標津線を語る
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1989年に廃止された北海道・道東の長大路線を地味に語るスレッドです。 昭和58年秋、当時中三、学校サボって標津線、白糠線や相生線に乗りに
行きました。保線区の人と乗り合わせ、いろいろお話して業務用ダイヤを
もらいましたが。今でも手許にあります。車中泊やYHに泊まりましたが、
(3泊4日)一度も「学校は?」とか聞かれませんでした。そんなものかな? 昔何かの雑誌の写真で見たけど広い構内にキハ40と片隅にレム5000
がポツンと停まっていたのが標津線の印象だね。
あとすごいアップダウンの鉄路。 印象としては車窓も鉄道以外生活の臭いがないに等しかったが
昭和52,53年3月に尾岱沼YHに行く際に乗ったが、YHで一緒だった仲間たちと
車内での会話が弾んであっという間に終着だった。男2、女2だったので住所
を交換して数ヵ月後に都内でそのメンバーが再会したっけ。
彼らは今、どうしているかな。
時期的に観光名所に突っ立っていてもせいぜい1時間程度なので移動そのもの
が楽しみだったし、単なる移動ではなかった。
乗った記念に車内補充券を購入したが**車掌区とかでなく、中標津駅乗務員
発行と印刷されていた。
自分は残念ながら一度も乗ったことがない。西春別駅跡を訪れたことはあるのだが。 >>6
当時は学校が休みの時期は道東を目指す旅人がたくさん乗っていたな
かく言う自分もその一人で、夏と言うのに薄ら寒く霧が立ち込める沿線は白樺林が続いていた
上武佐駅から開陽台まで歩いたもんだった
社会人になってから廃線跡をレンタカーで辿ったが、立派な道路ができておりイメージのギャップに
昔を思い出すのは難しかった >>9
6です。同感。
自分も昭和63年、廃線後となるが妻と過去を思い出したく、レンタカーで訪れた。
景色そのものは変わらないが、車だとあっという魔に100km/hになってしまうんだな。
これじゃ、鉄道は太刀打ち出来ないし、当時の長閑さとの違いに時代(現実)を感じたもの。 >>10
いい年してる割には、文章も稚拙で誤字も多いな ageるとスレが荒れるのでsage進行の方が良いよ 地元標津出身だけど、物心ついたときにはほとんど利用しなかったな。
中標津や釧路に行く時はまず車だった。
かろうじて通学利用があったけど、それもバスで賄えるだけの需要しかなかったし。 根室標津駅で野宿したことあると言っていた人がいた。
夏なのに偉く寒かった、と。
その駅舎も、もうない。 根室標津駅で「からまつの寝台券下段、札幌から釧路まで」って言ったら
申込書を書けとも言われず「釧路から札幌」の券を発券してくれた。
「あのう、札幌→釧路なんだけど…」と言ったら
「あ、帰りもね」ってもう一枚発券してくれた。
説明が大変だった。 駅員さん面白すww
「からまつ」の名称も懐かしいのぅ。 日本近距離航空の発着する中標津空港。
こんな田舎に昔から飛行機がよくぞ発着したもんだ。 中標津空港は96年に1回だけ利用したのう。
西春別駅跡地とか見た。 天北線とセットで消えた。100kmを越す長大路線なのに・・・・・・ べつに「鉄」じゃなくても北海道のローカル線の場合
首都圏からの旅行者からみればどこを乗っても「観光路線」にもなるんだよね。
おれの知り合いの女性はいまでこそ「鉄」並の鉄道に関する知識があるけど
もともと彼女は旅行好きの女子大生で北海道ワイドを使いながらホステリングを
していただけらしい。あちこちで「鉄」情報を入れて鉄分が増えたとか。
いまじゃいい齢して子供と一緒に「乗り鉄」やっている・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています