【レッドトレイン】国鉄客車50系 [転載禁止]©2ch.net
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国鉄のレッドトレイン50系客車と関連の話題はこちらへ >>841
これじゃね
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Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) ワサフやスニは日豊線には余り来なかったけどな。ボロいマニ36とか60中心で
パレット積みは東海道山陽・東北・上越・北陸、せいぜい鹿児島本線が多かったよ。 8年で廃車になったのなかったか?
デビュー早々用途喪失であちこちの駅に疎開留置されたのあった >>844
平成入ってすぐに廃車されたの居たしな
JR四国、西日本は特に淘汰早かったし まぁでも40年経ったいまでも乗ろうと思えば乗れるからな。良い方だと思う
四国も 50系各形式の最初の廃車日 (他形式への改造除く)
オハ50 1989.2.28
オハフ50 1989.2.28
オハ51 1991.3.20
オハフ51 1992.10.2
マニ50 1987.1.14
スユニ50 1986.3.31
活躍期間が最短だった車両
オハ50 2251 高松 1981.6.24 - 1989.2.28 約7年8ヶ月
オハフ50 267〜271 高松 1981.1.8 - 1989.2.28 約8年2ヶ月
オハ51 55 岩見沢 1982.6.8 - 1991.3.20 約8年9ヶ月
オハフ51 8 岩見沢 1978.12.18 - 1992.10.2 約13年9ヶ月
マニ50 2221 名古屋 1981.7.6 - 1987.2.9 約5年7ヶ月
スユニ50 2060(←オハ46 44) 竜華 1983.3.14 - 1986.3.31 約3年0ヶ月 客車の再評価 -50系誕生前夜動力方式検討の経緯- (鉄ピクNo.785) より抜粋
・通勤用車両に必要な条件としては、停車時分を短くできる出入口構造が望ましいのは当然で、電車のようにドア幅とドア数を増やせれば
良いのだが、客車区間はホーム高さが低いので出入口にステップを設ける必要があり、中央にドアを増設するには側梁を切り欠く
大改造になって現実的でなく、前後のドアも手動の狭い開戸でラッシュ向きではない。
・通勤用車両は朝夕のラッシュ時に走行するだけのものが多く、日車キロが少ないので資本費の安価な客車を投入することの効果が
大きい。
・気動車を多用すれば経費が増加するので、経営計画室の神代邦雄氏がさらに分析した結果を引用すれば、
1.直流電化区間は12両以上で客車が有利
2.交流電化区間は10両以上で客車が有利
3.非電化区間は5両以上で客車が有利
という指針を出し、非電化区間を中心に老朽化した旧型客車の置換えに、50系客車の導入が始まった。
・通勤用車両に冷房装置を装備することは電車では一般化していたが、ローカル列車で主として朝夕しか運転しない客車に冷房装置を
搭載するためにはディーゼル発電セットを床下に装備することになり、コスト面でDCに近くなって経済性を損なうため、非冷房で誕生
することになった。
・乗降時分の短縮は必要な条件であり、ドア幅を広げてドアエンジン付きの引戸とし、デッキは設けるものの仕切戸の幅を広げ、仕切に
近い部分をロングシートにしたセミクロスシート構造にして、乗り降りしやすいように改善された。 >>849
>1.直流電化区間は12両以上で客車が有利
>2.交流電化区間は10両以上で客車が有利
>3.非電化区間は5両以上で客車が有利
両数長めな感じ
実際の50系ってこんな編成だったっけ? うちん所は朝一で県都に向かうのが6両だった
他の前後便は電車4両 >>850
昭和50年前後の客車列車のまま車両を取り替えるかどうかの基準の話だから
実際国鉄時代の旧客普通列車や50系列車は判断基準のような長編成が比較的多かったぞ 実質的に直流区間については客車のまま車両の置換えはしないって宣言したのと同じ
50系の投入区間を見ると実際ほぼその通りになってるし 長大編成組むには客車の方が安上がりなのでラッシュ輸送では重宝したがそれ以外では経費嵩むので持て余したといえよう
板谷峠でED78重連+50系2連とか異様に非効率なのあったが機関車の回送が目的だった >>848
いまみたいに
東南アジアに譲渡とか考えていなかったのかな? ガキの転落防止を教育委員会側から強く要望(ほぼ脅迫)されたのもある
キハ35系で失敗したと認識したのは、通勤専用としては成功した同型を地方のキハ20系と一緒に運用させたため
またキハ20系を基本として考えているため、余りロングシートのない同車では詰め込みができず、6両以上で客車が有利となってしまう
客車なんだからキハ35系みたいなものは必要なく、オハ51 41改造後のような片引戸3枚で充分
また中速通勤車であり、しかも朝夕程度の運転なんだから、車輪径を610mmにしてもよかった(台車開発をケチったのは間違いないだろう) あとマル生事件直後のあの状態(それが積もり積もってスト権ストの悪態をさらす結果になった)だったので、
あまり奇抜な車両が入れられなかったのもある
始めからエンジンに失敗したキハ45系を出来る限り軽量化させるため、ロングシートにして投入すればよかったけど、後の祭り
直流区間へ投入する気がなかったのは、電暖装備車が圧倒的に不足していたためと給電能力不足
交直流どちらともだが、長時間停車時には架線溶断防止のために給電停止 爺って説明書も読まずにトラブル起こしてクレームつけるよね
そしてそれを指摘されるとその態度はなんだと逆ギレ
まさに老害 いったい何を喰えば>>858みたいな知ったか爺が出来上がるんだろう つーかこの知ったか爺、>>808だろ
808 名前:回想774列車[] 投稿日:2018/04/24(火) 12:42:23.97 ID:q/Ze9xTs
50系は通勤輸送が主目的だったものの、
置き換えとなるオハ35系が担っていた臨時急行への充当を国会議員実績のために考慮させられており、
両端2ドアデッキ付となった
だから、東海にいた偉い神様の文章を端的に表現すれば、「議員実績のため」と そんな時代でも近郊型電車仕様(両開き3ドアセミクロス)どころか通勤型電車仕様(両開き4ドアロング)で唯一投入できた路線がある
常磐線中電
交直流電車はものすごく高い
EF81が余って北陸本線でEF70を追い出そうとしていた
EF81(300番台以外)もEF80(31-58号機以外)も電気暖房付
ホーム高さは401・403系運転中のため、920mm以上へかさ上げ済み
そして長い(だいたい8両。最長12両勝田以南)
415系は1975年投入車から冷房付、他は1979年から冷房設置工事開始
ここで成功すれば、次は鹿児島・日豊本線福岡佐賀区間 交直流共に架線溶断防止のため長時間停車時は給電停止w
腹痛いw そんな時代でも通勤型電車仕様(両開き4ドアロング)を唯一投入できた路線が常磐線中電w
笑いすぎて腹痛いw 50系常磐線投入→403系・415系ほぼ転出→日本海側を除く交直流・交流架線下DC→非電化老朽PC廃車
415系の新車投入が大幅に減る→115系製造が増える→2両編成置き換え前倒し→直流架線下DC→非電化老朽PC廃車
920mmホームかさ上げ化で500番台以外のED76しか運転できない区間を除く交流電化区間はどこでも運転できる
EF81北陸地区大量引き上げ→EF70・EF62・ED75運用が増える+EF58ボロボロ→DD54を暖房車代わりに牽引してしまえ→DD51余剰減少 >>865
501系は時代が違いすぎるよね
爺さん発狂し始めてるけど大丈夫か? 50系常磐線投入で403系・415系ほぼ転出w
もう笑い死ぬわw
>>867
耄碌入ってるよねw >>850
電化区間なら9連以上はそこそこあった。東北奥羽とか草津線とか。仙台盛岡弘前辺りだと
13連があったかな。非電化だといまでは単行ワンマンのようなところでも6連の列車があった
>>853
50系登場時くらいになると直流区間の客車普通列車は上野口と紀勢と電化した草津くらい
しかないもんな
上野口は高崎東北常磐があって、これも8〜12連だったけど、新幹線で先が見えてたから
置換しなかった。草津は電化しても暖房の関係もあってDD51のまま。紀勢は12系化という 廃止になった上山田線
廃止間際の時点で、通勤通学列車は50系だった。
三セク化の田川線にも、北九州市直通の50系が走っていた。 >>855
実際海外への車両譲渡は商社が仲介するから、90年代初頭はJR各社と商社にそんな関係がなかったのだろう。 あとJR西日本のEF66。
車歴浅いのに40号機と55号機はJR貨物に譲渡せず廃車。
00年代はみんな譲渡する形になったのに
謎なんだよな。 >>855
サハリンにJR東日本キハ58に混じって1両渡っただけか
キハ58は時折動向が鉄道雑誌に掲載されていたが、50系は行方不明だか見た記憶はない
JR西日本?は海外譲渡を考えていた話を鉄道雑誌で見たような記憶もあるが、実現しなかったな 不遇の環境で生まれた50系を偏向して溺愛するためのスレです
それ以外の方は別スレで話してください(キリッ >>873
55号機は須磨あたりで上の道路から転落したトレーラーと衝突し脱線大破したのが発端となり復帰後も原因不明の故障が突出して多く、譲渡対象には入らず早期に廃車 函館本線、(津軽)海峡線、東北本線、奥羽本線、播但線、山陰本線、土讃線、筑豊本線、久大本線、、、
JR各社の50系に乗っていたことに、最近気付いた。
ま、どうでもいいことだが。 50系の譲渡車は樽見と真岡、それにサハリン(オハフ502162)だけだけど、津軽や大井川とかに譲渡されてたらやっぱり旧客マニアの目の敵にされてたんだろうか… いやいや、大井川も旧客延命で12・14系買ったしいいんじゃない? 大井川鐵道は50系購入検討したみたいだな
結局50系ではなく秋田で控車代用にしていたスハフ42になったらしいが 大井川の旧客(スレチだけど)80年代末期-91年はカオスだったよ。
なにしろ車籍が何処の書物にも書いてない車両が多数でw
新規形式登録不可の時代になってて清算事業団の備品を改番して編入したり
85年頃から国鉄所有のまま貸出からいつの間にか入ってたり。
秋田のはその最後期のだね、その直前が山陰のオハ46→47化で 「50系は臨時急行への充当を国会議員実績のために考慮させられて両端2ドアデッキ付になった」と言いだした
>>808のソースとされる「須田翁の鉄道ばなし」を入手し、その記載内容を確認してみた
ええ、そんな記述は一切ありませんでしたわ 戸袋窓の上に塞ぐ様にして
広告が貼ってあったのが印象に強い
普通なら戸袋窓を埋めて
壁にするものでは?と思うが 額縁に、チャレンジ20000キロの広告は掲示されていたな(50系だけではないが)。
50系現役時代=20000キロキャンペーンの時期はおおむね一致。 レールオリエンテーション
ポスターは若き日の坂上忍
でも50系の戸袋窓、15センチ位のシール広告が貼ってあった程度しか記憶がないな。 戸袋窓って側面じゃなくデッキのドアのことかい。
なーんだ。 上京して尾久に住んでた時にいつも尾久駅のホームからアメトレを見ていた 北陸本線の傍に家があり、小学校入学前によく線路が見える窓にへばりついていた。
もう既に旧客列車が末期状態であり、青い旧客の3両か6両(当時はもうそれに固定されていた)を頻繁に見た
(俺は中学生になるまで茶色い車両の存在を一切知らなかったから、おそらく小松金沢間には既に青い旧客ばかりだったものと思う)。
そこにあくる日、いきなり全編成を真っ赤っかにした“オバケ列車”が駆け抜けた時の衝撃は忘れない。
当時の北陸本線では電車といえば急行型の快速か急行と、クッソ長い特急型の食堂車付きの特急、あとは赤い電気機関車やディーゼル機関車、
あとは貨物列車しか見ておらず、「赤い機関車に牽かれているあの血塗られた物体は一体何なんだ」と幼児ながらに長らく疑問であった。
小学生の間には北陸本線は金沢まで最高85km/hから120km/hへの高速化が完了し、471、473、475が普通列車の運用にも入るようになり客車普通列車は居なくなった。
北陸本線から客車普通列車は無くなったが、石川県内では朝夕のみ七尾線で12系客車が走っていた(これが後に城端氷見線のキサハ34となる)。
小学生時代の何年間かは青い旧客と赤いオバケの普通列車が混在していたと思う(50系客車と知るのはやはり中学生時代)。
まとまりがなくクッソ長い文で申し訳ないが、何が言いたいかといえば、北陸本線にも“血塗られた赤いオバケ”こと50系客車は確かに居たのだ。
50系に乗ったかどうかはわからない、青い旧客に乗った記憶はある。乗降口を開け放ったまま走っていたので。 >まとまりがなくクッソ長い文で申し訳ないが
ホントだよ、 北斗星の間合いで☆彡ガマが50系牽引していたのは
斬新だったな。 乗り心地としてはクハ455と同等な感じ
バネ構造がまるで違うのに何故あそこまで似ていたのか不思議 客車は軽いせいかコイルばねでも決して乗り心地悪くないよね。 不思議な乗り心地だったけど、やっぱり10系ハザじゃないかな、近いの いや、ナハ10系は車体剛性不足でガシャガシャだよ。 しかし解体処分の迅速さは特筆物だったわな、
廃車体の仮置きに重税課すほど国税庁は鬼じゃなかろうに、
当時のJR東日本にどんな事情があったのだろうか。
旧客は10年以上かけてだらだらと処分してたのに 旧客って清算事業団名義になってたのが特に山陰とかに多かったから
あれは税務上有利だったろうね。91年に大井川に名義変更した凄い車両もある。 あの当時旧客に税金かかってたか?
税法上資産価値ゼロだろ J-TRAINか何かの対談で
宮原の整備員がトワイライトの車両は絶縁が云々
言っていたが、まだ手を入れれば使えたと思うんだよね
20年経っても人気に陰りのない
列車だったんだから…
ただ行く手を北陸三セク、新潟労組、
貨物と新幹線が専有したトンネルに
奪われたけどな ネットのネタを都合のいいようにつなぎ合わせたおとぎ話を信じてるヲタって見ていて実に哀れだよな >>907
西の経営側は
さっさとブルトレなんか廃止したい魂胆だったからな >>907は労組のせいにしてちょろりと思想操作がニクいね トワイライトエクスプレスの絶縁に関しては、交流電化区間を走らないという大前提があればもう少しは生き延びた可能性はあるかな。
元々交流20000V&潮風吹き曝し自体厳しいし、海峡線の25000V昇圧区間&海水の漏水の中を通過なんて想像しただけでもゾッとしただろう。 そいえば架線、特に直流でプラスだとマイナスの雷落ちたりしたらどうしてんのかね
車両は避雷器ついてたりするね 架線柱ならともかく架線に落雷すること心配するやついないんじゃない?
TXの変電所近くには落雷防止(イオナイザー)架線柱が設置してあるけど ピ〜ヒャラリ〜♪
レッドトレインカモーン!
プリーズオープンザドアー!
ブルートレインカモーン! いずれ電車なり気動車なりに取って代わられるのがわかってても
1000両近く作っちゃったのね
今の視点で無駄使いと叩きはしないけど
一度決めたことはそうそう簡単に方向転換できないのを物語ってくれてる 製造コスト安いんだろ
ただ、当時は海外譲渡とか改造のベースにしなかったのは
惜しいな 大井川鐵道も購入しとけば良かったのになあ
12系、14系より整備に手は掛からなさそうだから 実際購入しようとしてたらしい
秋田に購入のために下見に行ってそこにあったスハフ42を購入したとか >>919
機関車運転士が多量にいれば客車導入もやむを得なかったとか。国労の圧力もあったはず。 国労とかの労働組合側ではなく、教育ママ側の圧力を無能地元政治家が利用した
通勤通学用途が主になるとわかっているのだから、片開き3ドアにする
昔の構造では垂下するけど、現にオハ51 41では問題なかったし、中央だけ12系の折戸にしても問題なかった
あの時点で「万が一の急行使用」を本気で考えていたわけがなく、無能地元政治家のおもちゃにされただけ
そのツケは国鉄負の財産として今も残っている >>924
お前 >>808 だろ
いい加減ソース出せよ。 >>925
勝手な決めつけご苦労さま
早く国鉄を肥大化して借金まみれにしたツケを自腹で払ってくださいな ノロッコは推進運転で結構な速度出しているな
50系レッドトレインもやろうと思えば出来たんだな 質問なんだけど、北海道の51って現役時代に旧客(スハ45)とかと併結して営業運転してました?何かおぼろ気な記憶はあるけど、勘違いかもしれんし。 いしかりライナー
マリンライナー
小樽〜岩見沢の各駅停車しかわからない つべでレッドトレインの動画見たけど、結構加速速いじゃん。戸扱いしてからウテシとの無線交信で時間食うのかな? レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。