国鉄湧網線
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昭和62年3月19日を以て廃止。
今、存続していたら「流氷列車ノロッコ号」を走らせて
いたのでは、などと考えてしまう。 能取湖は季節により淡水〜汽水だったのを、人工的に開削して、現在はほぼ海水。
サロマ湖も開削でしょ。 サロマ湖は2箇所で人工的に海と繋げて海水とほぼ同じの塩分濃度にした。 一種どころじゃないw
宍道湖でもやってる。岡山でも児島湖を作った。
最近有明湾でやって裁判になって国が漁民と農民の間で板挟み。
ちなみに自然現象でもよく起こること。
今の砂州で結ばれた地形は簡単にその姿を変える。 宍道湖は塩分濃度は薄いけど、海水が混じっている。そのため、本来は海の
魚のスズキが獲れる。スズキの奉書焼きというのを現地で食べた。
あと、ウナギのタタキなども。
中海というのが近くにあって、鳥取出身の男に訊いたら「あれは海みたいな
ものですよ」という回答だった。
網走湖は真水に近いが、オホーツク海から水が逆流して、アザラシが流されて
きたこともあった。カレイは生息しているとの事。 呼人あたりの風景が好き。冬の網走湖はワカサギ釣りのテントが散見していて
平和的な光景が広がる。 まずは毎日運行の路線バスを何が何でも再開させないといけない せっかくの景色のいいエリアだけに不便さが本当に惜しまれる。 しかしドライバーが集まらない。北の果ての悲劇。
まあ、そういうこっちゃ。 >>437
「運転手は君だ車掌は僕だ
あ〜との五人は…」 ホタテもカキも大きいのが特徴。この地方のを食べる
と他の地域のが物足りないと思うかも。 廃止された時、まだ国鉄だったんだ・・・・・・・・・ >>455さんが資金集めて観光鉄道で
復活させてケロ 同じことを思う人は、やはり結構いるんだろうな。
景色が素晴らしいのは分かるだけに、いやはや。 >>458
日本人と外国人の感性が同じと思わない方がよい 網走発8時42分。中湧別着11時05分。ここから先、どうしようか。
中湧別から湧別までの列車は1日2往復。少なすぎる・・・・・・・・・ 存続していたら「好きな路線ベスト10」にランクイン確実 国鉄湧網線かぁ〜、懐かしいなぁ!
1976年から1980年くらいまではよく乗ったし、最初は乗り潰しの走破で乗って暫くすると
乗り潰しとは別にゆっくり乗って降りたい駅で下車して北海道の雄大な景色を眺めているだけで
満足していたあのころ。下り急行大雪5号が網走駅へ7:52に到着すると8:30発の湧網線に
乗って中湧別〜興部〜雄武〜北見枝幸〜浜頓別を湧網線〜名寄本線〜興浜南線〜宗谷バス〜
興浜北線〜天北線と走破して稚内に19時半くらいに到着して急行利尻を宿代わりにしてた。
ひと通り走破すると特に予定も決めず、急行大雪5号が網走駅へ到着すると湧網線を乗り歩くか
釧網線を乗り歩くか気分次第で決めて動いていたけど1981年に就職すると大手企業でさえ、
完全週休二日制がまだなので長期の休みは取れず、週休二日制が施行された1988年では既に
目当てのローカル線も消えて旧型客車の定期普通列車も無くなり、更に道内特急の食堂車さえも
消えて暫し、ローカル線離れするようになった。
約2年前に還暦を迎えて定年退職するとシーズンオフの春(5月中旬〜下旬)か秋(10月)
に10日間ばかりの旅で往復フェリーに車を積んで道内の景勝地や観光地に温泉を巡りながら
昔よく乗った想い出のある廃止になったローカル線を尋ねるようになった。 >>466
これぞ旅行者の鑑ですなあ、素晴らしく壮大な旅。 >>466
今では味わえないいい旅をしましたね。
自分も当時、常呂から浜頓別まで湧網線,名寄本線,興浜南線,北線を乗り継いだが車内は生活感
が濃かった。相席の地元の方からスルメイカをもらったり、中湧別では子供たちから気さくに声を
かけてもらったり、会話の多い旅だった。周遊券の下車印や硬券入場券を見るたびに当時をよく
思い出す。
今では物理的にはゆったりでスマホいじりながらの旅となったが当時には遠く及ばない。
自分も1979年に就職。今年の3月に定年退職した。インターバルなして転職したが常呂、計呂地
など廃線跡でも当時を辿る旅を時間作れれば是非行きたい。 >>469
お疲れ様です。常呂は流氷の時期に私も是非訪れたいですね。 >>466.469
いい時代ですね
うらやましい
こういう旅をしてみたかったな 「昭和」の時代のほうが今よりも鉄道に関する限りでは良かったと言えますね。 湧網線は1984年6月22日に第2次特定地方交通線として廃止が
決まってからは学生が休みの時期になると本州各地からファンが
押しかけて特に急行宗谷接続の列車は常に混雑して旅情を味わう
間もなかったように思える 廃止が決まってから2年10カ月くらいの期間があったわけですね。
深名線と比べると期間が長い。 >>475 84年に第二次特定地方交通線として廃止対象になった後、第三セクター化やバス転換、それに積雪期の代替交通機関の有無の検討のために数年の期間を置いたわけでしょ。
積雪期の問題があってJR転換時の廃止対象から外されたものの、その後、平行道路の整備が進み、地元も廃止やむなしとなった深名線とは相当事情が異なるよ。 >>463
昭和末期、湧別駅の入場券を買うと、おまけでホタテ貝殻の飾りが付いてきた
暇だからそういうものを作って時間を潰していたのかもしれない 昔は計呂地駅でも手作りの帆立貝殻付きの入場券が発売されていた
あとスレ違いになるけど釧網本線の北浜駅でも発売されていた
有人駅の頃だけどそれだけ国鉄職員が余っていたのかも知れない 北浜駅も有人駅だったんだよなあ
確か業務委託駅だったと思う
もうすぐ廃止になる南弟子屈駅、既に廃止になった花咲駅も有人駅だった ゴーサントオ(昭和53「1978」年10月2日ダイヤ改正)から業務委託駅や無人駅が増えてきた 貨物輸送が衰退したからだろ。国鉄赤字の主原因でもあるが。 ところで湧網線の主な貨物だったのは海産物と木材か?沿線に鉱山はないし。 仮乗降場上がりの駅以外で、開業時から無人駅ってこの路線には無いよねたぶん 北浜駅は、ちょくちょく行っているが、流氷の時期になると一番手っ取り早い
駅だから仕方ない。そこで思うのは湧網線が存続していたら、ということ。
常呂駅こそオホーツク海に最も近い駅と言えたのに、ということ。 総延長距離89.8 kmの湧網線は仮乗降場が多かった
北見平和仮乗降場・ 福島仮乗降場・志撫子仮乗降場・若里仮乗降場・興生沢仮乗降場・
紅葉橋仮乗降場・大曲仮乗降場・土佐仮乗降場・常呂港仮乗降場・中能取仮乗降場・
東富丘仮乗降場・二見中央仮乗降場・浜床丹仮乗降場・堺橋仮乗降場・五鹿山仮乗降場
他にもまだあったかも? 仮乗降場出身以外で元々の無人駅は北見富丘くらいだね 逆に仮乗降場出身で後に一時的にせよ有人駅に昇格したのは北見平和のみ 仮に国鉄 → JR北海道になった時に湧網線が存続していたら、
これら全国版時刻表に出てこない仮乗降場は、駅に昇格していた
ということですね。 仮乗降場マニアは少数ながら、しっかり存在していた模様 今は釧網本線以外オホーツク海が見える路線がないのが、とてつもなく不満。 まだ名残をとどめるところもあるが、こうして、だんだん風化していく
のだろう。淋しいことだ。 急行大雪の自由席が3両連結されていた(518レなら北見から
更に2両自由席を連結)旧型客車時期に1番湧別線へ訪れたけど
あれからもう43年の月日が経過しているのが信じられない >>504
最初は日中走る気動車の急行大雪が特急オホーツクに格上げされて、
更に夜行急行大雪も1992年3月14日改正でオホーツク9・10号として
て格上げ・編入され、愛称が消滅したけど大雪という列車名称は
2017年に旭川〜網走間の特急新設で復活した。 まりも、も名称復活しましたですね。一時。
オホーツクは、よく宿代わりに利用しました。
朝、目覚めたら網走、という状況が良かった(笑) 夜行のオホーツク9・10号も同じく夜行のおおぞら13・14号も乗らないで終わってしまった。
ついでに言えばキハ400・480系化された急行「利尻」も乗らないで終わってしまったのだけど
1988年改正以降「大雪」「利尻」「まりも」の自由席が1両減ってしまい、北海道は結婚した
嫁と行く、観光・景勝地・温泉旅行の地になってしまった。
自分が学生の頃は自由席を何両も連結した編成長めの道内夜行列車が多かった。
「すずらん5/6号(自由席5)」 「43レ/44レ(自由席3)」 「利尻(自由席3+1)」 「大雪(自由席3+2)」
「からまつ(自由席4)」 「狩勝(自由席※)」 ※1980年10月1日から自由席が1両連結。
湧別線を初めとする道内の第一次特定地方交通線(興浜北線・興浜南線・美幸線・渚滑線・相生線・
白糠線・万字線・岩内線)や第二次特定地方交通線(標津線・池北線・士幌線・広尾線・名寄本線・
天北線・羽幌線・歌志内線・幌内線・富内線・胆振線・瀬棚線・松前線とその後に消えた深名線と
上鶉支線などに違う季節に数回訪れる事が出来て本当に幸せである。
自分は廃線巡りとかは趣味ではないので錆びれてしまった線路跡や街や村は見ない方が
いいのかも知れないというのが心情だけど自分を北海道から遠ざけたのはローカル線の廃止以外に
道内夜行列車の衰退(定期列車で言えば6往復走っていたのに約半数になった)や青函連絡船の
廃止も影響している。 多彩にして、なんと魅力的な路線であることか。
相生線、渚滑線など単独スレッドはないが風化
させるには忍びない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています