【軽量客車】国鉄客車10系【寝台と座席】 [転載禁止]©2ch.net
車体補強工事は特にやらなかったな
重くなって折角の軽量構造がスポイルされてしまいそうだが 全てが10系客車という編成の列車ってあったのかなかったのか
意図してそう編成は列車はなさそうだが、車両のやり繰りの都合で偶然そうなったってのはありそう 北斗、北星、新星はそうだよな
銀河とか彗星もありそうだけど んーでも
寝台車、グリーン車、食堂車、普通車が全て10系で揃った列車ないだろw 荷物車以外なら高千穂&霧島が10系ばっかりかつオシ17連結
1968.10〜1972.3
1971.10〜1972.3は全て10系
オユ11 (下りは東京→熊本。上りは鳥栖→東京) 南東郵2 ↓
ナハフ11
オロ11
オシ17
ナハ11 「霧島」
ナハ11
ナハ11
ナハフ11 ↑
ナハフ11 ↓
オロ11
ナハ11 「高千穂」
ナハ11
ナハ11
ナハフ11 ↑
オシは繋がっていないけど、10系寝台車がつながっているマニ以外全て10系は日南下り3号・上り1号(1972.3〜1974.4) >>497
10系に乗ったことが無い身としては、一度は乗りたかった編成ですね… >>499
いやあ、貴重な写真ですな。
車体が反ったりしているのがよくわかる点でも貴重かも。 >>491
S30年代後半からの「観光団体専用列車」
ナハネフ11・オハネ17 600番台のみの列車
その流れを汲む季節「十和田」
オール10系寝台車による12両編成
偶然そうなった例としては
名古屋−紀勢本線−天王寺の夜行普通
名古屋駅での実見になるが、4両全てナハ10・ナハフ10だったことがあった
>>495
47.3〜50.3の銀河・紀伊併結列車はオール10系だった記憶 >>497
オシをオロの隣に持ってくる理由は分かるとしても
高千穂の乗客がオシに行くのが大変ね(^_^;
>>499
すごいです
The 寝台急行 塩害ってすごいんだね
海底駅があったころ見学したけど湿気もすごかったし
地上区間も延々海沿いだもんね
それに酷寒が加わったらそりゃもうね >>503
それからすると、青15号は、汚れが目立たない優れた色であったと・・・ なるほど、逆に捉えたらたしかにそうだ
目から鱗だわ。
青15号登場時は蒸機も現役だったし、従来のぶどう色より明るい色、かつ汚れの目立たぬ色
さすが先人方、よく考えられてたんだな。 >>497
当時の客車編成で両端に緩急車って珍しいなと思ったが、
途中駅で付属編成を切り落としではなく分割・併合だから両端に緩急車が必要ってことか
どちらも基本的な編成内容は全く同じにしておいて、
「高千穂」か「霧島」か使う目的によって片方だけに食堂車を入れれば良い様にしているんだな >>507
しかし終点西鹿児島では編成がお互い向きが逆という、
鹿児島持ちだったから、区では両方が逆向きで並んでいたんだろうな
グリーン車のデッキの向きはどうだったんだろ?
(基本的に東海道ではグリーン車のデッキは下り方) 耐候性高張力鋼板が実用化されてればもうちょい長持ちしたのに
採用第1号が新幹線0系だったっけ? >>503 同じ事考えたね。
北斗星も2003年頃既に同じような状態だった。
いや、もうちょっとましだったかな。
で何だかデジャブ感があったので考えて見たら
その上野駅で昭和57年に見た末期の
10系寝台車が同じような感じだった。 ここまでひどくなかったよ、上野口の10系。外板はベコベコで雨だれで汚れてたけど
ちゃんと洗ってた。錆も浮いてたけど、こんな大きく剥がれたのは見た覚えがない
富士はやぶさはこんな車両あってビックリした覚えがある。北斗星はそんなことなかったような
はまなすのは洗ってないでしょ。ディーゼルの油煙と青函トンネルていう条件もあるし
なにより古い >>511
上野口は見ていないので分からないが、「はやたま」「山陰」「ながさき」オハネフ、福知山区ナハの外販は荒れていなかった。
温暖地と寒冷地との違いがあるかもしれない。
しかし、温暖な、末期の九州ブルトレや「銀河」も外販が錆びて剥離していた覚えがある。
「はまなす」だけでなく、北海道全般の車両が窓の汚れが目立ち、茶色っぽくなっていて、
自動洗浄装置がないのか、洗浄する期間が開いていたのかと思った。
14・24系の外販の腐食は、車掌室横など目立った気がする。 1 1982 10系 越前? 車齢 22
2 2003 24系 北斗星 車齢 28
3 2015 14系 はまなす 24系 北斗星 車齢 40
番外 テヘッ
4 1984年 東武鉄道 ボロ電 7860系 車齢 23
5 1982年 常磐線 オハ35 車齢 32
6 2021年 185系 車齢 40 >>513
5 1982年 常磐線 オハ35 車齢 32
これは、更新したのが1950年?
オハ46? >>514
オハ35戦後型は1948年までだな。スハ42は1950年まで作られてる。
>>513の計算合わないと思わしきところがあるが
越前がオハネフ12だとしたらナハネ10としての製造は1956年
オロネ10なら1959年。 513 ごめん、プラマイ3年位の平均でこんな感じかなって感じで正確さに欠けたは。
常磐線旧客は顔がスハフ42で結構作りが良くて
乗り心地も良かったイメージ。全体に新しめだけど中には内装木目ニス塗りのが探すと混じってた。多くは座席はグレー?で塗りつぶされてて外観からすると明るい室内。初めて見て強烈に印象が残ってるのは昭和51年上野20番線、
583系みちのくのあとの平行きだったかな。
スハフ42最終が昭和29年みたいだから、
まだ車齢20年ちょっと。そんなに古くはない、
401系115系など近代化後の車両が普通だったから、造りは古かったんだね。
件の10系ハザは常磐線旧客には入った事なかったんじゃないかね? 多分北千住柏間の爆走に
耐えられず空中分解するからだと思われる。 常磐の水ミトや北オクにはナハ・ナハフって配置されてないんじゃない?
実際乗ったことあって記録したのは福フチと鹿ヤコだったが。
ギリギリ小学生で間に合ったオロ11の高千穂は鹿カコだったのかな。
当時車番メモまで気が回らなかった。 >>520
1967年当時東オクにはナハ10が4両、ナハ11が22両、ナハフ11が6両が在籍 >>521
ありがとう、その時代なら配置あったんだね。特急大増発43-10前なんだな・・
昭和50年代には残ってたのかなぁ。 急行運用が減ったローカル時代には
北陸以西に集中しているように思う。 >>512
横川にある、ながさきに使ってたオハネ1229は綺麗だったな。いまはどうなってるか知らないけど
山陰や北陸のナハナハフ11もいうほどボロくなかった。ボロいボロいって聞いてたから乗りにいったけど
10系のあとに近代化やったスハフ42やオハ46なんかの方が長持ちしたって話だと思うけど
大袈裟なお話があるから、まぁそれまでと比べたらダメではあったんだろう
いまでいう209みたいなもんだな >>491
東京広島間の急行安芸は?
オロネ10が2両連結されてて何気に豪華 碓氷峠なんか補機で押し過ぎたら潰れるし、
押す力が足らなかったら二つに裂けるしで
すごく神経使ったろう。ボディの脆さは
同年代のボーイング707に通じるものがある。
モノコックボディが完成するのは20系まで待たなければならなかった。
車齢10年過ぎたらいよいよやばくなって来て長編性中心碓氷峠越えありの尾久客車区からは転属させたんだろうね。
しかし近代化途上の10系客車とか、電車で全金属のクハ79とか独特の味わいがあるよね。 また適当なことを。車体の強度は12系と変わらないし、20系も10系もセミモノコックで
構造は変わらん
脆いとかいいたいならコメットとかだせばいいのに 妙高9,10号に連結されてた寝台車や郵便車の10系は最後まで北オクだったはずだけど コメット、コメット、、大場久美子の
コメットさんって知ってる?
客室与圧の先駆者デ・ハビランドコメットの
悲劇。機体見ると丸っこくて美しい、
神経質までに外力を吸収するべく出来た
張殻ボディ。しかし胴体内部からの断続的な
与圧圧力の対策は不十分だったんだね。
あの事故がなければ多分ボーイングの方が空中分解事故をしょっちゅう起こして今日のような
旅客機メーカーとして市場制圧する事は出来なかっただろう。 ボーイングは元々機体の構造の弱さを体質
的に持っていて、1966年のBOACの富士山上空での空中分解はダグラスのDC-8だったら大丈夫
だったのでは? と思われる。一番酷いのは
中華航空が日本にいつも飛ばしていたジャンボ機の3機のうちの一機で、引退まじかで離陸後
空中分解して旅客が皆海に放り出された。
機体のボロさは国鉄10系客車かボーイング
かってね。
因みにデ・ハビランドの血統のエアバスも主翼を左右一体で作るとか、今もボーイングとは
違う設計思想。 軽量化で耐久性が足りなかったと思うが、空中分解とか裂けるとかか強度が足りないことはないはずだぞ。 検査通すより早期廃車って言われたのはオロ11くらいでしょ
スロ54・62の方がS57まで長く使われた。
ナハ(フ)は末期に窓が硬く開きにくくなったりHゴム劣化で雨が染み出すとか
もともとの剛性から地方路線でギシギシ乗り心地がイマイチだったくらい。 10系客車の難点は剛性じゃなくて車体の耐候性と無駄に大きいばね定数故の乗り心地なんじゃね? >>528
内容までは覚えてないけど
コメットさんと大場久美子の名前は
記憶にある… 丁度あと3ヶ月で引退ってときか
なら仕方ないんでないかな。 どうしても劣化を認めたくない人がいるみたいだね。
末期でも劣化してたのならそれは劣化 末期のあけぼのや北斗星もぼろぼろに腐った車体を塗装で誤魔化している有様だったな。 >>534
オロネ10、ナロネ21より新しいか同時期なのにな。天の川や新星の20系は綺麗だったのに オロ11が早く消えたのはSG車ばっかりだったせいじゃなかったかなぁ、
スロ54だの62だのは電暖の2000番台が多かったからでは? 最末期59-2とか60-3前はもうメンテして無くて
福フチのナハ、ナハフで洗面所水でないとか
窓が固着して開かないとか酷かったが
53年・54年くらいまではそうでもなかったかな 洗面所の水が出なかったり、プシュプシュと出たり、窓が斜めになって、ちゃんと開かないとか、
10系に限らず末期旧客も同じ。 82.8.15 何してたかなあ?
中三で塾の夏期講習に行ってたか。
受験でオヤジが五月蝿いからこっそり写真
撮りに行ったり、現像したりしてたか。
成績が良ければ親の俺を見る目ももっと
暖かかっただろうし小遣いも多かっただろう。
そうしたら撮影機会ももっと多かったか?
しかしこっそりでも撮影に行って良かった
と思う。もし行ってなかったら10系寝台の
印象が俺の中に刻み込まれてはいない。
やりたい時にやっとくものだ。
11月14日写真撮りに行って帰って来る途中の
バスで国語の教師と乗り合わせて、余裕だなあ
と嫌味言われた。
結局3年の夏近くに勉強始めたし、試験勉強に
全身全霊打ち込んだわけでもなくて都立では
内申点が足りず偏差値60チョボチョボの私立高校
に入る事になったw 改行位置考えような
82.8.15 何してたかなあ?
中三で塾の夏期講習に行ってたか
受験でオヤジが五月蝿いからこっそり写真撮りに行ったり現像したりしてたか
成績が良ければ親の俺を見る目ももっと暖かかっただろうし小遣いも多かっただろう
そうしたら撮影機会ももっと多かったか?
しかしこっそりでも撮影に行って良かったと思う
もし行ってなかったら10系寝台の印象が俺の中に刻み込まれてはいない
やりたい時にやっとくものだ
11月14日写真撮りに行って帰って来る途中のバスで国語の教師と乗り合わせて余裕だなあと嫌味言われた
結局3年の夏近くに勉強始めたし
試験勉強に全身全霊打ち込んだわけでもなくて都立では内申点が足りず偏差値60チョボチョボの私立高校に入る事になったw >>539
博多開業で行き場なくなったからね。北海道くらいか。北海道は二重窓いるし
電暖改造するにも東北上越は新幹線がもっと早いうちに開業予定だったし
開業が伸びるのわかってたならやってたかもしれんけど、スロ62とナロ10、スロ62の方が
新しいんだよな、車体以外 82年の夏は自分は中1だったが、女子中学生誘拐殺人事件があったせいで色々な遊びの約束をキャンセルさせられたつまらない夏。
唯一小学校の頃の友人と船の科学館のプールに行っただけ。
あとはきっつい塾の夏期講習に行かされた。 日本の気象条件もあるわな、高温多湿から雪まで
スイスのEWI-IIが元になってる10系より長生きがまだ居る 高温多湿な日本の気候に合わなかったかもな
砂漠地帯だったら長持ちしたはず どうだろ?
一日での寒暖の差が激しくて、
熱疲労で壊れてたりしてな。 特に1980年代に入ると国鉄は激動の
時代になるから生まれの1年2年の差が大きい。
545氏のように1982年中一ではまだ思うように
動けなかったろう。都心部の私立中にでも
通ってれば別だけど。
模型ネタにはなるが、グリーンマックスの
プラスチックのNゲージの板キットの10系客車
とか他旧型客車とか中村精密のスハフ32リベット付きとかよく作ってた。当時は完成品はまだなくて(多分)、模型で走らせたかったら自分で作るしかなかった。値段は550円だったかで手頃で、プラモデル同様に精密に再現された側板妻板がランナーについていて作る前からワクワクしたものだった。友達といかに上手く作れるか競うようにして作るのが楽しかった。もちろん所詮素人でサッシの銀入れとかそう上手くは
いかないしそもそもキットの寸法が大雑把で太いと言うのもあって後に出た完成品にはとても及ばない仕上がりだったが、家では作って楽しみ、休みの日はなんとかして実物の写真を撮りに行くということが出来る幸せな時代だった。 昔は板キットを組むしかなかったのに今や旧客夜行列車の編成が完成品のセットで揃う時代
しかも最近の製品はドア上の等級表示やサボまでもが正確に印刷されてる始末 急行日南の10系入ってるセットはフルで買ったよ。
C57 四次型に牽かせるとめちゃ美しい。 >>550
グリーンマックスのキット、つくったなあ。
塗分けが難しいから、どうしても客車になっちゃう。
旧国なら大糸線に居た形式。
老眼真っ盛りとなった今じゃとてもできない。 老眼になったら16番ゲージおすすめ。
今はプラ製で割と安いのもある。
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org1740.jpg
このトラムウェイのオハ35戦後型とTOMIXナハ10を繋げて
KATOのDD51に牽かせると福知山線末期の特定ナンバー車が出来るんで
と思いながらまだインレタ貼ってない。機関車のウェザリングはしたけれど。 Nサイズの10系ならKATOが現状最高傑作だな
茶色がラインナップされてるマイクロエースも捨てがたいが 回客用だね。品川ー尾久間と大宮工場への回送車両の控車 あのナハフ11品川駅で見ると東京方に正面の妻?、が向いていたな、と思い出した。オハネフ25 0や100番台と同じ向き。すると帰りはどうなるのかなと思って寝られなくなっちゃった
と思ったら、裏面の妻にもテールライト付いてるのね。だからシナオクでは尻は窓付き、
オクシナでは尻は窓なし。 文化むらの車内に自由に入れた頃すら懐かしくなった
オハネ12に寝っ転がったり、ナハフ11も座ったもんだが
常時公開中止して10年位なるんだっけ 軽量客車は車体と台車こそ近代的な外観だが、AV式自動空気ブレーキや並型自動連結器、
車軸駆動式の発電機などは従来のものを踏襲したからな。それで運用上は旧型客車の一員として扱われた。 客車で110km/hを出すのは20系から
しかも、20系が110km/hでの営業運転を始めたのは1968年から
そもそも機関車が
100km/hに達したのがED72/EF70(1961)から
110km/hはEF65 500番台から 100q/hに達したのはC62
と言うのは屁理屈? 実際問題旧客と組成して走る列車は東北本線で90くらい
亜幹線じゃ80-85も出せば上等だったからね。DL牽引じゃ
ちょっと勾配あったら65キロくらいザラ。 >>564
EF65の0番台と500番台ってブレーキ管以外に何か違いある?
0番台は12系以降のCLブレーキ車を牽引しての110km/h走行は可能なのだろうか? 157 回想774列車 sage 2019/01/18(金) 18:30:45.83 ID:XHzoK1di
EF65一般型の85号機以降は確か110キロ運転可能で
一般型かぶった特急型なんだな。
20系でなく14系や24系けん引での条件だろうけど。
EF65は0番台から許容115km/h。4次車の85からは110km/h運転可能
EF66が故障したため、ブルトレをEF65ユーロ機が引っ張った事はある
EF65 113が臨時客車金星(14系座席)を110km/hで引っ張ったことはある 110キロ運転したら車軸発電機が高回転に耐えられず焼損しそうだな 訂正>>568
EF65 11「0」が臨時客車金星
4次車から
MT52→MT52A
CS26→CS26B
CS29→CS29A EF65、500番台が0番台の2、3次車相当なんだけど
一般形かぶった〜とかヲタらしい
>>569
EH1015のとき10系で120km/hやってるから。12系は車軸発電機で110km/h対応だしな 全くケツの青いバカが何かほざいているな
EF65 500番台が20系牽引時に110km/h運転を始めたのは1968.10から
それまでは20系牽引運転時でも95km/h運転
12系は1969年から
1968.10からの110km/h運転に備えて、P型の1次・2次車とも編成増圧装置と電磁自動空気ブレーキ用指令回路などを追加している
※F型は登場時から編成増圧装置(532〜534の3機を除く)と電磁自動空気ブレーキ用指令回路などを搭載している このボケ老人はWikiのコピペしてなにが言いたいのか >>572
細かく言うと、Fは高速貨車牽引時は単機増圧
47.3改正時に、518〜534を編成増圧に改造して20系牽引に対応
513〜517は単機増圧のまま
スレ違いなのでそろそろ、、、
もうすぐ10月6日
1971年(昭和46年)10月6日に、急行雲仙3号が火災事故を起こしている
燃えたのはナハ10ほか3両
犠牲者1名、合掌 >>572
> 全くケツの青いバカが何かほざいているな
何でこういう余計なこと書くんだろうな
喧嘩したいのか
マウント取りたいのか >>575
うそーん
513〜517は当初10000系貨車を110km/h運転する試験のため、編成増圧などの20系牽引機能で作られている
20系高速化試験も編成増圧の付いているこれで行われた
でも、10000系貨車の110km/h運転はいろいろ問題があって100km/h運転へ下げられたため、単機増圧でよくなった
しかし、昭和40年度第2次民有分518〜526(1966.2〜3新製配置)はもう作られていたため編成増圧などの20系牽引機能が付いたままで新製配置
昭和40年度第2次債務分532〜534(1966.8新製配置)は単機増圧だけの変更が製造中で間に合い、編成増圧などの20系牽引機能なしで新製配置
1966.10から貨物牽引専用となったため、編成増圧などの20系牽引機能は整備されなくなった
1968.10から東北上越へ回された時、ロット間の重連運転をするため、513〜517はCS25が改造されたものの重連運転は無理とされた
また、暖地仕様であったため故障多発
このためPF型が作られ、1969.11にそれで置換されて広島・下関へ移籍
1972.3の関西ブルトレ牽引機不足のためF型で牽引することになり、518〜526は20系牽引機能を再整備・532〜534は20系牽引機能を増設し、F型は編成増圧が全て付いた
ただ、山陽本線の線路容量不足と貨物牽引機不足により、95km/h化により関西ブルトレ牽引機はEF58P型で充分となったため、1972.10でF型のブルトレ定期牽引は終了 >>562
車内に入れた頃があったんですね
オハネ12の背もたれ兼用の中段を間近で見てみたかった 文化むら収蔵車の状態がここ3-4年かなり悪化してる。
こちら今月、左下はオハネの床下・・・
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org3862.jpg
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org3863.jpg
2006年、入り放題で寝台で寝れた頃
EF59-1などは2006年よりむしろ厚化粧とは言えピカピカなのだが
機関車は修繕予算も付いたりボランティア枠での保守もあるが
客車とキハ20はこのままだとあと数年で崩壊するなぁ。 初期は車内はもちろん便所も使い放題。
便所周囲の外側展示スペースがえらい事になったとか。 トイレ使えたのかw
という事はこれが
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org3865.jpg
関東に越して初めて行った2003年にはもう使えなかったな。
あと雨の日は腐食対策で車内公開無しになってた。 >>579
近くに住んでたらボランティアでいくらでも修繕してあげるのになぁ >>579
11月のキハ359000のボランティア募集してたな >>581
垂れ流し管を撮影するとはなかなかのマニアだな。
自分が行った時は負圧発生装置が無かったから、軽量化の為の仕様かと思ってた。
あれじゃ逆流したんじゃないかと気になったが、既に朽ち落ちた後だったんだな… >>579
今日行ったらキハ35は補修されてるのか車両の周りに足組がされてた
機関車以外の客車やキハも補修してほしいね 一番原型を保って状態がいいのは津別のキャンプ場のやつかな?
以前は泊まれたけど今は閉鎖。撤去計画もあるらしい…
相生のスハフ42-500の利用料が無料でそちらばかり行っていたのが悔まれる。 10系に入り放題、間に合わなかった。残念。
関のナハネ20に何度も宿泊してたんじゃなかった ナハフ11なら、文化むらスタッフにイベント提案して 碓氷のクルマは頃合いを見てバッサリとトリアージされそう
10系はだめかもわからんね 機会見て交流財団の理事に進言してみるよ
見積もりは出してくれるからクラファン立ち上げもやぶさかじゃない >>597
迷惑な、おっさんなんだろうなあ。
国鉄OBや技術者でもないのに、外野から生半可な知識をひけらかして。 10系の食堂車は、例の北陸トンネルの件で
火元という悪いイメージがついてしまったから
難しかったんじゃないのかな。
漏電にしてもオシから出火したのには違いないし、
長らく石炭レンジが原因だと流布されてきてたし。 オシ17はオヤになってがらんどうが保存されてるだけまだいいか よくよく考えると電子レンジって変な言葉だよね
電気回路と電子回路の違いなんて、別にどうでもいいレベルの区別だし >>604>>606
だからさ、言ってる趣意をちゃんと汲んでくれよ。
「10系の食堂車」というマトマリに対する全体的イメージが
北陸Tの事故後に悪くなった、という部分がメインなんよ。
石炭うんぬんは「最初からオシ17の話しをしている」わけで
誤認ではなく、
「食堂車=危険なイメージがついてしまった」の話。 多分ね、加熱するのに
電気レンジはニクロム線の熱で
電子レンジは食材の水分子を振動させて発熱
させる違いがあると思う。
ただしオシ16は待ち合い席下の配線が加熱して発火したのが本当の原因だよね。車輌の不具合という国鉄自身の責任だったのを食堂車運営会社になすりつけた感がある。運営会社は国鉄に貸しを作って事後の営業権の便宜を図られたとか裏話がありそう。 オシ16が燃えたなんて聞いたことがない
どこから来たんだろう? お、失礼 。オシ17だ。急行出雲のオシ16見てたからつられちまったい >>613
出雲のオシ16はどこから来たのか?
瀬戸だろ オシ16
1962.3 1・2が大ミハ一応新製配置 5月より彗星
1962.6 3が大ミハ一応新製配置
1962.7 2004・2005が東オク一応新製配置 同月より下り北斗・上り北上
1962.10 2006が東オク一応新製配置
1964.10
大ミハ 彗星 → 東シナ 銀河
東オク 上下とも北斗
1965.10
東シナ 銀河→さぬき(後に瀬戸)
東オク 北斗→十和田
1972.3 全て運用離脱
1973.2 全て廃車 オシ16って10年ほどしか使われなかったのか
リフォームカーとはいえ勿体ないね 東急玉川線タルゴ電車(玉子電車)が腐食なんか無縁で保存すらされてるのに、同時期に製造された国鉄10系客車が散々だったのは、どういうことか オシ16 3を電暖兼用にしてオシ16全車を全て青森配置にすれば、予備車は1両で済むためオシ17を全車廃止にできた
史実は47.10改正で20系青森配置が多くなったため、食堂車連結十和田は尾久へ回されたんだけどね
47.10で定期運用オシ17
北オク 2017、2053、2054 十和田(1往復。使用2・予備1)
大ミハ 2018〜2021 きたぐに(1往復。全区間連結のため、使用3・予備1) >>617
寝台車ではゆっくりタバコが吸えないから、喫煙室がわりに使う客が多かったとかで、売り上げがめちゃ低かったらしい
急行列車の合理化が同時進行で、10両ぐらい作る予定が途中で打ち切られてるし >>618
まだ軽量車体の設計の経験値が足りてなくて水抜きが不完全だったから
153系電車なんかも壁の中に水が溜まって車体の腐食がひどかったんよ 1段下降窓の2等車→1等車→グリーン車のサロ152だけ(1979年廃車)
あとはユニット窓だから腐食は生じず、サロ153くずれのサロ110に至っては1992年まで残っていた オシ16って厨房の設備は簡便な感じだが、メニューも軽食中心だったのかな。
樹脂製?のボックス席や回転いすが並んだ食堂内は郊外スーパーのフードコートみたいだw 子供の頃、横浜から北海道行って10系寝台車で稚内行って15分で南下した覚えがある >>618
あれだって露天時代の写真見ると結構傷みが目立ってたし野田で展示されてた方はのちに撤去されてる >>623
営業時間が遅くて短かったから、酒とつまみがメインで、あとは軽食がちょっとだけ 北陸トンネルで燃えたオシ17は2000番台だったの?火災の原因となった配線はEG対応のためのケーブルは床下に張られてるんだよね?
火災の原因となった配線は社内の枝線だよね? >>629
オシ17 2018
喫煙室長椅子下の電気暖房装置におけるショートということだけど
具体的にこの部分というところまで解明できたんだろうか? オシ17 2018 ← オシ17 18(台枠流用) ← マロネ49 1 ← マイネ38 1 ← マイネ37130
オシ17 18 品川新製配置→すぐ尾久へ回され「北斗」(17便系統)運用
はじめは品川で定期運用がなくなっていたスシ28を尾久へ回すつもりだった
でも、北斗を増結したいことから尾久へまわされ、北斗につかっていたマシ35を置換し、ナハネ1両の増結を実現
しかし、牽引定数上は余裕があることから1年ちょっとで再びマシ35との共通運用が始まり、「日本海(急行)」の増結およびスシ48追い出しのため18が宮原へ
宮原へ行ったときには電暖化されていなかったけど、1961年冬までには追設されて2018となった
この電暖追設工場が不明 なお、KATOがオシ17を出したとき、番号がオシ17 2018だったな、
車籍が残っていたから事故車と知らずに付けたんだろうけど 76年頃に電車急行のサハシも営業廃止になったから、もしトンネル事故が無くても
客車急行の食堂車も遅かれ早かれ無くなってたかねえ 食堂車はずっと赤字事業だった
だから日本食堂はずっと、特急も含めて食堂車を廃止したがってた
国鉄の命令で仕方なくやってた 今ならサイゼリア方式でワンオペで出来そうだし黒字に出来るかもなぁ そのうち駅や車内の便所も廃止されるかもな。
収益にならないんだから。 無理無理、冷凍モノをチンするやり方でも
サハシ787のワンオペで赤字だったんだから・・
あれがセントラルキッチン調理のサイゼリヤ方式 >>627
新幹線の食堂車が出る頃がXデーかな
それ以前でもヤバい特急あったしもっと早いか 50.3.15以後で10系寝台車を使っていた急行列車って何があるのだろうか? >>636
収益にならない非常用の水が新幹線に常備されてるの知らなそう >>639
当時走ってた寝台車付き急行全てだと思うよ
まだ銀河も20系化されてないから 自分で探して来た
だいせん、さんべ、かいもん、日南、きたぐに、銀河、越前、妙高、能登、きそ、鳥海、天の川
(八甲田 仙台以北1両)、十和田、新星、津軽(3)、おが 70年代後半のブルトレブームの補完的な存在として10系寝台急行が健在だったころが
一番懐かしいな。よくあった小中生向けの鉄道何とか百科?とかにもアレコレと掲載されてたような。。
ひと区切りつくのはやっぱ82年11月改正か。 九州特急14系化→関西ブルトレ583系化→日本海24系25形化→博多あさかぜ14系化→急行夜行だいせん20系化
音戸そのまま→上野北陸急行から寝台をまとめて長岡経由の特急北陸1往復追加
つるぎ583系化→上野奥羽系統急行から寝台をまとめて特急あけぼの1往復追加
つるぎ・季節日本海用24系25形を瀬戸・下関あさかぜへ→1本は銀河20系化・もう1本は2〜5両程度の短編成寝台置き換え改造工事(12系から電力供給・自動ドア化)
これでカヤ21化・北海道・夜行列車併結もの以外の10系寝台車は昭和51年10月でほぼ全廃可能 オハネ12に泊まれるようになるそうな
床穴空きそうなんだがな 前の方に常磐線旧客鈍行に10系座席車あったかなあってやり取りあってはっきり結論出てなかったけど、今出てる雑誌 国鉄時代71号の44
ページだったかに、昭和57年に撮影の三河島?付近走行中の旧客鈍行の編成中に10系らしき
屋根が一両あるのを発見しますた。 と思って良く見たら屋根が色の銀色の非軽量
客車に見えなくもないorz 昭和57年は無理だよ。そのころには10系ハザ、尾久にも水戸にも仙台にもない
北陸と山陰、紀勢、九州にちょっと残ってたくらい。品川に3両あったけど 銀屋根のスハ・オハも元々無いよ
オハ46原型なんかは薄いグレーの鋼板だから・・
細いリブの線も見える
ナハ・ナハフは57年だと福フチ、天カメ、鹿ヤコくらいじゃない? 気になったんで配置表見てみた
金トヤにナハ10が22両も残ってたんだね
57-11で一気に休車となってた
天鉄局はカメじゃなくリウだった 門サキの夜行
今でもなぜ10系を選んだのか、自分の行動に理解ができない
43形に乗るよね普通は いや10系でしょ。北陸や山陰で10系ばっかり選んで乗ってた。43系はどこでも乗れたしな
そういや長崎にナハフ10の初期車いたんだよな。2002と2003。なぜか電暖車。乗りたかった
なんだかんだ言いながら30年近く使ってるんだよね
長崎駅、頭端ホームで隣に客車区あって、さくらやあかつきの14系、ながさきの旧客がとまってたな
風向きによっては潮の香がするいい駅だった。新幹線でもう面影ないけど 10系ハネでGマーク(横軽通過可)付いてたのってどれくらいの割合?
電暖車のいないオハネ12はいなかったんだろうけど、スハネ16の電暖車にいたのかな?
「越前」にオハネフ13が入ってたのは横軽の為に重い車両を嫌ったみたいな話を聞いた事があるけど真偽は不明。 >>658
金フイに10系座席車がいた頃の越前はスハネ16が越前に入っていた
座席車の43系化に伴い横軽の定数超えないように寝台車はオハネフに置き換えた 昨日また見たらやっぱり10系に似ている。
後ろから2両目で窓が他より少し大きい。
屋根の色が全然違う
いったい何なんだ?ウワワワワーン 652-654氏ありがとう。
オハ46見てみた。これぽいね。明るいグレーの
鋼板屋根、屋根下に目立つ雨樋、アルミサッシ化されていて窓が大きく見える。10系に見えてもおかしくない!、と言ってみた。 >>661
>>662言うように良かったらUPプリーズ
時代的に急行だとオハ46の体質改善車(アルミサッシ)が
結構な両数まとまってあるから可能性は高いと思う あ、常磐の普通だっけ・・・それでも43系の可能性が高いな 北オクにいたよね、オハ46
朝の客レは北オク持ちだし >>666
ありがとう、間違いなくオハ46ですね。綺麗なグレーに塗られた屋根
あと特徴で雨樋が鋼板製で細く木製2段の他車よりやや屋根が低く見えること
ただこれはアルミサッシ車じゃないですよ、光の反射で窓下端は光ってるけど
ウインドヘッダーがしっかりあるすぐ下は濃色、木枠窓だと思う。 カンケー無いが、バンダイミニミニレールでナハ10を模した客車にすごく萌えた記憶がある。
まだまだ鉄模はHOが主流で高貴な大人の趣味で、そのなかでなかなかのディテールを誇ってた
ミニミニレールは遠い記憶の宝物である。 >>667 ありがとうござんす。。
いやはや現役の頃知るいい歳した世代なのに
面目ない。自分が旧客ってだけで如何に雑に区分してた 子供向けの入門書にスイス風の側窓配置と紹介されていたが
スイス風を汲み取るのに時間がかかった 幼児向けはしらないが、スイス風というのは、見たことが無い。
低学年向け以上で、ヨーロピアンスタイルや、ヨッロッパ風と書かれていた。
窓配置だけでなく、スハ43系などの切妻に対して裾の絞りがあることや、
全体的なスタイルを指しているようで、
国鉄設計陣か広報の誰かが言い始めた言葉ではないかと、思う。 実際スイス風というのが一番しっくり来るよ
欧州の他の国の車両は上段下降二段窓か上部中折れ窓
スイスのEWI EWII等の軽量構造一段窓車体が最も似てる
https://www.vagonweb.cz/fotogalerie/foto/201101/P1080601.jpg まぁそもそもその設計した人がスイスに視察に行って、パクっ…参考にして作ったのが10系だからな
著作にもそう書いてるし、言い始めたとかじゃなくてそのままなんだよ 無断のパクリじゃなくてちゃんと金を出して買ってる
下降窓そのものがスイス製
同じく1枚下降窓を採用した近鉄8000系電車も同じスイス製の窓パーツを採用してる 下降窓と言えば映画の名作、ひまわり のラストシーンじゃないのー。 そのままぱくったナっちゅう。
今この時代まさかのアップツゥデイトな映画作品 ナハ10系とかの座席車って、旧国の全金300番台みたいなちょっと中途半端な感じ。
新素材多様の内装で軽快で明るく、旧型の古びた味わいがない。
かといって足回りや全体のアコモが洗練されてる感じはない。まあのちの車体設計に大きな影響を与えたし
役割としては記念すべき車両なんだろう。。 ニス塗り白熱灯が好きなんていうのは後年の旧客末期のファン心理で
昭和30年代は明るい内装と蛍光灯が近代日本の象徴だらかねぇ
家屋だって暗いのが当たり前のところに鉄筋コンクリートの団地が
もてはやされたような時代・・・
木のぬくもり、ってのは平成以降の贅沢な感傷なんだと思うよ うーん、電球色の方が侘しくないか
個人の感覚の問題だけど ホテルの部屋、ファミレスやラーメン屋など以外の飲食店
高級旅館は白熱灯色なんだがな 蛍光灯より白熱灯の方が料理がきれいに見えるって聞いたことがあった。 昭和56年熊谷駅で見た秩父鉄道の電車の内装が
ニス塗りなのに軽いショック受けたな。
なんの、常磐線にはまだ旧客のニス塗りがまだ
残ってた。ほとんどはグレーの塗りつぶしで
10系客車と大して変わらんという感じ。 >>685
ルクス・カンデラ・ルーメン・ケルビン・・
そこんとこ詳しくないが、
実際に白熱オレンジ色のほうが光源の伸び?みたいなものが良いらしい
例えるなら、同じ声でも「よく通る声」みたいな感じ
だからかつては道路のトンネル照明がオレンジ色が主流だった >だからかつては道路のトンネル照明がオレンジ色が主流だった
てんかん持ちでは無いが、あれちょっと苦手なんだよな >>686
昭和56年ならまだ各地にニスのローカル電車あったから別に珍しくない
秩父100系は平成元年までいた事が凄いだけ >>688
もうオレンジ色のトンネルは今や少数派じゃね?
よかったね せめて耐候性高張力鋼板で製造すべきだった
国鉄での本格的な初採用が新幹線0系だった 乗用車の前照灯は
一時期は白色全盛だったけど
今は電球色に戻ってきたね。
電球色のほうが後年に出てきたんだっけ? 塗りつぶしというと聞こえが悪いが、効率化のためには意味のあることではある 昭和30年代の車両も鋼板の耐久性の技術が未発達だったのか20年ちょいで廃車されたの多い
今のやつはきちんと手入れすると40年以上は持つ >>698
それもあるし、材質や構造設計とか
どれも発展途上にあったからねえ 地方私鉄に売られてたら良かったけど
買い手がなかったからねえ 最晩年のボロボロになった10系しか知らないから、
あまり好評価ができない。
新製時に乗ってみたかった。印象もよくなっているだろうな。 >>702
尼崎事故の209系みたいに、どうも北陸トンネル火災のイメージが付いちゃって 207系だ、呆けている為すいません、またやんわりとご指摘ありがとうございました 初めて10系寝台に乗ったのは、はやたま連結のやつ
外観、内装ともボロボロで、豆電球の暗い枕元照明でわびしい気持ちになったが、
冷房だけはキンキンに効いていて、その装備の落差に違和感を抱いた印象 >>707
いえ、下段でした
新宮→天王寺の方向だったためか、夏休みの時期だったのに車内はガラガラ
でも今考えるとクーラーが効いてたのは客がほとんど居なかったからだけの理由だったのかもと
あれ、一括で調節できないやつですもんね >>709
下段でしたか
上段はさぞ涼しかったでしょうね(^_^;
スイッチは一括で強・弱・切の3段切換でしたよね >>709
実際の理由はそうだと思われる
でも、今はとっくに忘れられてるが
まだまだ非冷房があたりまえだった時代、
「強冷房=ステータス」だった価値観も存在してたので
そのサービス意図でスイッチを強めてた可能性は
微レ存在してるとも思う 昭和57年能登か越前が早朝の上野駅に到着、オハネフ12のボロボロの
室内を見て、北陸での人生の厳しさを直感した。今年の正月の地震を見ても
当たらずも遠からず。ボロボロの10系客車、急行なのにグリーン車まで
旧型客車、ハザは言わずもがな、北陸急行は石川さゆりの演歌のような
陰気さが漂っていた。九州が田舎で新幹線やブルートレインなど颯爽とした
陽のあたる列車に見慣れた乗りなれたオレには何とも陰気に見えた。
だがそれが味があっていいのだがw 全角数字w
というか取り替え間際でしょ
仕方がないさ
九州人が北陸を馬鹿にするのもどうかと思うしな 昭和57年の九州って旧型客車の急行って全廃されてたっけ? とっくにされてた。というかそのころにあった九州の客車急行自体が少ないんでは
くにさき かいもんくらい?
くにさきは14系だし、かいもんも12系+20系
高千穂はS50に廃止。雲仙西海はそのころに14系化、55.10でなくなってる
ただ夜行の普通ながさきは旧客のままS59まであったね 715氏が貼ってくれた画像ではベッド側面や
裏面が元々この手の赤っぽいベージュなのか
それとも劣化して焼け黄ばんでるのか?
昭和30年代だと新素材への移行期で耐久性に
問題のあったのだと思う。冷房改造時に
ファン周りのデコラは改良品に交換されてるのか真っ白のままだね。但しファンスイッチ周り
が結露のためか真っ赤にサビサビ。
昭和57年の時点での北陸向け10系B寝台の
内装は通路側のデコラ板が同じように真黄黄で
外装のボロさに惨めさを増していた。
当時中学生のオレが本当はいけないんだろうが
上野到着後に車内に乗り込んでそんな観察をしていると、40か50くらいの乗客の旦那が、やれやれとばかりにフーとため息をついて、さて降りるかと面倒くさそうに荷物をまとめて通路を
歩いてくる。当時あさかぜだとまだオハネフ25の200番台が新製後4年で内外ともピカピカ、
まだ室内も新車の匂いが少し残っていた。
それと比べると寝台料金は1000円しか変わらず、内外ボロボロ寝台幅狭い52センチ、乗車時間10時間もなくて起こされるところなど、
この旦那が気の毒に見えた。これが北陸の
厳しさなのかと。 そもそも北陸ってそんなに厳しいか?
というか厳しいって何が? つーかあの当時は寝台使用時以外は喫煙可だからデコラは末期色だ罠 北陸の厳しさといえば水気を含んだずっしり重たい雪
北海道は粉雪が電気系に入って故障
北陸は雪抱き込みで走行不可のイメージ そんなことあったっけ?
北陸、入ってる車両も特に耐寒耐雪してないんだよね
敦賀のあたりや親不知なんかは新線前は苦労してるだろうけど
電化されてからは厳しいことはないんじゃないかな
10系ハザも北陸は最後まで残ってたし 粉雪云々とか走行不能は電車の話だからすれ違い
粉雪で客車トラブルなんてきいたことない 10系じゃなくてもいいんだったら雪で折扉閉まらなくなったことあるよ
日本海だったから24系だったかな? >>725
> 耐寒耐雪してない
この言い回しが凄い気になる
耐寒耐雪化してないとか耐寒耐雪工事してないなら分かるんだが
この感覚はもはやおかしいのかな?
話の流れと無関係なことですまん >>728
それって雪質あまり関係ないような
大量に吹き込めば雪が溜まって閉まらなくもなるわな >>732
大体も何もはっきり分かるけどさ
そういう問題じゃないよ
言葉としておかしいじゃんって話 5chだろうと他だろうとこういう人は同じだと思うけどね ふいんき(変換できない)
↑これみたいなやつじゃないの? 考えてみれば昭和57年当時でも寝台特急北陸は
あったから、寝台車使いたいなら何も陰気な急行越前とかに乗らなくてもいいはずだったが乗降車駅に乗り換えなしで直通で行けるとかの問題だったんだろうか? 寝台料金は三段で変わらず、片や綺麗な14系の広い70センチ寝台、片や
四半世紀ものの古い52センチ寝台。特急料金と急行料金の差も到達時間を考えれば誤差範囲だと思うが。。 下りは到着時間で選ぶ(早朝なら越前)
寝台よりグリーン車乗ったけど(普通座席車なら何回も乗った) 北陸と越前って金沢着そんなかわらなくね?能登だよね、遅かったの
スロ62、乗ってみたかったな。あれで深夜の横軽越えとかしてたんだよな 時刻表1981年10月号より
603 上野2053-金沢559-福井711
3001 上野2117-金沢606
3605 上野2149-金沢651
特急料金は2600円、急行料金は1000円
昭和53年10月の改正で北陸が14系化、昭和57年11月の改正で能登14系化、北陸のB寝台二段化完了が昭和60年9月 北陸ごときに寝台で行くのに特急は贅沢だと思っていました そうは言っても北陸と能登は最後まで残ったしニッチな需要はあったんだろうな
旧客の能登や越前も律儀にスロとオロネ繋いでたし。まぁガラガラだったけど 早朝から動きたいから夜行で行きたい人も座席で十分と思ってる人は多いわけで
夜行バスの発展を見るとな 富山から北アルプスの早朝登山バスは能登からだと間に合わないから越前乗ってた
寝台は2回だけで普段は座席だったけど 上野-富山は寝台使うにはちょっと時間が短い気がしたんだよな
だから急行で十分じゃんって感じだった
金沢まで乗る人はまた違うだろうけど 北陸地方の暗さ、辛気臭さを説明するに、
越前竹人形やはなれ瞽女おりんという文学
映画作品がある。公助扶助の意識が低くて3県の生活保護受給率は全国で最も低い。女性は出産育児をした上で正規職での労働を求められる。打ち捨てられた能登半島地震の被災地域の状況は最近の例。
夜間険しい碓氷峠を越える急行越前などは涙ぐましく、いよいよ辛気臭く陰気であった。
だがそれがいい。愛おしい。
いや、現在進行形の能登半島はホントなんとかしないとな。