【軽量客車】国鉄客車10系【寝台と座席】 [転載禁止]©2ch.net
>>204
写真のオハネフ12、妻面にリブが無いが、後天的なものだろうか?
ナハネ10→ナハネフ10→オハネフ12は全部リブ付きだと思っていた。
オロ11は相当酷かったんだな、晩年の写真でもそうは見えんかったが。
ナハ10系が淘汰されていた頃、某工場の人から
「ナハ10・11には車体が台枠ごとひねっていた車両があった」
と聞いたことがある。 20系の場合、年次改良や改造で重量が増えて、気付かぬうちにナ級突破してオ級になってた。
板谷峠で「あけぼの」が「津軽」より軽い筈なのに所定速度で登れない、
ということで問題になり、調べてみたら重量オーバー発覚。
しかし、400両以上いたナ級20系をぜんぶオに書き換えるのは大変な手間なので
運用でチェックしてそのままナ表記で済ませたとか。 >>208
20系の車体中央表記は「書き換える」じゃなくて「付け替える」かな。
車両だけじゃなくていろいろな書類全て書き換えることになるから面倒だな。
特例にしておけば、各車両2箇所、△のシール2枚貼ればいいのだから。 >>208
津軽 寝台10系 グリーン車62系 座席 10 43系ら 荷物郵便含
あけぼの 20系
EF71でダメ?と思ったら直流当時だとEF16→64の当時かあ。 オロハネ10が両側冷房化されてからも等級帯はあったのでしょうか? >>211
「あけぼの」の運転時期といいEF71になってからの話
昭和50年頃の「津軽」は401・404レが11両編成430tでEF71単機、402・403レは13両編成480tでEF71+ED78だったのに
表の上では20系13両が410t、EF71単機でも余裕のあるはずの「あけぼの」が板谷峠を通る他列車の3倍以上遅延を起こして問題になった
結局20系の重量超過が判明して「あけぼの」運用に補機連結することになったし後日24系化の時にはED78も追加製造したけど
それでも機関車運用に余裕なくて「津軽」も郵便車を荷レに移したり座席車を減車・12系化して2往復ともEF71単機(混雑時や冬期のみ補機)にした >>205
逆に80年代の車両はかなり丈夫にしている感がある >>214
鋼製車ながら201系185系は構造にも溶接工法にもきっちり凝りましたからねえ。
酷使された201系でも外板ベコベコってのは少なかったし、185系は今や35年経つのに外観がヤレてる感が低い。 201系は70年代の設計では?
まぁ外観がボロボロだった24系客車と比べてしっかりしていたな。 軽量化に力を注ぎすぎるとやはり長持ちしないものなのかなあ >>217
軽量化云々じゃなくて、昔の車両製造技術が未熟だっただけやぞ。 >>219
しかし、同じ下降窓は阪急など昔から私鉄でも採用していたが、
国鉄では腐食に悩まされた。
水抜きの問題がー、と上の方にあったけど。 うん、国鉄の古い車は薄い板(高耐候性じゃない)なうえ、水抜き穴や導水用の
形状になっていない車両は弱い。小田急8000が更新されてVVVFで現役なのも
水抜きありアルミユニット構造で阪急みたいなアルミ枠でしょ。
その上腰板がステンレスだから40年以上持つ車両になった。
近鉄はそこまでの構造ではなないのに頑張ってる方だな。
戦前旧型車の落とし窓車は単に板厚が厚くて頑丈なだけ(例、一畑デハニ、上田丸窓) そもそも私鉄と国鉄では走行距離が桁違いのような気がしますが。 距離関係するのは足回りのガタとか軽量客車の構体ゆがみ等。
むしろ海風浴びてる江ノ電旧型とかのほうがよっぽど条件は悪く、
ただ、運用本数-車庫内でメンテ出来る余裕が違うと思うね 伊豆急の塩害は100系は対策して設計していたようで、機器を2100に一部再利用できるほど。
車体も意外に強くて103号は56年めなのに動態保存中。
情けないのは中継ぎで入った200系(113−115)即ボロボロで車体も剥げたね。
伊豆急に入った車両で真っ先に壊滅したのが157系というのは有名な話ですな。 >情けないのは中継ぎで入った200系(113−115)即ボロボロで車体も剥げたね。
言っとくけどそれは塩害ではないからね ポポンデッタのバイトも、鉄ヲタは絶対採用しないしな アホな鉄ヲタを採用しないだけでしょ
>>232
10系スレいるなら星さん見ればわかるだろ。趣味を仕事にした方がいいに決まってる
言い訳してるだけ >ポポンデッタのバイトも、鉄ヲタは絶対採用しないしな
個人商店はともかく、チェーンはそれ鉄則だね。
昔よく行ってた模型店、鉄よりミリが多いとこだったけど
ヲタ店員が常連や自分が買うモノ優先で早めなのに
予約品が回って来ない事があった。
もっと入荷数少ないはずの他店に行ったら普通に買えてそれ以来行かなくなったね。 星さんが12系、14系の開発陣頭指揮してたら形式どうなってただろう?
一等寝台車や進駐軍車両の改番に相当なこだわりを見せてたみたいだけど、ハネとハザの違いはあるけど、方や新系列の固定編成、方や旧来の方式なのに両方とも12と13使用してるのを許せるだろうか? もしそうなってたら、12系→14系 14系→16系 15形→17形だったかもね。 あ、スハネ16やオシ16・17現役だったか。なら18以降まで持っていかねば 結果的には12系が18系、14系が19系でも何の問題も起きないと思うけど
当時どう考えるかだね 新系列の14系座席車と寝台車を別系列に区分しなかったのは、
10系でも同じ10台を使ったことは影響してるかな?
10系でも冷改前で寝台車の10代が形式消滅するまでは、同じ10代だったし。 >>240
>>241
当時の規定だと、1の位が8・9は3軸ボギー車だったはず。 限界まで軽量化したのはいいがハイテン鋼じゃなかったのが致命的だったな
15年で廃車になったのある
国鉄でハイテン鋼の採用は特許の関係で201系量産車まで待たなければいけなかった
同世代で構造が似通った東急5000系はハイテン鋼で21世紀になっても地方私鉄で生き延びた 最初に軽量ボディにした西鉄313はドア増設と冷房つけても長寿だったね。 アルミ合金試作車があったらどうなっていたか
客車でのアルミの採用はマニ30が最初で営業用はななつ星in九州が最初 でも電車だと70年代迄に301系と381系は車体に関しては問題無く運用してたけど?
電車系の工場と客車系の工場って組合の系統違ったっけ? >>250
あんまり組合の影響力を過大評価するのもなあ。
北海道のED76を組合の都合で1000番台区分にしたとか、
多々あるが、設計は車両設計事務所、臨時車両設計事務所でしていて、
運用は各部局で行っていたので、組合が大きく熔解できるわけでもない。 >>251
熔解って何か溶けてんのかと思ったら容喙かよ
現場の職員の意見を組合が吸い上げて関連部局に文句言うんだよ EF65 5000番代(海峡線仕様)
あれは昭和64年のことだったかな。変電所があれして、交流があれして直流であれして、
急遽1000番台を改造して青函間に投入したはいいが、
一週間で昭和天皇があれして、交流があれして、20,000Vで
5000番台廃車だからなあ。
レイルマガジンが「5000番台の今!」とか煽っていたけど、発売日には廃車だからなあ。 >>248
オロ11かなんかで使ってあっさり溶けたじゃん >>244
10系客車が車齢15〜20年ぐらいになった頃は国鉄の労使関係も悪化してた頃だったからな。
労使関係最悪期で工場などの検修部門でもストや闘争が相次いだ時期と重なってしまったため、
ろくに整備もできずに劣化が進行して寿命を縮めたというのもある。 同じ時期を過ごしてきた他の客車では、
オハ35系戦前=丈夫
オハ35系戦後すぐの鋼板屋根=ベコボコ
スハ43系=超丈夫
スハ43系鋼板屋根軽量版=若干ガタ
だから構造と材質が決め手だとは思うけどね。大井川に行った旧客で
戦後型鋼板屋根のオハ35857だけ脱落して解体され、後は現役が物語ってる。 >>262
オハ61系も何気に丈夫だったような。スハ43の鋼鈑軽量型は後に重量上オハ46になった車もある。 >>263
オハ46として最初から作られた鋼板屋根は腐食してて現存は13番だけ
スハ43の一部軽量化で編入組はまだ良い方で大井川にいる47(国交省のせい)は元気
61系も43系形車体設計だから台車だけ軽いっていうだけだね。 お金がないのは重々承知で、文化むらのナハフ11-1とオハネ12-29は
なんとか維持していただきたいもの。 布張り屋根はメンテしないと鋼板屋根より早く朽ちる。
全国の保存客車も雨避けのない布張り客車は壊滅的状況。 それはわかる。ただ大工仕事で修繕出来るから
窓枠やドア含め直せると新金谷の見学の際言われたんだ。
鋼板製車で薄いの使っていたり前述戦後型初期のは材質から粗悪で
構造部材まで逝ってるから直しようがないと言う話。 ナーーウwなヤングなオレだが高校受験前の
昭和57年11月改正前に上野口10系寝台の写真を撮れたのは幸いだった。尾久で留置中のオハネフやオロネを撮ったがこともあろうに当時は
性能の悪いフジのリバーサルフィルムで撮ってしまったので青被りしていて陰鬱な10系が更に陰鬱に写ってるw >>260
ジュラルミンならオロ4098〜40102だな、
車体腐食からオロ42になったとのことだが、星晃氏の記述に
「まだそこまででもなかったが、ジュラ電からすると、そのうち更新することになる」
とのことで車体新製を行った、とある。
>>263
>>264
スハ43の軽量化は鋼板ではなく、台枠構成材と座席などの軽量化じゃないかな。
オハ46編入車が含まれる製造年次から、台枠の構成材が大幅に見直されている。
TR47の軽量化はいつからか解からん。
オハ61系は材料をケチっている、車内内張りが薄い、等の差はある。
また、スハ43・スハフ42からは台枠構造がそれまでの客車とは異なっている。
最初に登場したオハ60はバラック客車だったが、S26ころからまともになったんじゃないかな。
ソースはRPスハ43系特集とオハ61系特集、長々すまん。 スハフ42でオハフ45に編入された車両はなかった。
緩急車の場合は部分的軽量化を図っても「オ」級にはならなかったからな。
スハ43のオハ46編入車を改造したオハフ45はあったけど。 >>264
ほぼ無意味な謎改番は国交省のせいなの? 法の抜け道というか、むしろ黙認してくれただけなのに、原因みたいに言われちゃ心外だろうなw オハネ12は車掌室も尾灯もないから客車編成最後尾に連結される事はなかったんだろうか? 通常は無いんじゃない?
非常時とか例外はありそうだけど。
カンテラ一個ぶら下げとけば良いだけだし。 ネタ切れっぽいので
ナロ10は落成後そのまま青大将やはつかりに配備された訳だけど、コレと対になる3等車のプラン(要はスハ44の後継)は無かったのかな?
それとも、逆にナロ10は最初から特急としては一時しのぎの前提でしかなかったのか?
ナロ10配備前のスロ54は当時特に老朽化とかの車齢でもないし…いまいちよくわからん >>277
いわゆる重量的問題。元々61系のスロ60や43系のスロ54が使われていた。
ところか当時のつばめやはとの組成は1等展望車のマ級と食堂車以外は全て
ス級(スハニ35・スハ44)の重量級車両ばかりで、EF58電気機関車が東京〜大阪全部ならそれでもいいが、
当初東海道線が電化してたのは静岡県辺りまでで、そこから蒸気機関車のC62になるわけだが、
そこで重量的問題が出てくる。
そもそも貨物用D52のボイラーを使って巨大旅客機を作ったのはいいが、超重量級貨物列車用から
旅客用にされたらその分引っ張れる能力も限られる。
だから少しでも軽くしようとなって2等のスロをナロ10にチェンジ。食堂車も43系のマシ35から10系オシ17に。
その後のはつかりにも生かされた。
3等も軽量車に変えちゃった例がかもめ。元々スタートはスハニ35 スハ44 ナロ10 スハフ43の固定クロスで、
竹下のデルタで方向転換していたのをオハニ36 ナハ10 ナロ10 ナハフ10にして方転も解消。 東海道全線電化の時に青大将だろ
なにいってんだ。
で、ナロ10作ったから当時の一番の特急に新製車いれたんだろ >>277
模型的に妄想はするな。
小窓が並んだ軽量客車のハザ。
展望車はどうするかだが。 >>281
裾絞りはどうするか?とか
スハ44の様な小窓ピッチで当時の軽量構造を維持できるのか?とか
想像するの楽しいよね 南シナの2両は、高校時代に毎日のように見ていた。
学校帰りなんかにホームでも見かけたが、65よりも58牽引の方が似合ってる。
当時、毎朝、東京7:44発 浜松行きに乗って、品川まで通っていたよ。
田町を過ぎて東機の庫を覗いて、減速する頃見えてくる。
帰りは、京浜東北線の高架区間から、ナシ20を見ていた。 昭和50・51年辺りに東海道線藤沢駅留置線に大量の10系(ハ、ハフ、ハネ)客車が留置されてたが、最終的には大船工場で解体廃車に成ったのか? 283 浜松行きは客車ですか 電車ですか?
客車なら昭和20年代後半のお生まれかな?
製造20年位しか営業では使われなかった10系
客車。南シナ 2021が遥かあとJR時代の1994年まで事業用で使われてたのは客乗せてなければ空中分解しても大丈夫という事だったんでしょうねえ。 >>285
静ママの111系だったと思います。
東京駅の売店でコーヒーを買って、品川までクロスシートを愉しむ変な高校生でした。
東機にEF58 88・124なんかがいた頃です。ヨンサントオ産です。 10系と20系は軽量客車初期ということもあり、窓構造が12系以後(以降じゃないよ)と異なる
この辺りは高砂工場に勤務していた人のブログを見ればよい
さらに10系は暖房装置の配線ミスと構造的欠陥で2度も車両火災を引き起こしている
しかも昭和46年〜昭和47年に集中して
1度目 急行雲仙のナハ10 昭和46年10月
2度目 急行きたぐに(北陸トンネル火災事件)のオシ17 昭和47年11月
なお、急行阿蘇の郵便車が昭和47年4月だけどこれはスユ43
これで抜本的な防火工事に多額の費用が必要な10系客車は可能な限り速やかに廃車することが求められ、
スハ32系やオハ35系(の1945年以前製)客車もほぼ寿命(40年程度)、
さらに赤字が多くなり、
スト権ストでの責任相殺が必要となったことから、
必要最小限度の要求を満たした迷車50系客車で置き換えられた >>287
その焼失スユ43の代替がスユ15 2001。
オユ12+TR217で、なんちゃって模型化。(注)少し離れて見よ。 285氏 ほぼ同年代ですな。自分は頭悪くてTkだい高輪落っこちたんだけど受かってたら285氏と同じ事してたかもなあ 笑
東機 南シナ チタのある品川ベースと言うのは趣味的には最強かもなあ。ただ品川のホームでやんちゃして駅員に捕まったりしたらヤバいことになるかもなあ。58 68 88 124 129 148 の時代、最末期の93 160の時代とはまた一味違います〜 287の急行きたぐにの事故原因は電気暖房の配線という国鉄内部にあったにもかかわらず力関係で日本食堂従業員の石炭レンジの失火扱いにされたという事なんですかね? 少なくとも90年代までは石炭レンジが原因と言われてた気がするけれど。 >>290
同級生なら楽しそうでしたな。
当時の校舎から、新幹線の入出庫が彼方に見えました。1つ先輩にさまぁ〜ず。
無遅刻で通えたのは、10系見たさ。 >>288
そうだろ
あいつらの票になったかどうかは知らないけど TK高輪落っこちたんで、代わりに田端機関区が
定期券の圏内になる高校に行ったんですよ。宇都宮のゴハチなどは結構写せたけど東海道と比べるとちょっと格落ちだったな。
高校では鉄友はいなかったんだけど、30年遅かったね。付属じゃないんで高3で鉄から足洗わないといけなかったよ。 >>286
1936年産の親父は新橋の高校に通学するのに気が向くと品川→新橋は銀河のデッキに乗ってたそうだ。
時代はともかく、普通の経路の通勤車以外のに乗りたくなるものだな。 >>294
尾久客車区が、自宅からチャリ圏内なので田端機関区含め、出没してました。
伯父が北オク職員で、78年頃構内に入れてくれました。この時、最初で最後の現役スハネ16、カニ(ヤ?)21の機関室、スロ81、そうそうDD13のデッキで記念写真を撮りました。
ターンテーブルの上野方に建設中の詰所があり、殉難事故があったらしく、祭壇が設けられ、見学前に参拝しました。
子供ながら、スハネ16の寝台が狭かったのが強烈な印象でした。 >>296
土曜日の帰りなんかは、品川から田端まで、出たばかりの205系1次車に乗ったりしました。 297 1936+17=1953 =昭和28年頃の銀河、進駐軍上がりのマイネ40など連結してた重厚編成ですね。朝鮮戦争は膠着化して休戦間際。国鉄の各駅や急行の本数はまだ戦前並みに回復はしてない頃
298 田端では宇都宮ゴハチの他EF80などゆっくり撮れたのは幸いでした。しかしこのまま行くと田端尾久のあのへん品川高輪のように10年くらいしたら再開発の餌食になりそうな気が気がします。 80年代前半に高校入学で新たに都内国鉄駅が定期券圏内に入った学生は、僅か1年の違いでターゲットが無情に輪切りされてた世代
1976入学 EF57に間に合う ウラヤマシイ
1980 大窓EF58に間に合う 南武線73系に間に合う
1981 153系低運に間に合う
1982 東北上越新幹線開業での大打撃を辛うじてかわせる 10系寝台の終わり 泣笑
1983 EF58下関集中配置に間に合う 東武線吊り掛け7800系に間に合う
1984 宇都宮EF58に間に合う
1985 つくば博がうれしい 紀勢線EF58に遠征すれば間に合う
1986 宴のあとを味わう
1987 価値観を見直す 田端も尾久も縮小されて、空き地活用でタワーマンションになるかもしれないね
昭和57以前の10系43系が留置されていた尾久を見たかった。 昭和57年まで上野駅の留置線に昼間常磐線鈍行用の旧型客車が止まってましたよ。あれは出発時は田端からEF80が単行で上野まで行って連結後推進運転でホーム入線してたのかな?今となっては不思議な景色。 そういえばあの留置線、ときわの453系とかも留まっていたと思う。 10系客車は鉄板が錆びで浮き出て、塗装も剥がれて痛々しいかったね
あれはサービスではなく、拷問に近い乗車だった
24系25形や50系を早く増備すべきだった