蒸気機関車最後の10年を語るスレ part8
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>>391
C50は’71/3末時点で既に入換用しか残ってない
'70年時点で名古屋臨港線の貨レ牽いてるが、あそこは客レはない
’70年時点で朝夕のみDCでは裁ききれない利用客用に客レが残っていた路線もC50配置区では全てDL化完了済み(予備機もDLで対応)
C50が牽引したそれなりの長い編成の区間運転の客レは早い時期に電化したりDC化されて存在意義がなくなった
軸重が重いので四国からは最初から拒否られ、北海道や東北でもすぐに敬遠され結局入換に活路を見出した
鹿児島の特急客車編成なんかの回送には使いでがあっただろう >>392
レスありがと
となるとやはり最末期は8620とかC11限定になるか>ラッシュ時リリーフ運用でPC牽引 母が昭和46年頃に松浦線で佐々から佐世保まで通学していたのですが、
客車列車の後ろにクリームとオレンジの車両を繋いでいたと言います。
これってDCをぶら下げていたってことでしょうか? >>391
最末期は1973年の鹿児島区、その前は1972年亀山区だったはず。
両方とも旅客運用はありえないと思います。
亀山区ならC50が出なくとも
C58がリリーフに入ってましたし、
鹿児島区は言わずもがなです。 >>394
松浦線で客レにDCぶらさがりがあったかどうかは知らないが
当時は客レに回送のDCをつけるのは結構あったような
自分の知ってるだけでも中央西線・日豊本線・山陰本線であった >>393
'71年あたり以降はそもそも客レをDLやELのリリーフでSLが牽くことはない
DLもELも十分予備機があったし、ELやDLの運用前提でダイヤ組んでるわけで、SLで定時運行できる区間は少ない
'71年あたりまでの夏や冬などの臨客をSLが牽くことはあった
これは最初からダイヤをSL運用で組んでいるわけだが、これも'72年頃にはほぼDLやELにダイヤごと交代した
C50だから無理で8620やC11ならOKとかの問題ではない >>395
その1972年8月亀山で動いてたのを堪能した。154号がもっぱらで109号は休んでた。
本線用はC57の110番で、もう1両の4次型(番号忘れた)は動いてなかった。でも火は入ってたような覚えがあるが(C50109も) >>399
自己レス失礼
思い出した、C57のスジで待ってたらDF50でがっかりしたんだ、だからもう1両のC57は有火のまま休んでたんだろう 最後の10年ではなく5年になってSLを追い始めた。C50は地味なカマで糸崎で迷彩色のを見た。66 ,88だったかな。でも糸崎はC59やC62目当ての人ばかりでC50にはカメラを向けなかった人もいたのでは C50が不評だったのは機関士や機関助士というより保線や検修側からのものだったと思われる
ほんとうに使い勝手が悪ければ入換にすら使われないだろう
(’60年代以降は8620やC58も余剰がでていてそれらを転用すればよかった)
亀山、紀伊田辺、柳井、糸崎は全検切れのC50の代わりにわざわざC50を迎え入れてるし、
関東で最後までC50を使っていた小山はC58もいたのにあえてC50を使っていた
鹿児島なんか最後は8620の代わりにC58ではなくC50を呼び寄せてる
静岡局も遅くまで入換機にC50とC58を共通で運用していた
本線運用には8620かC58のどちらかを選べば十分でどうしてもC50が牽引定数的に不可欠
という都市近郊路線は早々に電化してお役御免になっていただけで
カマ自体に欠陥があったわけではないはず(多くの本やhpには欠陥品のような
記述があるが後付けの理由やよく調べていないいい加減なものがほとんど) C50は軸重が重く使えない路線もあったろう。梅小路SL館の発表当初は候補に挙がってたのにC61と入れ替わってしまった。糸崎でしか見てないが豊橋」柳井にも遅くまで残ってた。 昭和45年は万博でフィーバーしてたが大型蒸気最後の年だ〜とそれどころじゃなかった。とはいえ当時は中学生で時間が取れない、10年早く生まれてたら、と随分思ってた。それなら今はジジイだな >>398
うらやましい…
俺は亀山のⅭ50は車窓から見ただけで
撮影はかなわなかった。
しかもⅭ574次型の緑ナンバー198を撮影したくて
待っていたら、
やって来たのは代走のⅭ58だった。
亀山区とは相性が悪かったみたいだ。 >>405
自己レスですまんが、
文字化けしたようだ。
C57198の緑ナンバーを待っていたら
やってきたのは代走のC58だったというお話。 >>405
もう一つ自己レス
現役のC50一度は撮影したかった… 最晩年のC50は亀山と鹿児島だったっけか。
どちらも完全に入換が仕事だったけれど、鹿児島のC50はたまに客車区からの回送で20系などを牽引して短い区間だけれど走っていたなあ。
見た目C50牽引のブルートレインだった。 >>396
レスありがとうございました。回送気動車に間違いなさそうですね。
ちょっと興味がでできたので、週末図書館に行って蒸気の写真集でも眺めてきます
ありがとうございました。 >>391
確かにC50は鉄道省が何をしたかったか解らないカマだよな
C51/52/53よりも設計年度が古いのに動輪上軸重はC51よりも大きくて(C51は14.61t-乙線なら運用可)甲線でしか性能を発揮出来ない、
もしかして3シリンダ型試作機のC52と比較する為に少数試作してみた、という意図で設計されたのが
なぜか154+4両も量産されてしまったのか?
8620改なら動輪上軸重13.6tに抑えないと丙線には入線出来ないのに軸重軽減を敢えてしなかったのはどんな意図があったのか…
C51級では過大出力と査定されるが軌道状態は良好な幹線区に投入する為に8620改を設計する経緯でいろいろ付けたししていったら
いつの間にやら乙線の軸重限界14.7tを超過していますた、という顛末だったのか?
エコノミー式先台車採用も叩かれるにふさわしい重大なスペックダウンとは言えないだろうし
後年のC58は(紀勢本線での快速運用とか)走行時の動揺が酷い欠点がカマたきに嫌われたし
まあ鉄道国有化以前には旧九鉄の3100形が改良前は軸重18t越えという斜め上のカマも存在したけどな
C50が不運なカマだったというのは禿しく同意
#とりあえず加糖には8620と九州型二軸石炭車出して欲しい
袋詰め生石灰輸送特化車なテム300とか出す位だし
(山形交通高畠線に入線してる画像も見た事がある)
室木線のPC+石炭車3〜4両@バック運転とかたぶんここだけだよな >>410へ自己レス
×C51/52/53よりも設計年度が古いのに
○C51/52/53よりも設計年度が新しいのに 最晩年には全検切れで廃車なのが次々と出て来たので使えるのをあちこちで使い回してた。宗谷本線でC55を待ってたらC57が来てガッカリなんてのも 驚いたのは日豊本線でのC61投入、もう少し早く決まってたら鹿児島本線のを回せたのに、夏に奥羽本線に写しに行く予定の人は困っただろう。 >>410
成田機関区に新製配置されたC50が成田佐原間で二度脱線して、以後は我孫子線に運用を限られ、1年かそこいらで他所に転出して代わりに8620がやって来た。
という話がある。
作ったこと自体が間違いみたいな機関車だな C54よりは使えたんじゃないかな、でも8620の方が軽快な感じが、外見はそっくりなのに意味もなく重くしたからかな >>410
古いピクの8620/C50特集で今村・久保田両氏が記してた記事でも
あの軸重は本線から外れた後入換向けに転用するの考慮してたのでは…と〆てたり
(車齢の都合もあって60年代まで入換・短距離列車用としては86より生き残った) 私は好きなのですが、
一般には超地味なC50に
これだけ書き込みがあるのは
嬉しい限りです。 >>418
古すぎて誰も知らんのでは?
現役知ってる人は多分70代以上。 C54は路線も偏ってたし早く消えたし語れるひとはもう死んでるだろう
2120や6760同様に最後の10年ではほぼ対象外 DD54なら見たけど、54という数字は機関車には不遇なようだ。 C54の動画はNHKのDVDとかで見たことあるけど、
C50の動画は見たことないかもなぁ。
ネコの国鉄時代のDVDだったら、あったかも。 >>421
言われてみれば
C54もDD54も山陰線・福知山線だったな。
地味というかレアというか… 少数派の機関車は大体一か所に集められるね、D61、D62やE10も >>424
それはそうだろうねぇ。
短命スレにも書いたんだが、
C54とDD54に対して、
C50とDE50と数字の組み合わせに
どうも不遇な運命を感じてしまうなぁ >>425
それを言うなら
DE50よりもDD50じゃない? DF50もあったがC57のスピードとD51のパワーを目指したもののどちらにも及ばなかったとのこと、亜幹線で頑張ってたな >>426
DD50はもともとつなぎの目的でその目的は十分達した
DF50はなんだかんだ亜幹線の無煙化に貢献したがパワーがなさすぎた
DE50は期待のホープだったわりに致命的な故障と国鉄の方針転換もあって鬼っ子と化した
不遇というとやはりDE50を推したい 福知山線でDD54の牽く列車に乗ったが途中で故障して立往生しないかとハラハラした。SL復活の話も出たらしいが。 そんな機関車がよくブルトレ牽引してたなw
スレチだけど。 機械に故障はつきもの
昭和40年代だとEF58もたまに代機交換やったり運転打ち切りしてた >>425
そこにEF50とEF54を足すとさらに薄命さが際立つな
※間違ってもクモハ54を入れてはいけない そもそも何故にイギリス製の電気機関車ばっかし多量に買ったんだ? >>433
東海道線電化は海軍軍縮条約で宙に浮いてしまった軍艦建造予算が振り向けられたもの。
鉄道省にとっては唐突に決まった話。
で、その軍縮条約交渉の場で大英帝国から妥協を絞り出すために、英国の工業製品を大量に買うからと海軍と外交官がお約束してしまう。
どうせ海軍の予算だった枠の流用で電化するんだから、後始末お願いね英国製品よろしくと言われた鉄道省が大迷惑。
あっ蒸気機関車スレだったw ところで、復刊ドットコムで鉄道賛歌の再販の受付がもうじき終わりそうだぞ。
持ってる奴がいい加減ボロボロになってきたから、私は頼んだ。 43・10以降だと参宮線の紀伊鳥羽編成のハ-ハネの二両編成をC57で牽引していた時期があったな…DF50既に入線していたのに
優等列車の端末区間分割短編成をC57で牽くというアナーキーさ全開なのが禿しく萌え〜
非電化閑散線区でもDCではない二両編成でカマ牽引の優等列車の運行があったという稀有な実例
鳥羽が終点なら四両編成であっても不思議じゃないか?とも思うんだが
しかしWeb上で画像探しても見つからない 漏れが見たのはCanブックスの特定の本に載ってた画像が唯一つorz 石巻線がC11を1974年3月まで運用していたよな
貨物輸送需要が比較的大きかったので無煙化が遅れたのだろうか
定期の客車列車も最後の日まで牽引していたのか興味ある 貨車1〜2両を引っ張るなんて無駄に思える運用あったな、今は無き宇品線も前後にC11とC58を繋いで往復してた。 けむりプロの写真はスノッブすぎてしかもたいして芸術的でもないからあまり好きじゃない
当時鉄道誌によくでていた煙管プロとか日本風とかも芸術かぶれのわりに大した写真は残していない
市井の無名のアマチュアのほうがはるかに素晴らしい写真を残している >>438
ゴレンジャーの機関車仮面なら知ってる。 芸術的じゃないとか芸術かぶれとか凄い基準で判断してるんだなw 昭和43年頃に少年サンデーで「機関車大将」という小説が連載されていてSLブームの火付け役になったかもしれない。当時は漫画だけでなかった >>448
当時少年サンダーを呼んだ世代だがまったく知らない
SLブームなんて都内から客レが消えるってマスコミが騒いだ'69/9頃からじゃないの >>450
ゆうづるや奥中山辺りはブームの前のブーム(マニア内の盛り上がり)じゃないかね ブームになってからなら常磐線のC62も保存されてたかな?49番機は保存候補だったようだけど。ダメでも糸崎に行った48番機を持ってこれたのに、銀河鉄道999(映画)で注目されただろう 福知山線は近くだったのにいつ無煙化されたかわからない、小さい時に親父に連れられて乗った時は確かにSL牽引だったが。昔はローカル線だったのに今は過密ダイヤ、それがあの大惨事を・・ 都内最後の客レあたりからサヨナラ列車にマスコミも殺到して過剰なまでに報道したし、その後は国鉄側も記念乗車券やオレンジカードを乱発した
常磐線や東北本線の本線運用最終はまだ鉄道友の会などの内輪でだけ騒いでいたから同時期の福知山線も特別に騒ぐことがないままあっさり無煙化 >>454
昔塚口住まいだったので尼崎港線C11のDD13置換えにびっくりして、その後の篠山口折返し
C11のDD51置換えが1966年、定期旅客ラストは1968年3月1727レ篠山口一泊731レの
C57128、その半年後に吹田一のD51小運転がラストと大体こんな感じ。 >>454です。情報ありがとうございます。尼崎港線はすでになく跡地は古墳みたいに丘になってます。昭和46年5月16日にC5741が臨時で走ってますがこれが本当にラストランになるのか >>456
1968年昭和43年旅客運用ラストランか
1964年昭和39年生まれなので幼稚園の1969年昭和44年に福知山線乗った時はSLは既に影も形もなかったからな(>_<)
と言いたいところだがその自分が乗った726列車浜田発大阪行きを自分が乗った福知山駅まで牽引して来たのはまさに、SLでありそういう意味で二重の意味でSLにタッチの差乗れなかったいうのは47年後の今も悔やんでも悔やみきれない人生最大の汚点なのかもしれませんorz >>457
どうも456です。C57引退の元となったDD54先行試作機1〜3号機が出来たのが
40年前の7月末。732レ折返し739レにC57を従え1週間テストの後、DD54単機
運用に、そして722レ折返し743レのC57も置換えて3両配置2両使用。
学校帰りに毎日見ていたのを思い出したわ。 >>459
> 40年前の7月末。
自己レス
50年前の1966年7月末の大間違い。 と言うことは1966年昭和41年の当時はつまりビートルズが来日しおはなはんやモノクロのオバケのQ太郎放送の頃は、SL福知山線で現役バリバリなんですね
1966年昭和41年当時学生と言うことは今は還暦過ぎ定年過ぎと思われますが、正直羨ましいとしか言い様ありません。
当時二歳いやまだ一歳だった現鉄子より 大阪近郊は福知山線以外に片町線や城東貨物線があった。後者では本州最後のD52があったがたしかダンプと衝突してジ・エンド SLの索く客車に乗ったのを羨ましがられた。当時は弘済出版社の時刻表はSL列車にはマークが付いててとても助かった。 あのマークは40数年たったいまも変わらず使われ続けているんだよね。
煙室がやけに大きく煙りがヒゲみたいな愛嬌のある。 >>462
吹田のD52は御殿場線より遅くまであったんですか!
当時小学生だったので、撮影に行けなかったのが残念…
@兵庫県出身 >>456
連投ですみません。
岩堀春夫さんの写真集には
「生瀬の工臨」というタイトルで
1969年8月に宝塚で撮影された吹田一のD51319と
福知山線の臨時列車を牽くC57152(福)の写真が
掲載されています。
C57は定期運用が終わっても臨時列車で大阪駅に来ていたんですね。
私は当時、宝塚ファミリーランドに遊びに行ってたのに
残念ながらSLに遭遇した記憶はありません。 御殿場線は68年6〜7月頃に終わり、吹田のD52は同年10〜11月頃に事故ったと鉄道ジャーナルに載ってました。記憶はもう曖昧ですが >>466
千里万博があった1970年でも臨時「だいせん」をC57が牽引してたのを
中央郵便局向かいのテント村で夜行列車待ちながら見てたよ。 >>463
名寄本線天北峠、一ノ橋から上興部キューロクで一往復
乗っけてもらったよ。当日吹雪いてて機関士にたのんでみたら、おけー
96、一機で25‰、とにかくすさまじかった。
時速10キロぐらい、火室に石炭くべる時は5,60センチぐらい
火が噴きだす、蓋しめても、穴からいつも火ふきだしてるし
あまりの恐ろしさに、少し後悔、上興部ついて帰りは、後ろの機関車
機関士、に頼めと言われ、無事一ノ橋まで到着、
今なら、ありえないが、当時はよくあったことで。 >>469
最高の思い出ですね!羨ましい!!(;ω;) >>468
1970年まで臨時急行をC57が牽引して
大阪駅まで来てたなんて…
あと3年早く生まれたかったわ
細かい話だけど、到着後は宮原の転車台乗ったのかな? 福知山線以外にも1970年秋には数回大阪駅から宮津線の丹後山田駅(現在は野田川駅)までC57が走ってた、梅小路の5番機だった。 >>471
福知山線の大阪駅乗り入れ蒸機旅客列車は1965年当時
C57三往復、C11三往復が残っていただけで他は既にDF50に
置換え済み。DD54の登場でC57二往復が消えたのが1966年。
1966年までは午前中の宮原区にはC57が2両、13時半ころに
722レ牽引機もやってきて夕方まで3両滞泊していたよ。 SL牽引の客車は朝夕に集中してて昼はまばらの所が多く朝かなり早く起きて出発した。貨物はダイヤがわからないしカメラをバッグに入れたら遠くから ポーッと汽笛が・・ 無煙化しても数ヶ月〜1年程度は休車で1〜2両はのこして工臨や臨客用に残すケースが結構あった
何故昼間はないかというとわずか数両のDCに余裕が無く朝夕の通勤通学用には定数一杯の客車を機関車で牽くしかなかったから
今では考えられないぐらい当時は田舎の利用客が鉄道を頼っていた SLブーム晩年には撮影ガイドなんて本も登場し、ダイヤも載っていた。播但線の溝口駅にはなんと地図まで用意してあった。三重連の時はかつてない大混雑に、通勤電車より酷かった。 >>473
ありがとうございます。
新大阪では新幹線の下をC57が走っていたんですね。
宮原区にたむろするC57見たかったなぁ…
同じく向日町運転所に滞泊するC57も >>477
「ダイヤ情報」より前に2回刊行された鉄道ファン増刊の「蒸気機関車撮影地ガイド」はまさに当時のファンの
バイブルみたいなものだったね。内容はそれまで本誌に連載されていた「撮影地ガイド」をまとめたものと、なんといっても添付されたダイヤ。これと時刻表とを首っ引きで(行けもしないのに)「あそこであれ撮ってこれで移動して‥‥」なんてやったものだった。
そのなかで「播但線溝口のムード」という、生野越えのC57とは別に姫路口のC11通勤列車群を主体にしたガイドがあって、それにひかれて一回訪れた。すでに朝の列車は半分くらいがDL化されていたけど姫路近郊の田園地帯を行くC11の通勤列車を少しでも味わえた。
(寺前・福崎・溝口と発着駅がいくつかあったな) 撮影ガイドは昭和46年発売でC56が表紙だったが他に写真家による現像についての記事があり、とても参考になった ?S46年の出雲坂根のC56が表紙の撮影全ガイドはキネ旬の三匹目のドジョウのやつで
鉄道ファンの増刊の撮影地ガイドがバイブルだったって意味だったのでは
キネ旬のやつはダイヤも乗ってないただのアマチュア投稿の自己満足レベルだったし
ダイヤは参考になったが、名撮影地の紹介を地図や解説つきでやたら公開したことでマナーも無視して私有地に大挙しておしかける不逞の輩を増やしたわけで功罪半ばの感がある 古書店に出回る撮影地ガイドのダイヤにボールペンなどで幾重にも線が重ねられていることがある。
古書として状態が悪いというよりも、時代の空気感が密封されているような気がして好きだ。
入手当時の若人が迷いに迷って引いた一本一本の線なのかどうか、知る由も無いがw
読者の熱気、殺気が篭っている線だ。 伯備線の三重連は地主にとっては迷惑この上ないことだったろう。なくなった時はホッとしたはず。昭和51年のC571の運転の時は収拾のつかない事態を招いた。こうなるとわかってたからいかなかった。 上目名や常紋、竜が森などは私有地でもほとんど人跡まれな利用してない土地だからあんまり騒がれなかった
信号場の人もトンネル通行を黙認してくれていた(注意するようにきつくいわれたが)
小海線の鉄橋は道路際で仲良く並んでとれるので文句はでなかったし違法駐車も黙認されていた
布原は私有地の畑の中だからそりゃ地主は荒らされて嫌だったろう
当時も今も変わらず非常識に許可なく犬走りや構内を歩き回り、たばこやゴミのポイ捨て、場所取り争い、違法駐車などする連中がいて迷惑極まりない NHKの新日本紀行で、ホームから線路に飛び降りて最短距離で蒸気機関車へ向かう人の群れが番組として流されたりしましたからね。
ルーズな習慣が締め上げられてゆく時期でもありました。武士の帯刀を責めるような発言も控えましょう。 機関区にも行った。腕章とヘルメットを着用して、勿論指示は守らないといけない。入場日を制限している所もあり、曜日が合わず断念! 極めてルーズで現場の人も部外者がいても気にしないという状態があったことは確か。
アポなしで訪れるとカメラで撮ってくれとせがまれる時代。
神話時代といってよいだろう。
現在の、稀にある催事でもなければ断られる状況へは段階的に移行したと思うのだけれども、
いつの時点でどういう管理状況だったのかという事を今さら調べるのは無理なんじゃないだろうか。
過去を今の常識で断罪しても意味がないし、だからといって過去の出来事を得意げに語られても困る。
書くのも読むのも、扱いが難しい。 機関区職員手作りのわら半紙に「見学の注意」とか「配置表」「機関車の動くまで」のイラストとかが
印刷(ガリ版)なんか嬉しかったね。暇な時間か忙しい合間に作ってくれたのか、しかも紙の裏が
運用表と管理局の報告書のいらなくなったものとかだったり。
過熱していたブームにあっても国鉄職員がみな蒸気機関車が好きで暖かくファンを迎えてくれるところもあった。 糸崎機関区ではガリ版の注意書きを渡された。中に作業中の人を写してはいけないとあった。現場から苦情があったらしい。九州では死亡事故の為時間を制限することに 後藤時から小倉に向かう日田彦山線の車内で乗客と一緒にラジオで高校野球聞いてる車掌さんがいた。丁度地元が出ていた時だがいいのかな?昭和48年の話 やっぱり子供が写真撮るのに夢中で怪我した71年頃の九州での事故から機関区立ち入りがうるさくなったと思う
何故か奈良も71年には運転所立ち入り禁止になった
北海道・東北・山陰はそれほどうるさくなかった
九州でも宮崎はかなり甘かったが、どこも71年あたりから労組が嫌そうにこっちを睨みつけたり、たまたまファインダーを向けると喧嘩腰で恫喝するのが増えた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています