通勤型気動車のキハ35系 を語る 2両目©2ch.net
>>167
川越線な
それも川越以東
大宮-高麗川間の電車は半自動だったけど
それもじき無くなった >>169
関西線って電化直前までキハ35以外もいたろ? 民営化跨りの木更津にキハ28も配置されてたけど、何に使ったんだろ? キハ35は寒い思いが強い
特に九州
キハ35以外があれば、100%そちらに移動していました >>170
きちがい相手にマトモにレスする必要なし 1988年の3月に柘植から亀山行きに乗ったら、キハ35がキハ58系に
サンドイッチされる形だった
まだ残ってたのかと思い、嬉しくなって乗車したが、ドアの半自動扱いを
していないので、加太と関で停車する度に開いたドアから寒い風が
入ってきて閉口したw
キハ35に乗車し続けたのは俺だけだったw >>175
そのむかし
奈良線を走った臨時快速あすか
前後がキハ58系で中間35系の4連だったよ
こっちの理由は当時自動化されてなかった奈良線を通過するのに、タブレットキャッチャーが必要だっだから。
関西線の35+58の組み合わせは、馬力アップのためでしょうね。 キハ35 217出生の秘密って、オハネフ25 47やキハユニ25 7みたいなもん? >>179
んだ
一両だけ予算がついた
で、びみょーに設計変更
その後増備なし
216を岡山で実見して、217の特殊さに気づいた昭和晩年…… 何で通勤型(101,103電車の気動車版)なのに、4扉じゃないんだよ。 四扉必要な程混むなら電化するだろうね
扉は側面強度下げるから気動車は特に増やしたくないだろうとマジレス >>183
関東鉄道キハ755(元南海キハ5500)「…」 そんな田舎私鉄の所詮改造車を引き合いに出されてもな 手は出せないほど、数センチしか開かない
でも出すやつはいるだろう >>185
キハ755の増設扉ってステップないんじゃないの? 紀勢本線キハ25系が顰蹙を買ってるが、キハ35系を知る世代なら何を今更だなw 満員の乗客が重すぎ坂を登れなかったとかあった?
通勤型で180PSはいささか無謀ともいえる 関西線の平野で超満員(ステップにまで詰め込むくらい)になるけど
天王寺へ向かう高架を登れないという事はなかった
すごいエンジン音の割りに、加速しないけどね 和田岬線の3M3Tも無謀だった
急勾配は無かったが如何せんパワーウェイトレシオが日本一悪く?最高30キロ位と客車に毛が生えた位の性能しか出なかった
103系になってから時短した SLブーム末期の頃
休日の関西線キハ35は
撮影に行くファンで満員だったが
途中で登れないなんて事はなかったな。 定員の2倍押し込んで約250人 max300人?
50kg/人が当時の基準だったと思うから、15t
積車46tぐらいか マイテ49並だね 北海道は寒冷地装備に金が出て行く為か、多少の勾配路線でも1エンジン車2両が相場だったな。
本州とは逆にキハ56よりキハ27が多かった(お座敷改造も) >>198
やっぱり新規投資するだけの需要が見込めなかったんだろう
キハ285系がキャンセルされたのも、そういう背景があったのではないか
俺が思うには、北海道は本州同様に気動車化を進めるよりも、客車列車を主体にした方がコスパが良かったと思う 厳寒地単行となるとキハ53.54に頼らないとヤバいことに いつでも乗れると思っていたが、
最後に乗ったのは、八高南線電化前の最終日だったな。 >>200
だから末端線区でガラガラなのにキハ22やキハ24の2連が多かった
(単行禁止の規定が有ったのかも…) 一時的にでも、レギュラー運用でキハ30単行だった線区は全国でどこがありましたか? >>203
川越線
昭和40年代前半くらい
あと画像探したら
木原線とか美祢線、山口線もあったよ >>203-204
相模線の橋本〜原当麻・厚木(JR化後のダイヤ改正まで)も忘れずに
単行列車のジョイント音も、独特のものがあったよね というか、この流れで久留里線が出てこないのにはぞっとしない。一番最後まで単行運用があったのに。
最後に見たのは97年10月あたりだったかな。
あと足尾線も20、40と共通運用になってたから30単行あったかな? >>203
新宮→熊野市の最終と、熊野市→新宮の始発がキハ30単行だったな
特に熊野市→新宮の始発は新宮夜行乗ってきた人なら見たことある人もいるかも >>210
かつては天王寺方面直通グリーン車付き6〜7連だったのにね。
それと荷坂峠越えは大出力車を必ず連結したから、単独運用はちとレア。 関東鉄道キハ100は単行の運用。
臨時で2両編成走らせたが、走行制御はともかく、放送とドアのリンクが出来ずに個別で入れていた。 >>211
あの運用は、亀山を15時くらいに下る新宮行きにキハ58+キハ28の下り方にキハ30単行をつないだ3連で新宮着いたら58+28は切り離して鵜殿方から留置線に入り一晩滞泊、キハ30単行は熊野市で滞泊。翌朝新宮に戻りまた58+28と繋ぎ上っていきました。
JR化後も1988か1989年くらいまで同じ運用が続いていました。 キハ35のドアエンジンは101系みたいにTK6が床下に入ってんだな
晩年は部品確保に困ったのでは?
サハ103-750番台は晩年はゴムパッキンをカッターナイフで自作する有様だったとか >>214
古くなるにつれ、戸締めの速さがばらついたり、とちゅうで引っかかるような動きしたり
ガタガタしてました 相模線だと有馬の学生がステップに捨てた、乾電池が詰まるのよねぇ あとオロナミンCの瓶 オロナミンCとワンカップは貫通幌の定番でしょ!
(各地の4ドア通勤車)
※あと常磐赤電→酒 あのサキイカとワンカップの人たちはもしかして原発労働者?それとも彼らには特急ひたちの指定席が用意されてた? ドアと開口部のフチはどういう合わせ目になってたのかな。
ドア外側にはゴム板があるが車体側も少し出っ張らしてあったのか? キハ35系 VS キハE130系
満員に近い状態でもスムーズな加速はキハE130系の勝ちだ。
紅の豚で言うと、サボイアとカーチスを零戦とYS-11で比べているみたいで全然面白くない。 キハ38はコンピュータによる構造解析ができるようになったから普通の戸袋構造を採用できた?
丁度NECのPC-9801が出来た頃だったのでパソコンで構造計算できたはず
キハ35の頃は大型コンピュータしかなかったためにマルス中央装置位しか使われてなかった >>222 外吊り扉に混雑路線ながら微妙な地方路線的泥臭さを感じる
(別に揶揄とか嫌いとかじゃなくて)。 幼児のころ、天王寺駅で関西本線のキハ35を環状線電車の車窓から見た時、
まさかディーゼルの通勤列車とは思えず、市営地下鉄が地上区間に出てきてるのだと思い込んだ。
ツートンの塗装が似てたし、パンタグラフは無いしで。
何より子供心に、DCというのは田舎に走ってるものだという先入観があったから。 >>228
俺は大阪人だが、幼稚園児の頃はディーゼルは基本的に田舎を走るもので、関西線は例外と思い込んでた。
小学校に入学した頃になると、山陰線や奈良線、和歌山線、桜井線、片町線、加古川線など関西地区でもディーゼルが走る路線が幾らでもあると解った。
こういうのも「灯台もと暗し」と言うのかな?
今では殆どの路線が電化されてしまったな。 連投失礼
環状線の101系または103系と、関西線のキハ35系のバトルは環状線の全勝だったな。
俺が小1の秋に漸く関西線が電化されて101系になって、バトルは拮抗するようになった。 餓鬼の頃はディーゼルカーといえば相模線のキハ35系しか知らなかったなぁ 3両編成の真ん中の車両はクロスシートだったからキハ10か? >>228
相鉄バス洗車係のニシヤンが言ってた。
大阪の50系保存車は関東鉄道のキハ310の旧塗装車に似ているってね。 関東鉄道にはもう元キハ30・35・36はないんでしたっけ? 外釣ドアが締まりにくかったなぁ。
乗務員室は冬は暖房効かずに震えてたわ。 急行「うおの」の長岡増結車にキハ35系が入るのは、
実に凄い事だと子供心に感じたものです
佐渡やとがくしは冷房付きエアサス車
それとキハ35で同じ急行料金を徴収するのですから 101系と共通のTK6形ドアエンジンを使用していた最後の形式でもあるな
ドアエンジンが床下にあり床に点検蓋があるのが特徴
ただサプライ部品枯渇に悩まされてたみたいである >>241
回送扱いではなく、料金を取って乗せていたとはすごいですな。 >>243
そう言えば、基本的に500番台だけが配属されていた新潟エリアに
1両だけ0番台がいて、その車両は荷物車代用として
使用されてたんだっけ…? >>244
海水浴臨でキハ35を増結したら新聞記者に写真撮られて新聞沙汰になったとかあった だが実際には乗客は床にレジャーシート広げて寛いでたり案外好評だったとか >>246
急行が超満員で上って来ると聞いて、急遽木更津にいた予備車のキハ35を増結したと読んだ。 水島の30は今がおすすめ。
冷房シーズンになると運用から外れる。 和田岬線のやつは片方のドアを2か所塞いでたな
部品確保のため?それとも隙間風対策?
関東鉄道竜ヶ崎線の気動車は片側にしかホームが無いのに左右対称でホームが無い側のドアは滅多に開けることはない >>250
どうせ開けることはないんで、ステップ対策も兼ねて思い切って撤去したってことでしょ ステップは大きそうだね
関東鉄道はステップ埋めちゃってるからそこのスペースにも人が立てるし 和田岬線のやつはドア撤去跡に座席増設してなかったんだな
客車時代も短距離乗車と割り切って座席が少しだけしかなかった 和田岬の混雑と時間を考えれば、いすなしでよいぐらい その和田岬が、今ではリニア地下鉄で三宮と直結なんだよなあ。 客車時代も座席削減の上にホーム側だけ3扉にしてたからな<和田岬線 >>231
同じくガキの頃は相模線、八高線、久留里線、木原線しか知らなかったから気動車=キハ30・35だった。 >>258
東京・神奈川・千葉だとそうなるのかもね
JR初期だと、キハ40・45・20も八高線で使われ、
キハ37・38は久留里線・八高線で活躍してたから、
必ずしも等号にはならなかったけど
ただ、相模線ユーザとしては、気動車=キハ30系ってのは否定しないw>自分 >>259
八高線ユーザーだからキハ20とキハ40乗ったよ。
キハ30・35が大多数の中で目立ってた。
キハ38もデビュー間もない頃から何度も乗ってたな。
電化前日の最終も自宅のベランダから見送った。都立八王子東高校の鉄研部特製ヘッドマークが掲出されてたな。 >>260
スレ違いになってしまうけど、一時的にではあれ、東京都内でも
キハ40が半定期的に活躍してたと言うのは、別の意味で衝撃だw
キハ20なら、相模線でも使われてたから、特に驚きではないけど
八高線のキハ30系…最後はトイレ前の2人席で座って、
例の揺れを堪能した記憶がw 八高線といえばキハ30・35のイメージが大きすぎてキハ20がが走ってたのは見た事が無かったな
国鉄末期の頃はまだ半自動ドアのキハ30もいた
多分相模線電化でやってきたキハ30・35で置き換えられたのかみなくなってた
相模線塗装のもそのままでしばらく走っていたような
キハ38は八高線では電化までそのまま使われたけど、久留里線にいってからだいぶリフレッシュされたみたいね
キハ40は一度だけ遭遇したことがあって、八高線しからぬクロスシートにびっくりしたもんだ 製造コストケチるためなのか角ばった車体なんだな
キハ23は角が丸いが 昔水郡線でキハ30を見かけた事が有るんだが
郡山まで行けば最北のキハ30だったのかな? 酒田行きとか鼠ヶ関行きとか吹浦行きとかに普通に運用入っていたからな 新潟を走行した事があったが隙間風凄くて大不評買ったのでは?
暖房も座席下の面積が少なく他形式と比べ弱いだろうし