそうなこと」
にカキコすべきだが、スマソ・・環状線の東回り(城東線)部分のホーム高さはほぼ
車両のドアステップの位置と同じ位であったが、西回りの新今宮・芦原橋・大正・弁
天町駅(以遠は忘れた・・)のホーム面は15cm位低かった。新今宮は関西線の
DC等に合わせてあったと思われるが、後の駅は意味不明? なぜだったのだろう。
昔 友人から聞いたガセネタであるが、関西線を経て大阪港駅へいく貨物列車の内に
巾が少し広い貨車を使用した場合のアタリを避けるためだ。と言ってはいたが・・・
ホントなのか? 旧城東線分に限っての話だが、駅間のいたる所に上下線相互の片渡りポイントが存在
していたナア。今でもあれば何かの時に便利なのにと思うが。今は1ヶ所たり
とも存在しない。最近見たのは京橋駅の北方の淀川電車区へいくための片渡り
だけだった。誤進入による事故防止か? 101系の贔屓をするわけではないが、台車はDT21や、DT21Tの方がどっし
りとして乗り心地が格段に良かった気がする。103系のDT33はどうも好か
なかったし、ウイーンウイーンといってうるさかった。103系も乗車率25
0パーセン位の時ならば、ジョイント通過時でもどっしりと安定していたが、
日中の空いた時に乗ると縦には揺れるわ、横にも揺れるわ、まるで旧客のオハ
61に乗ってるのかと間違うくらい床下からの突き上げが酷かった。環状線走
行時よりも阪和線走行時の方がいくらか酷い。そこへ来ると201系は非常に
快適だ。今回阪和線に入った新225系5000も空いた時に乗ると下からズ
ンズンと響いてくる。どうにもならないなァ・・・・ >>138
まだ環状線に少しだけ101系が残ってた頃、たまたま101系が来たらラッキーと思った。 >>134
確かに101系オンリーの頃は走行させるというよりは早い目にのノッチオフ
で駅間を転がすように走っていましたね。あんなゆっくりとした速度や森ノ宮
でのしばしの運転手交代停車をいれても半周所要の20分は今では信じられま
せん。 昔は大阪城公園に植えられてる樹木も若くて背が低かったので、車窓から天守
閣がよく見えた。何か気づかなく知らぬ間に今は背が異様に伸びて全然見えな
くなった。旧73系に乗っていて三段窓の向こうに天守閣が見えたのを覚えて
いる。夜になるとライトアップされた天守閣が暗闇の中に緑色に光って、子ど
も心には不気味でとても怖かった。阪和線9番ホームを設置した下の環状線
(上にふたをした格好で暗くなってしまった11番線)ホームに朱色の3段窓
電車が入線してきたが、丁度目の前に止まったのは茶色い電車だったので、汚
く損をした気分になったので、乗車後に慌てて隣の車両に移った。子どもには
なぜそれが茶色だったのか、理解できなかった。 昔から各停用電車はホームへの到着や出発の前後は、全力で減速・加速してい
たが、優等列車はかなりの前後はゆっくりと転がすように走って優雅だった。
153系新快速も 大阪・三宮到着、113系快速も芦屋到着はその名残りを
残していた。 各停であるにもかかわらず、現在でもこの優雅な転がし走行を
彷彿させてくれるのが寺田町→天王寺 新今宮→天王寺間だ(駅間が短いのが
理由かも知れないが・・・) 現在は 天王寺→新今宮は他の駅間と変わらな
くなってしまったが・・・・ 上の続きでスマソ。考えてみると、同じ天王寺〜新今宮を乗った場合でも、今
でも、環状線と関西線とではダイヤ上の速度設定が違うように思えるが・・・
環状線の方が11番のりばへゆっくりと滑り込む。気のせいだろうか、(使用車
両は同じなのに)・・・ 鶴橋駅で近鉄に乗り換えようとすると外から焼肉の匂いが、腹が減っている時はつい降りたくなる。 また101系時代の話でスマソが、現在の車両のように天井には化粧版が用い
られて居らず、トタン・ブリキ板であったので、車両検査入場時に天井を真っ
白に塗りなおして出てくると、新しいペンキ特有のいいにおいを後日しばらく
の間楽しむことができた。(刺激臭が苦手な人には気の毒だが・・・)そんな
車が来るのがとても楽しみだった。 環状線から一駅以内だけずれるけど
通っていた阿倍野区の高松小学校の東側に
貨物駅のようなものがあった 今は学校のプールになっている
関西線だけどね 百済とはなんか使い分けていたんだろうな >>134
それが現在の東部市場駅東側にある現百済貨物駅の前身なのだ。
旧百済駅の廃止と新百済駅の開設には数年のブランクがあったが・・・
下記を参考に。
《寺田町 源ヶ橋の話題20》【天王寺・阿倍野・生野・東住吉区】 の734番レス目 付近にいろいろあるよ。
ttp://osaka.rash.jp/img/1338484046308.jpg 上記の>>134は 本当は>>146の間違いでした。スマソ。
文中に「高松小学校」とあるがそのすぐ西に「川筋」と云われている南北に
細い道路がくねくねと森ノ宮方面へ続いている。これが「旧猫間川跡筋」と
云われる道だ。関西線が天王寺を発車してすぐに市道をまたぐガードには
「猫間川1号」とか銘記もされている由緒ある道だ。
下記のブログを是非参照されたい、環状線との関わりもかなり大きい。
『猫間側源流探検記』第2節「OBPから森ノ宮」第3節「森ノ宮から玉造」
現在の大阪城公園駅付近にあった「猫間川信号場」の名称由来でもある。 >>133
レス133で述べた 「戦後しばらくは天王寺〜寺田町間は単線であった」
との根拠が下記のサイトにも見つかったョ。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/kawakami/kansai.htm#11
川上幸義の関西線鉄道史
13節 昭和24〜39年の関西・参宮・城東・西成線 top
昭和29年4月1日天王寺−寺田町間が複線となった。わずかの距離であった
が、溢路であった。 >>146 >>147
関西線の話でスマソが、阪和線が天王寺を出発して環状線、関西線を
またぐところの東側を上からよく見てみると、現関西線の線路の北側
に線路巾1本分のコンクリート製の高架枠の残骸が見られる。しか
も、阪和線高架直下では高さが高く、東側の高松小学校の方に向けて
次第に低くなっている。 これが上記でいう「旧百済貨物駅」→(正式
には「天王寺貨物駅」だったそうだが、)での貨車編成入換え用の
「バンプ」の名残である。 そうなんや 知らずに高松小学校に通っていた
同級生に日通下請けの運送屋のやつがいたな 連投ですみません
書かれていた猫間川の高架下をいつも通学でくぐってたわ
じいさんばあさんはたしかにあの道を猫間川筋と呼んでいたな
生野の電気館に続いていた道 >>152
電気館をよくご存知でしたか、とすれば貴方はもうだいぶの大人の方。
私は高校生の頃に鶴橋駅の近鉄との乗り換え口の、改善・改装を迎え
た者です。小学校は地図上で云うと貴方の学校のやや右下にある校下
出身です。確かに旧貨物駅の付近には、日通や色々な小さな運送会社
の営業所、キッコーマンの大きな倉庫がかなり後まで有りましたね。
あの巾を広げた疎開道路の辺りまでが貨物駅の東端でした。また別途
文中出身の人にも疎開道路は「租税界 道路」由来だとかと聞きました。
・・・私的カキコ済みません。 子どものころ大阪環状線で「てんま」に着くのが怖かった。放送を聴く
たび「天魔」「天魔」とばかりイメージし空を見上げては早く電車が移
動しないか、とばかり願っていた。まだ言葉を覚えたてで「寺田町」を
「とらだち ょう」虎が居る所と思っていた幼児のころだった。 丁度そ
のころは寺田町付近に大きな養鶏場があり、駅ホームの広告にあった
「地玉子」の黄色と白の看板の配色からも虎をイメージしていた。 大阪環状線 昭和36年に環状の形状になったが、まだまだ「城東線」という
人が多かった。相当なじみのことばだったのだろう。大阪には「城東区」という
区があり学校にも「城東」が付くのが多い。電車より早く消滅した「城東」名も
ある。「大阪城東大学」「大阪城東商業高校(旧制)」現在の大阪商業大学で
ある。袋に大阪城を画いたパンの「城東パン」も好きだった。今でもあるかな
?? >>133
「鉄」の話でなくてスマソが、「懐かし板」にて何卒お許しを・・・、
カキコしながらつい懐かしかったので・・・当時は「神戸屋」と並ぶ
ような主要メーカー「城東パン」は昭和52年頃「西湖堂パン(今は倒
産済)」に吸収され云々・・とあった。
http://osaka.way-nifty.com/blog/2012/05/post-af9c.html
72系の城東線に乗りたい気持ちと同じくらい、もう一度食べてみたい。 えらい懐かしい話でスレからずれて失礼
猫間川筋の電気館と疎開道路の生野パーク劇場は
寺田町の二大映画館でしたわ
日曜になるとよくセスナが上空から映画を宣伝していました
154さんの書いてはる養鶏場ですが、
高松小学校の北東に松本養鶏場がありました。よく見に行きましたで また、連投で失礼しますが
天満駅はホームから挑発的な女性の看板が見えて
なんちゅう駅やねんと思ってました。
その看板のストリップ劇場の天満座には大学入ってから行きましたが
母親くらいのおばはんがスリーディグリーズの天使の誘惑にあわせて
脱いでいくという萎えた情けない思い出が天満駅にはあります また環状線寺田町の話題で申し訳ないが、子どものころから不思議だったのは
寺田町南側出口へ向かう階段付近の吊り案内板に「黄金地方面」とあった、
この辺で「金」を発掘・産出したという話をきいたことがないのになァ・・
確かに現在の町名には無い表示だった。(所蔵している昭和3年の古地図に
よれば)現在の南出口を出て東側に行った所に散在する「サンダル屋」の
辺りである。今でも「黄金湯」という銭湯があるが・・・その東方には
「市電舎宅」とある。現在でもこの辺には飛び抜けて「お地蔵さん」も多い。 以前に城東線の窓から大阪城天守閣がよく見えたとカキコしたが、不思議
だったのは、そこからよりも片町線京橋を出て鴫野に着くまでの方がより
大きく天守閣が見えたことだった。しかも進行方向右手に大きく丁度、京
阪電車京橋到着前よりも大きく・・・地図で確認してもそういう方角には
見える筈がなかったのに・・・前カキコした「城東パン」の袋に印刷され
た姿そっくりだった?? いまでもそうだろうか? 昔の車窓からの思い出。思い込み・・・
福島〜野田間の沿線にある「首藤病院」。首から上を取られそうで怖か
った。今は建物が綺麗でそうは思わない。 桃谷〜鶴橋間で小高い丘の
上にそびえて見えていた「桃山病院」(今は無きかっての伝染病専用病
院)夏は電車が窓を全開だったのでコレラや赤痢等の伝染病がうつると
思い、その区間は出来るだけ息をしないように止めていた。苦しかった。
後で知ると、一般外来の桃山市民病院も併設だったとのこと。鶴橋駅北
側すぐの「省線ホテル」=赤い一筆書きのネオンサイン。戦前からこん
な物を国が経営していたのかと感心していた。天王寺ステーションホテ
ルの先輩だと思っていた。 連投スマソ。
大正駅を出てすぐ西側、現在の大阪ドーム脇の(超特大乾電池のような)
ガスタンク。若し何かの原因で爆発したらどうしよう!!天王寺〜大阪
までの乗車、どっち経由がいいかな、伝染病にかかるのも怖いし、ガス
タンクも怖いし。いずれもそこだけは走りたくない。いつも冷や冷やだ
った。 寺田町裏駅は黄金地でしたな 昔の字名ですな
あそこののんびりした風景がとても好きでした
三輪のカメラ屋さんは高松の小学校の会長でしたね
本当の名士は松屋町から移転してきたタムラのピーナツかも
朝日プラザ天王寺のところはゴルフ打ちっぱなしやった
その南には金魚やがあったね >>163
その金魚屋さん、今の関西線と阪和線が交差する所の線路際にありまし
たね。大和郡山駅前近辺の田んぼのような大きな生け簀にいっぱい泳い
でましたね。不思議なのはあんな線路際で蒸汽やキハ35から出る煤煙
などが池に落ちて、金魚の生活に影響がなかったのでしょうかね・・ その金魚屋さん向かいの元鉄道病院(現コーナン)前から杭全へ行ってる国道25号
線が狭い狭いガタガタ道でした。なのに阪和線の高架橋ガードは昭和3年建設
当時からあんな大きなスパンで架けてたのですね。(計画は大正時代!)スゴイ。
市交通局史によれば市電が平野まで計画されてたようです。 一方、環状線寺田町ガード下から東へ伸びてた市電は行き先幕は「百済」ではな
く『くだら』でした。子ども心に、真面目に走ってるのに何が「くだらんネン」
と思いました。終点は安全地帯・島ではなく単なる白線表示だけでした。
大きなトラックがいっぱい走ってくるので危ない危ない。その50メートル先
には関西線の踏み切りが・・・・途中の好きな停留場の名前が、「はやしでら
しんけちょう」林寺新家町でした。ローカルカキコですみません。 高架設備の話ですが、昭和5年完成の省線城東線の高架線路帯の横スペース
と、昭和3年完成の阪和電鉄の高架線横スペースとでは、若干城東線の方が
広いのですね。現在はと云っても40年位前からですが阪和線も横枠を取替
えて広くして改善したが、以前は線路工夫の人の退避が不可能なくらい(通
過電車と横壁の間)の余裕がありませんでした。最後尾に乗って眺めている
と、所々古い横壁が残っているのでわかります。あんな所の保線作業中に和
歌山行き超特急のモタ・モヨが通過したのでは危険この上なかったと思いま
す。 金魚屋さんご存じでうれしいですな
開発から取り残されがちな高松地区で初の民間マンションが
その朝日プラザでした 国鉄の官舎や市電の官舎はあったのですが
市電の官舎は松本養鶏場近くの木造長屋で真ん中に広場がありました
スレから離れますが関西線の百済駅の手前の線沿いには
釣り堀があってよく自転車で遊びに行ったものです
金魚と言えば片町と天満橋の間にも淡水魚の店があり
どじょうとか種類も豊富でした しかしあの朝日プラザマンションはよくたびたび足場を組んで化粧直しをして
いますね、(建ってから本当に年月が過ぎているのか)それを見るたびまた
年月が経ったのかと痛感します。
BUT、環状線の東回りと西回りの沿線風景の基本的な違いですが、・・、国
電歴史の古い城東線(東回り)側は民家の屋根やビルの屋上は線路からだいぶ
遠いところ(100m、200mでは収まらない)まで磨り減った制輪子の金
属粉が飛んでいって錆び付いてまっ茶っ茶いろ一色だったことですね、西回り
側(弁天町・西九条)側はそんなに濃くはありませんが・・・それは阪和線南
田辺〜天王寺の高架上から眺めてもよくわかりました。 しかし、寺田町南出口〜近鉄河堀口〜美章園に至るまでの道沿いは昔からの
庶民的な面影がよく残されていて私も好きなのですが、意外とスーパーマー
ケットが見当たりませんね。三明町のニッショー 美章園のサンコー 林寺
の玉出まで行かなければ有りません。あとは源が橋商店街裏くらい。現在の
時代となってはスーパーの過疎地ですね。高松交差点付近などは、他所では
見られないくらい非常に交通至便な所で居住には適したところにも拘らずに、
歩いて数分で到着できる駅が幾つも有るのに・・・と思います。その点、桃谷
鶴橋・玉造・森ノ宮〜ずっと向こうまで、駅前に商店街・スーパーがあるのに。
(なぜか西九条・弁天町・大正・芦原橋・今宮・新今宮は別・・)今後の
高齢化社会で買い物難民が増えると云うのに・・・ 高松地区の人間はかつては源ヶ橋商店会と生野本通りに買い物行くのが
普通でした 商店会が寂れてさらに不便ですな
常盤地区も天王寺が近すぎてかつては日常の買い物が不便でしたね >>171
ウチの辺は北田辺か百済の市場が商圏でした、百済へいってその足で生野本通
・源ヶ橋へ足を延ばしていました。八尾の飛行場からセスナが飛んで来て軽く
ブーンと言わせながら「お買い物は百済の市場へ・・・」と宣伝してました。
今と違ってどこも、賑わっていたのを思い出します。(丁度、十日戎の参道の
ように)・・・ 話が外れたので鉄ネタです。今でも不思議なのは、なぜ鶴橋〜桃谷間の高架は
駅間が短いのに、途中で少し垂れているのでしょうか? 脚を短くして、高架
の建設費を節約するためだとの説がありますが、「なぜここだけ」他の区間、
桃谷〜寺田町や、森ノ宮〜玉造〜鶴橋などはほぼ同じ高さですが・・・ >>173
阪和線の場合は建設にあたって、スピードを第1にしたため「極力カーブを避け
る」加速、減速がし易いように「駅を作るのは高台の上に」という方針であった
とかいうことだったらしい。上記の高架脚の高低であるが、南田辺〜美章園の間
は僅か分からない位に少し垂れている。美章園をでて少し近鉄線河堀口をくぐっ
をあたりまで垂れて行ってから一気に上を向いて、天王寺に向かっている。
これも高架の材料を節約したためであろうか・・・ 昔の車両はポイントを通過しても音が発生するだけで、「もう通過したの?」
という感じだったが、今の車両はバネの調整が悪いのか台車構造が悪いのか、
本来の揺れの左右どころかそれ以上に上下に激しく揺れる。旧型のTR23や、
新型のDT24等は本当に音だけだった。225系でさえも床が抜けたか、オハ
61に乗っているのかと思う。環状線の最も酷い区間は(新今宮すぐ西方の
関西線との合流ポイント)だ、環状線そのままでも、関西線から環状線へ移行
入線しても異常に揺れる。一度お試しあれ。 >>131
寺田町駅の開業って昭和7年じゃないんですか?
大正時代にはすでにあったの? >>177
小生の持っている 昭和3年 大大阪市街図には城東線寺田町駅は無いョ。
市電の寺田町電停は西へ300メートルの交差点上に記載されているョ
城東線は 天王寺→桃谷→玉造→京橋→桜ノ宮→天満→大阪となっている。
>>178
寺田町は当時は正式な広範囲な町名ではなく、国分町・大道3・4丁目の境目に
交差点がある形になっている。交差点より離れて少し北側に「寺田町」と
と小さな町表示が記載されている・・今の興国高校あたりになる。
城東線高架施工時に建設した「寺田町駅」はそれに近いので、つけたのでしょう。
近くに「国分寺」「四天王寺」があり寺が近いのに由来し寺田町となったと記載
がどこかにあったような・・・ >>179
なるほど〜。
じゃあ例の大正時代の写真?絵?の寺田町駅は市電の駅なんですかね?
駅名標のニュース以来ずっと気になってたんですが…
ちなみに由来は四天王寺の寺があの近辺にあったからって聞いた事ある気がします。