【製造両数】151系車両 4号車【151両】
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俺には「先頭電動車は無意味」の意味が分からんのよね
クハで済むならクハで良いんじゃねってレベルの話で良いのかな? 俺は>540じゃないけど、クモハとクハの両方の車種を用意するのが無駄、と
言いたかったんじゃないかと。
原則はクハとモハだけ造ることに決め、長編成でモハが多すぎる場合だけサハを追加する。
これで車種の造り分けは最小限で済む。 >>543
80系で先頭電動車を設定しなかったことから国鉄では動力分散方式のメリットを確固たるものとする以上動力と制御は別々にしなければならないという考え方があったと思う
だから先頭電動車は余程の必要に迫られない限り設定しないことにしたと想像 >>542
485系に後にクモハが出来たけどそれは編成が短くなったことで
クモハを作らないといけなくなったからで
なるべくはクモハを作りたくなかったのでは 電車を長距離優等の主役にすべく開発した車両だから、
長大編成を前提に機器をバランスよく配置した結果だろう。
当時の技術力で編成全体を冷房するには
東武1720系や名鉄7000系のように2両分の小容量MGをたくさん積むのが主流だったが、
国鉄は6両分の大容量MGを開発して、遮音のために先頭車ボンネットに収める設計にした。
そのため151系ではクハ35t、モハ38tとクハの重量がモハ並みに重くなっている。 >>547 小容量MGをたくさん積む方式だと、MGの騒音が車内にかなり響いたのか?
例えばクモハ157は。当初は冷房装備してなかったが、冷房準備車として3両分賄えるMGを搭載しているわけだろ。 >>544
なるほど
車種を最小限にする訳か
でもそれって動力分散方式がどうのと関係ないよね
>>545
編成のどこに電動車を置こうと動力分散方式のメリットが増減したりはしないと思うが
動力集中方式のデメリットは動力専用の車両が一両必要ってことでしょ?
クハだろうがクモハだろうが同じだけ乗客運べるんだからそこに差異はないだろう
「動力分散方式のメリットを確固たるものとする」というならそれを具体的に書いてくれないか
>>547
それは長大編成だからだよね
用途によって変えてる訳でクモハ否定じゃないよなあ >>548
クモハ157の機器室に冷房用MGを入れたのは、冷房化の時だよ。 157系・キハ82系・581系が運転室次位に機器室を設けたのは、一貫して騒音源を客室から遠ざける配慮。
本当に必要だったのかと言われれば、
151系は増備過程で食堂車に調理用小MGを積んだからこのコンセプトは途中で半分崩壊しており、
157系も増結して先頭車が中間に入れば同じことだから構想した通りにはなっていない。
ただ、1次車の時点では国鉄部内で機関車派とのすさまじい(今思えばつまらん)縄張り争いがあったから
開発陣としては何としても動力集中方式に対する優位を示す便法が必要だった。
ロザを電動車にすることも実際に1次車が完成するまでタブーだったし、作りながら説得材料を築き上げ、世の中の常識を変えていた時代だ。 101系以降の新性能電車で設計段階から先頭電動車が設計されていて尚且つ量産に至った系列自体少数派だから国鉄は先頭電動車をあんまり好んでないというのはあると思う
列挙したら(改造によって生まれた系列を除く)
101系・105系・301系・115系・157系・165/169系、交直流急行形全部、781系位か
どれもシステム上や編成構成の都合上仕方なく先頭電動車を設定が避けられなかった車種ばかり ユニット式という時点で、2両とか3両のせこい編成は想定していなかったから先頭車を無理して電動車で作ろうという発想はなかったのでは?
地方電化で短編成の必要性が考えられたから165系、451系からはクモハを作り、最短3両を可能にした。 「中間電動車方式」というのは実際、80系湘南電車のキーワードとして広く用いられ、
国電の設計流儀になっていったのは事実。
それに当時電化推進中の路線は重要幹線ばかりだったので、
できるだけローコストで長大編成を調達したい国鉄のニーズにもマッチしていた。
しかし技術環境と用途に応じて柔軟に解も変えていて、
急行形は157系や451系から勾配対策でMT比2:1が必要になり分割併合ニーズからもクモハに転換。
究極の国電たる0系は圧倒的な空気抵抗に抗するためオールM。
301系は地下急勾配対策、105系や781系はもう短編成で済む地方電化の時代と、そんな流れ。 >>555
クモハ103は103系設計段階では想定されてなかった後天的な形式
これも投入先の事情で仕方なく設定されたカテゴリーに入るかと >>556 クモハ103は1965年に登場しているんですけど。103系の量産配備が始まった年の翌年。試作編成に含まれていなかったというのなら、サハ103も同様ですね。
何が「後天的」なのやら・・ >>557
山手線を想定すればクモハは不要。
京浜東北の付属編成対応でクモハを作った。
試作車でサハを作らなかったのは試作だからでしょ。 「国鉄は動力分散式にする以上先頭電動車は無意味という考え方」だとしたら
クモハは生まれてないわな
だって無意味なんだから
でも実際はクモハの需要があれば素直にクモハ作ってるんだから
無意味だと思っていたとは思えん
もちろん中間車だけで電動車が足りる状況で敢えてクモハ作る意味もないとは思うが 211では敢えてクモハ作ったけどね、地方線区への転用見越して
正直十分活用されてるとはいいがたいし、実際E231系以降ではそうしなかった 首都圏でガタガタになるまで酷使したお古を地方へ転用する国鉄本社のやり方は
地元の怒りを買って昭和50年代からは次第に通用しなくなっていったからな。 451系と471系は当初はクハ451が無かったんでは。 JR化後は東211系のような露骨な晩年地方転用の方がむしろ少数派で
都市圏は都市圏内で順次都落ち、
地方は30〜40年に一度の新車が多いだろ
115-1000が新車だった長野松本はもっと怒ってもいいのではw >>561
関東最大の私鉄では平成になってもそれをやってるんですがwwwwww 国鉄が新性能電車以降積極的に制御電動車を造りたがらなかったのは踏切事故の件もあるでしょ
唯でさえ当時の国鉄内には電化線にすら特に危険な第3種以下の踏切が無数に存在していて
折角の長編成前提の中間電動車も可なユニット方式の新性能電車なのに
わざわざ事故で損傷のリスクが高い先頭車を電動車にまでして無用に製作費を吊り上げる理由も無かろう 全盛期の頃のクロ151は指定券争奪戦になってた?
あの当時は紙の台帳での手動発券で混雑時に1枚の切符が出来上がるのに30分以上掛かってたなんてこともあった
晩年はマルスに組み込まれてたのか? >>567
>国鉄が新性能電車以降積極的に制御電動車を造りたがらなかった
そうなの? 101系がオールM設計、151系がボンネットに高価な巨大MG・CP、
157系から勾配線向けはクモハ。機器防護のために先頭を避けたのはパンタグラフだけ。 >>570
いわゆる「前パン」を国鉄が嫌ってるのは桜木町事故の影響というのはない?
でも直流電気機関車は前パンなんて当たり前だからそれはないか?
それにしても先頭電動車とか前パンに対する考え方は国鉄と関西私鉄は正反対だね
関西私鉄は先頭電動車や前パンは当たり前だし
関東私鉄は国鉄に倣うことが多いのか先頭付随車や後パンタが多いような 湘南電車が1950年、桜木町事故が1951年だから事故を受けてというのは少なそうだが。
私鉄は路面電車発祥か、もともと短編成だったところが多いからね。 粘着運転の理論から来る効率や安全性の問題でないのか?
電気機関車から無動力の先輪を無くす事にも反対の見方もあった時代だろ 電機においても先輪付きは1958年製のEF58/15が最後。
その頃国鉄では交流電化の実用開始で交流D型機の粘着性能が有望視されており、
新車設計では先頭がM軸かT軸かはもう車両全体の都合で決めていただけだけと思われる。
151系でクモハを起こすと冷房+大容量MG+電装で車重が40トンを超えてしまい、
スハ43世代の軸重に逆戻りしてしまうので、モハに電装、クハに補機と分散配置。
翌年登場の157系では日光線の勾配対策でMT比2:1とせざるを得ずクモハ起用。 >>574
雪の無い、暖かい線区ならもう少し使えたかもな。 温暖な東海道・山陽で過ごした153系も1982年で引退しているから
国鉄の労働争議で十分な手入れをしてもらえなかったとことが大きいと思う。 >>576
でも紀勢線くろしおで使ってたら塩害でいっぺんにやられそう
天鉄局が激怒したから381系新製投入となったらしいが 151の補完として、臨時、季節列車の短編成運用に157が用いられたわけだから、151を短編成化する必要性は乏しかったのでは。
山陽新幹線博多開業後、地方線区でも特急増発となった頃は、151も157も老朽化し、183に代替されていったわけだが。 こだまでも当初120キロ運転する予定だったが色々問題があって110キロで落ち着いた
120キロ運転開始はヨンサントオから
静岡地区では未だに最高110キロを引きずってる
もしもこだまが120キロだったら東京〜大阪で6時間切ってた? >>580
130km出せるスーパーレールカーゴでも6時間切ってないんだよね。 >>581
130km/hで走れる区間はどこ?名古屋周辺? >>582
JR西日本エリアだけじゃなかったかな?つまり米原から西。
ただスーパーレールカーゴだと旅客列車と違って乗務員交代の運転停車しかないから
その分速い。 前の列車がとっとと待避線に入ってくれなければ減速信号=制限65を食らうし、
東海道本線は案外、R600〜1000クラスの曲線が多いので
一定以上は車両性能だけではどうにもならんところ。
こだまの時代は時速65キロの2軸貨車がゴロゴロ走っていたし、
停車の少ない特急車なのに主抵抗器を途中で増やしたということは
やはり曲線制限や信号を受けて高速から電制頻度が多かったのだろう。 151系は落成したばかりの頃PS16の開発が間に合わずPS13を付けてたが写真が見つからない
もしもPS13だったら110キロ走行中に離線しまくって2個付いてるとはいえスパークして架線が傷んで問題になってただろうな PS13を載せてるのは既にPS16が離線で大スパークを起こして壊れた代品だと思うけどなw そもそもPS16は本来なら101系試作の段階で完成してるはずだったのが遅れたので151・153系が初採用になったとか
101系が量産に移ってしばらくPS13搭載だったのはPS13の在庫処分だったのかも 鉄ピクの東武特集でDRCの思い出として
「どことは言わないが国鉄20系(151系)に参加できなかったところが
大いに力を発揮してくれた」って書いてあった。
言われてみたらこだま形は川車・汽車・近車の3社しか製造していないわ。 DRCはナニワと日車製。
東武は日車の蕨から豊川への移転(1971年)を機に日車への発注をやめ
東急車輛と富士重工に切り替えており、それ以前の東急製は熊谷線のキハ2000があった程度。 >>591
> モハ180-114・115はT車代用?
と言う疑問を発する時点で正解を知っているんだろう。 クロ150-3があった頃はパーラーカーとどっちが運用に入るのかが1週間前にならないと判明せず要問合せだった
「日によって展望車ではない日がある」と時刻表に注釈があってパーラーカーも巻き添え食らって1週間前販売だったので運任せともいえた >>593
この当時の指定券の一般向け発売開始は7日前。
これに合わせて運用を決めていた。
1か月前発売になるのは新幹線博多開業の頃だったかと。 同じ昭和33年秋登場の国鉄の新形特急。
結果的に増備終了まで
20系〜151〜161〜181電車は川車、近車、汽車
20系客車は日車、日立
という製造分担になっている。
どちらも突貫開発で、これ以上の共同設計にはできなかったのかもしれない。 パーラーカーはマルスに収容されてなかったのか?
4列にしか対応してなくてパーラーカーは2列しかなく対応できず座席数が少ないとあって手作業発券だったとか? >>595
日車は153系開発にも係わっていて、結構無理したとのこと。
RP153系特集より。 日車は20系客車やキハ80系が熱田、153系が蕨だったから
蕨工場の落胆は想像できるなw
それがDRCに繋がっていくと。 >>594
新幹線博多開業時点でも、みどりの窓口一般発売は、1週間前だった。
1ヶ月前発売になったのは、その10年先の東北新幹線上野開業前後だった筈。 53.10の時か55.10の時かどちらかじゃなかったか?
1980年12月号の時刻表だと一ヶ月前になってるよ 確認したが、一ヶ月前販売は、55.10からだな。
時刻表の表紙に『指定券―1ヵ月前発売に変更』の表記がある。
黄色のページには10月1日のみ10月15日分まで発売との説明があった。 >>576
湘南ライナーみたいなのがもっと早く登場してたら181系は2000年前後まで活躍している車両もあったかな?
185系が1981年デビューで37年経った今でも活躍している時間軸と合わせると、1958年デビューの181系は1995年になる
181系には13年で引退した車両もあったは >>604
13年どころかクハ180-1〜3は9年そこそこでなかった? >>604
185系は初期の新性能車の反省から耐食性を向上している。 山陽特急で運用されていた頃の181系の乗り心地って、
同じ山陽本線で運用されていた481系や581系と比較しても、
それほど遜色なかったのだろうか? 過走行で寿命を縮めたのが40%、初めての雪国電車で想定外の傷みをしたのが30%、
国鉄の現場荒廃で保守が乱暴だったのが30%ってところかな。
165系トップナンバーが生涯新潟で享年35だったから
大事に使えば分割民営化ぐらいは乗り越えられたはず。 >>608
初めての電車特急だけあってかなり知恵を絞ってたみたいだから遜色なかったんじゃない? 低重心で余計な交流機器や保護回路を積んでなかったので
走りは遜色ないどころが最も軽快で、岡山も宇田さんも扱いやすい電車だったと証言している。
山陽特急は急勾配を避けるかわりに曲線だらけの線形で表定速度が70キロ代から上がらず、
速度面では見劣りした。 >>611
廃止まで気動車特急だった「かもめ」が、山陽本線内で電車特急と負けない所要時間だったのが
印象的だった。
一方同時期まで気動車と電車があった「しなの」は所要時間の差が著しかった。
381系がカーブで減速しない効能だろうが・・ >>611
脈流が無いので、交直両用の特急型よりは扱いやすかったという声は
確かに雑誌か何かで目にしたことがある。 >>613
宇田氏の本だな、RFに連載したやつをまとめたもの。
脈流を平滑化する装置を介さないのでどうのこうの、じゃなかったかな。 >>565
今のJRは地域分割だから国鉄時代のようなタライ回しはやりにくなったからな。
だからJR東日本なんか、昔なら地方に回してたような古い車両は東南アジアに譲渡してるし。 >>616
それは東日本に限らず、JR他社でも。
ただ103系が東日本→西日本に、415系が東日本→九州に売却はあったな 181系と485系は車体そのものの高さが違い貫通幌が傾斜していただけでなくスペーサーを噛まして段差を埋めてたが写真が見つからないな
連結器の高さも変える必要があった >>618
サシ181⇒489はスペーサーを入れて床面高さを合わせたので、連結器位置を変更する必要があった。
その後は床面高さは変えていないので貫通路対応のみ。
181と481の連結面高さは同じ。ボンネット車の連結器カバーを見るとわかる。 最初の頃架線電圧が不安定でMGのフラッシュオーバーが多発した
変電所がしょぼい区間があったな
極めつけは宇野線で4M8Tとかあった 沼津─浜松は戦後まもない昭和24年の電化で、
金も時間もなく、木製架線柱を多用する有様だった。
先に電化するなら沼津─浜松か、米原─京都かで争われたが、
工業地帯を抱える浜松の陳情が上回り、静岡県下が先の電化となったので
戦後の混乱期でそういう仕様になってしまった。
さすがに変電所は手当されたが、木の架線柱はJR化後まで残っていた。 >>620
宇野線は電気機関車と電車列車で電気の奪い合いを
していたとか。
なにしろEF58あたりが力行すると電圧降下著しく1200Vを切ってしまう事も。 それでも山陽本線の全線電化より4年早く、昭和35年に電化され、
翌36年にいきなり151系が入ってきたのだから宇野線の優先度は高かった。
広島・九州方面の特急は、夜行20系、昼行がやっとこさキハ80系という時代。 151系は史上初尽くしで手探り感あったよな
史上初の新性能特急電車で史上初の110キロ運転対応とか
主抵抗器は最初高速走行でよく冷えると目論んで自然通風式にしたら徐行区間が点在してて風が当たらなくて冷えずに焼損事故が起きてしまい特急型での自然通風式は懲り懲りになった よく冷えるからではなく、停車回数が少ないから(101系に対して)軽装化したんだな。
ところが運転してみたら曲線制限や前の貨物が詰まったりで高速からブレーキを執ることが案外多く、
電制常用なので抵抗器の熱量が足りなかった。 そういや国鉄の新性能電車で自然通風式の抵抗器を搭載した例が他にあるとすれば、
地下鉄直通用の103系1000・1200・1500番台と301系ぐらいしかないからな。 >>621 沼津・浜松間に木の架線柱とあったので、151系高速度試験の映像見てみたが、試験区間はコンクリート架線柱で道床も整備されてたんだな。ダイヤ調整して、電力も優先配分したのかな。 >>626
105系も自然通風式
単なるコスト低減のため 動画見たけど、見た限りほとんど木製のような…
電車が通過すると架線柱がブルブル揺れてるw 山陽本線は全体的にぐねぐねしてて瀬野八もあるのでヨンサントオでもあまりスピードアップ出来なかった
151系は東海道線での走行に特化していて山陽本線での走行は性能的にも接客設備的にもちょっと無理があった
パーラーカーが閑古鳥鳴いて普通車に改造されたが窓が大きく乗り得だったが区分室が誰も乗らず朽ち果てていったとか そもそも山陽本線自体パーラーカーはおろか1等(G車)のニーズ自体少ないと思う
後年に寝台特急でB寝台のみのモノクラス列車が出現したり最近なら新幹線のひかりレールスターでG車設定がないというのも関西や西日本の「余計なものにはカネを出さない」という意識があるからだと思う 山陽筋は上級クラスの設定よりも普通車のレベルの底上げに力を入れてるようなところがある。
グランクラスを導入するぐらいなら普通車指定席を2列-2列にした方がいいというのがその例だしな。 割増料金でVIP対応も行うパーラーカーの採算が取れるのは、東京・大阪間位なんでは。
VIPはともかく、名古屋・大阪間など2、3時間位の移動では一般客はパーラーカーを利用しない。
6時間乗車する客が相当数いるから、パーラーカーの利用率が上がる。
山陽本線だと博多までの途中、岡山や広島で降車する客の比率が比較的高い。だからパーラーカーの利用率は低くなる。
東北本線のキハ80にもパーラーカー無かったしね。 そもそも東海道時代ってパーラーカーの採算取れてたのか? アレって飾りじゃないの?
一般人には近寄れない存在
採算とか考える以前に、大物政治家などが往来するために必要不可欠なモノ パーラーカーの客層って、政治家とか財界人ってあたりを想像するかも知れないけど、
実態としては、そのような方々は大半が飛行機利用だったようだ。
パーラーカーの最大の客層は、飛行機ではまとまった席数が確保できない、外国人観光客。
なお、彼らの利用区間はほぼ東京−京都と決まっていたため、山陽線転用後に空気輸送になる事は
事前にかなり予測してrていたらしい。 国内初の直動式ドアエンジン採用だった
TK100形ドアエンジンは特急型以外では455系のパンタ下位しか使われていない
モハ164-800番台もパンタ下だけTK100だった 岸信介は首相在任時に、デビューしたてのあさかぜの個室でお国入りしたというな。 こんなレベルの話のソースを求めてどうする。
151系スレだし。
登場時は20系か・・・ 散々言われてるけどパーラーカークロ151と20系のルーメットのナロネ20は何か似た者同士という感じする
どちらも3等級時代の1等の末裔みたいなものだし
庶民はいくらお金出しても利用不可能だったからね 【国連、20mSvから1mSvに戻せ】 線量20倍だと死者8千人が16万人に増加、人口減20万人/年とほぼ一致
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1540606609/l50
国連「女性と子供をフクシマに帰すな」 自民「内政干渉だ! 我々は選挙で選ばれたんだぞ!」 新聞記事検索で岸首相お国入りや首相動静などで検索すると鉄道利用もあった。
個室とは書いていないが、3段寝台や座席車を使ったとは思えない。 どうでもいい事だが、こだまデビューの60年前は、
まだ鉄道国有化前だな。
山陽鉄道が日本初の食堂車を登場させた、とか。 そもそも戦前の旧1等車自体東海道山陽以外では消滅していて
その東海道山陽線も国際連絡ルートの一部としてだから
その末裔のパーラーカーが東海道以外で賑わうわけないよな クロ151はどういうわけかクハ181よりも微妙に車体全長が短いんだな
クロ481も短かったがあれは先頭車化改造車の図面を流用して新製したため >>630
皇室の御用邸や避暑地として観光地で有名な軽井沢を沿線に持つ信越線だったら利用者あったんじゃないの?他に山陽線で余剰のサロやモハシも一緒に引き取って >>651
MAX8両に制限されていて食堂車も省略した(モハシの導入も諦めて定員増を図った)横軽で
定員の少ないクロ181を組み込むとは思えない。
東北の9両編成は食堂車付き、サロ⇒クロ1両のみ。
サロ2両だったのは、それなりの需要があったということで。
実現しても夏だけの需要で、軽井沢以遠はガラガラだっただろう。 3等級制時代の1等車すら軽井沢方面の列車に連結されてなかったから
旧1等車の流れを汲むパーラーカーの需要があったとは思えないな >>653
3等級制時代と言えばまだ碓氷峠がアプト式時代。流石にこの時代は必要無いかもしれないが、昭和40年代のレジャーブームではクロ181系は需要あったのでは?荒廃した山陽のクロ181とあさまのクハ181をトレードしてれば無駄な改造もしなくて済んだ訳だし 8両の中にそんな定員の少ない車両入れる余裕はないわな 故島秀雄技師長は新幹線より151系に思い入れがあったらしい。
生前、息子さんに「長い鉄道人生の中で最も嬉しかったのは、こだまが走り始めた時。
あれは本当に苦労して造った。新幹線はその考えを延長しただけ。」と
語ってたそうだ。 >>662 動力分散式で客車並みの静粛性を確保し、しかも冷房付きの長距離列車としては、当時、他に例がないからな。 >>662
島技師長は戦前に設計した蒸気機関車がみんな失敗作で散々だったからねえ。 >>664 戦前日本の工作機械の水準、不十分な品質管といった要因も考慮すべきなんでは?
まあ、零戦設計した堀越技師も発展性に欠ける戦闘機を造り失敗だらけだという評価もできるわなあ。 大型蒸気での失敗通じて、日本の貧弱な規格の線路には動力集中式が向かないことを自覚したということなんでは?彼だけでなく国鉄の技術陣通して 昭和35年8月13日の日光線への入線試験の目的って何だったんだっけ?
それと試験結果はどうだったのか? パーラーカーは今でいうななつ星in九州みたいな存在で一般には手が出なかっただろうな
今の貨幣価値で47000円もする
等級制を現在も引きずってたら新幹線の東京〜新大阪が28000円になってる >>668
それでも、3等級制の1等でなく2等にしたのは1等を維持するのは無理があるという判断だったのだろう
新幹線ではさいようされなかったし。
展望車の利用者の既得権を守るための暫定策であった気がする >>669
20系のナロネ20にしても本来なら「ナイネ」になっててもおかしくないレベルだったけど1等を維持するのは無理になるという見込みがあったんだろうね
いずれにせよパーラーカーとナロネ20は3等級時代の1等の直系と言えると思う >>670
ナロネ20の場合
コンパートメントが従来の二等A寝台相当、ルーメットはそれより上だから直系というのもまた違う感じが
ナロネ21や22のほうが直系という感じがする メーカーレベルでは昭和初期の時点で電車の優位性は決定的だったからなあ。
昭和33年登場の国鉄151系の電動車の軸重は9.5t。
昭和5年登場の阪急900形は150kWモーターと魚腹台枠をやめた軽量全鋼製車体で
平均軸重6.4t、100km/hオーバーを1日中常用。
手間の掛かるビルドアップイコライザー台車をプレス製の軽量台車に置き換えたり、
ばね下重量の軽いカルダン駆動は戦後技術だけど、
輸入品や最先端設計をガシガシ使った私鉄と国産育成にこだわる保守的な鉄道省、
機関車列車こそ至上とする国鉄部内のセクショナリズム、
艦砲射撃による電化施設の破壊を恐れて鉄道電化に強行に反対した陸軍の存在もあり
国鉄が旧習をうち破るには長い時間が必要だった。 >>672 昭和初期、電車の走行性能は優れていても吊り掛け駆動で空気バネ台車もないから、長距離特急用に使うには騒音や振動が問題だったのでは。
昭和30年代には全金属軽量車体導入含めて、問題が解決されるわけだが。 >>672
> 平均軸重6.4t、
wikiの車重25.7tて記述を妄信しているんだろうね、艤装した実車は40t級だったよ 超デカ窓は後継車両に普及せずだな
ガラスが高価になる上に割れたときの交換作業が大変だった?
一部は防弾ガラスになってた >>675 クロ151の超大型窓が縦1m、横2m。後継車両ではないが、西武001系ラビューの窓は縦1.3m、横1.5mだから窓1枚の面積は同じくらいだな。
ラビューは客室全部の窓がパーラーカーの超大型窓並みのサイズ。 901系、209系の窓も一応思い出す。
エアコンの効かせ方ケチるわブラインド廃止するわでクソな印象しかないが。 817系も超デカだな
近郊型では異例だが割れたときの処置が大変そう 実際のところ、浮床構造で遮音を図ったモハ181と重量物で遮音を図ったモハ183を比べた場合、
体感できるほど静かさに差はあったのかな? 1960年8月13日。最初で最後の151系日光線入線。 >>666
蒸気が軒並み失敗作のだった陰で動力近代化というか電気への舵取りの決断が早かったから結果的に吉と見るべきか
(というか日本の線路事情や石炭の質を考えたらどうせ限界は見えるかな?)
それこそイギリスは蒸気機関を発明(試行錯誤)できるほど良質な石炭が採れるから
なまじ蒸気機関車が高性能過ぎて動力近代化に出遅れて碌なディーゼル機関車を開発できなくて悲惨な目に……
現在では多少マシになってるけど、それに日本製の電車が一役買ってるのはなんだかなあ >>680
多分無かったんじゃない?
151系の開発時はまさに全般的に初めてだったからあの手この手で思考を巡らせてたけど
実際に運用してみてそこまでする必要は無いなという事柄は結構あるから >>213
当時の鉄道ピクトリアルの記事を見る限り保留サロが減っただけだね。 >>214
後の九州改造やパワーアップ改造のスケジュールから見て8が残る予定だったらしい。
7があぼーんしたから九州行きは7の代わりに8。 >>618
上越新幹線開業直前のときの写真を探せばいいだろ、
当時の鉄ファンか何かに載ってた記憶がある。 151系について改良箇所の詳細や編成の変遷まで詳しく載っていたサイトが知らないうちに消滅しててショックだった クロ151氏の「ボンネット特急の世界へようこそ」の事か?
あのサイト当スレで色々と討論する時に貴重な資料が豊富で何かとお世話になったな
無くなってしまうとは時の流れは無情というものだな…… クロ151氏の「ボンネット特急の世界へようこそ」の事か?
あのサイト当スレで色々と討論する時に貴重な資料が豊富で何かとお世話になったな
無くなってしまうとは時の流れは無情というものだな…… 時の流れなんかじゃないよ。この国の文化の
浅はかさを強く感じる。ニフティサーブなんか
私企業の都合でログ全部失われたんだぜ 大型MGを床下に置けなかった時代、床上に置くにはスマートな方法だったと思う。
157や581よりも機械室然としていなくて良い。 まあボンネット特急型先頭車は、昭和47年の489系まで新製されたからな。 クハ481-200でCP,MG共に床下搭載になったんだけど非貫通の300番台では再びCPが床上搭載になった。 ボンネットは踏切事故対策の側面もあったかと
当初は名鉄パノラマカーみたく展望席を設けるつもりだったらしいが踏切事故の時に危険なので機械を置くことにした >>690
同感あのサイトで、パーラーカー区分室に乗車した方が、当時の写真と共に乗車記を上げてたのが面白かったな。
徳山から大阪迄老夫婦と和気藹々したり、広島から三ノ宮迄外人家族と相部屋になり、三ノ宮から名古屋迄の急行券を代わりに買ってあげたりと。 外幌ってやめちゃったね。
今も採用してるのは小田急ロマンスカーくらいか。 ホームドアが整備されたら要らなくなる?
二重投資だったか 速度計がちょっと変わってて50・100・150キロしか数字が書かれてないタイプだったんだな
このタイプはJR四国8000系でも見られる 185系の車齢40年ってすごいよな
時間軸で考えると、151系や153系が2000年頃まで活躍してたのと同じ長さになる >>706
腐食対策を強化した甲斐があったということだね。 >>706
それって151系や153系が短すぎるんだよ 185系は201系と同じ耐候性高張力鋼板使ってたのが奏功したか?
国鉄型での採用は遅れて第1号が新幹線0系だったが在来線は201系量産車から >>708
東海道本線や山陽本線で、片道600km近い長距離運用を連日こなしていたのも
老朽化を早めたんだろね。 >>710
東海道本線や山陽本線の特急運用って言うほど大変には見えないけどな
東北や北陸のほうが明らかに過酷だ 1日の走行距離が1200キロとか走行距離的に過酷だっただろうな
東京〜大阪を日帰り往復可能は車両運用効率化になったが走行距離が増えて検査周期が頻繁だった
583系がもっと過酷で列車によっては1日2000キロ位走ってた? クロ150-3は運用がガチャになってたとか異常
日によってパーラーカーじゃない事があった サンロクトオ以降の東海道本線でのクロ151の乗車率って実際のところどうだったんだろう? パーラーカーはマルス発券できたっけ?
