総製造数165両高原のポニーC56スレッド
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C56形蒸気機関車は鉄道省が製造した小型軽量テンダー式蒸気機関車で、
1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)までの間に160両が製造された。
製造メーカーは川崎車輛、汽車製造会社、日立製作所、日本車輌製造、三菱重工業の各社である。
このほかに、樺太庁鉄道向けに4両、民間向けに1両が製造されている。
製造年は1935年:C56 1 - 24(24両)1936年:C56 25 - 87(63両)1937年:C56 88 - 121(34両)
1938年:C56 122 - 154(33両)1939年:C56 155 - 160(5両)
C56形は軽量小型でありながら、長距離の運用に適する設計であるために帝国陸軍より注目され、
太平洋戦争開戦直前の昭和16年11月および12月に、製造された160両のうち半数以上の90両 (C56 1 - 90) が供出され、
タイ・ビルマ(現・ミャンマー)へと送られた。
タイへ送られたC56形は当時建設中だった泰緬鉄道の主力機関車として運用されることになる。しかし太平洋戦争が激化し、
ビルマ戦線の戦いも始まった。C56形は、地雷や爆撃・銃撃を受け大破した機関車も多数あった。そのためC56形は、
昼間は運行せず夜間に細々と運行され続けたという。また、泰緬鉄道は突貫工事のうえ酷使に次ぐ酷使で線路が悪く、
橋上で脱線転落し失われた機関車もあった。敗色濃厚となった戦争末期には、鉄橋が破壊されるなどして緊急の退却の際に機関車を連れて行けない場合も多く、
敵に機関車を利用されないために、鉄道連隊の将兵の手によってカマに爆薬を詰められ、機関車を、時には苦楽をともにした将兵も自ら体をくくり付け爆破する「機関車と共に自爆」も度々行われた。
本日で終戦69年目を向かへ、少しでもこのC5644と160が平和の生き証人としていつまでも走り続けて欲しい、永遠の平和をここに願って。 昭和54年に、タイ国鉄725 (C56 31) と735 (C56 44) が日本に帰還することになった。
この2両は数多い出征機関車の中でも特別な存在である。
31号機は泰緬鉄道開通式に使われた機関車で、44号機はタイで使われたC56形の中で、
現地で組立てられた機関車の第1号機関車であった。両機ともに、
ロッドなどの細部の部品がいたるところ他の同型出征機関車から流用・修理されており、その戦歴を物語る。
現在、C56 31は靖国神社の遊就館で静態保存、C56 44は大井川鐵道で動態保存されている。
44号機は、帰国後はオリジナルの姿への復元が行われたが、車両限界の関係から切り詰められた屋根(機関銃を乗せる為)や、
切り落とされた炭水車の一部などにタイ時代の面影が残っていた。大井川鐵道で「SL急行」に用いられ、現在は不定期ながらも現役で活躍中である。 C56には副灯付きは1両も存在してなかったと思うけど、もし装備してたらどんな感じになってたか興味ある。 >>4
シールドビーム1灯化が早かった為だと思われ。
>>5
C56の愛称はそこからだからね、中込駅前に静態保存しているの何とかならんかねぇ・・・ >>3
三菱製(そもそも雄別炭鉱が三菱系)なのに日立の冷蔵庫のCMに登場
♪シュシュポッポシュシュポッポ白い汽車
幸せ運ぶ白い汽車
>>6
小諸の懐古園の144号機を復活させるという話があったとかなかったとか… 小海、飯山、大糸北、七尾、木次、三江、山野線…
大量に徴用されてしまったから、戦後の活躍の範囲は狭かった >>9
それ思い出したぞ、白物家電(冷蔵庫)のCM撮影用にSLの車体全部真っ白に塗り直したんだったよね・・・
現在ならそんなことしなくてもCG処理で済むのになw >>7
マザーグーストレイン用の客車ってどうしたんだろ?
廃車に成ったのならいつ頃?
>>8
可能ですよ、でもフォンスの外からコンデジなら大丈夫。 >>12
ありがとうございます。
8月中に行ってみたいと思います。 戦前は日高線でも使われていたようだけど、それが続いていても
海岸のポニーとは呼ばれはしなかったかな… 簡易線むけには転向が必要なテンダー機って使いづらくて
厄介ばらいとして南方に送られたのではあるまいな 神奈川臨海鉄道の139号機
自走ではないとはいえ、一応動くのが素晴しい
5月のイベントでわざわざ見に行った >>16
そりゃ一応主要部にグリスとか差してりゃ動くんじゃないのw
キャブに家庭用の扇風機があったけど何に使ったんだろ? それに神奈臨じゃボイラー技師の資格を持ったウテシが居ないし、
投炭訓練からやらなきゃいけないし、
今のままじゃA重油も使えないし・・・
第一牽引する客車が無い、これが最大の原因かもな。
問題は山積ですよ。 今から30年以上前に、横浜でC581が走行した時は、
梅小路から研修スタッフとウテシを一緒に連れて来た、
あの時は旧客もゴロゴロ其の辺に沢山いたしな。
とっても気合が入ってたよね。
C56は160号機が汐留で有火展示されてる、あの時は単機で展示で客車は無し。 >>17
あの扇風機、煙突から煙を出すための演出に使ってた
キャブも煙だらけだったけどw >>20
新系列客車も払底、老朽化気味の昨今、大量に出てくるであろう
211系サロは各地のSL用にうってつけではないかと。 東日本はC58を復元するに当たってJR北海道からキハ140シリーズ数両
もらってるんだよな。なんで気動車をと思ったら実は元50系客車だからとかで。
機関とかみんな下ろしていわば先祖帰り化。 >>24
あの元50系51形キハ、エンジンおろしたの?
エンジンは急勾配の補助動力(模型で言うところの「ユーレイ」)に
使うと聞いたが…。 C5631の心霊写真があるらしいのですが、見たことがある人いますか? 靖国神社がどう云う所か知らない人は行かないほうがいいと思われ、
「触らぬ神に祟りなし」 失政により戦争に駆り出され殺された怨霊を鎮めるための施設ですね。 雄別の1001号機は、末期には先輪脱輪で使用休止だったって。 テンダーを斜め切りにしたって、本線逆機運転には速度制限がある。
それに、実際にそれやると裸足になっちゃうことも度々あったようだ。
日高本線から撤退したあとの適地は、飯山線と
快速ちどりで知られる木次線くらいしか無かったんじゃないか? >>33
逆行運転前提にするならなんで1C1にしなかったんだろうね。 >>36
実際に作って、走らせてみて、具合がいまいちだなって気がついた
ってのが真相だったりして? でもテンダ機の逆行運転で速度制限が必要なことも、
それが案内輪の欠如、能力不足によることも、
当時既に周知の事実でしょ。 そういやバック前提の最大のタンク機E10型もそうだったような。
しかも行った所でろくな活躍出来ずだったし。
板谷ダメ 矢岳空転ばっかし 倶利伽羅から挙げ句の果てには米原〜田村用でぶっちゃりじゃ。 本格的に逆行運転させるつもりではなかったのですかね? 蒸気のバック運転って、死重が石炭だからな・・・
当然死重はどんどん軽くなっていって、終いには脱輪にもなりかねんしな・・・
だから大井川鐵道でも転車台新設したんだよな。
大井川はタンク機関車ばかり入線してるんだから、本来転車台は不要なはず
まあバック運転時の見栄えが悪いのもあるが、
やはり重量バランスの問題が大きいと思う。
そりゃ正面向き運転の方が機関車本来の性能が十分発揮できるからね。 逆機運転て言葉はじめて見た
普通逆向というと思うが、最近はそういうのか
C56はメインの効果は入換時の利便性だ
ローカルの貨物混合は各駅で貨車を入換組成していく
タンク機同様に見通しがいいと機関士には助かる
入換専用機としても効果は高いが大量の貨車の組成にはパワー不足
終着駅に転車台がない場合は、逆行で戻るが
客レは戦後まもなく小海線を初めDC化されたので、
主要な逆向走行路線は大糸線・妻線・三江北線・山野線あたりの貨物
どうしてもC56でなきゃいけないわけでもなく、C12でもよかった
だから管理局や現場の好みで四国や東北はあっさり見切られたが、
長野や鹿児島では気に入られた。
明知線や足尾線なんかはC12よりC56のほうが適していたはずだが
C12ですませてしまった。
平坦路線じゃないから速度制限はあまり関係ない
逆に小海線は戦前C12も走っていたが、なぜかC56に取って代わられた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています