仙石線 仙山線
仙石線の特別快速【ノンストップ】は休日だけの運転だったなぁ〜。 上野駅の19時発の最終特急ひばりに乗るのに、
田町駅(会社が終わるのが17時30分)から上野駅へ急いで移動して、更に混雑が酷い
上野駅構内を走ってホームへと若かりし時だったがキツカッタ。
で、仙台駅に着くと仙石線のホームへ(あの時代は半地下の通路)を移動して
最終の電車で下馬駅へ
そこからは、もう路線バスもない時間なので金のあまり入ってない財布から
千円札を出してタクシーで実家まで帰ったわ。
あの頃のタクシー料金は覚えていない。
で、逆に夜行急行で帰省して仙石線始発で乗っても始発路線バスまで少々時間が
あったのでバス停で待ってるしかなかったわ!!。 >>189
その塩竃交通のバスが君が岡を下って
花渕浜方面に走っていたらしいんだが
これは聞いた話しで(おれは生まれていなかった頃)
現在でさえ乗用車同士が交換するのが無理な細い道を
バスが進入してきたらしい。
そのころは現在の七ヶ浜町(当時は村であった)の
海沿いを走る県道はなく、昭和32〜33年から東北電力
仙台火力発電所(代ケ崎浜)の建設が始まったころに貞山橋ができて
塩竃(多賀城)と陸続きになったんだ。(笑) まぁ、余談ですが
むかし東京の会社に勤務していた時に、社内旅行で黄色いバスを貸し切って
伊豆稲取方面に1泊2日で旅行に行き、そのご先輩がその時のガイドさんに
話しをつけてガイドさんたちと飲み会になった(いまで言う合コン)。
で、なんの流れか未だにわからないが青森出身のガイドさんのアッシーになってしまって、
その人がなんかの事情でガイドを辞めることになり上野駅まで拉致されて夜行列車で
帰郷することになって上野駅改札口まで連れていかれてそこでサヨナラになった(笑)。 快速で誤乗が多発してたのでやたらと案内放送で停車駅をアナウンスして注意を促してた事もあったが
それでも間違う奴は間違うて事で途中で止めてしまった
国鉄〜JRの接客には問題があるとは思ってるがこれは仕方ないと思ったね 前発 各停
次発 快速
のパターンでは運転本数が限られてくるので
現在の仙石線の運転方法は理にかなっている
あおば通り駅から本塩釜駅間でも快速と各停では
たぶん、7〜8分の到達時間の差しかなく
この時間差を使えば各停を1本差し込める
っうことは、それだかお客さんを運べる
これはJRにとっても利用客にとってもメリットがある運転方法である。 70年代の時刻表で仙石線、特快、快速で10種類くらいの運転パターンが示されてなかったっけ。 仙石線は快速の停車駅パターンころころ変わってたからなぁ。
榴ヶ岡と宮城野原だけ通過であとは各駅停車なんて時期もあった記憶が。
仙山線も特に平成に入ってからは大概ひどかったが、
これは遠からず、仙台−愛子間は各駅停車で統一されそうだね。
愛子から東側で目立って乗客の少ない駅なんて葛岡しかなくなっちゃったし。 それは懐かしさの度が過ぎてるwww
スレからはちょっと脱線してしまうが、2枚めの画像下の方でちょん切れてる
仙台鉄道の時刻も見たい。差し支えなければ是非うpを。 すまん。仙台鉄道の時刻載ってたね。おま環で見られなかっただけだった。
それにしても全体に運転本数が牧歌的なのに、
宮電だけは今の大都市圏の時刻表と似たような表記なんだなー。 >>210
仙山線の上り350列車が興味深い。
奥新川始発、八ツ森通過の作並行き。
時間帯から見て通学向きとかだったんだろうか? あおば通から石巻行乗車。
仙台から航空ファンや家族連れが大量乗車し激込み。
聖火が来るのか その話なら路線車両板に書いた方が応答多いんじゃないかな。 記憶にある方がいたら教えてください
かつての仙石線って風に弱いイメージがあったんだけど(今も?)、実際はどうだったんでしょうか?
