【思い出スレ】旧形国電総合スレッド007【統合】
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>>247
試作車は前面形状もいろいろ研究するからね
591系や交流試作車なんかもそうだね 最後が「000」や「00」で終わる型式・車両はよかったね。
必ずしも1型式1両ではなかったようだけど。
現車を見たので印象深かったのはやはりクモハユニ64000とクモハ50000だった。
間違ってたらすまん。 クハ86015のパノラミックが平窓に戻されたのは、
パノラミック部分のガラス寸法が独特で、
クハ153用などの流用がきかず、保守上問題があったため。
ただ平窓に戻された後も、シルヘッダーがないこともあり、
ガラス寸法自体は独自のものを維持し続けた。
モハ52006は戦災復旧車の材料にでもするつもりだったのか、
川崎車輌に運ばれた後解体。見た目は原形を留めていたようだが。
サハ75021も地面にじか置きされた写真は雑誌で見た記憶が。
上の方で書かれている、103-3000は、台枠流用なので
冷房化された元旧形国電と言えるかも。103系化するとき、
台枠の梁の通り方が異なるので、機器を90度反転して
付けなければならないものがあり、苦労したらしい。 >>251
平面+曲面ガラスのパノラミック
↓
平面+平面ガラスのパノラミック
↓
R部を埋めて平面窓のみ
曲面ガラス使ってたのは大井工場だけ? >>252
モハ52006については、台枠流用のマニ72に復旧された可能性も否定はできない。
>>253
半流線型くらいならともかく、わざわざ端面が流線型の鉄くずを叩きなおして作るとは思えない。
上物を撤去して台枠だけにして流線型の端面の修正・・・
腐るほどある罹災した他のタネ車使う方がずっと楽。
>>253
継ぎ合わせをしたとすれば、ありうる話かもしれない。
あるいはモハ52006のほうを継ぎ足し材にするという方法とか。
>>254
鉄クズというほど破損はしてないように見えた(雑誌記事写真によれば)。
台枠を利用して、というのは当時盛んに行われた工事だったので、
運転台部分を別車輌から継ぐ程度のことは普通に行われたのではとも思う。
マニ72にしても、半流車輌は全て切妻に直したのだし。
モハ52006の場合、おそらくモハ43等と同様の台枠構造だろうが、
全溶接台枠かもしれない。そうすると加工はリベット組み立て台枠より大変かも。 >>256
52006は広窓だぜ?車体をそのまま転用したらその面影は改造車両に反映されるし、わざわざ上物撤去して流線型の台枠切り継ぎして・・・
半流の切妻化とは訳が違う。
>>256
ツッコミどころ満載乙。さてどこから突っ込むか。
>>255は台枠のみを利用し、マニ72として復旧する前提で書いている。
70系客車の場合は、もともとが致命的に車体焼損の車輌が多かったので、
側板は新製したり、切り接ぎによって再生している例が多い。
モハ52006の鋼体の一部が利用されたとしても、
おそらく台枠まででそこから上は新製だろう。
軽量構造とはわけが違うので、窓柱を撤去しても、台枠のみでたわんでしまう
ということはない(爆弾で変形しているのは別だが、それでも復旧例はある。
相鉄のモハ3004や伊豆箱根の復旧車は車体が垂れ下がっていた)。 話しぶったぎるが、クモハ54004はあの中途半端な改悪を晩年の姿に戻すべきだな。 クモハ54004って?
クモハ52004の間違いだと思うけど、今回の鉄道博物館入りに際して、かなり念入りに登場時の
姿に復元工事を実施してますよ。 >>257
仮に、戦災復旧のうわさがあるマニ34→マニ30Tへの台枠流用だったら超珍車だな 少なくとも乗務員扉撤去、ベンチレーター交換、客用扉交換はされてたな
もしかすると吹田の流電よりも高いレベルで復元されているかも知れない
吹田の方は客用扉はそのままだったし >>261
クモヤ90→モハ63
の例だと、改造いい線行ってたのに運番表示機の位置間違いがあったから、
大チョンボがあるんじゃないかと心配。 そう言えば、クモハ12041は、もう博物館に移送されたんでしょうか? >>249
昭和28年6月1日の称号規程改正で、各形式とも001もしくは枝番の1位1からの付番が、000もしくは枝番の1位0からの付番に変更された
たとえばモハ80は、昭和25年〜30年の80001〜80117に続いて、31年の200番台は80200から、32年の300番台は80300からの付番になった
>>249はなんか勘違いでもしたのか、1形式1両とかまったく関係ない
現場では53000を「ゴサンの丁度」などと呼んでいた 旧型国電(末期製造の一部を除く)は、奇数車と偶数車があるからね。
模型で再現しようとなると、けっこうこれが大事。
たとえば、南武線のクモハ73、クハ79。基本4両と増結2両とでは、奇数と偶数がクモハとクハで逆が多い。
考えて購入(または作製)しないと、大変なことになる。
さらに、南武線と青梅・五日市線とでも違う。
忠実に再現しようとなると、更新扉の有無、ニ段か三段か・・・・。大変ことになってしまう。
ほんとうに旧型国電は奥が深い。
クモハユニ64000、クモハ53000。飯田線が懐かしい。
当時は知識がなかったから、000と001の意味が分からなかった。
南武線は、検査代行で末期までクモハ11、クハ16がときどき本線を走ってましたね。
よく撮影しました。
稲城長沼では、増結2両の連結・解放。最終的には、6両通しで立川まで入りましたが。
バラエイティ豊かな73系と相まって、ED16、EF10・11・13・15と貨物も飽きない路線でした。 >>262
モハ52のミスらしいミスは扉の窓枠をクリームに塗ってないところかな
(ベンチレータとドア復元後の52004画像と竣工時の写真を比較した限り) >>264
前から疑問だったんだけど
その改番で偶数奇数が入れ替わってしまうよね
偶数床下で奇数番号とかになったん? >>257
で、結局52006は流線型部分を切り継ぎ、又は切り捨てたんけ? 改造されずに廃車された?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%8452%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A おそらく骨材の一部が、他車の復旧や補修のための
継ぎ足し材になった程度ではないか? 52004が美しく復元されど
流電現役を知らぬ自分は
53007の姿を瞼の裏に映し
心の中で涙するかも
最後の静ママ車は唯の一輌も残らず
思い出の中にのみ生きる
何でも保存、保存と騒ぐ昨今は
良い時代なのか
薄っぺらな時代なのか 瀬戸内海の小島に疎開保存してある
なんて都市伝説もあったけれど 保存促進したいなら、スポンサーになるのが一番
金出さずに口だけ出しても前には進まない
まあ、ナショナルトラスト出資などがスポンサーといえるかどうかは別にして、あれもひとつの行き方ではあるだろう
それさえやらないんだったら、成り行きまかせにしかならないのが現実
そんな奴がたとえば、単純に平面的にしかモノを見ずに東海と東日本を比べて、東日本を批判しても、その資格すらない人間のエゴにしか見えない
また、なんでもかんでも保存と言い出せばきりがないのだが、逆に言えばそれを実現させるのに充分な投資ができるなら、保存可能車両は一気に増える
ビタ一文出さない奴の生意気なエゴ発言多すぎ
保存保存とわめくだけなら馬鹿にだってできる
どうやったらもっと保存を実現・促進できるのか、資金面や保管の問題も含めて考えないといけない >>276
何わめいているのかしらないが今残っているものの保存を促進しようなんてここでは誰も
言っていない。
別に個人が費用を負担している訳でもないのに現存している車両と以下に挙げる車両と比
較して、以下の車両が全て解体されたことを納得できるのか?
