通勤型気動車のキハ35系 を語る 2両目©2ch.net
相模線には35-100と30-100の100番コンビがいたんだな 関東鉄道の元キハ30の乗車体験に電話で申し込もうとしたら、速攻で定員に達してしまったようで申し込めなかった
他の形式の時はそうでもなかったのだが、元国鉄車は人気あるんだね 水海道の元キハ30、だいぶ錆付いているね
このまま解体? >>98
足尾のやつは自力であそこまで来たからエンジンあるぞ。
7年前だかに保存会によって車体は綺麗に整備、再塗装もされたが足回りはまだ整備されてない。
一応は動態保存も視野に入れているらしいが、わ鐵も保存会も資金的に厳しそうだ。 八高線での97キロ激走が忘れられない。
初めて乗った気動車だった。
加速中のエンジンの唸り、中立になった後の静かさ、動台車の固い乗り心地、押しボタンで開くドア、畳める車掌室。
どれも新鮮だった。 >>105
キハ35の関西本線快速に乗ってみたかった
電化後の103系快速の爆走ぶりを見ると、すごいことになってそう
キハ58の伊賀忍者号には乗ったことあるけど、臨時だったせいか大した走りじゃなかった この時期になると思い出す…
「暑くて窓を開けたら、熱風が外から吹き込んできたw」
キハ30系時代の相模線の想い出 夏暑く、冬寒い車だったな
碓氷に通ってた頃、東上民だったからよく乗った。
冬は38が入ってたらそれに乗ったけど
夏の38はあまりクーラー効かなかったから30/35で窓全開。 >>105
やろうと思えば、キハ40系でも時速100キロ近くは出せる。
エンジンの負荷はものすごく大きく、マーチで言えば、180キロを出すような状態に等しい。
※烏山線のキハ40に乗った時、宇都宮線に入った時には、エンジン全開で95キロ以上まで出していた。
宇都宮線は比較的平坦で駅間距離が長いので、キハ35系でも100キロは出せるぞ。 >>104
東の除籍前に持ち込まれたの?
西桐生で破壊される記事しか知らないので、足尾へ自走は初知りです、ありがとう。
もしレストアするなら、資金はともかく大間々でないとやりきれないよね。
ここまで時間が経つと、エンジン本体はもちろん電装やエア系もガチガチだろうし。 >>106
小学生の頃、奈良区のSL撮影に行くときに乗ったが
爆走していた記憶はない。 113系も35も最高速95km
加減速と勾配均衡でおとるから速度定数は落ちるけど、大和小泉あたりは爆走してた。 加古川線で外吊り扉を目の当たりにしたときは衝撃だった
加古川駅で扉の開閉を飽きもせず眺めてた >>113
加古川線ならキハ35眺めて
衝撃受けてる場合じゃないだろ!
伝説の珍車キハユニ15は見なかったのか?
特に小窓に改造された3を ああそう言われてみれば加古川線にそんなのがいたっけなあ 奈良線で通学に利用したよ、小さい灰皿が懐かいわ、大回りで乗り鉄した時、木津ー奈良間の爆走が忘れられない。 >>117
確かにいてたw
しかし小窓&スカート付きは加古川線だけ! >>117
和歌山線・桜井線は2ドア車のキハユ二16な。加古川のよりスタイルがいいよ。
一時期、キハ35みたいな切妻のキユニ19もいた。 >>121
切妻といえば、キハユ15だな。
幼少の頃一度見ただけで強烈な印象とともに記憶に焼き付いたわ。 相模線に居た、強烈な印象の車って、何だろう?
リアル世代じゃ無いもので… >>123
電化直前(1990年頃)なら、やっぱりステンレスのキハ35-904が筆頭だったでしょ
その次が更新車のキハ30-62・100あたりか?
その当時の相模線キハ30系は、後天的な改造(ヘッドライト・補強・更新など)で
各車がそれぞれの個性を出していたように思うけど 晩年の白に青帯でも充分インパクトあったわ。
八高線転籍後のタラコ色との混結も。 八高線転属後のドアだけタラコのほうがインパクトあった >>126
ドアって貫通路のでしょ?
あれは何でも有りだったね >>123
タイフォンが幕部にあった30-26とかなんかも印象的だった 90/2/18
キハ30 34↑八王子
キハ40 2087
キハ30 503↓高崎
DD51 887
ホキ55719
ホキ45727
ホキ5732
ホキ45702
小宮だったかな? タラコ色のは田圃の中では良く目立ったな
晩年に緑色に塗られたのが現れたがあれは保護色になって保安上はイマイチと言われた >>132
川越線民だが電化して緑色の電車になったが特に問題なかったぞ トラムウェイの相模線キハ30模型だと、前面の青帯は補強板付きの位置。補強板なしはもう少し低い、ただし例外あり。 >>138
キハ30-46(元久留里・木原線)あたりがその例外だったっけ? 前面補強板着く前に電化されて、見なくなったなあ。
なので、補強板ある方が違和感あるわ。 補強板ていわばアングル材だな。
貫通路有りの前面、横はすぐ乗務員扉でどれほどの防護性だったのか今見ると疑問だわ。
あの分厚い鉄板はそのままに、運転室内側に食い込みそうだもん。 >>140で思い出した
相模線電化後に久留里線に転属したキハ30-62・100は、
転属後に前面補強板を付けてたんだよね
相模線時代には、車体更新はされたけど補強板までは付けてなかった 相模線だが、35 156はプロテクター無し、35 165はプロテクター有りだったな。
あと、押し込み通風器の30 505、30 506が目立ってた。
日中の2連は30 41、30 42の出番が多かった印象。 相模線は前面強化車少ない
八高線は前面強化車多い
ってイメージ
特に八高線の30で相模線からの転入車じゃないのだと30-19と503くらいしか強化無しのはいなかったかと思う >>144-145
35-156は相模線にはいなかった(158だったら補強付→関東鉄道で部品取り)
相模線色時代のキハ35で補強がなかったのは、81,97,101,103,170,212,524,531,904
逆に相模線色時代のキハ30で補強付だったのは、14,80,505の3両のみ
非電化時代の頃に既にデジカメがあって、詳細な写真でも激写できてたらなぁ… 応荷重装置が無かったためにラッシュ時の運転が大変だったのでは?
ただでさえエンジンがDMH17Hの1基だけでラッシュ時に乗客の重みで加速が滅茶苦茶悪かったはず 満載の通勤客を降ろしたら、ブレーキテコの位置が変わって緩解できなくなった、という話は読んだことある。 >>152
関西線朝ラッシュの湊町行きが超満員で天王寺駅に到着し、乗客が大半下車したのちに
緩解不良発生の流れな。 >>155
この時に対処法ミスってブレーキコックを閉めたまま発車させブレーキが効かず駅ビルに突入してしまった
油圧式車止めを装備していれば壁を突き破るなんて事は無かったのに
最近は線路の摩擦を利用して衝撃を吸収するタイプもある
https://www.youtube.com/watch?v=49LLkbLU2lY ほんの短い間、酒田〜新潟でも走ってた覚えがあるよ、6両編成中2両ぐらいがキハ35の時期があったか、
新潟駅到着は昼前で、鶴岡までは良くても新潟駅の通学時間帯は電車じゃないと無理、今のキハ40より出足は軽快だった印象だ。 避けられる環境の人はいいよなあ
オールキハ35だったんだぜ
もっとも電化して103系になったらドアの数増加&ドア開閉ボタン無しで開けっ放し
と余計寒い仕様になったわけだが >>156
近鉄の青山峠事故も類似しててブレーキ不緩解の対応処置をミスってコックを閉めたまま発車させてしまった
しかも安全側線に100キロ近いスピードで突っ込んで正常に機能しなかったとか >>160 先日、近鉄スレで話題になったけど、青山峠の場合はコックが閉まった状態で車止めを外してしまったのが原因だよ。
コックを閉めて空気ブレーキのタンクにエアーが入っていなければ、モータは作動しないというフェイルセーフになっていた。
しかし、下り坂になっている所で、モータに電気ブレーキ、そして空気ブレーキも作動しない状態で車止めを外したから、電車が暴走し始めたというわけで。
キハ35の場合、空気ブレーキが機能しなければエンジンがかからない、といったフェイルセーフになっているのかな? >>159
ドア開閉ボタン付きの人はいいよなあ。
ドア開閉ボタン無しのオールキハ35だったんだぜ。
もっとも電化して101系になってもドアの数増加&ドア開閉ボタン無しの開けっ放し
と、あんまり変化なかったんだが。 >>159
電化して半自動ドア対応車が入った相模線は、まだ天国だったんだw
#初年度の夏は、冷房ガンガンでドア開けっ放しだったけどなw 確か35の半自動ドアは、ものすごく軽かった覚えがある、
東京か近辺から旅行に来た女子グループは、半自動を知らないで立ち往生だった、一人が「あ、確か八高線もこうだったと手で開けた」 半自動ポジションだと、解錠時3センチぐらい開くよね >>162
片町線か
長尾-木津電化の時まだギリで101系いたんだな
>>163
ガミ線は新車投入だから恵まれてたな >>167
川越線な
それも川越以東
大宮-高麗川間の電車は半自動だったけど
それもじき無くなった >>169
関西線って電化直前までキハ35以外もいたろ? 民営化跨りの木更津にキハ28も配置されてたけど、何に使ったんだろ? キハ35は寒い思いが強い
特に九州
キハ35以外があれば、100%そちらに移動していました >>170
きちがい相手にマトモにレスする必要なし 1988年の3月に柘植から亀山行きに乗ったら、キハ35がキハ58系に
サンドイッチされる形だった
まだ残ってたのかと思い、嬉しくなって乗車したが、ドアの半自動扱いを
していないので、加太と関で停車する度に開いたドアから寒い風が
入ってきて閉口したw
キハ35に乗車し続けたのは俺だけだったw >>175
そのむかし
奈良線を走った臨時快速あすか
前後がキハ58系で中間35系の4連だったよ
こっちの理由は当時自動化されてなかった奈良線を通過するのに、タブレットキャッチャーが必要だっだから。
関西線の35+58の組み合わせは、馬力アップのためでしょうね。 キハ35 217出生の秘密って、オハネフ25 47やキハユニ25 7みたいなもん? >>179
んだ
一両だけ予算がついた
で、びみょーに設計変更
その後増備なし
216を岡山で実見して、217の特殊さに気づいた昭和晩年…… 何で通勤型(101,103電車の気動車版)なのに、4扉じゃないんだよ。 四扉必要な程混むなら電化するだろうね
扉は側面強度下げるから気動車は特に増やしたくないだろうとマジレス >>183
関東鉄道キハ755(元南海キハ5500)「…」 そんな田舎私鉄の所詮改造車を引き合いに出されてもな 手は出せないほど、数センチしか開かない
でも出すやつはいるだろう >>185
キハ755の増設扉ってステップないんじゃないの? 紀勢本線キハ25系が顰蹙を買ってるが、キハ35系を知る世代なら何を今更だなw 満員の乗客が重すぎ坂を登れなかったとかあった?
通勤型で180PSはいささか無謀ともいえる 関西線の平野で超満員(ステップにまで詰め込むくらい)になるけど
天王寺へ向かう高架を登れないという事はなかった
すごいエンジン音の割りに、加速しないけどね 和田岬線の3M3Tも無謀だった
急勾配は無かったが如何せんパワーウェイトレシオが日本一悪く?最高30キロ位と客車に毛が生えた位の性能しか出なかった
103系になってから時短した SLブーム末期の頃
休日の関西線キハ35は
撮影に行くファンで満員だったが
途中で登れないなんて事はなかったな。 定員の2倍押し込んで約250人 max300人?
50kg/人が当時の基準だったと思うから、15t
積車46tぐらいか マイテ49並だね 北海道は寒冷地装備に金が出て行く為か、多少の勾配路線でも1エンジン車2両が相場だったな。
本州とは逆にキハ56よりキハ27が多かった(お座敷改造も) >>198
やっぱり新規投資するだけの需要が見込めなかったんだろう
キハ285系がキャンセルされたのも、そういう背景があったのではないか
俺が思うには、北海道は本州同様に気動車化を進めるよりも、客車列車を主体にした方がコスパが良かったと思う 厳寒地単行となるとキハ53.54に頼らないとヤバいことに いつでも乗れると思っていたが、
最後に乗ったのは、八高南線電化前の最終日だったな。 >>200
だから末端線区でガラガラなのにキハ22やキハ24の2連が多かった
(単行禁止の規定が有ったのかも…) 一時的にでも、レギュラー運用でキハ30単行だった線区は全国でどこがありましたか? >>203
川越線
昭和40年代前半くらい
あと画像探したら
木原線とか美祢線、山口線もあったよ >>203-204
相模線の橋本〜原当麻・厚木(JR化後のダイヤ改正まで)も忘れずに
単行列車のジョイント音も、独特のものがあったよね というか、この流れで久留里線が出てこないのにはぞっとしない。一番最後まで単行運用があったのに。
最後に見たのは97年10月あたりだったかな。
あと足尾線も20、40と共通運用になってたから30単行あったかな? >>203
新宮→熊野市の最終と、熊野市→新宮の始発がキハ30単行だったな
特に熊野市→新宮の始発は新宮夜行乗ってきた人なら見たことある人もいるかも >>210
かつては天王寺方面直通グリーン車付き6〜7連だったのにね。
それと荷坂峠越えは大出力車を必ず連結したから、単独運用はちとレア。 関東鉄道キハ100は単行の運用。
臨時で2両編成走らせたが、走行制御はともかく、放送とドアのリンクが出来ずに個別で入れていた。 >>211
あの運用は、亀山を15時くらいに下る新宮行きにキハ58+キハ28の下り方にキハ30単行をつないだ3連で新宮着いたら58+28は切り離して鵜殿方から留置線に入り一晩滞泊、キハ30単行は熊野市で滞泊。翌朝新宮に戻りまた58+28と繋ぎ上っていきました。
JR化後も1988か1989年くらいまで同じ運用が続いていました。 キハ35のドアエンジンは101系みたいにTK6が床下に入ってんだな
晩年は部品確保に困ったのでは?
サハ103-750番台は晩年はゴムパッキンをカッターナイフで自作する有様だったとか >>214
古くなるにつれ、戸締めの速さがばらついたり、とちゅうで引っかかるような動きしたり
ガタガタしてました 相模線だと有馬の学生がステップに捨てた、乾電池が詰まるのよねぇ あとオロナミンCの瓶 オロナミンCとワンカップは貫通幌の定番でしょ!
(各地の4ドア通勤車)
※あと常磐赤電→酒 あのサキイカとワンカップの人たちはもしかして原発労働者?それとも彼らには特急ひたちの指定席が用意されてた? ドアと開口部のフチはどういう合わせ目になってたのかな。
ドア外側にはゴム板があるが車体側も少し出っ張らしてあったのか? キハ35系 VS キハE130系
満員に近い状態でもスムーズな加速はキハE130系の勝ちだ。
紅の豚で言うと、サボイアとカーチスを零戦とYS-11で比べているみたいで全然面白くない。 キハ38はコンピュータによる構造解析ができるようになったから普通の戸袋構造を採用できた?
丁度NECのPC-9801が出来た頃だったのでパソコンで構造計算できたはず
キハ35の頃は大型コンピュータしかなかったためにマルス中央装置位しか使われてなかった >>222 外吊り扉に混雑路線ながら微妙な地方路線的泥臭さを感じる
(別に揶揄とか嫌いとかじゃなくて)。 幼児のころ、天王寺駅で関西本線のキハ35を環状線電車の車窓から見た時、
まさかディーゼルの通勤列車とは思えず、市営地下鉄が地上区間に出てきてるのだと思い込んだ。
ツートンの塗装が似てたし、パンタグラフは無いしで。
何より子供心に、DCというのは田舎に走ってるものだという先入観があったから。 >>228
俺は大阪人だが、幼稚園児の頃はディーゼルは基本的に田舎を走るもので、関西線は例外と思い込んでた。
小学校に入学した頃になると、山陰線や奈良線、和歌山線、桜井線、片町線、加古川線など関西地区でもディーゼルが走る路線が幾らでもあると解った。
こういうのも「灯台もと暗し」と言うのかな?
今では殆どの路線が電化されてしまったな。 連投失礼
環状線の101系または103系と、関西線のキハ35系のバトルは環状線の全勝だったな。
俺が小1の秋に漸く関西線が電化されて101系になって、バトルは拮抗するようになった。 餓鬼の頃はディーゼルカーといえば相模線のキハ35系しか知らなかったなぁ 3両編成の真ん中の車両はクロスシートだったからキハ10か? >>228
相鉄バス洗車係のニシヤンが言ってた。
大阪の50系保存車は関東鉄道のキハ310の旧塗装車に似ているってね。 関東鉄道にはもう元キハ30・35・36はないんでしたっけ? 外釣ドアが締まりにくかったなぁ。
乗務員室は冬は暖房効かずに震えてたわ。 急行「うおの」の長岡増結車にキハ35系が入るのは、
実に凄い事だと子供心に感じたものです
佐渡やとがくしは冷房付きエアサス車
それとキハ35で同じ急行料金を徴収するのですから 101系と共通のTK6形ドアエンジンを使用していた最後の形式でもあるな
ドアエンジンが床下にあり床に点検蓋があるのが特徴
ただサプライ部品枯渇に悩まされてたみたいである >>241
回送扱いではなく、料金を取って乗せていたとはすごいですな。 >>243
そう言えば、基本的に500番台だけが配属されていた新潟エリアに
1両だけ0番台がいて、その車両は荷物車代用として
使用されてたんだっけ…? >>244
海水浴臨でキハ35を増結したら新聞記者に写真撮られて新聞沙汰になったとかあった だが実際には乗客は床にレジャーシート広げて寛いでたり案外好評だったとか >>246
急行が超満員で上って来ると聞いて、急遽木更津にいた予備車のキハ35を増結したと読んだ。 水島の30は今がおすすめ。
冷房シーズンになると運用から外れる。 和田岬線のやつは片方のドアを2か所塞いでたな
部品確保のため?それとも隙間風対策?
関東鉄道竜ヶ崎線の気動車は片側にしかホームが無いのに左右対称でホームが無い側のドアは滅多に開けることはない >>250
どうせ開けることはないんで、ステップ対策も兼ねて思い切って撤去したってことでしょ ステップは大きそうだね
関東鉄道はステップ埋めちゃってるからそこのスペースにも人が立てるし 和田岬線のやつはドア撤去跡に座席増設してなかったんだな
客車時代も短距離乗車と割り切って座席が少しだけしかなかった 和田岬の混雑と時間を考えれば、いすなしでよいぐらい その和田岬が、今ではリニア地下鉄で三宮と直結なんだよなあ。 客車時代も座席削減の上にホーム側だけ3扉にしてたからな<和田岬線 >>231
同じくガキの頃は相模線、八高線、久留里線、木原線しか知らなかったから気動車=キハ30・35だった。 >>258
東京・神奈川・千葉だとそうなるのかもね
JR初期だと、キハ40・45・20も八高線で使われ、
キハ37・38は久留里線・八高線で活躍してたから、
必ずしも等号にはならなかったけど
ただ、相模線ユーザとしては、気動車=キハ30系ってのは否定しないw>自分 >>259
八高線ユーザーだからキハ20とキハ40乗ったよ。
キハ30・35が大多数の中で目立ってた。
キハ38もデビュー間もない頃から何度も乗ってたな。
電化前日の最終も自宅のベランダから見送った。都立八王子東高校の鉄研部特製ヘッドマークが掲出されてたな。 >>260
スレ違いになってしまうけど、一時的にではあれ、東京都内でも
キハ40が半定期的に活躍してたと言うのは、別の意味で衝撃だw
キハ20なら、相模線でも使われてたから、特に驚きではないけど
八高線のキハ30系…最後はトイレ前の2人席で座って、
例の揺れを堪能した記憶がw 八高線といえばキハ30・35のイメージが大きすぎてキハ20がが走ってたのは見た事が無かったな
国鉄末期の頃はまだ半自動ドアのキハ30もいた
多分相模線電化でやってきたキハ30・35で置き換えられたのかみなくなってた
相模線塗装のもそのままでしばらく走っていたような
キハ38は八高線では電化までそのまま使われたけど、久留里線にいってからだいぶリフレッシュされたみたいね
キハ40は一度だけ遭遇したことがあって、八高線しからぬクロスシートにびっくりしたもんだ 製造コストケチるためなのか角ばった車体なんだな
キハ23は角が丸いが 昔水郡線でキハ30を見かけた事が有るんだが
郡山まで行けば最北のキハ30だったのかな? 酒田行きとか鼠ヶ関行きとか吹浦行きとかに普通に運用入っていたからな 新潟を走行した事があったが隙間風凄くて大不評買ったのでは?
暖房も座席下の面積が少なく他形式と比べ弱いだろうし 新潟地区のキハ30が定期運用で磐越西線に入ったことはないみたいだな。
米坂線ならあるが。さすがに只見線はないだろう。 地元の方には申し訳ないが、わざわざ寒地仕様車を新製投入するほど、当時の新潟地区はラッシュが激しかったんですかねえ。 1990年代に入ってから興味を持ったから
美祢線の大嶺支線と和田岬線でしか乗ったことがない。 俺の場合、国鉄〜JR初期は小学生で遠出できなかったし、乗れたのは和田岬と関鉄だけだ 東京地元なのでキハ35系は相模、八高、川越、久留里で体験。よく
旅先のローカル線でこの系列に当たってガッカリという話を聞くけど
幸い自分はそのような災難には遭わないで済んだ。 紀勢線のキハ35 新宮-和歌山 6時間以上
これでも?、 >>276
6時間以上県境を越えないのもすごい。
ただし新宮→亀山方面だとすぐに県境だが。 >>276
大概、キハ22や55あたりの他形式が編成中にいそうなもんだが?
キハ35だけなら平成の701に匹敵する、地獄の我慢耐久編成だなw ガラガラに空いてればキハ10系や45系の狭いボックスよりロングの方が快適だったと思うがな >>281
君、変わってんな
競争率低くて良さげだけど、変態プレイとか好きそうw 確かにロングの方が良いなんて不可解な人だね
僅少な意見だろうど、だからってそういう言い方は嫌味だな>282 >>276
非電化の時ってディーゼルカーの直通列車があったの?
電化後の1980年12月の時刻表しか持ってないんだけど
この時点だと直通はPCだけなんだけど 最近のガキはクロスよりロングが好きだな
他人と近くで向き合うのに耐えられないらしい >>286
究極形は叡電「きらら」や東武「スカイツリートレイン」みたいな、
外を向いて座るって形か
もしくは個室? >>254
捉え方の方向が真逆
鉄道車両ってのは規定文で表向きは座席をしつらえないといけないことになってたからね。 >>281本人じゃないが、俺もすいてたら転換クロスよりロング席がいいわ。
要するに脚のばしたいんだよね。
転換クロスで足下があいてるタイプだとしても不十分で、しんどい。
すいてるときに限ってだがそういう点でロングはラク ↑前提やらをきちんと読まずちょっと書いただけでこういう思考飛躍する奴が一番不快 >>292
こういう馬鹿が、足蹴られたと因縁つけて絡んでくるんだよなあ どうせ空いてる車内で不快感晒すなら
転クロ向かい合わせにするかボックスで足伸ばしたほうが楽だろ
マイノリティーを正当化させるのは無理があるわ
老害爺かゆとりだろう?見苦しいぞ >>291は>>290に向かっていったわけじゃないよ
ただ足伸ばしてるのってヤンキーやヲタ臭いの問わずいるからやだなーって愚痴っただけ ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆参の両院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ いよいよ日本国憲法改正の、国民投票が実施されます。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ 非電化時代の相模線にいた車番が斜めに書かれてた車
なぜか萌えたw でもすぐに消されてしまった
電化されてお払い箱になったせいもあるが キハ35-900番台はJRに一応は承継されたもののコルゲートがあるために鋼製車とは違い窓下にJRマークを貼り付ける事が出来なかったな
EF81-300番台はJRマークのステンレスの板を溶接しているがキハ35-900番台は廃車が近かったためか取り付けられず >>298
キハ35-904だけコルゲートがあるためプレートだった
唯一相模線色となった900番台である >>301-302
904(相模色)はJRマーク付けてたっけ?
当時日常的に見てたはずなのに、記憶がないw >>278
キハ35は混雑の激しかった関西線大阪府内区間のラッシュ対策用として登場した車両。
東北ローカル区間の合理化を目的とした701とは全然コンセプトが違う。 >>306
外吊りドア自体はないとしても、戸袋がなくてドアがスライドする車両ならあるよ
東武100系とか キハE+35系気動車
エンジンはDMF15HSA-Pエンジン(265馬力)、変速機はDW10を使用。
外吊りドアを採用している。ドアチャイムはE231系と同じ。
走行機器はキハ40と同じなので、加速は非常に重めとなる。 88年の冬、高校入試の帰りの相模線で光○相模原の生徒が後頭部で窓をガンガン叩いてて海老名駅に着いたと同時に割ってたな
生徒は車掌に連れて行かれた >>310
光○相模原←原当麻にあった漢字も書けないような連中が集まった鈴蘭みたいな高校だよな。
タイマ高って、いかにもそれっぽく呼ばれて神奈川県央部じゃ恐れられてったっけ。。。
まだキハ30と半分ぐらいはキハ10が残っていた頃の話じゃよ。。。。 昔の国鉄気動車はブレーキシリンダ圧力計付いてないのあったな
BP管圧でBC圧を把握するテクがあった >>312
自動空気ブレーキの吊掛電車なんかも国鉄・私鉄を問わずBC庄指針は
無かったね。ポツ8減圧、場内信号でポツ2追加なんて言ってた時代。 BP管圧より応答が先の釣合ダメ管圧でハンドルさばきすると楽。 >>211
新宮〜熊野市なら、荷阪峠通らないやん。 これ戸袋部分の窓から頭だしててドア開閉の際、首切断された人いないの? >>317
検索したら過去スレに当たった
大きくは開かなかったんですへ
キハ35は常総線でのみ乗りました 相模線でこれが来ると、
「わあ、自動ドアだ!」
ってウキウキドキドキだったんだぜい。 キハ38はコンピュータによる強度計算が出来るようになったので通常の戸袋構造になってる
新車開発のために国鉄でメインフレーム買ったとか? >>317
関西系のステッカーだと、「指をつめないように」。
これを見てビビった関東方面の人がいたらしいww。 戸袋部分は数センチだけしか開かないようにして安全を確保してるが小田急2400形・2600形みたいに通風グリルでも良かったのに
非冷房なのでラッシュ時に乗客が酸欠にならないように少しでも換気能力を上げるための苦肉の策か? そう。
開けられるようにしてたらどんなトラブルになるかわからないから
開けられないようにした やっぱりみんな戸袋部分の動作には興味あったのですね そういやドア開口部の上辺左右ってカクカクではなく、なぜか丸みを帯びてるんだよな。
強度絡みで一体の門形鋼材になってるのかな。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ 外吊り式の両開きドアは、冬場は寒気が流れ込むため、
特に氷点下15度になる寒冷の時期、雪の日などは暖房が効きにくい。
もし、只見線にキハ35系気動車を導入していたら、豪雪の時期では問題だな…。 >>330
只見線では問題だろうけど、新潟県内では使ってたんだよな
キハ35-500ってのがあったくらいだし。
越後線のあたりって八高線あたりと比べたら冬はやっぱり寒かったんだろ? 冬の朝は空っ風で氷点下の八高の方が、湿気があってあまり氷点下まで下がらない新潟より寒いと思うんだが。 八王子始発4時代の高崎行き、車内が暖まるのが東福生過ぎたあたりからだったな。 キハ35を関西線の奈良−亀山の山線で使用してた時は冬季の保温性で問題が多かったらしい。
1985年頃から関西線非電化区間がキハ58系に置き換えられていったのもそれが原因だったんだろうな。 昔の話ですが、関鉄常総線の第1回鉄道の日の水海道車両基地に行きました。
まだ当時は国鉄清算事業団から購入し、部品取り用で未改造のキハ35系が「肥前山口」の幕を出したまま、下妻駅に留置されていた時代でしたが、
基地の人に外した古い字幕はどうしちゃったの?って聞いたら、外に放ってあるから欲しけりゃあげるよ!って話になり、喜んで付いて行ったら現物が見当たらず、
案内してくれた基地の人もアレッ?ってなって、オ〜イ〇〇君!ココに積んどいた古い幕とか何処にやったの?って聞いたらば、こないだ全部焼却処分しました〜!って答えが返ってきて、ガックリしたのを思いだしました。嗚呼勿体ない… 水海道工場の相模線の路線図は当時の整備士さんの心意気だろうけど、そのうち剥がされてしまうんだろうな。 両運の30を造ったのは3連5連等の運用の為?
それとも超閑散区間での単行運用を想定? 30+35での2連が主目的のような?
実質36は少数で終わってるし、
36+35の組み合わせが多数あってもおかしくないのにガミや八高でのこのコンビの記憶ない。
3ドアロング車ってこの当時は非難もんだったと思うが、
ガミ線撤退後に113がグリーン除いてオールロングになったんだよな。 >>340
超閑散区間じゃなくてもキハ35が走ったようなところだと単行列車の実績がないところの方が少ないと思う
あと、両運車は便利だからね
向き気にしなくて良いんだから 木更津での入換を見たけどキハ37・38は誘導係が添乗しバック運転してた
本当は全車キハ30が良かったんだろうな 片町線でキハ30の単行に乗ったな。当時は当たり前だったけど車掌ものってたから車補買った。 >>341
無人駅では車掌が集札もするから、35+35の2連よりも、30+35の2連の方が、30の連結側の運転台でもドア扱いが出来るから、使い勝手が良かったのでは? 最初はキハ35なんだよね。で、36、30の順
片運転台でいこうとして様子みて、やっぱり36は使えないから30にした感じ。36は両数も少ない
通勤型とはいえ非電化路線だし、入換が多いから運転台ある方が便利だったんだろうね
まぁ電車でも地方はまだ40系や50系多くて運転台付きばっかりの時代だし 通勤型とはいえ、ステップ付きの四ドアは無理だったんだろうね。 山陰線京都口に入っていなかったのが意外なんだが。
何か裏でもある?って思ってしまう。 >>348
入ってたよ
ググれば丹波口駅に停車中のキハ35とか出てくるぞ ラッシュ時に乗客が重すぎてDMH17Hとも相まってなかなか起動しないとかあった?
下手したら変速機オイルが過熱してしまう >>350
なんて言うんだっけ、当時のDCで発進の時一回全開近くグオーって回転上げて、
動き出したらすぐドカンと回転落として一回静かになって、またすぐグオーって繋い
でグングン加速していく運転方法。
あの運転は見たことある。最初はエンストしたと思った。
が、後で高負荷の時の発進方法と聞いたよ。 新潟に居たキハ30 505・506は相模線に馴染んでたな
冬場は有り難かったのかも 和田岬線が一番過酷だっただろうな
気動車のくせに3M3Tとか
大昔の機械式気動車みたいである >>353
> 和田岬線が一番過酷だっただろうな
坊や、過酷じゃなかったからトレーラーを牽引出来たんだよ。
起動後は4ノッチや3ノッチの絞り力行でも余裕だったから。 >>354
和田岬線より運用終えて鷹取に引き上げるさいの本線に向かう勾配はキツかったんでないの
距離が短いからどうにか上れたけど 和田岬線はキハ35だけでは厳しかったのか、キハ58を連結した試運転したのがRMに載ってたな >>347
未だアルミ製気動車も無理だよね
排気管接合部に溶損の恐れが有るから… >>347
関東鉄道に4ドア車が1両だけあったけど、あれはステップ無しだったか。
同じようなドア配置は、ロンドン地下鉄の小断面車輌にもあるね。 広沢シティで元長崎のキハ30を見てきた。
ステップや足かけ等々オリジナルに戻してもらいたいなぁ。。。 キハ35-900番台は904だけ相模線色に変えられてたな
ただJRマークがコルゲートが邪魔で貼り付け出来なかった
前面部の車番はプレートだった とにかくトイレは汚くて臭かった記憶がある。
高校生の喫煙所にもなってたし。。。 >>351
3段6要素型の変速機ならではのストールトルク比を利用した運転方法だね。
BotWのリンクで再現するとこうなる。
DW14E液体変速機のトルクコンバータが3段6要素なので、この運転方法は使える。
一気に5ノッチに入れて加速させて、ゆっくり動き出したらノッチオフして、
勢いに任せながら動かす。その後、3ノッチや4ノッチで絞りながら力行する。
これは、勾配上で起動させる時や重いものをたくさん積んでいる時の起動方法。
速度が50km/h程度になったら、自動的にクラッチが切れて、直結1段に入る。
5ノッチに入れていると、50km/h付近でしゃくるようなエンジン音がするのは、
回転数を検知して自動的にクラッチを切るため。
3ノッチや4ノッチでの絞り力行では、それよりも低い速度で直結1段に変速する。
70km/h程度で直結2段に切り替わる。
直結状態で速度が大幅に落ちると、エンストを防ぐために自動的に変速段に落ちる。 詳しいし専門的だなぁ。。。
>>364さんは元ウテシか検修の方ですかね・・・? 水島の30もガタが来ているのか?
この連休中走らせてもらいたかった。
非冷だから夏場は走らせないし。 古いディーゼルカーだから、足回りはもうガタガタ。
キハE130系にバトンタッチする時代。
将来的には、非電化の幹線はハイブリッド気動車が主流で、
余った方の新型気動車は、過疎ローカル線を支える形になると…。 新津の鉄道資料館に行ったら「キハ35 507」の車体番号切り抜きと妻板の形式・自重・
換算・全建表記の鉄板が大事に展示されていた。
よくまぁこんなものも切り抜いて保存してくれたものだと嬉しかった。 >>367 エンジン換装、例えばキハ85のカミンズエンジン、無理か。
この形式、新型のエンジンに換装したものは無いんだよな。 長距離鈍行でキハ35に当たったら拷問だった?
広島の103系も車両と路線の特性がミスマッチで大不評だったし だった?君は、まずキハ35の長距離があるかどうか考えてみればいいのに
自分は八高くらいしかないわ 関西本線奈良電化までは湊町発名古屋行きなんて平気であったからね。 >>374 どういう編成かが問題なんだが。気動車か客車か、気動車だとしてもキハ30を全区間併結していたのか?
奈良辺りで増解結していたってことは? >>372
特性というか、便所なし・半自動対応なしだったからな。
あまり古いことは知らないが、35系の半自動押しボタンは後付けだろうか。 当時の近鉄の宇治急は2200系の2ドア転クロが当たり前だったから、
湊町−亀山・名古屋といったロングランでのキハ35は明らかに不評だったのは言える。 >>377
当時は真冬の列車交換時でも扉全開、半自動扱いになるのは後天的改造だから。
でも天王寺・柏原間昼間帯のDC普通列車10分ヘッド運転は楽しかったね。 >>371
末期の東日本のキハ35系は全車エンジン換装されているはず。
DMH17Hが使用禁止になってるわけだから。
あと、関鉄でも半数以上がエンジン換装してパワーアップしている。
当然水島に行ったキハ30もエンジン換装済み。
まぁ、エンジン以外がヤバいのかもな。 >>382
>DMH17Hが使用禁止になってるわけだから
kwsk 1995の初冬だったか、久々に八高線乗ったらエンジン換装車でそれはもうやたら速かった。
1985年春先まで川越線の鈍足さを味わった者としては、あまりの疾走ぶりにおぃおぃ停まれるのかよ!とビビったものです。
パワフルな走りが楽しくてそれから1年あまりの間に何度も乗りに行ったな。 亀山や名古屋〜港町の運転(奈良から西は通過駅あり)でもキハ35だったのですか。 トイレ前のクロスシートで窓全開にしたら八高路面悪いんで
窓がおちてくるんだ。構造上首チョンパや指切断は無いが >>388
そらぁもう変わりますよ。
回転が抑えられてるとはいえ直結でのグイグイ感は比べ物にならないね。
余談だけどその後に花輪線のキハ3連(58+58+52)に乗ったら、28‰以上の登坂でも直結50キロ台で走ってたんですね。
技術進歩はスゴいなあとつくづく。 >>389
キハ35で通しというのもあった
しかし、キハ17 だと前に足が伸ばせるだけ35のほうがマシ(冬は除く)だった気がする 戦前に設計されたエンジンを比較対象に進歩とか言われても困るわあ ところでキハ35系のエンジン換装って何時頃何両くらい行われたんだ?
エンジンは何? JR東日本の場合はアルカディア号火災事故がキッカケではないかと たまにはキハ30 51のことを思い出してやってください。 >>393
それほど国鉄の頑なさ、モデルライフの長さはが世間から取り残されてたと言いたいのですよ。
大量生産に走ったから変えるに変えられなくなったし。
>>394
いかにオール2エンジンでも昔なら直結なんざ無理な勾配という例え。 昔はキハ35の中でも普通に喫煙できたんだから昭和ってすごいよね。。。。 >>401
いや、JR世代の211系ロング車や415系1500番台にも灰皿があって喫煙できたんだぞ。
床が焦げているだろう?
八高線のキハ35はなぜかJRマークが貼られなかった。
30には貼られたのに。 >>401
平成初期でも、小湊のロングシート気動車は喫煙可だった。
ちなみに灰皿は無し。
足で踏んで床に捨てる。 >>401
ドア横のポールに小さな直方体の灰皿が付いてたな。便所クロスには付いて無かった。 >>403
確かに床には火種を踏み消した▲の焦げ跡が沢山付いていた。
クロスシートだと灰皿に近い窓側の席の下にはあまり焦げ跡は無かったが
通路側には座席の角の下辺りは▲焦げ跡が多かった。
灰皿から遠いからと言う事は灰もポンポン床に落としていたんだろうな。
令和の今じゃ全く考えられない光景だwww 昭和60年だから、国鉄末期だし、同線内のローカル区間ではあったけど、
この形式がソコ対象への新規導入線区である本来の関西本線(奈良-亀山間)で乗ることが出来たのは
幸運といえるのかな。もちろん乗った当時はそんなこと知らなかった。 1両営業用1両部品取り
ただし冷房がないから涼しい季節にしか動かない ディーゼル車を3ドアにするために大変な苦労があったことをこのグループの逸話で知った >>414 関東鉄道は元南海のキハ5000改造して、中間に外吊りでない両開きドア2つ増設し4ドア車にしているんだが。 >>418 元小田急キハ5001か。あれは車体幅がキハ17並みだから増設ドアを外吊りにしたのでは。 今日関東鉄道のイベントに参加したが、プログラムに.水海道の車両基地見学と撮影会もあった。
そうしたら基地の奥の方にキハ301、元高崎のキハ30-16が物置に使われていたのを見た。
保存じゃないから塗装とか外観はボロボロ。
痛ましい姿だった。。。 キハ35系列は結構あちこちに個体が残ってる。
一方、キハ45、キハ55系列は1両も残ってない。
残念だなぁ。。。 >>422 過疎地のローカル線でキハ20、そこまで過疎地でなく割と温暖な地域でキハ35、それに急行用としてキハ58が長期に渡って運用されていたのに対し、キハ45や55はこれらに押されて引退が比較的早かったからかな。 もうNゲージで情景再現してるよ
今度キハ38八高線色再発されるから楽しみ
キハ45の首都圏色だけ欲しいな かつて、八高線のキハ35系、同じ編成の中にドアが自動・半自動(ボタンで開閉)・手動(走行中はロック)
の車両が連結されていた事があった。
さすがに晩年は手動の車両は無かったと思うけど… キハ35は半自動ドアスイッチ設置が1973年と早かったな
手動で開けるタイプの半自動扱いがドア構造的に難しかったとか?
新造車は1985年の211系1000番台が最初 八高線35の手動開扉は新潟からの転属車だったような キハ35の手動ドアなんて物凄く開閉が重そうな感じだな。。。
2枚分となると、115系なんかでも重いのは酷かった。
キハ35でも大の大人でも一苦労とかしそうなイメージ。。。。 >>429 そんなに重くないけど。115と同様。
キハ35、手動ドアの車両でも乗降客の多い駅では乗務員の操作で自動で開けられるようにしていたんだっけ? >>428
基本的には500番代が手動式だったけど、僅かながらドアボタンありの500番代もあった S36年の鉄ピクに掲載されていた記事「関西線天王寺口に通勤緩和のカンフル剤
としてキハ35投入」とあった。大分長期にわたり活躍していた感があったが、S48年
10月までの僅か12年の命だった。高2生だった俺は10月から一斉に113系に置き
換えとばかり思っていたが、9月下旬よりキハ35と113系・101系の混用が始まって
いた。天王寺で撮り鉄をしていたら『15番のりば、次の奈良行きは電車6両で入りま
す』との案内に涙が溢れた。もうその113系が221系に置き換わって32年も経つ。
あのキハ35の時代の方が長いように思える・・・・ その1週間も経つか経たないか
の内に、平野駅進入手前の小Sカーブで113系快速の脱線横転事故が起こった。
キハ35の重たい車両のままで置いといたら、当時の女子高生2人も死なずに済んだ。 このスレの各所に「快速113系に負けないスピードで奈良〜天王寺を走行した」と
あるが、しかもキハ35やキハ17系のDMH17エンジンでありながら、1軸駆動だった
ことを考慮すると、凄く頑張っていたんだな。と褒め讃えてあげたい。 先ほどのカキコ訂正。正しくは下記のとおり
昭和48年(1973)12月26日 午前8時12分ごろ、関西本線(現:大和路線)平野駅構内において、湊町発(現:JR難波)奈良行きの、普通電車 第722列車(113系 6両編成)が、制限速度35kmの分岐器に対し、70km以上の速度で進入し、非常ブレーキを作動させるも、脱線し、先頭車両は、進行方向右側に、90度近く横転転覆、2両目も、同45度程に横転転覆、残る4両も全軸脱線してしまう、事故がありました 関西本線の湊町・奈良間で使われていた頃、ラッシュアワー時もドアは半自動扱いだったのか?
乗降者が多い時間帯に手動でドアを開けろというわけにはいかないと思うんだが。
当時の写真見ると、湊町駅も嵩上げされてない列車ホームだな。 >>437
実際によく乗っていたが、環状線の101系と同じく全て車掌扱いだった。
S47年10月電化まで、ホームは低かった。、 半自動化改造はS50年代では。
川越・八高線あたり。 1969年暮に乗った播但線のキハ35、列車交換時は側扉全開で室温氷点下4度
4両編成中2両のキハ35の車内はがらがら、殆ど乗客はキハ17とキハユニ26へ待避 防寒対策でドア1ヶ所だけを車掌がドアコックで開ける扱いがあってもおかしくなかったはず
名鉄が実践してる方法
回路的にNFBを使ってドア1個単位でドアカットは不可能で車両単位でしか出来ないので田浦スイッチは回路を改造してる >>440 山陰本線京都口で冬はすきま風が多く寒いと不人気で、キハ40系に代えられたとか 86年ごろのピク誌で、篠栗線に原形ライトのキハ30?が活躍中という記事が忘れられない
何番が原形ライトだったの? 高砂線で乗車あり
ロングシート3ドアはやはり乗り降りスムーズ キハ35は寒いというイメージばかり
3月の北九州で、キハ58/28+キハ35、などに多数乗車の機会があったが、
キハ35はとにかく寒い、外が雪でもドア開けっ放し
みんなキハ58/28に避難、乗客ゼロとか結構ありました
440と全く同じ状態です
ただし、時にキハ35+キハ35など、逃げる車両がないときは、寒さに耐えるしかない
どうしようもなかったです 実際に冬の温度低下対策では
・半自動(あまり記憶にない)
・乗客用のドア操作ボタン追加(八高線など)
・中央ドア閉鎖(岩徳線で乗車)
ちなみに、下関の111系も冬は中央ドア閉鎖がありました 電化直前の相模線は、ドアボタンがある車両は冬季期間は半自動(車内外のドアボタンで開閉)、
ドアボタンのない車両は、500番台も含めて開けっ放しとなっていた
一時的な組み換えなどで500番台だけの3両編成になっても(ドア開閉用の取っ手は車内外にあった)、
半自動機能は相模線では封じられていたので、車内は実に寒かったことw
ただ、その500番台も、八高線に転属した一部の車両では手動で開閉させてたみたいだね 真ん中のドアだけ忍び錠でロックして運用したことある?
広島の115系でやってた手法 >>450
転売された忍び錠で悪戯でロックされた事例があったのでJR西日本では鍵穴を「整備済」シールで封印してる
使ったら痕跡がわかるようになってる キハ35のトイレはどれも死ぬほど臭かった。
あれは走行中の揺れがヒドイからみんな致している間に便器周りにふりまいちまうんだな。
だからクサイ。。。 >>449
手法はわかりませんが、キハ35系の中央ドア締め切りは岩徳線で乗車しました
ちなみに、自分が行ったときは、同じ三ドアでも、
115は3ドアのまま
111は中央ドア締め切りでした >>452
あとタバコ臭な
八高線は不良の溜まり場だったわ 八高線だったら禁煙区間は外れてたから車内で堂々吸えた
けど、高校生が吸ってたら怖い車掌に怒鳴りつけられたはずだ 八高線の35系は全車禁煙だったと記憶してるが
喫煙者の為にキハ20やキハ47を混結していた >>460
キハ47なんて在籍なし
30系統以降は 20 30 35 36 38 40 45 キハ35系の急行は、存在しました?
あったとしたら、
臨時でどうしても車両不足でやむを得ずか、
連結されたキユニの代用くらいしか思いつかないです >>465
Wikipedia
>1967年(昭和42年)10月に当時米子に配属されていたキハ30 75とキハ35 156の2両のロングシートを撤去し、畳を20枚設置した。
>同年11月に運行された急行『やえがき』に使用されたが、それ以降の運用実績は不明。
>夏期臨時ダイヤ(「房総地区夏ダイヤ」)では、車両需給の関係から房総東・西線の臨時準急・急行(いわゆる遜色急行)に組み込まれることもあったが、 やむなく組み込んだらそれはまずいだろうと上司に怒られたが実際には床にレジャーシート敷いたりして客には好評だったというやつか いすみ鉄道の遊んでるキハ30とか
その手で急行に使えるな 急行がデッキまで超満員になってる
って話が入って、木更津の機関区が気を利かせてキハ35を増結して
デッキで立ってる人をそっちに誘導した
その列車が両国に着いたときに、裏の事情をわかっていない
朝日新聞記者に見つかり記事にされて叩かれた。 中央ドアを潰した車両が出現してもおかしくなかったはず
ローカル転用だと3ドアはいくら何でも過剰で座席数が減ってしまう
片一方の側面の両端ドア潰しは和田岬線にあった >>470 ローカル線といっても、越後線のような通勤通学客が比較的多い路線で運用されてたわけだし。それが時折、米坂線にまで入ったりする。
関西本線なんぞ亀山以西から名古屋方面への直通を廃止し、亀山・奈良間区間運用でキハ20系使えば閑散区間にキハ35走らせる必要なかったわけだが、車両運用柔軟化した方が合理的というわけでそうしなかった。 碓氷鉄道文化むらのキハ35901のトイレは汚物処理タンク付いてる? 和田岬のキハ+キクハ
過去どこかのスレで走るのがやっと程度の性能みたいなこと見たけどそうだったの? 殆ど客車と同じ位だっただろうな
機械式気動車も付随車ぶら下げてて異様に加速が悪かったのあった
氷見線のキサハ34もキハ58・28でサンドイッチしてて4両編成でエンジン3基だった >>477
キサハにもエンジンなかったっけ、キハフ? >>478
キサハは12系客車を改造して作った。
キサハにぶら下がっていたエンジンは、スハフ12の発電用エンジン。
それで編成全体のクーラーに給電して・・・たんだっけ? ミャンマーだともっと凄くて気動車なのに2M4Tとかある
しかし20キロ程度しか出ない 和田岬線のやつは速度種別どれ位だった?
恐らく10‰均衡30キロ程度? 関東鉄道にはもう元キハ30・35・36はないんでしたっけ? >>482
乗車記憶では、とにかく加速が遅い、です
ただ、もともと高速での走行など期待していない線区のため問題なし、らしい
その時代でも、他に比べて超低出力編成
よく問題なく運用していた、と思っていました 質より量感半端なかった
西武にも昔釣り掛けで2M4Tがあって加速が悪かった >>487
あれはナローゲージで車体が軽量なために出来た荒業
ナローゲージ以外だとJR四国で6000系+7100形の1M3Tがあるが加速度が1.6km/h/sとか旧型国電並みの性能 加速度が低くてもローカル区間なら支障ないという判断かな 質問なんですけどキハ30や35の白熱灯(原型)ライトで前面補強板ありっていましたか?
地域は問いません。 1灯シールドビームの車両があったな
京浜急行とかでよく見られた形態だが国鉄では非常に希少
しかし球切れしたら交換しなければならず大変だった?
2灯ならば片方切れてももう片方でカバーできた ステンレス車両は一度塗装すると剥離が困難とか話があるが実際どうなんだ?
キハ35 901は塗装された状態で碓氷峠鉄道文化むらに保存されてる
アルミ車体だと剥離した事例があって山陽の3500・3501が一時期塗装されてた >>492
台湾のDR2700形に正面警戒色を剥がした事例がある
https://railf.jp/news/2017/08/15/201000.html
ただ高解像度の画像を見るといかにも頑張って剥がしたんだろうなぁという感は否めない >>493
これは周辺の枠がオレンジなので白熱灯
1灯シールドビームはライトケースがすり鉢型で枠も含めて全体が銀色 EF81 300番台でも301と302は関門トンネル復帰後も剥がしてない
302は片側の側面が衝突事故で平板に変わったが普通鋼で剥がせないとかデマがあった >>495
あんたじゃなくて490にレスした
アンカー間違えた SUS無塗装は現場が塗装の仕事無くなるとかで露骨に嫌がってたな
サロ153-900番台(あれは骨組みが普通鋼のスキンステンレス)も結局塗装されてる
汚れが落ちにくいとか特許絡みであの当時東急車輌でしか作れなかったのもあった
本格的に導入したのは205系からだが東急が握ってた特許を無理矢理公開させた 旧鍛冶屋線の市原駅に保存のキハ30 2連を見てきたが、清楚な加古川色がとんでもない
カラーになっていて泣けた。
もちろんオリジナルの表記など何も残ってない。
忘れ去られ、放置され、痛むだけ傷んで不気味なものとして潰されるより、市民相手
にこうなった方が長生き出来てキハ30も幸せなのかもしれないが。。。 床面積が広いのを活かして荷物輸送出来そうだな
但しカゴ台車に載せる場合ステップが邪魔 キハ35といえば、俺的には八高線のイメージが強い。
昔子供の頃、東京の西部に住んでいたが、高崎線経由より安いという理由で
親は信州への帰省ルートに八高線を選んでいた。 >>500
実際にデッキ無しロングシートはたいていは代用されてるよ。
カゴ台車(=パレット台車)はむしろ珍しくて人海戦術で積み下ろしだったからね。
アコーディオンカーテンがついてたりロープと看板だったり、なにかしら乗客と仕切っていた。 ひまわり号で使った事例ある?
車椅子を大量に乗せる場合床面積が大きい車両が有利で近郊型が良く使われる >>498
複数のメーカーに発注させるのを大前提にしてる国鉄としては、
東急1社でしか造れないような特殊な車両は嫌がるというのはあった。
205系が製造された頃はもう既に国鉄分割民営化が不可避の情勢だったこともあって、
東急が握ってた特許を無理やり公開させることができた。 近車式オールステンレス工法の試験車があっても良かったのに
バッド社や東急車輌の特許に抵触しないようにしたが結局東急車輌にライセンス料払った方が安上がりで近鉄3000系のみの採用だった >>491
相模線のは新塗装化と前後して消滅してたけど、八高線の35-527.530とか久留里線の30-501とかは民営化後も一灯シールドビームでしたね 900番台が首都圏色でJRに承継されてたらJRマークが貼れない問題が出てくる
EF81-300番台はプレートを溶接してた
904が相模色でJR東に承継されたが前面の車番がプレートだった >>501
自分は近畿のオマケ県出身だが、当時子供の頃は紀勢線の和歌山口、和歌山線が非電化で普通列車は
ほぼキハ35・36の食パン祭りだったな。73年関西線電化で流れ着いた(置き換え)ものが殆どで、
それ以前の自分にとってリアルな記憶がない時代は一般形のキハ17系、20系、45系
さらにキロ格下げのキハ26の400番とかも走っていたがほぼ一掃されてしまった。。
首を後ろに回して景色を眺めるのがキツかった思い出よ。 キハ35系統は保存車の数が異常?だよな。
@会津鉄道
A足尾駅 2両
Bいすみ鉄道
C碓氷鉄道文化村
D関東鉄道・・・倉庫
E鉄道総研
F美濃太田
G鍛冶屋線市原駅 2両
H鍛冶屋線鍛冶屋駅
I水島臨海鉄道
Jヒロサワシティ 2両
と14両?も残ってる。
486両製造されたキハ55系系統や179両製造されたキハ45系統が1両も保存
されていないのに、キハ35系統は製造台数413両の約3%が残ってる。
そんなにエポックメーキングな車両とも思えないんだけどね。。。 旧国の72系がほとんど残ってないのと対照的ですね… キハ35系がその能力を存分に発揮した路線はほぼ全部電化されてるからな。
電化されなかったのは関鉄常総線くらいだ。
でも、保存されているところでキハ35が大活躍したところが少ない不思議 まあ大活躍とは言わないまでも碓氷と総研以外は入線実績あるところばかりだから 現状で適してるのは芸備線くらいか
非電化で通勤通学が旺盛な路線が少ない
札沼線は冬季使用不可 >>512
大活躍っていうと千葉局とか天鉄局とかがまず思い浮かびますね。
が、キハ35がこの世を去る頃には千葉にも天王寺にも現役を知る頃の人がもういなくて
誰も保存しようという発想に結びつかなかった、とかでしょうか。。。
末期は相模線とか八高線とかですし、キハ30は大宮新製配置もあった訳で大宮には
1両位保存されても良かったですよね。
特に新製配置は近畿でも最後は茅ヶ崎や高崎で廃車になったキハ30・キハ35のトップ
ナンバーのどちらかオリジナル塗装に戻して大宮に残してもらえばよかったなぁと思います。 大宮駅↔鉄博のシャトル列車とか
ニューシャトルはいかにもメンドクサイもん >>518
大宮機関区のキハ35系配属は8年位と短かったからなあ
>>519
ニューシャトルの客減らしちゃいかんでしょ そーいや一時期水戸(水郡線)にも35系いたな。
そう考えると関東で35系居なかったのって群馬栃木だけ? >>518
大活躍と言うか蠢(うごめ)いてたという感じだなw
ドン臭いディーゼルのそのまた通勤タイプなんて誰も歓迎ムードじゃなかったんじゃない?
単に人を運ぶハコと言う感じ。都市近郊なんて早期に電化スピードアップが求められてたんだから。 ”蠢いていた”・・・、見事な表現ですね〜w
確かにホームへの進入速度も遅いし、発進の時もゴロゴロガラガラとウルサイ割には
全然速くも力強くも無い。
それでいて大きな駅だと動いているのも止まっているのもなんだかあちこちいて、
あっちで出て行ったり、そっちで入線してきたリしているような感じで、まさに
”蠢ている”様な感じだった。
一方でキハ58の長編成急行なんかだと、キロも居るし発車の時の物凄いエンジン音と
垂直に噴き上げる排ガスが各車凄くて、そこそこ加速力もあって4連程度のキハ35とは
迫力が全然違った。
キハ35は溌剌・快活・躍動・強力という類の単語とは無関係の車両だったかと。 >>507
キハ35-904がJR化後に相模線に転属して、翌年に相模線カラーになるまでは
確かJRマーク自体貼られてなかったぞ >>522 八高線はともかく、足尾線にキハ35って米坂線同様、場違いのように思える。
キハ17が老朽化し新型回せる余裕がないので、これを当てたのだろうが。東北、上越新幹線開業後はキハ58を回せるようになったのだろうが、少し早かった。 それでもキハ35の関西線快速は阪奈間で準急かすが並みの高速運転をやってたし、
阪奈間では東京直通の客車急行大和よりも速かったぐらいだったけどな。 80年代半ばまで雑草のような103系だったが、
そのディーゼル版のキハ35系になると色々
味わいがあるのは何故だろう?
んでも昔九州の田舎でキハ20とかキハ58のチャンポン編成にロングシートのキハ30?キハ35?が混ざってると自分も周りの人も避けてたなあ 笑 後々の転用で使い道に困ったよな
ラッシュ時以外持て余す
真ん中の扉を塞いでロングシート延長工事やってもおかしくなかったはず そう考えるとロンシーよりも三扉のほうがネックだったのかな 外つり扉なので寒いとこへは持って行けない(後にキハ47が配置されたところ) >>532
それなのに、キハ35には500番台がある 乗ってる分には全く関係なかったが
押込み型ベンチレーターには高級感画像をあった 500番台は隙間風が多くて悪評付けられた?
ベンチレーターが押込み型なので天井から雪が入ってくることは無いがドアの隙間から雪が入ってきそう >>530
> 真ん中以外の扉を塞いでロングシート削減工事
なら、実際にされたというのがなぁ 関東育ちの俺には103系の気動車版通勤仕様というのが想定外なんだ。通勤仕様ってのは、
2分に1本で駅で前の電車が駅に使えていて
先頭車だとATCがちんこんちんこん言うのを
手で止めて徐行して進むそんな殺伐とした
ところがいいんじゃねぇかって車両を言うんだぜ。通勤用って言いたいだけなんじゃないか?
オレの感覚では、郊外ローカル線用。これだね。 とは言ったものの、首都圏以外の通勤路線は
朝のラッシュ時間帯4両5両編成で、30分くらいのピークでギッシリすしずめ状態で
それ過ぎたら1車両5、6人の閑散とした
すごく極端な利用状況なのかね?
呉線広駅のC62C59後にEF58が数分置きに発車
していくなんてすごいシーンが有名だが、
しかし極端なピーク時に合わせて車両をやりくりするのは大変だよなあ 転用先に困ったってのが思い込みだからな。散々増備して房総や関西線が電化しても転用先はあった
製造が昭和38から41年で初廃車が昭和59年。十分使っただろ。キハ38になったのもいるし >>537
それどころかエンジン下ろして制御車化したのあってもう滅茶苦茶
速度種別H0程度(=10‰均衡30km/h)だったとか? あの当時のJR西は何か狂ってたな
氷見線に12系改造のキサハ34を投入して加速力度外視で輸送力増強してた
キハ58・28でサンドイッチするので4両編成でエンジン3基になって加速が悪化した >>541
和田岬線は勾配もないしスピードを出す必要もないから、
詰め込みさえ利けばいいという考え方だったんだろうと思う。 和田岬線は客車時代とダイヤ変わってなかったな
客車やキハ35の頃は30キロ程度しか出せてなかったが103系になって85キロまで出せるようになり時短になった >>529
気動車が走る沿線というか地域って、都会よりは田舎のイメージ。
その中でキハ35が似合う風景だと都市近郊だが適度に自然があり、また生活感もあるが
決して洗練はされていない、昭和的な地域。何というか「地元感」「実家感」漂うまったりイメージ。
都市近郊と言っても東名阪じゃなく、その衛星都市(千葉、神奈川、兵庫とか)や地方の中核都市。 まあ旅情や郷愁というより、あまり写真映えしないもっとリアルな風景、日々の営みが見える風景に
キハ35はよく似合う。そのリアルさもまた味わいになってしまうものかも。
連投すまぬ。 >>546
わかります。
でも、首都圏色+前面強化+シールドビーム+外嵌テールでは台無しですね。 >>547
その感じのルックスってどうしても末期国鉄の悲惨な時代がオーバーラップして、
味わいと言ったものは程遠い、ただ現実だけが晒された印象になるねw
やはり70年代までのオリジナルスタイルがいい感じで「かつての昭和の国鉄」的なモノが伝わる 八高線スレにキハ35の走行映像がいっぱい上がってた。 >>545
その点関西本線の奈良県内はドンピシャでそんな感じだったな! "東名阪” ひがしめいはん=亀山〜名古屋の高速道路。松原〜天理が”西名阪”(にしめいはん)
"東名阪” とうめいはん=東京・名古屋・大阪の三都市を指す
>>545は後者の意と思われる
なお、関西本線が一番"沿って"走ってるのは旧中在家信号場付近の”名阪国道"かな D51とキハ35が交換する中在家信号場の風景は昭和40年代国鉄の懐かしい瞬間 足尾に保存されてるキハ35 70って日車製造なのはわかるんですけど名古屋なんですかね?わかる方いませんか? >>554
地元のクルマだよ
1964年11月10日製造 日車 千葉 1974年11月11日高崎 1996年9月10日廃車 >>555
>>554は多分名古屋の日車で製造されたの?ってことじゃないかな。
オレは知らんけど。 >>556
ああなるほど
俺も知らんけど
当時の日車って蕨の東京工場以外で旅客車両作ってたっけ? 日車のHP見ると1972年/昭和47年に名古屋製作所閉鎖と記載があって14系客車が
最終出場セレモニで写ってるのが載ってる。
ここでキハ35も造っていたんでしょうね。 関東鉄道が独自に作ったキハ35もどきってなんか不気味だよね。。。 >>545
私は元福生市民で八高線沿線民だったが、
キハ35のいる風景、まさに「地元感」「実家感」ドンピシャだった。
唯一、場違い感があったのは、東福生ー箱根ヶ崎間の、米軍横田基地の敷地内を走る区間だった。
(もちろん線路はJRのものなのでそこは横田基地じゃないんだが)
なつかしい思い出だ・・・ >>563
×:キハ35は永久に不滅です!
〇:キハ30・35・36は永久に不滅です!
書くんだったら、こう書かないとダメじゃん。アンタ、もぐりだろ >>564
両運とトイレ無し車は嫌いなのかもしれない。。。 和歌山線 キハ35 で画像検索すると出てくる あと奈良線 和歌山線も70年代(昭和50年代前半)まではキハ10や45とかクロス車が連結されてたが
80年代から電化までの末期はキハ35、36だけになってたかな。が電化されてもお古改造の105系・・w
何本かは天ナラの113系(春日)が入ってたが、それでもあの頃の和歌山地区の車両はお粗末な時代だった
まあゴハチがいつでも見れたのは今にしてみればいい思い出か。 ちょっとスレチな昔話ですまん 夏は涼しかったが冬寒い
風通しがいいから車内なのに排煙くさい
↑のイメージしかない
ちなオリジナル線区の国鉄関西本線(昭和60年以降)が原体験 当初の都市近郊の通勤用としてデビウしたけど、千葉や関西線以外は普通にローカル色豊かな地方線区にも
ぴったり雰囲気的にも収まってたな。やっぱ非電化(ディーゼル)ってローカルなイメージ。 >>570
ゴハチのクロスシートはゆったりしていて快適だった >>573
電化直前の八高線はすごかった。旅行中に朝ラッシュに遭遇したけど
「満員気動車」で編成も長く、まさにこの系列の面目躍如だった。 >>564
指導するんだったら「キハ35系は、と書きなさい」だと思うが
どーでもいいけど 通勤型DC走らせるぐらい需要があるなら電化しろや、という考え? 和田岬線のやつは所属車両基地が鷹取工場で「工場」に車両配置してた希少事例だな
他に変わった事例は左沢線のキハ101が「電車区に配置されてた気動車」だった >>578
岡山も一時期「岡山電車区気動車センター」だった
あと、気動車じゃなくて電車だけど、西日本207系が一時期、「吹田工場高槻支所(京スタ)」に配属されてた >>579
前者って単に区所の体系区分が一時期そうだっただけで、
区所の実際の現場は本格的(国鉄岡山気動車区〜)だからな。 キハ35のドアエンジンはドアの中にアームを通したとか凄すぎ
ドアの内部が空洞になってる 水海道に放置された関東鉄道のキハ301はまだあるのかな? >>582
元筑波鉄道 キハ301>元々国鉄キハ30 16 高タカ一 の事ですね。
二年前2月20日のイベントで基地に入った時は有りましたよ。
古い情報でスミマセン。。。 小田急の昔の車両みたく通風グリルにすればよかったのに わざと指や腕出したりしない限り平気なくらいしか開かないよ 別にストッパーなくても「わざと指や腕出したりしない限り平気」だけどな 開くには開くが、開口面積がかなり少なかった気がする それにしても側面の窓部分が多くて見通しのよい車両だと思う
水島臨海で戸袋窓のないキハ37と連結されているのを見てより一層実感した キハ35 217の便所窓
或る意味キハユニ25 7と同類 この系列は当初、気動車標準色で登場したわけだけど、
正面貫通扉部分の塗り分けと、幕板部分の朱がない変則塗り分けだったけど、
キハ10系や20系と同じように塗った場合を、絵ヅラ的に見てみたいんだけど
そういう、「別の世界線でありえた系のウソ電」を
作ってる人とかサイトとか、どっかにあります? >>593 キニ19やキニ16の前面がそれに近いのでは。改造型気動車だけど、キハ35同様の切妻型前面にしたもの。 >>595
どちらかといえば腰回りの段差ないだけ
キニ16が近いかな?
でも16でも前照灯がちがうよね 外吊りドアが出っ張ってる分車体幅がキハ20より広かったな
キハ58とほぼ同じくらい 先頭が車体断面の小さい10系気動車で2両目が切妻のキハ35だと、後ろから10系気動車ギリギリまで顔近づけてキハ35が「威圧している
ように見えてキハ17やキユニが可哀想に見えた >>560関鉄のは国鉄、JR-Q、JR-Eからの中古車でトイレを撤去して窓を取り付けた車両、後にエンジン交換と冷房取り付けが行なわれている。 >>567久留里線の復刻車と関鉄の塗り分け位置が少し高い353と354 関鉄と言えば、水色の「スト権スト」車の他数量が関鉄引退後フィリピンに渡ったんだよね。
なんかすごいカラーになってたけど。。。。 >>603
回答的にはおかしくないけど
その人は標準色現役時代(国鉄当時)に居たか?って質問だと思う 常磐各停に乗り入れた小田急4000系から関鉄の気動車に乗り換えた。
平日一日一回のみ可能。 高校生のときに八高線のキハ35に乗っていたが・・・
満員状態でもすいてる時でも、あんまし加速感はちがわなかったような気がするな
いつでも加速悪い。 加速というより発進までのタイムラグは満員時のほうがあったように感じる 国電101系やその他のスレで加速について書いている人と同一の人? 今日碓氷峠鉄道文化村に行ったが、キハ35901には鍛冶屋鉄道跡地にある3両のキハ30では撤去(盗難?)されているタイフォン
が付いていて模型作成に当たっての参考になった。
あと35901の台車部先頭部には鍛冶屋のキハ30にはいずれも付いていない緑色のタンクの様なものが左右両側についていたのだが
あのタンクの機能は何なのかどなたか判る方いらっしゃいませんでしょうか・・・? 久留里線で走ってたキハ30をさいたまの鉄道博物館に保存して欲しかった 国鉄の頃の気動車の加速は概して悪め
平地なら、満員でもそんなに加速がさらに悪化という印象は無かったです(もともと悪かったから)
むしろ勾配区間では厳しい速度の方が印象的 真ん中ドア閉鎖改造を行った車両が出てもおかしくなかったはず
田舎で3ドアは明らか過剰だし冬に隙間風で寒くなる
和田岬線は片一方の側面の2か所を閉鎖してた 田舎でも昔は通学の高校生が多かったから詰め込み要員のキハ35系は重宝してたんだよ >>615
岩徳線で、中ドア冬季締め切りのキハ35に乗ったことがある
ただし冬季だけの暫定みたい
効果はありましたね 首都圏色+補強板付き+前照灯1灯(シールドビームではなく電球の大目玉)の資料や画像ってありませんか?
奈良と千葉(木更津)にはいたらしいんですけど番号も何も分からず…
他区所にもいたら知りたいです >>618
「キハ35 画像」でgoogle検索してみりゃいいじゃん
まさかそんな簡単なこともやってないわけじゃあるまいな?
そういう、まず自分でできることやってからだぞ。ここでそういうことを聞くのは。 >>603
関鉄353,354は自社カラーに合せているので色合いも少し明るい色になっている。 >>619
調べ方が悪かったようです
質問してしまい申し訳ありませんでした 基礎知識級の質問で恐縮ですが、キハ20あたりも含めて
電車用のコルゲートのないシールドビーム2灯カバーを取り付けていたのはどこの工場でしょうか? 大宮ですか? キハ28やキハ55は言うに及ばすキハ20でも編成内に居たら絶対乗らないキハ35だったが、今思えば懐かしい。。。
キハ17しか選択肢が無くても17の方に乗ったよ。 隙間風凄そうだよな
寒冷地型はあったが寒冷地での使用に適さない フィリピンに行った元関東鉄道のキハ35系6両はまだ現役ですか?
ネットでググったけど、現役かどうかわからなかったので。。。。 103系みたくラッシュ時の乗客の重みで台枠が歪んだ個体あったとか? >>629
Googleで出ないならXで試してみる
もちろんどちらも検索語句はあれこれ試す
(XアカないならYahooのリアルタイム検索で)