うん十年前に石巻〜仙台を通学で使っていた親に聞くと、風で電車が止まって通えなかったなんて記憶は無いって言われて、そうだったのかと思ったんだけど実際のところ他の人の意見も聞きたくて。
とくに鳴瀬川橋梁の架け替えなんかは風対策の意味合いもあったような気がするけど、当時小さかったもので確たるものが無く… 強風で止まった事はあったような気がするが
風に弱いという印象は無い >>222
去年、猪にぶつかって熊ヶ根で長時間停車に遭遇した >>222
そうだったんですね
ありがとうございますm(__)m 99年までの仙石線は地上ホームだったかな?いかにもローカルと言うか、下町路線だった。2000年に乗ったらいきなり地下で驚いた。 カメラ持ってタイムスリップしてもいいよと言われたら、1960年頃の作並駅一択だな。 1970年後半に訳ありで東京都内に勤務していたが、
会社就業後に、上野発の最終ひばり号に乗るには
会社から10分強歩って田町駅に移動して、そこから上野駅へ
電車ホームを降りて上野駅構内を走って移動しないと乗り遅れてしまう
恐れがあった。ひと眠りすると(4時間も寝ていたのかよ)仙台駅に着き
階段を降り地下通路のある時代だったので(結構距離はあるんです)
薄暗い仙石線ホームへ着いた記憶が蘇る。
特急ひばりに乗り遅れた場合は公園口からエロ映画館街で日活ロマンポルノを見て
夜行急行が出るまで暇つぶしをしたもんだよ。 仙石線で先日、人身事故があったらしい。
遮断機がない踏切と鉄橋の近くらしい。 1962-2
八ツ森駅
3333レ「第2仙山号」臨時停車
クハ490-1
https://i.imgur.com/y441ppQ.jpg 平成のあなたに昭和の爺が【特急ひばり】を説明しますね。
上野発 1号がam7;00発で仙台着がam11;15の
東北線経由のビジネス特急で 夜19;00発の27号まで運転していました。
27号で仙台に到着すると(23;15分着)仙石線・仙山線・東北線上下線最終列車に間に合いました。
当時は、東北各県庁所在地への花形特急と青函連絡船への乗り継ぎ寝台夜行優等列車が
走っていたんです。
まぁ、京浜東北線・山手線田町駅から17:30分の会社終わりに乗る場合は混雑する
電車ホームからダッシュで長距離列車ホームへ移動するのは大変でしたと
いま頃になって爺は想いだしてます(笑)!!。
まぁ、乗るのを諦めて公園口からエロ映画館街へいったときもありましたが・・・
その後、夜行急行に乗る為に再度改札をくぐり急行ざおう・いわて号などに乗り翌朝
仙台駅に着いて仙石線の一番電車に乗るんですが、その頃はまでホームの北側から地下通路を
通って仙石ホームへ行ける時代でした。
この頃の仙石線は72系の片開きのドアでしたが懐かしいですね。
で、通勤で蕨駅から田町駅まで京浜東北線を使ってましたが1976年当時は103系の
大宮側が低運転台で大船側が高運転台でしたが編成的には3両(大宮側)+7両の10両編成でした。 1976年当時冷房車どんなもんでした?
TVドラマには山手線くらいしか恐らく
TVドラマには出てこなかった筈ですが
103系は高運転台車しか基本的に冷房車
103系山手線なかった様な記憶あります
大映テレビドラマ赤いシリーズのような
大映テレビドラマ赤いシリーズ赤い運命
結構小田急線は出てきてましたが基本的
急行も含め非冷房車ばかりだと思います
そんな時代なので仙石線言い方悪いが偽
72系電車と言うかいわゆるアコモだけは103系電車と言っても勿論非冷房ですが自分も含めて概ね好評だったようですね東北本線の普通列車は基本的に旧型客車またはディーゼルカーばかりの頃ですが朝夕ラッシュ時限り急行電車間合い入りこれに限って冷房車なの実に皮肉でした 1976年には京浜東北線に冷房車が走っていたかでうだか不明ですが
1977年には走ってましたね。
それが大宮寄り3両か大船寄り7両かは不明ですけどもね。
で、仕事で都内を移動する場合は隣合う山手線のほうが冷房車が
多くは走っていたので、田町からの並走区間はなるべく(絶対)山手線でしたね。
仕事柄、山手線大崎方面(そのころは駅前はなんもありませんでした)や恵比寿駅乗り換え
中目黒駅までが多かったので〜。
田舎ものは渋谷駅構内で迷子になるので日比谷線で行ってました(笑)!!。 その大宮寄りが101系で
東京寄りが103系だったとは
年金を貰う歳になって気が付いた 平静初期の頃、583系つがるが仙山線を走ったことがあるけど、乗った人ほかにいる? 乗ったことはないけど、沿線で深夜に働いてたから、見てはいた。
なかなか貫禄のある姿だなーと思ってた。 昭和50年代前半の仙石線ホームの照明が暗かった記憶なんです。
上野駅から最終のひばり27号で到着し(23:15分着)仙石線ホームへ小走りで移動
終電の仙石線は折り返しのため、その時間帯にホームに入線していたか
どうかは記憶が定かでないですが・・・
で、終電で下馬駅へそこからタクシーで我が家へ
本塩釜駅で降りるとタクシー代が高くなるから(笑)!!。 2003年だけど、秋田車の臨時列車が仙山線走ってたから乗ったよ。
6両編成で仙台山形間を往復した。
空いていてガラガラだったなあ そんなことを言われてWikipediaを調べたら
S-PALの開業が1978年との記述がある。
今初めて知りました(笑)。
まぁ、電車から降りて市内を散策することもなかったので
しかし、七十七銀行の本店ビルが竣工して斜め向かいの富士銀行のビルが”ショボく
なったんだ”と東京の会社へ戻って ”みやげ話し?”をしたことは覚えている。 で、1975年以降の下馬駅が想いだせない。
45号線の下馬バス停から国鉄仙石線への通勤通学時間帯の歩行者の行列は
いまでも強烈に蘇ってくる。
朝の通勤通学時間帯はam7:00頃から七ヶ浜方面(宮城バス・仙台市営バス)から
頻繁に到着し、更に下馬周辺の地元民が加わり、下馬駅までは通勤通学客の行列が繋がっていた。 その頃は、多賀城駅前(構内)にはバス停がなく
国道45号線(現在の吉野家の付近)から歩くしかなく
バスの便も七ヶ浜循環の仙台方面へのバスしか走ってなかった。
だから、通勤通学客は圧倒的に運転本数が多い菖蒲田・割山(花渕浜)からの
本塩釜行きを利用して下馬駅から仙台方面に通勤通学していた。
それに、その頃は私学の通学バスもなく路線バス一択だったんだよね。 491形は試験だけだと思っていたが 客を乗せ営業中の写真があるんですね この頃の2次交通の路線バス全盛期っうか
国鉄仙石線が仙台〜本塩釜では現在(平成期)のように利便性が高くなく
仙台〜塩釜の路線バス宮城交通(宮城バス)が1時間に4便・仙台市営バスが3便と
七ヶ浜循環線仙台行きや岩切・七北田経由仙台行きの路線バスも運行していた時代でした。
宮城交通(宮城バス)の塩釜営業所にはかなりの台数のバスが配置され、市バスの塩釜車庫
にもおれの記憶では8台〜10台は配置されていたと思う。 でも、SONYの多賀城工場(SONY仙台)の開設が1971年らしいから
七ヶ浜方面からの通勤で工場循環多賀城行きは運行していたし、
市バスの仙台行きも朝夕はあった記憶なんだが〜。 >>29
爺の曖昧な記憶によると、本塩釜駅(西塩釜方向)の手動式踏切のおっちゃんに
タブレットを手渡していたような記憶です。 むかし(昭和40年〜50年代)の、本塩釜駅(単線時代の)は本町側が利府方面のバスで
あの時代は栄町経由清水沢(ゴルフ場)と・利府方面が走っていた。
それと、国道45号線側は宮城バス・仙台市営バスの仙台方面・七ヶ浜循環(下馬・北遠山経由)の
路線バスが走ってましたね。たしか仙台方面は仙台ホテル前経由大学病院or北仙台行き(どちらか記憶にない)でした。
で、おらが幼少の頃は塩釜から七ヶ浜方面は巡航船(塩釜市営)で,代ヶ崎浜・花渕浜行きでした。
昭和35年チョット前から東北電力仙台火力発電所の建設が始まり、塩釜から七ヶ浜へは貞山橋(貞山堀)が
できて陸路で繋がるようになりました。それまでは七ヶ浜は貞山堀で塩釜・多賀城とは陸続きでは
ありませんでした。(たぶん) >>250
思い出せるわけがないんだよ
地元にいなかったんだから(笑)
出稼ぎに行っていたわ
その原因が、はがき1枚が届いて
3月末まで入寮してください
ハァ、おれ地元勤務でないにかよ(ど田舎の兄ちゃんが東京本店勤務とはビックこいたわ) で、その時の入社合格通知は電報だったわ
電報っうワードは死語だわな
その日は、屋根の上に登り開局したばかりの民放(UHF)の
映りが悪いのでアンテナの向きを調整していときに
電報の配達がありました。
なんの因果かわかりませんが、入社が数年経過して会社の書庫に入ったら
その某民放の完成図書がありました。
えぇ、宮城テレビの放送設備って おらほの会社で施工したの
で、おれが入社したのは創業130年の社歴がある通信機メーカーの関連の電気通信工事会社でした。 電報はむかしは電電公社で配達していたが
いまは郵便局で配達しているんですよね。 仙台駅 国電のりば
案内板覚えてる人いるかな
なぜか「の」だけ小さくて、遠くから見ると
国電の りばと読めて意味わかんね 他板から拝借です。
1960年のチリ地震津波のときの国鉄仙石線本塩釜駅です。
現在は(1981年)複線高架化されて違う場所(旧貨物駅)にあります。
http://jump.5ch.net/?http://sugimurajun.shiomo.jp/wp/wp-content/uploads/2021/03/BT0014-758x765.jpg http://jump.5ch.net/?http://sugimurajun.shiomo.jp/wp/wp-content/uploads/2021/03/BT0014-758x765.jpg http://jump.5ch.net/?http://sugimurajun.shiomo.jp/wp/wp-content/uploads/2021/03/BT0014-758x765.jpg 国鉄の駅で「のりば」という表示は他地区では見ない
私鉄やバスは多々ある 仙石線初乗車は、昭和51年
クモハ54が運転終了で野蒜に留置、営業運転は見られませんでした
快速が結構走っていて、停車駅がバラバラ
特別快速まで走っていました(仙台/本塩釜/松島海岸/矢本/石巻、と記憶) >>265
ホームに人すごいけど客なのか避難なのか 西塩釜駅に電車の留置線も存在していたね。
ホームから1段下がったところにあったと記憶してるが
留置線の車両を運用するときは、本線にあげて後退して
ホームに着かせたのか、本塩釜駅始発用の電車だったのか
そのへんは不明です。 >>268 避難者では。ホームの奥の線路上にも人がいるようだし。
駅周辺は冠水してるし電車動かせるとは思えない。 路線車両板にも同じ指摘をしてる人がいた
ていうかマルチポストはどうなんだとも思う… あ、マルチポストは>>270氏のことではなく、画像貼って昔話しまくってる人のこと >>267 交通公社大型時刻表の仙石線のページに快速、特別快速の停車駅一覧があり、10種類位のパターンがあったような。こちらも1974年夏に初乗車で仙台から松島海岸まで往復したが、市の中心らしく「本塩釜」という割には一面一線しかないのには驚いた。 本塩釜駅は、棒線駅で、交換不可
朝は、仙台−西塩釜折り返しもあったが、記憶が間違っていかければ、仙台−本塩釜の折り返しまであったような
狭い駅は増改築が困難
複線化で新線は、素直に納得してしまいました 昭和56年に西塩釜駅〜東塩釜駅間が複線高架化されて
現在に至っています。
なお、単線時代も東塩釜駅には電留線が存在していましたが
複線になってからは、国道45号線側入口以外(藤倉側も)は高架線ではなく
高台(造成したのか最初から丘陵だったのかわかりませんが)に
駅舎ホームと電留線が作られました。 旧本塩釜駅に東塩釜駅方面から蒸気機関車が走って来たときには
おさな心に感動を覚えました。 旧本塩釜駅に蒸気機関車…
どうもイメージが合わないです
昔は結構あったのでしょうか? 旧貨物駅では入れ替え作業にSLが使われて
廃線される頃はディーゼル機関車で入れ替えしていましたよ。
爺だが旧本塩釜駅ホームでSLを見たのは昭和40年代だと思うんですが? 現在の仙石線本塩釜から東塩釜の区間の
作業服や牛丼屋さんがあるあたりの高架下から造船所を過ぎるくらいまで
新浜町の2代目魚市場へ延びていた貨物線跡地なんですね
因みに、現在の魚市場は3代目だと(たぶん)思います。 いやもっと先、やまやの裏とか阿部亀の横とかにも更に線路跡あるよ
今の整地された魚市場の駐車場手前まで 旧東名駅付近を跨ぐ道路のストビュー見てたら架線電圧の値で??となった
20000Vならまだ分かるけど、新幹線用が余ってたのかな?
https://imgur.com/a/813f7P8 これは、JRの変電所までの搬送電圧表示じゃないのかな
Wikipediaには20KV(交流20000V)って書いてあるけど。
交流25000Vを直流1500Vに降圧して線路上の架線に流してる。
で、旧東名駅の近くに変電所があったんだ。 >>283
ほう、そんなものがあったんですか
てことは仙石線以外にもこういう路線の電化方式とは異なる表示も探せばあるんかな 仙石線のあおば通り駅は西側に延伸するターミナル駅になると思ったわ。
でも、仙台市地下鉄東西線が開通してからは、その妄想は破られてしもうたわ。
で、なんで仙石線と東西線は規格の違う鉄道になってしまったの?
それは、仙台市と国鉄(JR東日本)が一緒に街づくりをしましょう感が
まったくないからに相違ないんだわ。 JR仙石線下馬駅の変電所への送電(交流)系統のケーブルを見てると面白いよ。
東北電力の変電所への2系統のケーブルが別方向(電柱で)に延びていて
興味津々なんです。
それは、1方向は塩釜変電方向へ
もう1方向は仙台新港変電所方向へ
太物ケーブルが延びています。 >>285 まだ国鉄だった頃、仙石線と地下鉄東西線の相互乗り入れが検討されていたそうだが、仮に実現したとしても川内(東北大学キャンパス前)止まりになってたんでは。
八木山まではリニアでないと無理だろう。南北線の乗客が予想ほど伸びなかったため、東西線建設に踏み切れずコストを建設費を最大限節約するためリニア地下鉄になったわけで。 少し昔の仙山線のこと調べてて、急行あさひ5号+月山5号が5+3の8両編成だと知ったのだけど、
途中停車駅(北仙台、作並、山寺)って、8両編成が停車できる有効長あったの?
それともはみ出す分はドアカットしてた?
ご存じの方いらっしゃればご教示下さい。 >>215
上愛子小学校作並分教場(当時)かな?
http://www.sendai-c.ed.jp/~sakunami/Kaikou-Kinen1.pdf 平成16年(2004年)東北文化学園大の不正事件発覚>仙台市の学校法人東北文化学園大の堀田正一郎元理事長(57)が二重帳簿で負債を隠し、私学助成金5億6000万円を不正受給したとして9月、宮城県警に逮捕された。法人の運営資金計1億6500万円を横領し、所得税6100万円を脱税した容疑でも11月、仙台地検に逮捕された。事件の発覚に伴い、法人が300億円近い負債を抱えていたことも表面化。大阪府で病院などを経営する藍野グループをスポンサーにして6月、民事再生法の適用を東京地裁に申請した。旧文部省は法人の大学設置の虚偽申請を見抜けず、開学を認可した責任が問われた。仙台市も多額の補助金を支出し、債権放棄を迫られる落ち度が問題になった。仙台市の佐々木謙副市長が堀田元理事長から接待を受けたことも明らかになり、12月に辞職した。
https://sp.kahoku.co.jp/graph/2018/01//20180105khg000000000000c/016.html この番組で登場する東北文化学園大学事件の概要
悪い意味においては、日本一の学校法人であろう。
1990年代の後半にかけて、仙台市立大学構想があり、学校法人東北文化学園大学には多額の税金が導入された。
けれども理事長が暴走し、日本の大学史上に残る一大疑獄事件となった。
学校法人東北文化学化大学は1999年に開学した。
その際に多額の負債を隠し、当時の文科省に大学設置を申請した。
さらに、仙台市から の助成金8億8000万円を不正に受給した。
しかし、2004年に二重帳簿が発覚し当時の理事長が逮捕され後に有罪が確定した。
さらに郡山市への薬学部設立と久慈市への福祉系学部新設や公立黒川病院の買収計画も頓挫しさらには郡山市にも損害を与えた。
2004年には、298億円の負債を抱え日本の大学及び学校法人として初めての民事再生法を適用した。
この際に、仙台市や郡山市に対して賠償は少なく後に遺恨を残した。
理事長への国会での聴取も検討された。
学校法人の認可取り消しの可能もあり、前向きに検討された。
また開学してからの私学助成金を史上初かつ唯一、全額の5億5000万円を返還させられた。
日本の大学及び、学校法人不祥事で、史上最悪の悪質なケースであった。
この結果 、仙台市の私立大学への補助制度が廃止され、多くの私立大学が迷惑した。
さらに仙台市の副市長と郡山市の副市長が辞職した。
民事再生後も二代目の理事長が大阪地検に逮捕されるなど2013年までの間長らく混乱が続いた。
大学法人の認可取り消しが検討され、決定寸前になるほどで、悪質タックル事件の不祥事はおろか、医学部不正入試事件よりも個人的に悪質であった。
学校法人を認可して開学するまでに行われた日本の大学及び、学校法人不祥事で、最悪の悪質なケースであった。
文科省、宮城県、仙台市、郡山市の信用すら損ねた重大事件であった。
皮肉にも河北新報社の写真特集、宮城の平成30年史の平成16年にも選ばれた。 コピペだから相手すんな。路線車両板の仙山線スレとかにも貼られてる。 仙石線は駅のホームの雨避け屋根が低くてもと地方私鉄だったことが伺い知れた 地上時代の仙台近郊の仙石線はずいぶんガタガタ揺れてたな
何か原因があったのかな