蒸気機関車D51を語る
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C62と並ぶ国鉄有名の蒸気機関車D51を語ろうぜ。 >モーションプレートの位置が若干前進
そんな話は聞いたことない。 初心者ですけど、質問です。
SLの走っていた時代も今みたいに正確なダイヤで運転されたいたのでしょうか?
前方が見辛そうですが、停止位置とかもピッタリ正確に停められていたんでしょうか? >>14
戦時は缶圧と動輪上重量の増大が行われて牽引重量増が図られたてるから、
それでC61に使われたのでは? >>16
寧ろ担当車両の決まっていたSL時代の方が
正確だった希ガス >>18
えっ、各車両に担当があったんですか?知らなかった。
レスどうも有難うございました。 静岡市・城北公園で腐食の一方だった D51 146、解体まぬがれる? >>19
明治大正時代ならともかく、D51が走っている当時は各機ごとに機関士が決まってなんかいないぞ。 停止位置は前方で判断するのではなく、横の建物や目標と加減弁操作で行う。
ホームには乗降位置を示す白線や札が目印となっていて、その位置に客車が停まることは
あたりまえだった。機関士は自作のメモ帳や脳内に当日の列車編成と各駅の
ホーム周辺状況が把握され、適切な位置でのブレーキ操作を行っていた。
通勤電車で立ち客が急ブレーキでつんのめったり、位置あわせに後退したりする
ことはは蒸気の旅客の場合ほとんどなかった。万一ずれたときはそのずれたとこで
乗降して調整は行わなかった。
出発時もごとんという軽い衝撃以外は実にスムーズに
転がりだすのが普通だった。(砂まきを強烈にしても時々空転する)
長大編成の貨物の場合は、逆にく急発進してすぐ緩める。すると、連結器が
がちゃんがちゃんと順番に後ろまで衝撃音を伝えていく。これは今のELも同じで
テクニックの一つというか、そういう走らせ方をしないと動きだせない。
天候や人身災害以外で列車が遅延するということも滅多になかった。
どんなローカル線でも首都圏でも客レは秒単位のダイヤ通りで運転されていた。
貨物は当日の荷捌きなどの要因もあり、たまに遅延や打ち切りはあった。 >>22
>連結器ががちゃんがちゃんと順番に後ろまで衝撃音を伝えていく。これは今のELも同じで
テクニックの一つというか、そういう走らせ方をしないと動きだせない。
これは自動連結器が隙間(遊間)が生じることを利用したやり方だけど、バッファがあった
ネジ式連結器ではこういう芸当は出来なかったけどどうしてたんだろ?
欧州はバッファ+ネジ式連結器を後年になっても使い続けてたから機関車に強力なパワーを
持たせることを第一に考えてたらしい。 >>14
D51で空転しやすいのはナメクジだけでは?
だから、少しでも前に重量が掛かるように給水温め器が
煙突の前になった訳で(保守の面での理由もあるが)。
モーションプレートの位置が変わるとラジアスロッドの
長さが変わるから、転用出来なくなると思う。 >>14
標準形というか量産形は改善されたけど、機関区によってはD50の方が使いやすいと評価してたんじゃなかろうか?信越線筋とか北陸線とか、吹田とか。
D51 1001〜は色々不備が多かったから、負け戦になった時点で、ボイラー・足回りいずれかに問題があったのは優先的に用済みにされたからだろう。
で、休車組からボイラーの状態がいいものをC61の元ネタにした。
C61 29はD51 69がネタだったら、ナメクジドームも流用したら面白かったろう。 >>25
D5154のようなC61を想像して噴いたw 戦時タイプなどの「増粘着改造」ってのはイコライザの支点をいじるのと、煙室なんかにコンクリ死重つむって話。
>>14の話のようなモーションプレートの設計変更という話ではない。
>>25 C6129ではなく30だが、ナメクジ由来らしい給水温め器付けてるね。 復活C61 20には死重積めないのだろうか?(スレチ失礼 >>30
いやストーカー撤去したために空転多発、初期の性能が出せてないと聞いたもので… >>31
死重なんていう以前に重量制限ができたので
軽くするために撤去したって聞いたが 軸重を軽減するため?
規格の低い路線にも走ってたっけ? C6120の場合はブレーキ率の算出法が現役当時と変わったため、基準を満たせなくなったためあれこれ苦労してる。
制動力に対して重すぎるのよ。 C6120は現役時代より8d程減量(ソースは鉄道ファンの記事)。
軸配置を考えたらC57より軸重が軽いな。そりゃ空転するわ。 動輪上重量はそもそもC61のほうがC57より軽い。
粘着が効く領域での性能はC57のほうが上。
粘着ではなくボイラの蒸気供給力が効く領域になればC61が有利なんだけど、
復活20番は美味しくなるあたりで速度制限があるからあのざまですよ。 C6120が復活の候補になる前に、横川のD5196の噂もあったけど
ナメクジだとやはり信越線で空転するんだろうか? >>33
C57が運用されている路線で使えるようにしたからああなったけど、実際にはD51が入れない路線には入らなかった。
たられば論になるが、軸重をあと1t重くし、ボアはC55かC59並に広げたらよかった。
>>35
それじゃC54の方がましだったのでは‥‥? じゃあD51が入れない路線に軸重軽いやつを入れて入れようとしたD61なんか6両しか作んなかったしな。
しかも使えない路線を軌道を強化したら使えたからなんて予備で放置するは。ろくな使い方しなかったな。
しかも当時炭鉱がらみの羽幌線とかだけ。ろくな使い方しなかったからとっくに全部解体されてると
思ったら1両だけ保存してるな。 1960年が日本の石炭採掘のピークで、この時期はとにかく運炭列車が大増発されていた。
産業基幹の製鉄や発電に石炭火力がまだまだ主力だった時代で、
黒いダイヤと称されて炭田炭山の開発が極限まで進んだが、
もともと日本の採算性に見合う石炭埋蔵量は限りがある。
60年代に入ると、中東の石油を日本に運べる物理的・政治的
環境が整い、エネルギー転換政策が取られる。
炭鉱の度重なる災害や労働運動なども石炭離れに拍車がかかった。
このため、1960年の時点で国鉄が予想していた事態は、
わずか数年で劇的に変わっていく。
しかも1960年代中盤になると、旅客も貨物も道路事情の改善と
自動車のフレキシビリティが鉄道を凌駕する。
別にSLに限らず、この種の産業革命的な変革を既存勢力が
予知することは不可能。というか、その変化に対応していかないと
淘汰され、取り残されていくだけ。
国鉄内部は本社と現場ではなかなか意思疎通がうまくいってなかった。
局上層部は下からのたたき上げは少なく、本社からの派遣ですぐに移る。
すべて上意下達のお役所仕事に、現場の不満は相当のものがあった。
しかし現場があれこれ細かいところで苦労してみたところで、
国鉄全体の黒字は60年代半ばについに終焉を迎える。
収益はあがらないのに、本社制服組の給料と退職年金が
ネックになったともいわれる。
D61をろくに使わなかったというのは的外れ。
予備で放置していたなんてほんとに最後の最後、炭鉱閉山になってから。
9600では重連でも運べない貨物量を数年間だけでも運んだのだから、
十分意義はあったといえる。 スレチで申し訳ありませんが、D61といえば昭和48年の夏頃、稚内機関区の隅に代用ボイラーとして据え付けられていたのを見たなあ。
あとで写真を見ると6号機だった。もう当時は稼働しているD61は4号のみであとは廃車に
なっていたので持ってこられたのだろうが、はてどのルートで運ばれてきたのだろうか?と考えてしまった。留萌常駐だったので羽幌線を9600に牽かれて? 軸重はともかく面白いがそれはないか、廃車のため本来の所属の深川へ戻り、旭川経由で宗谷本線なんだろうな。
それにしても稚内はボイラーがずっと不調だったのかその後もD51の廃車を持ってきて代用していたようだし、わざわざ運んでくるのもたいへんだったろうなあ。廃車9600でもよかったろうが
ボイラーが大正生まれでは・・・。 >>41
暖房車のボイラーは明治生まれの2120…
ちなみにボイラー代用なんてあちこちの機関区でやってたみたいです 山形にはC59176がおって、炭水補給の時は自走しとった。 ブレーキ云々だとすれば、除籍歴がないC571とC56160、除籍から復活まで1年の大井川のC2は旧基準適用なんだろうか? 当時の基準だと思います。
ブレーキ関係ではないけど、検査期限も国鉄時代からの
カマと復活蒸機では違うくらいですし。 では、C62 3は再復活したとしても、現役はおろか、復活ニセコの走りも望めんわけか。 >>46
籍抜いちゃったからなぁ。梅小路みたく、動態状態の籍有りにしておけば、
当時の基準で運行できた。逆に酉のC62は籍があるので、酉がC62 3号機を
動態にする分には、増備扱いで現役当時の基準のまま復活できる。 >>47
なるほど。
じゃ所有者を酉、使用者をコヒにすれば可能かな?
春夏は北海道、秋冬は梅小路にいるとか。
C61 20もそうすりゃ良かったかな‥‥。
いずれにせよ、今後も復活してそれなりの走りっぷりを見せられるのはC58級以下か‥‥
制動力の算定基準変わったのっていつ頃だったのだろう? 『みなかみ』も、D51はそれなりに頑張って走ってる感じはあるが、C61はかったるそうに走ってるみたいだしねえ‥‥。 厚木の山奥にD51が保存されているが、何であんなところにあるんだろ? >>50
昔は長靴煙突と言われたギーゼル付きの奴だね。
元は小学校?中学校で保存されていたが、学校の移転か改築?か何かで現在の場所に移動した。 厚木のD51は、最初に置かれた小学校跡地が再開発される際、
危うく解体されるところだったという報道があったような気がする。 間もなく負け戦の日
『国破有D51』(臼井茂信翁) 今月の鉄道ピクトリアル?に鎌ケ谷のデゴイチが出てるね テンダーだけ戦時型に振り替えられたのなんてあるんですね。 >>56
これって戦時型にストーカーを取り付ける際にテンダーを振り替えたんだっけ?
話変わるけど戦時型でドームがキチンと標準型に改装された機関車は少ないな。
大概角張ったモノのままが多かったな。 >>60
ドームは戦時型だろうが、使用するには問題無いから。
標準型に角を付けたのもあった。 >>57
標準形+船底テンダは
D51328(D511068と振替)
D51385(D511024と振替)
この2両だけ。 >>61
D52が標準化改装した際はドームも丸いものに変えたな。
D62への改造でもそうだったけどその辺は担当工場の拘りでもあったのか?
>>62
2両とも1024・1068にストーカーを付ける関係でテンダー振り替えしたんだな。
D51のストーカー設置車が常磐線を離れた際転属先の機関区でもストーカーを使用してたんだろうか? 先日、BS朝日の番組で台湾で動態保存されているD51が出てた。 多分可能なんじゃないかな?
DT650(D51)がイベント列車とかいう話題をたまに聞くから。
維持コストの関係なのか、大半はC12が務めてる様だけどね。
余談だが良い番組だった。鉄道関連の遺構なんかも織り交ぜて、
DT650の時に出た日本のD51の懐かし映像に即永久保存したw
標準+スノプラって萌え過ぎ。 >>63
使っていないとは思いますが、1068は糸崎に行ったので
C62で経験してる広島工場は使えるように整備してたかも。 なめくじを動態復活させてたら、4級線(丙線)まで入線できたんだろうか‥‥。 豊肥線や久大線にDF200が入れるんだから、なめくじも‥‥はこじつけ過ぎか。 >>64 >>65
台湾のD51は現時点では静態保存のはずだぞ。
一応、動態保存に向けた準備前だが、動態の際、部品手配、製作中なはず。
ここ2年か3年以内に動態させる予定だったはず。
>>71
現在は当時より線路等級が上げられているから鉄橋など改修されている。
電化路線ならC62など大型機が走行出来るが、運行コストが問題で実現しない。 >>73
DT668は、既に動態化が完了して、夏場を中心に運転してますよ。
今、動態化工事中なのはCT273(C57)。 戦後占領下(サンフランシスコ講和条約締結前でしかも、当該のソ連は批准せず・・・つまり厳密には戦争は終わっていない)
の日本にソ連が樺太鉄道向けのD51を発注してきた(戦時賠償ではない!) は、どういうルートで日本の車両メーカーとコンタクトをとり商談をまとめたのかね?
・・・シベリアに日本人が強制労働で多数抑留されている状況下で日本を独立国として認めていない状況で対等な貿易なんてできたのだろうか? デアゴスティーニの奴、作ってる人はいるんだろうか?
20万円近く払うのはまだ良いとして、
2年掛けて自分で作らせといて未塗装ってのが解せない。
30万円で塗装までやってくれるんだったら、
買って・・・やっても良い(´・ω・`) >>75
対等な貿易というのは本来ありえないわけだが(必ずどっちかが得をする)、
戦後SF講和条約までの日本はGHQがすべてを仕切っていたわけで、
当時ソ連(といっても実質樺太)で産出した石炭、コークス・製紙製材その他
資源(旧日本企業が遺棄した現地工場で内地向け製品にする予定だった仕掛け品を含む)
や製品をソ連産品として日本に輸出し、その見返りとして現地で使用する機関車を
ソ連が輸入するという仕組みを日本の役人がGHQに起案し実行許可が出ただけ。
ソ連側と日本のメーカーが直接交渉したわけではなく、すべてはGHQが間に入り
契約も日本メーカーはGHQとの契約、ソ連側もGHQとの契約で、GHQの管理貿易班が
中抜きをした。いい小遣い稼ぎだったわけだ。 >>76
元々は駅近くの小学校校庭に保存されていたが、
小学校の改修時に解体危機に晒されたが、偶然にも山奥に移転した。 >>79
なるほど。
しかし、国鉄と縁の無かった厚木にSLが保存されているのが面白い。 蒸気末期時代、全国各地に蒸気機関車が保存名目で置かれていった。
その中には国鉄や鉄道とまったく関係無い土地にも置かれた。沖縄とか。 それは、当時の担当者の想いだと信じたい。「今は出来ないけど、壊さないで残してさえおけば、10年先、20年先ののちの世で
は、あるいは・・・」と。 それは、当時の担当者の想いだと信じたい。「今は出来ないけど、壊さないで残してさえおけば、10年先、20年先ののちの世で
は、あるいは・・・」と。 「今は出来ないけど、壊さないで残してさえおけば、100年先、200年先ののちの世で 銀鉄局に牽引機として採用されるかもしれない」と。 (主に螺の運搬用) C53がD50とほぼ共通のボイラーだったように、C59はD51のボイラーを使えなかったのかね?
素人考えながら、戦時体制下ではなるべく共通設計化すべきだったんだが…。 C61と同じものにすれば設計はできるんだろうけども、一軸従台車では支えきらないんじゃないかと。
煙室が長くなって後が重くなりそうだからね。
煙突も蒸気ダメも微妙にD51とC59とでは違うし。当時はあまり共通化しようという発想自体なかったのではないかと。 >>85
498は埼玉の小学校に保存されていたんでしたっけ? 後閑かなんかあの辺では。代わりのEF15どうなった?
吹上の学校はC58 363でしょう。代わりにDE10だっけ? 498復活の為、後閑から搬出
↓
月夜野町「代わりは?」
↓
EF15を搬入
↓
月夜野町「やっぱり蒸気機関車がいい」
↓
EF15搬出、上毛高原駅前にD51745搬入
大体こんな流れ。 D51が入った線で廃線になったのは胆振線と白糠線だけかね? 幌内線
万字線
歌志内線
上砂川線
美祢線大嶺支線
あたりが浮かんだ 今日BSジャパンで男はつらいよを
みたらD51が出ていた。国鉄はすごく
協力したんだと思った。
機関区も出ていた。小樽築港か? 横浜みなとみらいにある車輪のオブジェはD51のでしたっけ? >>95-96
羽幌や胆振は下手したらD51の軸重減らしたやつだが改造数一桁の超希少機である
D61も使ってなかったっけ?。 >>97
当時は普通の情景でも今では珍しい。
貨物列車の緩急車も写っていて列車掛の人、寅さんの後ろに駅員とか忠実に
写っていた。 >>100
D61と言ったら、羽幌か留萌しかないよね。
胆振は聞いたことないなぁ。 >>99
みなとみらいの車輪はD51と何も関係無い。
車輪自体は明治後期か大正始め頃の物で、関東大震災で被災した車輌の。 胆振のD51って買収前の私鉄時代でしょ
胆振線といえば末期の重装備二つ目9600しか知らないけど
あんなところをD51が走っていたのかねえ
たしか晩年まで残っていたD51954がその中の1両だった 横浜は国鉄関係の保存車は本牧のD51しかないんだね。
非公開なら神奈川臨海鉄道のC56もあるけど。 >>104
そのひとつ上の953(D5104)は実質的は国鉄営業旅客の定期最終列車を
牽引したね。
あと大井川へ輸送されるC11227を道内で連結して運んだのも953号。 >>106
国鉄営業旅客の定期最終列車
↑
コレどういうこと?
普通は(蒸気に限れば)C57135だよね? >>108
お別れ運転の225列車は本来D51の運用で
その最後が前日の13日だった
その日はまたC57135がすでにDL化されていた228列車の
前付け有火回送で室蘭に向かいました C58はよく復活するけど、C62が復活しないのはなぜなんですか?
蒸気機関車のメンテナンスができるのは、埼玉県の大宮だけなんでしょうか? >>106
横浜は市電保存館もあるし、市電の保存車は結構あるけど、国鉄車は本牧のD51だけだね。
隣の川崎にも同じくD51があるが、何故か元常磐線の旧客もあったりする。 >>111
全国に保存された蒸気機関車の大半が、その土地と何の関係も無いのが回されて来た。
よほど保存希望の市が特定番号機を指定しない限り、ランダムに選ばれた。 >>110
修復作業や維持管理作業のコストを旅客営業運転などの収入で賄えないので
メリットがない
メンテナンス自体はそれほどネックではない
カネさえ使えばなんとでもなる
北海道の3号機も企業からの協賛金がなくなったので動態を断念した >>112
生田のD51は新鶴見在籍だったから、地元と縁があるともいえる。
旧客もすぐ近くを走る小田急の乗り入れ先になる(今のところメトロ車だけだが)路線だから、縁があるともいえる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています