蒸気機関車最後の10年を語るスレ part8
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>>212
おお、草津線の客レですか。D51牽引ではなく? 草津線無煙化近くなってもC58の客レ1往復だけあったな
撮影には向かない時間帯だったが
亀山のカマはなんかどれも汚かった覚えがある
DLすら汚かった 草津線に乗ったのはD51だったかな? 2往復くらい京都-亀山?で客車が残ってた。京都-草津間はEF58だったか。
通勤通学用にかなりあとまで客車は50系+DD51で残ってたと思う。 たしか草津線が無煙化になった時、D51牽引の旅客列車が草津でEF58に付け替えていたのを
DD51が通しで京都まで運行することになったので、東海道本線の山科越えにDL牽引旅客が出現!
・・と話題になるはずが趣味誌の投稿で小さく載った程度だった。
当時を思えばやむをえない感じかな。 北海道渡ると、ファンタやコカコーラが東京の細長い250cc缶ではなく350cc缶だったのに驚いた覚えがある
しかし、ミリンダやチェリオは札幌や函館でも売っていないのが残念だった
駅弁では、長万部のカニめし(200円ぐらい?→300円ぐらい)や森のいかめし(50円ぐらい?→80円ぐらい)、
が急に値上がりした覚えがある。昭和45年→47年ごろの話 機関助士や庫内手やってたけど蒸機の機関士なんてとっくの昔に養成打ち切ってたから
泣く泣くEC運転士なり別の士職に就いたって人多かったな。 北海道の(当時の)350ml缶は懐かしいな
最後の夏は台風で石谷〜石倉間がアウトになり高いカネ払って飛行機で帰った
滝川機関区はナメクジ68号機に火が入っていた。
目的のD511072号機は既に休車だった。
国鉄バスも旧塗装のが現役だったな 北で最後に残ったC55は50、30、47、49の順でおk?
行く先々で飲む緑の缶のりんごジュースには癒された。 それでいいんじゃないか。
C55でも7は写真もあまり見たことないな。
あれ廃車昭和38年だっけ。 1970年ぐらいまでは機関区も子供でも撮影許可していたが、
1971年奈良運転所にいって初めて拒否されたのを覚えている
関東や北海道、東北ではそんなことはなかったのでショックだった。
横浜区とかキャブに入って投炭の真似事とか
好き勝手やっててもなんにもいわれなかったのに
>>220
庫内手はもう定年近い人がメインだから割り切ってたと思う
助士は当時は基本的にDLとかELの機関士になるのを目指してたわけで
泣く泣くってのはないのでは
泣く泣くっていうと、むしろJRになるときの配置転換と再教育と首きり
労組がらみでいろいろ汚いことがあったと聞く。自業自得の面もあるんだろうが
庫内助士ってのもいたんだよな
そりゃ二人一組だから当然っ茶当然だが >>225
ナカーマ発見。
俺も高島で投炭練習機で遊んだよ。(当時中学生)
脇にC56139が止まってて、実地もさせてもらったっけ。
入江から高島までD51に乗せてもらったり、DD13で新興まで乗せてもらったり。
信じられないくらいのどかな時代だったなぁ。 横浜機関区は入口の門柱に高島機関区て札がかかってた。1970年ごろの話 1970−10にD51791が走ったとき、空き時間暇なので高島機関区に行ったらひっそりとしていた。扇形庫に
DD13かなんかが入っていた。 洗脳されてないし、これは現代の魔女狩りじゃないかしら
洗脳洗脳騒いでいたマスコミの謝罪はまだなの?
あと最近、鉄オタも魔女狩りされてない?
↓動画の元動画は100万回以上再生されたけど(現在は削除されたみたい)、これ夫婦喧嘩で鉄オタは関係なかったw
鉄オタが子供を取り上げ母親土下座「子供を返して!」
https://www.youtube.com/watch?v=frDvTNBwfTs ←間違い
夫婦の証拠
http://www.peeep.us/39a1df5b ←正解 昔、福岡の門司駅から京都の園部まで行く蒸気機関車が
牽引する普通列車があったんだよな。
朝の5時発なもんで、前夜から門司駅の待合室に泊まりこんで
乗ってたわ。
園部に着いたら、顔と鼻の穴が煤で真っ黒になってた。 >>230-231
門司5時発で京都府内までの普通列車って福知山まで行く客レじゃない?
ヤード集結難貨物輸送・荷物列車見直しで機関車・客車の広域運用が
減ったため昭和59年2月ダイヤ改正で廃止。 >>233
そんな最近の話じゃないだろ。まだC57とかが走ってた頃の話。
ここは蒸気最後の10年のスレだ。京都発下関行き各停があたりまえの時代。 関西線加太付近がマムシの生息地とは最近知った。山をかけ分けて撮影していた当時、知らぬで逆に良かった。 北海道の蚊は針が太いのか刺されると関東の倍以上の痛痒さを感じた。
蚊取り線香も効かないので、恐ろしかった。ノミはあまり刺されなかったが、
ブヨは結構やられた。子供の血はうまいらしく、年配の人は無傷だった。
昭和40年代後半になって虫除けスプレーが全国にに出回ってからはそんな
心配も不要になった。
マムシは昼間は日陰の藪に隠れているほうが多いらしいが、当時も保線区の
人とかによく気をつけるように教わったもんだが。有名撮影地は蛇のほうで
人を恐れて出なかったかも。蛇よりスズメバチとか野犬にでくわしたほうが
多かった。
北海道はなんといっても熊だな。トンネルの中で保線の人がでくわすことも
あったと聞いてからは、上目名や常紋のトンネルは幽霊より熊が怖かった。 蒸機時代じゃないけど
撮影地点でヘビに出くわしたことは何度かある
もう少しで踏みつけるとこだったことも
今でも山口線の沿線はマムシが多いって聞いたがどうなんだろう 夜のお友達、ヤママユ系の大型蛾も忘れないで下さい。 岩手県岩手郡松尾村前森官有地 龍ヶ森駅長
(昭和46年9月10日消印)
xx 様
皆様お待ちかねのSL三重連が、
下記により運転されますのでおいでください。
9月24日25日 岩手松尾 = 荒屋新町間
965レ 竜ヶ森 着11:33 発11:37
966レ 竜ヶ森 着13:42 発13:46
さよなら列車を運転いたします。
9月30日 重連 962レ 竜ヶ森(通過)11:54
おいでを、職員一同心からお待ちいたしております。
追信 記入券もあります。 敬具
昭和46年当時の国鉄には、過去に信号場を訪れてノートに記帳した鉄道ファンに
こんなハガキを送るだけの気配り・営業意欲のある駅長もいたのだ。 今のファンとやらにそれをやっても、『やってもらって当然』くらいの認識しかないしな。 「どうぞ気をつけておいで下さい」「当地の積雪はただいま○○pです」
「ぜひすばらしい写真をお撮りください」などの心温まる文面も書かれていたよね。 今日未明のNHK見たヒトいる?
目を引いたのはC51 225の引退式と加悦の4号くらいだったが。
来週は北海道。 ドラマの大いなる旅路の最終回のロケ地が載っているサイトを見つけた・・・。
NHKのさらば蒸気機関車の音声もある!
http://jigyourin.web.fc2.com/ 「蒸気機関車 熱狂時代」っていう本ご存知?
本屋で見つけて即買いしたものの、アレレ??のキャプション。
(特に南木曽は笑える)さらには地図に重ねて読めないのも。
でも写真だけながめればすごくなつかしいっスよ。ほとんどカラーだし。 私事だがちょうど40年前の今日(昭和48年8月11日)、初めて北海道の撮影旅行に来た。10日の夜の「八甲田」で
青森に着き、初めての連絡船も「八甲田丸」。ニセコC62や室蘭函館のD52には間に合わなかったけれど、
当時はまだまだ煙が健在で、わくわくどきどきしながらの撮影旅が始まったのを覚えている。
まずは夜行で釧路に着き、釧網本線のC58からのスタートとした。
あとで知ったことだが青函連絡船の輸送量が最大となったのがこの年だったのですね。 >>246
まだ、留萌のD61、宗谷のC5530,50が健在でしたね。 釧路機関区は港の近くのせいか、魚粉工場が近いせいか
ものすごく魚臭かったのを覚えている 40年前の今日、8月17日は前日登別に泊まり、朝から室蘭本線の撮影。C57149牽引の列車で白老、そのあと
苫小牧を経て千歳線に乗り換え植苗下車。例の区間で次から次へと来る蒸機を味わう。
千歳線もこの秋で無煙化なので最後の撮影となり、その後は札幌を経てニセコYH泊まり。明日はC623の列車に
いよいよ会える。 てな感じの40年前。 最後の10年を越えて国鉄蒸機全廃後の皆さんの動向はどれだった?(複数あるかも)
1俺は蒸気機関車が全てだった、他のもの鞍替えすることはできない。引退する
2次に消えるのはなんだ? 旧国・旧型電機か? それを追っかける
3ブルートレインかっこいいな、これからはブルトレとゴハチだ
4しばらくは蒸機時代の遺構を見るのはしのびないな。旅も撮影旅行もしないよ
5蒸機ばかりが鉄道ではない、いろんな楽しみや興味をひくものを探して続けよう
6ともかく撮影旅行はやめて「汽車旅」をいろいろしてみよう
7もともと蒸機はそんなに興味なかった。自分独自の対象があるから変わらない。
8東洋活性白土も鐵原もあるし、大井川にも煙が残る。まだ蒸機撮影はできるさ。 昭和51年4月生まれの私は物の見事に、
蒸気時代とはすれ違いになりましたが、
鉄として物心ついた時はブルトレ&華やかなりし特急時代でした。
母親の実家が大井川沿いだったので、時を同じくしてSLもハマっていきました。 SL消えてボーっとしてたけど
時々銀箱担いで山歩きがしたくなって出かけたなあ
SL時代行けなかった路線に乗りに行ったりそれなりに楽しかったが
大体補完したところで終了
しかし今思い出すのはSL時代だなあ >>250
蒸気の残り香の残る旧客乗りまくり、まだまだ汽車時代だった。
それも10年するとほぼ淘汰され、鉄から引退した。国鉄がJRに
なり、汽車時代と俺の鉄が完全に終了した。 小学生の頃(70年頃?)に関西本線(キハ35)で天王寺から奈良に行った時に
奈良機関区でSLが 入れ替えしていたのが現役のSLを見たのが最後です。
それから数年後に【京阪100年号】を神足駅付近で撮影しに行ったけれど…
高槻付近で事故のために撮影できませんでした。 蒸機全廃時はまだ小学生だった
やがて撮影を始めた頃に山口線復活で何度も通った
それ以外の所へ遠出した時は蒸機時代の名所を探訪したりした
だが最近は撮影に行かなくなったな ある路線で旧客に乗って昔を味わおうと思ったら50系が来てがっかり。
俺の鉄道趣味もここまでだなと思った。 客車といったら大井川の旧客か、トロッコ列車みたいな
イベント列車くらいしか乗った経験のない世代としては、
たまに旅行に行って地方や郊外のターミナル駅の片隅に
留置されている旧客を眺めるだけでもワクワクしたし、
93年GWに北東北に行ったら赤電気が50系を牽引していて、
それに乗ってどこだかまで移動したのは感動を覚えたもんです。 五能線の8620蒸気牽引列車が最後でした。
当時小さな駅でも貨物の積降しする側線があって、一、二両の貨車を途中駅
で入替しつつ、客車2両、貨車数両を牽引、のんきに走っていました。
途中深浦駅は側線の数も多く、貨車も多く留っていました。
今、鉄道模型に凝っていますが、深浦駅構内を模した配線に夢中です。
箱庭の様な風情です
DD51と8620の重連、やC62蒸気牽引あけぼのを走らせたりします。 五能線つながりでなんとなく・・・。
8620の昭和45年6月配置をみると、まだ全国に稼働している(一部休車もあり)ものが78両もいて、
そのうち北東北には27両ものハチロクが頑張っていた。やはり花輪線・五能線の主力として本線仕業に従事していたからだろうね。
うち盛岡の6両と花輪線(管)=荒屋新町のものが5両の計11両と大館の3両は入換用かな。
また五能線関係では弘前に12両ものカマがいるようだけど、本線(五能線)用は管理所所属で入換用の3両は弘前区と完全に運用が別れていました。入換用のカマは本線用のカマを見ながらなんて思っていたのだろうねえ。 盛岡・荒屋新町・大館のはどれも花輪線本線仕業
東能代区と弘前区のが入換専用機
五能線管理所の本所(弘前)と支所(東能代)は五能線本線仕業
しかし、その後五能線管理所は弘前運転区に統合され消滅
東能代の入換機や花輪線運用の大館のカマの一部等も
弘前運転区に移動集結
五能線本線と入換仕業を最後の砦として全て担当することになる
それからわずか1年あまりで東北の8620は消えた
川部を出発して奥羽本線から別れ藤崎に向かうカーブを20輌ほどの貨車を
牽いて逆向で進む28667を撮影したのが最後だった。
高島線で顔なじみだったD51810やD51296が
ぴかぴかのポールのたった奥羽本線を軽やかに駆けていた頃の話 C61が好きで奥羽線(秋田以北)に通いました。
最後の蒸気は425列車(福島始発)能代行、秋田駅から乗車、牽引機C612、そして
東能代から能代までの一駅が8620、能代に泊まり、旅館の人がこの列車のことを
終列車と呼んでいたのが印象に残っています。
次の日、DD51牽引の津軽で帰京しました。
この時から電化まで時間がありましたが、蒸気列車はこれが最後、でも嬉しい
ことに5年前に梅小路でC612と再会しました。 両親の実家が山形県(置賜・東村山)だったから、米坂の96、山形界隈のC11、新庄のC57170(写真があった)あたりが唯一‥‥。 C59164が梅小路に来る数カ月前、奈良機関区に来ていた。
プレートははずされていたが、ホームからもはっきり見えた。
動態保存にむけて、整備や化粧していたのだろう。 奈良に修学旅行で行った夜、旅館を抜け出してC59を撮りに行くつもりだったが、教師に逮捕されておじゃん
糸崎機関区が廃止になったせいで、留置場所が無かったんだろうなぁ。 >>264
昭和47年頃の奈良運転所は既に所内の撮影禁止だった(ホームから撮影は可能)
当時、既に梅小路区はSLの営業仕業はなくなっていて機関庫内も閑古鳥状態
D50140同様に梅小路区に留置すればよかったのに、
なぜ奈良運転所に留置したのかよくわからない C59だけでなく、EF52が保管されたりEF5866がこっそり
平城山にいたりと奈良は不思議な所ですね。 最後の10年なら昭和40年も入るのかな?
9月末、熊本のC59がラストラン。
10月1日朝、C5990が一ノ関発仙台行の128レを最後に引退。
これで燃焼室なし(79,80除く)の戦前型C59が全機引退。
C51もこの頃全廃 また明日がやってくる
前日の今日(13日)は東北本線の事故でダイヤが大混乱、上野駅で途方にくれる銀箱&三脚組がたくさんいたっけ。 あれから38年も経った
今度は寝台特急が消えてゆく 私の乗った蒸気機関車牽引列車(記録にあるだけ その1)
1972/4/17 筑豊線723レ 折尾→原田 D511150
1973/3/29 吉都線622レ 京町→都城 C57154
1973/8/27 山陰線823レ 浜田→益田 D51+C57
1973/8/27 山陰線823レ 益田→長門市 D51
1973/8/27 山陰線825レ 長門市→下関 D51
1974/3/10 宗谷線321レ 旭川→士別 C5787
1974/3/11 宗谷線317レ 幌延→南稚内 DD51+59674
1974/3/13 石北線1527レ 北見→網走 C5833
1974/3/13 釧網線混633レ 網走→川湯 C5833
1974/3/14 釧網線混631レ 川湯→標茶 C58331 私の乗った蒸気機関車牽引列車(記録にあるだけ その2)
1974/3/16 宗谷線321レ 旭川→名寄 C5787
1974/3/17 室蘭線222レ 岩見沢→栗山 C5744
1974/3/17 室蘭線223レ 栗山→岩見沢 C57104
1974/7/15 田川線4435レ 行橋→後藤寺 C1141
1975/2/13 室蘭線221レ 苫小牧→沼ノ端 D51467
1975/2/15 室蘭線223レ 白老→追分 C5738
1975/2/15 室蘭線229レ 追分→岩見沢 C57135
1975/2/16 石北線1529レ 常紋(信)→留辺蘂 D51444
1975/5/2 室蘭線820レ 追分→三川 D5153
1975/5/2 室蘭線227レ 栗丘→岩見沢 C57144
1975/5/3 室蘭線835レ 岩見沢→追分 D511160
死ぬまでに、復活蒸気の列車でもに乗ろう・・・(笑) >>275
田川線はc1148では?録音はしましたか? >>278
主要重油併燃装置取付実績形式
C51・C56・C57・C58・C62・D50・D51
釜石・長野・松本区のD50の重油併燃はデフォルト
昭和40年代後半になると、使用区は激減 12月24日なのに、もう記念レスもなくなってしまったのか・・・。
現役を知る世代もだんだん少なくなるんだなあ。
D51241 ありがとう。 ああすっかり忘れてたなあ。
川端滝ノ上紅葉山沼ノ沢清水沢あたりを歩きまわった日々も遠くなった。 >>280
その年末の行く年くる年でD51の最後の出発を生中継しなかったっけ?
まだ火を落としてなかったんだと子供心に安心した記憶がある >>282
営業運転もなしに、種火だけは残していたということ?
翌3月まで使われていた96みたいに、構内入れ換え用とか? お正月だと機関車にささやかな正月飾りが付けられていたこともありますね。機関区の方々のあたたかい
気持ちが伝わってきました。 追分で撮ったD51361にリンゲルマン濃度計(台座)が付いているのを発見、末期の道外からの転属機は徹底的に北海道型に直されていたのに
これは珍しいかも。 昭和45年だったが修学旅行でお伊勢さんに行った。
福知山線の某駅からDD51の牽く臨団で草津へ。そこからD51にチェンジし加太を越えた。
加太越えをSL牽引の旧客で体験できたのは貴重な思い出だ。 蒸気機関車熱狂時代 最北の爆煙
http://www.oakla.com/htm/newbook.html#4684
最後まで残った北の煙、北海道SL撮影行脚。 /・北海道撮影の旅。 ・C62急行「ニセコ」の残映。 ・北海道本線の煙。 ・
最後まで残った廃止路線。名寄本線、天北線、興浜北線、湧網線、深名線、広尾線、標津線、瀬棚線、夕張鉄道。 ・懐かしの青函連絡船。 ・北の機関区。
74年3月〜75年3月 東京の高校生だったけど休みの度に北海道に行っていたな。懐かしい。
とくに75年3月、高2最後の春休み。旭川駅待合室を拠点に、深夜のNHK天気予報次第で
宗谷か石北か札幌方面か決めて夜行に乗り込む日々。
常紋で俯瞰しようと誰もいなさそうな山に登りやっと頂上にたどり着くと、すでに先客4人が。
夕方4時過ぎ、奇跡的に光も差してきて、しかもディーゼル補機もなく奇跡的な2分間くらいを撮影しまくった。
他の4人と抱き合って喜んだっけ。因みにPENTAX-SP、エクタクローム。 鉄橋の下の道路で降りかかって来た水滴の由来は、ボイラーかそれとも・・・ NHKマシンセンター中東パクキン沖縄海焼きそば 西村ニューヨーク反省会ファミレス深夜ランチおしゃべり問題
NHKマシンセンター中東パクキン沖縄海焼きそば 西村ニューヨーク反省会ファミレス深夜ランチおしゃべり問題
NHKマシンセンター中東パクキン沖縄海焼きそば 西村ニューヨーク反省会ファミレス深夜ランチおしゃべり問題 梅小路の奴だと思うけど、
まさか本線を走ってる・・・って訳じゃないんだよね? 梅小路のD51200だが、>>294が撮られたタイミングでのすす汚れの具合が、
蒸機現役当時を知ってる人の目から見たとき、
当時の蒸気機関車のすす汚れの感じはこんな感じなのですか?という疑問です >>296
個体差もあるし、いまならネットで当時のカラー写真はいくらでもあるんだから
自分で判断すればいいかと、煤煙による汚れは必然的なものだが平坦路線区
と山線担当区でも明らかに違うし、末期の入換専用機は手抜きが多かった
個人的には今の梅小路のカマは磨き立てられすぎていて、蒸気末期とは大違いと思う
中津川にいたころのD51200は比較的きれいだったけど、今ほどではない
そりゃ毎日のように鳥居峠越えやってれば汚れもつくだろう
カマの中にはすすによる酸化なのか集煙装置がボロボロになってるのもあった
昭和40年代前半以前は各区の庫内手が荒縄とか古着に油つけたので仕業前後にピカピカにしてた
が、組合運動が激しくなったあたりからは汚れ放題のカマが増えた
南九州各区のカマは志布志・出水を除き最後まで比較的磨かれていた印象はある
闘争ペンキでスローガン塗りたくったカマが増えたのも、昭和46年頃からだったはず ↑長々書いてあるわりには質問者の疑問に答えてやれよ
質問者はその画像限定で訊いてるんだろ?
平坦や山岳やら当時の機関車側基準の視点を持ち出して答えてやらないってどんなアスペ脳だよ
画像基準の視点で答えてやれ 297で充分に語り尽されている様に俺には思えるんだが。
297がアスベ脳というのなら、297で判らんのはゆとり脳か。
ゆとり脳にもわかる回答を書かないのがアスベ脳で、アスベ脳の回答が理解できないのがゆとり脳w 乗車記録
1970年8月 C58−410 川湯〜原生花園
1971年9月 C62−2.3.15 小樽〜倶知安
1971年8月 D51−608 旭川〜上川
1971年秋 C57 栗山〜岩見沢
1973年11月23日 8620 遠賀川〜室木
1974年8月4日 D51−720 下関〜福江
1974年11月23日 D51−145 下関〜川棚温泉
1970年4月から1973年5月まで札幌
1973年5月から1977年4月まで福岡
父の転勤で住んでいたのがラッキーだった。
その後今日まで多摩市在住。
2008年に亡くなった父の遺影はC57−180に写っている父である。
父にはとても感謝している。 国鉄時代の蒸機を実体験した人間は若くても40代か
幹線主力機の全盛時代50年代〜60年代初期を知っているのは
もう70代ぐらい
最後の10年も語りつくされた感がなきにしもあらず
そりゃ頓珍漢な質問や勘違い知ったか逆切れゆとり脳もでてくるわな 上のほうで「知らない世代」がしている疑問の中身は知らない世代なりにマトモじゃん。
回答側のレスのほうがJJI特有の理屈捏ね回しレスで、よほど頓珍漢。 そうか?数多くの写真集が出てるんだから、まずそれと見比べればいいじゃん。
質問もおかしい。 ↑
ヨイヨイのおじいさん特有の屁理屈が続きます
↓ >>297
>南九州各区のカマは志布志・出水を除き最後まで比較的磨かれていた印象はある
特に宮崎のカマは綺麗に磨いてありましたね。
ボイラー側面の空気作用管や手すりが銅色に輝いていたのが印象的です。
宮崎は構内もゴミひとつ落ちてないような記憶があって
清潔でとても居心地のいい大好きな機関区でした。
初めて訪問したのはC61の2号機が梅小路に旅立つ少し前だったころです。 301だが人生初のSLは昭和42年9月に上野動物園に両親と弟と行ったとき
上野〜日暮里までC57−8号機に乗った記録の8ミリと若干の記憶がある。
上野駅のC57の隣にはデビューしたばかりの常磐線103系が隣のホームにいて
日暮里駅からは京成の青電で博物館動物園駅へ。上野動物園では2代目の懸垂式モノレールに乗車
帰りは廃止間近の都電20番に乗って池袋へ。
この時は日吉に住んでいた。踏み切り目の前が家で5000系あおがえるや7000系
ステンレスカーが日常の風景だった。この時5歳。 >>308
蒸気末期は
動労の強い区のカマは汚かった
鉄労の強い区のカマは綺麗だった
国労の強い区のカマは普通だった
駅構内も保線職員や駅員が伸びるはしから雑草を刈っていた
駅舎の清掃もどんな大きな駅でも朝必ず日勤担当が行っていた
線路脇にぺんぺん草が生え放題、駅舎の清掃も手抜きし放題になるのは、
どの路線でも無煙化完了あたりから恒常化する 結局、おじいさんがゆとり世代を押し切ったか。
そりゃそうだよな。灰や水蒸気で汚れやすい機械だから、整備次第で差は大きく拡がるよな。 蒸気が現役引退してから興味がなくなったのは、その後の復活運転のカマが
化粧し過ぎでなんだかリアリティがなくなったからだ。ピカピカに磨かれ、艶出し
して、プレートも色付けされ、12系を従えた姿には食指が動かなかった。
現役時、あんなきれいなのを見たのは日南線のお召(C56+C11)くらいだった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています