南部縦貫鉄道について語るスレ
>>108
乗車体験初日も最後に庫から出して並べてたよ
撮影日は車内に入ってアルプスの牧場を聴けた https://www.youtube.com/watch?v=FVtvB4yR214
これな。
一度だけ乗ったが満席で運転士の右後ろに立ちっぱなしだった
運転士は帽子が吹っ飛ぶからと言って無帽で運転、終点間際にかぶり直したのを覚えてるな〜 軽くするために外板は極限まで薄くしたが為に車令20年になるまでに傷みが深刻になった
もちろん、手入れを怠ってたわけではないだろうが、
この車は長生きできない宿命をはじめから背負って生まれてきたような気がする どこかの鉄道ブログで勾配を登れずバックして助走をつけて登ったというのを読んだことがあるけど
俺が乗ったときもそうだった
終点七戸駅舎内は駄菓子屋の土間みたいなな感じだったような 国鉄でも、坂を上り切れないときは一旦戻って貨車数両を切り離し、再チャレンジすることが内規にあった
切り離された貨車がその後どうなったかは知らない >>120
切り離した貨車は、次の貨物列車に繋ぐんだ。
で、だるま落とし式にどんどん貨車の到着が遅れ…トラックに顧客をもっていかれたんだ(´;ω;`) >>126
地形的に線路を南北方向に敷くしかないケースが多いためじゃないかな 南部鉄道と名前が似てる
向こうから文句言われなかったのかな? 造語なら言われるかもしれないが 青森の南部地方なんだから言われないと思う 南部鉄道は八戸と五戸を東西に結んでたから南部横断鉄道に改名しても良かった 短すぎて横断になってないw
単純に五戸鉄道でいいさ
>>119
貨物の話題
昔のサンデー毎日の旅紀行みたいなコラムにここの記事があって、
地元の古老から聞いた話としてそういうのがあったとか GWの運行のときに乗った縦貫タクシーの運ちゃんが小学生の時開業日に学校みんなで駅まで旗振りに行ったと話してた
地元の人たちからすれば悲願で忘れられない思い出だったんだろう いい話だね
小学生や幼稚園児が開業日に日の丸や社旗の小旗を振って駅で列車を出迎える光景は1960年代から各地であったらしい
拡充期の都営地下鉄は小刻みに開業するたびに催してきた 地元の写真屋さんが開業日の様子を8ミリで撮ってるね >>140
それは別の狙いがあったんじゃないの?
もちろん幼児に選挙権はないけどさぁ… ズームイン朝で中継されたことがあった
レポーターの人が鉄チャンらしくレールバスを熱く語るのだが
東京のスタジオの徳さんは興味がなさげに淡々と相槌うつばかりw レポーターが冷めててどうするんだ
次の仕事回ってこないぞ
おそらく鉄ちゃんじゃ無いに一票 >>145
毒光には電車の話よりボートの話やろ?
で、その話にしたレースぼろ負けして更にイラつくかは知らんけどw >>144-146
国鉄最終日の生中継で
「機関区」のことを「キセンクであります!」ってやってたからな。 キリスト教 本家 情報 ふぇあり
命はどうでもよいらしい 練馬区 >>85
ノルマがブルマに見えた
疲れてるのかな? 乗車したときの動画が意外と豊富にあがっている
…楽しそう
乗れた人がうらやましい 立ったままどこにも掴まらずにひたすら堪える
実に楽しかった あれは棒立ちよりも膝を少し曲げてショック受ける様にしとく方が耐えられたな 旧い病院の待合室みたいな黒ベンチ
両端に四角い灰皿
流石にラッシュ時は禁煙だったんじゃないの? だから平成まで生き延びるとは思わなかった
よく頑張った! >>159
1977年発売の私鉄全百科には既に利用客は減りつつある、と紹介されている 1981年カラーブックスの日本の私鉄北海道東北北関東編でも
あてにしていたむつ製鉄事業もなくなり苦しい、と。 むつ製鉄に備えて立派な機関車を新造した一方、旅客輸送は最初からバスタイプで
充分、というのは当たっていた 初めて乗ったときギアチェンジするので、まるでバスだと思った。 東北新幹線開業まで南部縦貫鉄道が存続していたら
七戸十和田駅は今よりも南部縦貫鉄道の線路寄りの場所に作ったのだろうか おそらくそうだと思う
既存路線との接続は地域全体の交通体系のためには必須 もう暖冬が当たり前になるんだろ
スキーは人工雪しかない