【軽量客車】国鉄客車10系【寝台と座席】 [転載禁止]©2ch.net
ネタ切れっぽいので
ナロ10は落成後そのまま青大将やはつかりに配備された訳だけど、コレと対になる3等車のプラン(要はスハ44の後継)は無かったのかな?
それとも、逆にナロ10は最初から特急としては一時しのぎの前提でしかなかったのか?
ナロ10配備前のスロ54は当時特に老朽化とかの車齢でもないし…いまいちよくわからん >>277
いわゆる重量的問題。元々61系のスロ60や43系のスロ54が使われていた。
ところか当時のつばめやはとの組成は1等展望車のマ級と食堂車以外は全て
ス級(スハニ35・スハ44)の重量級車両ばかりで、EF58電気機関車が東京〜大阪全部ならそれでもいいが、
当初東海道線が電化してたのは静岡県辺りまでで、そこから蒸気機関車のC62になるわけだが、
そこで重量的問題が出てくる。
そもそも貨物用D52のボイラーを使って巨大旅客機を作ったのはいいが、超重量級貨物列車用から
旅客用にされたらその分引っ張れる能力も限られる。
だから少しでも軽くしようとなって2等のスロをナロ10にチェンジ。食堂車も43系のマシ35から10系オシ17に。
その後のはつかりにも生かされた。
3等も軽量車に変えちゃった例がかもめ。元々スタートはスハニ35 スハ44 ナロ10 スハフ43の固定クロスで、
竹下のデルタで方向転換していたのをオハニ36 ナハ10 ナロ10 ナハフ10にして方転も解消。 東海道全線電化の時に青大将だろ
なにいってんだ。
で、ナロ10作ったから当時の一番の特急に新製車いれたんだろ >>277
模型的に妄想はするな。
小窓が並んだ軽量客車のハザ。
展望車はどうするかだが。 >>281
裾絞りはどうするか?とか
スハ44の様な小窓ピッチで当時の軽量構造を維持できるのか?とか
想像するの楽しいよね 南シナの2両は、高校時代に毎日のように見ていた。
学校帰りなんかにホームでも見かけたが、65よりも58牽引の方が似合ってる。
当時、毎朝、東京7:44発 浜松行きに乗って、品川まで通っていたよ。
田町を過ぎて東機の庫を覗いて、減速する頃見えてくる。
帰りは、京浜東北線の高架区間から、ナシ20を見ていた。 昭和50・51年辺りに東海道線藤沢駅留置線に大量の10系(ハ、ハフ、ハネ)客車が留置されてたが、最終的には大船工場で解体廃車に成ったのか? 283 浜松行きは客車ですか 電車ですか?
客車なら昭和20年代後半のお生まれかな?
製造20年位しか営業では使われなかった10系
客車。南シナ 2021が遥かあとJR時代の1994年まで事業用で使われてたのは客乗せてなければ空中分解しても大丈夫という事だったんでしょうねえ。 >>285
静ママの111系だったと思います。
東京駅の売店でコーヒーを買って、品川までクロスシートを愉しむ変な高校生でした。
東機にEF58 88・124なんかがいた頃です。ヨンサントオ産です。 10系と20系は軽量客車初期ということもあり、窓構造が12系以後(以降じゃないよ)と異なる
この辺りは高砂工場に勤務していた人のブログを見ればよい
さらに10系は暖房装置の配線ミスと構造的欠陥で2度も車両火災を引き起こしている
しかも昭和46年〜昭和47年に集中して
1度目 急行雲仙のナハ10 昭和46年10月
2度目 急行きたぐに(北陸トンネル火災事件)のオシ17 昭和47年11月
なお、急行阿蘇の郵便車が昭和47年4月だけどこれはスユ43
これで抜本的な防火工事に多額の費用が必要な10系客車は可能な限り速やかに廃車することが求められ、
スハ32系やオハ35系(の1945年以前製)客車もほぼ寿命(40年程度)、
さらに赤字が多くなり、
スト権ストでの責任相殺が必要となったことから、
必要最小限度の要求を満たした迷車50系客車で置き換えられた >>287
その焼失スユ43の代替がスユ15 2001。
オユ12+TR217で、なんちゃって模型化。(注)少し離れて見よ。 285氏 ほぼ同年代ですな。自分は頭悪くてTkだい高輪落っこちたんだけど受かってたら285氏と同じ事してたかもなあ 笑
東機 南シナ チタのある品川ベースと言うのは趣味的には最強かもなあ。ただ品川のホームでやんちゃして駅員に捕まったりしたらヤバいことになるかもなあ。58 68 88 124 129 148 の時代、最末期の93 160の時代とはまた一味違います〜 287の急行きたぐにの事故原因は電気暖房の配線という国鉄内部にあったにもかかわらず力関係で日本食堂従業員の石炭レンジの失火扱いにされたという事なんですかね? 少なくとも90年代までは石炭レンジが原因と言われてた気がするけれど。 >>290
同級生なら楽しそうでしたな。
当時の校舎から、新幹線の入出庫が彼方に見えました。1つ先輩にさまぁ〜ず。
無遅刻で通えたのは、10系見たさ。 >>288
そうだろ
あいつらの票になったかどうかは知らないけど TK高輪落っこちたんで、代わりに田端機関区が
定期券の圏内になる高校に行ったんですよ。宇都宮のゴハチなどは結構写せたけど東海道と比べるとちょっと格落ちだったな。
高校では鉄友はいなかったんだけど、30年遅かったね。付属じゃないんで高3で鉄から足洗わないといけなかったよ。 >>286
1936年産の親父は新橋の高校に通学するのに気が向くと品川→新橋は銀河のデッキに乗ってたそうだ。
時代はともかく、普通の経路の通勤車以外のに乗りたくなるものだな。 >>294
尾久客車区が、自宅からチャリ圏内なので田端機関区含め、出没してました。
伯父が北オク職員で、78年頃構内に入れてくれました。この時、最初で最後の現役スハネ16、カニ(ヤ?)21の機関室、スロ81、そうそうDD13のデッキで記念写真を撮りました。
ターンテーブルの上野方に建設中の詰所があり、殉難事故があったらしく、祭壇が設けられ、見学前に参拝しました。
子供ながら、スハネ16の寝台が狭かったのが強烈な印象でした。 >>296
土曜日の帰りなんかは、品川から田端まで、出たばかりの205系1次車に乗ったりしました。 297 1936+17=1953 =昭和28年頃の銀河、進駐軍上がりのマイネ40など連結してた重厚編成ですね。朝鮮戦争は膠着化して休戦間際。国鉄の各駅や急行の本数はまだ戦前並みに回復はしてない頃
298 田端では宇都宮ゴハチの他EF80などゆっくり撮れたのは幸いでした。しかしこのまま行くと田端尾久のあのへん品川高輪のように10年くらいしたら再開発の餌食になりそうな気が気がします。 80年代前半に高校入学で新たに都内国鉄駅が定期券圏内に入った学生は、僅か1年の違いでターゲットが無情に輪切りされてた世代
1976入学 EF57に間に合う ウラヤマシイ
1980 大窓EF58に間に合う 南武線73系に間に合う
1981 153系低運に間に合う
1982 東北上越新幹線開業での大打撃を辛うじてかわせる 10系寝台の終わり 泣笑
1983 EF58下関集中配置に間に合う 東武線吊り掛け7800系に間に合う
1984 宇都宮EF58に間に合う
1985 つくば博がうれしい 紀勢線EF58に遠征すれば間に合う
1986 宴のあとを味わう
1987 価値観を見直す 田端も尾久も縮小されて、空き地活用でタワーマンションになるかもしれないね
昭和57以前の10系43系が留置されていた尾久を見たかった。 昭和57年まで上野駅の留置線に昼間常磐線鈍行用の旧型客車が止まってましたよ。あれは出発時は田端からEF80が単行で上野まで行って連結後推進運転でホーム入線してたのかな?今となっては不思議な景色。 そういえばあの留置線、ときわの453系とかも留まっていたと思う。 10系客車は鉄板が錆びで浮き出て、塗装も剥がれて痛々しいかったね
あれはサービスではなく、拷問に近い乗車だった
24系25形や50系を早く増備すべきだった 鈍行運用のナハ ナハフはしょうがないが急行料金寝台料金払って乗る
オハネフ12スハネ16の客はちょっと気の毒であった。金沢から上野着の
客などいやーボロかったってニヤニヤしてた。ありゃ二度と乗らんだろう 普通に車掌車で使ってたのにな。事業用ならヤだけでいいのに
品シナもわからん。南シナだろ。JRになってからは東シナになってたけど >>316
スマン、間違えた南シナだな
あの車両、旅客用ではなかったな
14系や24系に繋がれていた なんで山陰・福知山線の旧客10系客車の比率が高いだっけ? 過剰なバネレートの所為で乗り心地があまり良くないってのは置いといて、軽量化が原因とされる劣化(隙間風、外板ベコベコetc)がかなり一般に周知され始めたのっていつ頃?
自分が鉄心つき始めたのが50年代後半だから「10系=35系や43系よりボロボロ」ってのは既に定説だったので >>320
サビだから一概には言えないものの、新系列と比較されやすいところでは昭和40年前半から、全般検査直前の10系客車は寒いと
10系の直江津車(一部長野車)とそれ以外の尾久車(一部高崎車)が連結されていた信越本線列車で話題になっていたらしい
その原因についてはこちらを
http://kokutetu.seesaa.net/article/443744698.html 水戸線にも10系客車走っていた
水戸区の所属だったのだろうか?
35系や43系に混ざって編成を組んでいた 10系を残すしかないのは信越本線碓氷峠経由夜行急行 >>324
荷物車・郵便車を入れて10両だったのが14系化されて8両まで短縮されたのは知っているよな
積車換算でだいぶん余裕が生じたにもかかわらずな >>325
だから
>10系を残すしかない
は間違え >>326
なら、12系・14系・20系・24系が9両以上で碓氷峠を通過した証拠写真を上げようね おそらく14系や12系が碓氷峠で8両の制限を受けたのは、空気ばね台車だったためと思う
非協調の165形や181系もパンクさせられる空気ばね台車であっても8両の制限を受けた
(165系は11両から頑張ってみたものの、9両でも台車抜けを起こし、8両となった経緯がある)
でも、80系電車はそれよりも短い7両だったりする。なぜだ? >>328
ならって
越前から14系能登に変わった直後はマニ50ついて9両。ロザないから抜いただけ
戸狩スキーが4両のときあったよな。その時は臨時妙高と合わせて12系10両
白山を11両にしたのが10系の軽さではあるけど、12系や14系も軽いし、電車が協調して
12両で通過できるようになってからは碓氷峠での客車の重要度は減ったし
越前が10系の頃、能登にも津軽にも鳥海にも10系残ってたし、末期の越前のハザは
10系やめてオハ、オハフになってたしな。残すしかない!とかじゃなくて普通に使ってただけだな >>328
意味が分からない
実際14系に置き換えている以上「10系を残すしかない」はおかしいんだよ
ちゃんと置き換えできた実績があるんだから
8両化必須だとしても実際それやって置き換えてるんだからな >>328
平成になった頃の妙高・戸狩スキーは12系12両だったと思う。1両欠車してたかな。上り回送の3重連を何度か撮影したことあります。 >>328
20系は一応横軽対策の●がついてたよな。
しかし、「北陸」は長岡経由だったか。 >>338
しっ!そういうことにしておいて話を合わせておきなさい。 >>339
改造で重量が増してナ級で収まらなくなったけど
重量記号を書き換えず▲で通したのは
本当の話とされている >>341
なにか勘違いしてないか?
うちは337とは別人だぞ? >>338,>>340
いやん逆向きだったわ。
>>341に謝罪と賠償を要求されてしまった… 乗務員から定時運行出来ないと苦情が多発
これはおかしいと調べたら、種々の改造で重量増加が発覚
形式変更するのも面倒なので、とりあえず▲印をつけて対応した
との記述を何かの本で見た記憶がある >>349
板谷峠の「あけぼの」の話やね
EF71単機で定数余裕のはずなのに空転続出で、「おかしいな?」って調べたら難燃化対策等でも重くなってたってやつね、で、重連にして解決
懐かし板にも板谷峠スレがあるからそこを参照 >>351
10系に▲マーク付けた車両ってあったっけ? 未成に終わったオハシ18は、結局オシ17が燃え萌えになったからなのか? >>355
オハシ「18」って形式自体からして眉唾なネタの様な気が(形式末尾8,9は3軸ボギー車に割り振り)
仮にあったとしても、北陸トンネル列車火災の時点で客車急行の食堂車自体衰退期で電車のビュフェもピークは過ぎてたから、計画が立ち消えになったとしたら43.10より前じゃないかな? そんな車両あるわけないだろ
10系は、20系登場後全て急行運用が確定
長距離運用は食堂車もしくはオシ16が付けられ、それ以外はホーム立ち売りで充当
電車急行のサハシは、同電車が荷物扱いしないため、ホーム立ち売りでの購入が困難となるから作られた >>355-356
オシ17も計画当初は種車の3軸ボギーをそのまま流用するという話なかった?
結局史実の通り新品の台車を採用したけど >>358
実際に設計してみたら、TR73(7.5t)が重すぎて一つ上の「ス」、新設した冷房設備で床下がいっぱいとなり水タンク(厨房天井にあるヤツではないよ)を車内設置する必要が生じたため、
台車を新製することになった
当初はTR50を改造したTR52を採用するつもりだったが、TR50を実地試験した結果(EH10と10系客署による高速度試験)「これでは皿が置けない」ほどよくなく、
ちょうど近鉄が導入しはじめたシュリーレン式を試験したらよかったので、手直しをして採用
この時代バネ/ゴムで乗り心地が良くてバネ上重量が重い車両を支えられるバネ下重量の軽い台車はごく限られるため、これ以外採用できなかったこともある
TR73使用 スシ58(計画のみ)
↓
TR52使用 オシ18(計画のみ)
↓
TR53使用 オシ17
TR46? 「ス」ですね >>359訂正
(EH10と「スハフ42と」10系客「車」による高速度試験) オユ12とナハ10の車体を切り継いで合造車を…と考えたことがあったが、計画はあったんだ。 そもそも客車としては需要がないからやめた(ブルトレを除き客車合造車はほぼ管理局内便) >>367
ブルトレで合造車ってありましたか?
マハニ21とか? 今更で申し訳ありませんが
10系っていわゆる「旧客」扱いになるんでしょうか
モノコック車体で、寝台車、食堂車まで設計思想を統一したシリーズなんですが >>370
何をもって「旧客」っていうの?
10系は旧客じゃないよ。 >>372
スハ43系以前が旧客の概念じゃなかろうか >>369
記号的には合造車ではないよな
電源車はあくまで職用車か荷物車 オロハネはいくらでもあったろ。あれだって合造車だろうに トワイライトはともかく北斗星はブルトレじゃないのか >>374
なに、記号だけでよいのか
オハネフ25 300番台について詳説してもらわないとな >>377
オロハネ25ってそんなに忘れられがちな感じはしないのにな >>377
多くの人は広義で含むみたいだが、俺個人は狭義支持者だからブルトレには含めない。
「狭義」ブルトレ・・・国鉄時代に絵入りトレインマークが制定された寝台特急が対象
・上述の理由により単純に「車体色が青い=ブルトレ」ではない
・銀河は含まれない(急行のため)
・北斗星は狭義のブルトレには含まない
理由
・「JR化後に新設された寝台特急」
・「運行系統そのものもJR化後の新設系統」
・「JR化後に改造された車両」
・「ブルトレ=用務移動列車の単なるグレードアップ列車としてではなく、列車そのものが個室設備や豪華コース料理など車内滞在重視型という新しいコンセプトの列車」 補足
東海道山陽筋のグレードアップ車両(「金帯あさかぜ」など)は「狭義のブルトレ」に含める
・「JR化後に改造された車両だが、運行系統そのものは国鉄時代からの既存ブルトレ」
・「ブルトレ=用務移動列車のままでグレードアップとして投入された車両であるため」 絵入りという定義だと、S54頃までの文字テールマーク時代の寝台特急は含まないの? ブルトレブームを始まりにして、あの頃は20系も含めてる雰囲気だったから、
そうかと思えば14・24系の絵入りマークを指して、あさかぜのグレードアップを含めるという謎定義。
こいつが集めてる模型が定義なんじゃないの? >>381
◯チガイ発見
極論主義者で友達居ないんだろな 昔のブルトレを紹介した動画(映画?)では
ブルトレの起源は20系からとされているものが
多かった気がするんだけどな… 20系
始祖は昭和39年年末頃の「ブルー・トレーン」(今のところ紙媒体が確認できるのは鉄道ファン1965年1月号)
それが「ブルートレーン」となって、「ブルートレイン」となる
10系で青色車が新製出場したのは、おそらく1964年から
ただ、急行列車は荷物車が茶色のままであることが多く、完全ブルートレインとはならないため、やはり20系から生まれたとみるのが妥当 >>388
ありがとう。
こんな当たり前と思っていたことが、世代を経ていくと、分からなくなるのかな。
ネットの発達が阻害しているような気がする。
今では、ネットで何でもわかると思っているようだが、ウィキが充実しているのは、
ネットが発達しだした10数年前程度の出来事に過ぎない。
それ以前のことは、自分で文献で調べればすぐに自明のことなのに、
書いていなくて、驚く。
ネットが発達していない時代は、先輩に話を直接聞く、というのがあった。
たぶん、今の世代はこれを馬鹿にしているかもしれない。
しかし、見聞したことを聞けるので、それこそ、100年近く前まで聴ける。
先輩の先輩の話を聞ける。
それが、伝承というものだと思う。 >>383
他はともかく「国鉄時代の絵入り対象寝台特急がブルトレ」ってのだけは個人定義じゃなくて狭義で存在してるわけ。 民営化してなかったら狭義広義関係なく定義そのものがアイマイなままだが、
民営化したから、「民営化時点、あるいは民営化以降のブルトレの定義」ってのは明確に存在してる。
広義にはもちろん北斗星は含むだろう。 >>384以下
あんたらは「どこからがブルトレか」って定義の話をしてるんだろ?
俺は「どこまでがブルトレか」って話をしてる。
噛み合わないのは当然なのに即暴言とか落ち着けよ だいいち>>377は「単に北斗星がブルトレかどうか?」ってしか聞いてねえじゃん。
俺は「どの列車(車両)までをブルトレに含むか」って視点で「狭義では含まない」って話をした。
あんたらは、20系がどうだのとか「どの列車(車両)からブルトレか」って視点で話をしてる。
なにもおかしい話はしていない。あんたらも、俺も、どっちも。
単に視点が後者の人が続いて、前者の人が俺単独という状態になってるだけ。 ブルトレの最初は20系だよ。それは間違いない。
「国鉄時代に絵入りマークが制定された」+「寝台特急」=「狭義のブルトレ」
↑これ、調べたら確かにそういう分類あるから。
俺が勝手に定義付けしたんじゃなくて、俺自体がどっかで見た受け売りだから。 なんで「北斗星はブルトレか」ってだけで、
「ブルトレはいつまでか」って見解を示した俺に対して、なんで「ブルトレはいつからか」って内容で反論するんだよ。
おかしいだろ。
話題がまったく正反対なんだから、噛み合うはずがない。 ごめん
10系で最初に青色車が新製出場したのは、1962年(昭和37年)のオハネ17 600番台・ナハネフ11 600番台
もちろんこれは観光業者の利用債で作られた観光団体専用車両の600番台
一般車の10系で青色車が新製出場したのは、やはり1964年から >>397
ヨシヨシ、気が済んだかな???
あんたのカキコほとんど見てないけど、勝手にそう思っていればいいよ…みんなで意見しても聞く耳持たないだろうからさ。
あんたのハナシハ多分誰も同意しないと思うな。 >>397
>>399
スレタイも読めないほど老眼が悪化したらしいが、ここは10系スレなんで、とっとと回線切ってくれる? >>401
乗っても天井に頭がつかえるのは20系ハネと同じだし、良いことなかったぞ。 求めるのは快適性ではなくて、昭和30年代に
作られた実車に乗る経験することに意味があるんだよな。それは分かる。 高さなら14系や24系の3段と変わらんしな
しかし10系ハネの真髄は幅よりもあの背もたれ兼用の中段とペラペラの上段 >>404
> 高さなら14系や24系の3段と変わらんしな
10系ハネの方が天井低くないか? >>405
10系ハネのベンチレーターで低くなった分を20系は室内高に使ってたけど、14、24系って
防振防音で室内高が10系ハネとそんな変わらなくなった覚えがあるんだけど >>407
3段仕様は天井高かったよ
それを2段化したから
上段頭上が妙に広かった
2段仕様はダクトを天井に
通したからそのぶん低くなった オハネ12の洗面台に固形石鹸が設置されていたので、どういう訳か感動した。 >>409
急行形電車、気動車のロザシは設備されていた記憶。
昭和56年頃が境と思うのだが、トイレットペーパーが、急行にないこともあった。
昭和は、駅、列車のトイレには便所紙がなかったが、特急・新幹線だけ設備していたので、ありがたかった。 せっかく軽く造ったんだから
台車だけは、乗りゴゴチの良い、TR47にすれば良かったのに
ナハ10とスハ43が来たら
乗るのは間違い無くスハ43 それじゃ碓氷峠越えるの大変なんよ。定数いっぱいの急行がねぇ。
末期の高千穂・桜島でも14両だっけか。 10系は晩年の外板の傷みがひどかった。
短距離なら61系に好んで乗車した。
座席定員が多いし、背もたれが板張りで清潔に感じたのが理由だ。
ニス塗りのほうが落ちついた気分になれたのも大きい。 61系は線路状態によるね。東北筋は割と揺れないからOK
九州は駄目wガタガタでなぁ、43系ベスト、35系マストだった 東北でもTR11、すげー揺れてた。特に最後尾。速度だすとダメだな
蛇起こす最たるもの
>>411
間違いなく10系乗ってた。大好きだった。いまでもTR47もTR50も乗れるけど、10系は
乗れないからな。間違ってなかった。まぁどっちにしろ当時とは違うな。軌道がいいし、速度
だしてないからどっちも乗り心地は悪くない
ちなみに車体よりも軽量化の効果が大きかったからな、TR50。これがなければナ級には
なってない >>413
61系が好きな人もいるんだな。
直角背ずり、しかもモケットなしもあり、シートピッチが狭いのを、座席定員が多いと思えるのは、
物は考えようだな。
乗る距離や、通勤時の乗車駅などにもよるのだろうな。
>>411
スハネ16があるじゃないか。 10系は間もなくヤバい、ということで59-2改正直前に
大阪の親戚宅にしばらく世話になって福知山・山陰通いした大学時代の
冬休み思い出す。12月から2月まで何度も出掛けたが
59-1豪雪で山陰は凄いことになっていたな。
大阪駅まで屋根に雪を載せて来る状態。 福知山区のナハ10は最高にボロかったな。
半数は59-2で退役、60-3全廃止決まってたから、57年頃からまともに清掃すらしてない。 ああ、あったね。
廃車が分かってろくに手入れしてない車が。
ひどいもんだよ キハ10〜17系20系にしろ、55系
旧客、10系、20系も、昭和50年代半ばに既にろくに手入れされていなかったな。
国鉄再建法のからみもあっただろうし、今更メンテするのも無駄というのがアリアリだった。
洗面所で、水が出た試しがない。 山陰あたりの旧客で現役末期はデッキの乗降扉の窓にガラスがはまって無い車両があったとは、ネットの記事でみたけど、今の感覚だと考えられないやね >>421
あれね。開けっ放しにしてて、トンネル出入りの風圧とか
海沿いの強風なんかでバーンとなって割れるから直さんという。 南シナにいた、オハネシユニ17 2901〜2919が、あまり有効に使われなかったのは残念だなあ。
観光団体専用列車でデビューしたけど、ビュフェが狭かったのが災いして、
隣の荷物室を解放したこともあった。
その煽りで、郵袋を途中で仕立てた臨時列車に積み替えて、郵便室に荷物を積んで、荷物室でビュフェ営業だなんてこともあったなあ。
後に3両が北海道用に、オロハネシユニ10 500番台に改造されて、名寄本線や標津線などの夜行で走って、
昭和53,10で引退するかと思いきや、SLやまぐち号の展望車に抜擢され改造。
スイシユニテ11として、現在も活躍しているのは、皆さんもご存知の通りである。 オハネシユニ
オロハネシユニ
スイシユニテ
なんです?それ。 「やまぐち号」で活躍したスイシユニテ11だが、寄る年波には勝てず、
謝礼も63年。下降窓からの雨水の浸水がひどく、側板の腐食がひどく、
経年劣化でとうとう3月改正で引退となる曹達。
しかし、新山口での事業用車に転用されると、関係筋から聞いている。
スヤ12と大人しい車番になるかと思いきや、なんと、カヤテ13になるらしい。 軽量化や構造の簡素化が仇になって老朽化が予想外の速さで進行したと、いかにも構造的欠陥が原因のように言われるが
そもそも劣化の要因は、保守をしっかりやってこなかった現場の問題じゃねえのか >>432
10系の場合はアルミサッシとサッシ取り付け部のノウハウが蓄積していない時の設計・製造ゆえに、
そのツケが経年劣化で明白に出てしまった
あと、10系ハネの通路側窓をサービス優先のために落とし窓を採用
しかし、巻き上げられた粉塵砂草落ち葉が入り込むのは想定しておらず、それらで水抜き穴・管が詰まって本来はそこまで達しないところまで水が溜まって他へ漏れ大腐食 阪急の下降窓は支障なかったところをみると、保守力の差ではないのか? 阪急なんか重戦車並みの重量だからできること
極度に軽量化した10系客車とは全く違う
53.10
向日町581・583系 九州3運用・北陸3運用→九州3運用・北陸1運用
うち必要なのは秋田20系4運用を置き換える分
↓
向日町24(25) 明星4運用
↓
青森24(24) 日本海2運用
尾久14(14) 北陸2運用(青森へ移管)
↓
尾久14(14)のゆうづる2運用を青森へ移管し、
尾久14(14) 合計4運用を秋田へ移動
↓
秋田20 あけぼの4運用減
津軽・おがの寝台を20系に集約移転し、2運用
鳥海(天の川へ寝台客集約)
能登 20系化2運用
10系は北海道と普通併結のみに
>>435
> 阪急なんか重戦車並みの重量だからできること
阪急1010系はもちろん2000系以降は超軽量級鋼製車体でっせ ナハネ10 自重27.7〜28.2t
阪急1010系のT車自重は? 阪急5000系附随車の自重が32t。クーラーの重量も入れてだろうが。なお電動車は37.2t。1010系附随車もこれ位か? 最近の軽量ステンレス車並みの重量だな
蒸気機関車牽引列車が多くあって牽引定数を少しでも減らした結果ともいえる >>438
阪急形式図集より引用 要目は新製時の非冷房時代
2000系トレーラー
片連結電気制御客車
形式称号2050 車番2050、2052、2054、2056、2058、2060 自重26.1トン
両連結電気付随客車
形式称号2050 車番2051、2057 自重25.9トン
1010系トレーラーで最も軽いのは汽車エコノミカル台車を履いた
両連結電気付随客車 車番1056 自重23.5トン 試作ナハ10が23.01t
10系は高砂やらの中の人のお話が先行してるからな。下降窓も157や急行サロで大袈裟に
伝わってる。157も10系ハネもカネかけて保守しても使い道ないから早期廃車になっただけで
最後まで残った10系ハネは1956年製を1986年まで使ってるし、ハザは控車とはいえ
1958年製を1995年まで使ってる。42系の方が長生き〜ってのは体質改善入ってるしな
まぁ腐って保守が面倒だったってのは事実で、開放ドアの客車は減少傾向だったから
カネかけられずに廃車が進んだのも事実だろうけど
保守の差というより使い道とカネのかけ方なんだろ 夜行長崎に蒸気暖房の時期に乗るときは(というか行ったのは冬か春先ばかり)
・なるべく機関車に近い前寄り
・10系は避ける(隙間風で寒い)、結構当たっていた記憶
・車両中央寄りが良い
・ただし効きが悪い車両もあるから注意
こんな感じでした Youtubeにて10年くらい前のインドの寝台車
の動画見て、最近のロシアのピカピカ綺麗な
寝台車と比較して、レール方向と枕木方向に
寝台が配置、3段寝台でお客がぎっしり、
動画では古くて汚い客車というニュアンスで
紹介。コロナの今って事もありこれはイヤだな
と感じる。そこでふと、これって昔の10系寝台
だよな、オレらは昭和57年上野でのこういうのを懐かしがって、模型も手に入れようとするのかな、と考え、気づかぬうちに自分はカタギの感覚になってたんだなと思った。 インドの寝台車は連結器を含まない車体サイズがL21337×W3250×H4250(mm) 客室床高さ1313mm
ナハネ10がL20000×W2950×H4090(mm) 客室床高さ1198mm
通路側寝台付全3段(インド)が 1810*635(mm) 8区画(通路側も含めた1区画9寝台)、乗降口2、トイレ4、トイレとは別の洗面台2、車掌補の寝台はあるけど乗降口上部(車掌補室なし)
ナハネ10の寝台が 1900*520(mm) 9区画(通路側も含めた1区画6寝台)、乗降口1、トイレ2、トイレとは別の洗面台2、車掌補室あり >>442
昭和53〜58年頃よく「ながさき」に乗っていたが、ナハ10系には当たらかった。
スハ43系ばかりだった。
ながさきはどこの配置だったか。門モコ?付属は門ハイ? 長崎は長崎だろ。門サキ。末期は10系ハザ3両配置あるな 気動車客車編成表83によると、
4/1、1420レ、佐世保/長崎(大村線経由)→門司港行
ED+スハフ42*+スハ43*+ナハフ10+オハ46+オハ47+ナハフ11+オハネフ12+オユ10*+マニ35*
客車は*が門モシ、他が門サキ、ですね
ただし、同日下りは10系のハザなし、のようです
どちらかといえば、佐世保編成の方がすいていました
早岐で、佐世保編成は乗車のまま入れ換えのようなことをしていましたが、半分寝ていてはっきりと覚えていないです ハザって言葉勘違いしてない?
ハザはハの”座席指定車”って意味の部内用語
普通座席車って意味じゃないよ >>450
申し訳ございません
訂正いたします:10系の座席車なし、のようです 用語的にどっちも有りなんだよね。
特急や急行運用してる部署では自由がハザ、指定がハザシと分けて呼んでいた所もある。
ただし乗客案内もやる部署じゃハザ統一。理由は単純でマルスに表示する文字は指定車がハザ 寝台車で乗り心地がよかったのはやっぱりスハネ16だったの? 確かにTR47は軟かい揺れ、と言いたいんだけど
車体のきしみは同じだよ。両側にオハネやオハネフ付いたら
連結器緩衝器のガタは所詮10系だしな。 台車がしめる割合より車体剛性なんだよな・・・
TR23でスロ54がロを名乗れるのも車体が決め手で
定員乗車以上ならないからバネを普通車より柔らかいのに替えてる
オハニ36が10系の台車並なのにさほどガシャつかないのも車体の重さ そしたらクソ重い客車にTR47を履かせたNIOEは最強最良の乗り心地だったのかな? >>465
乗った人の話だと欧州で使われてる台車よりいいっていう意見もあったが
線路状態からトータルな揺れは西欧先進国のほうが良いわな。
あっちはコイルばねの客車が70年代で160-200キロ普通だから。
東欧に臨時乗り入れの時は酷い乗り心地という話も結構本で読んだ。
NIOEのTR47は重すぎる車体用にバネ強化だったな。
スロ53・54の反対のやり方。 車体重量だけ見たら209系とほぼ同じくらいの軽さだったとか凄すぎ
結局209系もそうだが短命に終わったな >>465
あれは車体も長いからな。機関車と控車以外はバッファだし。良かったんだろうね
でも欧州で客車に乗ると標準軌だからもっといいんだけど
あとTR47は軸距も長いんだよな。TR50から短くしたからそれもあるけど、10系ハザはやっぱり
軽すぎなんだよね。積車にバネを合わせると空車で酷いことになる。20系はエアサスだから
それを吸収できるんだけど。軽バンみたいなもんだな
10系ハネやスロ62でTR50系列が問題ないのはそういうこと 子供の頃の本じゃ、
欧州風新型客車、軽量、スマート、カッコいい
って存在だったのに、実態はこうとはなあ。 宇奈月のトロッコ列車?が連環連結&バッファだったな。 >軽バンみたいなもんだな
もの凄くわかりやすい例えでスッと腑に落ちた
ありがとう 欧州の軽量客車初期のスイスEHWのI/IIも
他国の客車より乗り心地は劣ってたよ。
線路状態が良いからマトモだっただけ。 ナハネ11は重量厳しくて電暖つけられなかったって話だが
同じ理由で電暖付けるとヤバいと言われたオハネ17が
冷房化でスハネ16になった後はTR47のまま電暖化になった。
(つまり冷房+電暖で2ランクも重くならない)
ということはオハネ12なら電暖付ける余裕あったんじゃ? それの長編成で牽引出来る機関車が有るかと言う問題は オハネ12に電暖非装備って単に牽引定数問題だけでしょ。
実重量より計算上の数値で先に編成決めなきゃいけない。
輸送力逼迫時代は見かけの数字だけでも少なく見積もって
編成長くする必要があったからね。 オハネ17 冷房なし
ノーマル 電暖なし・だいたいTR23→TR47 自重33.7t
電暖付き 電暖あり・TR23 自重32.2t
スハネ16 冷房あり
電暖なし 電暖なし・TR47 自重35.85t
電暖付き 電暖あり・TR47 自重37.9t オハネフ12と勘違いじゃね
ややこしすぎなんだよね
オハネ12の電暖無しが車重って始めて聞いた。ウィキか
ナハネフ10とナハネ11に車重の差ある?
ナハネフ10にしたときに同時に電暖も付けたりしてるから、わざわざナハネ11を電暖つけるためだけに捻出せずにオハネ17の新製時に電暖載っけたのかと
足りない分は台車が面倒だけど等級かわらないオハネ17の方を改造した方が良かっただろうし >>480
俺もそうだと思う。ナハネフ10は定員揃えで、冷房載せてオハネフ12になるなら
電暖載ってても良いって事でしょう。 オハネ17も台車換えて換算変わるなら
載せてしまえもわかる。
換算3.5〜4.5の差はでかいからね。編成組めるかどうかの騒ぎになる。 そういえば、オハ46が電暖でスハ43に戻った話は聞かないな。 ギリギリ収まってたのかな、オ級で。
スハ42→軽量化オハ36→電暖付けたらスハ40と
オーバーしたやつはちゃんと申告してるようだし 新潟の守門村の山奥にいまだに10系寝台車があるんだね
泊まれるのかな? >>487
マジで?
管理者いないんだ?
朽ち果てていくだけ? オハネフ12は緩急車だからか
最初期の軽量車体だったのに最末期まで持った(持たせた?)よね
妻面にシルがあったし車体だけならスハネ16の方がしっかりしていたろうに 車体補強工事は特にやらなかったな
重くなって折角の軽量構造がスポイルされてしまいそうだが 全てが10系客車という編成の列車ってあったのかなかったのか
意図してそう編成は列車はなさそうだが、車両のやり繰りの都合で偶然そうなったってのはありそう 北斗、北星、新星はそうだよな
銀河とか彗星もありそうだけど んーでも
寝台車、グリーン車、食堂車、普通車が全て10系で揃った列車ないだろw 荷物車以外なら高千穂&霧島が10系ばっかりかつオシ17連結
1968.10〜1972.3
1971.10〜1972.3は全て10系
オユ11 (下りは東京→熊本。上りは鳥栖→東京) 南東郵2 ↓
ナハフ11
オロ11
オシ17
ナハ11 「霧島」
ナハ11
ナハ11
ナハフ11 ↑
ナハフ11 ↓
オロ11
ナハ11 「高千穂」
ナハ11
ナハ11
ナハフ11 ↑
オシは繋がっていないけど、10系寝台車がつながっているマニ以外全て10系は日南下り3号・上り1号(1972.3〜1974.4) >>497
10系に乗ったことが無い身としては、一度は乗りたかった編成ですね… >>499
いやあ、貴重な写真ですな。
車体が反ったりしているのがよくわかる点でも貴重かも。 >>491
S30年代後半からの「観光団体専用列車」
ナハネフ11・オハネ17 600番台のみの列車
その流れを汲む季節「十和田」
オール10系寝台車による12両編成
偶然そうなった例としては
名古屋−紀勢本線−天王寺の夜行普通
名古屋駅での実見になるが、4両全てナハ10・ナハフ10だったことがあった
>>495
47.3〜50.3の銀河・紀伊併結列車はオール10系だった記憶 >>497
オシをオロの隣に持ってくる理由は分かるとしても
高千穂の乗客がオシに行くのが大変ね(^_^;
>>499
すごいです
The 寝台急行 塩害ってすごいんだね
海底駅があったころ見学したけど湿気もすごかったし
地上区間も延々海沿いだもんね
それに酷寒が加わったらそりゃもうね >>503
それからすると、青15号は、汚れが目立たない優れた色であったと・・・ なるほど、逆に捉えたらたしかにそうだ
目から鱗だわ。
青15号登場時は蒸機も現役だったし、従来のぶどう色より明るい色、かつ汚れの目立たぬ色
さすが先人方、よく考えられてたんだな。 >>497
当時の客車編成で両端に緩急車って珍しいなと思ったが、
途中駅で付属編成を切り落としではなく分割・併合だから両端に緩急車が必要ってことか
どちらも基本的な編成内容は全く同じにしておいて、
「高千穂」か「霧島」か使う目的によって片方だけに食堂車を入れれば良い様にしているんだな >>507
しかし終点西鹿児島では編成がお互い向きが逆という、
鹿児島持ちだったから、区では両方が逆向きで並んでいたんだろうな
グリーン車のデッキの向きはどうだったんだろ?
(基本的に東海道ではグリーン車のデッキは下り方) 耐候性高張力鋼板が実用化されてればもうちょい長持ちしたのに
採用第1号が新幹線0系だったっけ? >>503 同じ事考えたね。
北斗星も2003年頃既に同じような状態だった。
いや、もうちょっとましだったかな。
で何だかデジャブ感があったので考えて見たら
その上野駅で昭和57年に見た末期の
10系寝台車が同じような感じだった。 ここまでひどくなかったよ、上野口の10系。外板はベコベコで雨だれで汚れてたけど
ちゃんと洗ってた。錆も浮いてたけど、こんな大きく剥がれたのは見た覚えがない
富士はやぶさはこんな車両あってビックリした覚えがある。北斗星はそんなことなかったような
はまなすのは洗ってないでしょ。ディーゼルの油煙と青函トンネルていう条件もあるし
なにより古い >>511
上野口は見ていないので分からないが、「はやたま」「山陰」「ながさき」オハネフ、福知山区ナハの外販は荒れていなかった。
温暖地と寒冷地との違いがあるかもしれない。
しかし、温暖な、末期の九州ブルトレや「銀河」も外販が錆びて剥離していた覚えがある。
「はまなす」だけでなく、北海道全般の車両が窓の汚れが目立ち、茶色っぽくなっていて、
自動洗浄装置がないのか、洗浄する期間が開いていたのかと思った。
14・24系の外販の腐食は、車掌室横など目立った気がする。 1 1982 10系 越前? 車齢 22
2 2003 24系 北斗星 車齢 28
3 2015 14系 はまなす 24系 北斗星 車齢 40
番外 テヘッ
4 1984年 東武鉄道 ボロ電 7860系 車齢 23
5 1982年 常磐線 オハ35 車齢 32
6 2021年 185系 車齢 40 >>513
5 1982年 常磐線 オハ35 車齢 32
これは、更新したのが1950年?
オハ46? >>514
オハ35戦後型は1948年までだな。スハ42は1950年まで作られてる。
>>513の計算合わないと思わしきところがあるが
越前がオハネフ12だとしたらナハネ10としての製造は1956年
オロネ10なら1959年。 513 ごめん、プラマイ3年位の平均でこんな感じかなって感じで正確さに欠けたは。
常磐線旧客は顔がスハフ42で結構作りが良くて
乗り心地も良かったイメージ。全体に新しめだけど中には内装木目ニス塗りのが探すと混じってた。多くは座席はグレー?で塗りつぶされてて外観からすると明るい室内。初めて見て強烈に印象が残ってるのは昭和51年上野20番線、
583系みちのくのあとの平行きだったかな。
スハフ42最終が昭和29年みたいだから、
まだ車齢20年ちょっと。そんなに古くはない、
401系115系など近代化後の車両が普通だったから、造りは古かったんだね。
件の10系ハザは常磐線旧客には入った事なかったんじゃないかね? 多分北千住柏間の爆走に
耐えられず空中分解するからだと思われる。 常磐の水ミトや北オクにはナハ・ナハフって配置されてないんじゃない?
実際乗ったことあって記録したのは福フチと鹿ヤコだったが。
ギリギリ小学生で間に合ったオロ11の高千穂は鹿カコだったのかな。
当時車番メモまで気が回らなかった。 >>520
1967年当時東オクにはナハ10が4両、ナハ11が22両、ナハフ11が6両が在籍 >>521
ありがとう、その時代なら配置あったんだね。特急大増発43-10前なんだな・・
昭和50年代には残ってたのかなぁ。 急行運用が減ったローカル時代には
北陸以西に集中しているように思う。 >>512
横川にある、ながさきに使ってたオハネ1229は綺麗だったな。いまはどうなってるか知らないけど
山陰や北陸のナハナハフ11もいうほどボロくなかった。ボロいボロいって聞いてたから乗りにいったけど
10系のあとに近代化やったスハフ42やオハ46なんかの方が長持ちしたって話だと思うけど
大袈裟なお話があるから、まぁそれまでと比べたらダメではあったんだろう
いまでいう209みたいなもんだな >>491
東京広島間の急行安芸は?
オロネ10が2両連結されてて何気に豪華 碓氷峠なんか補機で押し過ぎたら潰れるし、
押す力が足らなかったら二つに裂けるしで
すごく神経使ったろう。ボディの脆さは
同年代のボーイング707に通じるものがある。
モノコックボディが完成するのは20系まで待たなければならなかった。
車齢10年過ぎたらいよいよやばくなって来て長編性中心碓氷峠越えありの尾久客車区からは転属させたんだろうね。
しかし近代化途上の10系客車とか、電車で全金属のクハ79とか独特の味わいがあるよね。 また適当なことを。車体の強度は12系と変わらないし、20系も10系もセミモノコックで
構造は変わらん
脆いとかいいたいならコメットとかだせばいいのに 妙高9,10号に連結されてた寝台車や郵便車の10系は最後まで北オクだったはずだけど コメット、コメット、、大場久美子の
コメットさんって知ってる?
客室与圧の先駆者デ・ハビランドコメットの
悲劇。機体見ると丸っこくて美しい、
神経質までに外力を吸収するべく出来た
張殻ボディ。しかし胴体内部からの断続的な
与圧圧力の対策は不十分だったんだね。
あの事故がなければ多分ボーイングの方が空中分解事故をしょっちゅう起こして今日のような
旅客機メーカーとして市場制圧する事は出来なかっただろう。 ボーイングは元々機体の構造の弱さを体質
的に持っていて、1966年のBOACの富士山上空での空中分解はダグラスのDC-8だったら大丈夫
だったのでは? と思われる。一番酷いのは
中華航空が日本にいつも飛ばしていたジャンボ機の3機のうちの一機で、引退まじかで離陸後
空中分解して旅客が皆海に放り出された。
機体のボロさは国鉄10系客車かボーイング
かってね。
因みにデ・ハビランドの血統のエアバスも主翼を左右一体で作るとか、今もボーイングとは
違う設計思想。 軽量化で耐久性が足りなかったと思うが、空中分解とか裂けるとかか強度が足りないことはないはずだぞ。 検査通すより早期廃車って言われたのはオロ11くらいでしょ
スロ54・62の方がS57まで長く使われた。
ナハ(フ)は末期に窓が硬く開きにくくなったりHゴム劣化で雨が染み出すとか
もともとの剛性から地方路線でギシギシ乗り心地がイマイチだったくらい。 10系客車の難点は剛性じゃなくて車体の耐候性と無駄に大きいばね定数故の乗り心地なんじゃね? >>528
内容までは覚えてないけど
コメットさんと大場久美子の名前は
記憶にある… 丁度あと3ヶ月で引退ってときか
なら仕方ないんでないかな。 どうしても劣化を認めたくない人がいるみたいだね。
末期でも劣化してたのならそれは劣化 末期のあけぼのや北斗星もぼろぼろに腐った車体を塗装で誤魔化している有様だったな。 >>534
オロネ10、ナロネ21より新しいか同時期なのにな。天の川や新星の20系は綺麗だったのに オロ11が早く消えたのはSG車ばっかりだったせいじゃなかったかなぁ、
スロ54だの62だのは電暖の2000番台が多かったからでは? 最末期59-2とか60-3前はもうメンテして無くて
福フチのナハ、ナハフで洗面所水でないとか
窓が固着して開かないとか酷かったが
53年・54年くらいまではそうでもなかったかな 洗面所の水が出なかったり、プシュプシュと出たり、窓が斜めになって、ちゃんと開かないとか、
10系に限らず末期旧客も同じ。 82.8.15 何してたかなあ?
中三で塾の夏期講習に行ってたか。
受験でオヤジが五月蝿いからこっそり写真
撮りに行ったり、現像したりしてたか。
成績が良ければ親の俺を見る目ももっと
暖かかっただろうし小遣いも多かっただろう。
そうしたら撮影機会ももっと多かったか?
しかしこっそりでも撮影に行って良かった
と思う。もし行ってなかったら10系寝台の
印象が俺の中に刻み込まれてはいない。
やりたい時にやっとくものだ。
11月14日写真撮りに行って帰って来る途中の
バスで国語の教師と乗り合わせて、余裕だなあ
と嫌味言われた。
結局3年の夏近くに勉強始めたし、試験勉強に
全身全霊打ち込んだわけでもなくて都立では
内申点が足りず偏差値60チョボチョボの私立高校
に入る事になったw 改行位置考えような
82.8.15 何してたかなあ?
中三で塾の夏期講習に行ってたか
受験でオヤジが五月蝿いからこっそり写真撮りに行ったり現像したりしてたか
成績が良ければ親の俺を見る目ももっと暖かかっただろうし小遣いも多かっただろう
そうしたら撮影機会ももっと多かったか?
しかしこっそりでも撮影に行って良かったと思う
もし行ってなかったら10系寝台の印象が俺の中に刻み込まれてはいない
やりたい時にやっとくものだ
11月14日写真撮りに行って帰って来る途中のバスで国語の教師と乗り合わせて余裕だなあと嫌味言われた
結局3年の夏近くに勉強始めたし
試験勉強に全身全霊打ち込んだわけでもなくて都立では内申点が足りず偏差値60チョボチョボの私立高校に入る事になったw >>539
博多開業で行き場なくなったからね。北海道くらいか。北海道は二重窓いるし
電暖改造するにも東北上越は新幹線がもっと早いうちに開業予定だったし
開業が伸びるのわかってたならやってたかもしれんけど、スロ62とナロ10、スロ62の方が
新しいんだよな、車体以外 82年の夏は自分は中1だったが、女子中学生誘拐殺人事件があったせいで色々な遊びの約束をキャンセルさせられたつまらない夏。
唯一小学校の頃の友人と船の科学館のプールに行っただけ。
あとはきっつい塾の夏期講習に行かされた。 日本の気象条件もあるわな、高温多湿から雪まで
スイスのEWI-IIが元になってる10系より長生きがまだ居る 高温多湿な日本の気候に合わなかったかもな
砂漠地帯だったら長持ちしたはず どうだろ?
一日での寒暖の差が激しくて、
熱疲労で壊れてたりしてな。 特に1980年代に入ると国鉄は激動の
時代になるから生まれの1年2年の差が大きい。
545氏のように1982年中一ではまだ思うように
動けなかったろう。都心部の私立中にでも
通ってれば別だけど。
模型ネタにはなるが、グリーンマックスの
プラスチックのNゲージの板キットの10系客車
とか他旧型客車とか中村精密のスハフ32リベット付きとかよく作ってた。当時は完成品はまだなくて(多分)、模型で走らせたかったら自分で作るしかなかった。値段は550円だったかで手頃で、プラモデル同様に精密に再現された側板妻板がランナーについていて作る前からワクワクしたものだった。友達といかに上手く作れるか競うようにして作るのが楽しかった。もちろん所詮素人でサッシの銀入れとかそう上手くは
いかないしそもそもキットの寸法が大雑把で太いと言うのもあって後に出た完成品にはとても及ばない仕上がりだったが、家では作って楽しみ、休みの日はなんとかして実物の写真を撮りに行くということが出来る幸せな時代だった。 昔は板キットを組むしかなかったのに今や旧客夜行列車の編成が完成品のセットで揃う時代
しかも最近の製品はドア上の等級表示やサボまでもが正確に印刷されてる始末 急行日南の10系入ってるセットはフルで買ったよ。
C57 四次型に牽かせるとめちゃ美しい。 >>550
グリーンマックスのキット、つくったなあ。
塗分けが難しいから、どうしても客車になっちゃう。
旧国なら大糸線に居た形式。
老眼真っ盛りとなった今じゃとてもできない。 老眼になったら16番ゲージおすすめ。
今はプラ製で割と安いのもある。
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org1740.jpg
このトラムウェイのオハ35戦後型とTOMIXナハ10を繋げて
KATOのDD51に牽かせると福知山線末期の特定ナンバー車が出来るんで
と思いながらまだインレタ貼ってない。機関車のウェザリングはしたけれど。 Nサイズの10系ならKATOが現状最高傑作だな
茶色がラインナップされてるマイクロエースも捨てがたいが 回客用だね。品川ー尾久間と大宮工場への回送車両の控車 あのナハフ11品川駅で見ると東京方に正面の妻?、が向いていたな、と思い出した。オハネフ25 0や100番台と同じ向き。すると帰りはどうなるのかなと思って寝られなくなっちゃった
と思ったら、裏面の妻にもテールライト付いてるのね。だからシナオクでは尻は窓付き、
オクシナでは尻は窓なし。 文化むらの車内に自由に入れた頃すら懐かしくなった
オハネ12に寝っ転がったり、ナハフ11も座ったもんだが
常時公開中止して10年位なるんだっけ 軽量客車は車体と台車こそ近代的な外観だが、AV式自動空気ブレーキや並型自動連結器、
車軸駆動式の発電機などは従来のものを踏襲したからな。それで運用上は旧型客車の一員として扱われた。 客車で110km/hを出すのは20系から
しかも、20系が110km/hでの営業運転を始めたのは1968年から
そもそも機関車が
100km/hに達したのがED72/EF70(1961)から
110km/hはEF65 500番台から 100q/hに達したのはC62
と言うのは屁理屈? 実際問題旧客と組成して走る列車は東北本線で90くらい
亜幹線じゃ80-85も出せば上等だったからね。DL牽引じゃ
ちょっと勾配あったら65キロくらいザラ。 >>564
EF65の0番台と500番台ってブレーキ管以外に何か違いある?
0番台は12系以降のCLブレーキ車を牽引しての110km/h走行は可能なのだろうか? 157 回想774列車 sage 2019/01/18(金) 18:30:45.83 ID:XHzoK1di
EF65一般型の85号機以降は確か110キロ運転可能で
一般型かぶった特急型なんだな。
20系でなく14系や24系けん引での条件だろうけど。
EF65は0番台から許容115km/h。4次車の85からは110km/h運転可能
EF66が故障したため、ブルトレをEF65ユーロ機が引っ張った事はある
EF65 113が臨時客車金星(14系座席)を110km/hで引っ張ったことはある 110キロ運転したら車軸発電機が高回転に耐えられず焼損しそうだな 訂正>>568
EF65 11「0」が臨時客車金星
4次車から
MT52→MT52A
CS26→CS26B
CS29→CS29A EF65、500番台が0番台の2、3次車相当なんだけど
一般形かぶった〜とかヲタらしい
>>569
EH1015のとき10系で120km/hやってるから。12系は車軸発電機で110km/h対応だしな 全くケツの青いバカが何かほざいているな
EF65 500番台が20系牽引時に110km/h運転を始めたのは1968.10から
それまでは20系牽引運転時でも95km/h運転
12系は1969年から
1968.10からの110km/h運転に備えて、P型の1次・2次車とも編成増圧装置と電磁自動空気ブレーキ用指令回路などを追加している
※F型は登場時から編成増圧装置(532〜534の3機を除く)と電磁自動空気ブレーキ用指令回路などを搭載している このボケ老人はWikiのコピペしてなにが言いたいのか >>572
細かく言うと、Fは高速貨車牽引時は単機増圧
47.3改正時に、518〜534を編成増圧に改造して20系牽引に対応
513〜517は単機増圧のまま
スレ違いなのでそろそろ、、、
もうすぐ10月6日
1971年(昭和46年)10月6日に、急行雲仙3号が火災事故を起こしている
燃えたのはナハ10ほか3両
犠牲者1名、合掌 >>572
> 全くケツの青いバカが何かほざいているな
何でこういう余計なこと書くんだろうな
喧嘩したいのか
マウント取りたいのか >>575
うそーん
513〜517は当初10000系貨車を110km/h運転する試験のため、編成増圧などの20系牽引機能で作られている
20系高速化試験も編成増圧の付いているこれで行われた
でも、10000系貨車の110km/h運転はいろいろ問題があって100km/h運転へ下げられたため、単機増圧でよくなった
しかし、昭和40年度第2次民有分518〜526(1966.2〜3新製配置)はもう作られていたため編成増圧などの20系牽引機能が付いたままで新製配置
昭和40年度第2次債務分532〜534(1966.8新製配置)は単機増圧だけの変更が製造中で間に合い、編成増圧などの20系牽引機能なしで新製配置
1966.10から貨物牽引専用となったため、編成増圧などの20系牽引機能は整備されなくなった
1968.10から東北上越へ回された時、ロット間の重連運転をするため、513〜517はCS25が改造されたものの重連運転は無理とされた
また、暖地仕様であったため故障多発
このためPF型が作られ、1969.11にそれで置換されて広島・下関へ移籍
1972.3の関西ブルトレ牽引機不足のためF型で牽引することになり、518〜526は20系牽引機能を再整備・532〜534は20系牽引機能を増設し、F型は編成増圧が全て付いた
ただ、山陽本線の線路容量不足と貨物牽引機不足により、95km/h化により関西ブルトレ牽引機はEF58P型で充分となったため、1972.10でF型のブルトレ定期牽引は終了 >>562
車内に入れた頃があったんですね
オハネ12の背もたれ兼用の中段を間近で見てみたかった 文化むら収蔵車の状態がここ3-4年かなり悪化してる。
こちら今月、左下はオハネの床下・・・
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org3862.jpg
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org3863.jpg
2006年、入り放題で寝台で寝れた頃
EF59-1などは2006年よりむしろ厚化粧とは言えピカピカなのだが
機関車は修繕予算も付いたりボランティア枠での保守もあるが
客車とキハ20はこのままだとあと数年で崩壊するなぁ。 初期は車内はもちろん便所も使い放題。
便所周囲の外側展示スペースがえらい事になったとか。 トイレ使えたのかw
という事はこれが
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org3865.jpg
関東に越して初めて行った2003年にはもう使えなかったな。
あと雨の日は腐食対策で車内公開無しになってた。 >>579
近くに住んでたらボランティアでいくらでも修繕してあげるのになぁ >>579
11月のキハ359000のボランティア募集してたな >>581
垂れ流し管を撮影するとはなかなかのマニアだな。
自分が行った時は負圧発生装置が無かったから、軽量化の為の仕様かと思ってた。
あれじゃ逆流したんじゃないかと気になったが、既に朽ち落ちた後だったんだな… >>579
今日行ったらキハ35は補修されてるのか車両の周りに足組がされてた
機関車以外の客車やキハも補修してほしいね 一番原型を保って状態がいいのは津別のキャンプ場のやつかな?
以前は泊まれたけど今は閉鎖。撤去計画もあるらしい…
相生のスハフ42-500の利用料が無料でそちらばかり行っていたのが悔まれる。 10系に入り放題、間に合わなかった。残念。
関のナハネ20に何度も宿泊してたんじゃなかった ナハフ11なら、文化むらスタッフにイベント提案して 碓氷のクルマは頃合いを見てバッサリとトリアージされそう
10系はだめかもわからんね 機会見て交流財団の理事に進言してみるよ
見積もりは出してくれるからクラファン立ち上げもやぶさかじゃない >>597
迷惑な、おっさんなんだろうなあ。
国鉄OBや技術者でもないのに、外野から生半可な知識をひけらかして。 10系の食堂車は、例の北陸トンネルの件で
火元という悪いイメージがついてしまったから
難しかったんじゃないのかな。
漏電にしてもオシから出火したのには違いないし、
長らく石炭レンジが原因だと流布されてきてたし。 オシ17はオヤになってがらんどうが保存されてるだけまだいいか よくよく考えると電子レンジって変な言葉だよね
電気回路と電子回路の違いなんて、別にどうでもいいレベルの区別だし >>604>>606
だからさ、言ってる趣意をちゃんと汲んでくれよ。
「10系の食堂車」というマトマリに対する全体的イメージが
北陸Tの事故後に悪くなった、という部分がメインなんよ。
石炭うんぬんは「最初からオシ17の話しをしている」わけで
誤認ではなく、
「食堂車=危険なイメージがついてしまった」の話。 多分ね、加熱するのに
電気レンジはニクロム線の熱で
電子レンジは食材の水分子を振動させて発熱
させる違いがあると思う。
ただしオシ16は待ち合い席下の配線が加熱して発火したのが本当の原因だよね。車輌の不具合という国鉄自身の責任だったのを食堂車運営会社になすりつけた感がある。運営会社は国鉄に貸しを作って事後の営業権の便宜を図られたとか裏話がありそう。 オシ16が燃えたなんて聞いたことがない
どこから来たんだろう? お、失礼 。オシ17だ。急行出雲のオシ16見てたからつられちまったい >>613
出雲のオシ16はどこから来たのか?
瀬戸だろ オシ16
1962.3 1・2が大ミハ一応新製配置 5月より彗星
1962.6 3が大ミハ一応新製配置
1962.7 2004・2005が東オク一応新製配置 同月より下り北斗・上り北上
1962.10 2006が東オク一応新製配置
1964.10
大ミハ 彗星 → 東シナ 銀河
東オク 上下とも北斗
1965.10
東シナ 銀河→さぬき(後に瀬戸)
東オク 北斗→十和田
1972.3 全て運用離脱
1973.2 全て廃車 オシ16って10年ほどしか使われなかったのか
リフォームカーとはいえ勿体ないね 東急玉川線タルゴ電車(玉子電車)が腐食なんか無縁で保存すらされてるのに、同時期に製造された国鉄10系客車が散々だったのは、どういうことか オシ16 3を電暖兼用にしてオシ16全車を全て青森配置にすれば、予備車は1両で済むためオシ17を全車廃止にできた
史実は47.10改正で20系青森配置が多くなったため、食堂車連結十和田は尾久へ回されたんだけどね
47.10で定期運用オシ17
北オク 2017、2053、2054 十和田(1往復。使用2・予備1)
大ミハ 2018〜2021 きたぐに(1往復。全区間連結のため、使用3・予備1) >>617
寝台車ではゆっくりタバコが吸えないから、喫煙室がわりに使う客が多かったとかで、売り上げがめちゃ低かったらしい
急行列車の合理化が同時進行で、10両ぐらい作る予定が途中で打ち切られてるし >>618
まだ軽量車体の設計の経験値が足りてなくて水抜きが不完全だったから
153系電車なんかも壁の中に水が溜まって車体の腐食がひどかったんよ 1段下降窓の2等車→1等車→グリーン車のサロ152だけ(1979年廃車)
あとはユニット窓だから腐食は生じず、サロ153くずれのサロ110に至っては1992年まで残っていた オシ16って厨房の設備は簡便な感じだが、メニューも軽食中心だったのかな。
樹脂製?のボックス席や回転いすが並んだ食堂内は郊外スーパーのフードコートみたいだw 子供の頃、横浜から北海道行って10系寝台車で稚内行って15分で南下した覚えがある >>618
あれだって露天時代の写真見ると結構傷みが目立ってたし野田で展示されてた方はのちに撤去されてる >>623
営業時間が遅くて短かったから、酒とつまみがメインで、あとは軽食がちょっとだけ 北陸トンネルで燃えたオシ17は2000番台だったの?火災の原因となった配線はEG対応のためのケーブルは床下に張られてるんだよね?
火災の原因となった配線は社内の枝線だよね? >>629
オシ17 2018
喫煙室長椅子下の電気暖房装置におけるショートということだけど
具体的にこの部分というところまで解明できたんだろうか? オシ17 2018 ← オシ17 18(台枠流用) ← マロネ49 1 ← マイネ38 1 ← マイネ37130
オシ17 18 品川新製配置→すぐ尾久へ回され「北斗」(17便系統)運用
はじめは品川で定期運用がなくなっていたスシ28を尾久へ回すつもりだった
でも、北斗を増結したいことから尾久へまわされ、北斗につかっていたマシ35を置換し、ナハネ1両の増結を実現
しかし、牽引定数上は余裕があることから1年ちょっとで再びマシ35との共通運用が始まり、「日本海(急行)」の増結およびスシ48追い出しのため18が宮原へ
宮原へ行ったときには電暖化されていなかったけど、1961年冬までには追設されて2018となった
この電暖追設工場が不明 なお、KATOがオシ17を出したとき、番号がオシ17 2018だったな、
車籍が残っていたから事故車と知らずに付けたんだろうけど 76年頃に電車急行のサハシも営業廃止になったから、もしトンネル事故が無くても
客車急行の食堂車も遅かれ早かれ無くなってたかねえ 食堂車はずっと赤字事業だった
だから日本食堂はずっと、特急も含めて食堂車を廃止したがってた
国鉄の命令で仕方なくやってた 今ならサイゼリア方式でワンオペで出来そうだし黒字に出来るかもなぁ そのうち駅や車内の便所も廃止されるかもな。
収益にならないんだから。 無理無理、冷凍モノをチンするやり方でも
サハシ787のワンオペで赤字だったんだから・・
あれがセントラルキッチン調理のサイゼリヤ方式 >>627
新幹線の食堂車が出る頃がXデーかな
それ以前でもヤバい特急あったしもっと早いか 50.3.15以後で10系寝台車を使っていた急行列車って何があるのだろうか? >>636
収益にならない非常用の水が新幹線に常備されてるの知らなそう >>639
当時走ってた寝台車付き急行全てだと思うよ
まだ銀河も20系化されてないから 自分で探して来た
だいせん、さんべ、かいもん、日南、きたぐに、銀河、越前、妙高、能登、きそ、鳥海、天の川
(八甲田 仙台以北1両)、十和田、新星、津軽(3)、おが 70年代後半のブルトレブームの補完的な存在として10系寝台急行が健在だったころが
一番懐かしいな。よくあった小中生向けの鉄道何とか百科?とかにもアレコレと掲載されてたような。。
ひと区切りつくのはやっぱ82年11月改正か。 九州特急14系化→関西ブルトレ583系化→日本海24系25形化→博多あさかぜ14系化→急行夜行だいせん20系化
音戸そのまま→上野北陸急行から寝台をまとめて長岡経由の特急北陸1往復追加
つるぎ583系化→上野奥羽系統急行から寝台をまとめて特急あけぼの1往復追加
つるぎ・季節日本海用24系25形を瀬戸・下関あさかぜへ→1本は銀河20系化・もう1本は2〜5両程度の短編成寝台置き換え改造工事(12系から電力供給・自動ドア化)
これでカヤ21化・北海道・夜行列車併結もの以外の10系寝台車は昭和51年10月でほぼ全廃可能 オハネ12に泊まれるようになるそうな
床穴空きそうなんだがな 前の方に常磐線旧客鈍行に10系座席車あったかなあってやり取りあってはっきり結論出てなかったけど、今出てる雑誌 国鉄時代71号の44
ページだったかに、昭和57年に撮影の三河島?付近走行中の旧客鈍行の編成中に10系らしき
屋根が一両あるのを発見しますた。 と思って良く見たら屋根が色の銀色の非軽量
客車に見えなくもないorz 昭和57年は無理だよ。そのころには10系ハザ、尾久にも水戸にも仙台にもない
北陸と山陰、紀勢、九州にちょっと残ってたくらい。品川に3両あったけど 銀屋根のスハ・オハも元々無いよ
オハ46原型なんかは薄いグレーの鋼板だから・・
細いリブの線も見える
ナハ・ナハフは57年だと福フチ、天カメ、鹿ヤコくらいじゃない? 気になったんで配置表見てみた
金トヤにナハ10が22両も残ってたんだね
57-11で一気に休車となってた
天鉄局はカメじゃなくリウだった 門サキの夜行
今でもなぜ10系を選んだのか、自分の行動に理解ができない
43形に乗るよね普通は いや10系でしょ。北陸や山陰で10系ばっかり選んで乗ってた。43系はどこでも乗れたしな
そういや長崎にナハフ10の初期車いたんだよな。2002と2003。なぜか電暖車。乗りたかった
なんだかんだ言いながら30年近く使ってるんだよね
長崎駅、頭端ホームで隣に客車区あって、さくらやあかつきの14系、ながさきの旧客がとまってたな
風向きによっては潮の香がするいい駅だった。新幹線でもう面影ないけど 10系ハネでGマーク(横軽通過可)付いてたのってどれくらいの割合?
電暖車のいないオハネ12はいなかったんだろうけど、スハネ16の電暖車にいたのかな?
「越前」にオハネフ13が入ってたのは横軽の為に重い車両を嫌ったみたいな話を聞いた事があるけど真偽は不明。 >>658
金フイに10系座席車がいた頃の越前はスハネ16が越前に入っていた
座席車の43系化に伴い横軽の定数超えないように寝台車はオハネフに置き換えた 昨日また見たらやっぱり10系に似ている。
後ろから2両目で窓が他より少し大きい。
屋根の色が全然違う
いったい何なんだ?ウワワワワーン 652-654氏ありがとう。
オハ46見てみた。これぽいね。明るいグレーの
鋼板屋根、屋根下に目立つ雨樋、アルミサッシ化されていて窓が大きく見える。10系に見えてもおかしくない!、と言ってみた。 >>661
>>662言うように良かったらUPプリーズ
時代的に急行だとオハ46の体質改善車(アルミサッシ)が
結構な両数まとまってあるから可能性は高いと思う あ、常磐の普通だっけ・・・それでも43系の可能性が高いな 北オクにいたよね、オハ46
朝の客レは北オク持ちだし >>666
ありがとう、間違いなくオハ46ですね。綺麗なグレーに塗られた屋根
あと特徴で雨樋が鋼板製で細く木製2段の他車よりやや屋根が低く見えること
ただこれはアルミサッシ車じゃないですよ、光の反射で窓下端は光ってるけど
ウインドヘッダーがしっかりあるすぐ下は濃色、木枠窓だと思う。 カンケー無いが、バンダイミニミニレールでナハ10を模した客車にすごく萌えた記憶がある。
まだまだ鉄模はHOが主流で高貴な大人の趣味で、そのなかでなかなかのディテールを誇ってた
ミニミニレールは遠い記憶の宝物である。 >>667 ありがとうござんす。。
いやはや現役の頃知るいい歳した世代なのに
面目ない。自分が旧客ってだけで如何に雑に区分してた 子供向けの入門書にスイス風の側窓配置と紹介されていたが
スイス風を汲み取るのに時間がかかった 幼児向けはしらないが、スイス風というのは、見たことが無い。
低学年向け以上で、ヨーロピアンスタイルや、ヨッロッパ風と書かれていた。
窓配置だけでなく、スハ43系などの切妻に対して裾の絞りがあることや、
全体的なスタイルを指しているようで、
国鉄設計陣か広報の誰かが言い始めた言葉ではないかと、思う。 実際スイス風というのが一番しっくり来るよ
欧州の他の国の車両は上段下降二段窓か上部中折れ窓
スイスのEWI EWII等の軽量構造一段窓車体が最も似てる
https://www.vagonweb.cz/fotogalerie/foto/201101/P1080601.jpg まぁそもそもその設計した人がスイスに視察に行って、パクっ…参考にして作ったのが10系だからな
著作にもそう書いてるし、言い始めたとかじゃなくてそのままなんだよ 無断のパクリじゃなくてちゃんと金を出して買ってる
下降窓そのものがスイス製
同じく1枚下降窓を採用した近鉄8000系電車も同じスイス製の窓パーツを採用してる 下降窓と言えば映画の名作、ひまわり のラストシーンじゃないのー。 そのままぱくったナっちゅう。
今この時代まさかのアップツゥデイトな映画作品 ナハ10系とかの座席車って、旧国の全金300番台みたいなちょっと中途半端な感じ。
新素材多様の内装で軽快で明るく、旧型の古びた味わいがない。
かといって足回りや全体のアコモが洗練されてる感じはない。まあのちの車体設計に大きな影響を与えたし
役割としては記念すべき車両なんだろう。。 ニス塗り白熱灯が好きなんていうのは後年の旧客末期のファン心理で
昭和30年代は明るい内装と蛍光灯が近代日本の象徴だらかねぇ
家屋だって暗いのが当たり前のところに鉄筋コンクリートの団地が
もてはやされたような時代・・・
木のぬくもり、ってのは平成以降の贅沢な感傷なんだと思うよ うーん、電球色の方が侘しくないか
個人の感覚の問題だけど ホテルの部屋、ファミレスやラーメン屋など以外の飲食店
高級旅館は白熱灯色なんだがな 蛍光灯より白熱灯の方が料理がきれいに見えるって聞いたことがあった。 昭和56年熊谷駅で見た秩父鉄道の電車の内装が
ニス塗りなのに軽いショック受けたな。
なんの、常磐線にはまだ旧客のニス塗りがまだ
残ってた。ほとんどはグレーの塗りつぶしで
10系客車と大して変わらんという感じ。 >>685
ルクス・カンデラ・ルーメン・ケルビン・・
そこんとこ詳しくないが、
実際に白熱オレンジ色のほうが光源の伸び?みたいなものが良いらしい
例えるなら、同じ声でも「よく通る声」みたいな感じ
だからかつては道路のトンネル照明がオレンジ色が主流だった >だからかつては道路のトンネル照明がオレンジ色が主流だった
てんかん持ちでは無いが、あれちょっと苦手なんだよな >>686
昭和56年ならまだ各地にニスのローカル電車あったから別に珍しくない
秩父100系は平成元年までいた事が凄いだけ >>688
もうオレンジ色のトンネルは今や少数派じゃね?
よかったね せめて耐候性高張力鋼板で製造すべきだった
国鉄での本格的な初採用が新幹線0系だった 乗用車の前照灯は
一時期は白色全盛だったけど
今は電球色に戻ってきたね。
電球色のほうが後年に出てきたんだっけ? 塗りつぶしというと聞こえが悪いが、効率化のためには意味のあることではある 昭和30年代の車両も鋼板の耐久性の技術が未発達だったのか20年ちょいで廃車されたの多い
今のやつはきちんと手入れすると40年以上は持つ >>698
それもあるし、材質や構造設計とか
どれも発展途上にあったからねえ 地方私鉄に売られてたら良かったけど
買い手がなかったからねえ 最晩年のボロボロになった10系しか知らないから、
あまり好評価ができない。
新製時に乗ってみたかった。印象もよくなっているだろうな。 >>702
尼崎事故の209系みたいに、どうも北陸トンネル火災のイメージが付いちゃって 207系だ、呆けている為すいません、またやんわりとご指摘ありがとうございました 初めて10系寝台に乗ったのは、はやたま連結のやつ
外観、内装ともボロボロで、豆電球の暗い枕元照明でわびしい気持ちになったが、
冷房だけはキンキンに効いていて、その装備の落差に違和感を抱いた印象 >>707
いえ、下段でした
新宮→天王寺の方向だったためか、夏休みの時期だったのに車内はガラガラ
でも今考えるとクーラーが効いてたのは客がほとんど居なかったからだけの理由だったのかもと
あれ、一括で調節できないやつですもんね >>709
下段でしたか
上段はさぞ涼しかったでしょうね(^_^;
スイッチは一括で強・弱・切の3段切換でしたよね >>709
実際の理由はそうだと思われる
でも、今はとっくに忘れられてるが
まだまだ非冷房があたりまえだった時代、
「強冷房=ステータス」だった価値観も存在してたので
そのサービス意図でスイッチを強めてた可能性は
微レ存在してるとも思う 昭和57年能登か越前が早朝の上野駅に到着、オハネフ12のボロボロの
室内を見て、北陸での人生の厳しさを直感した。今年の正月の地震を見ても
当たらずも遠からず。ボロボロの10系客車、急行なのにグリーン車まで
旧型客車、ハザは言わずもがな、北陸急行は石川さゆりの演歌のような
陰気さが漂っていた。九州が田舎で新幹線やブルートレインなど颯爽とした
陽のあたる列車に見慣れた乗りなれたオレには何とも陰気に見えた。
だがそれが味があっていいのだがw 全角数字w
というか取り替え間際でしょ
仕方がないさ
九州人が北陸を馬鹿にするのもどうかと思うしな 昭和57年の九州って旧型客車の急行って全廃されてたっけ? とっくにされてた。というかそのころにあった九州の客車急行自体が少ないんでは
くにさき かいもんくらい?
くにさきは14系だし、かいもんも12系+20系
高千穂はS50に廃止。雲仙西海はそのころに14系化、55.10でなくなってる
ただ夜行の普通ながさきは旧客のままS59まであったね 715氏が貼ってくれた画像ではベッド側面や
裏面が元々この手の赤っぽいベージュなのか
それとも劣化して焼け黄ばんでるのか?
昭和30年代だと新素材への移行期で耐久性に
問題のあったのだと思う。冷房改造時に
ファン周りのデコラは改良品に交換されてるのか真っ白のままだね。但しファンスイッチ周り
が結露のためか真っ赤にサビサビ。
昭和57年の時点での北陸向け10系B寝台の
内装は通路側のデコラ板が同じように真黄黄で
外装のボロさに惨めさを増していた。
当時中学生のオレが本当はいけないんだろうが
上野到着後に車内に乗り込んでそんな観察をしていると、40か50くらいの乗客の旦那が、やれやれとばかりにフーとため息をついて、さて降りるかと面倒くさそうに荷物をまとめて通路を
歩いてくる。当時あさかぜだとまだオハネフ25の200番台が新製後4年で内外ともピカピカ、
まだ室内も新車の匂いが少し残っていた。
それと比べると寝台料金は1000円しか変わらず、内外ボロボロ寝台幅狭い52センチ、乗車時間10時間もなくて起こされるところなど、
この旦那が気の毒に見えた。これが北陸の
厳しさなのかと。 そもそも北陸ってそんなに厳しいか?
というか厳しいって何が? つーかあの当時は寝台使用時以外は喫煙可だからデコラは末期色だ罠 北陸の厳しさといえば水気を含んだずっしり重たい雪
北海道は粉雪が電気系に入って故障
北陸は雪抱き込みで走行不可のイメージ そんなことあったっけ?
北陸、入ってる車両も特に耐寒耐雪してないんだよね
敦賀のあたりや親不知なんかは新線前は苦労してるだろうけど
電化されてからは厳しいことはないんじゃないかな
10系ハザも北陸は最後まで残ってたし 粉雪云々とか走行不能は電車の話だからすれ違い
粉雪で客車トラブルなんてきいたことない 10系じゃなくてもいいんだったら雪で折扉閉まらなくなったことあるよ
日本海だったから24系だったかな? >>725
> 耐寒耐雪してない
この言い回しが凄い気になる
耐寒耐雪化してないとか耐寒耐雪工事してないなら分かるんだが
この感覚はもはやおかしいのかな?
話の流れと無関係なことですまん >>728
それって雪質あまり関係ないような
大量に吹き込めば雪が溜まって閉まらなくもなるわな >>732
大体も何もはっきり分かるけどさ
そういう問題じゃないよ
言葉としておかしいじゃんって話 5chだろうと他だろうとこういう人は同じだと思うけどね ふいんき(変換できない)
↑これみたいなやつじゃないの? 考えてみれば昭和57年当時でも寝台特急北陸は
あったから、寝台車使いたいなら何も陰気な急行越前とかに乗らなくてもいいはずだったが乗降車駅に乗り換えなしで直通で行けるとかの問題だったんだろうか? 寝台料金は三段で変わらず、片や綺麗な14系の広い70センチ寝台、片や
四半世紀ものの古い52センチ寝台。特急料金と急行料金の差も到達時間を考えれば誤差範囲だと思うが。。 下りは到着時間で選ぶ(早朝なら越前)
寝台よりグリーン車乗ったけど(普通座席車なら何回も乗った) 北陸と越前って金沢着そんなかわらなくね?能登だよね、遅かったの
スロ62、乗ってみたかったな。あれで深夜の横軽越えとかしてたんだよな 時刻表1981年10月号より
603 上野2053-金沢559-福井711
3001 上野2117-金沢606
3605 上野2149-金沢651
特急料金は2600円、急行料金は1000円
昭和53年10月の改正で北陸が14系化、昭和57年11月の改正で能登14系化、北陸のB寝台二段化完了が昭和60年9月 北陸ごときに寝台で行くのに特急は贅沢だと思っていました そうは言っても北陸と能登は最後まで残ったしニッチな需要はあったんだろうな
旧客の能登や越前も律儀にスロとオロネ繋いでたし。まぁガラガラだったけど 早朝から動きたいから夜行で行きたい人も座席で十分と思ってる人は多いわけで
夜行バスの発展を見るとな 富山から北アルプスの早朝登山バスは能登からだと間に合わないから越前乗ってた
寝台は2回だけで普段は座席だったけど 上野-富山は寝台使うにはちょっと時間が短い気がしたんだよな
だから急行で十分じゃんって感じだった
金沢まで乗る人はまた違うだろうけど 北陸地方の暗さ、辛気臭さを説明するに、
越前竹人形やはなれ瞽女おりんという文学
映画作品がある。公助扶助の意識が低くて3県の生活保護受給率は全国で最も低い。女性は出産育児をした上で正規職での労働を求められる。打ち捨てられた能登半島地震の被災地域の状況は最近の例。
夜間険しい碓氷峠を越える急行越前などは涙ぐましく、いよいよ辛気臭く陰気であった。
だがそれがいい。愛おしい。
いや、現在進行形の能登半島はホントなんとかしないとな。