【酒盛】懐かしの常磐線【列車】
常磐線
(上野)日暮里〜岩沼(仙台)
青電103系、中電401系、ボンネット特急ひたち、EF80客車列車・・・・・
未だ見通しの立たない広野〜原ノ町・相馬〜亘理・・・・・・ >>153 電気機関車は公直流のEF80しかなかったんでは。70年代半ば頃だと、赤羽行けばEF15に58に65と色々見れたものだが 70年代後半に関門からEF80-300が2ヶ転入した辺りからか 1964年秋 準急ときわで平まで、行ったらSLが待ってた。 上野から松戸まで電化が完成したころの普通列車の停車駅
上野ー日暮里ー松戸ー馬橋ー北小金ー柏ー我孫子ー取手ー藤代ー佐貫ー牛久ー荒川沖ーその先変わらず 水戸以北のド田舎に住んでいて、たまに所用で東京に出ることがあった。
ド田舎民ながら常磐線=上野各線の中でも最底辺のド田舎の路線という印象を持っていたんだが、
我孫子ー北千住の間だけは近未来的な営団6000系が見られるので
「俺、本当に常磐線(こっちは赤電)に乗っているのかな?」と不思議な感覚になっていた。 全盛期の夜間は、ゆうづる、十和田、貨物列車も多数走っていたろうに、
平ー岩沼の全線複線電化が見送られたのが不思議。 >>164 定期運行でゆうづる5往復に十和田1往復の計6往復、貨物列車は少ない。貨物列車の本数で東海道線とは比較にならない。 電化がまだ取手までの頃、
北海道に転勤した親父や家族と一緒に赴任する時、
上野駅の地上ホームの今は「四季島」は発着する番線に、
青函連絡船に接続する夜行急行「北斗」が夕方で出発に迫る時刻。
その急行「北斗」の後部改札口寄りには、
何両かの荷物車と郵便車が連結されていて、
ターレーに引かれた荷車が新聞の包みを満載にして、
狭い荷物ホームに連なって、
シャツ姿の人夫さんが秒速で新聞の包みを荷物車に放り込んでいる。
発車時間を気にしている助役さんがしきりに時計を眺めて、
積み込み状況を見守っている。
その頃私達家族はもう「北斗」に乗り込んで、
寝台車の所定の席についている。
発車のベルがなかなか鳴りやまず、
父は新聞の積み込みが長引いていると語る。
ちなみにそうした新聞(全国紙)は北海道まで運ばれて、
翌日日付遅れで配達されると知った。
思えば全盛時代の光景、
ちなみに北海道内の接続は急行「まりも」で根室行。
赴任先に着いたのは翌日の夕方頃。 昭和のいつ頃までかね?電気機関車に引かれた客車が常磐線走ってたの。
好きだったんだよなぁ〜 >>6
これ覚えてる
常磐線には、東京周辺の路線から古い車両が寄せ集められて、カラフルな編成で走ってた。
そんな、吹き溜まり状態の常磐線に怒りを感じた鉄ヲタが、爆弾を手にして常磐線を走る電車に特攻しようとする話。 >>168 松戸出たら我孫子まで停まらない(北千住も通過だったか?)ってのに、上野から土浦まで1時間半かかる鈍足ぶり。81年春に乗ったが、都内発の客車鈍行は常磐線しかなかった。完全廃止されたのがその数年後だったかな。 >>168
平より北側なら、84年まで走ってたような気がする 昭和46年頃の早朝の松戸駅3・4番線ホーム
3番線には成田発のDD51牽引の上り客車列車、4番線には千代田線からの営団6000系。
双方が並ぶ時間が合った。あと二年早ければC62牽引だったはずだ。
そんな鍼灸のご対面があったが、残念ながら営団6000系も鬼籍に入ってしまった。 >>175 その当時でも中電より遅いだろ。荒川沖まで一時間半だったかな。 上野口の旧客は1982年までだったような
下りは仙台行き2本、平行き1本
上りは浪江発1本、平発2本 >>181
普通車が43系で統一されてると、急行みたいな佇まいだね。 日暮里で「飛び乗りはやめてください!」と絶叫してた覚えがw 今は白のスーパーひたちがまだひたちという名前で肌色に赤のラインだった頃
昭和50年代でしたかね?
酔ってウキウキの父が突然、四倉〜平(当時の駅名)に乗せてくれたことを今でも覚えています
金持ってんのか大丈夫か!?と子供ながら滅茶苦茶心配でしたが今では良い思い出です
今はもう名前も形もすっかり変わりましたが、コロナが落ち着いたら今度は息子と一緒にスーパーひたちに乗りたいです >>あ、いえ
こちらこそ懐かしい画像ありがとうございました。
43系のみならず郵便車も懐かしいなぁ 急行健在の頃は平以北でも急行の乗車率が良かった記憶だな。
所定なら勝田回転の付属編成をほぼ毎週末仙台まで延長していた。
もりおか1号で下ってきて仙台で切り離された付属編成は折り返しもりおか4号に連結されるんだけど、仙運には引き上げずに駅構内の側線に留置されてた。
乗りの良かった急行だが、60年改正で特急化と普通増発で特急はガラガラになってしまった。 >>192
急行がたくさん走っていた頃の常磐線は我孫子が急行停車駅で、柏は快速通過駅だった。
それが特急ときわの停車駅が柏になって、我孫子は特別快速も通過になった。
栄枯盛衰を感じるね。。 >>193
全特急が通過していた勝田が全特急停車駅になったのも地味にすごいなと思います。
反面、常陸多賀の通過が増えましたね。
大甕と東海も増えつつありますが。 >>194
え、今常陸多賀通過の特急なんて有るの?
信じられん・・・。
茨城県内では水戸・常陸多賀・日立は全特急停車だと思っていたが
というかかつてはその3駅以外逆に通過だというイメージが・・・
どんだけ日製落ちぶれてるんだよ。勤務先も日立グループから切られたしw 日立のコマーシャル「この木なんの木気になる木」に出てくるグループ企業
昔より大分減った。 この木なんの木、企画本部長の木だったからなぁ...逮捕 日立からの特急利用客もかなり減ったよね。
高速バスと日製の影響なんだろうけど。
昔は水戸・日立・平での乗り降りが活発だったが、
日立・いわきががた減りし、水戸と勝田でなんとか持ってる感じかね。 >>198 日立方面行く高速バス、上りは首都高の渋滞に巻き込まれ易く時間が読めないのでは?
かつてのつくばセンター行きがそうだった。 >>200 時間帯にもよるが平日の朝や夕方の上り、首都高入ってからがよく渋滞するよ。
四ツ木や箱崎のジャンクションがネック。 いやそういう意味じゃなくて、日立方面行きとかつくばセンター行きは下りなんじゃね?ってことw。 駅の格が時代と共に入れ替わるのは必定
常陸多賀は…そういうことか >>204
上野・取手間だと減ったけどね。
最盛期は快速停車駅だと三河島・南千住・天王台以外停車する列車もあった。 ひたちは勝田以北の停車駅増やさないと客が集まらないからなぁ 普通電車の数が激増
昔は、本当に1本/1H、夕方は2本
朝方の上りは本数がさすがに多かったが、数本まとめてきた後には1H無しとか
東北線高崎線も似たような感じだったです >>176
成田線直通客車は、SL時代は佐倉のC57、C58で、DL化後はDE10だったかと。 >>209
あまりにも昔の話なので記憶が曖昧になってしまうね。
往時渺茫として全て夢に似たり >>209
下総松崎のホームにたたずんでいると今でもSL牽引の列入線入線してきそうだ。
昔から全く変わらないからね。 最近は酒盛りしている人を見なくなってしまった。
かつての猛烈サラリーマンの人たちもそろそろ鬼籍に入る頃かもしれない。 コロナ禍の今の時代、車内で酒盛りしたらおそらく逮捕されるだろうな。 日暮里に70年代まで東北本線ホームがあったけど、
どんな列車が停まってたかわかる方いますか??
