【製造両数】151系車両 4号車【151両】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
昔の151系の車内の写真見ると、普通車のシートのカバーが2人分でつながってるんだね
確か弁天町にあったキハ81もこのタイプだった
1人分になったのって何系からなんだろう? >>310
ググったら昭和45年キハ181系しなのの車内の画像が出てきた
1人用になってる 山陽特急「うずしお」「しおじ」などに転用されたパーラーカーは、開放室部分は普通車化された後も、
個室部分はグリーン座席としてそのまま残されたが、シートも内装もかなり傷んでいたようで、
駅窓口でこのグリーン個室の切符を頼んでも、「かなり傷んでて、あまりお勧めできない」などと
駅員がそう伝えるほどだったという >>312
それも個室単位じゃなくて席単位で売ってて見知らぬ人と相席になる事が多かったみたいだな ビジネス特急こだま号は東京〜大阪間を当初6時間50分、のち6時間30分で
結び、当時のビジネスマンは東京や大阪まで日帰り出張ができるということで
好評だったようだが、現地での滞在時間は2時間少々しかなかったことや、また、
東京駅や大阪駅から出張先までのアクセスの時間や、出張先で仕事にかかる時間も含めると、
夕方の「こだま」に間に合わないことも多く、そのため実際には日帰りというわけにはいかず、
現地で一泊しなければならないことも多かったようだ >>308
581系用と共用にした頃からだと思う。 大宮の鉄道博物館に展示のパーラーカーのシートはスライド式枕がない
模造品だろうか >>315
ロ、ハとも以前の上からズボッとかぶせる枕カバーからマジックテープ使用の1枚ものに
変わったのは新幹線0系登場以降だね。 パーラーカーって全車がクハに改造されて一両も残らなかったっけ、しかも今だったら
考えられない運転席から後方の車体を解体して新たな車体を被せるって言うとてつもなく
面倒な方法だよね。 >>316
開館当初から「電車特急50年」企画展までの間は
本物が展示されていましたが
現在の展示座席は模造品のはずです
ttp://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2008/12/post_924.html >>312
電話やラジオが外された跡が見苦しかったとか クロハ181のクハ181への改造中の写真では、クロハ181のヘッドマークがなぜか「しらさぎ」となっていたが、
485系化改造する計画でもあったのだろうか
151系の九州乗り入れの際は、151系を交直流電車に改造する案もあったらしいが >>321
その写真を見ないで言うが、485,181共用の幕ではないのか? >>316
あの座席にスライド枕はないよ。0系の初代G席みたいな縫い付け枕。
保存時にどっか行ったか、痛んでてやむなく廃棄か、そういう事情ではないかと。 車内チャイムが当初鉄道唱歌ではなくブラームスの子守歌だったってマジ?
20系客車やキハ82みたいだな 著作権気にしなくていいし、
それはあった話しかもね >>329
↑
あーあw
キミの発言って相変わらず何の進歩もないね。ここの住民も学習能力がなさそうだし。いいかい?
児童福祉法違反で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em
学ばなきゃ。覚えなきゃ。基礎ができてないから、キミたちはいつまでも同じミスを繰り返すんだ。俺の背中を見て欲しい。わかったかい? https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足ウソ製作費定義)
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算me-ka-
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田ピク底ファンド
頭皮成分不透明ベンチスタートドナルドストラテジエイト(40代弥勒ソフト >>330
調べてみたら、鉄道唱歌の作曲(有名なメロディーの方)をした大和田建樹(おおわだ・たけき)は1910年10月に亡くなっており、その死後50年間(20〜151系電車最初の2年間がかぶる)は著作権があったので、案外図星かも知れませんね? >>334
鉄道唱歌の作曲(有名なメロディーの方)をしたのは多梅稚
亡くなったのは1920年だよ >>336
情報は細部(楽譜等)まで確認して正確性をもって…
「汽笛一声新橋を…」に合わせてみると、大和田作曲の節(車内チャイムでお馴染み)は
♪ドーーードーーレミーーミミーーレドーードドーーラ↓ソ↓ーーー…
多梅雅(おおの・うめわか)は
♪ラーーーラーソーミーーミミーレードーードラ↓ーーラ↓ラ↓ーーー …
多梅雅のも個人的には好きな節だが、明らかに知名度は劣る …ちゅう自分がアンカーミスったわww(>>338)
336ではなく>>335ね
わかるとは思うけど、失礼 クハ481-500番台は車体嵩上げしなかったのが不思議だな
嵩上げすると運転台が車両限界を突破してしまい不可能だったとか?
サシ489-100番台は嵩上げしてたが
クモヤ191も嵩上げしてたがあれは嵩上げしないと機器が収まらなかったため いや、むしろサシ489-100はよくわざわざかさ上げしたな、と思ってたよ。
高さに差が出ても運転上は全く支障は無い。
サシ改造の時代は、まだ車齢が若く、長期の使用が見込まれることと、
中間に挟まる食堂車で貫通路の歩行者が多いので、段差を嫌ったんだと思う。 美的に凸凹を嫌った時代と、気にしなくなった(気にしていられない)時代の差では? 近所の悪い兄ちゃんに列車見に上野駅に連れて行ってもらったら上野でチャンピオンマークついた特急ときがいて、兄ちゃんがおお!これは貴重だ!あと数ヶ月でなくなる!って一生懸命写真撮ってたんだけどこれは推定何年何月?
オレは小さすぎてあまり価値が分からなかった。 というのも、カラーテレビ田舎の九州に持って行くのに、立ち席の新幹線と多分岡山から特急しおじに乗り継いで、飽きて疲れてオヤジに怒りまくった、あのクリームと朱色め!とカッコイイのはわかるが軽く冷ややかな目線があったのかも知れない。 因みにその先は、401系?なのはまだマシだったがさらにその先これまた多分10系気動車で、臭い狭いうるさい乗り心地悪いトロイとすぐにろくなモノでないと分かったオレは発狂した。オヤジあの時はすまなかった 笑 昭和50年新幹線が博多まで開業のニュースを見て、これであの朱色クリームのしおじがなくなってよかったよかった、と思ったオレは基本所謂乗り鉄の素質は無いんだろうなあ すまん、岡山から先はもしかしたら481系だつたかも知れない。曲がりヒゲや運転台上のライトの煩い感じ、車高が高くどこかふてぶてしい感じがなんとなく記憶にある。181系はスマートだけど少し弱々しく繊細な感じ。ウィンカー、マーカー、バックミラーなどは格好いいよね >>342
あれ貫通路に段差があって貫通幌が斜めになってた上に車体が低い側にスペーサー噛ましてたんだな
特急ときのサロ181も485系車体でやはり段差が出来てた
181系の車体は床面高さが1100oと驚異的に低く381系とほぼ同じ車体高さだったって凄いな
電車用ホームとほぼツライチである 平成28年6月5日に北海道日本ハムファイターズの
大谷投手が163km/hをマーク、こだま形の最高速度記録に
並んだ。
大谷投手のユニフォームにチャンピオンマークを付けて
もらおう(するわけないか) >>312
一年以上も前にレスするのも気が引けるが、それは自分も気になっていた。
でも誰も話に乗ってくれなかった。
いまこうして視点を共有できたことが嬉しい。 編成途中で引き通しがクロスする異端な構造だったな
真ん中を境にモハユニットの向きが逆転してた
他に157系や451系も途中でクロスする構造だったが451系はクハが落成してクロスをやめた >>354
当時の標準的な設計思想だったんじゃないかな。
他にキハ80系がキシでクロスさせていたが、キシ抜きの編成が出来たのでキロを両栓にしている。 >>355
683系2000番台は0番台基本編成+2000番台基本編成の団臨が走った事があったがあれは電気連結器を境にクロスしていた
2000番台のみ逆向きだったが289系化で正方向になった
他には215系や371系もMM'ユニットが背中合わせだが片渡りになっている >>358
ほぼの車輌が15年前後で廃車になってるからね
それ以上長生きしたのは事業車に改造されたやつだけという
試行錯誤で初めて造った特急電車だから色々と耐久性が無かったのが原因かな?
ただ一方で労使に振り回されて充分な整備が行えず廃車という噂も >>360
いや、初期の軽量車体はみんな国鉄私鉄問わずみんな短命だよ。
鋼板が薄かったり錆びやすかったり、防錆処理がほとんどされてなかったりで。
その反動からか国鉄末期の鋼製車は無駄に頑丈、最近まで脅威の残存率を誇ったキハ40系とか、
車体より先に足回りの寿命が来てしまった201系とか。 初期の軽量車体でも
京阪の1810系(昭和31年登場)みたいに
幾多の更新を経て50年以上生きながらえた個体もあるから、
保守の出来不出来も重要だよ。 鷹取工場でジャッキアップしたら崩壊しかけた10系寝台車とかねえ。 >>366
鷹取工やなくて高砂工での話、ジャッキアップやなくてクレーン吊り作業中やな。 あの当時は耐候性高張力鋼板が無かったからな
国鉄採用第1号はキハ40だったっけ?
私鉄は昔から採用されてたみたいだが国鉄は採用が遅れたな アレも権利関係がややこしかったのか?
後の軽量ステンレスみたいに 157系は下降窓の隙間から雨水が侵入したのが致命的だった
117系100番台では車体裾をステンレスにして解決したが
小田急にも5000形とかに下降窓の鋼製車があったが腐食したという話を聞かない
小田急には「水抜き穴」があったが国鉄には無かったみたいである >>369
権利関係というか、SPA材は各鋼材メーカーの独自開発により材質が微妙に違っていて、
混ぜての溶接ができなかったため。
国鉄は全国どこの工場でも補修できる汎用性を重視し、特定メーカーに縛られるのを嫌っていた。
国鉄でSPA材を全面的に車体に採用したのは新幹線0系が最初。
極限まで板厚を削って鋼体の軽量化を狙ったため。
昭和40年代に入ってJIS規格で材質が統一され、ようやく国鉄でも広く採用されるようになった。
例えば481・483系から485系に増備が移行する際に、SPA材への切り替えが行われている。 >>370
157系にも水抜き穴はあったが、雨水の侵入量に対して全く不十分だったようだ。
小田急の構造は知らないが、古くから下降窓を採用している阪急では、全検のたびに
外板腰部はほぼ総張替えしていると聞いたことがある。 車齢10年足らずで廃車されたクハ180も雪害の腐食? 自由席が設定されたら繁忙期に自由席車両に人が殺到し車両に強烈な負担が掛かった?
そもそも定員乗車を前提に強度計算してるため帰省ラッシュでの負担に耐えられない懸念がありそう 151系は無茶しすぎた感がするな
台車を薄肉化して軽量化を図ったのはいいが亀裂が入る事故が多発し結局153系と同じのにする羽目になった
自由席を設定したら帰省ラッシュの時に車体に猛烈な負荷が掛かった? >>377
東海道時空の問題で、151⇒181の時に台車枠強化を行っている。
自由席とは関係ない。 冷房装置が温度調整用マイコンが付いてなく各ユニットごとに「切」「弱」「中」「強」スイッチがあって乗務員が体感で調整する必要があったみたいだな
安物の自動車のマニュアルエアコンみたいである >>380
> 冷房装置が温度調整用マイコンが付いてなく各ユニットごとに「切」「弱」「中」「強」スイッチがあって乗務員が体感で調整する必要があったみたいだな
1ユニットあたり2セットの装置が載っていて、1台運転は弱、2台運転は強で、
ボタンは、「切・通風・弱冷・強冷」。
一斉制御、温度調整の機能はなく、1台ずつ手動操作だった。
「切」にすると排水ポンプも停止してしまって室内が水浸しになることがあったので、
冷房不要の際も「切」にしないように「切」位置にカバーがかけられた。
車両の電源を落とす際も、終着後、すべてを通風位置にして数十分運転する必要があった。
キノコ型のAU12の保存車を見るとわかる。
ボンネット型の特急電車はこれだから、そんな昔の話でもない。 >>382
AU12のサロ165とクハ455は客が操作できる位置に付いていたなあ。 >>382
AU75はドレンを屋根に排水し雨樋を伝って自然落下で地上に落としてるがAU12は機器本体を天井に落とし込む方式だったために屋根上排水が出来ずポンプが付いてた?
最近の冷房機は屋根上排水である >>381
大阪に出張でこだま乗った時
ビジネスデスクで書類書いてたな
もちろんパソコンなど無い時代だし 153系替え玉が来た時のガッカリ感は相当なもんだったろうな >>386
RPの何の号だったか、子供ががっかりして泣き出したとか。 >>386
でも151系と同じダイヤで走れたとか。 >>389
性能的には大体同じくらいだからね
ましてや初期のこだまはまだ本気出してなかったから >>390
「富士」事故の際はビュフェは1両に減車、で、車販基地だったそうな。 >>389
153系は目一杯の力走で151系と同じダイヤを守ったのだろう
157系の「ひびき」は定期列車だから相当無理をしていたのではなかろーか >>393
この時代の東海道本線は電車特急でもMax110キロのスジだったからね。
153系や157系は軽々スジ通りで走っていたよ。 >>388
特急料金半額払い戻しだった
12系客車の特急つばさやキハ56の代用北斗とか遜色特急は100円引きだった
現在のJRでは流石に快速扱いにして全額払い戻しにする クロ151は勿体なかったな
どうせ普通車化改造しても大して長持ちしなかったなら1両でも残してほしかった >>395
クロハ181改造車を5両、53.10まで引っ張ったしな 1960年代の最高グレード車両はクロ151かナロネ20だろうけど格式ではどちらが上だろ? 結局どちらも乗る人同じだろうしなあ
まあでもクロかな >>400
同じ1等でも展望車と寝台車とではどちらが格上かと言えば断然展望車だからね。
でも車両としてどちらが幸福だったかと言えばやっぱりナロネ20かと。 もしパーラーカーと同格の寝台車を用意するとなると北斗星のロイヤルくらいはやらないとね
ルーメット程度ではねえ >>397
クロ181のままかもクロハ181のまま運用につかせればよかったと思う
定期が難しいなら臨時列車用にすればよかった 先頭車改造車がボンネット型だったのは時代背景だろうな そりゃあ貫通型が登場した1972年頃は151系は改造どころかガタがきはじめてた頃だからな 181系の先頭車改造車がクモハ485の200番台のような形だったら
当時としては斬新な先頭車だっただろうな >>407
斬新だけど、当時まだ「特急」にステイタスが多少でもあった時代だから、
さすがに実用1本、て訳にはいかんかっただろうな。
>>406
その前年までまだボンネット特急車が新製されていたという。 1967年に581系が出たけどあくまでも連結を考慮した例外だからね。
キハ81⇒キハ82と同様の事情。 >>408
>その前年までまだボンネット特急車が新製されていたという
クハ183の0番台とクハ481の100番台は製造時期重なってるよ >>409
581系でボンネットから変えたのは併結を意識したのもあるけど
ボンネットが定着して変えにくくなった先頭車の形を新しい形にしたかったのもある ホテルヘルス&デリバリーヘルスとして大阪の日本橋に降臨!!!
完全無修正の激かわ美女在籍
神戸・福原 和歌山エリアトップクラスの人気を誇る
興味のある方は、「日本橋ビギナーズ」で検索♪ 京都鉄道博物館1階に「151系の車輪」が展示されているが
どこに保管されていたのか? モハシ→モハの改造過程でモハ181が1両余計に作られたんだな
モハシの改造工事終わったらサハに改造するつもりだった? >>420
「とき」でボロボロになってしまったからな。 >>420
でも結局485系が転用されたので大して変わらなかったと言うね。 >>421
それに追い討ち掛けるように海岸を走る故に塩害にもやられるだろうからどのみち直ぐに新車ないしは他の線区から中古が投入されて全廃になると思う。 >>421
ときは当初は新幹線開業まで181系をメインで使う予定だった
>>422
485系が導入されたのは結構後で基本は急行きのくにの格上げ分の担当だったからな 東北・上越新幹線建設開始時に開業後の特急車両の転属先として想定されてた中には入っていたと思うけど
それから2年くらいで181系の故障が相次ぐから具体的な計画までは行っていなかったのではないだろうか 最後まで残ったのは比較的新しい40番台と100番台だけどそれでも結構ガタ来てたんだろうな。
転用されたのはクハ481-501・502とサロ110-301・302・303だけだし。 >>426
40番代って161系改造車だから新しくはないし
サロ110-301は元々はサロ180-101だけど
302はサロ481-26→サロ181-1051→サロ110-302
303はサロ481-27→サロ181-1052→サロ110-303
だから関係ないし
単に必要両数がそれだけだったんだろう 当初の上越新幹線開業予定は1976年だっけ?
それまで181系を使い倒す予定だったのが建設が遅れたから繋ぎで183系1000番台を入れたらしいけど
何れ新幹線開業後は房総へ転用予定だったとはいえもし新幹線が早く開業してたらどうなってたのやら >>426
先頭車の転用が少なかったのもそういう事情がありそう でも181系は全般短命だったよね、東海道・山陽の長距離運用と転属後は豪雪地帯での酷使、
さらに国鉄の労使関係最悪な時代で整備が行き届かなかったのも不運だった。 クハ181の100番台とクハ481の初期車はデビューがあまり変わらないけど
クハ481の初期車の方が長く活躍出来たな クハ181-100は、車体の傷み云々よりも
使える列車も場所も無かったもんなぁ。
転用先が豊富だったクハ481とは同列に語れないと思うわ。 でも逆に言えば特急車のまま生涯を終えたのは良かったと思うな。
581・583系みたいに魔改造されたり変な色を塗られたりするよりは。 そういえば、川重のクハ181、
数年前に外観は奇麗に直されていたけど、
内装は手付かずままなのかな?
某サイトで、かなり前のトイレの画像が挙がっていたけど、
お世辞にも奇麗とは言い難い状態だった。 181系は1978年に突如485系車体のやつが出現して編成美崩しまくってたな
末期の頃の特急ときなんかサロだけ車体が高く凸凹だった
貫通幌の高さが違い斜めになってて渡板にアダプタ噛ましてた
181系改造のサシ489は車体嵩上げ改造してたがそれでも微妙に車体断面が違ってた 新幹線開業までは、何としてでも走ってもらわないといけない
車体断面とか細かいことに構ってられなかったわな >>436
183系と編成を合わせるためモロを格下げした200番台とかもあったな。
末期だからかつてのような大改造はせず座席を交換しただけのやっつけ仕様だった。 「とき」に使用されたクハ181の運転室上のヘッドライトの撤去時期について、
どなたかご教示ください。
それというのも、151系から181系への改造が1965年で、一方「あずさ」に
使用するための山用改造が1966年なので、その間は運転室上にヘッドライトが
設置されていたと思うですが、ネットの画像では確認できないためです。
田町電車区のクハ181は、181系への改造当初から運転室上のヘッドライトが
撤去されていたのか、それとも「あずさ」設定時に撤去されたのでしょうか。 車両限界の問題上やむを得ないとはいえ、
ヘッドライトのないクハは、正に無様だったな。
3本の毛が抜けたQ太郎状態だよ、あれじゃ。 181系でDT32・TR69搭載のやつはボルスタアンカと車体裾が異様に接近しててギリギリだったな
クモヤ191系は床下機器が収まらず嵩上げしてるが心皿にスペーサー噛ますだけでOKだったっけ?
クハ481は嵩上げしなかったのは運転台が車両限界突破するため? >>441
回答ありがとうございます。
そうだとしたら、なぜヘッドライトのある「とき」のクハ181の画像が
ネットにないのでしょうか。
短期間だったため、撮影した人が少ないからでしょうか。
お持ちの方がいれば、アップしていただけると嬉しいです。 「とき」用の181系の内、旧161系の40番台は新製時はヘッドライトがあったが181系に改造時に撤去、100番台は最初から無い。
山陽筋からきたクハは転属時に撤去しているのでやはり無い。 >>443
車両限界云々よりウテシの目線高さに違和感が出るからとか本で読んだな。 >>445
ありがとうございます。追加でお尋ねします。
「とき」用の車両のうち、ゼロ番台は181系への改造時に撤去されたと
いうことでしょうか。
そうだとすれば、「あずさ」の設定前なので、理由は何でしょうか。
161系として発注されて、181-44および181-45として落成した2両は
当初は屋根上のヘッドライトはあったのでしょうか。 >>442
その後の直流特急形(183/189系、381系)は運転台屋根上ヘッドランプが非装備なのかデフォになったよね。
これらの系列でもやっぱり何か間の抜けた感じした。
中央東線対応なのだろうけど381系も中央東線投入が考えられてたのか? >>448
西線や篠ノ井線でも狭いトンネルがあったのでは?
低屋根車やPS23が使用された。 >>448
中央東線は架線が振り子対応になってないから381系投入はない。
E351系ではパンタグラフを台車に直結して対応してる。 >>451
それなら381系では運転台屋根上ヘッドランプはあっても良かったね。
クハ481-1500や781系先頭車の屋根上2灯ヘッドランプは格好良かったな。
381系なんかはこうしても良かった気が。 そもそも381系は全高が低い訳でヘッドランプくらいつけても中央東線走れそうだけどな >>453
381系は中央東線では振り子固定になるから183系と同等になるぞ。 >>440 >>441 >>447
>>445 >>447 >>449
スマソ、さっきは書きかけで送信してしまったので、続き。
>>441が正解で、クハ181の運転室上のヘッドライト撤去は
「あずさ」の設定時と思う。
とあるサイトにクハ181-44の写真があり、運転室上のライトがある。
https://blog.goo.ne.jp/kiza3jp/m/190012
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/20/dec4a724c464ec3aec959f5b28e181b5.jpg
ということは、クハ151から改造されたクハ181も当初は運転室上にライトがあり、
「あずさ」の設定時にライトを撤去したのだと思う。 向日町から直接新潟に行った車両もヘッドライト撤去とかしてるんだよね >>459
あずさ設定時は新製車の100番台のみで当然頭上ライトが無い。
クハ151→クハ181改造車は当初は山陽本線のみで頭上ライトがあった。
撤去されたのは向日町から新潟転属時で「とき」と「あずさ」が共通運用だったため
耐寒改造と同時にライトを撤去してる。 >>461
163系改造のクハ181-41〜43と、161系として発注したクハ181-44・45は、
「とき」と「あずさ」が共通運用になるまでは頭上のライトがあったという
ことでよいだろうか。 >>462
向日町に行かず、田町に残留した151系改造の181系もね。 181系はパンタグラフの碍子部分に台座があって嵩上げしてたんだな
中央本線のやつは台座の高さを低くして折り畳み高さを下げてた >>464
ということで、車体高さが低かったので、特急型は481系も含めパンタ部分を特に低屋根にする必要がなかった。 S45年8月に大阪で撮影しているが、181系はすべてライト付きだった。後に関東に転属して来たときには撤去してあり、帯なしには似合わないと感じた。ましてやチャンピオンマーク付きの車は、いかにも「落ちぶれた」姿に見えた >>461
田町の時から「とき」と「あずさ」って共通運用だろ? >>453
全高が低いのは客室部の方で運転台の高さは他と同じじゃなかったけ? >>469
これはすまない
183系と381系一次車各形式の全高って
https://books.google.co.jp/books?id=GIGfCAAAQBAJ&pg=PA37
なんだな(183系は22ページ)
Wikipediaの数字見てクハ183の方が運転室部分高いのかと思ってたわ 間もなく山陽本線から181系が撤退して、45年になるか。
最後がしおじ下り1号、上り4号だった? >>472
通いなれた山陽路を追われた彼らが翌年悪夢に見舞われるとは夢にも思わなかっただろう。 定期列車の臨時や定期的に運転される臨時列車以外の
単発の臨時列車が151系系統ではあまりなかったな >>476
急行オリンピアとか準急ちよだとかくらいかな? 大ムコの151系を使って大阪-東京間で往復運転された
新幹線代替の臨時急行の写真って
雑誌等で掲載されたことってあるの? >>479
ネットでただの情報しか見ないクレクレ古事記w >>481
1965年の臨時ならRF50号に東京駅での写真と車番メモ載ってる >>484
そんな入手困難な物をソースに出されても。 >>485
ソース出した訳じゃなくて
>雑誌等で掲載されたことってあるの?
という質問に極素直に答えてるだけじゃん 「じゃあどうしろと」の彼はネットに転がっている情報しか漁れない人なんでしょう
金や時間を惜しんで情報を得る気はさらさらないし、ネットにない情報は知らない
専門板よりもツイッターとかで仲間内とだべっているのがお似合いだね >>488
>「じゃあどうしろと」の彼はネットに転がっている情報しか漁れない人なんでしょう
何でそんな話になるんだ?
>金や時間を惜しんで情報を得る気はさらさらないし
情報のソース提示はその情報出した人の責務だよ
いい加減なこと好きに言えるネットの匿名掲示板じゃ大事なこと
偉そうなこと言ってるけど5chご新規の爺さんと見た 平日午前に即レスとは、どうしろと君は5chを監視してるニートなのかぁ
ソースについては本人がしっかり出しているのに、言い掛かりw
やっぱり古事記だね働けw >>490
意味が分からん
もしかして混同してないか? >>490
誰が誰だかちゃんと認識してないんじゃね?
まあそもそもの>>478からしておかしいわけだが
車両の高さ調べるのなんて何だっていいだろう
いちゃもんつける方がおかしい 変なのが居着いてるな
ここに出すならネットのが好都合だろう
みんな見ることが出来るんだから 新幹線の開業後も181系が新潟に少しだけいたんだよな ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ パーラーカーは乗務員に言ったら電話を持ってきてくれたんだな
壁面のジャックにケーブルを繋ぐと通話できる
今では携帯電話の通話はデッキでと案内されるがあの当時は客室内で電話してもお咎めなしだったんだろうな
しかし通話料が異様に高額で長電話には適さなかった?
パーラーカー自体も異様に高額だったし(今の貨幣価値で47000円に到達するとか話もある)金持ちの道楽だった 一等開放室を東京−大阪間で利用した場合(昭和36年頃)
1等運賃: 2,360円
1等特別急行料金: 1,920円(通行税2割を含む)
展望車特別座席料金: 1,800円
大卒初任給が一万数千円の時代なので相当高額だったのは間違いない。 パーラーカー(クロ151とクロ181)を最も長く連結していた列車って、
うずしお(36.10から43.10までの丸7年間)だったっけ? パーラーカーは山陽本線では閑古鳥鳴いちゃって結局クロハ化されたな
座席は普通車だが窓が巨大で乗り得だった?
その一方でグリーン車扱いされた個室は何か滅多に使われずボロボロだったみたいである
部屋単位ではなく座席単位で販売してて見知らぬ客と相部屋もしばしばだった 『カレチ』でキセル少年を諭すのに使われたな<ガラガラ特室 ところで東海道時代の利用率ってどんなもんだったんだろう >>503
散々言われてるけどパーラーカーは上信越方面の特急で使われてたら最後までパーラーカーとして全う出来た気がする
現代のレールスターがグリーン車なしだったり九州直通でもグリーンは半室だし山陽ブルトレでも長年B寝台のみのモノクラス列車が多かったほど山陽地域は上等クラス不毛地帯だからパーラーカーの転用先としては不向きにも程があるかと
同時期のナロネ20と比べてパーラーカーは何か不幸だと思う >>501-502
手元の時刻表43年8月,44年4月の編成表を見ると「うずしお」の1号車は
昭和43年8月では展望車(クロ)のみで展望車と2等車(クロハ)の場合が有りますと書かれている。
一方44年4月には展望車と2等車(クロハ)のみになっている。 何巻だっけ、手元にないからわからん
たしかタダで目当ての電車に乗りたいからと車掌への説明に嘘を付く話だった
で、「お金を払う人がいないと、この特別室みたいになくなってしまうんだ」と主人公が諭す
3〜4巻あたりかな? >>506
上信越方面でも同じかもっと早く消滅してたと思うよ
パーラーカーはどうも現在のグランクラスのようなグリーン車のワンランク上どころでは済まないようなポジションみたいだし
ある意味昭和初期に旧1等車が東海道山陽以外から全て撤退していたのが全てを物語っているかと >>510
3等級制時代の1等車、それも東海道・山陽特急展望車の代替だったパーラーカーが
上信越如きの客筋ではとても商売出来たと思えないものな。 >>506
パーラーカーは値段をさらに下げたりしてでも
続けた方が良かったのでは 構造的に厳しかったとは思うが
個室より解放室の1+1リクライニングシートを残した方が
まだ可能性はあったか? そもそも需要があるならクロ161でもクロ189でもパーラーカー作ってるっての。
8両中4両一等車とかならともかく >>515
ありがとう
置いてるお店少ないんだよねー 特急うずしおは宇野線内は変電所が貧弱で2ユニットが限界だったため1ユニットカット運転してたが12両編成の場合4M8Tになって物凄く加速が悪かった?
モーターに物凄く負担がかかってて加速度0.7km/h/sと客車列車並みしか出てなかったはず >>518
お前いつも「○○は○×だった?×○だから××はず」とか意味不明なレスしてるけど何なんだ >>476
確かに季節列車的扱いの臨時や定期列車の臨時以外の臨時運用が少ないな >>511
ある著作によると1等車のステータスは料金が高いだけではない特別な意味を持ってたらしいね
最終日に念願の1等車に乗った人は車掌と顔馴染みの常連さんに怪訝な顔をされて身が縮まる思いをしたらしいし
1等車に乗るに相応しい地位の人ですら皇族が特ロに乗ってたのを目撃したのをきっかけに1等車卒業宣言するくらいだから
これだけの話だとスレ違いになりかねないから同じ著作にあったパーラーカーの話もするが
パーラーカーの区分室は例え予約が取れてもお偉方が乗車される場合はそちらが優先され、別に用意したロ座に回される規定があったらしい
その著者も最初は願いが叶わなかったが、その後一時期仕事上の都合で東海道を何度も往復するうちに車掌と顔馴染みとなり
その期間が終わって時が経ち、私用でハ座に乗ってたら偶然顔馴染みの車掌と居合わせ
車掌さんがパーラーカーに乗り損ねた事を覚えてたのか次に専属のボーイさんが現れ、空いてるからと区分室に案内されて思いがけず夢が叶ったらしい >>521
>パーラーカーの区分室は例え予約が取れてもお偉方が乗車される場合はそちらが優先され、別に用意したロ座に回される規定があったらしい
20系のナロネ20・22とか昔の展望車のコンパートメント、1等寝台とかもそうだったのだろうか? 昔の優等車を利用するにはカネを持ってるだけではダメだった
相応の身分が必要
戦前の身分制社会をまだまだ引きずっていたのだ
そういうのが無くなったのは4310あたりだろうか パーラーカーは文献によって様々だが今の貨幣価値で東京〜大阪が47000円もしたんだな
飛行機に至っては今の貨幣価値で8万円とか驚異的だった
飛行機があの当時はパーラーカー以上に金持ちの乗り物だった事が伺えるがボーイング747の出現で大量輸送が可能になって大衆化し東海道新幹線が大打撃を食らったようである >511
「とき」にパーラーカーが回されていたら、田中角栄のお気に入りになっただろう。
別名「角栄パーラー」と言われたらしい。
架空の鉄道スレになるな 田中角栄だけじゃねえ
総理大臣じゃクロ157みたいな運用無理だろうし
でも実現してたら語り草にはなったろうな 12両編成で今のグリーン車に相当する特別車が5両も存在してたとか驚異的だったな
1等寝台が6両もある殿様あさかぜとかあった >>529
>>524の通り、あの時代はまだファーストクラス的な役割が鉄道にもあった
今も東海道新幹線にグリーン車が3両あるのは流石だと思う >>531
東海道新幹線のグリーン車3両は、100系G編成が食堂車を無くしたのが始まりだけどな。
バブルの産物だった。
それ以前0系ひかり、100系X編成がグリーン車2両+食堂車だったけど。 グリーン車で思い出したが
普通車のシートピッチは初期の910mmから現在は大体1000mm前後と広がってるけど
グリーン車は基本1160mmからあまり広がってないよね
特ロも最初に登場したスロ60が1250mmだったのが次のスロ50が1100mmと狭まり
現場の意見を基に翌年のスロ53から1160mm広げてから以後踏襲し続けてるから 東海道新幹線には、1等車に相当するグランクラスは無い
以前は個室グリーン車が存在したが、車両の統一化で無くなってしまった。 ロの1160mmというのは回転リクライニングシートの黄金比だな。
1950年にスロ60が米軍の肝いりで欧米人の体格に合わせた1250mmで登場。
しかし足置きが遠すぎるとの意見と輸送力確保のため、スロ50・51・52では1100mmに縮小。
今度は狭いとの評が出て、1952年製のスロ53から中間値より1センチ余裕をもたせた1160mmに。
客車特急→151系→0系→100系→300系→700系→N700系と受け継がれてると思うと感慨深い。 >>532
確かに普通のグリーン席はあまり変わっていない あ、中間値より1センチ余裕をもたせた、じゃないわ。
中間値は1175mmだから、それより1.5センチ減だな。 昔の国鉄は「大は小を兼ねる」を露骨に嫌ってたな
瀬野八は8M4Tであれば自力で登れたが平坦区間で消費電力が上昇するのと共通運用が出来なくなるのでやらなかった 151系6Mの編成出力が2400KW、仮に8Mだと3200kW。
EF58が1900kW、EH10が2530kWっていう時代だから
全線8Mでは変電所が持たんじゃろ。 >>538
パーラーカーと食堂車がある前提で8M4Tを組むならパーラーカーを電動車、つまりクモロ151を設定しないと成立しないんでは?
共通運用云々以前に国鉄は動力分散式にする以上先頭電動車は無意味という考え方で先頭車を電動車にすることは非常に嫌っていた
関西私鉄が路面電車発祥ということで先頭電動車を好むのと正反対 >共通運用云々以前に国鉄は動力分散式にする以上先頭電動車は無意味
それは違うと思う。
1957年登場の101系は(変電所容量不足で頓挫したが)10両オールMを志向。
その7年後に登場する0系新幹線はインフラから構築し12両オールMを実現。
1958年登場の151系は、加減速の少なさや東海道線の電力事情からMT比1:1のマイルドな編成で十分とされた。
早期に勾配線にも電車が進出したことを考えるとあまりにも余裕がなさすぎたが、
手探りで開発していた時代だから初作が技術的に色々未熟なのはまぁしょうがない。 >>541
むしろ101系や0系こそ例外的存在では?
国鉄系列で先頭電動車が設定されてるのはシステム上(オールM)又は用途上(2連や3連を組成するため)で不可避なために仕方なく設定せざるを得ない車種というのが共通してる 俺には「先頭電動車は無意味」の意味が分からんのよね
クハで済むならクハで良いんじゃねってレベルの話で良いのかな? 俺は>540じゃないけど、クモハとクハの両方の車種を用意するのが無駄、と
言いたかったんじゃないかと。
原則はクハとモハだけ造ることに決め、長編成でモハが多すぎる場合だけサハを追加する。
これで車種の造り分けは最小限で済む。 >>543
80系で先頭電動車を設定しなかったことから国鉄では動力分散方式のメリットを確固たるものとする以上動力と制御は別々にしなければならないという考え方があったと思う
だから先頭電動車は余程の必要に迫られない限り設定しないことにしたと想像 >>542
485系に後にクモハが出来たけどそれは編成が短くなったことで
クモハを作らないといけなくなったからで
なるべくはクモハを作りたくなかったのでは 電車を長距離優等の主役にすべく開発した車両だから、
長大編成を前提に機器をバランスよく配置した結果だろう。
当時の技術力で編成全体を冷房するには
東武1720系や名鉄7000系のように2両分の小容量MGをたくさん積むのが主流だったが、
国鉄は6両分の大容量MGを開発して、遮音のために先頭車ボンネットに収める設計にした。
そのため151系ではクハ35t、モハ38tとクハの重量がモハ並みに重くなっている。 >>547 小容量MGをたくさん積む方式だと、MGの騒音が車内にかなり響いたのか?
例えばクモハ157は。当初は冷房装備してなかったが、冷房準備車として3両分賄えるMGを搭載しているわけだろ。 >>544
なるほど
車種を最小限にする訳か
でもそれって動力分散方式がどうのと関係ないよね
>>545
編成のどこに電動車を置こうと動力分散方式のメリットが増減したりはしないと思うが
動力集中方式のデメリットは動力専用の車両が一両必要ってことでしょ?
クハだろうがクモハだろうが同じだけ乗客運べるんだからそこに差異はないだろう
「動力分散方式のメリットを確固たるものとする」というならそれを具体的に書いてくれないか
>>547
それは長大編成だからだよね
用途によって変えてる訳でクモハ否定じゃないよなあ >>548
クモハ157の機器室に冷房用MGを入れたのは、冷房化の時だよ。 157系・キハ82系・581系が運転室次位に機器室を設けたのは、一貫して騒音源を客室から遠ざける配慮。
本当に必要だったのかと言われれば、
151系は増備過程で食堂車に調理用小MGを積んだからこのコンセプトは途中で半分崩壊しており、
157系も増結して先頭車が中間に入れば同じことだから構想した通りにはなっていない。
ただ、1次車の時点では国鉄部内で機関車派とのすさまじい(今思えばつまらん)縄張り争いがあったから
開発陣としては何としても動力集中方式に対する優位を示す便法が必要だった。
ロザを電動車にすることも実際に1次車が完成するまでタブーだったし、作りながら説得材料を築き上げ、世の中の常識を変えていた時代だ。 101系以降の新性能電車で設計段階から先頭電動車が設計されていて尚且つ量産に至った系列自体少数派だから国鉄は先頭電動車をあんまり好んでないというのはあると思う
列挙したら(改造によって生まれた系列を除く)
101系・105系・301系・115系・157系・165/169系、交直流急行形全部、781系位か
どれもシステム上や編成構成の都合上仕方なく先頭電動車を設定が避けられなかった車種ばかり ユニット式という時点で、2両とか3両のせこい編成は想定していなかったから先頭車を無理して電動車で作ろうという発想はなかったのでは?
地方電化で短編成の必要性が考えられたから165系、451系からはクモハを作り、最短3両を可能にした。 「中間電動車方式」というのは実際、80系湘南電車のキーワードとして広く用いられ、
国電の設計流儀になっていったのは事実。
それに当時電化推進中の路線は重要幹線ばかりだったので、
できるだけローコストで長大編成を調達したい国鉄のニーズにもマッチしていた。
しかし技術環境と用途に応じて柔軟に解も変えていて、
急行形は157系や451系から勾配対策でMT比2:1が必要になり分割併合ニーズからもクモハに転換。
究極の国電たる0系は圧倒的な空気抵抗に抗するためオールM。
301系は地下急勾配対策、105系や781系はもう短編成で済む地方電化の時代と、そんな流れ。 >>555
クモハ103は103系設計段階では想定されてなかった後天的な形式
これも投入先の事情で仕方なく設定されたカテゴリーに入るかと >>556 クモハ103は1965年に登場しているんですけど。103系の量産配備が始まった年の翌年。試作編成に含まれていなかったというのなら、サハ103も同様ですね。
何が「後天的」なのやら・・ >>557
山手線を想定すればクモハは不要。
京浜東北の付属編成対応でクモハを作った。
試作車でサハを作らなかったのは試作だからでしょ。 「国鉄は動力分散式にする以上先頭電動車は無意味という考え方」だとしたら
クモハは生まれてないわな
だって無意味なんだから
でも実際はクモハの需要があれば素直にクモハ作ってるんだから
無意味だと思っていたとは思えん
もちろん中間車だけで電動車が足りる状況で敢えてクモハ作る意味もないとは思うが 211では敢えてクモハ作ったけどね、地方線区への転用見越して
正直十分活用されてるとはいいがたいし、実際E231系以降ではそうしなかった 首都圏でガタガタになるまで酷使したお古を地方へ転用する国鉄本社のやり方は
地元の怒りを買って昭和50年代からは次第に通用しなくなっていったからな。 451系と471系は当初はクハ451が無かったんでは。 JR化後は東211系のような露骨な晩年地方転用の方がむしろ少数派で
都市圏は都市圏内で順次都落ち、
地方は30〜40年に一度の新車が多いだろ
115-1000が新車だった長野松本はもっと怒ってもいいのではw >>561
関東最大の私鉄では平成になってもそれをやってるんですがwwwwww 国鉄が新性能電車以降積極的に制御電動車を造りたがらなかったのは踏切事故の件もあるでしょ
唯でさえ当時の国鉄内には電化線にすら特に危険な第3種以下の踏切が無数に存在していて
折角の長編成前提の中間電動車も可なユニット方式の新性能電車なのに
わざわざ事故で損傷のリスクが高い先頭車を電動車にまでして無用に製作費を吊り上げる理由も無かろう 全盛期の頃のクロ151は指定券争奪戦になってた?
あの当時は紙の台帳での手動発券で混雑時に1枚の切符が出来上がるのに30分以上掛かってたなんてこともあった
晩年はマルスに組み込まれてたのか? >>567
>国鉄が新性能電車以降積極的に制御電動車を造りたがらなかった
そうなの? 101系がオールM設計、151系がボンネットに高価な巨大MG・CP、
157系から勾配線向けはクモハ。機器防護のために先頭を避けたのはパンタグラフだけ。 >>570
いわゆる「前パン」を国鉄が嫌ってるのは桜木町事故の影響というのはない?
でも直流電気機関車は前パンなんて当たり前だからそれはないか?
それにしても先頭電動車とか前パンに対する考え方は国鉄と関西私鉄は正反対だね
関西私鉄は先頭電動車や前パンは当たり前だし
関東私鉄は国鉄に倣うことが多いのか先頭付随車や後パンタが多いような 湘南電車が1950年、桜木町事故が1951年だから事故を受けてというのは少なそうだが。
私鉄は路面電車発祥か、もともと短編成だったところが多いからね。 粘着運転の理論から来る効率や安全性の問題でないのか?
電気機関車から無動力の先輪を無くす事にも反対の見方もあった時代だろ 電機においても先輪付きは1958年製のEF58/15が最後。
その頃国鉄では交流電化の実用開始で交流D型機の粘着性能が有望視されており、
新車設計では先頭がM軸かT軸かはもう車両全体の都合で決めていただけだけと思われる。
151系でクモハを起こすと冷房+大容量MG+電装で車重が40トンを超えてしまい、
スハ43世代の軸重に逆戻りしてしまうので、モハに電装、クハに補機と分散配置。
翌年登場の157系では日光線の勾配対策でMT比2:1とせざるを得ずクモハ起用。 >>574
雪の無い、暖かい線区ならもう少し使えたかもな。 温暖な東海道・山陽で過ごした153系も1982年で引退しているから
国鉄の労働争議で十分な手入れをしてもらえなかったとことが大きいと思う。 >>576
でも紀勢線くろしおで使ってたら塩害でいっぺんにやられそう
天鉄局が激怒したから381系新製投入となったらしいが 151の補完として、臨時、季節列車の短編成運用に157が用いられたわけだから、151を短編成化する必要性は乏しかったのでは。
山陽新幹線博多開業後、地方線区でも特急増発となった頃は、151も157も老朽化し、183に代替されていったわけだが。 こだまでも当初120キロ運転する予定だったが色々問題があって110キロで落ち着いた
120キロ運転開始はヨンサントオから
静岡地区では未だに最高110キロを引きずってる
もしもこだまが120キロだったら東京〜大阪で6時間切ってた? >>580
130km出せるスーパーレールカーゴでも6時間切ってないんだよね。 >>581
130km/hで走れる区間はどこ?名古屋周辺? >>582
JR西日本エリアだけじゃなかったかな?つまり米原から西。
ただスーパーレールカーゴだと旅客列車と違って乗務員交代の運転停車しかないから
その分速い。 前の列車がとっとと待避線に入ってくれなければ減速信号=制限65を食らうし、
東海道本線は案外、R600〜1000クラスの曲線が多いので
一定以上は車両性能だけではどうにもならんところ。
こだまの時代は時速65キロの2軸貨車がゴロゴロ走っていたし、
停車の少ない特急車なのに主抵抗器を途中で増やしたということは
やはり曲線制限や信号を受けて高速から電制頻度が多かったのだろう。 151系は落成したばかりの頃PS16の開発が間に合わずPS13を付けてたが写真が見つからない
もしもPS13だったら110キロ走行中に離線しまくって2個付いてるとはいえスパークして架線が傷んで問題になってただろうな PS13を載せてるのは既にPS16が離線で大スパークを起こして壊れた代品だと思うけどなw そもそもPS16は本来なら101系試作の段階で完成してるはずだったのが遅れたので151・153系が初採用になったとか
101系が量産に移ってしばらくPS13搭載だったのはPS13の在庫処分だったのかも 鉄ピクの東武特集でDRCの思い出として
「どことは言わないが国鉄20系(151系)に参加できなかったところが
大いに力を発揮してくれた」って書いてあった。
言われてみたらこだま形は川車・汽車・近車の3社しか製造していないわ。 DRCはナニワと日車製。
東武は日車の蕨から豊川への移転(1971年)を機に日車への発注をやめ
東急車輛と富士重工に切り替えており、それ以前の東急製は熊谷線のキハ2000があった程度。 >>591
> モハ180-114・115はT車代用?
と言う疑問を発する時点で正解を知っているんだろう。 クロ150-3があった頃はパーラーカーとどっちが運用に入るのかが1週間前にならないと判明せず要問合せだった
「日によって展望車ではない日がある」と時刻表に注釈があってパーラーカーも巻き添え食らって1週間前販売だったので運任せともいえた >>593
この当時の指定券の一般向け発売開始は7日前。
これに合わせて運用を決めていた。
1か月前発売になるのは新幹線博多開業の頃だったかと。 同じ昭和33年秋登場の国鉄の新形特急。
結果的に増備終了まで
20系〜151〜161〜181電車は川車、近車、汽車
20系客車は日車、日立
という製造分担になっている。
どちらも突貫開発で、これ以上の共同設計にはできなかったのかもしれない。 パーラーカーはマルスに収容されてなかったのか?
4列にしか対応してなくてパーラーカーは2列しかなく対応できず座席数が少ないとあって手作業発券だったとか? >>595
日車は153系開発にも係わっていて、結構無理したとのこと。
RP153系特集より。 日車は20系客車やキハ80系が熱田、153系が蕨だったから
蕨工場の落胆は想像できるなw
それがDRCに繋がっていくと。 >>594
新幹線博多開業時点でも、みどりの窓口一般発売は、1週間前だった。
1ヶ月前発売になったのは、その10年先の東北新幹線上野開業前後だった筈。 53.10の時か55.10の時かどちらかじゃなかったか?
1980年12月号の時刻表だと一ヶ月前になってるよ 確認したが、一ヶ月前販売は、55.10からだな。
時刻表の表紙に『指定券―1ヵ月前発売に変更』の表記がある。
黄色のページには10月1日のみ10月15日分まで発売との説明があった。 >>576
湘南ライナーみたいなのがもっと早く登場してたら181系は2000年前後まで活躍している車両もあったかな?
185系が1981年デビューで37年経った今でも活躍している時間軸と合わせると、1958年デビューの181系は1995年になる
181系には13年で引退した車両もあったは >>604
13年どころかクハ180-1〜3は9年そこそこでなかった? >>604
185系は初期の新性能車の反省から耐食性を向上している。 山陽特急で運用されていた頃の181系の乗り心地って、
同じ山陽本線で運用されていた481系や581系と比較しても、
それほど遜色なかったのだろうか? 過走行で寿命を縮めたのが40%、初めての雪国電車で想定外の傷みをしたのが30%、
国鉄の現場荒廃で保守が乱暴だったのが30%ってところかな。
165系トップナンバーが生涯新潟で享年35だったから
大事に使えば分割民営化ぐらいは乗り越えられたはず。 >>608
初めての電車特急だけあってかなり知恵を絞ってたみたいだから遜色なかったんじゃない? 低重心で余計な交流機器や保護回路を積んでなかったので
走りは遜色ないどころが最も軽快で、岡山も宇田さんも扱いやすい電車だったと証言している。
山陽特急は急勾配を避けるかわりに曲線だらけの線形で表定速度が70キロ代から上がらず、
速度面では見劣りした。 >>611
廃止まで気動車特急だった「かもめ」が、山陽本線内で電車特急と負けない所要時間だったのが
印象的だった。
一方同時期まで気動車と電車があった「しなの」は所要時間の差が著しかった。
381系がカーブで減速しない効能だろうが・・ >>611
脈流が無いので、交直両用の特急型よりは扱いやすかったという声は
確かに雑誌か何かで目にしたことがある。 >>613
宇田氏の本だな、RFに連載したやつをまとめたもの。
脈流を平滑化する装置を介さないのでどうのこうの、じゃなかったかな。 >>565
今のJRは地域分割だから国鉄時代のようなタライ回しはやりにくなったからな。
だからJR東日本なんか、昔なら地方に回してたような古い車両は東南アジアに譲渡してるし。 >>616
それは東日本に限らず、JR他社でも。
ただ103系が東日本→西日本に、415系が東日本→九州に売却はあったな 181系と485系は車体そのものの高さが違い貫通幌が傾斜していただけでなくスペーサーを噛まして段差を埋めてたが写真が見つからないな
連結器の高さも変える必要があった >>618
サシ181⇒489はスペーサーを入れて床面高さを合わせたので、連結器位置を変更する必要があった。
その後は床面高さは変えていないので貫通路対応のみ。
181と481の連結面高さは同じ。ボンネット車の連結器カバーを見るとわかる。 最初の頃架線電圧が不安定でMGのフラッシュオーバーが多発した
変電所がしょぼい区間があったな
極めつけは宇野線で4M8Tとかあった 沼津─浜松は戦後まもない昭和24年の電化で、
金も時間もなく、木製架線柱を多用する有様だった。
先に電化するなら沼津─浜松か、米原─京都かで争われたが、
工業地帯を抱える浜松の陳情が上回り、静岡県下が先の電化となったので
戦後の混乱期でそういう仕様になってしまった。
さすがに変電所は手当されたが、木の架線柱はJR化後まで残っていた。 >>620
宇野線は電気機関車と電車列車で電気の奪い合いを
していたとか。
なにしろEF58あたりが力行すると電圧降下著しく1200Vを切ってしまう事も。 それでも山陽本線の全線電化より4年早く、昭和35年に電化され、
翌36年にいきなり151系が入ってきたのだから宇野線の優先度は高かった。
広島・九州方面の特急は、夜行20系、昼行がやっとこさキハ80系という時代。 151系は史上初尽くしで手探り感あったよな
史上初の新性能特急電車で史上初の110キロ運転対応とか
主抵抗器は最初高速走行でよく冷えると目論んで自然通風式にしたら徐行区間が点在してて風が当たらなくて冷えずに焼損事故が起きてしまい特急型での自然通風式は懲り懲りになった よく冷えるからではなく、停車回数が少ないから(101系に対して)軽装化したんだな。
ところが運転してみたら曲線制限や前の貨物が詰まったりで高速からブレーキを執ることが案外多く、
電制常用なので抵抗器の熱量が足りなかった。 そういや国鉄の新性能電車で自然通風式の抵抗器を搭載した例が他にあるとすれば、
地下鉄直通用の103系1000・1200・1500番台と301系ぐらいしかないからな。 >>621 沼津・浜松間に木の架線柱とあったので、151系高速度試験の映像見てみたが、試験区間はコンクリート架線柱で道床も整備されてたんだな。ダイヤ調整して、電力も優先配分したのかな。 >>626
105系も自然通風式
単なるコスト低減のため 動画見たけど、見た限りほとんど木製のような…
電車が通過すると架線柱がブルブル揺れてるw 山陽本線は全体的にぐねぐねしてて瀬野八もあるのでヨンサントオでもあまりスピードアップ出来なかった
151系は東海道線での走行に特化していて山陽本線での走行は性能的にも接客設備的にもちょっと無理があった
パーラーカーが閑古鳥鳴いて普通車に改造されたが窓が大きく乗り得だったが区分室が誰も乗らず朽ち果てていったとか そもそも山陽本線自体パーラーカーはおろか1等(G車)のニーズ自体少ないと思う
後年に寝台特急でB寝台のみのモノクラス列車が出現したり最近なら新幹線のひかりレールスターでG車設定がないというのも関西や西日本の「余計なものにはカネを出さない」という意識があるからだと思う 山陽筋は上級クラスの設定よりも普通車のレベルの底上げに力を入れてるようなところがある。
グランクラスを導入するぐらいなら普通車指定席を2列-2列にした方がいいというのがその例だしな。 割増料金でVIP対応も行うパーラーカーの採算が取れるのは、東京・大阪間位なんでは。
VIPはともかく、名古屋・大阪間など2、3時間位の移動では一般客はパーラーカーを利用しない。
6時間乗車する客が相当数いるから、パーラーカーの利用率が上がる。
山陽本線だと博多までの途中、岡山や広島で降車する客の比率が比較的高い。だからパーラーカーの利用率は低くなる。
東北本線のキハ80にもパーラーカー無かったしね。 そもそも東海道時代ってパーラーカーの採算取れてたのか? アレって飾りじゃないの?
一般人には近寄れない存在
採算とか考える以前に、大物政治家などが往来するために必要不可欠なモノ パーラーカーの客層って、政治家とか財界人ってあたりを想像するかも知れないけど、
実態としては、そのような方々は大半が飛行機利用だったようだ。
パーラーカーの最大の客層は、飛行機ではまとまった席数が確保できない、外国人観光客。
なお、彼らの利用区間はほぼ東京−京都と決まっていたため、山陽線転用後に空気輸送になる事は
事前にかなり予測してrていたらしい。 国内初の直動式ドアエンジン採用だった
TK100形ドアエンジンは特急型以外では455系のパンタ下位しか使われていない
モハ164-800番台もパンタ下だけTK100だった 岸信介は首相在任時に、デビューしたてのあさかぜの個室でお国入りしたというな。 こんなレベルの話のソースを求めてどうする。
151系スレだし。
登場時は20系か・・・ 散々言われてるけどパーラーカークロ151と20系のルーメットのナロネ20は何か似た者同士という感じする
どちらも3等級時代の1等の末裔みたいなものだし
庶民はいくらお金出しても利用不可能だったからね 【国連、20mSvから1mSvに戻せ】 線量20倍だと死者8千人が16万人に増加、人口減20万人/年とほぼ一致
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1540606609/l50
国連「女性と子供をフクシマに帰すな」 自民「内政干渉だ! 我々は選挙で選ばれたんだぞ!」 新聞記事検索で岸首相お国入りや首相動静などで検索すると鉄道利用もあった。
個室とは書いていないが、3段寝台や座席車を使ったとは思えない。 どうでもいい事だが、こだまデビューの60年前は、
まだ鉄道国有化前だな。
山陽鉄道が日本初の食堂車を登場させた、とか。 そもそも戦前の旧1等車自体東海道山陽以外では消滅していて
その東海道山陽線も国際連絡ルートの一部としてだから
その末裔のパーラーカーが東海道以外で賑わうわけないよな クロ151はどういうわけかクハ181よりも微妙に車体全長が短いんだな
クロ481も短かったがあれは先頭車化改造車の図面を流用して新製したため >>630
皇室の御用邸や避暑地として観光地で有名な軽井沢を沿線に持つ信越線だったら利用者あったんじゃないの?他に山陽線で余剰のサロやモハシも一緒に引き取って >>651
MAX8両に制限されていて食堂車も省略した(モハシの導入も諦めて定員増を図った)横軽で
定員の少ないクロ181を組み込むとは思えない。
東北の9両編成は食堂車付き、サロ⇒クロ1両のみ。
サロ2両だったのは、それなりの需要があったということで。
実現しても夏だけの需要で、軽井沢以遠はガラガラだっただろう。 3等級制時代の1等車すら軽井沢方面の列車に連結されてなかったから
旧1等車の流れを汲むパーラーカーの需要があったとは思えないな >>653
3等級制時代と言えばまだ碓氷峠がアプト式時代。流石にこの時代は必要無いかもしれないが、昭和40年代のレジャーブームではクロ181系は需要あったのでは?荒廃した山陽のクロ181とあさまのクハ181をトレードしてれば無駄な改造もしなくて済んだ訳だし 8両の中にそんな定員の少ない車両入れる余裕はないわな 故島秀雄技師長は新幹線より151系に思い入れがあったらしい。
生前、息子さんに「長い鉄道人生の中で最も嬉しかったのは、こだまが走り始めた時。
あれは本当に苦労して造った。新幹線はその考えを延長しただけ。」と
語ってたそうだ。 >>662 動力分散式で客車並みの静粛性を確保し、しかも冷房付きの長距離列車としては、当時、他に例がないからな。 >>662
島技師長は戦前に設計した蒸気機関車がみんな失敗作で散々だったからねえ。 >>664 戦前日本の工作機械の水準、不十分な品質管といった要因も考慮すべきなんでは?
まあ、零戦設計した堀越技師も発展性に欠ける戦闘機を造り失敗だらけだという評価もできるわなあ。 大型蒸気での失敗通じて、日本の貧弱な規格の線路には動力集中式が向かないことを自覚したということなんでは?彼だけでなく国鉄の技術陣通して 昭和35年8月13日の日光線への入線試験の目的って何だったんだっけ?
それと試験結果はどうだったのか? パーラーカーは今でいうななつ星in九州みたいな存在で一般には手が出なかっただろうな
今の貨幣価値で47000円もする
等級制を現在も引きずってたら新幹線の東京〜新大阪が28000円になってる >>668
それでも、3等級制の1等でなく2等にしたのは1等を維持するのは無理があるという判断だったのだろう
新幹線ではさいようされなかったし。
展望車の利用者の既得権を守るための暫定策であった気がする >>669
20系のナロネ20にしても本来なら「ナイネ」になっててもおかしくないレベルだったけど1等を維持するのは無理になるという見込みがあったんだろうね
いずれにせよパーラーカーとナロネ20は3等級時代の1等の直系と言えると思う >>670
ナロネ20の場合
コンパートメントが従来の二等A寝台相当、ルーメットはそれより上だから直系というのもまた違う感じが
ナロネ21や22のほうが直系という感じがする メーカーレベルでは昭和初期の時点で電車の優位性は決定的だったからなあ。
昭和33年登場の国鉄151系の電動車の軸重は9.5t。
昭和5年登場の阪急900形は150kWモーターと魚腹台枠をやめた軽量全鋼製車体で
平均軸重6.4t、100km/hオーバーを1日中常用。
手間の掛かるビルドアップイコライザー台車をプレス製の軽量台車に置き換えたり、
ばね下重量の軽いカルダン駆動は戦後技術だけど、
輸入品や最先端設計をガシガシ使った私鉄と国産育成にこだわる保守的な鉄道省、
機関車列車こそ至上とする国鉄部内のセクショナリズム、
艦砲射撃による電化施設の破壊を恐れて鉄道電化に強行に反対した陸軍の存在もあり
国鉄が旧習をうち破るには長い時間が必要だった。 >>672 昭和初期、電車の走行性能は優れていても吊り掛け駆動で空気バネ台車もないから、長距離特急用に使うには騒音や振動が問題だったのでは。
昭和30年代には全金属軽量車体導入含めて、問題が解決されるわけだが。 >>672
> 平均軸重6.4t、
wikiの車重25.7tて記述を妄信しているんだろうね、艤装した実車は40t級だったよ 超デカ窓は後継車両に普及せずだな
ガラスが高価になる上に割れたときの交換作業が大変だった?
一部は防弾ガラスになってた >>675 クロ151の超大型窓が縦1m、横2m。後継車両ではないが、西武001系ラビューの窓は縦1.3m、横1.5mだから窓1枚の面積は同じくらいだな。
ラビューは客室全部の窓がパーラーカーの超大型窓並みのサイズ。 901系、209系の窓も一応思い出す。
エアコンの効かせ方ケチるわブラインド廃止するわでクソな印象しかないが。 817系も超デカだな
近郊型では異例だが割れたときの処置が大変そう 実際のところ、浮床構造で遮音を図ったモハ181と重量物で遮音を図ったモハ183を比べた場合、
体感できるほど静かさに差はあったのかな? 1960年8月13日。最初で最後の151系日光線入線。 >>666
蒸気が軒並み失敗作のだった陰で動力近代化というか電気への舵取りの決断が早かったから結果的に吉と見るべきか
(というか日本の線路事情や石炭の質を考えたらどうせ限界は見えるかな?)
それこそイギリスは蒸気機関を発明(試行錯誤)できるほど良質な石炭が採れるから
なまじ蒸気機関車が高性能過ぎて動力近代化に出遅れて碌なディーゼル機関車を開発できなくて悲惨な目に……
現在では多少マシになってるけど、それに日本製の電車が一役買ってるのはなんだかなあ >>680
多分無かったんじゃない?
151系の開発時はまさに全般的に初めてだったからあの手この手で思考を巡らせてたけど
実際に運用してみてそこまでする必要は無いなという事柄は結構あるから >>213
当時の鉄道ピクトリアルの記事を見る限り保留サロが減っただけだね。 >>214
後の九州改造やパワーアップ改造のスケジュールから見て8が残る予定だったらしい。
7があぼーんしたから九州行きは7の代わりに8。 >>618
上越新幹線開業直前のときの写真を探せばいいだろ、
当時の鉄ファンか何かに載ってた記憶がある。 151系について改良箇所の詳細や編成の変遷まで詳しく載っていたサイトが知らないうちに消滅しててショックだった クロ151氏の「ボンネット特急の世界へようこそ」の事か?
あのサイト当スレで色々と討論する時に貴重な資料が豊富で何かとお世話になったな
無くなってしまうとは時の流れは無情というものだな…… クロ151氏の「ボンネット特急の世界へようこそ」の事か?
あのサイト当スレで色々と討論する時に貴重な資料が豊富で何かとお世話になったな
無くなってしまうとは時の流れは無情というものだな…… 時の流れなんかじゃないよ。この国の文化の
浅はかさを強く感じる。ニフティサーブなんか
私企業の都合でログ全部失われたんだぜ 大型MGを床下に置けなかった時代、床上に置くにはスマートな方法だったと思う。
157や581よりも機械室然としていなくて良い。 まあボンネット特急型先頭車は、昭和47年の489系まで新製されたからな。 クハ481-200でCP,MG共に床下搭載になったんだけど非貫通の300番台では再びCPが床上搭載になった。 ボンネットは踏切事故対策の側面もあったかと
当初は名鉄パノラマカーみたく展望席を設けるつもりだったらしいが踏切事故の時に危険なので機械を置くことにした >>690
同感あのサイトで、パーラーカー区分室に乗車した方が、当時の写真と共に乗車記を上げてたのが面白かったな。
徳山から大阪迄老夫婦と和気藹々したり、広島から三ノ宮迄外人家族と相部屋になり、三ノ宮から名古屋迄の急行券を代わりに買ってあげたりと。 外幌ってやめちゃったね。
今も採用してるのは小田急ロマンスカーくらいか。 ホームドアが整備されたら要らなくなる?
二重投資だったか 速度計がちょっと変わってて50・100・150キロしか数字が書かれてないタイプだったんだな
このタイプはJR四国8000系でも見られる 185系の車齢40年ってすごいよな
時間軸で考えると、151系や153系が2000年頃まで活躍してたのと同じ長さになる >>706
腐食対策を強化した甲斐があったということだね。 >>706
それって151系や153系が短すぎるんだよ 185系は201系と同じ耐候性高張力鋼板使ってたのが奏功したか?
国鉄型での採用は遅れて第1号が新幹線0系だったが在来線は201系量産車から >>708
東海道本線や山陽本線で、片道600km近い長距離運用を連日こなしていたのも
老朽化を早めたんだろね。 >>710
東海道本線や山陽本線の特急運用って言うほど大変には見えないけどな
東北や北陸のほうが明らかに過酷だ 1日の走行距離が1200キロとか走行距離的に過酷だっただろうな
東京〜大阪を日帰り往復可能は車両運用効率化になったが走行距離が増えて検査周期が頻繁だった
583系がもっと過酷で列車によっては1日2000キロ位走ってた? クロ150-3は運用がガチャになってたとか異常
日によってパーラーカーじゃない事があった サンロクトオ以降の東海道本線でのクロ151の乗車率って実際のところどうだったんだろう? パーラーカーはマルス発券できたっけ?
最初の頃のマルスは4列シートのみ対応だった 昭和48年に「しおじ」でクロハ181の区分室に乗車した人の話だと、
東京駅で乗車券を買おうとしたけど、当時のマルスでは発券できなかったらしい。 座席レイアウトが特殊すぎてマルス収容不可だったのか?
近年の事例だと特急「あさぎり」→「ふじさん」で小田急跨ぎをJR東海以外で買うと手書き発券になる
近鉄初代ビスタカーもオンライン化不可能で命脈立たれた 20系A個室も、マルス発券できなかったらしいからな。
旧型マルスは、号車や席番指定もできなかったと聞くが。 クロハの区分室は末期は殆ど利用されなくてボロボロだったとか話ある
それも部屋単位じゃなくて座席単位だったので見知らぬ人と鉢合わせもあった
業務用室にされてもおかしくなかったはず 懐かしい……
https://web.archive.org/web/20070122110336/http://homepage1.nifty.com/BONNET-EXP/mainmenu.htm 成田エクスプレスの個室は利用率どうだったんだろうか?
151系の区分室と似てるがあれは部屋単位での発売で他の乗客と鉢合わせしなかったが1編成に1室しかなく部屋確保が至難の業だった?
E259系は個室がない
長野電鉄に行ったのは業務用室になってる 253系の場合はVIP輸送を想定したというが後継でなくなったというと需要無かったんだろうなぁ
長電のスノーモンキーになったのはSPA猿〜んって名前で個室営業してるよ
最近ネットでの事前予約制になった
スイッチで通路側が曇りガラスに切り替わる仕組みも生きてる >>725
勘違いしてた
業務用室になったのは東武乗り入れの1000番台 >>727
たぶん。
駅とかではいつも単に個室って言って通じてるけど。 東武スペーシアの個室でホモビ撮影した馬鹿が昔いたな
防犯面で近年は寝台車以外で個室が忌避されがち パーラーカーに、グリーン車4両は、ぜいたくよ
東海道線は、金持ちが多いといっても
グリーン車4両の設定は、考えられないね。何様のつもり 航空路線がまだその役割に対してかわりきってなかったという背景を知らずにそういうこと言っちゃう
道路整備もまだまだだしそういう時代のほぼ唯一の長距離移動手段よ?
それに庶民の足なら長距離鈍行もいっぱい走ってた そもそもグリーン車じゃないからな
単なる豪華設備の車両じゃないんよ 殿様あさかぜとかいってナロネが6両もあるキチガイじみた編成のあさかぜもあったな
富裕層の利用が多かった? 元の知識がないだけじゃなく理解しようとするつもりもないなら好きにしたらいいよ 151系は特急が特別急行の時代だからな
153系の急行や準急
貧乏人には客車の長距離普通も パーラーカーの座席から、電話をかけれたんだね
ちなみに電話代はどうしたんだろ、カード払いかな
1分間の通話で100円くらいね >>739
151系の普通の車内電話は100円玉専用
パーラーカーのは給仕が交換手に確認して現金払いだと思うよ
当時クレカにはオンライン決済の機能はない >>740
100円玉専用なんて新幹線でもずっと後の話。電話の扱いはパーラーカーの給仕室とビュフェの電話室。いずれも交換台経由。
>>739
列車位置は東京〜熱海〜鷲津〜篠原〜神戸、
地上側は東京都区内、名古屋市内、大阪市内のみ
通話料金は3分毎に100円、200円、300円、400円
少しは自分で調べようね。 今の貨幣価値だと国際電話並みに高価なんだな
長電話したら凄い金額になる 当時の国鉄のパンフを見ると
パーラーカー開放室には、各座席には専用コンセントもついており
電気毛布などの使用も可能であります。と書いてるのよ
電気毛布って、ひざ掛けのイメージかしら。そういうサービスもあったのね 20系のルーメットも各個室にコンセントがあったが電気カミソリ専用だった >>745
その時代は携帯電話なんて夢のまた夢だったし 昨日引退したE4系があるのも不思議
新幹線とは縁がない町なのに
元々新津にあった181系をわざわざ大宮に移転せずにそのまま新津で保存ほしかった >>745
ルーメット以外にも洗面台にはコンセントあったわな
夜行列車の場合朝の身支度できないと不便だが
走行中に安全カミソリとか使われたら危険だからねえ モハ180-115は改造が一段落したらサハ化する予定だったのかモハ181-115を作ってユニット組むつもりだったのか
計画が何か狂ってる 来春で金券ショップで新幹線の回数券販売中止になるんだっけ?
その前に関西の保存車巡りしようかな?
神戸の元151系や後期形0系新幹線を見てみたい 「旅鉄車両ファイル002 国鉄151系特急型電車」が出版された
著者が>>724のホームページの作者
@niftyの@ホームページサービスが2016年終了で後継サービスに移行せず消失してしまったのが悔やまれる クロ150-3は2個用のクーラーキセを途中で切断してるとか外観でも無理矢理感あったな
クハ181-53になっても残ってたがこの車両のためだけに2個用の4分の1を切断したキセを用意しなければならず保守が大変だったはず
1個用のクーラーキセを使うと運転台直後の処理に苦心するのでこうなった? くそダンプは方々で鉄道や世間に迷惑かけてるね、本当に
高度成長期の必要悪とでもいうのか 好き放題やらかしたからこそリミッターがかかって80km/h前後で抜き合いをやっている 70年代はダンプの無謀運転による交通事故が多発してたからね、しかもダンプ業者は孫請けどころか三次請け四次請けとかあって
元請けに賠償請求しても「下請けがやった事だから知らない」と開き直られて泣き寝入り。 関ヶ原越えでモーターが異常発熱したとかあった
新垂井経由の10‰が長く続いてもダメだとは
モーターの巻線が黒く変色してたとか 車体側面のシャッターだが、151系にはあるのに161系以降はなくなったが、なぜだ? 東武乗り入れの1000番台の件、
個室が殺されてるのって投入当初から?
なんで、直通系統で互いに使われてるスペーシアのほうは
個室の設定があるのに、設備のある253系のほうをわざわざ殺してるの? 体面上は車販準備室?みたいだけど
なんでそのまま個室を使わなかったのか理解に苦しむ。
ネット見たら同じ感想の人が他にも居るね。
共通運用してる側のスペーシアに個室が最初から無ければ
この疑問そのものがない。 ゴムチューブの非常口も結局黒歴史だったな
レバーを引くとゴムチューブがしぼんで窓が落ちるやつ
ゴムの劣化で自然落下した事象があった >>761
151系でも後年の181系化後はなくなっていたはず >>766
では元151系のシャッターは181系になった際に埋めたってことかね? それは知らない。
1982年の181系引退時には全部シャッターはなかったけどな。 シャッターらしきものが見えるモハ181は、
ヘッドマークがロールマーク化された頃のしおじの編成の中に確認できるよ。 髭のない元151系の181系はいつ頃まで走っていたのだろう? 181系のボンネットの赤帯はひげとは言わないんじゃね?
あの帯のない181系は新幹線博多開業までじゃね? 終生帯無しだったクハ181-11(元クハ151-11)が、
1975年12月の181系「あずさ」終焉まで運用されていたようだ。 ヘッドライトもウインカーも撤去されたクハ181やクハ180
まあハゲと言われても仕方ないか ウインカーランプって使った事あるのか?
短期間で撤去されてる
バックミラーもあまり意味がなかった ウインカーランプは当時の偉いさんの趣味で付けただけみたい。
「リレーなどの余計な回路を入れなあかん」ということで
設計陣は乗り気ではなかったらしいが。 >>777
模型スレでもコメした事があるが、
20系運転開始時のニュース映画では、少なくとも出発式テープカット時には交互点滅しているのが見られる。
20系、151系は何回か乗車経験があるが、小学生低学年だったのでウィンカーランプまでは記憶がない。
撤去されたのは181系の"あさま"、"あずさ"及び共通運用の"とき"になった分だけで、運転室上部のヘッドライトと共に廃止されたから、ウィンカーランプだけ撤去されたものはなかったのでは?
ちなみに、大宮鉄博保存クハ181-45のウィンカーランプのレンズは異常に赤みが強すぎる赤紫色だが、当時は青紫色だった気がする。
理由は何だったのであろうか?
オリジナルが残っていなくてバストラック用品を転用したのではと推察しているが。 向日町時代晩年の写真では、ヘッドライト残存・ウインカー撤去だね。 >>780
ご指摘ありがとうございました。
山陽特急終焉期までは確認しておらず不勉強でした。 東京から離れた土地での話ということもあってか、
山陽特急終焉期の話は、東北特急や上越特急の終焉期ほどの熱量で
語り継がれていないような気がする。何となくだが。 当時の1/80ブラスモデル、宮沢やKTM初代の181(151)系ではカワイや天賞堂等と異なり、
ウィンカーランプが表現されておらず、エラーとまでは言わないが簡略化が不満だった。
向日町終焉期限定とすれば納得できるかな。 最弱め界磁率35%はちょっと無茶しすぎ
補償巻線がないと整流不良でフラッシュオーバーが多発しそう
威力を発揮したのは163キロ出した高速試験の時くらいか?
他のMT46やMT54搭載形式は40%である >>731
別に貴方個人に言うわけではないが
そういう件、いつも思うんだが
そんなこと言ってたら世界中の個室が個室でなくなってしまう。
提供側が「滞在設備」として提供してるのはそれとして、
それをどう使おうが、
汚損や盗難なく、他の旅客へ迷惑を掛けない限り、
そして個室内完結である限りは、別に構わないんじゃないの?
利用目的に道義を求めるのは日本人だけの特性だと思う。 JR 東150年
1965年のは何番だ?
53だとトイレ窓違うし JR東 鉄道150年ポスターの1965年のクハ181 東海道新幹線に個室が導入(復活?)されるらしいけど、
クロ151にも運転室の後部に区分室があったな。
あれと同じような感じになるのか。客層や料金の想定からみれば。 いや、今度のはお一人様用の個室。
飛行機のビジネスか、高速バスの高級シート並な感じの。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています