【思い出スレ】旧形国電総合スレッド007【統合】
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クハ58025はなんでこれだけ半流だったんだろう?
2ドアのまま残して欲しかった。 2ドアのまま残ってても、3ドアや4ドア化されて残ってても
「42系唯一の半流車」としての価値はそこまで減らないと思うよ
どんな改造されても「クハ58025」は「クハ58025」なんだから(形式変更されたとかそういう話は別として)
まあでも、もし3扉化されてたら他の半流国電の中に埋もれてしまっていた気もするけど >>222
クハ55800は京浜東北時代は最期まで旧2等、旧3等の仕切りが残存。
室内は旧2等は薄緑塗りつぶし、旧3等ははニス塗り。
最期の乗車は1964年2月14日、阪和線に転属後の詳細は不明。
旧クロハの16800は仕切りは撤去されたが白熱電球のままであった。
こちらの最終乗車は1963年12月30日(車番は亡失)。 12054オワタ\(^o^)/
ttp://blogs.yahoo.co.jp/takemas21/16246760.html ちなみにグロ注意
ttp://www.youtube.com/watch?v=ml2ZRjMd0wc&feature=player_embedded#! 旧国に関わる疑問
1:なぜクモハ73359は近改なのにウインドシルがついているのか?
2:クハ86015は後年なぜわざわざノーマル窓に戻したのか?
3:クモハ52006の戦災車体はどうなったのか?
を教えて下さい。 >>237
1→近代化改造≠車体取替じゃないから仕様はマチマチ
3→川崎車輌で解体と思われる。 >>237
2について
改造にはそれなりの経費を要したはずで、その真偽はわからないが、過去のスレより…
※アンカーと改行の一部を修正
185 名前: 名無しでGO! 投稿日: 2001/06/09(土) 09:45 ID:VaombgJ.
漏れも質問
事故で大破して復旧後153系の様な前面窓になったクハ86015が後年わざわざ原型顔に戻されてしまった理由は何なのでしょうか・・・?
再度大破事故でもやらかしたんでしょうか?
実情知ってる方情報キボンヌです
186 名前: 名無しでGO! 投稿日: 2001/06/09(土) 16:35 ID:???
>> 185様へ
確か国電に詳しい方から聞いたと思ったのですが、153系顔のクハ86015は事故車というのは乗務員の間でも有名で、目立つ上に乗務員も事故車には乗務したがらない、という訳で再改造された・・・と聞きましたが。
187 名前: 名無しでGO! 投稿日: 2001/06/09(土) 20:46 ID:q55UgmMU
>> 186様、早速のレス、誠に有難う御座いました。
永年趣味誌読んできても絶対載ってなかった内容・疑問がその日に解決するとは2ch鉄版って想像以上に凄いトコですね(喜
しかしそうですか、意外な理由なんですね。
昭和34年頑張った大井工場の方々は落胆したでしょうねぇ・・・
>>238
52006の解体は日車(熱田)じゃなかったっけ?
と、一応マヂレスしておく >>237
2.については、保守が難しかったから、と沢柳氏が書いてるけど・・・ 73系改の最大の疑問は
・クモハとクハの顔が違うこと。
一説によると、クモハ改は、車体は国鉄工場製なんで当時の技術では、傾斜窓は
施工が容易でなかったということだが、真相はどうなんだろう? >>240
では聞くが、『大阪の省電vol.2』77ページの写真でP6の横に写っている流線型の車輌は何なんだ? ____
/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\
/ ⌒(__人__)⌒ \では聞くが、『大阪の省電vol.2』77ページの写真で
| |r┬-| | P6の横に写っている流線型の車輌は何なんだ?
\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ
| l \
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) >>242
クモハ73については、老い先短い改造車でできるだけコストかけたくなかったからでしょ
3枚の前面窓も同じサイズのガラスを左右は横長、真ん中は縦長に配置しただけだもんな
おそらくはガラスも規格サイズだったのだろう >>241
別の人ので読んだんだけど
最初はあれ曲面ガラスだったけど山陽へ行ったら平面ガラスに改造されて
さらにその後に通常形に戻されて
あれ全て保守が大変過ぎたってことらしい
規格品のガラスなら予備品もあるだろうし在庫持ってるからすぐ入るし
変な形状や寸法のだと破損したら交換に時間かかるし費用も高いし
(労使関係が悪化しつつあった)保守の現場としては何一つメリットないものね 例外があって、クモハ73900、902は傾斜窓なんだよね。
顔はクハ79モドキ。 >>247
試作車は前面形状もいろいろ研究するからね
591系や交流試作車なんかもそうだね 最後が「000」や「00」で終わる型式・車両はよかったね。
必ずしも1型式1両ではなかったようだけど。
現車を見たので印象深かったのはやはりクモハユニ64000とクモハ50000だった。
間違ってたらすまん。 クハ86015のパノラミックが平窓に戻されたのは、
パノラミック部分のガラス寸法が独特で、
クハ153用などの流用がきかず、保守上問題があったため。
ただ平窓に戻された後も、シルヘッダーがないこともあり、
ガラス寸法自体は独自のものを維持し続けた。
モハ52006は戦災復旧車の材料にでもするつもりだったのか、
川崎車輌に運ばれた後解体。見た目は原形を留めていたようだが。
サハ75021も地面にじか置きされた写真は雑誌で見た記憶が。
上の方で書かれている、103-3000は、台枠流用なので
冷房化された元旧形国電と言えるかも。103系化するとき、
台枠の梁の通り方が異なるので、機器を90度反転して
付けなければならないものがあり、苦労したらしい。 >>251
平面+曲面ガラスのパノラミック
↓
平面+平面ガラスのパノラミック
↓
R部を埋めて平面窓のみ
曲面ガラス使ってたのは大井工場だけ? >>252
モハ52006については、台枠流用のマニ72に復旧された可能性も否定はできない。
>>253
半流線型くらいならともかく、わざわざ端面が流線型の鉄くずを叩きなおして作るとは思えない。
上物を撤去して台枠だけにして流線型の端面の修正・・・
腐るほどある罹災した他のタネ車使う方がずっと楽。
>>253
継ぎ合わせをしたとすれば、ありうる話かもしれない。
あるいはモハ52006のほうを継ぎ足し材にするという方法とか。
>>254
鉄クズというほど破損はしてないように見えた(雑誌記事写真によれば)。
台枠を利用して、というのは当時盛んに行われた工事だったので、
運転台部分を別車輌から継ぐ程度のことは普通に行われたのではとも思う。
マニ72にしても、半流車輌は全て切妻に直したのだし。
モハ52006の場合、おそらくモハ43等と同様の台枠構造だろうが、
全溶接台枠かもしれない。そうすると加工はリベット組み立て台枠より大変かも。 >>256
52006は広窓だぜ?車体をそのまま転用したらその面影は改造車両に反映されるし、わざわざ上物撤去して流線型の台枠切り継ぎして・・・
半流の切妻化とは訳が違う。
>>256
ツッコミどころ満載乙。さてどこから突っ込むか。
>>255は台枠のみを利用し、マニ72として復旧する前提で書いている。
70系客車の場合は、もともとが致命的に車体焼損の車輌が多かったので、
側板は新製したり、切り接ぎによって再生している例が多い。
モハ52006の鋼体の一部が利用されたとしても、
おそらく台枠まででそこから上は新製だろう。
軽量構造とはわけが違うので、窓柱を撤去しても、台枠のみでたわんでしまう
ということはない(爆弾で変形しているのは別だが、それでも復旧例はある。
相鉄のモハ3004や伊豆箱根の復旧車は車体が垂れ下がっていた)。 話しぶったぎるが、クモハ54004はあの中途半端な改悪を晩年の姿に戻すべきだな。 クモハ54004って?
クモハ52004の間違いだと思うけど、今回の鉄道博物館入りに際して、かなり念入りに登場時の
姿に復元工事を実施してますよ。 >>257
仮に、戦災復旧のうわさがあるマニ34→マニ30Tへの台枠流用だったら超珍車だな 少なくとも乗務員扉撤去、ベンチレーター交換、客用扉交換はされてたな
もしかすると吹田の流電よりも高いレベルで復元されているかも知れない
吹田の方は客用扉はそのままだったし >>261
クモヤ90→モハ63
の例だと、改造いい線行ってたのに運番表示機の位置間違いがあったから、
大チョンボがあるんじゃないかと心配。 そう言えば、クモハ12041は、もう博物館に移送されたんでしょうか? >>249
昭和28年6月1日の称号規程改正で、各形式とも001もしくは枝番の1位1からの付番が、000もしくは枝番の1位0からの付番に変更された
たとえばモハ80は、昭和25年〜30年の80001〜80117に続いて、31年の200番台は80200から、32年の300番台は80300からの付番になった
>>249はなんか勘違いでもしたのか、1形式1両とかまったく関係ない
現場では53000を「ゴサンの丁度」などと呼んでいた 旧型国電(末期製造の一部を除く)は、奇数車と偶数車があるからね。
模型で再現しようとなると、けっこうこれが大事。
たとえば、南武線のクモハ73、クハ79。基本4両と増結2両とでは、奇数と偶数がクモハとクハで逆が多い。
考えて購入(または作製)しないと、大変なことになる。
さらに、南武線と青梅・五日市線とでも違う。
忠実に再現しようとなると、更新扉の有無、ニ段か三段か・・・・。大変ことになってしまう。
ほんとうに旧型国電は奥が深い。
クモハユニ64000、クモハ53000。飯田線が懐かしい。
当時は知識がなかったから、000と001の意味が分からなかった。
南武線は、検査代行で末期までクモハ11、クハ16がときどき本線を走ってましたね。
よく撮影しました。
稲城長沼では、増結2両の連結・解放。最終的には、6両通しで立川まで入りましたが。
バラエイティ豊かな73系と相まって、ED16、EF10・11・13・15と貨物も飽きない路線でした。 >>262
モハ52のミスらしいミスは扉の窓枠をクリームに塗ってないところかな
(ベンチレータとドア復元後の52004画像と竣工時の写真を比較した限り) >>264
前から疑問だったんだけど
その改番で偶数奇数が入れ替わってしまうよね
偶数床下で奇数番号とかになったん? >>257
で、結局52006は流線型部分を切り継ぎ、又は切り捨てたんけ? 改造されずに廃車された?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%8452%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A おそらく骨材の一部が、他車の復旧や補修のための
継ぎ足し材になった程度ではないか? 52004が美しく復元されど
流電現役を知らぬ自分は
53007の姿を瞼の裏に映し
心の中で涙するかも
最後の静ママ車は唯の一輌も残らず
思い出の中にのみ生きる
何でも保存、保存と騒ぐ昨今は
良い時代なのか
薄っぺらな時代なのか 瀬戸内海の小島に疎開保存してある
なんて都市伝説もあったけれど 保存促進したいなら、スポンサーになるのが一番
金出さずに口だけ出しても前には進まない
まあ、ナショナルトラスト出資などがスポンサーといえるかどうかは別にして、あれもひとつの行き方ではあるだろう
それさえやらないんだったら、成り行きまかせにしかならないのが現実
そんな奴がたとえば、単純に平面的にしかモノを見ずに東海と東日本を比べて、東日本を批判しても、その資格すらない人間のエゴにしか見えない
また、なんでもかんでも保存と言い出せばきりがないのだが、逆に言えばそれを実現させるのに充分な投資ができるなら、保存可能車両は一気に増える
ビタ一文出さない奴の生意気なエゴ発言多すぎ
保存保存とわめくだけなら馬鹿にだってできる
どうやったらもっと保存を実現・促進できるのか、資金面や保管の問題も含めて考えないといけない >>276
何わめいているのかしらないが今残っているものの保存を促進しようなんてここでは誰も
言っていない。
別に個人が費用を負担している訳でもないのに現存している車両と以下に挙げる車両と比
較して、以下の車両が全て解体されたことを納得できるのか?
53007、53008、43015、53000
53001、47009、47069、64000
私財など投じなくても、電車王国日本の文化遺産としてどれか一両ぐらい残っていてもお
かしくない価値があったと思うが。
1983年という時代が悪かったという言い方は一理あると思う。 >>277
過去に解体された車両に納得できないと言う輩と、今残っているものの保存を促進しようと言う「だけ」の連中は同根だろw
過去の処分にに納得できないというなら、同じ轍を踏まないためにどうすればよいのかと言う話になるのは当然だろw
だから>>276の言い分のほうが筋が通っている。
>>277の「1983年という時代が悪かった」と言うのは単なる言い訳だよ。
こんな理屈が通るのなら「2010年と言う時代が悪かった」「2011年と言う時代が悪かった」・・・
永遠に言い訳できるなw
どう悪かったのか検証すらしてないんだから。 >>276-277
保存を云々したいだけなら専用スレ立ててそっちでやれよ
じゃまなんだよ 最後の静ママ車も軽く見られたもんだな。
あの価値を共有できた人たちのフィルムと思い出の中にのみ生きる、でよかったのかも。
しかし58年8月23日は53007と53008で編成組んで欲しかった。
涙雨の一日だったが、中部天竜に着いた頃には雨もあがっていたっけ。
53007と53008で編成組んだことってあったのかな。 >>282
あんな厚化粧の婆が良いとは省電も舐められたもんだ
原型が最も美しい >>283
車輌自体の価値の問題でしょ。
車輌さえ残っていれば復元なり何なりできた。
解体されてしまったら復元もなにも、元も子もない。
デビュー50年経った国鉄(←省電)初の20m車も現存してたのに。
それとも昭和50年代に原型のまま走ってた旧国があったのか? >>283
女は若くて綺麗なほうが良いというのと同じくらい薄っぺらいなw
車体に刻まれた年輪ともいうべき経年変化に、人生を重ねてその歩んだ歴史を感じ取るもんなんだがな。
人に感動や感慨をもたらすのは美しさだけではない。
だからと言って保存しろとは思わんが。 >>282
43040・43041時代なら4連の両端というかたちであっただろう
俺は53008の相棒の47009の方が好きだったけど
なにげにリベットが多くて味のある車両だった 除籍しようが形があれば資産だものな。
マル検から隠し財産といわれるのは避けなきゃならんし。
それでも蒸機と電機・電車との扱いに差が大きすぎた。
湘南2枚窓タイプの全滅は失策だと思う。 まあ今更言ってもしょうがないのは確かなわけで
俺は精巧なレプリカが出るのを待ってるわ
東武のゴーナナや東海のモハ63を復元出来る技術があるんだから、
その気になれば凄く良いものが作れるんじゃないか、と期待してる
「ニセモノ」と言われればそれでお終いだけど、実車の雰囲気は十分に感じられる訳で、
俺もお金が余ってたらモハ32辺りを作ってみたいんだけどなあ >>286
ノーシルノーヘッダー広窓の53008と当時の旧国のなかでもクラシカルな32系の車体をもった47009の対比が面
白かった。
あねペアは名コンビだったね。
真ん中にドアを開けられた元二扉車とか元サハのクハとか一両一両個性的でそれぞれが魅力的だった。53007と5
3008の違いですら53008が惜しいというよりバリエーションが多くて面白味を与えていると思えた。
厚化粧だとか原型が最高だとかあまり思わなかったなあ。コアな人はそういう目で見ていたの? >>288
その気=お金
そりゃ作ろうと思えば作れるけれど失われた技術も多い
もはやJRは木工や鋳造職場を持ってないし
大和ミュージアムで戦艦大和の大型模型作った時に
木製甲板を張れる職人が高齢の方がわずかしか残ってなくてギリギリだった
なんて話もあるくらいで とはいえ今は逆に家屋建築技術を車両に生かしてるでしょ。
ゆふいんのもりとか九州特急なんか。
デコレーション改造でなく、復刻製造自体は可能だと思う。
問題は量産たりえないことかと。 そのあたりを言い出すと、リベットを鋳造し打つというあたりから困難という話がある。
鉄道博物館でオハ31を修復するのに、その点で苦労したという話を聞いたことがある。 >>292
リベットも旋削で作ったのをレジンで複製して接着、なんてなるかもね
少なくとも構体の接合自体は溶接になっちまうものな クハ47の0番台は、いいね。
Hゴムじゃないやつが最高でした。
飯田線よりも、身延線の方が馴染みがあったかと思う。
サハ48、サハ45もよかった。
2ドア、狭窓、リベットがんがんが好き。 >>292
鋳造じゃ脆くてリベットにはならないよ。
転造だろ。 >>289
俺も原型より厚化粧の末期の方がいいわ
外板の歪や塗装のはがれ、傷や汚れなどその車両が生きてきた歴史が感じられたからね
だから当時は関心のなかった新性能車も今見れば使い込まれてきた様子がわかって親しみ
が持てる。
もちろん、なじみがあるということも大きいけど >>293
20年ほど前に復元した阪急の900は、向上に残っていたリベット打ち機を使ってリベットを打ち直したが、
車体裾の部分には、床下機器が着いていて打ち直す事が出来なかった為、タップを切ってネジを入れ、
ネジ穴はパテで埋めたとの事。
>>295
いまは接合自体は溶接だからリベットはあくまで飾り
だから樹脂でも何でもおk まんこまんこーまんこまんこまんこーぉ
まんこまんこーまんこまんこまんこぉーおーぉー 戦前の大鉄関西急電には車体側面中央に横幕が設定されていたようですね。
同じ時期の東鉄横須賀線等にもあったのでしょうか?
戦前の旧型国電の写真が載っている本を見てから質問しよう。
>大鉄関西急電には車体側面中央に横幕が設定されていたようですね
という事実を知っているなら、同時期の他形式写真を見たら聞くまでも無いでしょ?
>>439
そりゃあやっぱりアナル見せは基本でしょ
公開ストリップさせて衆人に晒すなきゃな >>302
東鉄の50系には横幕らしき小窓が車体中央にあるよ。 >>303
写真は探せばいくつか出てくるけど、
肝心の方向幕について書かれた文献が見当たらないんだよねー
字幕の内容
誰がどう操作していたのか?(まさか乗務員室からの遠隔操作じゃないですよね)
いつからいつまで使ってたのか?
これらの事を知りたい >>307
身延線で晩年活躍したクモハ51800には、
方向幕の窓と機械が残っていたようだ。
ピクに載っている写真を見る限り、ハンドルが付いているので
手動式のものと思われる。
するとおそらく終点に着くと、車掌さんが1輌ずつ回して歩いたのでは?
と思われるけれど、さすがに戦前派の親に聞いてもわからない。 >>307
プレスの「大阪の省電」に戦前の車内写真で側面方向幕ハンドルが写っているものがあるから折り返し時に乗務員が回していたはずだよ。
運転士か車掌かは分からないけど。
当時の関西では、阪神、大軌 参急、南海で側面幕を使用していたから省電の側面方向幕装備というのが特に珍しい物じゃないしね。 >>308
編成も短かったし
サボ換えるのは普通なんだからハンドルまわすくらい、てことかと 吹田で復元して保存してるモハ52って方向幕も復元してあったような... ソースを覚えてないから信憑性は薄いかも知れないけど、
「1両1両手で回して変えていた」ってのを何かの本で見た気がする
鉄道ファン誌だったっけかな・・・ 厨坊の頃、御殿場線国府津→松田の区間で運転台添乗させてもらった。
その車両の前半分は荷物車代用だったよ。 吹田工場の公開で、流電の車内に入れたようですね。
どなたか方向幕の裏側(室内側)を写真に収めた方いらっしゃいませんかね?
または撮影したブログのアドレスでもいいので、ここに貼ってくださいな。 >>321
ありがとうございます
室内側にもガラス入れて表示内容の確認できたんですね。
操作時は扉開けてハンドルか何かを回すから、ガラスはなくてもいいような気もしますが。 >>322
つーかこの方向幕窓は忠実な復元じゃないかもしれん。
戦前の43系の車内写真(大阪の省電vol.1)には客室内にハンドル部が露出しているのが確認できるからね。
一応方向幕らしきものを復元しましたって程度じゃないのか? 身延線のクモハ51800に残っていた方向幕は、
機械も残っていたのか、ハンドルが室内に露出していた。
割と最近まであったバスのものの感じに似てはいたけど。 >>324
昔の図面も無いし適当にやっつけた、というのもよくあるパターン
学芸員がいて大量の資料を持ってる所でもそんな感じだから言わずもがな >>327
これは貴重なものを
490の営業運転がカラーで見られるとは思わなんだ >>327
宮電の社形のカラー画像なんてはじめてみた・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています