【軽量客車】国鉄客車10系【寝台と座席】 [転載禁止]©2ch.net
287の急行きたぐにの事故原因は電気暖房の配線という国鉄内部にあったにもかかわらず力関係で日本食堂従業員の石炭レンジの失火扱いにされたという事なんですかね? 少なくとも90年代までは石炭レンジが原因と言われてた気がするけれど。 >>290
同級生なら楽しそうでしたな。
当時の校舎から、新幹線の入出庫が彼方に見えました。1つ先輩にさまぁ〜ず。
無遅刻で通えたのは、10系見たさ。 >>288
そうだろ
あいつらの票になったかどうかは知らないけど TK高輪落っこちたんで、代わりに田端機関区が
定期券の圏内になる高校に行ったんですよ。宇都宮のゴハチなどは結構写せたけど東海道と比べるとちょっと格落ちだったな。
高校では鉄友はいなかったんだけど、30年遅かったね。付属じゃないんで高3で鉄から足洗わないといけなかったよ。 >>286
1936年産の親父は新橋の高校に通学するのに気が向くと品川→新橋は銀河のデッキに乗ってたそうだ。
時代はともかく、普通の経路の通勤車以外のに乗りたくなるものだな。 >>294
尾久客車区が、自宅からチャリ圏内なので田端機関区含め、出没してました。
伯父が北オク職員で、78年頃構内に入れてくれました。この時、最初で最後の現役スハネ16、カニ(ヤ?)21の機関室、スロ81、そうそうDD13のデッキで記念写真を撮りました。
ターンテーブルの上野方に建設中の詰所があり、殉難事故があったらしく、祭壇が設けられ、見学前に参拝しました。
子供ながら、スハネ16の寝台が狭かったのが強烈な印象でした。 >>296
土曜日の帰りなんかは、品川から田端まで、出たばかりの205系1次車に乗ったりしました。 297 1936+17=1953 =昭和28年頃の銀河、進駐軍上がりのマイネ40など連結してた重厚編成ですね。朝鮮戦争は膠着化して休戦間際。国鉄の各駅や急行の本数はまだ戦前並みに回復はしてない頃
298 田端では宇都宮ゴハチの他EF80などゆっくり撮れたのは幸いでした。しかしこのまま行くと田端尾久のあのへん品川高輪のように10年くらいしたら再開発の餌食になりそうな気が気がします。 80年代前半に高校入学で新たに都内国鉄駅が定期券圏内に入った学生は、僅か1年の違いでターゲットが無情に輪切りされてた世代
1976入学 EF57に間に合う ウラヤマシイ
1980 大窓EF58に間に合う 南武線73系に間に合う
1981 153系低運に間に合う
1982 東北上越新幹線開業での大打撃を辛うじてかわせる 10系寝台の終わり 泣笑
1983 EF58下関集中配置に間に合う 東武線吊り掛け7800系に間に合う
1984 宇都宮EF58に間に合う
1985 つくば博がうれしい 紀勢線EF58に遠征すれば間に合う
1986 宴のあとを味わう
1987 価値観を見直す 田端も尾久も縮小されて、空き地活用でタワーマンションになるかもしれないね
昭和57以前の10系43系が留置されていた尾久を見たかった。 昭和57年まで上野駅の留置線に昼間常磐線鈍行用の旧型客車が止まってましたよ。あれは出発時は田端からEF80が単行で上野まで行って連結後推進運転でホーム入線してたのかな?今となっては不思議な景色。 そういえばあの留置線、ときわの453系とかも留まっていたと思う。 10系客車は鉄板が錆びで浮き出て、塗装も剥がれて痛々しいかったね
あれはサービスではなく、拷問に近い乗車だった
24系25形や50系を早く増備すべきだった 鈍行運用のナハ ナハフはしょうがないが急行料金寝台料金払って乗る
オハネフ12スハネ16の客はちょっと気の毒であった。金沢から上野着の
客などいやーボロかったってニヤニヤしてた。ありゃ二度と乗らんだろう 普通に車掌車で使ってたのにな。事業用ならヤだけでいいのに
品シナもわからん。南シナだろ。JRになってからは東シナになってたけど >>316
スマン、間違えた南シナだな
あの車両、旅客用ではなかったな
14系や24系に繋がれていた なんで山陰・福知山線の旧客10系客車の比率が高いだっけ? 過剰なバネレートの所為で乗り心地があまり良くないってのは置いといて、軽量化が原因とされる劣化(隙間風、外板ベコベコetc)がかなり一般に周知され始めたのっていつ頃?
自分が鉄心つき始めたのが50年代後半だから「10系=35系や43系よりボロボロ」ってのは既に定説だったので >>320
サビだから一概には言えないものの、新系列と比較されやすいところでは昭和40年前半から、全般検査直前の10系客車は寒いと
10系の直江津車(一部長野車)とそれ以外の尾久車(一部高崎車)が連結されていた信越本線列車で話題になっていたらしい
その原因についてはこちらを
http://kokutetu.seesaa.net/article/443744698.html 水戸線にも10系客車走っていた
水戸区の所属だったのだろうか?
35系や43系に混ざって編成を組んでいた 10系を残すしかないのは信越本線碓氷峠経由夜行急行 >>324
荷物車・郵便車を入れて10両だったのが14系化されて8両まで短縮されたのは知っているよな
積車換算でだいぶん余裕が生じたにもかかわらずな >>325
だから
>10系を残すしかない
は間違え >>326
なら、12系・14系・20系・24系が9両以上で碓氷峠を通過した証拠写真を上げようね おそらく14系や12系が碓氷峠で8両の制限を受けたのは、空気ばね台車だったためと思う
非協調の165形や181系もパンクさせられる空気ばね台車であっても8両の制限を受けた
(165系は11両から頑張ってみたものの、9両でも台車抜けを起こし、8両となった経緯がある)
でも、80系電車はそれよりも短い7両だったりする。なぜだ? >>328
ならって
越前から14系能登に変わった直後はマニ50ついて9両。ロザないから抜いただけ
戸狩スキーが4両のときあったよな。その時は臨時妙高と合わせて12系10両
白山を11両にしたのが10系の軽さではあるけど、12系や14系も軽いし、電車が協調して
12両で通過できるようになってからは碓氷峠での客車の重要度は減ったし
越前が10系の頃、能登にも津軽にも鳥海にも10系残ってたし、末期の越前のハザは
10系やめてオハ、オハフになってたしな。残すしかない!とかじゃなくて普通に使ってただけだな >>328
意味が分からない
実際14系に置き換えている以上「10系を残すしかない」はおかしいんだよ
ちゃんと置き換えできた実績があるんだから
8両化必須だとしても実際それやって置き換えてるんだからな >>328
平成になった頃の妙高・戸狩スキーは12系12両だったと思う。1両欠車してたかな。上り回送の3重連を何度か撮影したことあります。 >>328
20系は一応横軽対策の●がついてたよな。
しかし、「北陸」は長岡経由だったか。 >>338
しっ!そういうことにしておいて話を合わせておきなさい。 >>339
改造で重量が増してナ級で収まらなくなったけど
重量記号を書き換えず▲で通したのは
本当の話とされている >>341
なにか勘違いしてないか?
うちは337とは別人だぞ? >>338,>>340
いやん逆向きだったわ。
>>341に謝罪と賠償を要求されてしまった… 乗務員から定時運行出来ないと苦情が多発
これはおかしいと調べたら、種々の改造で重量増加が発覚
形式変更するのも面倒なので、とりあえず▲印をつけて対応した
との記述を何かの本で見た記憶がある >>349
板谷峠の「あけぼの」の話やね
EF71単機で定数余裕のはずなのに空転続出で、「おかしいな?」って調べたら難燃化対策等でも重くなってたってやつね、で、重連にして解決
懐かし板にも板谷峠スレがあるからそこを参照 >>351
10系に▲マーク付けた車両ってあったっけ? 未成に終わったオハシ18は、結局オシ17が燃え萌えになったからなのか? >>355
オハシ「18」って形式自体からして眉唾なネタの様な気が(形式末尾8,9は3軸ボギー車に割り振り)
仮にあったとしても、北陸トンネル列車火災の時点で客車急行の食堂車自体衰退期で電車のビュフェもピークは過ぎてたから、計画が立ち消えになったとしたら43.10より前じゃないかな? そんな車両あるわけないだろ
10系は、20系登場後全て急行運用が確定
長距離運用は食堂車もしくはオシ16が付けられ、それ以外はホーム立ち売りで充当
電車急行のサハシは、同電車が荷物扱いしないため、ホーム立ち売りでの購入が困難となるから作られた >>355-356
オシ17も計画当初は種車の3軸ボギーをそのまま流用するという話なかった?
結局史実の通り新品の台車を採用したけど >>358
実際に設計してみたら、TR73(7.5t)が重すぎて一つ上の「ス」、新設した冷房設備で床下がいっぱいとなり水タンク(厨房天井にあるヤツではないよ)を車内設置する必要が生じたため、
台車を新製することになった
当初はTR50を改造したTR52を採用するつもりだったが、TR50を実地試験した結果(EH10と10系客署による高速度試験)「これでは皿が置けない」ほどよくなく、
ちょうど近鉄が導入しはじめたシュリーレン式を試験したらよかったので、手直しをして採用
この時代バネ/ゴムで乗り心地が良くてバネ上重量が重い車両を支えられるバネ下重量の軽い台車はごく限られるため、これ以外採用できなかったこともある
TR73使用 スシ58(計画のみ)
↓
TR52使用 オシ18(計画のみ)
↓
TR53使用 オシ17
TR46? 「ス」ですね >>359訂正
(EH10と「スハフ42と」10系客「車」による高速度試験) オユ12とナハ10の車体を切り継いで合造車を…と考えたことがあったが、計画はあったんだ。 そもそも客車としては需要がないからやめた(ブルトレを除き客車合造車はほぼ管理局内便) >>367
ブルトレで合造車ってありましたか?
マハニ21とか? 今更で申し訳ありませんが
10系っていわゆる「旧客」扱いになるんでしょうか
モノコック車体で、寝台車、食堂車まで設計思想を統一したシリーズなんですが >>370
何をもって「旧客」っていうの?
10系は旧客じゃないよ。 >>372
スハ43系以前が旧客の概念じゃなかろうか >>369
記号的には合造車ではないよな
電源車はあくまで職用車か荷物車 オロハネはいくらでもあったろ。あれだって合造車だろうに トワイライトはともかく北斗星はブルトレじゃないのか >>374
なに、記号だけでよいのか
オハネフ25 300番台について詳説してもらわないとな >>377
オロハネ25ってそんなに忘れられがちな感じはしないのにな >>377
多くの人は広義で含むみたいだが、俺個人は狭義支持者だからブルトレには含めない。
「狭義」ブルトレ・・・国鉄時代に絵入りトレインマークが制定された寝台特急が対象
・上述の理由により単純に「車体色が青い=ブルトレ」ではない
・銀河は含まれない(急行のため)
・北斗星は狭義のブルトレには含まない
理由
・「JR化後に新設された寝台特急」
・「運行系統そのものもJR化後の新設系統」
・「JR化後に改造された車両」
・「ブルトレ=用務移動列車の単なるグレードアップ列車としてではなく、列車そのものが個室設備や豪華コース料理など車内滞在重視型という新しいコンセプトの列車」 補足
東海道山陽筋のグレードアップ車両(「金帯あさかぜ」など)は「狭義のブルトレ」に含める
・「JR化後に改造された車両だが、運行系統そのものは国鉄時代からの既存ブルトレ」
・「ブルトレ=用務移動列車のままでグレードアップとして投入された車両であるため」 絵入りという定義だと、S54頃までの文字テールマーク時代の寝台特急は含まないの? ブルトレブームを始まりにして、あの頃は20系も含めてる雰囲気だったから、
そうかと思えば14・24系の絵入りマークを指して、あさかぜのグレードアップを含めるという謎定義。
こいつが集めてる模型が定義なんじゃないの? >>381
◯チガイ発見
極論主義者で友達居ないんだろな 昔のブルトレを紹介した動画(映画?)では
ブルトレの起源は20系からとされているものが
多かった気がするんだけどな… 20系
始祖は昭和39年年末頃の「ブルー・トレーン」(今のところ紙媒体が確認できるのは鉄道ファン1965年1月号)
それが「ブルートレーン」となって、「ブルートレイン」となる
10系で青色車が新製出場したのは、おそらく1964年から
ただ、急行列車は荷物車が茶色のままであることが多く、完全ブルートレインとはならないため、やはり20系から生まれたとみるのが妥当 >>388
ありがとう。
こんな当たり前と思っていたことが、世代を経ていくと、分からなくなるのかな。
ネットの発達が阻害しているような気がする。
今では、ネットで何でもわかると思っているようだが、ウィキが充実しているのは、
ネットが発達しだした10数年前程度の出来事に過ぎない。
それ以前のことは、自分で文献で調べればすぐに自明のことなのに、
書いていなくて、驚く。
ネットが発達していない時代は、先輩に話を直接聞く、というのがあった。
たぶん、今の世代はこれを馬鹿にしているかもしれない。
しかし、見聞したことを聞けるので、それこそ、100年近く前まで聴ける。
先輩の先輩の話を聞ける。
それが、伝承というものだと思う。 >>383
他はともかく「国鉄時代の絵入り対象寝台特急がブルトレ」ってのだけは個人定義じゃなくて狭義で存在してるわけ。