【軽量客車】国鉄客車10系【寝台と座席】 [転載禁止]©2ch.net
もうすぐ戦争が始まってリニアの営業運転を見ずに死ぬ若者が続出するからだよ >>186
それは実際にナハだけなの?
10系客車の普通座席車全部そう?
後者だとは思うけど >>187
というか、オハ35系の軽量型から進化していく日本オリジナルの軽量客車や20系相当の特急客車が見たかった。
仮想戦記的な妄想だが。 >>190
外板にも荷重をかける設計だったにも関わらず
強度がなさすぎてすぐ駄目になったって
鋼製客車の本にあったような… >>186
乗った感じよく覚えてる。隙間風よりとにかくガシャガシャ音が煩く
外板もさることながら、窓の立て付けでバタバタ、内装材なのか
あらゆる部材なのかがビビリ振動して台車の揺れも特に
どっしり安定した43系と比べるとひどかったね。
もう80年代入ってからの福フチのナハ・ナハフの話。 俺が乗った時は全然そんなことなかったけど
30年も経つと大袈裟になるよね。補正はいるし >>190
10系客車の普通車全部です。特にナハかナハフか、10か11か、ということはなかったです
それほど意識をしていたわけではないので「根拠はないけど」と書きましたが、ともかく
進入してくる列車を見て、ナハは避けていたのは事実。見た目は近代的にもかかわらずね 廃車回送される24系25型見てボロさに
昭和57年上野での10系寝台思い出した。24系は経年40年、10系は25年。とはいえ24系も
10数年前には外板剥がれてたりしてボロボロ
ではあった。当時10系は内装のデコラなど
まっ黄黄でこれに寝台料金払う客が気の毒
だった。10系を無理して走らせてても
40年経過する前に走行中分解してただろう。 だが根暗な俺は 古くて暗くてこわくて
貧しくてみすぼらしい物が好きだ。
急行越前とか日本海側の、冬とか鉛色の空に
カモメが一羽ちゅるりーららー飛んでる
陰鬱な海の景色の中で人生の苦難に喘ぎ
ながらの人生が想像される、外板がボコ
ボコに歪み、色褪せた照明の光が同じく
色褪せた内装の壁を物憂げに照らす10系
寝台が俺のそんな妄想を掻き立てる。 >>195
10系客車は数が少ないから末期は選んで乗ってたけど兎に角ボロかったな、雨の日にそこらじゅうから雨が入りこんで床がびちょびちょだったこともある。因みに福知山の箱、床も鉄板剥き出しになってた。 碓井で見た限りは内装は普通だったが
ドアが鉄板一枚でΩ形アングル裏打ちしてあったり努力の跡があった
ナハネのクーラーが屋根の出っ張り通りまん丸で当時にしちゃあ大した小型化だなぁと思った 乗車経験からすると、ナハネ20に比べて、オハネフ12は冷房の効きが悪かった印象がある。
クーラーが違うからかなのか?
全般に国鉄型車両は冷暖房は極端で、微調整が効かなかったけど。 >>202
開閉窓か固定窓かの違いじゃない?
20系は特に静かだったって聞く @FKI300
ttp://twitter.com/FKI300/status/956517622383763458
今夜は・・・
国鉄分割民営化を前に職を失い、各操車場や機関区の片隅で留置されていた車両達を紹介。
多くの車両は国鉄清算事業団に引き継がれたものの、解体されてしまいました。
先ずは、竜華操車場に留置された10系寝台(山陰運用車)や遠く離れた松本電車区の低屋根クモヤ90を・・・
ttp://pbs.twimg.com/media/DUY7h7JV4AIbHU9.jpg
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@SEI_YASUMA
ttp://twitter.com/SEI_YASUMA/status/956887434012184577
10系寝台車はこの時期だともう車体がボロボロで、工場で検査か何かの都合で箱をクレーン吊りしようとしたら、
吊ったところからグシャグシャに崩れかけて慌てて吊るの止めたと聞いたことがあるなぁ。
水抜き穴を十分設けずに安易に下降窓採用したツケをそんな形で支払わさせられたと。
@SEI_YASUMA
下降窓使ったらそんな風に腐るのかというと、そうでもないのは阪急その他の鋼製下降窓車が示す通り。
もっとも、正雀の裏で検査入りしている6000とかがどんな手間をかけて補修されているかを知っていたら、
あの当時の国鉄ではこれは水抜き穴あっても扱いきれなかっただろうなぁ、とは思うのだけども。
@SEI_YASUMA
何しろ、下降窓ではない普通の10系座席車でさえ、それら寝台車に負けず劣らずの酷い傷み具合だったのだから。
山陽線夜行急行に連結されていた最末期のオロ11なんか、設計時点で想定されていなかった重い冷房機を
屋根上に搭載したこともあって、歪んで本当にひどい状態だったのを思い出す。
@SEI_YASUMA
昔訊いた話ではあのオロ11、車体の歪みによる変形で最後は側窓が開かなくなっていた由であった。
張殻構造の軽量車体で想定外の重い冷房機を屋根に搭載したら箱が屋根の下がる方向で変形するのは
東武1700・1710でも起きた現象で、そちらはオロ11よりも更に早い時期に淘汰=車体新造代替されている。
@SEI_YASUMA
もちろん、阪神3011→3561・3061形のように3扉化と側窓ユニット窓化の後、徹底的な補強を施した上で冷房化された車輛では
そうした問題は起きていないのだが、この世代の張殻構造軽量車体を持つ車輛では最後までこの車体強度問題が付きまとった。
@SEI_YASUMA
もう少し後の世代でも例えば阪急2800系は冷房化の後に無理な3扉化を行ったために車体の疲弊が同世代の2300系を
上回る速度で進んだと伝わっているし、他の会社でも適切とされる補強を施し冷房機やその補機を搭載すると
台車心皿荷重上限を超過することなどから冷房化を断念したケースが少なくない。
@SEI_YASUMA
この世代の軽量構造車体を持つ車輛の場合、台車でも極限まで軽量化を図って心皿荷重上限に余裕を持たせなかったケースが
多々あったから、それが祟った訳である。
それどころか、この世代では非冷房のままでも設計経験の不足から過荷重による台車枠亀裂→補強を繰り返したケースも少なくない。
@SEI_YASUMA
そもそも、国鉄でも151系電車のDT23形台車で軽量化を極限まで追求した結果、過酷な運用に耐えかねて亀裂を頻発、
結局準急・急行用で相応の余裕を持たせてあった153・157系用DT24形並の厚さの板材による台車枠に新製交換せざるを
得なかったのであるから、このあたりの経験不足は深刻であった。
@SEI_YASUMA
設計荷重の過小評価に起因する台車枠亀裂はその後重装備の581・583系寝台電車でも再度繰り返され、
こちらは単純な板厚増大では済まず軸箱支持方式の変更さえ検討される有様であった。
その様な状況故に、これら軽量車では補強による自重増大も大きな問題で、おいそれと冷房化できなかった。
@SEI_YASUMA
むしろ、下手に補強する位なら最初から冷房を積んだ車体を新設計して交換した方がむしろ軽く作れる程で、
実際名鉄5000・5200などは車体新造で5300系となり、全電動車方式かつ元の台車・主要機器のままで冷房化されている。
もっとも、そのままでは120q/h運転対応できず後年台車は新製交換されたが。 @FKI300
さすがの軽量客車ですね。痛みが酷いとは、当時の竜華区で聞いた事はありましたが。そこまでひどかったとは驚きですね。
@SEI_YASUMA
軽量客車が牽引定数の制約の厳しい路線での輸送力増強に絶大な効果を発揮した一方でいろいろ「やり過ぎ」だったのは恐らく
国鉄自身、遅くとも1960年代後半には認識していたと思います。
その辺は12系客車以降で「オ」級が標準になって非冷房車も含め二度と「ナ」級が造られなかった事が示す通りで。
@SEI_YASUMA
それはそれとしても末期の10系はどれも悲壮な有様で、同じ頃に米原に留置されていた北陸本線用のものなど、
他の系列と比較しても一際ひどい状態だったのを思い出します。
鷹取だったかで解体中のものを見て、あまりの腐りっぷりに絶句したことも。
@senpakuunnei
御嶽山丸「スハネ16の流用した台枠・台車『だけ』はまだ余裕があったみたいだけどね(スユニ50に台車を供出した例があり、
10系を基とする流用新造車はこのスユニ50のみ)」
@SEI_YASUMA
スユニ50で流用したのはTR47台車位ですよ。オハネ17→スハネ16の台枠はUF21・30・37あたりが混在していて同様に種車となった
スハ43のそれとも当然異なる上、古いものだと1929年製の物も混じっていて既に老朽化していたので流用せず、
車体は台枠含め完全新規設計製作となっていた筈です。
@SEI_YASUMA
まぁ、流用されたのはほぼTR47台車だけですけど、そのTR47の大半が何度か行われた振替でスハ43などから
供出されたものですから、実質10系は経由しただけという状況ですね。
@Shi_gara_mi
特急の157系なんかも痛みやばかったらしいですよね
@SEI_YASUMA
157系はどこだったかの私鉄が譲渡を国鉄に打診して、下見にやってきてあまりの状態の悪さに絶句してその話が無しになったそうで、
まぁ満身創痍だったということなんでしょうね。聞いた話じゃ、最後の頃はあちこちガムテープ貼って応急措置してたとかで…。
@Shi_gara_mi
私鉄の初期高性能車も短命車多かったので、当時は車体の設計とかなかなか大変だったのかもしれませんね
長生きしたのは東急旧5000系と国鉄101系くらいかな、、、
@SEI_YASUMA
初期高性能車だから短命、という訳でもないのですけどね。例えば京阪1900なんかは格下げに伴う3扉化、
昇圧&冷房化と大改装を繰り返した結果とは言え車齢50年以上の長寿を全うしましたし。
@zweisser
阪急はご存知の通り、細かくメンテされていましたからね。高性能車が登場して近鉄・南海・東急は比較的早く一段窓を採用したが、
関西であっても阪神や京阪の一段下降窓はもっと後の採用になりますからね〜。
@SEI_YASUMA
人工透析に病院行って戻ってきたら10系客車や張殻構造車体についてのツイートにえらい数の反応があって驚く。 >>その辺は12系客車以降で「オ」級が標準になって非冷房車も含め二度と「ナ」級が造られなかった事が示す通りで。
12系急行形は初めから冷房がついていて、50系は冷房なしでオ級。
20系も更新等で実際にはオ級になっていたと聞く。
ナかオじゃなくて、ちゃんと自重で比べた方が良いと思うんだが。 >>204
写真のオハネフ12、妻面にリブが無いが、後天的なものだろうか?
ナハネ10→ナハネフ10→オハネフ12は全部リブ付きだと思っていた。
オロ11は相当酷かったんだな、晩年の写真でもそうは見えんかったが。
ナハ10系が淘汰されていた頃、某工場の人から
「ナハ10・11には車体が台枠ごとひねっていた車両があった」
と聞いたことがある。 20系の場合、年次改良や改造で重量が増えて、気付かぬうちにナ級突破してオ級になってた。
板谷峠で「あけぼの」が「津軽」より軽い筈なのに所定速度で登れない、
ということで問題になり、調べてみたら重量オーバー発覚。
しかし、400両以上いたナ級20系をぜんぶオに書き換えるのは大変な手間なので
運用でチェックしてそのままナ表記で済ませたとか。 >>208
20系の車体中央表記は「書き換える」じゃなくて「付け替える」かな。
車両だけじゃなくていろいろな書類全て書き換えることになるから面倒だな。
特例にしておけば、各車両2箇所、△のシール2枚貼ればいいのだから。 >>208
津軽 寝台10系 グリーン車62系 座席 10 43系ら 荷物郵便含
あけぼの 20系
EF71でダメ?と思ったら直流当時だとEF16→64の当時かあ。 オロハネ10が両側冷房化されてからも等級帯はあったのでしょうか? >>211
「あけぼの」の運転時期といいEF71になってからの話
昭和50年頃の「津軽」は401・404レが11両編成430tでEF71単機、402・403レは13両編成480tでEF71+ED78だったのに
表の上では20系13両が410t、EF71単機でも余裕のあるはずの「あけぼの」が板谷峠を通る他列車の3倍以上遅延を起こして問題になった
結局20系の重量超過が判明して「あけぼの」運用に補機連結することになったし後日24系化の時にはED78も追加製造したけど
それでも機関車運用に余裕なくて「津軽」も郵便車を荷レに移したり座席車を減車・12系化して2往復ともEF71単機(混雑時や冬期のみ補機)にした >>205
逆に80年代の車両はかなり丈夫にしている感がある >>214
鋼製車ながら201系185系は構造にも溶接工法にもきっちり凝りましたからねえ。
酷使された201系でも外板ベコベコってのは少なかったし、185系は今や35年経つのに外観がヤレてる感が低い。 201系は70年代の設計では?
まぁ外観がボロボロだった24系客車と比べてしっかりしていたな。 軽量化に力を注ぎすぎるとやはり長持ちしないものなのかなあ >>217
軽量化云々じゃなくて、昔の車両製造技術が未熟だっただけやぞ。 >>219
しかし、同じ下降窓は阪急など昔から私鉄でも採用していたが、
国鉄では腐食に悩まされた。
水抜きの問題がー、と上の方にあったけど。 うん、国鉄の古い車は薄い板(高耐候性じゃない)なうえ、水抜き穴や導水用の
形状になっていない車両は弱い。小田急8000が更新されてVVVFで現役なのも
水抜きありアルミユニット構造で阪急みたいなアルミ枠でしょ。
その上腰板がステンレスだから40年以上持つ車両になった。
近鉄はそこまでの構造ではなないのに頑張ってる方だな。
戦前旧型車の落とし窓車は単に板厚が厚くて頑丈なだけ(例、一畑デハニ、上田丸窓) そもそも私鉄と国鉄では走行距離が桁違いのような気がしますが。 距離関係するのは足回りのガタとか軽量客車の構体ゆがみ等。
むしろ海風浴びてる江ノ電旧型とかのほうがよっぽど条件は悪く、
ただ、運用本数-車庫内でメンテ出来る余裕が違うと思うね 伊豆急の塩害は100系は対策して設計していたようで、機器を2100に一部再利用できるほど。
車体も意外に強くて103号は56年めなのに動態保存中。
情けないのは中継ぎで入った200系(113−115)即ボロボロで車体も剥げたね。
伊豆急に入った車両で真っ先に壊滅したのが157系というのは有名な話ですな。 >情けないのは中継ぎで入った200系(113−115)即ボロボロで車体も剥げたね。
言っとくけどそれは塩害ではないからね ポポンデッタのバイトも、鉄ヲタは絶対採用しないしな アホな鉄ヲタを採用しないだけでしょ
>>232
10系スレいるなら星さん見ればわかるだろ。趣味を仕事にした方がいいに決まってる
言い訳してるだけ >ポポンデッタのバイトも、鉄ヲタは絶対採用しないしな
個人商店はともかく、チェーンはそれ鉄則だね。
昔よく行ってた模型店、鉄よりミリが多いとこだったけど
ヲタ店員が常連や自分が買うモノ優先で早めなのに
予約品が回って来ない事があった。
もっと入荷数少ないはずの他店に行ったら普通に買えてそれ以来行かなくなったね。 星さんが12系、14系の開発陣頭指揮してたら形式どうなってただろう?
一等寝台車や進駐軍車両の改番に相当なこだわりを見せてたみたいだけど、ハネとハザの違いはあるけど、方や新系列の固定編成、方や旧来の方式なのに両方とも12と13使用してるのを許せるだろうか? もしそうなってたら、12系→14系 14系→16系 15形→17形だったかもね。 あ、スハネ16やオシ16・17現役だったか。なら18以降まで持っていかねば 結果的には12系が18系、14系が19系でも何の問題も起きないと思うけど
当時どう考えるかだね 新系列の14系座席車と寝台車を別系列に区分しなかったのは、
10系でも同じ10台を使ったことは影響してるかな?
10系でも冷改前で寝台車の10代が形式消滅するまでは、同じ10代だったし。 >>240
>>241
当時の規定だと、1の位が8・9は3軸ボギー車だったはず。 限界まで軽量化したのはいいがハイテン鋼じゃなかったのが致命的だったな
15年で廃車になったのある
国鉄でハイテン鋼の採用は特許の関係で201系量産車まで待たなければいけなかった
同世代で構造が似通った東急5000系はハイテン鋼で21世紀になっても地方私鉄で生き延びた 最初に軽量ボディにした西鉄313はドア増設と冷房つけても長寿だったね。 アルミ合金試作車があったらどうなっていたか
客車でのアルミの採用はマニ30が最初で営業用はななつ星in九州が最初 でも電車だと70年代迄に301系と381系は車体に関しては問題無く運用してたけど?
電車系の工場と客車系の工場って組合の系統違ったっけ? >>250
あんまり組合の影響力を過大評価するのもなあ。
北海道のED76を組合の都合で1000番台区分にしたとか、
多々あるが、設計は車両設計事務所、臨時車両設計事務所でしていて、
運用は各部局で行っていたので、組合が大きく熔解できるわけでもない。 >>251
熔解って何か溶けてんのかと思ったら容喙かよ
現場の職員の意見を組合が吸い上げて関連部局に文句言うんだよ EF65 5000番代(海峡線仕様)
あれは昭和64年のことだったかな。変電所があれして、交流があれして直流であれして、
急遽1000番台を改造して青函間に投入したはいいが、
一週間で昭和天皇があれして、交流があれして、20,000Vで
5000番台廃車だからなあ。
レイルマガジンが「5000番台の今!」とか煽っていたけど、発売日には廃車だからなあ。 >>248
オロ11かなんかで使ってあっさり溶けたじゃん >>244
10系客車が車齢15〜20年ぐらいになった頃は国鉄の労使関係も悪化してた頃だったからな。
労使関係最悪期で工場などの検修部門でもストや闘争が相次いだ時期と重なってしまったため、
ろくに整備もできずに劣化が進行して寿命を縮めたというのもある。 同じ時期を過ごしてきた他の客車では、
オハ35系戦前=丈夫
オハ35系戦後すぐの鋼板屋根=ベコボコ
スハ43系=超丈夫
スハ43系鋼板屋根軽量版=若干ガタ
だから構造と材質が決め手だとは思うけどね。大井川に行った旧客で
戦後型鋼板屋根のオハ35857だけ脱落して解体され、後は現役が物語ってる。 >>262
オハ61系も何気に丈夫だったような。スハ43の鋼鈑軽量型は後に重量上オハ46になった車もある。 >>263
オハ46として最初から作られた鋼板屋根は腐食してて現存は13番だけ
スハ43の一部軽量化で編入組はまだ良い方で大井川にいる47(国交省のせい)は元気
61系も43系形車体設計だから台車だけ軽いっていうだけだね。 お金がないのは重々承知で、文化むらのナハフ11-1とオハネ12-29は
なんとか維持していただきたいもの。 布張り屋根はメンテしないと鋼板屋根より早く朽ちる。
全国の保存客車も雨避けのない布張り客車は壊滅的状況。 それはわかる。ただ大工仕事で修繕出来るから
窓枠やドア含め直せると新金谷の見学の際言われたんだ。
鋼板製車で薄いの使っていたり前述戦後型初期のは材質から粗悪で
構造部材まで逝ってるから直しようがないと言う話。 ナーーウwなヤングなオレだが高校受験前の
昭和57年11月改正前に上野口10系寝台の写真を撮れたのは幸いだった。尾久で留置中のオハネフやオロネを撮ったがこともあろうに当時は
性能の悪いフジのリバーサルフィルムで撮ってしまったので青被りしていて陰鬱な10系が更に陰鬱に写ってるw >>260
ジュラルミンならオロ4098〜40102だな、
車体腐食からオロ42になったとのことだが、星晃氏の記述に
「まだそこまででもなかったが、ジュラ電からすると、そのうち更新することになる」
とのことで車体新製を行った、とある。
>>263
>>264
スハ43の軽量化は鋼板ではなく、台枠構成材と座席などの軽量化じゃないかな。
オハ46編入車が含まれる製造年次から、台枠の構成材が大幅に見直されている。
TR47の軽量化はいつからか解からん。
オハ61系は材料をケチっている、車内内張りが薄い、等の差はある。
また、スハ43・スハフ42からは台枠構造がそれまでの客車とは異なっている。
最初に登場したオハ60はバラック客車だったが、S26ころからまともになったんじゃないかな。
ソースはRPスハ43系特集とオハ61系特集、長々すまん。 スハフ42でオハフ45に編入された車両はなかった。
緩急車の場合は部分的軽量化を図っても「オ」級にはならなかったからな。
スハ43のオハ46編入車を改造したオハフ45はあったけど。 >>264
ほぼ無意味な謎改番は国交省のせいなの? 法の抜け道というか、むしろ黙認してくれただけなのに、原因みたいに言われちゃ心外だろうなw オハネ12は車掌室も尾灯もないから客車編成最後尾に連結される事はなかったんだろうか? 通常は無いんじゃない?
非常時とか例外はありそうだけど。
カンテラ一個ぶら下げとけば良いだけだし。 ネタ切れっぽいので
ナロ10は落成後そのまま青大将やはつかりに配備された訳だけど、コレと対になる3等車のプラン(要はスハ44の後継)は無かったのかな?
それとも、逆にナロ10は最初から特急としては一時しのぎの前提でしかなかったのか?
ナロ10配備前のスロ54は当時特に老朽化とかの車齢でもないし…いまいちよくわからん >>277
いわゆる重量的問題。元々61系のスロ60や43系のスロ54が使われていた。
ところか当時のつばめやはとの組成は1等展望車のマ級と食堂車以外は全て
ス級(スハニ35・スハ44)の重量級車両ばかりで、EF58電気機関車が東京〜大阪全部ならそれでもいいが、
当初東海道線が電化してたのは静岡県辺りまでで、そこから蒸気機関車のC62になるわけだが、
そこで重量的問題が出てくる。
そもそも貨物用D52のボイラーを使って巨大旅客機を作ったのはいいが、超重量級貨物列車用から
旅客用にされたらその分引っ張れる能力も限られる。
だから少しでも軽くしようとなって2等のスロをナロ10にチェンジ。食堂車も43系のマシ35から10系オシ17に。
その後のはつかりにも生かされた。
3等も軽量車に変えちゃった例がかもめ。元々スタートはスハニ35 スハ44 ナロ10 スハフ43の固定クロスで、
竹下のデルタで方向転換していたのをオハニ36 ナハ10 ナロ10 ナハフ10にして方転も解消。 東海道全線電化の時に青大将だろ
なにいってんだ。
で、ナロ10作ったから当時の一番の特急に新製車いれたんだろ >>277
模型的に妄想はするな。
小窓が並んだ軽量客車のハザ。
展望車はどうするかだが。 >>281
裾絞りはどうするか?とか
スハ44の様な小窓ピッチで当時の軽量構造を維持できるのか?とか
想像するの楽しいよね 南シナの2両は、高校時代に毎日のように見ていた。
学校帰りなんかにホームでも見かけたが、65よりも58牽引の方が似合ってる。
当時、毎朝、東京7:44発 浜松行きに乗って、品川まで通っていたよ。
田町を過ぎて東機の庫を覗いて、減速する頃見えてくる。
帰りは、京浜東北線の高架区間から、ナシ20を見ていた。 昭和50・51年辺りに東海道線藤沢駅留置線に大量の10系(ハ、ハフ、ハネ)客車が留置されてたが、最終的には大船工場で解体廃車に成ったのか? 283 浜松行きは客車ですか 電車ですか?
客車なら昭和20年代後半のお生まれかな?
製造20年位しか営業では使われなかった10系
客車。南シナ 2021が遥かあとJR時代の1994年まで事業用で使われてたのは客乗せてなければ空中分解しても大丈夫という事だったんでしょうねえ。 >>285
静ママの111系だったと思います。
東京駅の売店でコーヒーを買って、品川までクロスシートを愉しむ変な高校生でした。
東機にEF58 88・124なんかがいた頃です。ヨンサントオ産です。 10系と20系は軽量客車初期ということもあり、窓構造が12系以後(以降じゃないよ)と異なる
この辺りは高砂工場に勤務していた人のブログを見ればよい
さらに10系は暖房装置の配線ミスと構造的欠陥で2度も車両火災を引き起こしている
しかも昭和46年〜昭和47年に集中して
1度目 急行雲仙のナハ10 昭和46年10月
2度目 急行きたぐに(北陸トンネル火災事件)のオシ17 昭和47年11月
なお、急行阿蘇の郵便車が昭和47年4月だけどこれはスユ43
これで抜本的な防火工事に多額の費用が必要な10系客車は可能な限り速やかに廃車することが求められ、
スハ32系やオハ35系(の1945年以前製)客車もほぼ寿命(40年程度)、
さらに赤字が多くなり、
スト権ストでの責任相殺が必要となったことから、
必要最小限度の要求を満たした迷車50系客車で置き換えられた