蒸気機関車最後の10年を語るスレ part8
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あれから38年も経った
今度は寝台特急が消えてゆく 私の乗った蒸気機関車牽引列車(記録にあるだけ その1)
1972/4/17 筑豊線723レ 折尾→原田 D511150
1973/3/29 吉都線622レ 京町→都城 C57154
1973/8/27 山陰線823レ 浜田→益田 D51+C57
1973/8/27 山陰線823レ 益田→長門市 D51
1973/8/27 山陰線825レ 長門市→下関 D51
1974/3/10 宗谷線321レ 旭川→士別 C5787
1974/3/11 宗谷線317レ 幌延→南稚内 DD51+59674
1974/3/13 石北線1527レ 北見→網走 C5833
1974/3/13 釧網線混633レ 網走→川湯 C5833
1974/3/14 釧網線混631レ 川湯→標茶 C58331 私の乗った蒸気機関車牽引列車(記録にあるだけ その2)
1974/3/16 宗谷線321レ 旭川→名寄 C5787
1974/3/17 室蘭線222レ 岩見沢→栗山 C5744
1974/3/17 室蘭線223レ 栗山→岩見沢 C57104
1974/7/15 田川線4435レ 行橋→後藤寺 C1141
1975/2/13 室蘭線221レ 苫小牧→沼ノ端 D51467
1975/2/15 室蘭線223レ 白老→追分 C5738
1975/2/15 室蘭線229レ 追分→岩見沢 C57135
1975/2/16 石北線1529レ 常紋(信)→留辺蘂 D51444
1975/5/2 室蘭線820レ 追分→三川 D5153
1975/5/2 室蘭線227レ 栗丘→岩見沢 C57144
1975/5/3 室蘭線835レ 岩見沢→追分 D511160
死ぬまでに、復活蒸気の列車でもに乗ろう・・・(笑) >>275
田川線はc1148では?録音はしましたか? >>278
主要重油併燃装置取付実績形式
C51・C56・C57・C58・C62・D50・D51
釜石・長野・松本区のD50の重油併燃はデフォルト
昭和40年代後半になると、使用区は激減 12月24日なのに、もう記念レスもなくなってしまったのか・・・。
現役を知る世代もだんだん少なくなるんだなあ。
D51241 ありがとう。 ああすっかり忘れてたなあ。
川端滝ノ上紅葉山沼ノ沢清水沢あたりを歩きまわった日々も遠くなった。 >>280
その年末の行く年くる年でD51の最後の出発を生中継しなかったっけ?
まだ火を落としてなかったんだと子供心に安心した記憶がある >>282
営業運転もなしに、種火だけは残していたということ?
翌3月まで使われていた96みたいに、構内入れ換え用とか? お正月だと機関車にささやかな正月飾りが付けられていたこともありますね。機関区の方々のあたたかい
気持ちが伝わってきました。 追分で撮ったD51361にリンゲルマン濃度計(台座)が付いているのを発見、末期の道外からの転属機は徹底的に北海道型に直されていたのに
これは珍しいかも。 昭和45年だったが修学旅行でお伊勢さんに行った。
福知山線の某駅からDD51の牽く臨団で草津へ。そこからD51にチェンジし加太を越えた。
加太越えをSL牽引の旧客で体験できたのは貴重な思い出だ。 蒸気機関車熱狂時代 最北の爆煙
http://www.oakla.com/htm/newbook.html#4684
最後まで残った北の煙、北海道SL撮影行脚。 /・北海道撮影の旅。 ・C62急行「ニセコ」の残映。 ・北海道本線の煙。 ・
最後まで残った廃止路線。名寄本線、天北線、興浜北線、湧網線、深名線、広尾線、標津線、瀬棚線、夕張鉄道。 ・懐かしの青函連絡船。 ・北の機関区。
74年3月〜75年3月 東京の高校生だったけど休みの度に北海道に行っていたな。懐かしい。
とくに75年3月、高2最後の春休み。旭川駅待合室を拠点に、深夜のNHK天気予報次第で
宗谷か石北か札幌方面か決めて夜行に乗り込む日々。
常紋で俯瞰しようと誰もいなさそうな山に登りやっと頂上にたどり着くと、すでに先客4人が。
夕方4時過ぎ、奇跡的に光も差してきて、しかもディーゼル補機もなく奇跡的な2分間くらいを撮影しまくった。
他の4人と抱き合って喜んだっけ。因みにPENTAX-SP、エクタクローム。 鉄橋の下の道路で降りかかって来た水滴の由来は、ボイラーかそれとも・・・ NHKマシンセンター中東パクキン沖縄海焼きそば 西村ニューヨーク反省会ファミレス深夜ランチおしゃべり問題
NHKマシンセンター中東パクキン沖縄海焼きそば 西村ニューヨーク反省会ファミレス深夜ランチおしゃべり問題
NHKマシンセンター中東パクキン沖縄海焼きそば 西村ニューヨーク反省会ファミレス深夜ランチおしゃべり問題 梅小路の奴だと思うけど、
まさか本線を走ってる・・・って訳じゃないんだよね? 梅小路のD51200だが、>>294が撮られたタイミングでのすす汚れの具合が、
蒸機現役当時を知ってる人の目から見たとき、
当時の蒸気機関車のすす汚れの感じはこんな感じなのですか?という疑問です >>296
個体差もあるし、いまならネットで当時のカラー写真はいくらでもあるんだから
自分で判断すればいいかと、煤煙による汚れは必然的なものだが平坦路線区
と山線担当区でも明らかに違うし、末期の入換専用機は手抜きが多かった
個人的には今の梅小路のカマは磨き立てられすぎていて、蒸気末期とは大違いと思う
中津川にいたころのD51200は比較的きれいだったけど、今ほどではない
そりゃ毎日のように鳥居峠越えやってれば汚れもつくだろう
カマの中にはすすによる酸化なのか集煙装置がボロボロになってるのもあった
昭和40年代前半以前は各区の庫内手が荒縄とか古着に油つけたので仕業前後にピカピカにしてた
が、組合運動が激しくなったあたりからは汚れ放題のカマが増えた
南九州各区のカマは志布志・出水を除き最後まで比較的磨かれていた印象はある
闘争ペンキでスローガン塗りたくったカマが増えたのも、昭和46年頃からだったはず ↑長々書いてあるわりには質問者の疑問に答えてやれよ
質問者はその画像限定で訊いてるんだろ?
平坦や山岳やら当時の機関車側基準の視点を持ち出して答えてやらないってどんなアスペ脳だよ
画像基準の視点で答えてやれ 297で充分に語り尽されている様に俺には思えるんだが。
297がアスベ脳というのなら、297で判らんのはゆとり脳か。
ゆとり脳にもわかる回答を書かないのがアスベ脳で、アスベ脳の回答が理解できないのがゆとり脳w 乗車記録
1970年8月 C58−410 川湯〜原生花園
1971年9月 C62−2.3.15 小樽〜倶知安
1971年8月 D51−608 旭川〜上川
1971年秋 C57 栗山〜岩見沢
1973年11月23日 8620 遠賀川〜室木
1974年8月4日 D51−720 下関〜福江
1974年11月23日 D51−145 下関〜川棚温泉
1970年4月から1973年5月まで札幌
1973年5月から1977年4月まで福岡
父の転勤で住んでいたのがラッキーだった。
その後今日まで多摩市在住。
2008年に亡くなった父の遺影はC57−180に写っている父である。
父にはとても感謝している。 国鉄時代の蒸機を実体験した人間は若くても40代か
幹線主力機の全盛時代50年代〜60年代初期を知っているのは
もう70代ぐらい
最後の10年も語りつくされた感がなきにしもあらず
そりゃ頓珍漢な質問や勘違い知ったか逆切れゆとり脳もでてくるわな 上のほうで「知らない世代」がしている疑問の中身は知らない世代なりにマトモじゃん。
回答側のレスのほうがJJI特有の理屈捏ね回しレスで、よほど頓珍漢。 そうか?数多くの写真集が出てるんだから、まずそれと見比べればいいじゃん。
質問もおかしい。 ↑
ヨイヨイのおじいさん特有の屁理屈が続きます
↓ >>297
>南九州各区のカマは志布志・出水を除き最後まで比較的磨かれていた印象はある
特に宮崎のカマは綺麗に磨いてありましたね。
ボイラー側面の空気作用管や手すりが銅色に輝いていたのが印象的です。
宮崎は構内もゴミひとつ落ちてないような記憶があって
清潔でとても居心地のいい大好きな機関区でした。
初めて訪問したのはC61の2号機が梅小路に旅立つ少し前だったころです。 301だが人生初のSLは昭和42年9月に上野動物園に両親と弟と行ったとき
上野〜日暮里までC57−8号機に乗った記録の8ミリと若干の記憶がある。
上野駅のC57の隣にはデビューしたばかりの常磐線103系が隣のホームにいて
日暮里駅からは京成の青電で博物館動物園駅へ。上野動物園では2代目の懸垂式モノレールに乗車
帰りは廃止間近の都電20番に乗って池袋へ。
この時は日吉に住んでいた。踏み切り目の前が家で5000系あおがえるや7000系
ステンレスカーが日常の風景だった。この時5歳。 >>308
蒸気末期は
動労の強い区のカマは汚かった
鉄労の強い区のカマは綺麗だった
国労の強い区のカマは普通だった
駅構内も保線職員や駅員が伸びるはしから雑草を刈っていた
駅舎の清掃もどんな大きな駅でも朝必ず日勤担当が行っていた
線路脇にぺんぺん草が生え放題、駅舎の清掃も手抜きし放題になるのは、
どの路線でも無煙化完了あたりから恒常化する 結局、おじいさんがゆとり世代を押し切ったか。
そりゃそうだよな。灰や水蒸気で汚れやすい機械だから、整備次第で差は大きく拡がるよな。 蒸気が現役引退してから興味がなくなったのは、その後の復活運転のカマが
化粧し過ぎでなんだかリアリティがなくなったからだ。ピカピカに磨かれ、艶出し
して、プレートも色付けされ、12系を従えた姿には食指が動かなかった。
現役時、あんなきれいなのを見たのは日南線のお召(C56+C11)くらいだった。 汚さというのは、鉄道の現場から消えた物の一つだよね。 >>313
今でも貨物のロクロクとか、大概汚いが。
蒸機でもバリバリに特急牽いてるようなときはきれいにしてもらってたでしょ。ま、そんな時代実見してないけど。 >>312
同感。12系客車は現役時代から興ざめだった。
でもプレートに色が付いているのは
子供心にきれいだと思ったよ。
奈良の赤ナンバー(本家は名古屋区だそうだが)
亀山の緑ナンバー
中津川の青ナンバー
真っ黒なSLにひと際鮮やかで目立っていた。 >>316
ナンバーの色差し、地が明るい色が多いが、数字が読めないと思うのだが差しさわりは無かったんだろうか???
梅小路の可動機、交代スケジュールが公表されていると思うが、交代寸前に行くと従台車周辺など酷く汚れていることが多くておススメです。 >>317
D51200は稼働、非稼働関係なく足周りが汚れてる。 ひるブラ「よみがえれSL! 蒸気機関車館〜京都市〜」
京都市にある国内最大級のSL専門博物館をとことん楽しむ!
貴重な蒸気機関車を間近で見たり、実際にSLに乗車したり…。
SL修復師のスゴ技もご紹介。SLファン必見!
ニコラスケイジからNG指定されてる、、、モト冬樹だ 録画して見たけど、冒頭にチラッと映った東海道本線の辺りに
数両のSLがいたな。つまり梅小路の敷地の外ね。
もしかして大阪から、既に運ばれてたりするん? 何か月か前から一列になって留置されているよ。
もっと博物館に近い側線に停めればいいのにね。 >>321
あそこに並んでるのは
C551 C1164 D511
元々は一番近い側線にいたはずだけど
なぜか向こうの方に行ってしまってる そうなんですか。
展示車両なのに、ちょっと見えない位置ですね(´・ω・`) >>322
手前に新しいSL検修庫を作るので奥に移動させた。
通路が狭くなるので扇形庫には入れられないとの事。 >>326
最後は米原かな?
いずれにせよ最後の10年じゃないな。 まだ39年というか、もう39年というか…。またこの日がやってくるな。
毎年書いている様な気がするけど、あの昭和50年12月14日の室蘭本線さよなら運転の
前日、そう13日の今頃、上野駅は騒然としていたっけ。
現地にどうしても行けないのでせめて上野駅で撮影に向かう人たちを見送ろうと行ってみたら
東北本線白坂駅付近の事故でダイヤが大混乱していて多くの列車が運休になってしまっていた。
当然北海道連絡の列車も該当し、あの「はつかり5号」も運休となって、地平ホームでが銀箱や三脚を抱え、
カンジキを背負ったファンが右往左往していた。あの中にいた人たちは結局どうなったのだろうか。
いずれにしろ明日と24日、そして3月と三つの「国鉄蒸機最後の日」がまたやってくる。 厳密な意味で、最後の日は3月になるんだろうけど、
一番盛り上がったのはどれなんだろう。
やっぱりC57なのかな。
俺はアラフォー手前の現役を知らない世代だけど、
3月の話は随分と後になって知ったよ。
C57とD51は流石に本とかで知っていたけど。 レス301の方と同年の生まれだが、国鉄現役のSLによる旅客列車には乗ったことがない。
東京在住で、親の実家がある秋田県北部で、奥羽線を走るD51牽引貨物列車は何度も見たが。
秋田・青森間電化前の70年頃だったが、当時、鈍行もDD51牽引になっていた。 狩勝・奥中山・常磐特急 最後の栄光
呉線・御殿場線・鹿児島本線 残り火
ニセコ・常紋・龍ヶ森・布原 残りかす
こんな感じかな'71年度以降はもうどうでもいい感じ
マスコミが大騒ぎしだしたのが高島線電化の
東京駅発のさよなら列車あたりと思う
千葉局の無煙化の頃はまだそれほどではなかった
'70年代に入ると組合と管理側との敵対関係が悪化して
落書きされたカマも激増したし、赤字が雪だるま式に
ふえたこともあって現場の人心がすさんでいった
機関区でも撮影禁止や立ち入り禁止が増えた
最後の10年といっても、1966〜70と1971〜75は
ものすごく差がある感じ '69の高校生の頃、ビックリガードから線路沿いに池袋駅方面に歩いてたら、晩春か初秋の生暖かい
くぐもった空気の中、山貨の外回りをD51がかなり長いカモレを牽いて最大力行で走り抜けて行った。
日常の中での突然のシュールな光景が今でも目に焼きついている。
話は変わるが、蒸機ってアスベストの塊なので関係者の健康被害は大丈夫なのだろうか? アメリカでは日本よりも行き過ぎたアスベスト対策で公園の蒸気機関車が悲惨な事になってるぞい。
日本ではきちんと管理されてる公園の機関車は対策済みの所が多い。
それに、静態保存でジャケットがキッチリ整ってさえいれば飛散するものではない。
ボイラージャケットが錆びて穴が開いている所に子供が指を突っ込んで引っ張ると・・・・危ない。
だから、かなり撤去されてる。
どのみち維持費の無い機関車は錆びて朽ちるだけなので未来はない。
動態保存機はアスベストは使ってない。騒がれた時期を考えても、とっくの昔に交換されてる。 アスベストなんか昔の小学校とか普通に防寒対策とかで壁材で使われてたからな
それにむき出しで意識的に吸い込まなきゃ肺がやられる前に大往生するだろう
騒ぎすぎ アスベストだけでなく、石炭を燃やして生じる煤煙や粉塵の健康被害ってどんなものだろ?
SLの運転席には、煤煙等が大量ではないにせよ、入り込んでくるわけだろ。
それを長期間、毎日のように浴びていれば、呼吸器に被害が生じるんでは?
中国で問題になっているPM2.5の発生源の一つは、石炭の煤塵なんだし >>333
蒸気の運転士は平均寿命が
結構短いなんて話も聞いたことはあるが 日本の石炭は質が悪い。
そんな石炭を燃やして、煤塵除去装置なしで走っている蒸気機関車は熱効率も悪い。
仮に現在、全盛期並みに蒸気機関車が走っていたら、公害とエネルギーの無駄の典型と言われているだろう。 じん肺ってのは労災で結構大きい比率だけど、蒸気機関車の機関士や助士に多い
という話は聞かない
そもそもトンネル以外では煙突から噴き出る煙はキャブの上空を通って拡散されていく
わけで走行中はほとんど気にならないし、むしろ客車の窓あけてるほうが煙がはいってくる
機関車の出す煙はかなりキメが粗いので気管支を通じて肺に入ることのリスクは
一般人がたばこの煙を吸い込む程度のリスクと大差ない
勿論、たばこ吸わない人間にとって同様に煙はないほうがいいのは間違いない
蒸気の機関士の平均寿命が短いなんて初耳、むしろ昼夜関係なく生活リズムがめちゃくちゃ
なほうが寿命に影響するので、鉄道員なら誰もが可能性あり 「蒸気の運転士」なんて表現されちまう時代か・・
懐かし板にレスするくらいなんだから世代関係なく「機関士」って言ってくれよ 自分も機関士は定年退職したら亡くなるのが早いという話をどこかで仕入れてる。
NHKの新日本紀行のナレーションじゃねえかと思うんだが・・・・(滝の汗
労働環境が悪すぎるとかいう話の流れかも。 もし平均寿命に差があるのなら、いくら労働問題に鈍いご時世とて問題化しない訳がない。
それに、例えば「SL甲組の肖像」に延べ何人の元機関士が出てきたが判らないが、必ずネタにされてるだろう。
でも、確かに聞いたことがあるんだよ。蒸気機関車から降りると数年で亡くなる人が多いという話を。 昭和40年代までは、危険で汚い職場がざらだったからね。
SLの煤塵と、印刷工場で用いる活字用の鉛の臭気と、どちらが呼吸器に悪いかよくわからんが。
有害物質や騒音振動にまみれて作業する職場で長く勤務していたら、何かしら健康被害や後遺症が発生するんではないかな。
SLの機関紙が早死するとしても、類似例がありすぎて目立たなかったということかもしれない。
定期健康診断だって今日ほど精密に行われていなかったのだろうし。 蒸気機関車最盛期の昭和20年代後半から30年代にかけての日本人男性の寿命はせいぜい65才程度
年金受給が55才で国鉄定年も55才、定年退職して寿命尽きるまでせいぜい10余年
労働環境は決して良くはないが、トンネルの多い峠越えの区間の担当と、平坦線の簡易路線じゃ
状況も大違いだし、単純に機関士は寿命がうんぬんはありえない
鉄道病院の入院患者も機関車乗りの肺機能や気管支の疾病が突出していたわけではなく、むしろ
役職問わず外傷や火傷、凍傷、眼病、脚気、心筋梗塞、脳卒中、麻痺などが平均していた
因みに本線受け持つのは壮年までで、40才越えると大体庫内手か内勤、指導役になることが多く、
定年まで機関士続ける人は少ない(いても入換機担当) 明日はクリスマスイブ…じゃなくてD51241の日だな。 毎年12月のあの日を覚えていたのに今回は忘れてしまってた
気付いたら年越し 笛吹きサンケイフリー運転バイト宿ラーメン
笛吹きサンケイフリー運転バイト宿ラーメン 最近ようやくトラジマ警戒帯が許せるようになってきました。
末期の蒸気機関車最高です。 そりゃそうだな
物心ついた時から電化が当たり前だったら
SLなんて時代遅れの遺物にしか見えない トラジマ警戒帯なんて初めて聞いた
トラ塗りにもいろいろあるけどどれも大嫌い
末期のカマは団結とか闘争勝利とか白で塗りたくられてもうめちゃくちゃ
塗料がたれてカマが泣いているように見えた 全日本の労働災害とか、職種の別早死に率で言ったら、
蒸気機関車全盛の官鉄現場労働者なんて、大変楽な仕事だったはず。
当時の国鉄は、今で言えば、
鼻糞ほじって、東京に出張して、町興し会議やってる地方公務員のようなラクーな仕事。
ドン百姓や、零細商店の店員に比べりゃ天国。
国鉄はたまたま官公署的職場であり、その中じゃ、労働環境がややソコイラの零細工員に近い、という程度でしょ。
あと、共産主義的労働者の団結力が強いから、労働問題にうるさかった、という事もある。
これは現在の糞公務員も同じ現象。
蒸気機関車乗務員に問題なのは眼病だったかも。
国鉄労働衛生だかなんだかの、雑誌で読んだ記憶が。
要するに信号確認の確実性を犠牲にしても、
ゴーグルはつけた方がいい、という事。
最初にゴーグルをつけたのは大国ではフランスな気がする。
フランスの乗務員は当時のゴーグル禁止規則を破ってつけ始めた気がする。 またこの日がやってきました。ちょうど40年になるのか…。
あの日の前日、12月13日は東北本線で事故があったてダイヤが大幅に乱れていた。
そのため北へ向かう列車は軒並み運休や時間変更があり、14日に渡道するファンが上野駅で途方にくれていたっけ。
ホームのあちこちに銀箱や三脚を持った人たちがあふれていた。
なんとか乗り継いで「さよなら列車」に間に合ったのだろうか。
そのときのスナップ
http://c58212.ho-zuki.com/ueno751213-1.jpg >>357
上野発福島以遠行が10分から15分おきに出てるね。
言いたかないが、昔の方が良かったとグチも出る オレは北とうほぐの出身だが、生まれたころさすがに地元からは電化で消えてたが、まだ北海道や九州や山陰に大量に残存し、中央西線まで残っていた事実に驚愕する。
なんとC62定期運用がしつこく生き残ってたのも驚き >>360 東北線沿線のご出身ですか?ヨンサントウ以降も暫くは、花輪線などのローカル線、それに奥羽線でSLが走ってたが。
でも、70年代前半にほとんどなくなっちゃうけどね。 実質、蒸機の終焉はヨンサントウといっていいだろう
それ以後はほとんど残り火・残りかすみたいなもの
国鉄自体も経営が怪しくなり出して、現場の雰囲気もとげとげしくなっていった
70年代は有名撮影地は三脚やカメラ、でんすけの場所取りで怒号飛び交う戦場の如きありさま
お茶の容器が瀬戸物からプラスチックに代わった頃の話 三重連だか、五重連だか、あった気がする。
こういう物に大騒ぎするのはどうかと思った。
当時は未だ「葬式鉄」という冷静な言葉は無かった。 昨日リニューアルした柴又の「寅さん記念館」行ってきたんだが、蒸気機関車の登場したシーンを
客車もモックアップの窓から流したり煙満載の演出が楽しかった。
ローカル駅や人車の復元車、模型や改札もある、一度行かれてみては?
木曽路のD51のあのシーンももちろん流れてた。 12月24日だというのに書き込みがない…。
もう記憶の彼方なんだな 6788レ >>366
21日に発売された国鉄時代に記事が載ってるね! >>329
3月の国鉄最後の蒸気のこと教えてもらえませんか?
12月の室蘭本線と夕張線はわかるのですが。 >>368
本線営業は12月の室蘭本線と夕張線で終了したが、
追分機関区構内の入れ替えに9600が2両だかが、
翌年3月2日まで使われていたっていう話し。
俺も産まれたのが76年4月だから、
リアルタイムじゃ知らんけど、
当時どのくらい話題になっていたのだろう。
室蘭夕張は動画や写真もよく見かけるから、
あまり知られてなかったのかな。
このレスを書いている俺自身も、
夕張室蘭が最後と聞いていて、
後にヤマケイの本でその記述を見て、
「そうだったんかー」と驚いたのを覚えている。 何気なくNHKの日本の蒸気機関車というDVDを見ていたら、
追分9600の映像があったw
ということでNHKニュースではきっと流れたのだろうね。
最後を撮影するアマチュアと思しきカメラマンも数十人くらいいた。 >>369
レスありがとうございます。
自分は40代ですが、国鉄の現役時代の蒸気を見ることができませんでした。
鉄道雑誌やネットで過去の動画や画像を見ると、現役時代に立ち会えた先輩達を羨ましく思います。
特に函館本線の急行ニセコ、伯備線の布原三重連や呉線のC62、筑豊の石炭列車なんかは見てみたかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています