【酒盛】懐かしの常磐線【列車】
常磐線
(上野)日暮里〜岩沼(仙台)
青電103系、中電401系、ボンネット特急ひたち、EF80客車列車・・・・・
未だ見通しの立たない広野〜原ノ町・相馬〜亘理・・・・・・ 北千住と柏通過の旧客鈍行が記憶にある俺、
ひたちの北千住停車を知って、これは実質
急行だろ、よくある増収策だよなと思った。 急行が無いのに特別急行があるのもおかしな状態だったしな。 十五年ほど前、勝田駅でフレッシュひたちを待っていると、おばちゃんが
「今度来る列車は急行ですか?」となず寝てきた。
俺が「特急ですよ。今は急行は走ってません。」と答えると、おばちゃんが
「柏に泊まります?」
俺が「泊まります。」と答えると、おばちゃん
「ああ。急行だわ」
おばちゃんは、スーパーひたちが特急、フレッシュひたちは急行と定義していたようだ。
この頃は割引回数券もあったし。 ↑
なず寝てきた。→尋ねてきた。
泊まります→止まります
変換ミスだらけw 昭和60年国鉄「お前らそろそろ金あるんだろ?シケた事言ってねぇでトッキュウ料金払えや」 足立区生まれ育ちのオレは北千住駅は
ローカルな東武鉄道に対して最寄りの大日本国有鉄道常磐線への入口。常磐線はもっとも
親しみのある路線だ。東武線ホームにいると
一つ目DD13がガラガラヴォーと紫煙吐いてウロウロする連絡入換線の向こうは、エメラルドグリーンの103、赤電、運が良ければひたち、みちのく、ハチマルの引く客レ、ときわなど
輝かしい大国鉄の車輌たちが疾駆していくのだった。幼児連れは早朝や夜間は家にいるので、ゆうづるの24系や583系はお目にかかる機会はなく、初めて見たのは中学二年一人で都内を
ウロウロすることが出来るようになってからだった。既にハチマルよりも北陸から来たというハチイチの方が多かった気がす。関門海峡からはるばる来たコルゲート塗りつぶしの300
番台のハチイチが貨物ひいてた。あと隅田川
からの貨物線は宇都宮のゴハチをのんびり撮れる穴場であったw >>278
連絡入換線が有ったあたりはつくばエキスプレスが乗り入れ隔世の感があるね EF80やモハ484など屋根上にパンタを二基搭載している車両は上野では二基上げているのに
茨城県内は片方(進行方向から見ると後方)だけしか上げていないというのが常磐線特有のミステリーだったよな。 闇の車販屋をやって酒売ればいい商売になったかもしれない。 >>280 取手・藤代間の交直切り替え区間、デッドセクション通過時に、切替後に架線から電気が流れてこないようなリスクを防止するため、予備のパンタも上げておくということではなかったっけ。 286です、訂正。直流区間ではパンタ二基必要だが、交流区間では電圧が高いから1基で十分集電できるということだった。
しかし、湖西線で485系が二基上げていたのは離線対策というし、線区や車種によって事情は異なるのかもしれない。 調べてみたら確かに電圧や離線対策の関係で直流電化区間は2基必要だが交流では1基で事足りたとのこと。
ただ走行中でのパンタの上げ下げは危険なので直流区間から交流区間に入っても最初の停車駅までは2基ともパンタを上げたまま。
勿論、片方は上げているだけで集電はしていない状態になっていたと。
常磐線の『ひたち』の場合、国鉄時代は上野ー水戸ノンストップだったのでその区間は2基上げてて水戸で上げ下げしてたみたいね。
他の区間も同様だったんだろうな。
東北線なら郡山でパンタ上げ下げか。
>>287
国鉄時代の湖西線は京都側から近江塩津の手前まで直流区間だったからパンタ2基を上げてたんだろう。
で北陸線に入った最初の駅で上げ下げと。 山陽―九州特急なら門司、小倉、博多でパンタ上げ下げ。
『白鳥』は東海道線や信越線は2パンで北陸・羽越・奥羽線は1パンか。 急行つくばねは水戸線入ってから下館で上げ下げしてたのだろうか?
それとも全区間二基とも上げたままか?パンダ上げてトラブル生じた際に対応できる職員を、下館あるいは結城に配置していたとは思えないし 『つくばね』は7両編成でパンタ2基、『ときわ』や『もりおか』は11両編成で3基有ったから、
一部は上げ下げしてた? 編成での話じゃなくてモハ一輌に載ってるパンタの事だろ? 郡山で485系特急のパンタ上げを見ていたが、下げのついでに交直切り替えのテストもやっていた気がする
急行も一旦下げて交直切り替えテストをやっていたんだろうか
>>288
スレチですまんが、485系の上り「しらさぎ」は長浜で上げていた >>295
和歌山のアドベンチャーワールド、パンダが6頭もいて感激した。 >>296
切り替えテストは下りの場合上野でやってますな。
今もやってたような?パンは上げたままで。
上りは郡山や水戸でパン上げついでにやってましたね。
本線急行は黒磯で車上切り替えだったので、
テストは無しでパン下げして電源切り替えでしたが。 >>288
白鳥なんかは大阪を両パンで発車した後
敦賀でパン下げ、富山でパン上げ、酒田でパン下げですな。 >>298 今は圧縮空気の破裂音がなくなったからな。415や485が上野で鳴らしていた。 >>297
上野動物園でパンダが誕生してらしい。
公開されたら見に行きたいね。 >>301 プッシー‼ バン‼ ...クォォーーーン
は門司小倉が印象的だが確かに上野駅でも
聞いた気がする。 >>302
コロナのため、1月は3日間だけの公開に決まったらしい。 大昔、勝田から客車に乗って
上野動物園にパンダを見に行ったな 大昔、パンダはいなかったように記憶してるけど・・・
確か昭和47年だったかな。ちょっと前だね。 カンカンとランラン見に行ったぜ
小さい頃
その頃赤電じゃなく、
電気機関車に引かれた客車でワザワザ行った覚えがある
青だけど銀河鉄道999みないな
ボロ客車でよ 422レ
原ノ町619、平811、勝田947、水戸1003、土浦1112、我孫子1153、上野1227(9番線)
あたり? ボロ客車と言うけれど
スハ43系だから昭和47年当時だと一番古いのでも製造後20年位
常磐線のE231系は導入後今年で20年目
という事実 >>310
来日したばかりの頃は、万博の月の石並みに並んだね。 1972年のことを1970年のことで例えられましてもw からんからんからん 良い人ね
からんからんからん 良い人よ
真っ赤っかの赤電 乗りたいな♪ んでも、客車はなんだか好きだったなぁ
遅せーわ、ガッちゃんガッちゃんうるせーわ...むしろそれが味とわかるまで、そんなにかからなかったよ
あと、床が木でワックス臭かったり、エアコンなくて暑かったりな(笑)
いい時代だった >>320
でもモーター音やエンジン音がしないからある意味静かだった気がする。 80年代の中頃、野田の理科大に受験しに行ったとき、東京から常磐線の103系快速に乗って、そのスピード感に驚いたなあ。
車両は関西にも走っているが、使われ方が違うものだと思った。 昭和20年代から57年までの常磐線旧型客車の
形式の移り変わりがどこかでわからないかなあ? スハ32狭窓とかダブルルーフとか、
背中が板の61型客車とかがいつ頃まで使われて
たか、とか。基本的に尾久客車区の客車で
昭和50年前後にはTR-47履いた急行用のスハ
43などが使われてたけれど、いつのどんな
ダイヤ改正で急行用を回せる余裕が出来たのか
とか知りたいな >>327
昭和45年くらいの成田線直通には尾久の32系を中心に使っていた。
青い43系がローカルに回るのは八甲田や津軽などに12系が入ってからでは? 成田線、電化したらEL牽引になるかと思っていたが、103系とはショックだった。 >>330 線内折り返しはキハ35系等のDCだろ。
電化時までDL牽引の客車列車で上野直通だった方が異例。 103系にしては長距離。お便所がなくて困る人もいるだろう。 >>332
1978年に宮脇俊三の娘がその場面に遭遇し、成田駅まで我慢できなくなり、
木下駅で交換のため数分停車の間に、プラットホームから車両の連結部分へ放尿しましたとさ 早朝の成田発上野行き。
行商のおばちゃんがたくさん乗っていた。 行商のおばちゃん、都内に沢山お得意さんいたんだが、1994年の米不作の時に、自分のとこの
米を高騰した相場で売って総スカン喰らって大分客なくしたらしい。 そんなこともあったんだ。
いくつかの駅には荷物を置く台が残っているのがすごいと思う。 >>338
座るところとはちょっと違う。
荷物置く台、一休みして背負うとき楽なのだそうだ。 >>340
そうだよ。座るには少し高いね。
座ってる人も見たことあるけどね。 >>334
千鉄局は昔から長距離なのにお便所なしが多い。
房総電化の頃のモハ72,総武線からの直通快速、未だに、京葉線からの列車は上総湊・勝浦までお便所なしで走っている。 今昭和40年の暮らしの手帖で千葉の行商のおばさん記事読んでる。ズラリと並んで座ってるのはつり革から72系と思われる。30代に見える人もいて平成の世のお婆さんの若かりし頃であろう。 >>331
貴重な気動車を長大編成組ませて、夕方まで尾久で昼寝させる訳にはいかなかったんだろ。
しかしDE10か。
C57のスジで走れれば十分と見込んでの登板だったのだろうけど、高密度の電車区間を延々と横向き運転かよ。 昭和40年暮らしの手帖81より
・千葉県から東京都への野菜類の行商は、関東大震災後、食糧を供給する事から自発的に始まった。
・この時点で千葉県の行商者数4500名、うち
成田線沿線は2500名
・一般乗客との混乗での混乱回避のため、
国鉄は行商のために3列車を指定列車とし、
さらに編成中の車両を専用指定車として割当てる
・さらに成田線出荷組合という自主組合が組織
されていて、列車と乗車車両を各行商者
割当てる ・指定列車と割り当て客車数は下記の通り
一番 上野直通 822レ 10両/11両中 成田 435 我孫子529 上野 629
二番 上野直通 824レ 同 5/10両 518 622 713
三番 我孫子止まりで乗り換え 2826レ 3/6両
714 818我孫子着 常磐線国電乗り換え
後部 2/?両 我孫子834発 上野着不明 ・三番列車の画像あり、オハフ61 162
牽引はこの時点では佐倉機関区のC57と思われる。
・行商によって持ち込まれる野菜類の重量は
ひとり50キロとして4500人で225トン、
東京卸売り市場に運びこまれる量は4200トン
市場経由の5パーセントの量が、行商のおばさんが担いで持ち込んでいる計算 行商のおばちゃんはどんな下履きを履いていたのだろうか? >>346 1965年当時、成田線我孫子・成田間各駅のホームは10両編成に対応していたということなんだろうか。
まだ、我孫子以遠まで東京への通勤圏に入ってなく、拝島から先の五日市線と似たようなものだったと思うが、ホームの長さの違いは後者の方が国鉄に統合された時期が遅いことによるものだろうか? >>352
電化する直前にホームを延長工事している駅もあったように記憶している。 346 ですが、航空写真アプリで見たところいまいち鮮明ではないけれど昭和40年の画像では
白いプラットホームが6両分位?しか無い感じ。現在の画像と比べて3割4割短く見える。
記事には書いてないけれど、その駅の指定車両と一般客向けの車両だけがホームに掛かるようになっていたんじゃないですかね? >>354
行商のおばちゃんに聞けば真相がわかるかも >>333
電化当時は上野直通は103系、線内ローカルはモハ72だったが、その後、113系になった。
使い方が逆な気もするね。113系だったらお便所もあって良かったのにね。 >>357
我孫子駅で大阪から転属してきたオレンジのモハ72を見たときは感激した。
古いのにフレッシュなイメージだった。 >>358
首都圏で見るモハ72は茶色ばかりだったからね。 >>358
我孫子で113系ブルーライナーを見たことがある。
こちらも大阪からやってきた車両で、とても新鮮味があった。 国鉄時代は全国規模の配転が有ったから面白かったね。 ボンネットでそろえられた頃の485系
門ミフ、鹿カコも見かけた 103系も色々なところから転属していた。
大ミハのイエローは福知山線短編成化で捻出した代物だった。 西ナハからの転属車もあった。
いきなりこき使われて、びっくりしたと思う。 かなり以前から常磐線の酒盛りは見られなくなった。
昭和のモーレツサラリーマンも既に鬼籍に入ってしまったのだろうか? なんだろうね。地下鉄サリンや阪神・淡路大震災の1995年位から世相が変わり始めたのかな。
1984年位の常磐線はドゥテルテ大統領みたいな
団子っ鼻のフィリピンパブのお姉さんがよく乗ってた。 >>367
たしかに。
それにしても団子っ鼻の姉さん等
とその同郷らしき男達は
とにかく香水臭くて鼻がもげそうだったの思い出したよ おお、分かってくれるかね? あれは香水だったのか、それとも体臭だったのか分からん。
そうだあれはフィリピンパブじゃなくて
フィリピンダンサーと言っていた。
フィリピンパブ好きの友人に、よくあんな
団子っ鼻お姉さんのとこに行くよなって言ったら、それは昔の話で今はフィリピンの選りすぐりの別嬪さんばかりだと言っていた。因みに
2008年リーマンショックで原油相場が暴落
した時は産油国ロシアが経済危機になって
ロシアンパブにお蝶夫人のような
お姉さんがよく居たという話だ。