53007、53008、43015、53000
53001、47009、47069、64000
私財など投じなくても、電車王国日本の文化遺産としてどれか一両ぐらい残っていてもお
かしくない価値があったと思うが。
1983年という時代が悪かったという言い方は一理あると思う。 >>277
過去に解体された車両に納得できないと言う輩と、今残っているものの保存を促進しようと言う「だけ」の連中は同根だろw
過去の処分にに納得できないというなら、同じ轍を踏まないためにどうすればよいのかと言う話になるのは当然だろw
だから>>276の言い分のほうが筋が通っている。
>>277の「1983年という時代が悪かった」と言うのは単なる言い訳だよ。
こんな理屈が通るのなら「2010年と言う時代が悪かった」「2011年と言う時代が悪かった」・・・
永遠に言い訳できるなw
どう悪かったのか検証すらしてないんだから。 >>276-277
保存を云々したいだけなら専用スレ立ててそっちでやれよ
じゃまなんだよ 最後の静ママ車も軽く見られたもんだな。
あの価値を共有できた人たちのフィルムと思い出の中にのみ生きる、でよかったのかも。
しかし58年8月23日は53007と53008で編成組んで欲しかった。
涙雨の一日だったが、中部天竜に着いた頃には雨もあがっていたっけ。
53007と53008で編成組んだことってあったのかな。 >>282
あんな厚化粧の婆が良いとは省電も舐められたもんだ
原型が最も美しい >>283
車輌自体の価値の問題でしょ。
車輌さえ残っていれば復元なり何なりできた。
解体されてしまったら復元もなにも、元も子もない。
デビュー50年経った国鉄(←省電)初の20m車も現存してたのに。
それとも昭和50年代に原型のまま走ってた旧国があったのか? >>283
女は若くて綺麗なほうが良いというのと同じくらい薄っぺらいなw
車体に刻まれた年輪ともいうべき経年変化に、人生を重ねてその歩んだ歴史を感じ取るもんなんだがな。
人に感動や感慨をもたらすのは美しさだけではない。
だからと言って保存しろとは思わんが。 >>282
43040・43041時代なら4連の両端というかたちであっただろう
俺は53008の相棒の47009の方が好きだったけど
なにげにリベットが多くて味のある車両だった 除籍しようが形があれば資産だものな。
マル検から隠し財産といわれるのは避けなきゃならんし。
それでも蒸機と電機・電車との扱いに差が大きすぎた。
湘南2枚窓タイプの全滅は失策だと思う。 まあ今更言ってもしょうがないのは確かなわけで
俺は精巧なレプリカが出るのを待ってるわ
東武のゴーナナや東海のモハ63を復元出来る技術があるんだから、
その気になれば凄く良いものが作れるんじゃないか、と期待してる
「ニセモノ」と言われればそれでお終いだけど、実車の雰囲気は十分に感じられる訳で、
俺もお金が余ってたらモハ32辺りを作ってみたいんだけどなあ >>286
ノーシルノーヘッダー広窓の53008と当時の旧国のなかでもクラシカルな32系の車体をもった47009の対比が面
白かった。
あねペアは名コンビだったね。
真ん中にドアを開けられた元二扉車とか元サハのクハとか一両一両個性的でそれぞれが魅力的だった。53007と5
3008の違いですら53008が惜しいというよりバリエーションが多くて面白味を与えていると思えた。
厚化粧だとか原型が最高だとかあまり思わなかったなあ。コアな人はそういう目で見ていたの? >>288
その気=お金
そりゃ作ろうと思えば作れるけれど失われた技術も多い
もはやJRは木工や鋳造職場を持ってないし
大和ミュージアムで戦艦大和の大型模型作った時に
木製甲板を張れる職人が高齢の方がわずかしか残ってなくてギリギリだった
なんて話もあるくらいで とはいえ今は逆に家屋建築技術を車両に生かしてるでしょ。
ゆふいんのもりとか九州特急なんか。
デコレーション改造でなく、復刻製造自体は可能だと思う。
問題は量産たりえないことかと。 そのあたりを言い出すと、リベットを鋳造し打つというあたりから困難という話がある。
鉄道博物館でオハ31を修復するのに、その点で苦労したという話を聞いたことがある。 >>292
リベットも旋削で作ったのをレジンで複製して接着、なんてなるかもね
少なくとも構体の接合自体は溶接になっちまうものな クハ47の0番台は、いいね。
Hゴムじゃないやつが最高でした。
飯田線よりも、身延線の方が馴染みがあったかと思う。
サハ48、サハ45もよかった。
2ドア、狭窓、リベットがんがんが好き。 >>292
鋳造じゃ脆くてリベットにはならないよ。
転造だろ。 >>289
俺も原型より厚化粧の末期の方がいいわ
外板の歪や塗装のはがれ、傷や汚れなどその車両が生きてきた歴史が感じられたからね
だから当時は関心のなかった新性能車も今見れば使い込まれてきた様子がわかって親しみ
が持てる。
もちろん、なじみがあるということも大きいけど >>293
20年ほど前に復元した阪急の900は、向上に残っていたリベット打ち機を使ってリベットを打ち直したが、
車体裾の部分には、床下機器が着いていて打ち直す事が出来なかった為、タップを切ってネジを入れ、
ネジ穴はパテで埋めたとの事。
>>295
いまは接合自体は溶接だからリベットはあくまで飾り
だから樹脂でも何でもおk まんこまんこーまんこまんこまんこーぉ
まんこまんこーまんこまんこまんこぉーおーぉー 戦前の大鉄関西急電には車体側面中央に横幕が設定されていたようですね。
同じ時期の東鉄横須賀線等にもあったのでしょうか?
戦前の旧型国電の写真が載っている本を見てから質問しよう。
>大鉄関西急電には車体側面中央に横幕が設定されていたようですね
という事実を知っているなら、同時期の他形式写真を見たら聞くまでも無いでしょ?
>>439
そりゃあやっぱりアナル見せは基本でしょ
公開ストリップさせて衆人に晒すなきゃな >>302
東鉄の50系には横幕らしき小窓が車体中央にあるよ。 >>303
写真は探せばいくつか出てくるけど、
肝心の方向幕について書かれた文献が見当たらないんだよねー
字幕の内容
誰がどう操作していたのか?(まさか乗務員室からの遠隔操作じゃないですよね)
いつからいつまで使ってたのか?
これらの事を知りたい >>307
身延線で晩年活躍したクモハ51800には、
方向幕の窓と機械が残っていたようだ。
ピクに載っている写真を見る限り、ハンドルが付いているので
手動式のものと思われる。
するとおそらく終点に着くと、車掌さんが1輌ずつ回して歩いたのでは?
と思われるけれど、さすがに戦前派の親に聞いてもわからない。 >>307
プレスの「大阪の省電」に戦前の車内写真で側面方向幕ハンドルが写っているものがあるから折り返し時に乗務員が回していたはずだよ。
運転士か車掌かは分からないけど。
当時の関西では、阪神、大軌 参急、南海で側面幕を使用していたから省電の側面方向幕装備というのが特に珍しい物じゃないしね。 >>308
編成も短かったし
サボ換えるのは普通なんだからハンドルまわすくらい、てことかと 吹田で復元して保存してるモハ52って方向幕も復元してあったような... ソースを覚えてないから信憑性は薄いかも知れないけど、
「1両1両手で回して変えていた」ってのを何かの本で見た気がする
鉄道ファン誌だったっけかな・・・ 厨坊の頃、御殿場線国府津→松田の区間で運転台添乗させてもらった。
その車両の前半分は荷物車代用だったよ。 吹田工場の公開で、流電の車内に入れたようですね。
どなたか方向幕の裏側(室内側)を写真に収めた方いらっしゃいませんかね?
または撮影したブログのアドレスでもいいので、ここに貼ってくださいな。 >>321
ありがとうございます
室内側にもガラス入れて表示内容の確認できたんですね。
操作時は扉開けてハンドルか何かを回すから、ガラスはなくてもいいような気もしますが。 >>322
つーかこの方向幕窓は忠実な復元じゃないかもしれん。
戦前の43系の車内写真(大阪の省電vol.1)には客室内にハンドル部が露出しているのが確認できるからね。
一応方向幕らしきものを復元しましたって程度じゃないのか? 身延線のクモハ51800に残っていた方向幕は、
機械も残っていたのか、ハンドルが室内に露出していた。
割と最近まであったバスのものの感じに似てはいたけど。 >>324
昔の図面も無いし適当にやっつけた、というのもよくあるパターン
学芸員がいて大量の資料を持ってる所でもそんな感じだから言わずもがな >>327
これは貴重なものを
490の営業運転がカラーで見られるとは思わなんだ >>327
宮電の社形のカラー画像なんてはじめてみた・・・ >>330
私も見てみた
ttp://kt2300-masu.hp.infoseek.co.jp/omoide-hanwa-tenkairyou.htm
この臨時って何でキハ使ったのかな?
鳳以北の動力線が停電?信号扱いは?
南田辺〜天王寺間は運休かな? >>331
南田辺〜天王寺間は運休
天王寺駅配線変更工事で電車運転が出来なかったから。
信号は記憶に無いけど、南田辺のポイントは自動で切り替えていたから電車線以外は問題ないのでは?
踏切も通常通り作動していたし。 クモヤ90改めモハ63の博物館搬入が行われたようですが、
その模様を撮ったブログとかご存じありませんか?
ttp://blogs.yahoo.co.jp/takemas21/14783196.html
顔はモハ63にそっくり復元されているようです。
個人的には馴染みの深いモハ63改クモハ73にしてほしかったかなと思います。
しかし、今回の復元の英断に感謝するばかりです。 >>334
これモハ63からモハ72経由でクモヤになった車両だから
クモハ73にできなかったんだろ モハ63もクモハ73も復元の手間暇は変わらないと思うが。
東芝府中工場、相変わらずクモニ83が見えるところにいます。
見学会でも開催してくれないかな?できれば一般工場開放も。 クモハ12041は搬入されたでしょうか?
流電やクモヤ90が原型に復元されて、クモハ12は晩年の姿で博物館入りするのが、ちょっと不思議に
思ったりしますが、復元するには相当な手間も掛かりそうですしね。 63系と73系の違いって、走る棺桶かそうでないかの違いだろ。 >>339
それは決めつけ過ぎと思うぞ。
63型は確かに粗悪なところもあったが、
戦時設計だったということを忘れてはいかん。
>粗悪なところもあったが
粗悪そのものだろw
保守不良ではなく構造の欠陥が原因で200人近くも焼き殺したんだから言い訳できん。
戦時設計は免罪符じゃない
洞爺丸と同時に沈んだ青函連絡船の第十一青函丸はその戦時設計が原因で、この船だけは転覆ではなく破断が原因で沈んでいる。
>>333
とある掲示板に画像あったけど、投稿者は新幹線大好きな人なので、
同時に行われた新幹線の写真ばかり撮って、モハ63は顔が映り込んでたのみ。 ドイツの戦時設計と日本の戦時設計を見ると、思想の差が出ているなあ・・・と思う。 >>342
モハ63が全焼して桜木町事件が起きた。
これがモハ60戦時設計車だったらどうだろうか。
窓には縦にサンが入っていたりした。
窓を開けられたかもしれないが、連結面の開き戸は同じだ。
床下の棚配線は問題かもしれない。しかし電線の被覆の材質は、
モハ63と60戦時形とで同じレベルだ。代用材の管に詰めたところで、
混食やショートの危険は常にあった。全焼したのはモハ63だけではない。
ということで、焼けた原因と、逃げ出せなかった原因は分けて考える必要がある。
三段窓の中断固定はまずかったと思う。
乗客の神田川転落事故による、ドア鋼製化も悪い方に働いたのが残念だ。 >>346
モハ60は戦時中に生産されたものはあるにはあるが、「戦時設計」という思想で作られたんじゃないだろw
戦中戦後に関わらず電車の出火事故は頻発している。
しかし、自身の欠陥が原因で最大多数の死者を出した車両には弁護の余地は無い。
戦時設計というのは言い訳にならない。
モハ60は重大事故を起こしていない。
事故後モハ60限定の緊急工事を行なったわけでもない。つまり形式特有の致命的欠陥が無い。
モハ63自身の欠陥が原因と明白な以上は車両評価は結果が総て。
>全焼したのはモハ63だけではない
火事は出火元に責任があり類焼先は言わば被害者だろw
あの状況なら横にE233でも何でも燃えてるよw >>347
桜木町事件があの結果になったのは、ご存じのとおりだし、
モハ63が戦時設計の粗末な箱であることは誰でも知っている通りである。
しかしながら、同様の事故は潜在的に木製屋根車全部に起こりうることであり、
モハ63がことさら悪いわけではない。
実際事故後の対策の一つとして難燃塗料を屋根に塗るというような工事が
各車に対して行われている。
>>346の言うモハ60はあくまで喩えであり、戦時中に造られた車両全体に
言えることだと理解している。
2段落目は意味不明。>>346をよく読むことを勧める。
貴君の評価を一言で言うと、桜木町事故を起こしたモハ63は欠陥車だ。
だから価値はないの一言にまとめられるが、
そんなものは評価とは言えない。
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