蒸気機関車最後の10年を語るスレ part8
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>>158
47秋以降に酒田から転入してきたD5136は1号が梅小路へ行ったあと「山陰唯一のナメクジ」として話題になったね。 昭和44年4月に祖母が死んで4歳の俺は平日なのに満席な上野発の津軽1号で
母親の実家がある秋田県八郎潟まで乗車した。
記憶は断片的だが八郎潟駅で見た「へんてこな電車」と
実家の2階から見える奥羽本線の蒸気列車の本数の多さに驚いた。
俺の家は開業間もない田園都市線鷺沼が最寄駅なのだが、
正直「田園都市線より本数が多い」と思った。
日本海縦貫線は輸送の動脈だったんだな。 >>158
http://c5793.ebo-shi.com/hozond51254.html
C57152とD51832の部品も使われているようですね。
また12月14日がやってくるね。あと二日か。まあ今年は37年前だから特に目立つ年でもないけど。
前日の12月13日夕刻の上野駅の喧騒が忘れられない。
運転事故で大混乱、青森行き列車の運休続出などでホームでが銀箱・三脚を持った人たちが
途方にくれて右往左往していたっけ。 一応記念日なので書き込み
1975年12月14日より37年 1973年12月15日 南大夕張駅・大夕張炭山間さよなら列車 3けん引 ああ今日はあの日か
NHK大河ドラマ元禄太平記で討ち入り回をやった日 1日経ってしまったけど
あの日から37年記念カキコ そういえば今年世田谷へC5757を見に行ったけど
塗装作業中で見れなかった
もう作業は終わってるのかな >>166
同じ区内の世田谷公園にもC5757がいるよ。D51272と交替で走っている。 >>169
構内程度を走行するなら良いけどD52だと軸重18tの1級線(東海道線や山陽線)しか走れない。
2級線、3級線なんか走行出来ないから復活は無理じゃねえ?
むしろ9600を復活させた方が、使い勝手が良い気がするが。 特甲線以外でも函館本線でも走ってたがなD52
もし復活するなら呉線あたりで走らせておけばいいんじゃない(運行コストが大型機故に相当なことになりそうだけど)? D521復活なんてJR西はやる気はないだろ
むしろ、JR東がJR貨物に頼んで磐西あたりで
貨物列車走らせてくれよ。コンテナ車とタンク車ならあるだろ。
最後尾に車掌車つきで頼む。機種はD51でも
C57でもC61でもなんでもいいわ。ヘッドマークとかなしで。 SL甲組の肖像の木曽福島区機関士OBの話だと、
昭和20年代の迂回輸送で稲沢区のD52が中央西線塩尻まで
入っていたというから、基本D51が入線する線区ならD52も
入るんじゃないの?厳しい規程無視すればだろうけど。 広島のD52復活希望してるのになんで御殿場線なんだよ?
岩徳線だろ 幸いにも現存するD5270+72の復活を夢想する私であった。 地元とか自分が通いつめた路線が終了した時点で熱が冷めた人も多かったんじゃないかな。 復活できるのならC61 20より仙台のC60 1をC59 27に戻し‥‥。
昔より走れる区間多いし、SL碓氷だって単機で6両牽引できるだろうし、従輪は一体成形で何とかなるし。
‥‥内火室は改修されてたのかな? >>182
兄1107は戦時型のままお召し列車を牽引、弟1109はC612として健在というカマですね。 復活希望とか最後の10年とはトピずれだろ
ってか最後の10年リアルタイム経験者はもう死んでるやつのほうが多いかもしれんな 10年後には、C62ニセコをリアルで見た人が神になってしまうんだろうね。
そしていずれは、交通機関として働いてた蒸機を見たことある人もいなくなる‥‥。 前原元国交相(50)でギリギリだからな。
物心ついた頃地元の梅小路は終了だったので山陰や九州へ遠征してたそうだし。 >>185
おお、小学生の時に、親と見に行った俺は、神になれるのか・・。
ちなみに、親は、三脚に望遠レンズと標準のを2台のっけて、デンスケも。
俺、ハーフカメラ。 c58364は遠江二俣区から小牛田区に1971年に転属した後、廃車日が
不明なのですが解体されたのでしょうか?当時珍しい赤ナンバーでした。 >>188
某履歴スレでは「47−1〜3の間に廃車」となっていますが、同年8月末に臨時列車を牽引した記録写真があるので
少なくとも47−9までは健在だったと思われます。 >>189
1972.3.31現在の交友社版国鉄車両配置表にはC58364は掲載されてないけどな。
かなりいい加減な校訂だから単に洩れてるだけかもしれないが正誤表にも出ていない。
昭和47年8末の臨時列車って具体的になに? >>191
昭和47年夏に開催された仙台周辺での「鉄道博」、この時運転された特別列車(陸羽東線だと思う)
の牽引機にも選ばれています、というのは当時のファン誌かなにかのPOSTかなにかの記事に載っていた記憶があります。
もっともこのときの鉄道博の入場券の図柄にも364が選ばれていたのでそれの勘違いなのかもしれませんが・・・。 追記
そのPOSTの記事はその列車を牽いている364号の写真も載っていました。
記憶違いか47年夏の列車ではなかったのかもしれませんが、載っているとすれば発売日がらみで
47年(1972)10月以降の号でしょうか。 公友社版国鉄車両配置表とかPOSTを所持しているのはどうでも良い。
君達は実際に働いているC58364を見た事があるのか?
でなければ板違いだし、情報自慢は他所でやって欲しいのだが…… 別に実際に該当機が稼動してるのをリアルタイムで見たかどうかなんてことはいいだろ。
C58364はいつ廃車になったんだって質問がらみのレスのどこが悪いんだよ。情報自慢なんてねじまがった性格のお前が勝手にひがみ根性でそう思ってるだけだろ。 男性を侮辱した女のわがまま【女性専用車両】を廃止させよう
読売テレビが女のわがまま女性専用車を斬る
http://www.youtube.com/watch?v=98pWaXYihXk&list=PLCDC875F7D14589A7 あれだけ人気のあったD51791ってどうして保存されなかったんだろ。
派手なさよなら列車まで出したのに。 >>197
転出したから。
というのは半分冗談だけど
逆のケースとして関東のC57は無煙化後ほとんどが廃車解体になったが
転出した一両だけが廃車後保存された。西日本のどこかに今も現存しているはず。 北海道江別の個人が所有していた大量の保存機は
数年前に一般公開に向けての動きがあったはずだけど
その後はどうなったんだろう D51791目当てで高島線のスジおっかけてまで撮影してたやつなんていたかな
最後のさよなら列車でマスコミの露出が多かったのと人気ってのは違う
他のD51保存したから川崎や横浜はパス
大館周辺は縁もゆかりもなじみもないし他にもたくさんあるからパス
新鶴見の最後の蒸気D51448も大館に転出して新小岩時代の
旧友770との再会もつかのま、酒田まで落ちのびたすえ解体された
縁やゆかりや由緒あっても解体されたのはやまほどある、
逆になんでこんなとこにうこんなのがというのも結構ある。
(1973年以降が多い)結局タイミングしだい >>201
ナクイチをさよならに抜擢したのは、人気故って話を国鉄関係者から
聞いたけどな。調子よくて国鉄関係者に人気あったのかもしれんが。w >>202
D51241と同じ様なほぼ生涯を同じ機関区過ごしたカマだったからとか。 新鶴見区のカマの中ではD51652の調子がよかったというのが定説
EX VOL.9の中で元機関士も証言している(D51791は特徴はとりたててないともいっている)
652は外観も優美で気品があった。
さよならに791が抜擢されたのは、当時の在籍機の中で唯一新製配置から新鶴見区のカマだったから。 791が調子もともかくそのまま廃車予定だったら間違いなく保存されていただろうね。
調子がいいとか検査期間がまだ残っているとかいうカマにとってありがたい条件が
逆に保存にはめぐりあえなかったという例は多かったよね。 末期はウヤとか単機が増えた
小海線とか飯山線は機関車1輌+ヨだけで走っていて
子供心にこれはあかんやろ(煙もでぇへんし)と思った 「最後の10年」に旅した人は
長期の遠出の蒸気機関車撮影旅行の費用優先度
フィルム代>交通費(周遊券)>食費>宿泊費>通信費(家への電話、ハガキなど)>遊興費
(まず考えられないが大学生以上は合間のパチンコなど>指定席・特急券・寝台券など優等車両利用費
(行き帰りややむをえない場合のみ利用)>洗濯代>予備費
食費内
菓子パン・牛乳>駅の立ち食いそば・うどん>YHの食事>駅弁>駅前食堂>ラーメンなど>ちゃんとした食堂の定食
※カップラーメンはまだ高級品?だった
宿泊
車中泊(深夜折り返しなどが可能な地域は特に)>駅ネ>ユースホステル>親戚・知人の家>駅前旅館>温泉旅館>寝台列車>ホテル
※稀に一般の民家、ビジネスホテルは安価なところはあまり普及していなかった、
また機関区や国鉄の宿舎などに頼み込んで泊めてもらうパターンもあった。
こんな感じじゃなかったですか? YHのメシは時間指定とかあってほとんど利用しなかった(事前に往復はがきで予約するのも面倒)
集会みたいのに半強制的にでる必要があるとこもあったし(ただ女っ気があるのでたまに利用)
北海道や九州から東京に電話すると途方もない金額になるので、何があっても自分ではかけるなと親にいわれた
洗濯は1ヶ月北海道にいっている間もやった覚えがない。 風呂も1週間ぐらいはいらないこともあった
基本は駅の待合室、夜行列車が寝場所だった。(旅館やYHは1週間に1回ぐらい) 風呂はYHか機関区
メシは基本駅そばか駅弁で、駅前食堂の定食やラーメンは高くて時間がもったいないのでパン屋を利用
1日に10km以上歩くこともあり朝も早く動き出すので、夜はすぐ寝るから遊興費はほぼ不要、冬の寒さしのぎにウィスキー
フィルムは事前によどばしとかさくらやで準備、現地で定価で買うことはしない
国道でヒッチハイクをしたり、めったにいないが撮影地に車できている人の厚意に甘えて同乗させてもらったりした >>210
夏に草津線C58の牽く客レに乗車中飲んだリボンシトロンは覚えてる。
客車はオハ61の1500番台。w
あと冷凍みかんかな。 >>212
おお、草津線の客レですか。D51牽引ではなく? 草津線無煙化近くなってもC58の客レ1往復だけあったな
撮影には向かない時間帯だったが
亀山のカマはなんかどれも汚かった覚えがある
DLすら汚かった 草津線に乗ったのはD51だったかな? 2往復くらい京都-亀山?で客車が残ってた。京都-草津間はEF58だったか。
通勤通学用にかなりあとまで客車は50系+DD51で残ってたと思う。 たしか草津線が無煙化になった時、D51牽引の旅客列車が草津でEF58に付け替えていたのを
DD51が通しで京都まで運行することになったので、東海道本線の山科越えにDL牽引旅客が出現!
・・と話題になるはずが趣味誌の投稿で小さく載った程度だった。
当時を思えばやむをえない感じかな。 北海道渡ると、ファンタやコカコーラが東京の細長い250cc缶ではなく350cc缶だったのに驚いた覚えがある
しかし、ミリンダやチェリオは札幌や函館でも売っていないのが残念だった
駅弁では、長万部のカニめし(200円ぐらい?→300円ぐらい)や森のいかめし(50円ぐらい?→80円ぐらい)、
が急に値上がりした覚えがある。昭和45年→47年ごろの話 機関助士や庫内手やってたけど蒸機の機関士なんてとっくの昔に養成打ち切ってたから
泣く泣くEC運転士なり別の士職に就いたって人多かったな。 北海道の(当時の)350ml缶は懐かしいな
最後の夏は台風で石谷〜石倉間がアウトになり高いカネ払って飛行機で帰った
滝川機関区はナメクジ68号機に火が入っていた。
目的のD511072号機は既に休車だった。
国鉄バスも旧塗装のが現役だったな 北で最後に残ったC55は50、30、47、49の順でおk?
行く先々で飲む緑の缶のりんごジュースには癒された。 それでいいんじゃないか。
C55でも7は写真もあまり見たことないな。
あれ廃車昭和38年だっけ。 1970年ぐらいまでは機関区も子供でも撮影許可していたが、
1971年奈良運転所にいって初めて拒否されたのを覚えている
関東や北海道、東北ではそんなことはなかったのでショックだった。
横浜区とかキャブに入って投炭の真似事とか
好き勝手やっててもなんにもいわれなかったのに
>>220
庫内手はもう定年近い人がメインだから割り切ってたと思う
助士は当時は基本的にDLとかELの機関士になるのを目指してたわけで
泣く泣くってのはないのでは
泣く泣くっていうと、むしろJRになるときの配置転換と再教育と首きり
労組がらみでいろいろ汚いことがあったと聞く。自業自得の面もあるんだろうが
庫内助士ってのもいたんだよな
そりゃ二人一組だから当然っ茶当然だが >>225
ナカーマ発見。
俺も高島で投炭練習機で遊んだよ。(当時中学生)
脇にC56139が止まってて、実地もさせてもらったっけ。
入江から高島までD51に乗せてもらったり、DD13で新興まで乗せてもらったり。
信じられないくらいのどかな時代だったなぁ。 横浜機関区は入口の門柱に高島機関区て札がかかってた。1970年ごろの話 1970−10にD51791が走ったとき、空き時間暇なので高島機関区に行ったらひっそりとしていた。扇形庫に
DD13かなんかが入っていた。 洗脳されてないし、これは現代の魔女狩りじゃないかしら
洗脳洗脳騒いでいたマスコミの謝罪はまだなの?
あと最近、鉄オタも魔女狩りされてない?
↓動画の元動画は100万回以上再生されたけど(現在は削除されたみたい)、これ夫婦喧嘩で鉄オタは関係なかったw
鉄オタが子供を取り上げ母親土下座「子供を返して!」
https://www.youtube.com/watch?v=frDvTNBwfTs ←間違い
夫婦の証拠
http://www.peeep.us/39a1df5b ←正解 昔、福岡の門司駅から京都の園部まで行く蒸気機関車が
牽引する普通列車があったんだよな。
朝の5時発なもんで、前夜から門司駅の待合室に泊まりこんで
乗ってたわ。
園部に着いたら、顔と鼻の穴が煤で真っ黒になってた。 >>230-231
門司5時発で京都府内までの普通列車って福知山まで行く客レじゃない?
ヤード集結難貨物輸送・荷物列車見直しで機関車・客車の広域運用が
減ったため昭和59年2月ダイヤ改正で廃止。 >>233
そんな最近の話じゃないだろ。まだC57とかが走ってた頃の話。
ここは蒸気最後の10年のスレだ。京都発下関行き各停があたりまえの時代。 関西線加太付近がマムシの生息地とは最近知った。山をかけ分けて撮影していた当時、知らぬで逆に良かった。 北海道の蚊は針が太いのか刺されると関東の倍以上の痛痒さを感じた。
蚊取り線香も効かないので、恐ろしかった。ノミはあまり刺されなかったが、
ブヨは結構やられた。子供の血はうまいらしく、年配の人は無傷だった。
昭和40年代後半になって虫除けスプレーが全国にに出回ってからはそんな
心配も不要になった。
マムシは昼間は日陰の藪に隠れているほうが多いらしいが、当時も保線区の
人とかによく気をつけるように教わったもんだが。有名撮影地は蛇のほうで
人を恐れて出なかったかも。蛇よりスズメバチとか野犬にでくわしたほうが
多かった。
北海道はなんといっても熊だな。トンネルの中で保線の人がでくわすことも
あったと聞いてからは、上目名や常紋のトンネルは幽霊より熊が怖かった。 蒸機時代じゃないけど
撮影地点でヘビに出くわしたことは何度かある
もう少しで踏みつけるとこだったことも
今でも山口線の沿線はマムシが多いって聞いたがどうなんだろう 夜のお友達、ヤママユ系の大型蛾も忘れないで下さい。 岩手県岩手郡松尾村前森官有地 龍ヶ森駅長
(昭和46年9月10日消印)
xx 様
皆様お待ちかねのSL三重連が、
下記により運転されますのでおいでください。
9月24日25日 岩手松尾 = 荒屋新町間
965レ 竜ヶ森 着11:33 発11:37
966レ 竜ヶ森 着13:42 発13:46
さよなら列車を運転いたします。
9月30日 重連 962レ 竜ヶ森(通過)11:54
おいでを、職員一同心からお待ちいたしております。
追信 記入券もあります。 敬具
昭和46年当時の国鉄には、過去に信号場を訪れてノートに記帳した鉄道ファンに
こんなハガキを送るだけの気配り・営業意欲のある駅長もいたのだ。 今のファンとやらにそれをやっても、『やってもらって当然』くらいの認識しかないしな。 「どうぞ気をつけておいで下さい」「当地の積雪はただいま○○pです」
「ぜひすばらしい写真をお撮りください」などの心温まる文面も書かれていたよね。 今日未明のNHK見たヒトいる?
目を引いたのはC51 225の引退式と加悦の4号くらいだったが。
来週は北海道。 ドラマの大いなる旅路の最終回のロケ地が載っているサイトを見つけた・・・。
NHKのさらば蒸気機関車の音声もある!
http://jigyourin.web.fc2.com/ 「蒸気機関車 熱狂時代」っていう本ご存知?
本屋で見つけて即買いしたものの、アレレ??のキャプション。
(特に南木曽は笑える)さらには地図に重ねて読めないのも。
でも写真だけながめればすごくなつかしいっスよ。ほとんどカラーだし。 私事だがちょうど40年前の今日(昭和48年8月11日)、初めて北海道の撮影旅行に来た。10日の夜の「八甲田」で
青森に着き、初めての連絡船も「八甲田丸」。ニセコC62や室蘭函館のD52には間に合わなかったけれど、
当時はまだまだ煙が健在で、わくわくどきどきしながらの撮影旅が始まったのを覚えている。
まずは夜行で釧路に着き、釧網本線のC58からのスタートとした。
あとで知ったことだが青函連絡船の輸送量が最大となったのがこの年だったのですね。 >>246
まだ、留萌のD61、宗谷のC5530,50が健在でしたね。 釧路機関区は港の近くのせいか、魚粉工場が近いせいか
ものすごく魚臭かったのを覚えている 40年前の今日、8月17日は前日登別に泊まり、朝から室蘭本線の撮影。C57149牽引の列車で白老、そのあと
苫小牧を経て千歳線に乗り換え植苗下車。例の区間で次から次へと来る蒸機を味わう。
千歳線もこの秋で無煙化なので最後の撮影となり、その後は札幌を経てニセコYH泊まり。明日はC623の列車に
いよいよ会える。 てな感じの40年前。 最後の10年を越えて国鉄蒸機全廃後の皆さんの動向はどれだった?(複数あるかも)
1俺は蒸気機関車が全てだった、他のもの鞍替えすることはできない。引退する
2次に消えるのはなんだ? 旧国・旧型電機か? それを追っかける
3ブルートレインかっこいいな、これからはブルトレとゴハチだ
4しばらくは蒸機時代の遺構を見るのはしのびないな。旅も撮影旅行もしないよ
5蒸機ばかりが鉄道ではない、いろんな楽しみや興味をひくものを探して続けよう
6ともかく撮影旅行はやめて「汽車旅」をいろいろしてみよう
7もともと蒸機はそんなに興味なかった。自分独自の対象があるから変わらない。
8東洋活性白土も鐵原もあるし、大井川にも煙が残る。まだ蒸機撮影はできるさ。 昭和51年4月生まれの私は物の見事に、
蒸気時代とはすれ違いになりましたが、
鉄として物心ついた時はブルトレ&華やかなりし特急時代でした。
母親の実家が大井川沿いだったので、時を同じくしてSLもハマっていきました。 SL消えてボーっとしてたけど
時々銀箱担いで山歩きがしたくなって出かけたなあ
SL時代行けなかった路線に乗りに行ったりそれなりに楽しかったが
大体補完したところで終了
しかし今思い出すのはSL時代だなあ >>250
蒸気の残り香の残る旧客乗りまくり、まだまだ汽車時代だった。
それも10年するとほぼ淘汰され、鉄から引退した。国鉄がJRに
なり、汽車時代と俺の鉄が完全に終了した。 小学生の頃(70年頃?)に関西本線(キハ35)で天王寺から奈良に行った時に
奈良機関区でSLが 入れ替えしていたのが現役のSLを見たのが最後です。
それから数年後に【京阪100年号】を神足駅付近で撮影しに行ったけれど…
高槻付近で事故のために撮影できませんでした。 蒸機全廃時はまだ小学生だった
やがて撮影を始めた頃に山口線復活で何度も通った
それ以外の所へ遠出した時は蒸機時代の名所を探訪したりした
だが最近は撮影に行かなくなったな ある路線で旧客に乗って昔を味わおうと思ったら50系が来てがっかり。
俺の鉄道趣味もここまでだなと思った。 客車といったら大井川の旧客か、トロッコ列車みたいな
イベント列車くらいしか乗った経験のない世代としては、
たまに旅行に行って地方や郊外のターミナル駅の片隅に
留置されている旧客を眺めるだけでもワクワクしたし、
93年GWに北東北に行ったら赤電気が50系を牽引していて、
それに乗ってどこだかまで移動したのは感動を覚えたもんです。 五能線の8620蒸気牽引列車が最後でした。
当時小さな駅でも貨物の積降しする側線があって、一、二両の貨車を途中駅
で入替しつつ、客車2両、貨車数両を牽引、のんきに走っていました。
途中深浦駅は側線の数も多く、貨車も多く留っていました。
今、鉄道模型に凝っていますが、深浦駅構内を模した配線に夢中です。
箱庭の様な風情です
DD51と8620の重連、やC62蒸気牽引あけぼのを走らせたりします。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています