仙石線 仙山線
JRになった後今のボタンになったのは
701系電車と部品共通化のためなのか? 仙石線に浦和区から転入してきた高運転台のクハ103は前面窓が2枚化されたり、
運行番号窓が拡大されて種別幕窓に改造されていたが、高運転台クハ103のシンボルともいえる
前面窓下のステンレス製の飾り帯が撤去されたため、間延びしたような前面スタイルになったのは
残念だった >>121
時代じゃね?
更新車は全部首都圏からの転入だったから半自動回路は新設する必要があったし。
現場では郡山で冷改、特保をしたMc144の編成に愛着があって、更新させたかったらしい。
老朽化がひどくて見送られたが。 地下鉄東西線も出来たし次はいよいよ仙山線複線化だな 30年以上前だが、陸前落合から北仙台まで駅なかったんですよ。当時中学生で
たまに落合から乗ると次北仙台で10分位。あの頃は仙台愛子間の便あまりなかったし、通勤通学としてそんなに使われてなかった。仙台地下鉄もなかった
次代ですから。 《《 311から5年目突入!! 被爆死者、静かに増加中!! 対中戦に備え、核武装強行か!? 》》
下町ロケットで話題を盛り上げて、翌日はイプシロン
政府や三菱が狙ってるのは、民生用ロケットのオブラートに包まれた悪魔のICBMミサイル
今や、安倍晋三政権=三菱は核ミサイル開発を政権の命題としている
原発推進は核ミサイル開発だ
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信 三菱重工の重役でもあるらしい
これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある 書けばツイッターで速攻削除されている
安倍晋三の兄が関与している三菱重工 核開発疑惑についていくつかツイートしたが、
反応がないから変だと思って、自分のタイムラインを調べてみたら、完全に削除されていた。
私のツイートで、安倍政権に都合の悪い情報は速攻削除されている これは驚いた ここまでやるのか
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272
【訃報】女優の有沢比呂子さん(43歳。なかにし礼氏の長男の夫人)が突然死
11.23「テラスハウス」今井洋介さん心筋梗塞去 31歳…母親が発見 鎌倉(今年、死亡数上昇)
11.15阿藤快心不全 69歳 一押ししていたすし店『海味』の大将も、今年の9月に死去
マイトレーヤは原発の閉鎖を助言されます。
日本もさらに多くの原子力発電所を作ろうとしています。
多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、彼らは幻想の中に生きています。
マイトレーヤが公に話し始めるとき、彼はこのことについて話されるでしょう。
マイトレーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。 地理的にポテンシャルはあったでしょう
時期がもう少し早くて高度成長期の投資熱が東北にも及んでいたら、
仙台近郊の鉄道体系ももう少し変化があったかも知れない 昭和51年頃首都圏の国電103系高運転台
おれが体験したのは、京浜東北線でのこと
サンバーザーに新聞挟んで読みながら運転
恐怖を感じたっうか
順法闘争で電車が詰まっていてよく駅間で停車が日常茶飯事だったな むかしの本塩釜駅のどぶ川の上に建っていた
食堂で食べた(なんて言う店か思いでせない)焼きそばが懐かしい >>117
本塩釜駅(仙台方)の手回しの踏切開閉なんか
かなり懐かしい 仙石線も仙山線も戦前、戦後しばらくは、電化区間の孤島だったけど、
定期検査整備は郡山?(仙石線の場合は買収後まもなく?)
送り込みとか面倒だし、資材の乏しい時代だから相互に融通とか試走とかあったの?
仙石線に限らないけど、昔の国鉄は機関士の立場が強かったみたいだけど、
電車の運転士は格下?
地方に散在した国電区間だと採用人員も限られるが、機関士ほど作業環境(特に蒸機)悪くないし、徒弟制度とかも
比較的厳しくなさそうなので電車の運転士の希望者が多かったような・・・。 昭和30年代の東北線利府〜鹿島台(小牛田)の運行形態
知りませんか
”利府駅で機関車増結解結して利府丘陵越えしていた”とか・・・ 仙石線は、やっぱり西塩釜〜東塩釜間が高架複線(ルートも変更)が
開通してから運転本数も利用客も伸びているんだね。
仙台から塩釜までの路線バス撤退も、以降検討対象になって
宮城交通と仙台市営バスのどちらが先に撤退したかは
記憶にないが時間7〜8便の路線バスを廃止に追い込んだ
鉄道っうのはすごいですね。 アイワ♪ カセット♪ ヤングサウンド♪ アイワ♪
三十数年前 仙石線のアコモ電車でアイワの仙台営業所(たしか鉄砲町)
へカセットレコーダーの持ち込み修理に行った記憶が甦った♪♪♪ 仙石線の青葉通りから延伸して北仙台経由で愛子まで複線の地下路線にするのはどう?
http://ayahanamizuho.jimdo.com >>138
電車線の活きる道が見えた気がした
喜ばしいことです 元私鉄線だけあって随所にうねうねとカーブが挿入され
車輪を軋ませながらゆっくり走ってた72系が思い出されます
私の地元ではまず見られなかったもので。 なんで19時仙台行きは1本しかないの?
帰宅ラッシュでしょ。馬鹿なの? >>138 そのうち、高城町で完全系統分離。あおば通発は高城町まで。
石巻行は仙台からの東北線経由直通快速と、高城町・石巻間の区間各停となるんでは?
40年位前は、時刻表見ると多様な系統があったなあ。特別快速に、快速でも本塩釜辺りから全部停車と、いくつか飛ばして行くのと。
特別快速、快速だけ、全列車掲載だった。 仙石線の103系 スカイブルーの塗装のミストがマスキングしてないのか?
屋根まで塗られていたな。郡山での定期施工がアバウトだったの?
それとも予備車確保に余裕が無いから工期短縮やっつけ作業だったの? 本塩釜駅で手回しの遮断機を操作していた
国鉄職員さん元気かな〜 >>147
京浜のクルマでも、妻面の押さえ金を越えて屋根にしぶきが飛んでたものだな。 >>147
確か455系でも屋根の肩まで赤くなってたのがいたから郡山の施工がアレだったんじゃないか 先週塩竈市杉村惇美術館「なつかしい昭和の写真展」
http://rail.hobidas.com/news/info/sp/article/post_797.html
見てきました
それほど広い展示場所ではないですが
鉄道絡みの写真は全体から考えると割と多く感じました
仙石線旧線の本塩釜駅付近や
塩釜港駅の貨物ヤード
大晦日の営業らしい塩釜港駅での塩釜神社参拝客向けDCなど
興味深かったです
説明が何も無いのが残念
美術に興味が無い人は2F廊下右側受付で支払い後
廊下に戻り左側です >>151
ありがとう。
きょう見てきました
懐かしいカットもありました
旧東塩釜駅の空撮もありましたね
むかしから東塩釜駅には電留線があったんですね
2編成分くらいの留置線ですかね
あと、本塩釜駅前のバス停にいたのは
前が仙台市営バスで後ろは山交バス(モノクロで断定はできませんが)ですかね?? よく仙山線複線化っていうけど、仙台の公共交通の主役は市バスよ。
鉄道沿線にない学校や企業に通学通勤する場合、
自分の家が沿線にあってもバス定期単体のほうが安い。
特に学徒仙台フリーパスなんて月5140円で市バス乗り放題
7500円で地下鉄のり放題もつく。
仙山線は、北山以外 仙石線は福田町周辺 東北線は岩切と南仙台までバス網は網羅してる
この状況下は時間以外は市バスに分がある。
ちなみに、760系統で西花苑から一番町に出ると仙山線使うより断然早い。
車が強い仙台市内だけ見ても、現状以上に鉄道に客は乗らないよ。
仙山線複線化してその費用をペイできるだけの集客が望めるのか。
鉄道以外に目を向ければよく分かる その辺り、同じ元気な中規模都市で比較されることの多い広島とは逆だね。
広島は広電が無くなれば生活出来なくなるし。
まあ中四国は東北と比べものにならないほど私鉄や路面電車が元気なのだが。
国鉄の残党ばかりだけど、最近になってやっとJR西日本初期の車両も来るけど、なんか活き活きしている国鉄広島や山口。
JR東日本のプレハブ電車で青息吐息の東北。
仙台周辺でさえそうだ。
見え張って作った地下鉄は運賃も高く朝もそんな混まない。
そして市電廃止で渋滞は悪化するばかり。
広島は助成金目当てでアストラムを新交通システムにしたけど、なんとか工面して広電と乗り入れ出来たら今頃混雑だらけのはず。
まあ荒川線と日暮里舎人ラインみたいなものか。
日暮里舎人は地下鉄ともリンクして欲しかったな。
やっぱり中規模都市といえば静鉄遠鉄も元気。
静鉄なんか田舎っぽい要素は2両編成であることぐらい。
ダイヤは大都市並みの高密度。
大手私鉄でもめったにない全線伏線。
地方私鉄って21世紀になってもつりかけのところ多かったけど、静鉄は昭和のうちに全車両カルダン。
東急と同一設計のステンレス車体。
東急の中古とかではなく。 雪の有無が差につながったのではないかな。
除雪に努力しているとはいえ、自動車の機動力が競争力の差になる。 156
実は、雪降ったときは鉄道が強い。
雪が降ると、道路は大渋滞。普段なら30分の距離が2時間かかるのはザラ。
バスは動いてるけど、とてつもなくノロくなるため各方面乗り換えもできなくなるから、
仙台駅バスプールや各駅から乗り換えバスが出るなら、そこまで鉄道使ったほうが速い。
現に、倒竹で倒れたあの日も朝方は時間通りに動いてたし、
今年の2月に板谷が不通になったときも、しっかり動いてた。
逆に、台風や震度5弱レベルの地震ならバスは止まらないので
あえてバスに切り替える人もいる >>155 広島は平地が少ないし、広電や呉線の沿線に人口が集中しているわけだから、可部以北や芸備線方面は鉄道なくとも生活できるよね。
政令指定都市内で、大規模なJR線の廃止が行われたのって、JR転換当時の福岡除けば広島だけだろ。 きょう、西塩釜駅北側の高架橋のそばを散歩していたら
国鉄の銘版が貼ってあった。
仙石線の塩釜市内の高架橋は昭和52年着工して
昭和56年に完成と記されていた。 思わぬ所に国鉄銘板が残されていたりするね
見つけたときの嬉しさは格別 むかしむかし、岩手県に宮沢賢治っう詩人がおったとさ〜
大正14年に宮城電気鉄道(現在の仙石線)が西塩釜駅まで開業しました。
宮沢賢治は西塩釜駅でのイメージを後の”銀河鉄道の夜”のなかで
”あの汽車は蒸気がでていね〜” と西塩釜駅で見た電車の話しを
想い出したかのような記述があるそうです。
松本零士の銀河鉄道999では蒸気機関車のイメージですが
実は宮沢賢治の”銀河鉄道の夜”の汽車は実際は電車だった可能性があります。
以上は昨日のNHK仙台ラジオ第一17:00からの”ゴジだっちゃ”のトークからの抜粋です。 懐かしいな。
学校終わったら陸前原ノ町まで見に行ったもんだよ。
いつも同じ場所にいて動いてる様子無かったから結局乗れなかったけどね。
でもこの写真と違って方向幕は入ってたな。
この写真は運用終了後とか? >>165
ツイ主の文章を引用すると
103系の105系改造に伴い、車両不足になるため豊田区から借入れたもの
>>165氏の言う通り運用終了後の廃車待ちの姿だそうで 還暦過ぎたが
むかし、仙石線本塩釜駅でSLが走ってくるのを見た記憶が(東塩釜方向から)
あるんだが、あれは魚市場線からの貨物列車だったんだろうか(SL自体は単機運転だった?)
当時は仙石線と貨物線の線路が2本あったのかな?
築港貨物線ではなかったと記憶してんだが! 陸前原ノ町電車区、多賀城、東塩釜、野蒜、矢本等貨車の出入りがあり、
終電後(おそらく)に仙台と小牛田のC11が任務に当たっていました。
仙台側はおそらく東塩釜以南、高城町か矢本以北は小牛田側が担当していたと思います。
私も夜走っているC11の牽く貨物列車を見たことがあります。 野蒜に石材の積み込みホームがあったのを最近知った
https://www.miyagi1951.com/nobiru/
昭和20年代頃の航空写真を見ると
造船所関連なのか東塩釜駅から海岸に向かって支線がある 東塩釜駅(旧)から延びているのが魚市場線だと思うんだが
旧仙石線東塩釜駅には(地上)に電留線が3本くらいあったような(以前に見たモノクロ写真で)
本塩釜を過ぎるとすぐどぶ川(日本一汚い小河川の記録があるらしい)を渡るすごく短い鉄橋が
2本あって、そこを渡るとトンネル(女郎山トンネル?)を通過(たぶん地名的には小松崎)だった。 本塩釜駅から45号線を越す陸橋を渡るとすぐに船着場があった。 >>172
東塩釜からの引き込み線が存在した時代の魚市場の位置は
現在のマリンゲート付近の場所で
1965年に新魚市場として対岸の現在の場所に移転し
同時に塩釜港駅から新たな引き込み線が完成した
その引き込み線の跡地を利用して仙石線の新たな本塩釜から新たな東塩釜に至る高架化された新ルートになった いまの来々軒の近くが船着き場だった。
あの頃は松島湾周遊と浦戸・七ヶ浜方面航路が
一色淡になっていたんだっけか?
40〜50年前は金華山航路なんかもあったのか? スレチで失礼します。
宮城交通は昭和40〜50年代までは自社による
車両調達(新車・信託自動車等)をしてたと思うんですが
いつから名鉄グループになって名鉄の中古バスを走らせる
ようになったんですか。
昭和50年前半は通学はバスだったが、この当時は新車が
多かったような感じですが? 名鉄の債務保証がないと、銀行がカネ貸してくれんとか? 数年前まで、宮スタから石積トンネルに行く道路に
旧宮城交通カラーの12窓の前・中間折り戸のバスが
放置されてたけど(その後どうなったのか?)あれが
運用されていたころはあのワンマン車でうら若き車掌さんが
乗務して塩釜から七ヶ浜経由仙台駅方面行きの車両だった。 1952年の航空写真を見ると、陸前原ノ町駅の駅前広場側に向かって引込み線がある。
陸前高砂駅には貨物ホームらしきものが確認できる。 仙石線(っうか宮城電鉄)の陸前高砂駅・多賀城駅は
2面3線がその貨物駅の面影が残っていましたね(昭和の)
貨物でも一般物資ではなく軍需物資なんでしょうけども。 通学ではクハニ19に好んで乗っていた。ニス塗りの車内が懐かしい。
通常4両編成の石巻側に連結されていたような。
西塩釜と本塩釜間のジェットコースターは楽しかったな。 クモハ491+クハ490はどれくらいの期間走ったのですか >>183
Wikipediaの記述を信用するなら、営業運転に就いていたのは、
1960年10月から1966年2月だそうだ。
試験車両として導入された時期であれば、これは1958年2月。 山交バス(山形交通)の仙台営業所の開設は昭和何年頃だったんでしょうか!
開設経緯を妄想すると、たぶん仙台⇔山形線は笹谷峠(旧道)経由と関山峠(旧道)の
2系統があったんですか?>>152にも書いてますが山形⇔松島が昭和20年末か30年前半まで
あってその頃から仙台営業所があったのでしょうか?国道45号線沿いにあるのも松島線があった
からでしょうか! ”馬鹿は黙ってろ” は2019年流行語大賞か?
で、山形⇔松島って定期路線バスじゃなくて
定期観光バスで道路事情が悪い冬季は運休だったのか? 塩竈交通というバス会社があったな。
独特の色合いのバスで、宮城バスか宮城交通に吸収された。
仙南交通というバスも走ってたな。
あともひとつ何かあったような・・ 思いだせん。 菖蒲田自動車っうのもあった
のちに仙台市営バスに吸収合併された
そんでもって七ヶ浜に仙台市営バスが走ることになったルーツか? ごく稀にD51の牽く貨物列車と併走することがあった。西塩釜周辺。 塩釜築港線で入れ替えしていた蒸気機関車はD-51なの!
現在のグランドパレスのところの踏切は入れ替え作業をする
蒸気機関車で遮断時間が長くてバスに乗っていてもイライラの原因だったな〜。 塩釜線はしょぼいイメージだけど
D51が入線可能だったんだ 平成元年3月11日改正仙台駅時刻表がでてきた。
仙石線・・・・陸前原ノ町駅止まり・多賀城駅止まりが朝の7時台から運行されていた。
快速は朝9時46分発から15時46分発まで運転されていた(石巻行き)
特別快速は18時16分発の1本のみ(石巻までノンストップ)
始発は5時24分石巻行き・終電は23時38分東塩釜行き
この頃にはもう西塩釜駅止まりはなかった(東塩釜まで複線で運転していたから)
7時台は仙台駅発が8本運転していた。東塩釜行き5本、多賀城行き1本・石巻行き2本
仙山線
上ノ山行きが1日に3本運転されていた(19時台に1本運転されていた)
16時から18時まで3本/h運転(下り)
東北線
3時13分発急行八甲田青森行きがまだ運転されていた
古川駅への直通下り普通列車があった
寝台特急北斗星 が3本運転されていた 1号21:13 3号21:44 5号23:34
下り始発6時8分一ノ関行き 終発23時39分松島行き
上り始発6時5分黒磯行き 終発23時35分大河原行き
この頃は矢吹行きが1日1本運転されていた 13時31分発
石越発・小牛田発の快速列車があった。気仙沼行き快速が2本運転されていた 08時28分発・17時02分発
常磐線
平行き6時台から20時台まで運転していた(08時・17時・18時・19時台はなし)
水戸行きが18時15分発で1本運転していた
東北新幹線
1時間に定期列車が2〜4本運転していた
上り始発がやまびこ100号6:13分発 終発が21:21分発
上野駅までのノンストップ列車がった(大宮駅通過)12時50分発・18時50分発
下り上野始発が6:00発 終発21:16発(盛岡行き始発6:50分) 仙石線の特別快速【ノンストップ】は休日だけの運転だったなぁ〜。 上野駅の19時発の最終特急ひばりに乗るのに、
田町駅(会社が終わるのが17時30分)から上野駅へ急いで移動して、更に混雑が酷い
上野駅構内を走ってホームへと若かりし時だったがキツカッタ。
で、仙台駅に着くと仙石線のホームへ(あの時代は半地下の通路)を移動して
最終の電車で下馬駅へ
そこからは、もう路線バスもない時間なので金のあまり入ってない財布から
千円札を出してタクシーで実家まで帰ったわ。
あの頃のタクシー料金は覚えていない。
で、逆に夜行急行で帰省して仙石線始発で乗っても始発路線バスまで少々時間が
あったのでバス停で待ってるしかなかったわ!!。 >>189
その塩竃交通のバスが君が岡を下って
花渕浜方面に走っていたらしいんだが
これは聞いた話しで(おれは生まれていなかった頃)
現在でさえ乗用車同士が交換するのが無理な細い道を
バスが進入してきたらしい。
そのころは現在の七ヶ浜町(当時は村であった)の
海沿いを走る県道はなく、昭和32〜33年から東北電力
仙台火力発電所(代ケ崎浜)の建設が始まったころに貞山橋ができて
塩竃(多賀城)と陸続きになったんだ。(笑) まぁ、余談ですが
むかし東京の会社に勤務していた時に、社内旅行で黄色いバスを貸し切って
伊豆稲取方面に1泊2日で旅行に行き、そのご先輩がその時のガイドさんに
話しをつけてガイドさんたちと飲み会になった(いまで言う合コン)。
で、なんの流れか未だにわからないが青森出身のガイドさんのアッシーになってしまって、
その人がなんかの事情でガイドを辞めることになり上野駅まで拉致されて夜行列車で
帰郷することになって上野駅改札口まで連れていかれてそこでサヨナラになった(笑)。 快速で誤乗が多発してたのでやたらと案内放送で停車駅をアナウンスして注意を促してた事もあったが
それでも間違う奴は間違うて事で途中で止めてしまった
国鉄〜JRの接客には問題があるとは思ってるがこれは仕方ないと思ったね 前発 各停
次発 快速
のパターンでは運転本数が限られてくるので
現在の仙石線の運転方法は理にかなっている
あおば通り駅から本塩釜駅間でも快速と各停では
たぶん、7〜8分の到達時間の差しかなく
この時間差を使えば各停を1本差し込める
っうことは、それだかお客さんを運べる
これはJRにとっても利用客にとってもメリットがある運転方法である。 70年代の時刻表で仙石線、特快、快速で10種類くらいの運転パターンが示されてなかったっけ。 仙石線は快速の停車駅パターンころころ変わってたからなぁ。
榴ヶ岡と宮城野原だけ通過であとは各駅停車なんて時期もあった記憶が。
仙山線も特に平成に入ってからは大概ひどかったが、
これは遠からず、仙台−愛子間は各駅停車で統一されそうだね。
愛子から東側で目立って乗客の少ない駅なんて葛岡しかなくなっちゃったし。 それは懐かしさの度が過ぎてるwww
スレからはちょっと脱線してしまうが、2枚めの画像下の方でちょん切れてる
仙台鉄道の時刻も見たい。差し支えなければ是非うpを。 すまん。仙台鉄道の時刻載ってたね。おま環で見られなかっただけだった。
それにしても全体に運転本数が牧歌的なのに、
宮電だけは今の大都市圏の時刻表と似たような表記なんだなー。 >>210
仙山線の上り350列車が興味深い。
奥新川始発、八ツ森通過の作並行き。
時間帯から見て通学向きとかだったんだろうか? あおば通から石巻行乗車。
仙台から航空ファンや家族連れが大量乗車し激込み。
聖火が来るのか その話なら路線車両板に書いた方が応答多いんじゃないかな。 記憶にある方がいたら教えてください
かつての仙石線って風に弱いイメージがあったんだけど(今も?)、実際はどうだったんでしょうか?
うん十年前に石巻〜仙台を通学で使っていた親に聞くと、風で電車が止まって通えなかったなんて記憶は無いって言われて、そうだったのかと思ったんだけど実際のところ他の人の意見も聞きたくて。
とくに鳴瀬川橋梁の架け替えなんかは風対策の意味合いもあったような気がするけど、当時小さかったもので確たるものが無く…