中国山地の特急・急行列車
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今では路線の存続すら危ういところも出てきた中国山地の路線にも輝いていた頃がありました。
陰陽連絡の要、ローカル輸送の花形だった列車たちを語りましょう!
関連スレ
中国山地のローカル線 Part10
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/rail/1247651648/
主な列車たち
【姫新線】みささ(大阪-鳥取)・みまさか(大阪-中国勝山)
【津山線】砂丘(岡山-鳥取)・つやま(岡山-つやま)
【伯備線】やくも(岡山-出雲市・知井宮)マリンやくも(高松-出雲市)
【智頭急行】はくと(大阪-鳥取)いなば(岡山-鳥取)
【木次線】ちどり(米子-広島)
【芸備線】たいしゃく(新見-広島)・やまのゆ(津山-広島)・みよし(三次-広島)
【山口線】おき(鳥取-小郡)・つわの(江津-小郡)
【美祢線】あきよし(浜田-天ヶ瀬) >>2
「つやま」を主な列車とするなら「しんじ」「たまつくり」→「伯耆」
も加えてほしい。運転期間は長かったぞ。 S40年10月の時刻表によれば、下り1号と上り1号が新見発着。
下り 大阪発16時55分 新見着21時57分
上り 新見発5時50分 大阪着11時16分 ともに2等車のみ。 >>2
伯備線の急行「伯耆」を忘れないでくれ
>>6
「みまさか」は中国勝山・月田・新見とあったね
>>3
夜行ちどりは周遊券旅行者には便利だったな
俺の乗ったのは上りでキハ58系の5連。岩国始発だった。春だったけど三井野原は
夜目にも白い雪が積もっていて驚いたものだった。
昼間のちどりは広島に行く大学生のお姉さんからチョコレートをもらったことが思い出。
それがきっかけで下車する三次までずっとお喋りしていた。何を喋っていたのかすっかり
忘れてしまったが。 急行しんじ鬼畜すぎワロタwwww
宇野9:09〜この間急行砂丘(上井行)併結〜岡山10:04〜この間急行たいしゃく(芸備経由広島行)併結〜
〜新見11:51〜この間急行ちどり(伯備経由米子行)併結〜米子13:39〜益田17:29〜山口線経由〜小郡19:34 JRになって間もないころ青春18で中国山地を徘徊した。
鳥取から因美線の普通列車に乗車。年末だったのでお客はそれなりにいた。
車掌さんがオレカ車販に熱心でついつい自分も1枚買った。(もっともいずれは
駅降りるたびに買う短区間乗車券に化けるのだが)
名前はわすれたが小さな駅で「砂丘」と交換。当時はまだ通票閉塞時代。
「砂丘」の運転士がそれまでの通票を落として,新しい通票をむしって
通過していくさまをつぶさに観察した。DCの爆音っていいもんだねぇ。
いまとなったらいい思い出。 みよし・・・最後の号数付き急行、最後の急行型使用急行
つやま・・・最後の気動車急行、最後の昼行急行
あと「みささ・みまさか」は最後の分割併合急行だっけ? 「山陰均一周遊券」を握りしめ、初めて行った山陰地方。
その山陰へのアプローチは、新幹線で新大阪〜581系「しおじ」で広島、
そしてエリア内へは、経路が豊富だった周遊券の中でも一際異彩だった国鉄バス広浜線の“夜行バス”だった。
その後も周遊券を存分に使って夜行連泊を繰り返していたが、
当時まだ健在だった広島(岩国)−米子を走っていた夜行急行「ちどり」にも乗った。
周遊券のエリアは三次までだったが、三次到着が未明の3時台だったため、うっかり寝過ごして広島まで行ってしまったことがある。
一旦周遊券のエリアを出てしまったら、もうエリアには戻れないと思っていたから、この時は正直焦った!
とりあえず、仕方がないので車掌さんに事情を説明したら、
「じゃあ、折り返して戻ってください」とあっさり言われてホッとしたものだ。
山陰の夜行は乗る時は深夜0時過ぎ、降りる時は3時台というパターンだったから、夜行連泊には辛い場所だったな。
ところで、この時の帰路は松江発岡山経由新大阪行きの夜行臨時特急「おき51号」だった。
ピカピカの181系気動車の夜行運用は、最近では「おわら」や「シュプール」の実績はあるが、
当時はこのくらいだったと記憶している。 時刻表70年10月号に
徳山発出雲市行き〈ちどり51号〉9320レに。B寝台のマークがあるのだが…詳細が知りたい。木次線経由かなど…一部コピーで、山陽線のページしかないもので。 岡山発の京阪神ミニで姫路〜大阪間急行を利用したら、随分得した気分になったもの。 >>14
その時刻表見てみたい!
米イモには”山陰”用のオハネフ12があったからそれを使ったんじゃないかと思う。
それにしても、備後落合と宍道で機回しかw 記憶違いかもしれんが「みまさか」って津山〜中国勝山普通じゃなかったっけ?
単独で「急行」として走る区間無いのに愛称付きとは誤乗防止かね。
あるいは地元の要望? >>17
昭和40年前後の「みまさか」1号・2号とも急行(準急)として運転されて
いる。ちなみに上り1号の停車駅は刑部、中国勝山、久世、美作落合。
2号は月田発。 >>18
教示ありがとうございます。
「みまさか」=「みささ」のイメージ強かったので・・・。
知りませんですた。 みまさかは、後年は末端区間が普通列車になったけど、元々は全区間グリーン車+指定席付きの堂々とした急行。 伯備線といえば「やくも」が代表的だが,急行「伯耆」というのが50年3月に
登場したな。
14>>
ご覧になっているのは、門司から岩国までの山陽本線のページでしょうか?
曖昧な記憶ですが広島まで細かく停車してその後は山陽本線を一路東へ
倉敷(運転停車)から伯備線経由で山陰に分け入り米子から客扱い再開、
松江を経て出雲市へ。だったような記憶が…? しかも片道のみの設定?
16>>
車輌については憶測ですが急行「安芸」が70年10月のダイヤ改正で
廃止になっているのでこの車輌を使用したか「音戸」の予備車輌?とか
あるいは、団臨の送込み(又は返却)回送兼ねての営業運転?
考えだすといろいろと想像が広がり収まりが付きません。
広島から三次、落合、新見、津山と『やまのゆ』なんて急行があったんですね・・
今や沿線区間のほとんどが過疎区間だがw
中国縦貫道ができたことと、当時のDC特急は短編成に対応していなかったので
特急格上げができなかったことことじゃろ。当時の国鉄の偉いさんが
近鉄特急のネットワークを頭に置いていたら、どうなったかねえ。
1列車でキロ2両の急行は、みささと砂丘の併結区間が最後だったっけ?
あと併結相手を変えるのは、みささが津山で砂丘からみまさかに変えるのが最後だったかな? 倉吉線の朝1往復だけ、倉吉〜山守のキハ65+58+58てのがあったけど、
あれは急行の間合い運用だったのかな?
普段はキハ40単行だったから長大編成に見え、キハ65の折戸がとても新鮮だった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています