仙石線 仙山線
>>147
京浜のクルマでも、妻面の押さえ金を越えて屋根にしぶきが飛んでたものだな。 >>147
確か455系でも屋根の肩まで赤くなってたのがいたから郡山の施工がアレだったんじゃないか 先週塩竈市杉村惇美術館「なつかしい昭和の写真展」
http://rail.hobidas.com/news/info/sp/article/post_797.html
見てきました
それほど広い展示場所ではないですが
鉄道絡みの写真は全体から考えると割と多く感じました
仙石線旧線の本塩釜駅付近や
塩釜港駅の貨物ヤード
大晦日の営業らしい塩釜港駅での塩釜神社参拝客向けDCなど
興味深かったです
説明が何も無いのが残念
美術に興味が無い人は2F廊下右側受付で支払い後
廊下に戻り左側です >>151
ありがとう。
きょう見てきました
懐かしいカットもありました
旧東塩釜駅の空撮もありましたね
むかしから東塩釜駅には電留線があったんですね
2編成分くらいの留置線ですかね
あと、本塩釜駅前のバス停にいたのは
前が仙台市営バスで後ろは山交バス(モノクロで断定はできませんが)ですかね?? よく仙山線複線化っていうけど、仙台の公共交通の主役は市バスよ。
鉄道沿線にない学校や企業に通学通勤する場合、
自分の家が沿線にあってもバス定期単体のほうが安い。
特に学徒仙台フリーパスなんて月5140円で市バス乗り放題
7500円で地下鉄のり放題もつく。
仙山線は、北山以外 仙石線は福田町周辺 東北線は岩切と南仙台までバス網は網羅してる
この状況下は時間以外は市バスに分がある。
ちなみに、760系統で西花苑から一番町に出ると仙山線使うより断然早い。
車が強い仙台市内だけ見ても、現状以上に鉄道に客は乗らないよ。
仙山線複線化してその費用をペイできるだけの集客が望めるのか。
鉄道以外に目を向ければよく分かる その辺り、同じ元気な中規模都市で比較されることの多い広島とは逆だね。
広島は広電が無くなれば生活出来なくなるし。
まあ中四国は東北と比べものにならないほど私鉄や路面電車が元気なのだが。
国鉄の残党ばかりだけど、最近になってやっとJR西日本初期の車両も来るけど、なんか活き活きしている国鉄広島や山口。
JR東日本のプレハブ電車で青息吐息の東北。
仙台周辺でさえそうだ。
見え張って作った地下鉄は運賃も高く朝もそんな混まない。
そして市電廃止で渋滞は悪化するばかり。
広島は助成金目当てでアストラムを新交通システムにしたけど、なんとか工面して広電と乗り入れ出来たら今頃混雑だらけのはず。
まあ荒川線と日暮里舎人ラインみたいなものか。
日暮里舎人は地下鉄ともリンクして欲しかったな。
やっぱり中規模都市といえば静鉄遠鉄も元気。
静鉄なんか田舎っぽい要素は2両編成であることぐらい。
ダイヤは大都市並みの高密度。
大手私鉄でもめったにない全線伏線。
地方私鉄って21世紀になってもつりかけのところ多かったけど、静鉄は昭和のうちに全車両カルダン。
東急と同一設計のステンレス車体。
東急の中古とかではなく。 雪の有無が差につながったのではないかな。
除雪に努力しているとはいえ、自動車の機動力が競争力の差になる。 156
実は、雪降ったときは鉄道が強い。
雪が降ると、道路は大渋滞。普段なら30分の距離が2時間かかるのはザラ。
バスは動いてるけど、とてつもなくノロくなるため各方面乗り換えもできなくなるから、
仙台駅バスプールや各駅から乗り換えバスが出るなら、そこまで鉄道使ったほうが速い。
現に、倒竹で倒れたあの日も朝方は時間通りに動いてたし、
今年の2月に板谷が不通になったときも、しっかり動いてた。
逆に、台風や震度5弱レベルの地震ならバスは止まらないので
あえてバスに切り替える人もいる >>155 広島は平地が少ないし、広電や呉線の沿線に人口が集中しているわけだから、可部以北や芸備線方面は鉄道なくとも生活できるよね。
政令指定都市内で、大規模なJR線の廃止が行われたのって、JR転換当時の福岡除けば広島だけだろ。 きょう、西塩釜駅北側の高架橋のそばを散歩していたら
国鉄の銘版が貼ってあった。
仙石線の塩釜市内の高架橋は昭和52年着工して
昭和56年に完成と記されていた。 思わぬ所に国鉄銘板が残されていたりするね
見つけたときの嬉しさは格別 むかしむかし、岩手県に宮沢賢治っう詩人がおったとさ〜
大正14年に宮城電気鉄道(現在の仙石線)が西塩釜駅まで開業しました。
宮沢賢治は西塩釜駅でのイメージを後の”銀河鉄道の夜”のなかで
”あの汽車は蒸気がでていね〜” と西塩釜駅で見た電車の話しを
想い出したかのような記述があるそうです。
松本零士の銀河鉄道999では蒸気機関車のイメージですが
実は宮沢賢治の”銀河鉄道の夜”の汽車は実際は電車だった可能性があります。
以上は昨日のNHK仙台ラジオ第一17:00からの”ゴジだっちゃ”のトークからの抜粋です。 懐かしいな。
学校終わったら陸前原ノ町まで見に行ったもんだよ。
いつも同じ場所にいて動いてる様子無かったから結局乗れなかったけどね。
でもこの写真と違って方向幕は入ってたな。
この写真は運用終了後とか? >>165
ツイ主の文章を引用すると
103系の105系改造に伴い、車両不足になるため豊田区から借入れたもの
>>165氏の言う通り運用終了後の廃車待ちの姿だそうで 還暦過ぎたが
むかし、仙石線本塩釜駅でSLが走ってくるのを見た記憶が(東塩釜方向から)
あるんだが、あれは魚市場線からの貨物列車だったんだろうか(SL自体は単機運転だった?)
当時は仙石線と貨物線の線路が2本あったのかな?
築港貨物線ではなかったと記憶してんだが! 陸前原ノ町電車区、多賀城、東塩釜、野蒜、矢本等貨車の出入りがあり、
終電後(おそらく)に仙台と小牛田のC11が任務に当たっていました。
仙台側はおそらく東塩釜以南、高城町か矢本以北は小牛田側が担当していたと思います。
私も夜走っているC11の牽く貨物列車を見たことがあります。 野蒜に石材の積み込みホームがあったのを最近知った
https://www.miyagi1951.com/nobiru/
昭和20年代頃の航空写真を見ると
造船所関連なのか東塩釜駅から海岸に向かって支線がある 東塩釜駅(旧)から延びているのが魚市場線だと思うんだが
旧仙石線東塩釜駅には(地上)に電留線が3本くらいあったような(以前に見たモノクロ写真で)
本塩釜を過ぎるとすぐどぶ川(日本一汚い小河川の記録があるらしい)を渡るすごく短い鉄橋が
2本あって、そこを渡るとトンネル(女郎山トンネル?)を通過(たぶん地名的には小松崎)だった。 本塩釜駅から45号線を越す陸橋を渡るとすぐに船着場があった。 >>172
東塩釜からの引き込み線が存在した時代の魚市場の位置は
現在のマリンゲート付近の場所で
1965年に新魚市場として対岸の現在の場所に移転し
同時に塩釜港駅から新たな引き込み線が完成した
その引き込み線の跡地を利用して仙石線の新たな本塩釜から新たな東塩釜に至る高架化された新ルートになった いまの来々軒の近くが船着き場だった。
あの頃は松島湾周遊と浦戸・七ヶ浜方面航路が
一色淡になっていたんだっけか?
40〜50年前は金華山航路なんかもあったのか? スレチで失礼します。
宮城交通は昭和40〜50年代までは自社による
車両調達(新車・信託自動車等)をしてたと思うんですが
いつから名鉄グループになって名鉄の中古バスを走らせる
ようになったんですか。
昭和50年前半は通学はバスだったが、この当時は新車が
多かったような感じですが? 名鉄の債務保証がないと、銀行がカネ貸してくれんとか? 数年前まで、宮スタから石積トンネルに行く道路に
旧宮城交通カラーの12窓の前・中間折り戸のバスが
放置されてたけど(その後どうなったのか?)あれが
運用されていたころはあのワンマン車でうら若き車掌さんが
乗務して塩釜から七ヶ浜経由仙台駅方面行きの車両だった。 1952年の航空写真を見ると、陸前原ノ町駅の駅前広場側に向かって引込み線がある。
陸前高砂駅には貨物ホームらしきものが確認できる。 仙石線(っうか宮城電鉄)の陸前高砂駅・多賀城駅は
2面3線がその貨物駅の面影が残っていましたね(昭和の)
貨物でも一般物資ではなく軍需物資なんでしょうけども。 通学ではクハニ19に好んで乗っていた。ニス塗りの車内が懐かしい。
通常4両編成の石巻側に連結されていたような。
西塩釜と本塩釜間のジェットコースターは楽しかったな。 クモハ491+クハ490はどれくらいの期間走ったのですか >>183
Wikipediaの記述を信用するなら、営業運転に就いていたのは、
1960年10月から1966年2月だそうだ。
試験車両として導入された時期であれば、これは1958年2月。 山交バス(山形交通)の仙台営業所の開設は昭和何年頃だったんでしょうか!
開設経緯を妄想すると、たぶん仙台⇔山形線は笹谷峠(旧道)経由と関山峠(旧道)の
2系統があったんですか?>>152にも書いてますが山形⇔松島が昭和20年末か30年前半まで
あってその頃から仙台営業所があったのでしょうか?国道45号線沿いにあるのも松島線があった
からでしょうか! ”馬鹿は黙ってろ” は2019年流行語大賞か?
で、山形⇔松島って定期路線バスじゃなくて
定期観光バスで道路事情が悪い冬季は運休だったのか? 塩竈交通というバス会社があったな。
独特の色合いのバスで、宮城バスか宮城交通に吸収された。
仙南交通というバスも走ってたな。
あともひとつ何かあったような・・ 思いだせん。 菖蒲田自動車っうのもあった
のちに仙台市営バスに吸収合併された
そんでもって七ヶ浜に仙台市営バスが走ることになったルーツか? ごく稀にD51の牽く貨物列車と併走することがあった。西塩釜周辺。 塩釜築港線で入れ替えしていた蒸気機関車はD-51なの!
現在のグランドパレスのところの踏切は入れ替え作業をする
蒸気機関車で遮断時間が長くてバスに乗っていてもイライラの原因だったな〜。 塩釜線はしょぼいイメージだけど
D51が入線可能だったんだ 平成元年3月11日改正仙台駅時刻表がでてきた。
仙石線・・・・陸前原ノ町駅止まり・多賀城駅止まりが朝の7時台から運行されていた。
快速は朝9時46分発から15時46分発まで運転されていた(石巻行き)
特別快速は18時16分発の1本のみ(石巻までノンストップ)
始発は5時24分石巻行き・終電は23時38分東塩釜行き
この頃にはもう西塩釜駅止まりはなかった(東塩釜まで複線で運転していたから)
7時台は仙台駅発が8本運転していた。東塩釜行き5本、多賀城行き1本・石巻行き2本
仙山線
上ノ山行きが1日に3本運転されていた(19時台に1本運転されていた)
16時から18時まで3本/h運転(下り)
東北線
3時13分発急行八甲田青森行きがまだ運転されていた
古川駅への直通下り普通列車があった
寝台特急北斗星 が3本運転されていた 1号21:13 3号21:44 5号23:34
下り始発6時8分一ノ関行き 終発23時39分松島行き
上り始発6時5分黒磯行き 終発23時35分大河原行き
この頃は矢吹行きが1日1本運転されていた 13時31分発
石越発・小牛田発の快速列車があった。気仙沼行き快速が2本運転されていた 08時28分発・17時02分発
常磐線
平行き6時台から20時台まで運転していた(08時・17時・18時・19時台はなし)
水戸行きが18時15分発で1本運転していた
東北新幹線
1時間に定期列車が2〜4本運転していた
上り始発がやまびこ100号6:13分発 終発が21:21分発
上野駅までのノンストップ列車がった(大宮駅通過)12時50分発・18時50分発
下り上野始発が6:00発 終発21:16発(盛岡行き始発6:50分) 仙石線の特別快速【ノンストップ】は休日だけの運転だったなぁ〜。 上野駅の19時発の最終特急ひばりに乗るのに、
田町駅(会社が終わるのが17時30分)から上野駅へ急いで移動して、更に混雑が酷い
上野駅構内を走ってホームへと若かりし時だったがキツカッタ。
で、仙台駅に着くと仙石線のホームへ(あの時代は半地下の通路)を移動して
最終の電車で下馬駅へ
そこからは、もう路線バスもない時間なので金のあまり入ってない財布から
千円札を出してタクシーで実家まで帰ったわ。
あの頃のタクシー料金は覚えていない。
で、逆に夜行急行で帰省して仙石線始発で乗っても始発路線バスまで少々時間が
あったのでバス停で待ってるしかなかったわ!!。 >>189
その塩竃交通のバスが君が岡を下って
花渕浜方面に走っていたらしいんだが
これは聞いた話しで(おれは生まれていなかった頃)
現在でさえ乗用車同士が交換するのが無理な細い道を
バスが進入してきたらしい。
そのころは現在の七ヶ浜町(当時は村であった)の
海沿いを走る県道はなく、昭和32〜33年から東北電力
仙台火力発電所(代ケ崎浜)の建設が始まったころに貞山橋ができて
塩竃(多賀城)と陸続きになったんだ。(笑) まぁ、余談ですが
むかし東京の会社に勤務していた時に、社内旅行で黄色いバスを貸し切って
伊豆稲取方面に1泊2日で旅行に行き、そのご先輩がその時のガイドさんに
話しをつけてガイドさんたちと飲み会になった(いまで言う合コン)。
で、なんの流れか未だにわからないが青森出身のガイドさんのアッシーになってしまって、
その人がなんかの事情でガイドを辞めることになり上野駅まで拉致されて夜行列車で
帰郷することになって上野駅改札口まで連れていかれてそこでサヨナラになった(笑)。 快速で誤乗が多発してたのでやたらと案内放送で停車駅をアナウンスして注意を促してた事もあったが
それでも間違う奴は間違うて事で途中で止めてしまった
国鉄〜JRの接客には問題があるとは思ってるがこれは仕方ないと思ったね 前発 各停
次発 快速
のパターンでは運転本数が限られてくるので
現在の仙石線の運転方法は理にかなっている
あおば通り駅から本塩釜駅間でも快速と各停では
たぶん、7〜8分の到達時間の差しかなく
この時間差を使えば各停を1本差し込める
っうことは、それだかお客さんを運べる
これはJRにとっても利用客にとってもメリットがある運転方法である。 70年代の時刻表で仙石線、特快、快速で10種類くらいの運転パターンが示されてなかったっけ。 仙石線は快速の停車駅パターンころころ変わってたからなぁ。
榴ヶ岡と宮城野原だけ通過であとは各駅停車なんて時期もあった記憶が。
仙山線も特に平成に入ってからは大概ひどかったが、
これは遠からず、仙台−愛子間は各駅停車で統一されそうだね。
愛子から東側で目立って乗客の少ない駅なんて葛岡しかなくなっちゃったし。 それは懐かしさの度が過ぎてるwww
スレからはちょっと脱線してしまうが、2枚めの画像下の方でちょん切れてる
仙台鉄道の時刻も見たい。差し支えなければ是非うpを。 すまん。仙台鉄道の時刻載ってたね。おま環で見られなかっただけだった。
それにしても全体に運転本数が牧歌的なのに、
宮電だけは今の大都市圏の時刻表と似たような表記なんだなー。 >>210
仙山線の上り350列車が興味深い。
奥新川始発、八ツ森通過の作並行き。
時間帯から見て通学向きとかだったんだろうか? あおば通から石巻行乗車。
仙台から航空ファンや家族連れが大量乗車し激込み。
聖火が来るのか その話なら路線車両板に書いた方が応答多いんじゃないかな。 記憶にある方がいたら教えてください
かつての仙石線って風に弱いイメージがあったんだけど(今も?)、実際はどうだったんでしょうか?
うん十年前に石巻〜仙台を通学で使っていた親に聞くと、風で電車が止まって通えなかったなんて記憶は無いって言われて、そうだったのかと思ったんだけど実際のところ他の人の意見も聞きたくて。
とくに鳴瀬川橋梁の架け替えなんかは風対策の意味合いもあったような気がするけど、当時小さかったもので確たるものが無く… 強風で止まった事はあったような気がするが
風に弱いという印象は無い >>222
去年、猪にぶつかって熊ヶ根で長時間停車に遭遇した >>222
そうだったんですね
ありがとうございますm(__)m 99年までの仙石線は地上ホームだったかな?いかにもローカルと言うか、下町路線だった。2000年に乗ったらいきなり地下で驚いた。 カメラ持ってタイムスリップしてもいいよと言われたら、1960年頃の作並駅一択だな。 1970年後半に訳ありで東京都内に勤務していたが、
会社就業後に、上野発の最終ひばり号に乗るには
会社から10分強歩って田町駅に移動して、そこから上野駅へ
電車ホームを降りて上野駅構内を走って移動しないと乗り遅れてしまう
恐れがあった。ひと眠りすると(4時間も寝ていたのかよ)仙台駅に着き
階段を降り地下通路のある時代だったので(結構距離はあるんです)
薄暗い仙石線ホームへ着いた記憶が蘇る。
特急ひばりに乗り遅れた場合は公園口からエロ映画館街で日活ロマンポルノを見て
夜行急行が出るまで暇つぶしをしたもんだよ。 仙石線で先日、人身事故があったらしい。
遮断機がない踏切と鉄橋の近くらしい。 1962-2
八ツ森駅
3333レ「第2仙山号」臨時停車
クハ490-1
https://i.imgur.com/y441ppQ.jpg 平成のあなたに昭和の爺が【特急ひばり】を説明しますね。
上野発 1号がam7;00発で仙台着がam11;15の
東北線経由のビジネス特急で 夜19;00発の27号まで運転していました。
27号で仙台に到着すると(23;15分着)仙石線・仙山線・東北線上下線最終列車に間に合いました。
当時は、東北各県庁所在地への花形特急と青函連絡船への乗り継ぎ寝台夜行優等列車が
走っていたんです。
まぁ、京浜東北線・山手線田町駅から17:30分の会社終わりに乗る場合は混雑する
電車ホームからダッシュで長距離列車ホームへ移動するのは大変でしたと
いま頃になって爺は想いだしてます(笑)!!。
まぁ、乗るのを諦めて公園口からエロ映画館街へいったときもありましたが・・・
その後、夜行急行に乗る為に再度改札をくぐり急行ざおう・いわて号などに乗り翌朝
仙台駅に着いて仙石線の一番電車に乗るんですが、その頃はまでホームの北側から地下通路を
通って仙石ホームへ行ける時代でした。
この頃の仙石線は72系の片開きのドアでしたが懐かしいですね。
で、通勤で蕨駅から田町駅まで京浜東北線を使ってましたが1976年当時は103系の
大宮側が低運転台で大船側が高運転台でしたが編成的には3両(大宮側)+7両の10両編成でした。 1976年当時冷房車どんなもんでした?
TVドラマには山手線くらいしか恐らく
TVドラマには出てこなかった筈ですが
103系は高運転台車しか基本的に冷房車
103系山手線なかった様な記憶あります
大映テレビドラマ赤いシリーズのような
大映テレビドラマ赤いシリーズ赤い運命
結構小田急線は出てきてましたが基本的
急行も含め非冷房車ばかりだと思います
そんな時代なので仙石線言い方悪いが偽
72系電車と言うかいわゆるアコモだけは103系電車と言っても勿論非冷房ですが自分も含めて概ね好評だったようですね東北本線の普通列車は基本的に旧型客車またはディーゼルカーばかりの頃ですが朝夕ラッシュ時限り急行電車間合い入りこれに限って冷房車なの実に皮肉でした 1976年には京浜東北線に冷房車が走っていたかでうだか不明ですが
1977年には走ってましたね。
それが大宮寄り3両か大船寄り7両かは不明ですけどもね。
で、仕事で都内を移動する場合は隣合う山手線のほうが冷房車が
多くは走っていたので、田町からの並走区間はなるべく(絶対)山手線でしたね。
仕事柄、山手線大崎方面(そのころは駅前はなんもありませんでした)や恵比寿駅乗り換え
中目黒駅までが多かったので〜。
田舎ものは渋谷駅構内で迷子になるので日比谷線で行ってました(笑)!!。 その大宮寄りが101系で
東京寄りが103系だったとは
年金を貰う歳になって気が付いた 平静初期の頃、583系つがるが仙山線を走ったことがあるけど、乗った人ほかにいる? 乗ったことはないけど、沿線で深夜に働いてたから、見てはいた。
なかなか貫禄のある姿だなーと思ってた。 昭和50年代前半の仙石線ホームの照明が暗かった記憶なんです。
上野駅から最終のひばり27号で到着し(23:15分着)仙石線ホームへ小走りで移動
終電の仙石線は折り返しのため、その時間帯にホームに入線していたか
どうかは記憶が定かでないですが・・・
で、終電で下馬駅へそこからタクシーで我が家へ
本塩釜駅で降りるとタクシー代が高くなるから(笑)!!。 2003年だけど、秋田車の臨時列車が仙山線走ってたから乗ったよ。
6両編成で仙台山形間を往復した。
空いていてガラガラだったなあ そんなことを言われてWikipediaを調べたら
S-PALの開業が1978年との記述がある。
今初めて知りました(笑)。
まぁ、電車から降りて市内を散策することもなかったので
しかし、七十七銀行の本店ビルが竣工して斜め向かいの富士銀行のビルが”ショボく
なったんだ”と東京の会社へ戻って ”みやげ話し?”をしたことは覚えている。