【レッドトレイン】国鉄客車50系 [転載禁止]©2ch.net
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国鉄のレッドトレイン50系客車と関連の話題はこちらへ 津軽線もだね
正確に書けば青森駅から青森運転所までの移動で奥羽線から津軽線を
少し走って盛アオ入庫/出庫するから一応、津軽線も走っている。 青森運転所、現センターまでの回送線、奥羽と津軽線の間にあるんだけど。 津軽線は青函トンネル開業の63-3まで蟹田行があった。
夕方蟹田に行って翌朝青森に戻る輸送力列車。電化で485に! 50系といえば唯一の定期快速夜行が四国にありましたね
高松0:46発の221列車で高地に到着したのが4:32
ttp://livedoor.blogimg.jp/railart/imgs/e/e/ee06a5d5.jpg レッドトレインじゃなけりゃ海峡があったが
14系より狭くて、優れてるのはトンネル通過位置表示器が客室扉上についてた位 >>241
高知についても寝ている客がいれば、おいこらと言わんばかりに作業員が窓をサボで叩いてたたき起こす。 50系レッドトレインは最後に乗ったのが磐越西線・会津若松→新津を
走った223レが最後になる。DD51に牽かれて阿賀野川沿いに走り、
車窓から飯豊連峰がよく見えた。日出谷駅で駅弁とりめしの立売も
あって一番心に残る50系の旅だった。冬はDD51が焚くSGのスチームが
DD51や50系から漏れて、これぞ冬の風物詩と思ったくらいだ。
1995年12月で廃止になったけど・・・ 701系になって駅弁が売れなくなった/食べづらくなった・・・と言うけれど、
ぶっちゃけ50系客車の頃から駅弁を食べるような雰囲気じゃなかったし、
テーブルも無かったから、難儀した・・・というのをふと思い出した。
東北本線の一ノ関〜盛岡の話。 話違うけど、115系も増備途中でテーブル廃止されている。 そういえば秋田の快速って名前ついてたね。
ゆうぞら 以外におものがわとあとなんだっけ?
羽越がおばこだった?青森口の岩木ってのもあった。
サボにも表記されてた。 1988年から1990年まで福島〜山形間で運行していた
臨時快速列車「かもしか」なんてもあった 富でも過渡でも、サボ位置が上側の初期車&スユニを出してくれないかなぁ・・・ レッドトレインという愛称ってどこまで使われたんだろう。
聞き覚えはあるけど、あまり定着した印象は受けないよね。 当時のファンからは忌み嫌われていたからか、愛称で呼ばれることは少なかったな。 忌み嫌われるって…鉄オタって昔からバカなんだな
その時その時の車両や雰囲気を味わうのも大事だと思うんだか 50系でいいからな。レッドトレインっていちいち言う奴はいなかったろ。ブルトレみたいに略して呼べないしな
>>259
はいはい。E233でも味わってなさいね、ボク >>260
ボクって
やはり鉄オタって底が知れとるな >>261
最新、懐かし板にも変な輩が来るようになったから放置してあげて。 >>262
鉄オタを一からげにするような言い方してごめん >>259
SL駆逐したDLも目の仇にしていたしな >>266
この当時は東萩〜福知山は在来型客車だけだったか。 オハ50・オハフ50に冷房が始めて付いたのは門ハイ車だっけ? 昭和53年田舎に行くと構内は旧型客車がずらーりと置いてあった。
その翌年には50系に乗って叔母さんの作ったゆかりオニギリ食べた。
滅茶苦茶腹が減ってた俺は飢えから救済された。俺的には50系といえば
ゆかりおにぎり。
キレイで静かで乗り心地も良く乗る分には申し分なかったが
趣味的には50系なんて旧客追いやったクッソ面白くない存在だった。
のちにJRのシールが貼られ、はいはい、新形式、はいはいJRJRなんて
覚めた意識で見ていた。96年頃、最後に残った客車列車として注目されてる
などと雑誌の記事か何かで見て最近の若いもんはわからんもんだな、と思った。 >>273
50系客車も12系客車も懐かしい対象。
ひょっとすると117系電車あたりまでは懐かしい対象かも。
学生時代に帰省するときに209系試作車(901系)の新製時の甲種輸送を見た世代。 せっかく冷改したものの、すぐに廃車になってもったいなかったね。
日豊線小倉口とか。 50系といえば京都−柘植の2720レ(50系の長大編成)と
稚内−旭川の324レ(オハフ51が1両のみ)が対照的だった
因みに宗谷本線324レの編成はオハフ51のほか荷物車2両の3両編成 >>272
違う。海峡用5000番台1987年が先。九州1000番台は1991年
国鉄時代は北九州で支線分も併結した比較的長い編成で運転
ジャーナル別冊38 54Pに(1984.5.7)
日豊本線+田川線の門司港→13→行橋→525柳ヶ浦7/4435田川後藤寺6の13両運転がある
最短は山陰本線 鳥取の土日 DD51+オハフ50 ピクトリアルに乗っていたはずだが、いつだったかわからん 50系の長編成といえば男鹿線のDD51牽引の10両編成もなかなか見映えが良かった
短編成だと奥羽本線でED75-700牽引の2両編成も風情があったな 八郎潟といえばネタがもう一つ。
客レの後ろにキハをぶら下げて、切り離しってのもあった。 >>280
東北本線・盛岡〜好摩間でもあったような? 旧客と花輪線のキハ52はあった。50系になってからは知らないけど 伯備線は、輸送力列車が2ドア非冷の50系、それ以外は115系冷房編成だったのであまり評判がよくなかったな。
たしか草津線も同じパターン。 >>283
草津線では主に使われていたのは113系
客車列車は電化後もディーゼル機関車けん引。京都まで乗り入れる客車列車は当時の時刻表では瀬田通過。 >>284
JR後は瀬田にも停車
7連と9連とあったが、当時カメラが無いガキの頃だったので撮影していないのが悔やまれる >>281
盛岡7:11発、539レ 沼宮内・大館行きじゃないかな
旧客4両に2〜3両のキハがぶら下がって運転 鉄道ジャーナルの実乗記事で、アイドリングのみとありました。 アイドリングってことは発電機とかも活きていたってことか。 >>287
キハはアイドリングで、車でいえばニュートラル状態と言ってたよ 今だったらアイドリングは環境条例に引っ掛かるな。停車中じゃないからいいのか? キハ、エンジン回してないと自動ドアと照明使えないから
というかあれ、なんで併結してたんだろうな。解放の手間なら続行にすればよかったのに 50系製造半分にしつつ、40系DCを200両余分に製造したら良かった。
ED75-700やEF81も貨物列車で有効活用出来た。 >>277
それ持ってます
表紙がDD51+50系のかな?
実家に帰らないと見れないけど >>295 朝の通勤通学時間帯とはいえ、仙台周辺に比べれば線路容量はそれほど逼迫していないと思うのだが。
一本スジを増やすのが面倒といった旧国鉄体質が絡んでるんでは? 好摩の構内ダイヤ、単線非自動の花輪線の閉塞取扱い、旅客時刻表にはない貨物列車の存在、
カゲスジの存在…、線路容量とは言っても、その時に線路に乗ってる列車の本数だけの問題
じゃないでしょ。 勾配区間クズの欠陥車両キハ40は大量投入されたら各地で大迷惑なんだが 投入された地域は大部分が引張力に優れた交流電気機関車か、パワフルなDD51だったから、一けたしか編成両数がない牽引なんてキハ40と比較にならんだろ。 >>302
融通が利くからな。勾配がキツけりゃ機関車を増やすか、客車を減らせば良いし。
幾らキハ58がボロくなっても、現場からキハ58が支持された辺り、本当に困って居たんだと思う。
(電化が進むと、最終的に山間部が非電化で残るのは自明。) >>304
国鉄末期〜JR初期には、キハ58+キハ40の2両編成は良く見られた。
キハ40は1エンジンのキハ20、キハ23、キハ28などの置き換えにはなっても
2エンジンの置き換えにはパワー不足。
キハ52が遅くまで残ったのも同じ理由。 >>305
40系でダブルエンジンの車両を作れなかったものかね?
あるいはキハ65並みの500PSエンジンを載せるとか。 >>302
板谷峠のEL重連+50系2両とか、完全にパワーを持て余してる感じだったな >>306
40系のエンジンは大型化したので2台エンジン車は作れなかったと昔どこかのスレでみたような
あとキハ65のエンジンじゃ製造コスト高杉で一般用気動車には厳しいような >>307
坂の途中で客車がいなくなっても気づかなさそうw
(実際にはブレーキ関係でそんなことにはならないが…) >>308
芸備線はキハ66,67の導入も検討したけど
コスト面から50系客車になった。 大型化はしてないでしょ。ただ安く作りたかっただけ。キハ40、いまは後出しでいくらでも否定的な話になるけど
そもそもキハ10とか17の置換だったし、当時は大赤字で合理化。しょうがないんだよ。 また来てみた。50系は旧型客車よりつくりはしっかりしてるんだから
40年か50年くらい、つまり1979+40=2019 +50=2029年位までは
残ると思ってたんだがなあ。といっても順当に行っても今年で車齢
36年でそろそろ老朽化がーーって頃か。昭和53年にいた旧型客車
と大体同じ位の車齢か。(53-36=17 昭和17年)
筑豊線のDD51に引かれたローカルっぽいのと比べると門司港のあたり
に停まっていたED75の牽引する柳ヶ浦行のサボつけた立派な編成
には驚いたな そもそも300馬力のエンジンを220馬力と過剰にパワーダウンしてしまったのが問題だよな。
いくら赤字で苦しんでるとはいえ、キハ52、58はほとんど昭和30年代に製造されたんだから、近い将来を考えれば勾配区間用の300馬力仕様は必要だったんでないかと。
それとも製造されていた80年前後辺りは、本社の方で分割民営化はほぼ既定路線で新会社に丸投げにする積もりだったからか??
しかし板谷の2両に重連って無駄に思えるが、ED78もEF71も単機で十分そうだけど問題あったんかな。 >>313 重連を空で回送させる位なら、客車2両の旅客列車として設定した方がマシ、という運用上の都合によるものなんでは? >>313
あけぼのの間合いかなんかで重連だったんじゃなかったのか >>306
エンジンはともかく、周辺が場所を取ってる印象。
果たして2機関搭載できるか疑問。 1995年年末大阪で青春18切符を買ってムーンライト九州に乗った。
まだ暗い朝早く折尾駅に降り立って博多に向かって出て行く12系の青に赤の
テールライトは国鉄の夜行列車の色気そのものだった。
鹿児島本線を交差するようにある筑豊本線ホームには確か既にDD51の引く
50系客車が入っていたがどうもDD51から白煙がうっすら上がっているように
見えた。もしかしてSGか?と、しかしJRになって10年今更いちいち
昔のゴハチの荷物みたいにSGたくわけもねえやなとなんとなく考えたが、
まあテツから足洗って10年俺にはどうでも良いことだ、と思って考えるのは
やめた。 >>313
>しかし板谷の2両に重連って無駄に思えるが
ED78・EF71の間合い運用でそうなったみたいですよ SGとEGの両方を使った点において、磐越西線での運用は最も理に適ったものだろうな…東で最後まで残ったし。 >>318
1995年というのが、50系冷房改造化が進められていた時期
1991年なら筑豊本線の50系は非冷房で蒸気暖房だった。
1991年には桂川〜原田間にも50系が乗り入れていたので筑豊本線は全区間50系が走っていた。 福島〜米沢と、桂川〜原田。
50系が入った内で、閑散キングはどちら? 原田で俺が乗らなかったら回送状態ってことがありましたがなにか? 総武快速のグリーン車でも昔、すいてる時に乗ったら
1両に俺一人しかいなかったことはある 旧型客車を追いやったつまらん客車50系だけどなんか思い出が沢山
書けるなあ。悪口と称賛あいまみえて書いてみよう。
ドアについては客車の癖して圧縮空気使った横開き開閉が生意気
だと思ってた。何そのデュルルンって閉まったり閉じたりって?103系に
でもなったつもり?婆ちゃんが指挟んだらどうするの?って。
客車はやっぱり旧客の手開きか、12系みたいなパターーんという
折戸が情緒があってよろしい。ヒンジの動きもメカニカルかつ
エロチックだろ?デュルルンはないよねやっぱり。
1979年筑豊に50系が入った時に地元の人は東京から火の車がやって来た
って言ってた。塗装が茶や青で中は板張りの地味な旧型客車から見ると
なかなかショッキングだったんだね。当時上野口の常磐線でいや北陸方面で
急行料金取って旧型客車が頑張ってたのからすると筑豊線みたいなローカルに
新車投入したのはなかなか生意気。ってもしかして麻生太郎の政治力?
273のゆかりおにぎりは新車の匂いがプンプンしてた頃の原田桂川間の事です。
閑散キングと言えば上山田線なんか筑豊本線の比じゃなかったような?
本線は朝晩まだこちらも新車の匂いプンプンの外板ピカピカツルツルの
14系15型あかつきが走ってたし線路規格も上だったように思う。。 >>320
よくよく考えてみると盛岡や南秋田もSGEG両方定期運用で使用してたんだな 考えてみれば、男鹿線と芸備線って、タイプが似ているな。
朝のピーク時に、対処する必要が有る。 旧型客車は、自分が鉄道で各地に出かけるようになる頃には
定期運用は和田岬だけ。
あとは、お座敷客車に改造したもの、動態保存されてイベント的に使われているいるもの、事業用客車などで残っていただけ。
50系は地方の亜幹線の交流電化区間や非電化区間に多く走っていた。 >>331
その頃、和田岬線のルポ番組があったなあ。
朝の通勤で超満員、客がはみだしていた。まるで東南アジア。
で、線路を歩いているサラリーマンにインタビュー「車から落っこちたので歩いている…」
よくけが人がでないもんだと思った。 申し訳程度にベンチが1個だけ
片側の扉は狭い外吊りが1枚
(世界でも稀だよな…あと竜ヶ崎線の旧キハ) 国鉄が民営化されなかったら
和田岬線仕様の50系改造車に置き換えられていたかもしれない。 >>334
民営化というより
動力分散マンセーじゃなかったらってとこだな
今の日本と鉄道は動力分散マンセーだから
何が何でも電車、気動車だからね 機関車牽引は貨物列車だけになる
あとはイベント用の蒸気機関車とななつ星だけ
何故に九州だけは機関車方式にしたのかが謎 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています