懐かしの私鉄貨物・私鉄機関車について語るスレ
大手中小問わず過去帳入りしたやつでも、今現役のやつでもおKです。 >>318 鼻紙さんにイベントで訊いてくれ!多少 誇張、ふ化しもある鴨試練が・・・
>>360 老朽(手入れ出来ない→崩壊危険)?固定資産税?
阪和の生き残りも? E851が廃車になったのは更新とメンテに金がかかるのと乗務員の養成に手間と金がかるから >>320
>>323
佐野線はかつて変電所容量に余裕がなかった
200系導入当初は桐生線方面への運用指定
佐野線直通には1800系のみ運用していた
DRC更新のオールM車200系と
重連電機とか3050系など釣掛車や
8000系ベースの1800系
とでは電力消費量に差がある >>359
芝浦・汽車のマイナーチェンジで
車体を内製に変更して、ボンネットの角をシャープにした
戦中から戦後にかけての製造だから
いろんな部分に無理があったとも(粗悪な部材・部品)
東武では台車交換してる(他も多かれ少なかれ改造されてる)
早いものだと1960年代には引退してる(大半が70〜80年代)
・奥多摩電気鉄道1021(発注時)→国鉄ED37 1:1963年
・西武1(2代・無車籍)→栗鉄ED351(初代):1969年 東芝戦時型の板台枠台車は一部では評価低かったみたいだね。
西武の様に受け取らなかった会社もある。 ここで語るなら、やっぱり北陸鉄道の電気機関車たちでしょう。
細かな形式名とかは省くけど、どれもこれも、機関車なんだか電車なんだか電動貨車なんだか、わけのわからないのが揃っていた。
金石線のEB 301なんてのは、見かけは凸型EDの電気機関車なんだけど、実は動力は2軸だけだからEBで、馬力がないから、貨車を数両牽くのにも空転したり、それでもなんとか動くんだけど、ブレーキをかけると貨車に押されてそのまま走っていたり…だったとか。 連投スマソ。
あと、やっぱり越後交通長岡線でしょう。
おっそろしい数のタンク車を重連で牽く貨物列車があった。 言わずもがなだが、長岡線沿線に巨大な石油化学産業などない。
石油製品は、季節による輸送量の差がけっこうある積荷らしい。
どうしても輸送量のピークを賄うだけの数が要るので、逆に暇な時期には遊んでいる貨車が発生してしまう。
そこで、越後交通は、「廉く預かりましょか?」とタンカーのオーナーに営業し、回走車を留置しておく商売を手掛けた。
だから毎年、輸送がピークとなる季節の前に物凄く長いタンカーの貨物列車が走る。
勾配らしい勾配はないし中身はカラなので、小さな機関車でも牽けた訳だ。 長岡線は、旅客営業が貨物より先に廃止になり生き永らえた珍しいケースだな。
栃尾線の209も機関車の様な電車で変態車両だった。 現存する貨物専業の中でも
岩手開発鉄道、福島臨海鉄道、西濃鉄道や
専用線に戻った三池鉄道なども
かつては旅客営業していた 長岡線は1500v昇圧後、来迎寺線(来迎寺〜西長岡)では
電車列車が無く、機関車牽引のミキスト(貨客混合)に
モハを電装解除した客車(ホハ)を使用していたのだが
架線から電源を取るためにパンタを温存していた >>368
寺泊線は日進までしか定期貨物列車(明星セメント)が無いのに?
なぜか越後関原まで路線があったのは?
石油タンク車を疎開留置する目的だったのか・・・(名ばかりの常備駅)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E9%96%A2%E5%8E%9F%E9%A7%85 >>368
あけおめ。
ありがとうございます。あのおっそろしい輌数のタンク車の事情を今初めて知りました。 >>372
季節波動があって、石油類(ガソリン除く)専用 だから、
灯油を運ぶ貨車ってことだったんだろうな。 越後交通長岡線の数珠繋ぎタンク車保管 アレ 廃止前雑誌レイルマガジンで観た覚えあるけど、
本線上(休止区間だが・・・)塞いでいた感じだけど。
途中踏切とか無かったの? ソコだけ分割? 駅構内と違い目に触れにくい場所だから
転動防止(設置した手歯止めが、風で飛ばされたり、地震やイタズラで外れたり)とか
落書きイタズラ対策や広大な平野での貨車そのもの突風転覆とか懸念なかったのかね?」 長岡線はYouTubeに動画が出ているのが良いですね。
青い箱型電機の台車の間に何も機器がぶら下がっていないのが新鮮。 戦後電化の長岡線は何故再度昇圧なんて面倒臭い事したの?
そんなに貨物需要が増えたの?
定鉄から来たEF58もどきのED5101、5102に長野電鉄を追われてきた ED511,512は、
再度奴らが越後交通に追いかけ来て仕事を奪われてどんな気持ちだったのだろうか? 昇圧の動機といえば、電圧降下が深刻で起動電圧が確保できないとかですよね。
距離が長い路線や、変電設備の場所が悪い路線とか。
越後交通は元々資料公開の少ない所ですから、事情がわかりにくい。
田中角栄の会社ですよね。研究対象としては非常に面白い。
角栄カードと言うチートがいつでも切ってしまえるが、わからない物事にそんな安易な説明など糞食らえw 鉄道単体で合理性を読み解けないなら対外的な事情で解釈すると通りやすい
昭和40年台半ばは路面電車と地方ローカル線の廃止が国策として推進され始めた時代で
近代化・合理化するなら費用を助成して欠損補助も継続、しからずんばバス・トラックへのモード転換を指導するアメとムチが振るわれていた
この頃に妙なムーブを見せた鉄道会社は、存続になお意気軒昂という国へのアピールが多分に含まれている
当時これからは自動車の時代と考えたのは仕方ないが、オイルショックが来ても基本方針見直さなかった運輸省は本当クソ
それから、日産化学の工場は天然ガス産出を囁かれて長岡に立地したが、ガス産出が不調で貨物輸送で調達する羽目になった
臨海地区以外に作られたこの手の工場は輸送コストで苦しんでいて、ましてトラック輸送なんかになったら閉鎖しかありえなくなる
設備更新して鉄道を絶対やめませんよという日産化学への保証の意味もあったのではないか? 越後交通長岡線は貨物専業でしばらく延命できるといわれて、
すぐ撤退したな 20年間がすぐという感覚には同意できかねますが・・・。 養老線が国鉄のバイパスとして機能したというのは本当なの?
運賃余計にかかるでしょ。事務手続き無視できないでしょ。
木曽三川の橋梁が落とされることを心配した時期であれば判るが、それでも現実には落ちていないのだし迂回は行われていない。
本気で迂回要請するとしたらD51の入線は必要だろう。
都市伝説ではないかと思うのだが。 少なくともその「支障時の迂回運転」という意味のバイパスでは誰も言ってないだろw
知っている末期について言えばセメントを大垣側から運び入れて桑名のセメントステーション止
東海道線〜関西線と回らなくていいという意味でのパイパスではある
国鉄〜養老線〜国鉄という通り抜け形態があったかは俺も知らんので詳しい人に任せる 国鉄に二箇所以上で接続する私鉄であれば、バイパスと言えてしまう。
桑名と大垣の間には、ポンポン船による川船輸送があり養老線と激しく競争したと見られる。
この川船は江戸時代にはなお盛んで、木曽三川分流で衰え始めたらしい。桑名大垣間は残された最後の動脈だったんだろう。
だから、両都市間を結ぶ流動はあった。
それを国鉄線をバイパスしたとは言わないだろう。 元々川運として存在したルートだからバイパスではありえないなんて言い出したら「おまそう(お前がそういうならそうなんだろう、お前の中ではな)」事案では
俺の定義では笹島や名古屋経由で東海道〜関西線を走る貨物列車がD51牽引で養老線を迂回ルートとして使った実績がなければバイパスとは認めん!とか
なんで極端な独自定義ばっかりなの…
やるなら、国鉄(大垣)養老線(桑名)国鉄と短絡線として利用する輸送形態があったか否か、あたりの争点の検証にしないとな
自分の中で結論が出ていて質問の形で押しつけるなら自分のサイトでやってくれ 382の最初の二行で貴方が言う争点はでている。
で、実際に通過した車票が存在するかどうか、という問題な訳だ。 ED22の一党は格好いいですね。
松電ED301が貨物列車を牽く写真は珍しいが、ネットに晴天の下で北アルプスの峰々を望みつつ走る画像があった。
惜しいことにピンボケ気味だが素人の35mmフィルムでは仕方がないか。 松本電鉄は、元々貨物なんて無かったんだな。
戦前から荷電で済む様な量しかなく、ダム計画が立ち上がってからED301を調達。
ダム関連輸送で新造機二両を投じる。
工事完了後すぐに新造機を売却。
ED301だけ残るも、その後数年で貨物列車自体が廃止になる。
機関車牽引の貨物列車は十年ほどしか走らなかったのではないか。
そりゃ写真は少ない訳だ。 Gメン75で犯人が、凸型電気機関車の牽く貨物列車に掴まって逃走を図ろうとして振り落とされたシーンを覚えているが、あれは松本電鉄かな? ミテェw
検索しても、それっぽい話は見つからない。松本ではないのかも。 調べたら、秩父鉄道のデキ1型という情報が出てきたぞ・・・・・・? >>389だがスマン
当時小学生のガキだったが印象に残っている
長野の設定だった記憶もあったが秩父なら合点がいく
Gメンの時代だと松電は貨物止めてたろうし
確か劇中、車掌から(犯人が列車に乗ろうとした?)連絡あった話も刑事がしていたような
>>390
>>391
サンクスです 松電の前面展望映像見ると、松本から島々に向けて勾配登りっぱなしなんだね。
こりゃ国鉄から引き継いだ貨物列車も分割して運ばなきゃいけない訳です。 西武E21型に関する、元運転士の書いたブログの内容が興味深い。
西武鉄道って堤氏支配が崩れてからは他の私鉄よりも緩くなった感じがする。 松電は森口駅よりチップ輸送があったらしい。
数両のトラ90000がED301に牽引される定期貨物列車になる。
ダム工事終後も数年間残ったというが、写真が見つからない。
絵になる列車であっただろうに。 60年代本は手に入れられましたか?
モニターで見るのとは違う、印刷の良さを改めて考えさせられます。 豊橋鉄道のED401の写真をじっくり見ていたら、側面に折線が見えた。
仔細に見ると、乗務員室の所から妻板、デッキに向けて幅を細く絞り込んでいる。
単にお面に丸みがあるだけではなかった。微妙な折り目だが車体を作るには神経を使っただろう。
東洋製だが、相模鉄道や三岐などには見られない。強いて言えばED57やEF58に近い。 豊鉄デキ401って嫌いだったのよね。
名鉄デキ401と番号被るじゃないですか。
せめてEDのままで居てくれたら。 機関車が数両の二軸貨車を牽く。ただそれだけでいい。
もう見る事は出来ないんですね。 :::::::::::::::::::::``ヽ
:::::>>::::::::::::::::::::\
::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
::::::::::::::::::::::::::l:::ヽ:::::::ヽ
:::::::::::::::::::::::::|ソノ`ヽ::::::ヽ
:::::l/,,;;;;;;;,.ヽ::::l
:::::::::::::::::::::::ノ''゙゙___ ゙゙ |ノ
:::::::::::::::::::ノ <● > \
:::::::::::::/ ヽ
:::::::::::ヽ , `ヽ
::::::::::::::`、 (._ ,,, ノ
ヘ::::::::::::::| ,,,,ヽ._
`、::::::::ノ ゙゙゙/__)
、 '、:::::ヽ \_)
ヽ、 `ヾ'''゙ ,´
\ |
ヽ、 ノ
`` ?---? 'い
https://twitter.com/ibuki_air
09058644384 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ どこかに小さな電気機関車が現役で頑張っていないかなぁ・・・ 名鉄の貨物列車があって、機関車の好みで撮らずに見過ごしてしまう事もあった。
戻りたい。自転車で追いかけたものだ。 私鉄の電気機関車は凸型がいい。私にとって箱型は凸型の添え物。
日鉄自の凸電と東芝戦時型を比べると、よく似ている。
同じ時代の製品で、重量別に製造所を指定するなど割り当てでもあったんだろうか。 >>405
発注枠の割り当てはあったよね
発注枠を譲渡した例として三井三池紘務所→弘南のED30(現車は直接弘南に入線)なんてのが有名かな
そういやこれも日鉄自製やね 三岐の凸型が保々駅に降りてきている。定期検査だろう。
普段は見ることができない機関車だ。 私も始めて見ましたが、形式が読み辛い程の汚れようでしたよ。
セメント袋を頭から被ったような・・・実際被ってるんですねw 近江の電気機関車が本当にヤバイらしい。
公開日は明日含めて2回しか残されていません。
明日、ひょっとしたら最期の見学に行きます。 オープンは土曜日だった・・・
最終日も土曜日で、ということはもう入れないってことか。
社員を休日出勤させる訳にはいかないのだろうが、収益のない事業を企業に負担させること自体が無理があった。 東芝凸電の30〜35トンクラス、模型ででないかな。
全幅など寸法が全体的に小さいらしく40トンを切り詰めても無理。
数が少ないので無理だろなあ。 三岐の貨物列車を見た。
通常午後の列車から運休もあり得る所、日没時に見た。
セメント工場は正月も休まない。煙突から白煙を上げている。
需要は旺盛と言うことなのだろう。
ただし積雪がある時期は鉱山は作業中止で、貯めてある石灰岩を使うそうです。 ロータリーキルン自体がそう簡単に止められるものではないんだろうな。
その代わり春ごろに長期止めるんだけど。
セメント関連で、
西武のを東武が買うかも?の話出ていたが、
買ったらついでに軌道強化もしたのだろうか?
東武は軌道の規格が低いから石油列車でも重いのが入れなくて、
人気のない38000をやむを得ず使っていたし。
軌道強化出来てたら43000に置き換えられていただろうな。
(他地区は40000や43000を充当していた。)
西武は西武車籍のテキ401は43000と同じ台車だった。 東武は貨物扱い多かったのに機関車は小柄なのばかりだったね それは蒸気機関車により側線など地上側設備がすべて整ったからでしょう。
そしてその拠点の数が他社よりも断然多かった。
一両づつ蒸気機関車と同じ性能で運用を代わることが出来れば良かった。 東武の重連はいつ頃に始まったのかな。
成田の建設資材輸送から?それよりも遡りますか? 遅レスになるが、
>>382
定義の近いやつで、
秩父鉄道を介したものもあったのですかね?
八高接続の寄居〜籠原(後に熊谷タ)
通り抜ける輸送自体有るのか疑問だけど。
東武の東上〜伊勢崎甲種送り込みの通りぬけの実績はあるようだが…。
(自信なし)
養老のは西大垣発着が最後の様な気がするけど、
これが発送先が桑名方向、大垣方向にも存在してたとしたらおもしろい気もする。
(大垣方向が末期までかと) 【告発者の名前と住所】
◎宇野壽倫 連絡先:東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202号室
還暦無職・生活保護不正受給犯罪者の色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)はアルバイトをしていながらそのことを内緒にして申告をせずに
不正に生活保護を受給しています。「糞アリ貧乏人どもは一生死ぬまで汗水流してせっせと働いとればええんじゃい。おんどれら糞アリ貧乏人どもがちゃんと働かんかったら
ワシが遊んで暮らせんじゃろうが〜。ボケ〜。カス〜。アホンダラ〜。」が口癖で「金や金、金持うて来い〜。どアホ〜。」といつも大声で叫んでいるようなとんでもないクソ野郎です。
こんなクソ野郎の思い通りにさせてはいけません。みなさんどんどん匿名で役所や警察に密告してこのクソ野郎が遊んで暮らせないように人生の厳しさというものを徹底的に教え込んでやりましょう。
生活保護が受給されなくなった時点でこの犯罪者クソ野郎の場合は自殺するしか他に道がないでしょう。 こんな犯罪者クソ野郎をのさばらせていては世の中のためになりません。
このような犯罪者クソ野郎が存在していること自体正当に生活保護を受給している人の迷惑となるでしょう。
まずはこの犯罪者クソ野郎に渡ってしまった我々の大切なお金を取り戻しその上でみなさんの力でこの犯罪者クソ野郎を自殺へと追い込みましょう。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
色川高志 (あいかわ たかし)
〒125−0062
東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室
【色川高志という人物も生活保護受給者でありながら申告せずに内緒でネットストーカーなどのアルバイトを
している生活保護不正受給犯罪者です】
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111 貨車の運用は難しいですね。十数年経てば運用も変わって行くというのもあるかと思います。
養老線経由もあったのかも。
遡れば鉄道国有化前は大量にあり、その運賃計算が煩瑣であったことが非効率として槍玉に挙げられています。
だから、習慣として普通にあるけど嫌がられてはいた。
地方私鉄の貨物扱いもそこが起点となると思います。 名鉄の工場に青い凸電がいた。デキ300型だろう。
遠くからはよく見えるが接近はできない性悪な場所。
青い凸電は美しい。 >>415
電鍾踏切をメインに見に行ったが、余った時間は東藤原で入れ替えを眺めていた
昔、近所で入れ替えや突放を嫌というほど見てたから、なんか時代を感じたわ 突放ともなると事務所から5人ぐらい、出てきますよね。
無線機のない時代は手旗信号でさらに大変だったのだろう。
無形文化財に指定してほしい。 三岐西藤原駅にいます。
当たり前の様で、希少な事になってしまった。 臨海の操車場で子供を抱っこして入替を見物してたら、汽笛鳴らすは機関士さんと操車さんが大きく手を振ってくれるはサービス満点。 世界の鉄道‘69は素晴らしいな!
当時の私鉄電機を網羅するんだが、貨物列車牽引中の写真が多い。
形式写真風の方が撮影は簡単なんだよね。
国鉄をも含め編集方針として、当時の朝日新聞社の力で写真を集めたんだろう。
一般の編集社では難しいかも。 ああどこかに雑多な黒貨車を索く私鉄の電気機関車が走っていないものか。 >>430
子供の時に国鉄の運ちゃんがそんな感じだった
DD13の運転席を見せてくれたよ 名古屋臨海の機関庫の中に入れてくれた事がある。
休日で誰もおらずシンと静まり返る庫内にDD13の中古や同系が数両。大きかった。
職員は外でヘチマか何か、菜園いじってたな。 秩父鉄道見に行きたいけどなあ。
関東に住んでいれば割と気軽に行けるんでしょうけど。 >>439 秩父鉄道見るついでに、西武池袋線の旧保谷車両基地にある5号蒸気機関車とE11形電気機関車を見学されてみては。
シートが外されたまま1年近く置いてあるから、毎朝これを眺めながら通勤している。 441続き、だが、この2台の機関車いつまでむき出しのまま屋外に置いとくのだろう?
横瀬車両基地に入れるスペースがないのだろうか? でもやがては何らか手を打たねばならなくなる
売れるうちに売ってしまった方がいい 三岐の貨物列車を見送ると、それが当たり前のように感じてしまう。
日本中見渡しても残り少ないというのに。
今日は撮り鉄を三組以上見かけた。多い方だと思う。 伊吹山の石灰工場跡地、いぶき501、502の棲家に行ってみた。
話の通り、すごい片勾配で驚く。工場が坂の上だと言っても灰など材料の搬入もあっただろうに。
ホキは六両が限度であったみたいだが、発電制動をフルに活かしての運行だったのだろう。 資料見ているうちにふと思ったんですけれど、私鉄などの小規模な貨物取扱駅で、
( 貨 物 ホ ー ム )
側線側線側線側線側線側車止
側線
本線本線本線本線本線本線本線本線本線本線
側線
車止側線側線側線側線側線側
みたいな感じで、機回し線と違い側線同士がつながってない構造が時々見られます。
つなげずにわざわざこういう配置にするメリットは何なのでしょうか?
下の側線なしなら「ポイントを減らせる」というのがあるでしょうがこれだと結局2ついるし。 いくつか理由は考えられますね。
例えば駅全体に緩やかな勾配があって長期間の留置に向かないとか。
棒線の側線は上下いずれかの列車しか荷扱いが出来ません。何からの理由で上下列車ともに荷扱いしたい場合は相反する棒線一組という形が合理的なのかも。
貨車は人力で動かせますし、ローカル線であれば数時間の作業時間ぐらい取れるわけです。 >>448
片側だけだとポイントが1つで済む代わりに分岐側の方から来た列車の場合、
機関車が邪魔で入換できないというのは分かるのですが、
最初から下記のように配線すればどっち側からも機関車で入換できるはず。
( 貨 物 ホ ー ム )
側線側線側線側線側線側側側線
側線 側線
本線本線本線本線本線本線本線本線本線本線
機回し線や行き違いの側線なら有効長による問題もありそうですが、
こういう小さな駅の貨物側線ならそんなに長くする必要もないでしょうし。 まず、両端が本線につながる貨物側線は意外と多かったですよ?
その形態から上下列車の交換ができる待避線と混同しているのでしょう。
貨物側線には出発信号機が無くて、貨物列車として駅を出ることは出来ませんでした。
次に、側線で一番怖いのは貨車が勝手に本線へ飛び出す事です。
車輪止めなどを設けるわけですけど、入り口が一カ所しか無ければ、そこに向けて勾配を設ければ安心できるわけです。
分岐器を二個以上設ける余裕があるのならば、枝線の先で分岐させておいたほうが使い勝手が良いでしょう。
上下列車ともに入換できることは、ほとんどメリットとして認識されなかった模様です。
大物では神戸港臨港線が、東京行き上り貨物列車しか荷扱いできませんでした。
接続する本線が早くから複々線化されており下り列車の本線を横断しての入換が禁じられていました。
他の駅でも、列車本数が多い東海道線など本線横断を禁じられていた意外な駅は多かったと思われます。
拠点駅と呼ばれる駅で折り返す運用をしていました。
東海道線でこの有り様ですので、いわんやローカル線と来たら。 入換はその駅で行わずとも良いわけです。
その駅に着く前に、機関車の次に到着貨車が連結されておればよい。
本線上で機関車と到着貨車が一往復すれば側線へ押し込めます。
側線に出発貨車があれば二往復すればいい。問題なく列車に出発貨車が収まる。
棒線の側線を持つ駅が複数連続している場合も、機関車と共に列車から切り離す貨車の数が増えるだけで問題ないですよね?
上り列車で押し込めない駅の分は、拠点駅で下り貨物列車に丸ごと託せばいい。
盲腸線であれば行き帰りどちらで仕事してても良いわけです。 難しいように思えますが私鉄であれば引上げ線有効長まで暗記している筈。
新パターンなど無いだろうし、新たな取扱品目があれば全社的な検討でしょう。
ルーティンワークだと思います。
国鉄の作業量は気の毒ですが。
貨物取扱駅の集約が進むわけですし、全面廃止に至る訳です。 >>446
彦根にあった住友セメントの側線も急でしたね。石灰石積載のセキ10輌の押し上げにED14が活躍したという… 近江鉄道の貨物は判らない事が多いですね。
そのピークは僅か10年程。
多種多様な内容が魅力であり、謎でもあり。 近江鉄道多賀にはホキ5500というバケモノもいたらしいんだけど、何せ田舎なので記録が有るのか無いのか… 巨大貨車ホキ5500型確認しました。確かに多賀駅にいた記録がありますね。
三軸ホギーの巨大貨車が盛んに試作されていた時期の国鉄には、勢いとともに危機感を感じます。ホキまであるとは正直、知りませんでした。
もう一つ。多賀と彦根のセメント工場の経歴の複雑なこと。
セメント会社もいまの太平洋と住友に寡占化される前は様々な企業があったのですね。
伊吹山の大阪セメントが昔は大阪窯業セメントと言う素敵な名前であったことぐらいは承知していたのですけど、ホキ5500型を調べていて出てくる企業名の多さや改名、事業譲渡など変遷の複雑さときたら・・・。
統合後の住友セメントで述べることが一番問題が少なそうですけど、1960年代を述べるときには住友ではないし、正確な記述は難しい。 ホキ5500型は東洋セメント(当時)多賀工場開設とほぼ同時に落成しており、多賀工場には対応した積載設備があったものと思われます。
降車は車体中央一箇所でしょうから特に問題はないのかもしれません。
彦根工場の運営者には野沢石綿セメントという素敵過ぎる会社が出てきます。
今振り返ればすごいネーミングですけど、危険性が明らかとなる以前は誇らしげであったのか。
年代的に野沢石綿セメントの企業ロゴ入りホキは難しそうですね。袋詰めセメントの時代の筈です。
多賀工場は野沢石綿の手で企画開発され、操業寸前に東洋セメントという運営企業を設立しています。
それらまとめて住友系へ事業譲渡する事になり、滋賀興産という企業を立ち上げています。
ところが、いま元大阪セメント専用線の伊吹鉱山を管理する企業が、滋賀鉱産。同音異字の別企業です。ああややこしい。
東洋セメントはホキ5500型に企業ロゴを記した可能性が高いですね。
模型鉄としては、野沢石綿ロゴのホキを想像してみるのも楽しい。 一応地元民にとって、とても興味深いお話です。
野沢石綿セメントといえば、ハッチが2列並んだ日立製のタキ7300もあったようですね。
近江鉄道がセメント輸送で賑わっていた時代、見てみたかったです。