【酒盛】懐かしの常磐線【列車】
>>357
我孫子駅で大阪から転属してきたオレンジのモハ72を見たときは感激した。
古いのにフレッシュなイメージだった。 >>358
首都圏で見るモハ72は茶色ばかりだったからね。 >>358
我孫子で113系ブルーライナーを見たことがある。
こちらも大阪からやってきた車両で、とても新鮮味があった。 国鉄時代は全国規模の配転が有ったから面白かったね。 ボンネットでそろえられた頃の485系
門ミフ、鹿カコも見かけた 103系も色々なところから転属していた。
大ミハのイエローは福知山線短編成化で捻出した代物だった。 西ナハからの転属車もあった。
いきなりこき使われて、びっくりしたと思う。 かなり以前から常磐線の酒盛りは見られなくなった。
昭和のモーレツサラリーマンも既に鬼籍に入ってしまったのだろうか? なんだろうね。地下鉄サリンや阪神・淡路大震災の1995年位から世相が変わり始めたのかな。
1984年位の常磐線はドゥテルテ大統領みたいな
団子っ鼻のフィリピンパブのお姉さんがよく乗ってた。 >>367
たしかに。
それにしても団子っ鼻の姉さん等
とその同郷らしき男達は
とにかく香水臭くて鼻がもげそうだったの思い出したよ おお、分かってくれるかね? あれは香水だったのか、それとも体臭だったのか分からん。
そうだあれはフィリピンパブじゃなくて
フィリピンダンサーと言っていた。
フィリピンパブ好きの友人に、よくあんな
団子っ鼻お姉さんのとこに行くよなって言ったら、それは昔の話で今はフィリピンの選りすぐりの別嬪さんばかりだと言っていた。因みに
2008年リーマンショックで原油相場が暴落
した時は産油国ロシアが経済危機になって
ロシアンパブにお蝶夫人のような
お姉さんがよく居たという話だ。 5月3日は三河島事故から60年だ。
あの後常磐線では大事故は起きていない。
コレをずっと続けてほしい。 >>369
体臭の上に香水をぶっかけて
マスキングしてんだけど
更に臭いという結果になったというね(笑)
そして。男たちは
裸に粗メッシュのシャツ?を着るから
更に臭うのよね(怒)
車両変えるよ 最近の常磐では名物だった酒盛りが全く見られなくなってしまった。
コロナが収まれば復活するかなあ・・・ 何故か常磐線のイメージが強いが、酒盛り客は宇都宮線高崎線にも普通にいた
上野駅でビール売るバイトしてた俺が言うんだから間違い無い
ただ昔は宇都宮線高崎線系統はライナーがあって飲みたい客はそっちを選ぶ傾向あったので
相対的に常磐線が目立つ面はあったかもしれない
今は上野は始発駅ではなくなった=席の確保が難しいから
品川で酒類売るとかを始めないと、コロナ収まっても酒盛りは復活しないと思われる ではもう少し待ってコロナが収まったら、品川駅ホームで大々的に販売を初めて、
常磐名物を復活させよう。 >>374
是非。
車内販売でアルコールとおつまみも売ってほしい。
更にドアにはのれん、車内には赤提灯もほしいところだね。 仏つくって魂入れずの言葉があるけど、フィリピン団子っ鼻お姉さんとドゥテルテ大統領にも
品川から乗務してもらわないと、往年の雰囲気
は出ないよ。
それから役者的時代的には80年代半ば、
都内に、大学?専門学校?浪人?ただのブラブラ遊び?で、横浜銀蝿崩れの格好したとっぽい
振りした兄ちゃんと、幼馴染みと思われるお姉さんが乗っていた。多分茨城あたりの大分引っ込んだところの農家の道路建設の土地買収とかで小金が入り、子供を東京にやる余裕が出来たのだろうと想像するが、彼ら自信が想像する都会なるものに置いて行かれまい、流されまい、
とお兄ちゃんたちがお姉ちゃん達に強迫的に見栄を張り強がる様子が見て取れて、傍で見ていてちょっと滑稽であった。お姉ちゃんも都会的な短いスカート履いてでも座った脚の嗜みを知らずに、これまた品のないピンクのおぱんつが見えたりしてて、高校生の俺は瞬間ピンコ立ちになる所が何故かおぇぇとなってしまったあれはなんなんだろう。 電車で呑むのがそんなに楽しいか?
揺れるしうるさいし狭いし。
店でゆっくり腰を落ち着けて呑む方がよほど美味しいだろうに。
わからんっ! >>381
人はそれぞれだからね。
当方は列車で呑むのが楽しい。 かつての常磐で酒盛りを楽しんでいたモーレツサラリーマンもほぼ鬼籍に入った頃かな。 常磐線内で酒盛りを楽しむ次世代が登場するまでにはもう少し時間がかかりそうだ。 常磐線内で酒盛りって
グリーン車と特急くらいだろ?
あとは快速で
ペットボトルホルダーにストロングチューハイいててつり革に捕まりながらフラフラしてるドカタのおやじとなぜだか35くらいのOL
あれ不思議なんだよなー
笑笑笑 >>386 今は知らないけど、80〜90年代、現場作業員のグループがボックス席占領して酒盛りやってたのをよく見た。
東北線、高崎線でそれほどでもないのは、東北・上越新幹線開業まで上野・大宮間が過密ダイヤで、夕方の上野発中距離列車の本数が少なかったからでは。大宮まで京浜東北線で行って中距離に乗り換えろという、大宮以北通勤者にとって酷なダイヤだったから。
それに比べれば、常磐線は上野発中距離が夕方下りでも比較的多かった。 酒盛りしてたのって
だいたい北千住~松戸で降りていくよね いや、もっと遠くまで帰るリーマンが多くいた。
土浦あたりかな。 E501はお便所なかったけど、あれは酒盛り族に対する嫌がらせだった。
今はついてるけど。 >>266
あれってメインは「我孫子~取手複々線完成記念」の記念切符なんだよね。隅に小さい文字で「特急取手駅停車記念」と書かれてた気がする。 >>391
あの複々線はなんだったんだろう。
天王台の住民が騒いだため、快速停車が継続したのが原因だけど、その時点で計画中止で良かったんではないか?
今では土休日運休。平日もあの程度の本数ならば、各停の快速線乗り入れ、百歩譲っても単線でも用は足れたと思う。
オタ的には小田急の電車が茨城県に乗り入れるのは楽しいけど。 時刻表1980/03から、1500以降の上野発下り普通
1513(425レ):平行
1636:草野行
1711:高萩行
1730:高萩行
1743:勝田行、休日運休
1810:勝田行
1828:高萩行、休日運休
1839:勝田行
1908:勝田行
1935:高萩行
2017:高萩行
2123:勝田行
2232:土浦行G連結
2324:勝田行G連結
上野→日暮里→松戸→我孫子→取手の順に停車 >>393 82年頃だと、取手以北まで宅地開発がもっと進む、常磐線の利用客が増え続けるると予測されていた。科学博(85年)が始まると常磐線パンクすると言われてたし。
バブル前だからね。そのうち秩父まで東京からの通勤系内に入ると予測されてた頃。
当初はラッシュ時のみの緩行線運行でも、将来は日中も運行する予定でいたんでは。常総線電化が議論されてたのもこの頃だな。
そのあてがバブル崩壊で弾けちまったわけで。 取手から103系1000番台が4両編成で水海道まで乗り入れる常総線、というのをふと妄想。
先頭車増やさなくちゃならないか。営団6000系の4両編成も造られてたか? >>393
小田急4000系と関鉄の気動車がこんにちわする光景は楽しいね。 緩行線平日昼間や土休日、関鉄の気動車を我孫子まで乗り入れるのはどお? 昼間は過去にはtryZの実験線として使っていた時期も有ったんだけどね。
あの時の閉塞はどうだったのかな? 昭和40年代前半に四ツ倉-岩沼も複線電化を実現して欲しかった。
そうすれば日中の上野-平-仙台/盛岡/青森の急行・特急も現実より本数が増やせたと思う。
夜行の『十和田』『ゆうづる』もあと1-2本は増発できたか。 >>393
天王台駅を快速通過にするのはもはや無理だが、たらればで考えると
@天王台駅開設を複々線化時に行う。
A総武線の錦糸町〜津田沼複々線化時、快速は津田沼止まりが多く、各停が千葉まで行っていた。
(一部千葉や房総直通の快速はあったが)
複々線化時天王台駅を設けたと仮定しても、同じように我孫子までの複々線化時は快速は我孫子止まりで、
各停を取手まで直通すべきだった。中距離電車や、一部の取手行き快速は天王台通過。 >>403
天王台快速実現に向けて天王台人民が決起大会を開いたとき、機動隊を投入して解散させるのもひとつの方法だった。もちろん悪質人民は逮捕 昭和57年(客車列車が撤収)の時点では普通列車は三河島,南千住,北千住,天王台は通過していた。
普通列車
上野-日暮里-松戸-柏-我孫子-取手⇔水戸方面
快速
上野-日暮里-三河島-南千住-北千住-松戸-柏-我孫子-天王台-取手
各停
地下⇔綾瀬-亀有-金町-松戸-北松戸-馬橋-北小金-南柏-柏-北柏-我孫子-天王台-取手 上野,日暮里⇔綾瀬,亀有,金町はかなり不便なかんじ。 >>402 そこまでするほどの需要がなかったから。電化で十分、完全複線化を急ぐ必要はない。
東海道・山陽と異なり、東北・常磐線はビジネス客の比率が低く観光シーズンや盆暮れに客が集中する。 >>402 夜行の増発は上野駅の容量の方が問題なんでは?
東北・高崎線では夕方、上野のホーム容量が不足するため、上野発の中電を減らして夜行含む長距離列車を走らせていた。
常磐線でも夜行増やすとなれば上野発の快速、中電に皺寄せが来る。臨時列車用の筋を定期に置き換えることによって幾らかは対応できるのかもしれないが、いずれにしても四ツ倉・岩沼間複線化は関係しない。 夕方、四ツ倉行があった
「四ツ倉」って、どこ?という顔をして乗って来る人がいましたね >>410
松戸住みだけど、常磐線の路線図は不親切極まりない。快速線は土浦から品川、緩行線は
取手から代々木上原までしか書いてない。
高萩や、伊勢原まで行くのもあるんだけどね。 >>412
415系時代には原ノ町まで書いてなかったっけ? 旧型客車の頃は、仙台行がありました
415系では、夕方原ノ町行が15両でありました
土浦と勝田で4両ずつ切り離しで、7両だけ原ノ町行でした
あとは、久ノ浜行き、四ツ倉行が午後と夕方にあり
もう少し近いと、大津港行と日立行ですね
日立行は15両で、土浦と勝田で切り離して、中の4両が日立まで
末期は草野発はあったように思えます
しかし、行先ですぐにわかる駅名ではないのは同じ
自分は間違いませんが、みなさんよく混乱しないものかと思いました 今の常磐線も緩行線上りは、小田急と直通になっ他関係上、向ヶ丘遊園や、伊勢原行きも見られるようになった。
既に廃園になってる向ヶ丘遊園に遊びに行く家族連れはいないのか?伊勢原を伊勢と勘違いして旅装束に身を固めた
善男善女はいないのか?気になるところだね。 土浦を過ぎて水戸に列車が近づくにつれ
客車内に飛び交っていた東京弁が徐々に茨城弁に変わりはじめ
通勤帰りの客が残したワンカップやたばこの吸い殻が
一駅ごとに座席下や通路にみるみる増えていく
カップ酒の匂いとくゆる紫煙がが窓の隙間から洩れ入る冷気でゆっくりと消えていく
鉄橋を渡り、勝田を過ぎればもう客もほとんどいなくなり
古ぼけた室内灯の下でぐっすりと舟を漕いでいる連中は
深酒と一日の疲れから寝過ごしてしまったのだろう
もうこの先の駅では上りの最終には間に合わない
どこまでいくのかは神のみぞしる
いつのまにか外は夜霧がでている
その中を縫って汽笛を高く鳴らしつつ列車はさらに北上していく
いつのまにか >>406
迷惑乗り入れと言われた国鉄、営団の直通運転。
今年でちょうど50年が経過しているが、当時と運行体制、料金体制が全く変わっていないのは
ある意味すごいと思う。今後50年後も同じなのかな? >>419
当時の財政難の国鉄は、営団が綾瀬検車区を作るに当たり、北千住・綾瀬間も営団が建設することに決まり、
願ったり叶ったりだったそうだ。 >>418 東京メトロ東西線のJR乗入れも50年以上、ほとんど変わってないんだが。
立川まで複々線化すれば中央総武緩行線と共に立川まで乗入れ、は実現しそうにないし。
未だに朝ラッシュ時の津田沼乗入れがある。編成は7両→10両に増えたけど。 >>421
以前は立川まで複々線化するって聞いたことがあったが、
立ち消えになってしまったみたいだね。
西武新宿線も然り。 >>421
千葉まで複々線が完成したとき、東西線からもっと直通が増えると期待したんだけど・・・ 水戸駅や勝田駅の案内板でhs
いわき方面
久ノ浜
と表示されていたな。
2005年頃 >>424
確かに久ノ浜だけだと乗客はどこまで行くのか心配になるね。
同じように常磐各停で、以前あった上り唐木田行きが来たとき、心配する声を聞いたことがある。
「この電車大手町行きますか?」みたいな。 親戚が石岡や土浦に住んでて埼玉民だったから東武で柏乗り換えで石岡や土浦までよく乗った
70年代終わりからつくば博あたりまで
当時は客車列車も多かったから,ドアが走行中も開いちゃうのは子供心に怖かったな
高校生なんかは平気で開いた扉のそばに立っていたりしたが
1979年頃かな,荒川沖かどっかでトラックに衝突した事故があったが
衝突して横転した先頭車両が線路際に転がされたままになっていたのを見たときは怖かった >>426
中国のようにすぐ埋めるのが良いかもしれないね。 >>425
伊勢原にしても向ヶ丘遊園にしてもそれは同じ・・・?同じではない・・・?
東日本も、行き先表示はほぼ全てLEDとかLCDになって自由度高まったんだし、
西日本みたいに「〇〇方面△△」って表示すりゃいいのにな。
熊谷方面籠原、とか、小山方面小金井、水戸方面勝田、ってするだけで、
乗客の安心度が大分違うような。 1971年に綾瀬-我孫子間を複々線化した時、柏駅には快速ホーム自体が無かったって話だけど
もともと快速を止めることを想定して用地は確保してあったの?
それとも複々線化から快速停車までの1年半で、
用地取得から工事まで全部ゼロからやって1972年10月までに間に合わせたの?
今の柏駅を見てると、どっちなのか見当がつかないので
ご存じの方是非教えてくだされ >>366
それもあるだろうし、収容力重視でロングシート車主体になってきたのも大きいのでは。
酒盛りはほぼ、クロスシートで行われてたんだろうし。 >>430
当時の鉄道フアンの記事に旧ホーム跡を転用とある
今も鉄道図書館アーカイブで有料だが閲覧可能 >>432
野田線からの貨物授受の所を転用したのかと思ってたけど、違うのね。 >>431
このままでは貴重な常磐酒盛り文化が消えてしまう。
酒盛りキャンペーンを始めるのはどうか? なんで四ツ倉、草野、久ノ浜で折り返す電車があったんだろ?
全部、平(現いわき)折り返しで良かった様な気がするんだが
水戸に置き換えると佐和や東海で折り返す様なもんだよね
それとは別に四ツ倉-岩沼を全線複線化すれば東北本線バイパス機能はアップしたと思うんだが、
結局やらなかったって事は需要はそれほどなかった? >>436 四ツ倉などいわき市北部から平(現いわき)以南、小名浜方面に向かう通勤通学客の需要があるからでは?
工場が小名浜付近に立地してるし。さらにその南、日立の工業地域方面への流動もあるから、短距離のシャトル列車走らせるよりも、水戸、上野方面に行く列車として運行させる方が効率的だったからでは? よくわからんとこでの折返しは機関区の職員の利便とか昔はあったはず
今はもうそんなことやらんけど 留置線の容量の関係ってことはないかな?
今でも東海道線で夜に沼津行きが何本か残ってるのは、熱海で留置できないからだと聞いたことがあるので、それと同じで、翌朝の始発本数を確保するため、とか? 旧客の浪江行きとか赤電の夜の森行きとか
昔あったな 1972年当時の常磐線時刻表だが、平発18時台から20時台にかけて
平始発久ノ浜行き(気動車)、上野発四ツ倉行き(電車)、平始発仙台行き(気動車)、上野発草野行き(電車)が設定されている。
平から近隣の駅への通勤客のために下り中電を四ツ倉や草野まで延長運転したのでは。
ただ、四ツ倉や草野で留置して上野行きになるのかはわからない。
別のサイトで82年頃の常磐線上野発着列車のダイヤを示しているのがあったが、下りは上野発の四ツ倉行きや草野行きがあるのに、上野行き上りは平始発しかないようだ。
(参考:72年の時刻::http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/5e/17ceca449e1d454cacb9173766f8fd9c.jpg) その時期の「みちのく」って原ノ町通過だったのか
平-仙台間無停車って今の感覚だと現実味無いよな >>443 72年頃のみちのくって、青函連絡船に乗り継ぐ客をおもな対象としていたからね。だから常磐線内はあまり停まらないわけで。 >>442
平(いわき)の当時の駅構造がどうだったのかはわからないからあくまで憶測だけど、
翌朝まで留置する必要がある列車が立て続けに平止まりだと、ホームが塞がってしまうので、
一旦、四ツ倉とか久ノ浜まで客扱いしながら回送した上で、
改めて、平駅構内の留置線に客なし回送し、翌朝の平始発上野行きに備えた、って感じじゃないかな? >>443
ところが当時は特急5往復全部通過だった訳で
平−仙台間無停車は当時の感覚だと当たり前のことだったんだと思うよ
逆にこの年の10月の改正でひたちが大増発されるんだけど
四ツ倉1往復、富岡3往復、大野1往復、双葉1往復、浪江3往復、小高1往復、原ノ町3往復、相馬1往復停車になった訳だが
当時としては特急なのに滅茶苦茶停まり過ぎって感覚ではなかったかと >>446
単線区間だから、列車交換を兼ねての停車だったのでは? >>449
それだったら別に営業停車にする必要もないし >>449
ちなみに当時この区間で特急同士のスレ違いは定期列車ではゼロです 最寄りの企業、工場の要望ではないかな?
出張での乗り降りに便利なように止めてくれ、と。だいたいその時間に送迎の車出すようになってたりする。瀬戸内でブルートレインが
細かく停るのもそのためだったろう。 一時期は、北千住、松戸、我孫子、取手も停車してたんだが・・・ 440だけど、ごめん、夜ノ森行きは方向幕では
間違いなくあった。上野で次々に回してるの見てたから。実際にはなかったのかな?メルヘンな行き先だよね。
それか桜季節に臨電であったのかな?
いずれにせよこの辺り原発事故のネガティブなイメージがついてしまったのは悲しい。 夜ノ森、メルヘンな駅名だね。フクロウでも鳴いていそう。
1度だけ降りて駅前食堂で昼ご飯を食べたことがある。当時は駅員もいて硬券の切符を買った。 見事なツツジが見られた駅なんだけど
原発事故の影響で除染するために全部切っちゃったんだよな
またあの風景が見られる日が来るといいな 501系の10連の中間サハをクハ改造して5連x2本にできるといいのにね 車齢的に、もういじらないんじゃないかという気がする 最近は調子が悪いようで、交直切り替えのある水戸線に入らなくなった。
交流専門になってしまったようだ。 可能性はあるかもしれないが、全部531にしてしまう可能性もある 交直両用から交流に改造はかつて583系から近郊型に改造したケースがあった E501はもうかなり古いからなあ。老い先そう長くないかと思う。
でも、今更E531を増備するとも思えないから、E235の交直版かなとも思う。 現在のE501は交流区間のみで運行しているから、後継車を投入するとすれば交流専用車じゃないかな?E721かその後継タイプの。 交流専用車より、交直両用の方が使い勝手は良いのでは。
現在のE531使用区間
常磐・上野東京ライン品川ー原ノ町
水戸線友部ー小山
東北線黒磯ー白河
どれも交直が絡んでる。 >>472
E501の運用を引き継ぐ後継車ってことでしょ
交直流電車はコストかかるし、現状交流区間でしか使われてないE501の後継は交流専用車の方が、ということだろうね。 しかし地磁気研究所ってのはそこまで重要な
研究施設なのかね?
東京と土浦間の地域に発展と比べたら気象庁傘下の一研究所のデータの継続性など微々たるものなんじゃないの?実際地震予知なども出来てないじゃない。
つくばexまで交直流にさせてコストアップさせてるし。 >>474
> しかし地磁気研究所ってのはそこまで重要な
> 研究施設なのかね?
はい 交流電化の方が、ミサイル攻撃の対象になりやすい変電所減らせるから、安全保障上有利なんだが。
ウクライナ戦争でも変電所が多く狙われている。ソウル地下鉄の地上部分の多くが交流電化なのもそのため。 それはどうかな?分散と集中それぞれ一長一短あるべ。そもそも日本は平和国家やし。
一つ言えるのは磁気研究所は戦車で吹っ飛ばして土浦か水戸勝田まで直流電化しとけば特に藤代佐貫牛久あたりまでの発展は違ったべ。取手過ぎるとああ来ちゃいけねぇとこ来ちゃたなあ
って感じだったし。
今でこそ整流器がいいものが出来てるけど
常磐線電化の頃はホンマに大変やった。 >>478 我孫子から先、利根川や小貝川の辺りに低湿地帯が多く、住宅建設で盛り土など基礎工事が必要で高くつく。
名古屋市西部から輪中地帯にかけての関西本線及び近鉄名古屋線沿線と同様で、こちらも名古屋に近い割には宅地開発が進まなかった。
東北線の蓮田辺りも見沼の低湿地帯があるが、それほどの規模ではない。そんな地形条件のため取手から牛久の辺りで宅地開発が進まなかったし、その先は通勤時間がかかりすぎる。
勝田まで直流電化すれば・・というのは鉄オタの妄想。 高校の時によく気分転換で我孫子や取手まで
タダ乗りして行ってたんだが、取手の直流
の壁は大きくてその先は滅多に行かず。
取手駅でたまたま来た土浦方面の赤電にエイヤっと一駅乗ったら高校生の女の子が乗っていて姿形あまり都内とは変わらない感じだった。多分お父ちゃんが周辺のニュータウンあたりに家を買ったんだろう。都内からくる電車のほとんどは取手止まりで彼女の達の東京からの疎外感いかばかりであったろうかと思うとやはりスターリンに頼んでソ連軍の戦車で磁気研究所は1950年代のうちに吹っ飛ばしとくべきだったと思う。 常磐方面は戦前から私鉄計画があったけどなかなか進まなかった
利根川がかなりデカい川でなかなか架橋が大変ということ、東京の北側は川が多くて大変というのがあるかもな
野田なんて厚木みたいなもんなので戦前から東京に直通してもおかしくなかったのにな
これも江戸川が邪魔してたのと、東京との間に他にも川がたくさんあったからかもしれない
戦後も西武による飯能と土浦を結ぶ計画とかあったね
こ!は妄想みたいなもんで実現怪しかったが >>481 飯能と土浦どころか、筑波学園都市から成田空港に向かうルートも。
つくばセンターの地下に西武の駅が極秘に建設されているという都市伝説があった >>482
もう撤退してしまったけど、つくば西武の地下かな >>472
E531はこれ以上量産しないような気がする。
次はE235顔の交直両用型かな? >>485
交直切り替えだからね。
つくばエキスプレスだと守谷だね。 いつ頃から変化したんだろうね?
車両が新しくなってグリーン車がついたとか
品川まで運転されるようになったとか
何かきっかけになるようなタイミングでもあったかな? >>490
中電なんていってるやつがいなくなった頃から
酒飲みがなくなったんだろうね(笑) んでも、夕方の満員電車で
三河島⇒柏だと
立ちながら
ペットボトルの保温用の入れ物にストロング酎ハイ入れて飲んでる
土方のジジイは仕方ないとして
30~40っくらいの女性も飲んでるから
見てて笑える。
先っぽがストロングなのが見え隠れしててな >>491
415系の500番台と1500番台、後年にはE501系というのがあってな……
415系についてはロング・クロスの運用がきちんと決められてなかったから
酒持って乗ったらロングシート車だった、なんて状況はかなり長期間だったはず
実際ロングシート車でも、立って飲んでる人いたしなぁ >>494
いましたね
まったく気にしない輩たちが
(笑) あとクロスシート車を確実に引きたいということなら
415系時代より、今のE531系時代の方が間違いが無い
並ぶ場所さえ間違えなければいいんだし、グリーン車だってあるからな
してみると始発駅が上野から品川に変わったのがでかい気がする
折り返し時間とかかなり短くなってるし
>>495
上野から松戸や柏なんて乗り方で立ち飲みしてた人もいたっけなw 中電の両数もいろいろ
7両:朝一番の下り
8両:我孫子市発の2番の下り、夕方の四ツ倉行
11両
12両:末期にはなかったが、その前はあった
15両:基本は7+4+4ですが、一部そうではない編成もあった記憶 103系快速でもスルメをライターで炙って酒盛りしていた話聞いたことある >>498
一部そうでなかった編成は、7+8の15両だね
8両の方はクハ415-1901とサハ411-1601が入った珍編成 >>504
観察してると
アラサー、アラフォーの姉ちゃんも
ペットボトル保温用のやつにかくして
ストロング500缶立ちながら飲んでるよ >>504>>505
酒盛り常磐線の文化をしっかりと受け継いでいる。
頼もしいね。 車両の一部をビュッフェのようにして、角打ちにすれば妙齢のネーサンも堂々と呑めるのにな。 クロスシートがなければ酒盛りはできない あと比較的空いてるからできた 日立関連多し 混雑率は昔の方がそうとう酷かったし
ロングシート車でも飲んでたという証言は少し遡れば書いてある >>509
先日宍道駅でTWILIGHT EXPRESS 瑞風が停車していたので観察した。
ラウンジ車は「ラ」の表記を使うようになったのを知った。
すると「モラハ」とかできるのかな? >>514
そうだったね。
「ラ」の表記は瑞風が初めてでは?
貨車の「ワラ」とか「トラ」はあったけどね。 母親は昭和36年に福岡から常磐線沿線に出てきた。昭和50年頃に俺連れて帰省したんだけど
小倉だったか門司だったかで、当時は421系
しかないんか?が交直切り替えのテストやってる時にバコンバコン異様な音立てるのでびっくりしてたな。連結手?のおいちゃんに大丈夫?って聞いてて、テストしてるんでいつもこういう音するんですよとか言われていて安心してた。
母親は若い頃から北九州にも時々行ってたけれど、考えてみると鹿児島本線久留米電化と共に上京してしまったから、そういう光景は初めて見たのに違いない。なんと言っても母親の記憶の中では国鉄はほとんど「汽車」だったから。
因みに昭和40年代生まれまでは鉄道を「汽車」と呼んでた。今若い世代は「JR JR」と言うが、オレはちっ 何がじぇいあーるだ田舎ものは田舎らしくせいっと面白くない。 >>518
交直切換試験でABBが開放された動作音か
間近で動作するとビビる 1987年から全国的にJRだからな
田舎とか都会とか関係ねえぜ! 熊本では汽車と言うと国鉄、電車と言うと熊本電鉄と路面電車だった。 >>521
鹿児島本線全線電化は1970年と意外と早かった 電化
常磐線 62年勝田 63年平 67年仙台
鹿児島本線 61年久留米 65年熊本 70年鹿児島
日豊本線 67年大分 74年宮崎79年鹿児島 平から仙台まで都市らしいのがほとんどないのに電化が割と早いというのは、東北本線及び青函経由北海道へのバイパスルートだったからかな。
熊本・鹿児島間電化の翌年に奥羽線青森・秋田間が電化されていること考えると、鹿児島電化はそれほど早くないようにも思えるが。 常磐線全線電化が早いのは、電化工事の支障となる狭小トンネルがほとんどなかったことも関係しているのかも。 地磁気観測所で都心部近郊が交流電化区間ってのも珍しい むしろ東北本線全線電化(68年)の方が遅いのかもな。利府や野辺地付近など路線付け替えの区間が多く電化工事と同時に進めてたから。常磐線はあまり大きな路線付け替え区間がない。 >>527
旅客だけでなく貨物も同様の要素があったんだろうな 快速は青電
赤(白)電は中電
EF80の客レはなんて呼んでいた? 快速は 国電の快速 緩行線は国電の各停
塗り替えまで 赤電 のち中電
客レはなんだろ?本数は既に少なくてあまり
認知されてなかったな。
驚きと共に、ムカシノレッシャ、ムカシノキシャ、フルイレッシャ、ボロいレッシャ、アノドアの空いたままのやつ、マダハシッテタンダネ
とかかなあ?
私の九州の親戚が言うとったな。昔松戸の連隊の兄のとこ訪ねて行ったことがある。いまはだいぶ松戸もかわっちょろうね、と。その頃は地域の客レは既に赤い火の車になってたから、常磐線の客レ見たら、まだこれ走りよったい、たまがった〜、ち。 常磐客レは、汽車とか汽車型なんて言うのを聞いたことがあるけど・・・ キハ55系準急ときわって編成表みると全車キハ55だったり、キハ26とキロ25だけだったり極端だなw お父さんちゃ、こぉクルマはえろうよかクルマんごとあるが、よかっちゃろか?料金とられんちゃろか?
ええちゃええちゃ、空いたクルマ適当にまわしよるきよかっちゃ 酒盛りの需要があるなら
サハシでも併結すればよかったのにな 車酔いといえば一般的にはバスの揺れによるもので、鉄道の揺れとは質が違う 車酔いのひどい人は揺れの性質ではなく車内の空気、匂いでもうダメになるらしい >>550
子供の頃は、在来線通勤型電車や近郊型電車のにおいは平気だったが、特急型や新幹線のにおいはダメだった
バスも、市内バスは平気なんだけど観光バスタイプのやつはダメだったなぁ >>550 除菌用など化学薬品の匂いが残っているからでは?
通勤車両のように乗客の出入りが多い車両ではかき消されてしまうが、座席定員制の車両だと中々消えない。
冷房付きだが窓が開かず密閉性が高いってこともあるか。子どもの頃はそういうのに敏感だからな。 >>554
だけというわけでもない
昔上野駅でお酒売る方のバイトしてたけど、中距離電車はどの方面もよく売れた
特に高崎線・宇都宮線のホームライナーの時間帯は地獄の忙しさだったよ
実態よりイメージの問題のような気がするが、どこに由来したものなのかね…… ロングシート車に七輪持ち込んでスルメを炙りながら酒盛りしていたのは常磐線だけだからじゃないか? 鉄道営業法の規程では車内にコンロは持ち込み禁止だけど七輪は書いてたかな? >>562 鉄道営業法第三十一条 鉄道運送ニ関スル法令ニ背キ火薬類其ノ他爆発質危険品ヲ託送シ又ハ車中ニ携帯シタル者ハ五十円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス
コンロ、七輪は、車内で使用し燃焼させていたら「危険品」に該当するだろ。 まあ確かに危険品だな
三八豪雪のときだったか雪に閉じ込められた列車内に暖とろうとして七輪かなんか持ち込んで
一酸化中毒者出したって話思い出した スルメじゃなくてサンマじゃだめなのか
身体にも良いよ 採暖目的で車中に火鉢を持ち込んだ例は大正時代にあった 常磐線の連結部での立小便は他の線と比べて明らかに多く2000年代でも目撃情報が頻繁にあった 火鉢を運行会社側が管理して使用すんのと乗客が勝手に持ち込むのとでは意味合いが全然違うだろう 豪雪で立ち往生した夜行急行で火鉢で暖を取ったら一酸化炭素中毒になったのがあったな >>521
日立市内でも常磐線は汽車、日立電鉄が電車だった
401系や403系の鈍行も汽車と呼ばれていた クハ401のデカ目。平成16年頃まで生きていたな。
昭和何年生? クハ401の一番古いのは昭和36年生まれ。
ご在世だったら御年62歳だ。 列車が全部使える広義だから差し支え無し
古い車両のDコック注意書きには“他の汽車や電車にも―”って表記されていた
これ三河島事故の教訓から付けられたらしい >>576
その後「他の列車や電車にも」になったね 一両編成の電車・気動車・機関車も列車なのがおもろいね 一両で走るのを単行と言わずに単車と言う人がいるが、
車輪が4つしかない、2軸車と紛らわしいので避けたほうが良い >>561
常磐線なら100円ライターでスルメ炙っていそうな気がするんだが
それより座っている椅子が外れる経験をしたのは常磐線415系が最初で最後かも
回りの人が「またかよ」って言ってた もう20年近く前の話だけど
なんかウンザリしたような顔だったような… 1980/07から
・228レ、亘理608→903平、仙台/岩沼間は、回送だったのでしょうか?
ちなみに、常磐線上りから抜粋
・422D/244D/2524D、利府発702→(422D)→842白石行
仙台から244D連結で岩沼で分割→(244D)→1102平行
始発から丸森行き2524D連結で槻木で分割→(2524D)→836丸森行
・246M、仙台1150→(G付き246M)→1328原ノ町1345→(2410Mときわ10)→1804上野
・1916D/916D/4716D/4736D+1916/916D/+4417D/+4317D、水戸行き+喜多方/只見/会津田島行き
仙台発1615→(1916D、普通、事実上快速レベル)→1750福島→(916Dいわき6、いなわしろ4併結、福島からG車併結)→1906郡山
郡山1913→(4716Dいわき6)→2054平2112→2252水戸
よく混乱しないモノかと思いました >>582
アメリカだとバイクは自転車
日本のバイクはモーターサイクル >>576
但しトンネル内では使用しないで下さい
の1行は
北陸トンネル列車火災事故から追記された ひたちの車内民度はどうだった?間合いの普通運用は最悪だった? 常磐線各駅で松戸駅降りるときに降りる人待たずに必ず突っ込んで電車入ってくるリーマンいたけどあれ人によって喧嘩になるだろ
一回ホームで喧嘩してるの見たけどあれあいつだろうな 散らかったテーブルを纏まった停車時間に片したら
未開栓のビ−ルが混ざってたな
まあ清掃代金として有り難く頂いたけど 居酒屋新幹線ってドラマがヒットしたんだから、次は「立ち呑み常磐線」あたり出せばまたヒットするんじゃないか 小郡九州間にも常磐線と同じ赤電、しかも低運ギョロ目が走っていたんだが向こうでは何と呼ばれてたんかな?汽車かな?w 低運ギョロ目は421系だね。
久留米発小郡行きとか大国鉄ならでは >>599 421系が鹿児島本線で走り始めた当時、「電車」のヘッドマークを付けて走った。
路面電車や西鉄はともかく、九州では国鉄線路上を走る電車がそれまで無かったから。 お父さんちゃ、こん汽車えろう良かクルマんごたるが、別に車掌さんにお金取られんやろか?
ええちゃええちゃ、こいが電車ばい。最新型ばい。
そがんね、えろうしゃれちょぉ 熊本では路面電車と熊本電鉄は「電車」、国鉄はたとえ電車であっても「汽車」だった 何かの番組で六角さんが常磐線の思い出を語ってたが酒盛りのことはよく知らないみたいだった
鉄ちゃん芸能人は数多くいるが六角さんのちょっと斜に構えながら鉄道への愛を語るところが面白い 【鉄道】JR東日本公認? 「常磐線はアルコール飲料に親しみが深い路線」 8/1は「常磐線のチューハイの日」 [ぐれ★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1690791048/ 匂いの成分は
サキイカ 30%
アルコール 20%
ピーナッツ 15%
オヤジの体臭体臭 33%
401系車内散布のクレゾール 2% (白紙に
散布日付とハンコ付き)
あと団子っ鼻フィリピンダンサーの場合は
用心棒ヒモ男のも含めて体臭比率増 >>613
国道沿いのロードサイド店を見ると有名どころはほぼそろっている感じ 中電のクハ401デカ目。
よく鉄仮面改造されずに平成17年まで生き延びていたな。 白熱灯は実は危ない
顔近づけるだけで前髪や眉毛がチリチリする
デカ目を見るといつも思い出す LEDと比べるとエネルギーが熱に変わる比率が高いからね ゆうづるってED75 1000番台のイメージだけど0番台も牽引している ゆうづるは客車と電車双方あったね。
時間はかかるけど客車の方が静かで良かった。 【1975年3月10日改正】電車3往復・客車4往復=計7往復。
すごかったんだよね 当時の夜の上野駅を思い出すと、各線夜行列車で百花繚乱の様相を呈していた。 子供の頃常磐線の沿線に住んでいて、時々東京に来ることがあった。
電車の中で酒を飲むのが普通じゃないと薄々気づいたのは、大学生になってから。はっきり普通じゃないと分かったのは、大学卒業してから。
刷り込みというのは怖いものだと思った。。 博多開業で余ったのは581じゃないかなと言ってみる モハネ581/モハネ580のユニットって12ユニットしかなかったからなあ
モハネが何両余ったのか知らんけど山陽じゃモハネ581/モハネ580、モハネ583/モハネ582どちらでも変わらんので
どちらが余ったとか意味がない とりあえずモハネ581は60ヘルツ用だから常磐で使うなら改造が必要だね。 >>638
常磐線の列車を見ただけで一杯飲みたくなる人たちも多かったのではないか。 セミクロスシート
401系、403系、415系700番台、1700番台
ロングシート
415系500番台、600番台、1500番台
だっけ? 常磐線と聞いただけで一升瓶を連想する輩も多くいるはずだ。 中電内での飲食
そんなに毛嫌いするものでもないような
かっては栓抜きが窓下テーブルの下にあったし
全国普通車ロングシート化計画の前準備のようにも思えるよ
だってG車だとあまり文句言わないんだろ?
クロスシートは良くてロングはダメとか謎ルール披歴する乗り鉄もいるし <一杯飲みたくなる>ならば<二杯以上禁止>するのは妥当 常磐線と言うと飲んべえを連想するけど、千代田線と言っても連想しないね。 >>655
泥水者防止だね。
オバチャンに追加の酒頼んでも断られた覚えがある。 このスレ読んでるだけでもう飲みたくなる輩も多いんでないかい 旧客の客レなんかドアが手動だったり無いから酔っ払ったら危ない クハ415-1901は快適だったな
日暮里駅でも座れたし ドアを勝手に開けて転落…酔客ならあり得るなガクブル 朝10時だけどこのスレ見てたらもう飲みたくなってしまった。
一升瓶片手に常磐線乗りに行くとするか。 >>667
防護無線は、1962年5月3日に常磐線三河島駅で発生した列車脱線多重衝突事故(三河島事故)を教訓に整備が進められた 昔、北千住駅前にあった小さなカレー屋。
無銭飲食で逃げようとした男がいた。 >>668
EF80とか583系の屋根に列車無線とは違う太いアンテナが載っていたっけ >>670
JR無線を一回り太くしたようなのが前後2本設置されていた。常磐線を走る車両の証でしたね。 >>673
蒸気なんて言葉を聞くと熱燗で一杯やりたくなるね >>675
細かいこと気にすんな
まず一杯やろうじゃないか
話はそれからだ >>663
我孫子じゃ無かった?
>>671
小田急ですら付けようとした痕跡が… >>677
松戸でOK
小田急のは酔っ払った作業員が余興でつけようとしたんではないか。 このスレ飲酒という行為が記号化している感じがする
じっくりものを考えない人が増えたのか? >>679
細かいこと気にすんな
まず一杯やろうじゃないか
話はそれからだ >>654
昔の中電は色が赤く赤電って呼ばれて親しまれていた。
飲んべえから見たら赤ちょうちんに見えたんではないか。
ドアにのれんでも掛かってたら更に良かったのにな。 赤い電車だから飲んべえには酔っ払って赤い顔の仲間にも見えたかも知れない 401系クハの白いラインが、酔っ払って赤い顔のオヤジが
ネクタイをはちまきにした姿に見えなく見ない まもなく〜20番線に〜5時55分発〜常磐線経由〜仙台行き〜普通列車が〜入線いたしま〜す 綾瀬っていまだに怖いイメージがある
あの事件の犯人が今も住んでるんでしょ?
絶対近づきたくない 平以北での普通列車の「上野」行きの表示は一際輝いて見えた。
平成17年7月改正まで夕方に存在していた久ノ浜始発上野行きを久ノ浜ー四ツ倉間で眺めるのは夏に海に遊びに行った時の楽しみの一つだった。 今年39才になる俺の子供時代の話なので、電車列車です。 E501系5両編成1本を改造して
イベント専用車両の「E501 SAKIGAKE」を
11月23日から運行開始するそうです。 勝田と高萩の間を電車通勤した初日、帰りに日立駅から乗り込んできたサラリーマンの4人組が通路を挟んで向かいのボックス席に座った。
直ちに4合入りの日本酒をプラスチックのカップに注ぎ、スルメやいかくんをおつまみに宴会開始。
凄い、これが常磐線だと思ったが、翌日からは缶ビール片手に乗車する自分がいた。 >>691
綾瀬といえばコンクリ事件
未だに犯人はあの近辺に住んでるの? >>704
小山駅に乗り入れる際に故障が頻発したらしい >>708
ずっと乗り通す人は一升瓶何本空にしたかな 1987年8月の乗車
上野509→451M→840平844→241M→1209仙台1318→1533レ→2237青森
なお1533レの車内では、青函連絡船の乗船名簿は配っていませんでした 1533レが普通ならそりゃ乗船名簿なんて配らないだろう 712ですが、1987年→1982年に訂正です
同じく1984年8月に行った時
上野507→441M→840平844→231M→1209仙台1329→3535M快速くりこま→1603矢幅1606→1535レ→2052青森
同じく1535レでは青函連絡船の乗船名簿の配布は無し
仙台1343→1537レ→2235青森は、当時50系のため1本前の1535レ(旧型客車)に乗れるなら乗りたいと思い、快速栗駒を利用
記憶では1535レ(旧型客車)は激暑、しかし夜間は虫が窓から入るため閉めたよう
超ガラガラでもなく、大きめの駅で人が乗ってきてしばらくして少しずつ降りる感じ
なお、平行の常磐線で見た客が数人青森まで見たと思いました(自転車をばらして荷物にしていたような人もいた記憶)
ちなみに酒は飲んでいません
翌年1986年も普通列車乗継しましたが、この時は東北本線経由でした >>716
その長い区間を呑まずに乗り通すとは・・・
敬服致します! いや、酒にとても弱い体質のためです
社会人になってから、宴会は大変厳しかったですね
ちなみに1986年3月では、
上野643→531M→841宇都宮853→727M→949黒磯959→129M→1208福島1228→577M→1356仙台
仙台1402→535M→1543一ノ関1549→2539レ→1728盛岡1804→541レ→2228青森
この時は客レは全部50系でした(北海道では41/42/43/46レは旧型客車)
38年前になります 酒がないと生きていけない人間にとっては飲めない人がうらやましく思うことがあります。
ないものねだりってとこかな。 当方65歳。
大酒呑みとして生きてきた。酒の上での失敗も数知れず。
酒呑めなかったらどれだけ貯蓄も出来たことやら。 >>719 >>720
父方は酒豪、母方は酒が飲めない、自分は残念ながら母方の体質を受け続ぎのようで、酒に超弱い
はっきり言って719さんや720さんが超羨ましい
再雇用の歳ですが、昔は酒が飲めない男は人間扱いされなかったです
自分はこのような男社会で生きていけるか、マジで真剣にそこまで悩みなした
最終配属はメーカーの開発設計になり、そこで初めて人間の扱いを受けた
ただし競合が厳しい主力製品の開発設計現場であり、
土日出社やフル残業当然の今の若い人からみたらブラックに見えるかも
でも自分を人間扱い(奴隷かも)してくれた職場のため、耐えられました
話はずれましたが、上野などで常磐線で勝田行などで酒を飲む人を今でもたまに見ますが
取手行でも見た時は、自分には違和感
列車では酒はともかく、国電で酒はちょっと、
いまでは取手行も勝田行も、一般客からは昔ほどの差はないのでしょうか なんか分かるな
お世話になった先輩とチウハイ抱えて531系に乗ったとき、「グリーン車行きましょか」とか、なんか憚られた
中電の頃は違ってたのかもね >>721 >>722
酒って悲喜交々有りますな〜
昔の中電では、全く別の勤務先の人たちが呑み友達になって仲良く帰宅する姿が見られた。
そんな昭和のモーレツサラリーマンの方々もご在世でもかなりな高齢だと思う。 >>721
連スレになってしまうけど、今では国電も中電も同じ快速として扱われ、一般ピープルによると、
青いラインのはグリーン車があるやつ、緑のラインはないやつ程度の区別なようです。 その通りなんですが、国電と列車、の世代になると、全く別感覚で別種の電車列車に感じます
ちなみに下りでいえば、取手行は10分間隔、土浦水戸勝田行は1時間に1本(夕方ラッシュ時は2本)
東北線高崎線でも似たようなもの
取手止まりと、その先に行く電車列車は、意識の上では別世界
ただ、この国電と列車(汽車とも言われた)の境界をなくそうとしたのが、1982年11月改正の広島地区
汽車から国電へ、シティー電車は20分感覚(その後15分感覚)、とかのキャッチフレーズ
ある程度の輸送が見込まれる線区は、本線支線関係なく、皆さんご存じのように大幅に改善されました
ただ逆に、ローカル輸送が平時でもあまり期待できない線区は、普通電車(列車)の大幅削減も発生しましたね >中電の頃
この国電と中電という言葉は、今でも通じますかね?
国電は分かるかもしれませんが、
年寄りはともかく、若い人には中電は理解困難な可能性 長距離の普通列車と短距離の快速が同じ線を走っているのはここしか無い
中央本線は立川までいちおう来ていますが、新宿までは来なくなった 常磐快速線:国電快速、中電、特急、貨物
常磐緩行線:営団代々木線乗り入れ
綾瀬に国電停まらせなかったからややこしく混雑緩和も出来なかった 中央本線と同じようにすると水戸からの普通列車が取手止まり(一部は我孫子まで)の感じ >>729
綾瀬を国鉄・営団の分岐点にしたもんだから、迷惑乗り入れなる言葉も流行した。 うわぁあったなあその言葉
鉄友の間で「迷惑○○」というネーミングして遊んでたわ その当初は普通列車が北千住通過だったのでなおさら。 >長距離の普通列車と短距離の快速が同じ線を走っている
別線走行なら当時国鉄ならよくあり(ただし簡単に乗換が困難、これが少々理解が苦しい)
東海道線と京浜東北線のように、国鉄では別扱い的な状態、乗換は基本考慮しない前提
その延長で、総武快速線、常磐線などの複々線化です
常磐線はさらに西日暮里/北千住は営団地下鉄ですからね
国鉄としては北千住の乗り換えは南千住や三河島へ行く人限定で、
大半の人は乗換せず西日暮里までいくことを前提を想定
よく混乱にならないな、と思ったら、複々線化直後は大混乱だったそう
当時、中央線の新宿発甲府/松本/長野行の115系(さらに前は71系や客車)がある程度あり、同様
阪和線も、南紀伊/はやたま等と阪和線快速新快速、ただし紀勢線直通普通は少数
電化後は直通が増えたが阪和線は本当に普通か快速等で夜行以外は該当せず
思いつくのいはそのくらい、漏れていたらすみません 京阪地区なんかせっかくの新快速を設定したものの、緩行線に走らざるを得ないから外線がガラ空きで、当然緩行線は混雑のままの私鉄との競争も不戦敗。
国鉄本局の権限が強くて大鉄局の提案がかなわずだったとか。 昨夜の遅くに天王台駅で「松戸」行きという行き先表示を初めて見た >>737
新快速設定当時の外側線はガラ空きではなかったぞ。
特に新幹線の博多開業前は、優等列車、荷物列車、貨物列車 ↑途中で書き込まれた。失礼。
新幹線の博多開業前の外側線は、優等列車、荷物列車、貨物列車等が頻繁に走行していた。 昼間はかなり空いていた。
複々線なのに何でこんな使い方するのか子ども心不思議だ4 天王台発の上り快速線では、
松戸行が深夜にある
我孫子行も531系で1本あり
今まだあるかわからないけど、取手発15両で前10両上野行、後ろ5両我孫子行というのがあった
あるとしたら9時から11時くらいの上りですね 常磐の複々線は、北千住から西日暮里の区間は国鉄として建設すれば何の問題もなかったと思う >>744
西日暮里ー綾瀬ー北綾瀬 をJR線にして北綾瀬のアレは植民地車庫的な物にするわけにはいかんのかね。大人の事情でダメなのかしらんが。 北千住、町屋民のことも考えてあげなよ
それに国鉄ストで千代田線が死ぬw >>746
運賃計算上だけ、西日暮里/綾瀬間を共有にするしかないでしょう
目黒/白金高輪と同じ
2024年にできたら、その可能性はゼロではなかったと思う >>747
その通りですが、逆に営団ストの時はパニック状態
快速線は正常運転、緩行線は綾瀬から下りのみ運転
松戸駅はとんでもない状態 >>749
つまりどうしたって弊害があるということ
「何の問題もなかった」ということはない 町屋なんて京成があるだろ
それほど困るものじゃない >>751
流石にそれはないよ
京成は金町にだってあるだろ >>749
複々線開通初日の北千住駅のパニック
国鉄としては、多くの客が西日暮里に回ると予想してたとか
営団の料金が加算されるのにそれを認識していなかった国鉄 >>754
おそらく泥酔した連中が立てた計画
「少しぐらい余計に金払ったてかまわんやろ」 料金が加算されるのにそれを認識していなかった
公共事業体あるあるだな
まあ戦災復興需要があるのにディスリまくって廃止に追い込んだ住宅営団よりましだが
あれ絶対国とGHQがグルになって廃止決めてるよな
国なんて何するか判らん信用できん
まあそれより都電の三ノ輪橋浅草間延伸きぼんぬ >>757
かつて銀座線の浅草から三ノ輪延伸計画もあったんだが・・・ >>748>>754
その複々線化からまもなく53年を迎えようとしている
後から開業した目黒〜白金高輪のようにすることもなく今まで変わらないのは
ある意味すごいね >>756
酒の上での失敗は許してしまう懐の広さがある常磐民 飲酒絡みの鉄道事故も過去にあったけど、三河島は違う。 三河島って春日一球がやられた奴だっけ?
貨物列車をどこから入れるか? それを考えると昼も寝られない >>768
そうだけど名前間違えてる
クリトモ一休(内堀欽司)な
春日三球も当時の芸名はクリトモ三休 湖の大型遊覧船や、超高層ビルの大型クレーンの話もあったような・・・ >>754
ネットで調べると当時の新聞記事がヒットするね
やはり国鉄の見通しの甘さを批判する論調 でも現在も当時と全く変わらね運行・料金態勢、53年も経つんだよ。
凄くない? 最近盛り上がってるな〜 笑
酒飲みと言えば昭和の時代は駅のホームdw
酔っ払ってくだ巻いてる労務者風のジジイが
良くいた。あれは南千住だったか、北千住だ
ったか。なにか肉親について嘆いているようだった。 素直なオレはこのオヤジの言ってる事も社会の真実の一面なんだろうみたいに思っていた。 そのオヤジの近くにはなぜだか、おばさんがジジイの言うことをうんうん、と頷きながら聞いていた。途中で、バッグの中から木綿のハンカチを取り出して、頭を傾けつつ目の隅にハンカチをポンポンと頭を拭っていた。
辛気臭い、くだ巻いてるジジイの言い分にどれほど意味があるのか、そんなジジイに共感しているおばさんも何か共依存の傾向にあるのでは
ないか?大丈夫か?などと今になって見ると感じ、考えなくもない、が 今の駅で、そういう酔っ払いがいるからか
せいかわからんが、ベンチを撤去して座り心地のひどく悪いアルミパイプ二本の仮の腰掛け?
など見ると客を人間扱いしなくなった今のJRを
見るとそんな時代が少し懐かしくなる。 さらに遡れば駅のホームに居座って酒飲んでる人なんて居なかったから
そもそもそういう場所じゃないし
またあの腰掛けは待ち時間が数分なら却って合理的だろう
特に腰痛持ちだと有難い
それよりも大きな駅で無料で待てる待合室をカフェにしたりして出費を強いるのが憎たらしい 故郷から東京に出て来て、上手くいく人ばっかじゃない、飲んで何か言って晴らしたいよな、とか思う
「ホームにて」って歌、沁みるんで好き >>782
中島さんの名曲だね
中島さんの曲は心の琴線に触れる 中村君だった気がするけど、酔っ払ってるから良くわからない 下山事件の現場検証で枕木に血痕跡のルミノール反応
捜査班はトイレからの経血だと濁したが、現場は国電区間で当時垂れ流しの列車走っていたっけ?
あとトイレ流し管は外側に付いていて枕木に滴り落ちるかな? 新幹線上野延伸前のそこが知りたいって番組に常磐線行商おばちゃんたちが出ていた
常磐線快速にも行商人乗っていたのか 上野から水戸、平、仙台、青森方面の列車は客車で、トイレはついていました。 成田線から乗り入れる快速にも行商乗ってたよ。成田線の駅で行商台が残っている所がある。 >>793
というか790が言ってるのはまさしくそれのことだべ >>790
成田線が電化したとき、なんと103系が成田まで乗り入れるようになった。
早朝の成田発には行商おばちゃんたちがたくさん乗ってた。 >>790
その放送は1988年3月で、新幹線はすでに上野に伸びてた。むしろ青函トンネル開業ダイ改の直前。
録画していて、何回も再生したため、今でも内容は覚えてる。
レポーターは渡辺文雄・宇江佐りえ。沿線情報と称した、行商人のレポートには、さいたまんぞうが担当。 >>795
電化する前はDE11が客車を牽引していたから、電化後はどの電気機関車が充当されるか興味津々だった。
まさかの103系と知ったとき、たまげて腰を抜かしてしまった。 >>796
ようつべにうぷされてるのはリポーター
生島ヒロシ
内海佳江 >>796
その当時はまだまだ盛んだったんだね
いつ頃からいなくなったんだろうか? 山下清が働いていた蕎麦屋がある駅って我孫子駅だっけ? >>801
そう、やよい軒。
彼が働いていたのは駅近くの店だったらしいけど、
今は我孫子駅ホームに何軒か立ち食いの店がある。
「ぼくが働いていたやよい軒のおそば、おいしいよ」
の張り紙がある。 実は新京成の五香とか新津田沼にもあった唐揚げそば
どっちも弥生軒とは無関係ですぐ潰れたけど
ちなみにやよい軒自体はは天王台にもあってあそこは空いてるからおすすめ 天王台にもあるんだね
我孫子駅下り1・2番線ホームに2店舗有るのもすごいね >>806
無関係ではなくのれんわけの店だったと思う >>806>>808
その話、無関係・のれんわけの2説有るんだよな。
一度行っておけば良かった。
五香の店はあっという間に潰れてしまった。 大阪メトロ我孫子駅から常磐線我孫子駅までノーラッチ(改札を一切通らない)で行けます
現にこれをやってのけたYouTuberがいる
昔の【柏駅】・【我孫子駅】・【取手駅】を語ろう
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1707622473/ 103系の混色編成が走っていた
黄色 宮原
オレンジ 豊田
スカイブルー 日根野 >>810
多分、あびこ→動物園前→淡路→十三→高速神戸→尼崎→大和西大寺→
橿原神宮前→吉野口→高田→奈良→京都→東京→上野→我孫子、だと思う 〉〉812 ちと違う。松阪でJR乗換。ビデオ見たけど意外だった。 〉〉812 ちと違う。松阪でJR乗換。ビデオ見たけど意外だった。 そうすると、あびこから我孫子へのノーラッチのルートは複数ある訳だね ノーラッチのルート楽しいね
例えば汐見橋〜高尾山口、日生中央〜飯坂温泉なんかも可能なんだよね。 男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎では、寅さんが備中高梁から岡山までの乗車券で柴又で下車したという場面があった。
確かにノータッチで行けるんだが、寅さんがそれをやったとは思えない。
スレ違いで失礼。 映画見てないけど京成の駅員役がキャストされてるから
柴又駅で精算はしてるんじゃね? 備中高梁→岡山→東京→上野→松戸→京成津田沼→京成高砂→柴又
ちなみに松戸の国鉄↔新京成ノーラッチは当時 >>826
八丁畷経由で今でもノーラッチで移動可能じゃね? >>824
薩摩守は完全な忠度
キセルの定義は
片道券→忠度
入場券→忠度
または
定期券+きっぷ 読んでタッチ、見てタッチ、触ってターッチ貴方にタッチ♪
ってラジオCMあったな 松戸は94年になっても自動改札が導入されない、連絡改札が設けられない…と話題になってた。 >>829
本来の意味は勿論そうだが、現在の日常会話では単に不正乗車という意味で使用されているな。 古老によると昔は皆ところ構わず、タバコを吸ったそうだ >>820
汐見橋→岸里玉出→りんくうタウン→天王寺→大阪→東京→上野→
北千住→押上→九段下→新宿→高尾山口
日生中央→川西能勢口→十三→高速神戸→尼崎→大阪難波→松阪→
名古屋→東京→上野→槻木→福島→飯坂温泉 >>840
我が町では路上喫煙すると科料を払わされる 北条町〜荒砥 ノーラッチ
北条町→粟生→谷川→尼崎→大阪→東京→上野→福島→米沢→今泉→荒砥 北陸周りで
北条町→粟生→谷川→福知山→綾部→敦賀→金沢→直江津→新潟→新発田→
坂町→今泉→荒砥 も可 E501系のイベント専用車両「 SAKIGAKE ( さきがけ ) 」の話は? >>846
常磐線らしいネーミングだ
SAKIGAKE ( さきがけ)略してSAKE ( さけ ) 三河島事故から62年経過(5月3日)
今でも松戸終は乗務員が嫌がるらしい 上野駅からグリーン席で太平洋が見える辺りまでチビチビ呑みたいなー
ゴールデンウィーク終わっちゃったけど 最近尿酸値が上がってしまってドクターから飲酒を控えるように言われた。
特にビールはいけないとかで、この夏乗り切れるか心配だ。 常盤緩行線の始祖みたいなものだけど、昭和11年松戸電化と24年取手電化間に
松戸取手間にガソリンカーによる区間各駅停車が走ってたらしい。
このガソリンカーはキハ42000かな?時刻表では今10分程度の松戸柏間を18分で走ってるから結構な速度。 私はガソリンカーは知らない。
古老によると、
松戸まで日暮里停車のSL牽引が、松戸から各駅停車だったようだ。
昔のこと故はっきりしたことがわからないのは、仕方ないかもしれない。 >>862
当時は北松戸・新松戸・南柏がなかったからね。 862 ですが、865-867の情報どうもありがとうございます。やはりキハ42000の系統ようですね。wiki情報だと旧軍の本土決戦用の闇ガソリンを使っていたとの事。多分乗客も闇食料買い出しの客で寿司詰め状態だったのでしょう。
燃料も闇、客が運ぶ米も闇。転覆して安治川口
みたいな事故にならずによかった。 >>863氏の古老さんの語る北小金に停車する青森行き各駅停車の話にロマンを感じて調べてたらガソリンカーの話にぶち当たりましたですよ。人が寝静まった夜10時11時に蒸気機関車、もしかしてC51?牽引の青森行き客車列車が入線して出発。多分前の駅馬橋や次の駅柏駅での出発の汽笛は北小金でも聞こえたでしょう。
本来上野常磐線周り青森行きは急行801列車の設定があり、(もしかして牽引は18900?!)
大正12年時点で上野夜10時青森翌日午後3時15分着
これが昭和の終戦直後では運休。
各駅停車803列車が上野夜1030青森夜715と4時間も遅くなっている。その後石炭事情悪化の為か上野発が1時間繰上げ。。 >>870
1925年の復刻時刻表を見ると下り803列車上野6:25発、北小金7:20、
青森が翌日17:20着の列車があったようです。