最初の頃のマルスは4列シートのみ対応だった 昭和48年に「しおじ」でクロハ181の区分室に乗車した人の話だと、
東京駅で乗車券を買おうとしたけど、当時のマルスでは発券できなかったらしい。 座席レイアウトが特殊すぎてマルス収容不可だったのか?
近年の事例だと特急「あさぎり」→「ふじさん」で小田急跨ぎをJR東海以外で買うと手書き発券になる
近鉄初代ビスタカーもオンライン化不可能で命脈立たれた 20系A個室も、マルス発券できなかったらしいからな。
旧型マルスは、号車や席番指定もできなかったと聞くが。 クロハの区分室は末期は殆ど利用されなくてボロボロだったとか話ある
それも部屋単位じゃなくて座席単位だったので見知らぬ人と鉢合わせもあった
業務用室にされてもおかしくなかったはず 懐かしい……
https://web.archive.org/web/20070122110336/http://homepage1.nifty.com/BONNET-EXP/mainmenu.htm 成田エクスプレスの個室は利用率どうだったんだろうか?
151系の区分室と似てるがあれは部屋単位での発売で他の乗客と鉢合わせしなかったが1編成に1室しかなく部屋確保が至難の業だった?
E259系は個室がない
長野電鉄に行ったのは業務用室になってる 253系の場合はVIP輸送を想定したというが後継でなくなったというと需要無かったんだろうなぁ
長電のスノーモンキーになったのはSPA猿〜んって名前で個室営業してるよ
最近ネットでの事前予約制になった
スイッチで通路側が曇りガラスに切り替わる仕組みも生きてる >>725
勘違いしてた
業務用室になったのは東武乗り入れの1000番台 >>727
たぶん。
駅とかではいつも単に個室って言って通じてるけど。 東武スペーシアの個室でホモビ撮影した馬鹿が昔いたな
防犯面で近年は寝台車以外で個室が忌避されがち パーラーカーに、グリーン車4両は、ぜいたくよ
東海道線は、金持ちが多いといっても
グリーン車4両の設定は、考えられないね。何様のつもり 航空路線がまだその役割に対してかわりきってなかったという背景を知らずにそういうこと言っちゃう
道路整備もまだまだだしそういう時代のほぼ唯一の長距離移動手段よ?
それに庶民の足なら長距離鈍行もいっぱい走ってた そもそもグリーン車じゃないからな
単なる豪華設備の車両じゃないんよ 殿様あさかぜとかいってナロネが6両もあるキチガイじみた編成のあさかぜもあったな
富裕層の利用が多かった? 元の知識がないだけじゃなく理解しようとするつもりもないなら好きにしたらいいよ 151系は特急が特別急行の時代だからな
153系の急行や準急
貧乏人には客車の長距離普通も パーラーカーの座席から、電話をかけれたんだね
ちなみに電話代はどうしたんだろ、カード払いかな
1分間の通話で100円くらいね >>739
151系の普通の車内電話は100円玉専用
パーラーカーのは給仕が交換手に確認して現金払いだと思うよ
当時クレカにはオンライン決済の機能はない >>740
100円玉専用なんて新幹線でもずっと後の話。電話の扱いはパーラーカーの給仕室とビュフェの電話室。いずれも交換台経由。
>>739
列車位置は東京〜熱海〜鷲津〜篠原〜神戸、
地上側は東京都区内、名古屋市内、大阪市内のみ
通話料金は3分毎に100円、200円、300円、400円
少しは自分で調べようね。 今の貨幣価値だと国際電話並みに高価なんだな
長電話したら凄い金額になる 当時の国鉄のパンフを見ると
パーラーカー開放室には、各座席には専用コンセントもついており
電気毛布などの使用も可能であります。と書いてるのよ
電気毛布って、ひざ掛けのイメージかしら。そういうサービスもあったのね 20系のルーメットも各個室にコンセントがあったが電気カミソリ専用だった >>745
その時代は携帯電話なんて夢のまた夢だったし 昨日引退したE4系があるのも不思議
新幹線とは縁がない町なのに
元々新津にあった181系をわざわざ大宮に移転せずにそのまま新津で保存ほしかった >>745
ルーメット以外にも洗面台にはコンセントあったわな
夜行列車の場合朝の身支度できないと不便だが
走行中に安全カミソリとか使われたら危険だからねえ モハ180-115は改造が一段落したらサハ化する予定だったのかモハ181-115を作ってユニット組むつもりだったのか
計画が何か狂ってる 来春で金券ショップで新幹線の回数券販売中止になるんだっけ?
その前に関西の保存車巡りしようかな?
神戸の元151系や後期形0系新幹線を見てみたい 「旅鉄車両ファイル002 国鉄151系特急型電車」が出版された
著者が>>724のホームページの作者
@niftyの@ホームページサービスが2016年終了で後継サービスに移行せず消失してしまったのが悔やまれる クロ150-3は2個用のクーラーキセを途中で切断してるとか外観でも無理矢理感あったな
クハ181-53になっても残ってたがこの車両のためだけに2個用の4分の1を切断したキセを用意しなければならず保守が大変だったはず
1個用のクーラーキセを使うと運転台直後の処理に苦心するのでこうなった? くそダンプは方々で鉄道や世間に迷惑かけてるね、本当に
高度成長期の必要悪とでもいうのか 好き放題やらかしたからこそリミッターがかかって80km/h前後で抜き合いをやっている 70年代はダンプの無謀運転による交通事故が多発してたからね、しかもダンプ業者は孫請けどころか三次請け四次請けとかあって
元請けに賠償請求しても「下請けがやった事だから知らない」と開き直られて泣き寝入り。 関ヶ原越えでモーターが異常発熱したとかあった
新垂井経由の10‰が長く続いてもダメだとは
モーターの巻線が黒く変色してたとか 車体側面のシャッターだが、151系にはあるのに161系以降はなくなったが、なぜだ? 東武乗り入れの1000番台の件、
個室が殺されてるのって投入当初から?
なんで、直通系統で互いに使われてるスペーシアのほうは
個室の設定があるのに、設備のある253系のほうをわざわざ殺してるの? 体面上は車販準備室?みたいだけど
なんでそのまま個室を使わなかったのか理解に苦しむ。
ネット見たら同じ感想の人が他にも居るね。
共通運用してる側のスペーシアに個室が最初から無ければ
この疑問そのものがない。 ゴムチューブの非常口も結局黒歴史だったな
レバーを引くとゴムチューブがしぼんで窓が落ちるやつ
ゴムの劣化で自然落下した事象があった >>761
151系でも後年の181系化後はなくなっていたはず >>766
では元151系のシャッターは181系になった際に埋めたってことかね? それは知らない。
1982年の181系引退時には全部シャッターはなかったけどな。 シャッターらしきものが見えるモハ181は、
ヘッドマークがロールマーク化された頃のしおじの編成の中に確認できるよ。 髭のない元151系の181系はいつ頃まで走っていたのだろう? 181系のボンネットの赤帯はひげとは言わないんじゃね?
あの帯のない181系は新幹線博多開業までじゃね? 終生帯無しだったクハ181-11(元クハ151-11)が、
1975年12月の181系「あずさ」終焉まで運用されていたようだ。 ヘッドライトもウインカーも撤去されたクハ181やクハ180
まあハゲと言われても仕方ないか ウインカーランプって使った事あるのか?
短期間で撤去されてる
バックミラーもあまり意味がなかった ウインカーランプは当時の偉いさんの趣味で付けただけみたい。
「リレーなどの余計な回路を入れなあかん」ということで
設計陣は乗り気ではなかったらしいが。 >>777
模型スレでもコメした事があるが、
20系運転開始時のニュース映画では、少なくとも出発式テープカット時には交互点滅しているのが見られる。
20系、151系は何回か乗車経験があるが、小学生低学年だったのでウィンカーランプまでは記憶がない。
撤去されたのは181系の"あさま"、"あずさ"及び共通運用の"とき"になった分だけで、運転室上部のヘッドライトと共に廃止されたから、ウィンカーランプだけ撤去されたものはなかったのでは?
ちなみに、大宮鉄博保存クハ181-45のウィンカーランプのレンズは異常に赤みが強すぎる赤紫色だが、当時は青紫色だった気がする。
理由は何だったのであろうか?
オリジナルが残っていなくてバストラック用品を転用したのではと推察しているが。 向日町時代晩年の写真では、ヘッドライト残存・ウインカー撤去だね。 >>780
ご指摘ありがとうございました。
山陽特急終焉期までは確認しておらず不勉強でした。 東京から離れた土地での話ということもあってか、
山陽特急終焉期の話は、東北特急や上越特急の終焉期ほどの熱量で
語り継がれていないような気がする。何となくだが。 当時の1/80ブラスモデル、宮沢やKTM初代の181(151)系ではカワイや天賞堂等と異なり、
ウィンカーランプが表現されておらず、エラーとまでは言わないが簡略化が不満だった。
向日町終焉期限定とすれば納得できるかな。 最弱め界磁率35%はちょっと無茶しすぎ
補償巻線がないと整流不良でフラッシュオーバーが多発しそう
威力を発揮したのは163キロ出した高速試験の時くらいか?
他のMT46やMT54搭載形式は40%である >>731
別に貴方個人に言うわけではないが
そういう件、いつも思うんだが
そんなこと言ってたら世界中の個室が個室でなくなってしまう。
提供側が「滞在設備」として提供してるのはそれとして、
それをどう使おうが、
汚損や盗難なく、他の旅客へ迷惑を掛けない限り、
そして個室内完結である限りは、別に構わないんじゃないの?
利用目的に道義を求めるのは日本人だけの特性だと思う。 JR 東150年
1965年のは何番だ?
53だとトイレ窓違うし JR東 鉄道150年ポスターの1965年のクハ181 東海道新幹線に個室が導入(復活?)されるらしいけど、
クロ151にも運転室の後部に区分室があったな。
あれと同じような感じになるのか。客層や料金の想定からみれば。 いや、今度のはお一人様用の個室。
飛行機のビジネスか、高速バスの高級シート並な感じの。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています