蒸気機関車最後の10年を語るスレ part8
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蒸気ついでに悪いんだけどさ、
C形蒸気で貨物を牽引したこと無いのはC59とC62でOK?
C51やC57は九州などで貨物を牽引してる画像見るが。
逆にD形の旅客が無いのはD50でOK?
D52は牽引してるし。 >>68
D50はけっこう運用あったと思うけど。
晩年では一回引退?したけど戻ってきた140号が筑豊本線で旅客を牽いていたはず。 >>68
D50はD51が地方にまわる戦後10年間ぐらいまでは
信越・北陸本線や篠ノ井線で旅客も牽引していた
筑豊本線も有名
C52〜54も貨物(本務機として)はあまり聞いたことないが
はっきり断定できない。貨物機が戦時中足りなかったころ
というか戦争末期は旅客ほとんど運用してなかったから
なんでもありだったかもしれないし。
C55は吉都線で貨物牽いてるな
C59とC62の貨物牽引は聞いたことないね
D61は留萌本線で臨客を牽いてたらしい
C54は17両しか製造で、昭和38年までに全車が廃車されているから、貨物牽引は無さそうだけど、
C55、C57と一緒に播但線の貨物列車に当てられていたと文があるので、貨物牽引として脱落認定。
C59は姫路第二機関区所属のC5990が貨物列車を牽引している姿が、
バッチシ画像に収められているのを発見したので、C59は脱落認定。
改造機のC60、C61も貨物牽引してる画像が在ったので脱落認定。
そうすると貨物牽引が無いのはC62だけでOKかな? 書き込みが少ないが
明日もまた忘れてはならない日だね。イヴじゃなくて あの・・・
IDにD53というのが出たんで・・報告します。
幻の貨物用蒸機ということで・・ >>75
たしか広軌用で計画された弾丸列車用蒸気機関車の形式がHD53だったかな。 C62なんて貨物どころか排雪や工臨ひいてるじゃん
D50は万字線で8〜10両旅客列車ひいてた
C53流線の貨物は見たことない気がする 現役時代に営業運転で20系客車を牽引した機関車って
C57、C59〜C62とC11ってところか。
構内入換で牽引とかも含めたらもっといそうだな。
C53も戦後のゴタゴタが無ければこの中に含まれたのかもしれない。 昭和30年8月1日現在の鉄道図書刊行会版の配置表だと
18654の配置機関区が掲載されてないように見える(廃車は昭和33年度)
どなたか、この時点での配置先をご存知の方いますか?
この刊行会版はC5042の配置先も抜けてる。機種別の順不同、誤字脱字ミスプリントも含めて
いい加減すぎ。
>>82
答えられなくて申し訳ないが、
18654がS30.8以前にどこにいたとかの情報が無いと難しい気がする。 大体、ディーゼル機関車が入線した時点で、旅客はディーゼルに引っ張らせるのが多いって。
昭和40年代なんかディーゼルが入ると蒸気は貨物ばっか引っ張らせるのが当たり前。
多くの乗客は無煙を好むんだし。 >>83
国鉄の場合、転出は結構頻繁だったのであまり参考にならないとは思いますが、
そもそも昭和30年以前の情報自体飛び飛びしかないのが現実です。
昭和22年3月に高松在籍とか、昭和8年室蘭在籍程度しかわかりませんので、
あまり参考になりませんね。
18654は、昭和32年版の鉄道図書刊行会の配置表にも載っていないので実に
不思議です。ひょっとすると昭和30年以前に廃車になってたのが正しいのかも。
工場や施設局の在籍にも該当がないようですし。 >>83
Rail Magazine 誌2008年9月号の特別付録CDによれば、18654は1949年3月22日に廃車になってます。
最終配置は高松のようです。
>>84さんのおっしゃるとおり、戦前は室蘭にいたようですが、高松に移ったのがいつかは不明のようです。 すみません、>>82さん=>>86さんへのレスでした。 >>88
ありがとうございます。助かります。
大変お手数ですがあと1件だけ、78622の廃車日はおわかりになるでしょうか?
よろしくお願いします。
>>89
>>87と同じソースによれば、1948年で、日付は不明のようです。配置は留萌。
よろしければ、なぜこの2機に興味を持たれたか教えてください。 >>89
連投失礼。
C5042は、1955年8月(日付不明)から名古屋。1965年2月1日現在では名古屋、その後上諏訪→鹿児島と渡り歩き、
1972年6月8日休車、11月7日廃車とのことです。 >>91
この2両の86だけが季刊蒸気機関車の86特集にある廃車年度資料と実際の配置に食い違いがあったもので。
ありがとうございました。これですっきりしました。
しかしレイルマガジンのCDって凄い資料があるんですね。当方最近の鉄道雑誌まったく興味なく見てないので盲点でした。ありがとうございました。
>>92
なるほど、そういう訳だったんですね。
CD-ROMがついていたのはこれ↓なんですが、この特別付録だけでも購入した価値があったと思います。
http://www.rail-magazine.jp/rm/rm300/index.html
301号は電気機関車・ディーゼル機関車篇だったんですが、こちらは私も買っておらず、今になって後悔しています。
元データを記録した沖田祐作さんという方、本当にすごいです。 >>80
D51の20系もあったらしい
肥薩線迂回のはやぶさ
C62の代わりに牽いたゆうづる >>94
人吉の有名なF氏の撮影したD51170牽引の写真がありますね。 >>64
次位補機にするにはそれなりの理由が必ずあると思うんだが、
理由が見当がつかないのも事実。
例えば、中津川区のA24仕業。中津川を貨物665レで出発して、
何故か木曽福島からは同じ列車の次位補機に代わり塩尻に向かう。
木曽福島からは木曽福島区の本務機が先頭な訳だが、これが前補機で
中津川区のが塩尻まで本務機のままでなんか不都合があるんだろうか。 デコイチの全車両の履歴なら、[蒸気機関車パーフェクトBOOK]に出とるがな。
まーカマも人生色々っつーことで >>98
あれって所詮はプレスアイゼンバーンのD51のデータのぱくりでしょ
しかも途中途中の配置だけの抽出だし
本当に必要な1972〜75あたりの廃車年月日もわからないのは相変らず
だから価値はない パーフェクトブックだかなんだか知らんがそこら中にマルチしててウザいことこの上ないな。
こないだ水上でもチラシ撒いてたし。マジウザい。 >>100
アイゼンバーンの本て結構嘘書いてあって困る
C62関係の出版物はメタメタだね
まあそれをそのまま完コピしたエイ出版のC62本が同じ間違いしてたのはワラタが。
>>98
ゴミ本ですた
買わないでヨカタよ >>97
昔のタブレット交換必須の単線閉塞区間のある路線だと、タブレットの収受・返却の担当は先頭のカマだから
前のカマの責任を明確にするってことはないのかね
中央西線木曽福島〜塩尻は当時もほとんど複線になってたけど、洗馬〜塩尻とかは単線だったはず D51牽引の定期運行の急行っていつぐらいでなくなったんだろ?
キューロク牽引の定期の急行ってあったっけ? さて、登場間もない頃の御殿場線の補機とかならあり得るかもしれないが、急行が地方にもドバッと増えた頃にお呼びがかかる存在だったかねぇ。 >>105
たしか夜行「大雪」じゃなかったっけ?
旭川〜遠軽とか 3月より施行される新しい利用規約により、インターネット上での自分の行動が
何もかもGoogleに掴まれ、利用される日がすぐそこまで来ているのかもしれません。
【いよいよ3月】脱Google総合★7【早急に対策せよ】
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/google/1330356779/ 9600(だけ)が旅客列車を牽引していた路線自体が戦後でみれば
唐津線・宮津線(メインはC58)・米坂線・川越線ぐらいでしょ。
支線はDC化もあったし。
戦前の急行なんて、幹線以外は設定自体されてないし。
宮津線の臨急(海水浴客向け)ぐらいじゃないの?
D51は夜行の「すずらん(函館−札幌?)」が結構遅くまでDL化せず残ってたはず
もちろん、札幌から出発する夜行急行、「利尻」「大雪」「狩勝」も電化直後はELやDLではなく
D51がまだ牽引していた。
昭和45年の夏は少なくとも札幌発は「狩勝」以外は「すずらん」同様D51が牽引していた。
臨急だと昭和44年12月のちくま51号だかの夜行は中央西線はDD51だったが、
塩尻からの篠ノ井線をD51が牽引していた。あとは大雨土砂崩れとかで東北本線使えず
奥羽本線に迂回した関係の特別なケースは昭和47年ぐらいまではあったのかも。 >>111
最後の3両の9600はなぜか追分時代には会えなくて、79602は熊本区時代に、39679は坂町区で会いました。
まさかあの時のカマが「日本最後の稼働国鉄蒸機」になろうとは・・・。 >>109
北海道の炭鉱鉄道は96の混合が何処でも見れた。
三菱大夕張・美唄、夕張、日曹など
9600なんて、都内からちょっと足伸ばせば大宮とか高麗川とか
高崎操車場とかにごろごろいたんだよなあ
もっと撮ればよかったのに、子供のお小遣いではなかなか遠出もできず
結局高崎区と八高線で数回撮っただけで終わってしまった。
九州と北海道は結構追いかけたけど、
末期はトラ塗りだけでなく、反合闘争のペンキに泣いた >>109
その辺の客車急行は函館本線の小樽から先はC57がメインでなかった? >>115
岩見沢のC57は室蘭本線客レ仕業だけ
苗穂のC57は千歳線の補機仕業(貨レに使っている)
函館本線電化後の客レにC57は使っていない
普通列車は71年夏まで一部小樽以北岩見沢まで
使っていたものも全部D51だけ
すずらんは71年夏まで札幌〜苫小牧間はD51牽引(残りはDD51) 当時の写真ネガ、8mmフィルムの劣化が全国的に急速に進んでいるらしい
現役世代の方はいち早いデジカル化を! >>117
現役知ってるってことは、昭和50年に最低でも10歳ぐらいてことで、
昭和40年生まれ以前だから、フィルムより本人が劣化してんだろ。
狩勝や奥中山を実体験してる連中は下手すりゃそろそろあの世にいってる世代だし 37年ぶりにSL運行 JR室蘭線、記念行事で 北海道
JR室蘭線にSLが戻ってくる。北海道室蘭、登別の両市とJR北海道は、
室蘭港の開港140周年とJR室蘭線の開業120周年を記念して5月19、20の両日、
室蘭線登別駅―室蘭駅間(24.5キロ)でSLを運行する。
同区間は国内で最後に定期的に現役のSLが走った「SL最後の地」で、
1975年の「引退」以来約37年ぶりとなる。
http://www.asahi.com/travel/rail/news/HOK201204090007.html >>119
もうヘッドマークつけたいかにも特別運行の客レはいいよ
通常のJR貨物の仕業に、D51でもつけて走らせてくれ
百歩譲って新線の道床固めの工臨でもいいわ
>>117
未発表写真は撮った本人がデジタル化できないのなら出版社に送るなりすればいいのに。
良い写真は向こうが何とか後世に残るようにしてくれるよ。 SLブームの頃働き盛りの人でも70越えだからね。
広田さんの公式見にいったらすっかり老人になっておられてショックだった。 田だ勇作サイトにC51の画像提供した人とかかなりのお年なんだろうなあ。
こういう写真が日の目を見てよかった。 そういえば最後のC51は本によって諸説あるね。
梅小路の271号説、鳥栖の251号説、吉松説(ナンバー忘れた) 書類上の廃車なら、鳥栖251と吉松94の2両が1966.2.23で同じだけど?
271は1.20付けだから。運用かな?271は一休になったのが早いから、
最後の運用ではなさそう、251も末期はボイラー代用っぽい とことん使い倒されたC51はC53、C54よりは幸せな釜生だったといえるかもしれない。
5号の一休の写真が何かに載ってたけどなぜかパイプ煙突だった。 >>126
C54はC55ができてしまったおかげで中途半端に終わってしまった。
C50も8620を改良したはずが都市近郊輸送は
DCやEC化が急速にすすんで使いみちが減ってしまった。
E10も実力を発揮する機会はほとんどなかった不遇組
改造組ではC60・D62あたりは状態のいいのも廃車になったが、
九州や北海道に渡って蒸気終焉期まで転用できたように思う 9600 軽軸重なのに牽引力抜群
8620 軽軸重なのに空転しにくい
8620の優れた特性はC50には踏襲されなかった。残念。 昭和に入ってからの蒸機もイイ!けど近代化を狙って試行錯誤的なものも多かったね。
ある意味8620.9600はよく言われている明治大正蒸機の集大成と言うより
既に日本の鉄道に最もマッチした蒸機の完成形だったのかもしれない。
その使用期間、製造両数を見ても・・と、いまさらなことを言ってみる。 断片的な写真貼られてもなあ・・・
写真掲載されてるサイト回ってると、DLは嫌われてたようなコメント見るけどDCは意外と写真があったりで、当時のファンにはどう思われてたの? 好き嫌いというより、興味の対象が蒸気機関車だった場合、よほどのDC,DL好きか
貴重な存在でなければシャッターを切らなかった。というのはフィルムの一枚一枚が実に
貴重だったから・・・。
最後の時期近くに撮影旅を始めファンはそれこそ「一台でも多くのカマを記録したい」という思いが強かった。
だからあとになって貴重なDCなどの記録ネガにはほとんど残っていない。
ただしたとえば「木曽路なら181系しなの」山陰ならDD54の「出雲」など
当時でも「これは撮っておきたい」ものは別だったような。 若いDLファンより見てるし撮ってるし牽引列車に乗ってるし
色々語れるけどね
別に好きで撮ったり乗ったりしてたわけではないのが違うところ
いつもこれが○年前ならC5○だったのに〜という感じだったからね
まあその頃の感情であって今は嫌うこともないが 末期はそりゃSLを駆逐したのはDL(DD51・DE10・DD16etc)だから、豚呼ばわりで
当然人気なかったし (一応煙出してるじゃん、って仕方なく撮ったのもあるか)
DCは最初からDCとして半ばあきらめの感覚で、どうでもいいって感じかな
客レがDCに全とっかえとかだったら忌み嫌われてたと思うけど
それでもニセコの前座のDCとか八高線のDC、中央西線のしなの181系、小海線の
DC etc.etc. 試し撮り程度はネガが残ってるな
煙が出てるって暖房車も撮ってたな、あと数年早けりゃD51だったのに〜と思いつつ
ただ末期といっても69年頃は既に無煙化したはずなのに冬場だけ動いてるのがいて
DLの代わりに仕業についていて子供心に驚いた
中央西線や伯備線なんかのDL客レは
期間も短く今思えば貴重なんだろうが1枚も撮ってないな
やはり特急はSLの敵でもないし光ってたから来れば撮ったなあ >>136
DD54やDF50はもとより
181系やくもや82系まつかぜも撮ったよ。
でも無煙化完了後はピタリと撮るのをやめた。 目当てのSLの露払い的に来るとテストで撮るんだよね。
そういうのは一枚撮りだからキマってていい写真だったりする。
肝心のSLは連写してタイミングがずれたり興奮してブレたりで、
ロクなものが撮れない事も多かった。 E10の第3軸にはフランジがなかったそうですが、
踏面勾配はどうなっていたのでしょうか?
あと、ガキの頃テンホイラーって面白い名前だなと思っていましたが、
良く考えると10輪ってことだったんですね、あまりにもそのままなんで最近まで気付かなかったことが恥ずかしい・・いやはや すみません、テンホイラーの話はE10の動輪の数から思い出しただけですんで、悪しからず・・
E10は呼び方あったんかいな? ググレカスと言われる前に調べます。
まあ、このスレにそんな無粋なこと言う人はいないとは思いますがね。 特にナメクジのスレもないのでこんなの調べてみた。ブーム渦中に健在だったナメクジD51の配置。
このなかからどれぐら会えたっけなあ・・・。
昭和45年(1970)6月現在の配置(1休なども含む)
深川 4、62 名寄 14、60
小樽築港 24、27、54、59、70、80
岩見沢一 11、13、15、47、48、53、84、85、98
滝川 37、38、68、95、96、97 鷲別 55、83 長万部 64
青森 1 新庄 100 酒田 28、29、36、63、74、75 新津 82
稲沢一 2、72 吹田一 25、51、66、78 竜華 91
直方 20、42、45、76 鳥栖 10 早岐 46 南延岡 9、12、93
熊本 79 出水 30、49、94 吉松 8、18
計59両 全両数の62%健在(北海道28 東北9 中部2 関西5 九州14)
最終静態保存 1、2、6、8、10、11、14、18、25、47、51、59、66、68、70、75、95、96 計18両(6のみ45−6以前に保存)
まだ半数以上が現役だったから意外とよく出会っていたかな。でも「ナメクジ」が来た!というだけで
なんか得をした感じだった。 ついでに
関東で最後だったのは新小岩の21だっけか。 佐倉には50もいたかな 小樽築港の54は標準仕様になっていて妙な感じがした >>150
じゃあ、C55・C57スレ立てようかね。
かつて「お気に入りの蒸気機関車をレス番順に語るスレ」ってあったがあれはたのしかった。
今も過去ログあるけど。 >>152
スレが元に戻るなんて事があるのか、初めて知ったw 鉄道模型板にも埋め厨はいるけどそこまで露骨じゃない。
せいぜい950くらいからだ。ひどいもんだ。 夕張から一山越えたところに美流渡炭鉱があり、B6や8100形が活躍していま
した。下記の美流渡専用線の映像ですがセキ編成途中で連結面が異常に広い
箇所がありますが、どうなっているのでしょうか?識者の皆様ご意見を拝聴
させて下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=dRkH7EtcaUA&feature=context-chv
http://www.youtube.com/watch?v=I-1aIetA4Gk&feature=plcp
40年前の今日(8/16)
私は山陰本線下関口で撮影をしていました。九州での行程を終え、美しい長門海岸を行くD51を堪能していました。
九州では宮崎のC61とか梅小路入りまで復活した直方のD50140とかがいました。
みなさんはこの昭和47年の夏、どこにいましたか? 47年の夏は加太かな
山陰・九州(筑豊のみ)は48年の夏に行ったけど、D50はおろかD60もいなかった
これが最後の鉄道写真撮影旅行になったけど、山陰の海は綺麗だった
48年は一番印象深い年だった 47年夏は地元である山陰線で撮ってた。
小学生だったので遠出はできず呉線や播但線は既に終了。
それでも全検残りあるカマがあちこちから
来るので結構面白かった(D511、C575等)
30年後にD51254(長門)を都内の公園で発見した時は感慨深かった。 >>158
47秋以降に酒田から転入してきたD5136は1号が梅小路へ行ったあと「山陰唯一のナメクジ」として話題になったね。 昭和44年4月に祖母が死んで4歳の俺は平日なのに満席な上野発の津軽1号で
母親の実家がある秋田県八郎潟まで乗車した。
記憶は断片的だが八郎潟駅で見た「へんてこな電車」と
実家の2階から見える奥羽本線の蒸気列車の本数の多さに驚いた。
俺の家は開業間もない田園都市線鷺沼が最寄駅なのだが、
正直「田園都市線より本数が多い」と思った。
日本海縦貫線は輸送の動脈だったんだな。 >>158
http://c5793.ebo-shi.com/hozond51254.html
C57152とD51832の部品も使われているようですね。
また12月14日がやってくるね。あと二日か。まあ今年は37年前だから特に目立つ年でもないけど。
前日の12月13日夕刻の上野駅の喧騒が忘れられない。
運転事故で大混乱、青森行き列車の運休続出などでホームでが銀箱・三脚を持った人たちが
途方にくれて右往左往していたっけ。 一応記念日なので書き込み
1975年12月14日より37年 1973年12月15日 南大夕張駅・大夕張炭山間さよなら列車 3けん引 ああ今日はあの日か
NHK大河ドラマ元禄太平記で討ち入り回をやった日 1日経ってしまったけど
あの日から37年記念カキコ そういえば今年世田谷へC5757を見に行ったけど
塗装作業中で見れなかった
もう作業は終わってるのかな >>166
同じ区内の世田谷公園にもC5757がいるよ。D51272と交替で走っている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています