【製造両数】151系車両 4号車【151両】
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昭和33年11月、国鉄初の電車特急として華々しくデビュー。
現在の特急型車両の基礎を築いた、151系車両について語りましょう。
(161系・181系も含めて)
前スレ
【特急こだま】151系車両【パーラーカー】
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1221233025/
【ビジネス特急】151系車両 2号車【こだま】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1231878032/
【製造両数】151系車両 3号車【151両】
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1288173058/ パーラーカーは文献によって様々だが今の貨幣価値で東京〜大阪が47000円もしたんだな
飛行機に至っては今の貨幣価値で8万円とか驚異的だった
飛行機があの当時はパーラーカー以上に金持ちの乗り物だった事が伺えるがボーイング747の出現で大量輸送が可能になって大衆化し東海道新幹線が大打撃を食らったようである >511
「とき」にパーラーカーが回されていたら、田中角栄のお気に入りになっただろう。
別名「角栄パーラー」と言われたらしい。
架空の鉄道スレになるな 田中角栄だけじゃねえ
総理大臣じゃクロ157みたいな運用無理だろうし
でも実現してたら語り草にはなったろうな 12両編成で今のグリーン車に相当する特別車が5両も存在してたとか驚異的だったな
1等寝台が6両もある殿様あさかぜとかあった >>529
>>524の通り、あの時代はまだファーストクラス的な役割が鉄道にもあった
今も東海道新幹線にグリーン車が3両あるのは流石だと思う >>531
東海道新幹線のグリーン車3両は、100系G編成が食堂車を無くしたのが始まりだけどな。
バブルの産物だった。
それ以前0系ひかり、100系X編成がグリーン車2両+食堂車だったけど。 グリーン車で思い出したが
普通車のシートピッチは初期の910mmから現在は大体1000mm前後と広がってるけど
グリーン車は基本1160mmからあまり広がってないよね
特ロも最初に登場したスロ60が1250mmだったのが次のスロ50が1100mmと狭まり
現場の意見を基に翌年のスロ53から1160mm広げてから以後踏襲し続けてるから 東海道新幹線には、1等車に相当するグランクラスは無い
以前は個室グリーン車が存在したが、車両の統一化で無くなってしまった。 ロの1160mmというのは回転リクライニングシートの黄金比だな。
1950年にスロ60が米軍の肝いりで欧米人の体格に合わせた1250mmで登場。
しかし足置きが遠すぎるとの意見と輸送力確保のため、スロ50・51・52では1100mmに縮小。
今度は狭いとの評が出て、1952年製のスロ53から中間値より1センチ余裕をもたせた1160mmに。
客車特急→151系→0系→100系→300系→700系→N700系と受け継がれてると思うと感慨深い。 >>532
確かに普通のグリーン席はあまり変わっていない あ、中間値より1センチ余裕をもたせた、じゃないわ。
中間値は1175mmだから、それより1.5センチ減だな。 昔の国鉄は「大は小を兼ねる」を露骨に嫌ってたな
瀬野八は8M4Tであれば自力で登れたが平坦区間で消費電力が上昇するのと共通運用が出来なくなるのでやらなかった 151系6Mの編成出力が2400KW、仮に8Mだと3200kW。
EF58が1900kW、EH10が2530kWっていう時代だから
全線8Mでは変電所が持たんじゃろ。 >>538
パーラーカーと食堂車がある前提で8M4Tを組むならパーラーカーを電動車、つまりクモロ151を設定しないと成立しないんでは?
共通運用云々以前に国鉄は動力分散式にする以上先頭電動車は無意味という考え方で先頭車を電動車にすることは非常に嫌っていた
関西私鉄が路面電車発祥ということで先頭電動車を好むのと正反対 >共通運用云々以前に国鉄は動力分散式にする以上先頭電動車は無意味
それは違うと思う。
1957年登場の101系は(変電所容量不足で頓挫したが)10両オールMを志向。
その7年後に登場する0系新幹線はインフラから構築し12両オールMを実現。
1958年登場の151系は、加減速の少なさや東海道線の電力事情からMT比1:1のマイルドな編成で十分とされた。
早期に勾配線にも電車が進出したことを考えるとあまりにも余裕がなさすぎたが、
手探りで開発していた時代だから初作が技術的に色々未熟なのはまぁしょうがない。 >>541
むしろ101系や0系こそ例外的存在では?
国鉄系列で先頭電動車が設定されてるのはシステム上(オールM)又は用途上(2連や3連を組成するため)で不可避なために仕方なく設定せざるを得ない車種というのが共通してる 俺には「先頭電動車は無意味」の意味が分からんのよね
クハで済むならクハで良いんじゃねってレベルの話で良いのかな? 俺は>540じゃないけど、クモハとクハの両方の車種を用意するのが無駄、と
言いたかったんじゃないかと。
原則はクハとモハだけ造ることに決め、長編成でモハが多すぎる場合だけサハを追加する。
これで車種の造り分けは最小限で済む。 >>543
80系で先頭電動車を設定しなかったことから国鉄では動力分散方式のメリットを確固たるものとする以上動力と制御は別々にしなければならないという考え方があったと思う
だから先頭電動車は余程の必要に迫られない限り設定しないことにしたと想像 >>542
485系に後にクモハが出来たけどそれは編成が短くなったことで
クモハを作らないといけなくなったからで
なるべくはクモハを作りたくなかったのでは 電車を長距離優等の主役にすべく開発した車両だから、
長大編成を前提に機器をバランスよく配置した結果だろう。
当時の技術力で編成全体を冷房するには
東武1720系や名鉄7000系のように2両分の小容量MGをたくさん積むのが主流だったが、
国鉄は6両分の大容量MGを開発して、遮音のために先頭車ボンネットに収める設計にした。
そのため151系ではクハ35t、モハ38tとクハの重量がモハ並みに重くなっている。 >>547 小容量MGをたくさん積む方式だと、MGの騒音が車内にかなり響いたのか?
例えばクモハ157は。当初は冷房装備してなかったが、冷房準備車として3両分賄えるMGを搭載しているわけだろ。 >>544
なるほど
車種を最小限にする訳か
でもそれって動力分散方式がどうのと関係ないよね
>>545
編成のどこに電動車を置こうと動力分散方式のメリットが増減したりはしないと思うが
動力集中方式のデメリットは動力専用の車両が一両必要ってことでしょ?
クハだろうがクモハだろうが同じだけ乗客運べるんだからそこに差異はないだろう
「動力分散方式のメリットを確固たるものとする」というならそれを具体的に書いてくれないか
>>547
それは長大編成だからだよね
用途によって変えてる訳でクモハ否定じゃないよなあ >>548
クモハ157の機器室に冷房用MGを入れたのは、冷房化の時だよ。 157系・キハ82系・581系が運転室次位に機器室を設けたのは、一貫して騒音源を客室から遠ざける配慮。
本当に必要だったのかと言われれば、
151系は増備過程で食堂車に調理用小MGを積んだからこのコンセプトは途中で半分崩壊しており、
157系も増結して先頭車が中間に入れば同じことだから構想した通りにはなっていない。
ただ、1次車の時点では国鉄部内で機関車派とのすさまじい(今思えばつまらん)縄張り争いがあったから
開発陣としては何としても動力集中方式に対する優位を示す便法が必要だった。
ロザを電動車にすることも実際に1次車が完成するまでタブーだったし、作りながら説得材料を築き上げ、世の中の常識を変えていた時代だ。 101系以降の新性能電車で設計段階から先頭電動車が設計されていて尚且つ量産に至った系列自体少数派だから国鉄は先頭電動車をあんまり好んでないというのはあると思う
列挙したら(改造によって生まれた系列を除く)
101系・105系・301系・115系・157系・165/169系、交直流急行形全部、781系位か
どれもシステム上や編成構成の都合上仕方なく先頭電動車を設定が避けられなかった車種ばかり ユニット式という時点で、2両とか3両のせこい編成は想定していなかったから先頭車を無理して電動車で作ろうという発想はなかったのでは?
地方電化で短編成の必要性が考えられたから165系、451系からはクモハを作り、最短3両を可能にした。 「中間電動車方式」というのは実際、80系湘南電車のキーワードとして広く用いられ、
国電の設計流儀になっていったのは事実。
それに当時電化推進中の路線は重要幹線ばかりだったので、
できるだけローコストで長大編成を調達したい国鉄のニーズにもマッチしていた。
しかし技術環境と用途に応じて柔軟に解も変えていて、
急行形は157系や451系から勾配対策でMT比2:1が必要になり分割併合ニーズからもクモハに転換。
究極の国電たる0系は圧倒的な空気抵抗に抗するためオールM。
301系は地下急勾配対策、105系や781系はもう短編成で済む地方電化の時代と、そんな流れ。 >>555
クモハ103は103系設計段階では想定されてなかった後天的な形式
これも投入先の事情で仕方なく設定されたカテゴリーに入るかと >>556 クモハ103は1965年に登場しているんですけど。103系の量産配備が始まった年の翌年。試作編成に含まれていなかったというのなら、サハ103も同様ですね。
何が「後天的」なのやら・・ >>557
山手線を想定すればクモハは不要。
京浜東北の付属編成対応でクモハを作った。
試作車でサハを作らなかったのは試作だからでしょ。 「国鉄は動力分散式にする以上先頭電動車は無意味という考え方」だとしたら
クモハは生まれてないわな
だって無意味なんだから
でも実際はクモハの需要があれば素直にクモハ作ってるんだから
無意味だと思っていたとは思えん
もちろん中間車だけで電動車が足りる状況で敢えてクモハ作る意味もないとは思うが 211では敢えてクモハ作ったけどね、地方線区への転用見越して
正直十分活用されてるとはいいがたいし、実際E231系以降ではそうしなかった 首都圏でガタガタになるまで酷使したお古を地方へ転用する国鉄本社のやり方は
地元の怒りを買って昭和50年代からは次第に通用しなくなっていったからな。 451系と471系は当初はクハ451が無かったんでは。 JR化後は東211系のような露骨な晩年地方転用の方がむしろ少数派で
都市圏は都市圏内で順次都落ち、
地方は30〜40年に一度の新車が多いだろ
115-1000が新車だった長野松本はもっと怒ってもいいのではw >>561
関東最大の私鉄では平成になってもそれをやってるんですがwwwwww 国鉄が新性能電車以降積極的に制御電動車を造りたがらなかったのは踏切事故の件もあるでしょ
唯でさえ当時の国鉄内には電化線にすら特に危険な第3種以下の踏切が無数に存在していて
折角の長編成前提の中間電動車も可なユニット方式の新性能電車なのに
わざわざ事故で損傷のリスクが高い先頭車を電動車にまでして無用に製作費を吊り上げる理由も無かろう 全盛期の頃のクロ151は指定券争奪戦になってた?
あの当時は紙の台帳での手動発券で混雑時に1枚の切符が出来上がるのに30分以上掛かってたなんてこともあった
晩年はマルスに組み込まれてたのか? >>567
>国鉄が新性能電車以降積極的に制御電動車を造りたがらなかった
そうなの? 101系がオールM設計、151系がボンネットに高価な巨大MG・CP、
157系から勾配線向けはクモハ。機器防護のために先頭を避けたのはパンタグラフだけ。 >>570
いわゆる「前パン」を国鉄が嫌ってるのは桜木町事故の影響というのはない?
でも直流電気機関車は前パンなんて当たり前だからそれはないか?
それにしても先頭電動車とか前パンに対する考え方は国鉄と関西私鉄は正反対だね
関西私鉄は先頭電動車や前パンは当たり前だし
関東私鉄は国鉄に倣うことが多いのか先頭付随車や後パンタが多いような 湘南電車が1950年、桜木町事故が1951年だから事故を受けてというのは少なそうだが。
私鉄は路面電車発祥か、もともと短編成だったところが多いからね。 粘着運転の理論から来る効率や安全性の問題でないのか?
電気機関車から無動力の先輪を無くす事にも反対の見方もあった時代だろ 電機においても先輪付きは1958年製のEF58/15が最後。
その頃国鉄では交流電化の実用開始で交流D型機の粘着性能が有望視されており、
新車設計では先頭がM軸かT軸かはもう車両全体の都合で決めていただけだけと思われる。
151系でクモハを起こすと冷房+大容量MG+電装で車重が40トンを超えてしまい、
スハ43世代の軸重に逆戻りしてしまうので、モハに電装、クハに補機と分散配置。
翌年登場の157系では日光線の勾配対策でMT比2:1とせざるを得ずクモハ起用。 >>574
雪の無い、暖かい線区ならもう少し使えたかもな。 温暖な東海道・山陽で過ごした153系も1982年で引退しているから
国鉄の労働争議で十分な手入れをしてもらえなかったとことが大きいと思う。 >>576
でも紀勢線くろしおで使ってたら塩害でいっぺんにやられそう
天鉄局が激怒したから381系新製投入となったらしいが 151の補完として、臨時、季節列車の短編成運用に157が用いられたわけだから、151を短編成化する必要性は乏しかったのでは。
山陽新幹線博多開業後、地方線区でも特急増発となった頃は、151も157も老朽化し、183に代替されていったわけだが。 こだまでも当初120キロ運転する予定だったが色々問題があって110キロで落ち着いた
120キロ運転開始はヨンサントオから
静岡地区では未だに最高110キロを引きずってる
もしもこだまが120キロだったら東京〜大阪で6時間切ってた? >>580
130km出せるスーパーレールカーゴでも6時間切ってないんだよね。 >>581
130km/hで走れる区間はどこ?名古屋周辺? >>582
JR西日本エリアだけじゃなかったかな?つまり米原から西。
ただスーパーレールカーゴだと旅客列車と違って乗務員交代の運転停車しかないから
その分速い。 前の列車がとっとと待避線に入ってくれなければ減速信号=制限65を食らうし、
東海道本線は案外、R600〜1000クラスの曲線が多いので
一定以上は車両性能だけではどうにもならんところ。
こだまの時代は時速65キロの2軸貨車がゴロゴロ走っていたし、
停車の少ない特急車なのに主抵抗器を途中で増やしたということは
やはり曲線制限や信号を受けて高速から電制頻度が多かったのだろう。 151系は落成したばかりの頃PS16の開発が間に合わずPS13を付けてたが写真が見つからない
もしもPS13だったら110キロ走行中に離線しまくって2個付いてるとはいえスパークして架線が傷んで問題になってただろうな PS13を載せてるのは既にPS16が離線で大スパークを起こして壊れた代品だと思うけどなw そもそもPS16は本来なら101系試作の段階で完成してるはずだったのが遅れたので151・153系が初採用になったとか
101系が量産に移ってしばらくPS13搭載だったのはPS13の在庫処分だったのかも 鉄ピクの東武特集でDRCの思い出として
「どことは言わないが国鉄20系(151系)に参加できなかったところが
大いに力を発揮してくれた」って書いてあった。
言われてみたらこだま形は川車・汽車・近車の3社しか製造していないわ。 DRCはナニワと日車製。
東武は日車の蕨から豊川への移転(1971年)を機に日車への発注をやめ
東急車輛と富士重工に切り替えており、それ以前の東急製は熊谷線のキハ2000があった程度。 >>591
> モハ180-114・115はT車代用?
と言う疑問を発する時点で正解を知っているんだろう。 クロ150-3があった頃はパーラーカーとどっちが運用に入るのかが1週間前にならないと判明せず要問合せだった
「日によって展望車ではない日がある」と時刻表に注釈があってパーラーカーも巻き添え食らって1週間前販売だったので運任せともいえた >>593
この当時の指定券の一般向け発売開始は7日前。
これに合わせて運用を決めていた。
1か月前発売になるのは新幹線博多開業の頃だったかと。 同じ昭和33年秋登場の国鉄の新形特急。
結果的に増備終了まで
20系〜151〜161〜181電車は川車、近車、汽車
20系客車は日車、日立
という製造分担になっている。
どちらも突貫開発で、これ以上の共同設計にはできなかったのかもしれない。 パーラーカーはマルスに収容されてなかったのか?
4列にしか対応してなくてパーラーカーは2列しかなく対応できず座席数が少ないとあって手作業発券だったとか? >>595
日車は153系開発にも係わっていて、結構無理したとのこと。
RP153系特集より。 日車は20系客車やキハ80系が熱田、153系が蕨だったから
蕨工場の落胆は想像できるなw
それがDRCに繋がっていくと。 >>594
新幹線博多開業時点でも、みどりの窓口一般発売は、1週間前だった。
1ヶ月前発売になったのは、その10年先の東北新幹線上野開業前後だった筈。 53.10の時か55.10の時かどちらかじゃなかったか?
1980年12月号の時刻表だと一ヶ月前になってるよ 確認したが、一ヶ月前販売は、55.10からだな。
時刻表の表紙に『指定券―1ヵ月前発売に変更』の表記がある。
黄色のページには10月1日のみ10月15日分まで発売との説明があった。 >>576
湘南ライナーみたいなのがもっと早く登場してたら181系は2000年前後まで活躍している車両もあったかな?
185系が1981年デビューで37年経った今でも活躍している時間軸と合わせると、1958年デビューの181系は1995年になる
181系には13年で引退した車両もあったは >>604
13年どころかクハ180-1〜3は9年そこそこでなかった? >>604
185系は初期の新性能車の反省から耐食性を向上している。 山陽特急で運用されていた頃の181系の乗り心地って、
同じ山陽本線で運用されていた481系や581系と比較しても、
それほど遜色なかったのだろうか? 過走行で寿命を縮めたのが40%、初めての雪国電車で想定外の傷みをしたのが30%、
国鉄の現場荒廃で保守が乱暴だったのが30%ってところかな。
165系トップナンバーが生涯新潟で享年35だったから
大事に使えば分割民営化ぐらいは乗り越えられたはず。 >>608
初めての電車特急だけあってかなり知恵を絞ってたみたいだから遜色なかったんじゃない? 低重心で余計な交流機器や保護回路を積んでなかったので
走りは遜色ないどころが最も軽快で、岡山も宇田さんも扱いやすい電車だったと証言している。
山陽特急は急勾配を避けるかわりに曲線だらけの線形で表定速度が70キロ代から上がらず、
速度面では見劣りした。 >>611
廃止まで気動車特急だった「かもめ」が、山陽本線内で電車特急と負けない所要時間だったのが
印象的だった。
一方同時期まで気動車と電車があった「しなの」は所要時間の差が著しかった。
381系がカーブで減速しない効能だろうが・・ >>611
脈流が無いので、交直両用の特急型よりは扱いやすかったという声は
確かに雑誌か何かで目にしたことがある。 >>613
宇田氏の本だな、RFに連載したやつをまとめたもの。
脈流を平滑化する装置を介さないのでどうのこうの、じゃなかったかな。 >>565
今のJRは地域分割だから国鉄時代のようなタライ回しはやりにくなったからな。
だからJR東日本なんか、昔なら地方に回してたような古い車両は東南アジアに譲渡してるし。 >>616
それは東日本に限らず、JR他社でも。
ただ103系が東日本→西日本に、415系が東日本→九州に売却はあったな 181系と485系は車体そのものの高さが違い貫通幌が傾斜していただけでなくスペーサーを噛まして段差を埋めてたが写真が見つからないな
連結器の高さも変える必要があった >>618
サシ181⇒489はスペーサーを入れて床面高さを合わせたので、連結器位置を変更する必要があった。
その後は床面高さは変えていないので貫通路対応のみ。
181と481の連結面高さは同じ。ボンネット車の連結器カバーを見るとわかる。 最初の頃架線電圧が不安定でMGのフラッシュオーバーが多発した
変電所がしょぼい区間があったな
極めつけは宇野線で4M8Tとかあった 沼津─浜松は戦後まもない昭和24年の電化で、
金も時間もなく、木製架線柱を多用する有様だった。
先に電化するなら沼津─浜松か、米原─京都かで争われたが、
工業地帯を抱える浜松の陳情が上回り、静岡県下が先の電化となったので
戦後の混乱期でそういう仕様になってしまった。
さすがに変電所は手当されたが、木の架線柱はJR化後まで残っていた。 >>620
宇野線は電気機関車と電車列車で電気の奪い合いを
していたとか。
なにしろEF58あたりが力行すると電圧降下著しく1200Vを切ってしまう事も。 それでも山陽本線の全線電化より4年早く、昭和35年に電化され、
翌36年にいきなり151系が入ってきたのだから宇野線の優先度は高かった。
広島・九州方面の特急は、夜行20系、昼行がやっとこさキハ80系という時代。 151系は史上初尽くしで手探り感あったよな
史上初の新性能特急電車で史上初の110キロ運転対応とか
主抵抗器は最初高速走行でよく冷えると目論んで自然通風式にしたら徐行区間が点在してて風が当たらなくて冷えずに焼損事故が起きてしまい特急型での自然通風式は懲り懲りになった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています