@FKI300
さすがの軽量客車ですね。痛みが酷いとは、当時の竜華区で聞いた事はありましたが。そこまでひどかったとは驚きですね。

@SEI_YASUMA
軽量客車が牽引定数の制約の厳しい路線での輸送力増強に絶大な効果を発揮した一方でいろいろ「やり過ぎ」だったのは恐らく
国鉄自身、遅くとも1960年代後半には認識していたと思います。
その辺は12系客車以降で「オ」級が標準になって非冷房車も含め二度と「ナ」級が造られなかった事が示す通りで。

@SEI_YASUMA
それはそれとしても末期の10系はどれも悲壮な有様で、同じ頃に米原に留置されていた北陸本線用のものなど、
他の系列と比較しても一際ひどい状態だったのを思い出します。
鷹取だったかで解体中のものを見て、あまりの腐りっぷりに絶句したことも。

@senpakuunnei
御嶽山丸「スハネ16の流用した台枠・台車『だけ』はまだ余裕があったみたいだけどね(スユニ50に台車を供出した例があり、
10系を基とする流用新造車はこのスユニ50のみ)」

@SEI_YASUMA
スユニ50で流用したのはTR47台車位ですよ。オハネ17→スハネ16の台枠はUF21・30・37あたりが混在していて同様に種車となった
スハ43のそれとも当然異なる上、古いものだと1929年製の物も混じっていて既に老朽化していたので流用せず、
車体は台枠含め完全新規設計製作となっていた筈です。

@SEI_YASUMA
まぁ、流用されたのはほぼTR47台車だけですけど、そのTR47の大半が何度か行われた振替でスハ43などから
供出されたものですから、実質10系は経由しただけという状況ですね。

@Shi_gara_mi
特急の157系なんかも痛みやばかったらしいですよね

@SEI_YASUMA
157系はどこだったかの私鉄が譲渡を国鉄に打診して、下見にやってきてあまりの状態の悪さに絶句してその話が無しになったそうで、
まぁ満身創痍だったということなんでしょうね。聞いた話じゃ、最後の頃はあちこちガムテープ貼って応急措置してたとかで…。

@Shi_gara_mi
私鉄の初期高性能車も短命車多かったので、当時は車体の設計とかなかなか大変だったのかもしれませんね
長生きしたのは東急旧5000系と国鉄101系くらいかな、、、

@SEI_YASUMA
初期高性能車だから短命、という訳でもないのですけどね。例えば京阪1900なんかは格下げに伴う3扉化、
昇圧&冷房化と大改装を繰り返した結果とは言え車齢50年以上の長寿を全うしましたし。

@zweisser
阪急はご存知の通り、細かくメンテされていましたからね。高性能車が登場して近鉄・南海・東急は比較的早く一段窓を採用したが、
関西であっても阪神や京阪の一段下降窓はもっと後の採用になりますからね〜。

@SEI_YASUMA
人工透析に病院行って戻ってきたら10系客車や張殻構造車体についてのツイートにえらい数の反応があって驚く。