南部縦貫鉄道について語るスレ
>>19
宮脇翁の「時刻表おくのほそみち」によると通学時間帯向けに導入したようだ。
レールバスは過負荷になれば軸バネが伸びてしまい車輪のフランジと床が擦れた、
なんて話がかなり昔のウヤ情に書いてあったっけ。確か95年あたりに。 縦貫線の沿線にナントカ高校ってのができて、沿線民はそこに通うようになって旧キハ10は使わなくて済むようになったってな。 キハ100のレールバスはニュトラにして惰行してる場面に遭遇したことがなかった。
つまりはいつでも力行状態。
旧キハ10もそうだったんかなぁ? キハ10を定期運用で使ってたのは80年から84年頃まで
それ以降は不定期で団体向けや休止間際の混雑時に動かした程度 80年代初頭って団塊ジュニア世代が高校入学する頃で現存しない地方私鉄でもラッシュがあったし、朝しか動かない車両に乗りたくて、夜行で出かけたものだわ、南部縦貫に急行八甲田で乗りに行った時はレールバス+DL の除雪列車だった。 1997年、JR10周年謝恩フリーで大阪から乗りに行ったな。
あの時、レールバスの老朽化が深刻なために座席定員以上は乗せないとかで、1便あたりの乗車券発売数を制限してた記憶が。
だから乗れなかったらどうしよう…とドキドキしながら早めに野辺地へ行ったなぁ。
ま、無事に切符が買えて乗れたわけだが、あの脳天まで達するような激しい揺れと、車体が壊れるんじゃないかと心配するくらいの悲鳴に近い走行音は今でも忘れられないな。
七戸からはバスで十和田市に抜け、こちらも今はなき十和田観光電鉄に乗って三沢に抜けた。
あの頃の旅路が懐かしいな。 何ゆえに、南部「縦貫」というどでかい名前を付けたのか(謎) >>27 製鉄所建設需要を当て込み、やがて三沢辺りまで延伸する構想があった。 保線するか…。
確かリアル消防の頃の小さいけど厚い鉄道本(消防向け?)にも南縦は出ていたな。
リアル厨房の頃に見たギコパブの「日本のローカル私鉄」という本で見た通りの情景
だったと記憶する。…しかし今やあの本に載っていた車両はかなり退役したどころか
廃線になったとこすらあるのだから。生まれるのが遅かった…。 長〜い病院待ち合いみたいな黒ベンチの両端に、灰皿が置いてあったよな?
最後の5月に行ったけど、日陰の路肩に雪が残っていたのが印象深かった。
そして、残照の坪川…。 この鉄道驚くほど事業計画ずさんだな、子供のママゴトみたい >>32
それ言ったら天間林の砂鉄を使った製鉄構想自体がな…。
それでも走らせ続けた地元の根性はスゴいと思うのだが。
まあ去年逝ったしもう数年したら再訪するとしよう。 10年程前に三沢から十和田市廻りで行ったな
バスの切符売り場へと続く蕎麦屋の入った建物は文化財級 >>36
前やってたよね
ぷちらまトレインと飴玉注文したことある
奇特な奴と思われたのか丁寧な手紙が添えてあって恐縮した >>34
キハ10が人気なのが隔世の感がある。
現役当時はキハ10に「動くな」と念を送っていた。
わざわざ青森の僻地まで撮影に行って
レールバスじゃない国鉄のおさがりが走ってきた時の
ガッカリ感たるや…わかるかな? 最終日行ったら、キハ10がレールバスの続行で終日動いてたんでシャッターチャンスが倍になってラッキーと思ったもんだった 本当は廃止予定が、鉄道ファンが大勢来て休止になった珍しい鉄道ですね。
結局廃止になったけれど、東北新幹線七戸十和田駅までの延伸案が
実現していたらと思うと、やはり残念でならないですね。 >>27
開通時は南部鉄道線が健在だったので、同一商号はNG。
かといって七戸鉄道や千曳鉄道じゃしまりがないし…少々文字足せばいいんじゃね?
地元民はあんまり深く考えていなかったと思うよ?
(ちなみに南部鉄道は開通時は「五戸電気鉄道」だった) >>41
庫内にてアイドリング状態での車内公開のみ
アルプスの牧場流してた 例えば東急5000は青ガエル、名鉄3400はイモムシ、小田急9000はガイコツのように、ニックネームをつけてやっとも
よかったよな。さしずめ「座敷わらし」「コロポックル」といったところか…。 単に”レールバス”が似合ってると思う。飾りっけはいらないなぁ。 レールバスというくらいだからさぞかし運転台もバス然としてるかなと思ったら
シフトレバーが本当に付いていて驚いた 2軸車でレールの保守が行き届いてなかったはずだから揺れがすごかっただろうな バスですら部品が枯渇してたから、調達は大変だったろうな…。
キハ103は欠番かと思ったら、短命ながら居たんだな。 末期はレールの上に肉盛りしてたよな
摩耗の激しい踏切付近が中心だけと
地下鉄乗ってるようなゴーって音がしてた >>57
というよりも導通悪くて踏切の軌道回路が反応しなくなるからではなかったか
踏面に針金を溶接したような感じだったね 三陸鉄道が2軸車の採用を見送ったのは、スプリングポイントを背向で通ると
速度制限を受けるからだと聞いたが、真偽は定かではない。
南部縦貫にはスプリングポイントはあったかな? 保線も手が回ってない様子だったな
地方私鉄ならどことも大差ないのかな >>59
休止時には無かったと思う。既に全線一閉塞だったし。
天間林で交換していた頃は分からん。 >>39
このスレでキハ10がーキハ10ガーって言ってる人は同じ人でしょ。 >>52
保育社のカラーブックスの「日本の私鉄・東北北海道編」で南部縦貫キハ10の紹介に
「外観も内装もバス然としている」との記述があったよ。 所属車両の物珍しさだけで経営を維持しようと思えばあまりにもキャパが小さすぎる 最初からレールバスで客集めしようとは考えてなかったよ。
開業時は最小の経費で最大の効果を挙げるにはキハ01タイプのDCが
最適と判断されただけであって。 >>69
そうだね
元々むつ製鉄の原料運搬目当てで、旅客はおまけだったからな
当時の同和鉱業キハ2100相当を導入したら、会社更正出来ずに廃線になっていたかもしれん 年代的になさげ。
運転操作をよく見てたわけじゃないけど。ダブルクラッチで合ってる? かぶりつきで見てたことが一度あるけどよくわからなかったな
シンクロ付いてないとガーって音がするときあるけどそれは一度もなかった むつ製鉄事業がもし実行されていたら
また違った展開になってたかな 事業化されたとしてもそんなに恩恵なかったんじゃないの? 貨物列車主体の味気ない路線になっていたかも。
レールバスだってどうなってたかわからんよ。 本社社屋が倉庫みたいで驚いたが、振り返れば岳南や関鉄も看板がなければ
鉄道事業者のそれとはなかなか判別できない 廃止直前にレールバスの撮影に行ったついでに本社にも寄った
本当に倉庫みたいだったw >>39
分かる
目当ての車両を確保できなかった時のガッカリ感。
少ない小遣いでは最小の経費で最大の成果を挙げなければという
妙な“ノルマ感”に縛られて、楽しいはずの撮影旅行が
ただただ辛いだけの苦行になってしまってたw 資金を気にせず旅行ができるようになるには、やはり会社勤めしないと厳しいかな
バイト程度では追い付かない ここは最終日に野上のような悲惨なことにはならなかったのね 昭和59年訪問時、偶然にも地元特産のリンゴの箱詰めが積み込まれて振動で揺れていた
長閑だった・・・・ 道床が貧弱な上に2軸だからさぞかしよく揺れたであろう
そんな状況でリンゴなんか運んで傷まなかったのか >>74
輸送力が無さすぎてここの会社の手に負えない もし本決まりになったなら設備投資はやったでしょう。
約5年で回収できるくらいの利益が見込めたはず 設備投資か
車両増備か電化か複線化か重軌条化か…
どれも非現実的だなあ 確か三陸が富士重セールスのレールバスを導入しなかったのは、
スプリングポイントの背向にレールバスだと軽くて負けてしまうからだと記述があった。
処で 湯口徹様が鉄道ファン誌で連載したレールバスものがたりを や 南部縦貫鉄道
のクルマを参考に 当時設計製造に携わったヒトが居ない?中 再興して製造した
Le car (富士重第二世代?レールバスの最初に造られたサンプルカー)は、その後ど
うなったの?
南部縦貫に参考調査 謝礼に格安で提供かと思ったのだが・・・ 井上広和氏の著書にもりんごの箱詰めのエピソードが載っていたね
恒常的に運んでいたのだろうか りんご農家からガチで出荷するならそんな少量輸送では到底賄えないから
小包的なものだったのかな
まあ画的にはローカル風情溢れているので良いとは思う 他スレで見かけたが車内に灰皿があったとか…
喫煙可能だったのね >>108
乗車体験初日も最後に庫から出して並べてたよ
撮影日は車内に入ってアルプスの牧場を聴けた https://www.youtube.com/watch?v=FVtvB4yR214
これな。
一度だけ乗ったが満席で運転士の右後ろに立ちっぱなしだった
運転士は帽子が吹っ飛ぶからと言って無帽で運転、終点間際にかぶり直したのを覚えてるな〜 軽くするために外板は極限まで薄くしたが為に車令20年になるまでに傷みが深刻になった
もちろん、手入れを怠ってたわけではないだろうが、
この車は長生きできない宿命をはじめから背負って生まれてきたような気がする どこかの鉄道ブログで勾配を登れずバックして助走をつけて登ったというのを読んだことがあるけど
俺が乗ったときもそうだった
終点七戸駅舎内は駄菓子屋の土間みたいなな感じだったような