Wikipediaには「一部の臨時列車」としか… >>215
昔、古老に聞くと昭和初期には普通に停車していたとか。
その後はほとんど停車しなくなったとか。京浜東北線の開業によるとも聞いたことがある。
昭和30・40年代のことは覚えているけど、屋根もなくかなり朽ち果てている印象(カフェが
オープンする前の万世橋駅みたい)臨時列車の停車も有るとは考えられないくらいの状態。
緊急避難的な停車はあったかもしれないけど・・・ Wikipediaの「一部の臨時列車」は終戦直後の混乱期かも・・・ >>218
騒乱罪ってのは多衆が集合して暴行・脅迫を行うことにより公共の平穏を侵害することを構成要件とするから不可能
書き込む前にググれば? >>219
酒盛りする連中が集合して、コロナ蔓延に対する精神的暴行、コロナ感染に対する実質的脅迫になり
車内の他の乗客達の公共の平穏を侵害することになるのでは・・・ マスクなしで騒ぎながら酒盛りし、他の乗客に恐怖を与えるため車掌が中止を求めたにもかかわらず止めないようであれば、威力業務妨害罪が成立する可能性があるな。
さらに車掌や他の乗客に腕力奮うようであれば暴行罪。いずれの罪でもその場に居合わせた者が現行犯逮捕可能。酔客を捕まえて警察に渡すことができる。 >>220
>精神的暴行
0点
法律用語くらい調べてから書け
インターネットは馬鹿を晒すためのものじゃないぞ 相手が精神を害するほどの心理的威圧を与えれば傷害罪になるとされているけどな。腕力等の物理的有形力の行使なくても。
数人がマスクなしで大声で騒ぎ立てて相手を取り囲み、コロナ感染の恐怖でトラウマにさせるほどであれば。 最近座席に正座して座るおばあちゃんを見なくなった。なぜだろうか? >>227
最後に見たのは10年くらい前だったかな。 >>225>>226
どちらも甲乙つけがたいほど怖い 電車内で臭いおならをしたらどんな罪になるかな?
因みにスカンク並み。 >>233
あまりの悪臭に、逃げ惑う客で将棋倒しが起こり、更に嘔吐する乗客達で
阿鼻叫喚の車内になってしまい、列車は非常停止ボタンが押され、緊急停止。 >>227
座っていたら脱いだ草履が盗まれる事件が多発したから。 現在の常磐快速線では、成田線開通120周年とのことで、なぜかスカ色の帯を巻いたE231が運行されている。
長い成田線の歴史の中で、スカ色の113が走ったのはごく短い時期なので不思議な感じだ。
でも常磐線にスカ色の車両が定期として走るのは1957年頃の山スカモハ71以来だと思うので
ある意味快挙かもしれない。 >>237
どうせなら、旧型客車の濃紺、国鉄気動車色、旧型客車とモハ72の茶色、
一時期天オトからやってきていた113系阪和色、オレンジのモハ72も再現してほしかった。 103系には各地から転属して各色観られた時期もある。
カナリア、オレンジ、ウグイス、スカイブルー、千代田線乗り入れ色。
これらも成田線乗り入れ運用に就いていた。 最近社内で酒盛りしている姿を見かけない。
かつてのモーレツサラリーマン達も既に隠居か鬼籍に入ってしまったのだろうか。 昔は普通列車内で弁当を食べる客もいたと古老に聞いたことがある。 >>243
駅弁なら普通に食べたよ
土浦とかタイミングが合えば日立とかで 中電でも4ドアロングの車両が増えれば、酒盛りする雰囲気無くなってくるわな。 科学万博の頃に比べると労務者が減ったのではないかな。
その頃は建設土木工事が多かったし、仕事帰りに車内で一杯というグループの乗客が結構いた。それが常磐線のイメージを悪くしていたんだが。 ↑訂正
11月号の鉄ピク、常磐線特集だ。買わないと。 >>245
10年以上前のお話
もう10年以上常磐線浸かって日立へ帰ってないよ >>250
残念ながらなかった。
地下鉄直通が主な話題 普通列車が上野-日暮里-松戸-馬橋-北小金-柏-我孫子-取手 の時代が懐かしいね。 土浦にうなぎ弁当あったよなぁ〜
一番線ホームで、売ってたの
あれ仙台行きのお客用だったのかな? E501新製投入時上野-土浦限定運用で土浦終にも使ってたけど
終電は割とすぐに415系列に戻された
ロングはともかく酒盛り線の終電にトイレなしはきつかったのかな
仕切りドアも殆どついてないから連結部での非常用トイレも厳しいw