思い出の定山渓鉄道
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札幌市中心部と定山渓温泉郷を結んでいた懐かしの定山渓鉄道。
右側運転台の電車、国鉄乗り入れ用気動車、湘南スタイルのスマートな電気機関車など、個性豊かな車両が揃っていた定山渓鉄道の思い出や廃線跡のお話などをお願いします。 >>92
真駒内くらいまで複線電化。
電化された学園都市線と直通運転してたかも。 市電路線網と定鉄が共に残っていたらLRT化が
取り沙汰されていた鴨 地下鉄南北線を旧定鉄沿いに延伸する気はないのかね? >>92-93
札幌〜東札幌はどうなるだろうか?
国鉄千歳線別線複線化の際に旧線買って電化?
そして国鉄乗入れのために交直両用車両導入? >>96
旧型及びゲロ電淘汰のために思い切って交流転換…
仙山線かっ! 札幌駅乗り入れを意識するなら交流化も考える必要ありだっただろうな。
南北線がゴムに拘らなければ、平岸〜大通〜新琴似間を交通局、平岸以南を定鉄、新琴似以北を国鉄という運営もあったかも。
それでもオリンピック輸送出来ただろうし。 >98
以前、他刷れで聞いたときも回答なかったんだけど、札幌市交通局が
独自のゴムタイヤに固執した理由が分からないんだよねぇ、未だに。
まさか、「見栄」だけってわけじゃないよね?
1067mm架空線にしておけば定山渓・夕張鉄道・国鉄各線(ただし電車は交直流。
でもソウルの実例あるから非現実的ではない)との直通だって出来た。
予算ないときには、営団あたりから中古車買って誤魔化すことだってできる。
(そもそも量産品のふつーの電車と、特注品だらけのSSトラムじゃ値段も違うし) ○騒音防止
○今のシェルター部分は当初はシェルた−なしで建設して、
比較的雪に強いゴムタイヤ車両で運用すると言う予定もあった(くわえて郊外部は地下鉄じゃなくて高架にする予定だった)
○一部に急勾配がありゴムタイヤが望ましかった
△当時の国鉄は都市間輸送特化で、近郊及び市内の通勤通学用ではなく、相互乗り入れは全く問題外だった
△鉄軌道にすることによるコスト低下が重要視されていなかった >100
騒音・対雪あたり納得は出来るけど、決定打にはならないような。
やっぱり
「新しいもの好き・見栄」
「コスト意識の欠落」
がゴムタイヤ式を後押ししちゃったのかな……。
まぁそんな事情で導入されちゃった姫路モノレールとか
そんな事情に限りなく近そうな千葉モノレールとかあるから、
都市交通における合理的な判断というのは働きにくいんだろうねぇ。
三大都市圏にしか地下鉄がなかった時代に、
まだ一地方都市だった札幌に地下鉄を通す名分として
新交通的な要素が必要だった、といったようなことを
ずっと前だれかが書いてたよ。
霊園前の辺りの急勾配は鉄軌道じゃ無理目なほどの急勾配だから
それは決定打になるね
それから都心部を除いた郊外は高架の予定だったから
地下→高架部分は同様の急勾配になる予定だった
なのでゴムタイヤ導入だよ 結局、アイデアマン・大刀豊局長を始めとする交通局技術陣が
オリンピックの緊急性を背景に技術的暴走しちゃったのが実情ではなかろうか。 でも乗り心地はいいから○って感じ? 初めて乗ったときには感動すら覚えた。>ゴムタイヤ 当時の太刀交通局長は「法令が無ければ無いで、サッサと造ればいい。造っちまえば
法令など後からついてくる」が持論の人だったからね。 当時の地方私鉄ではすばらしい車輌をそろえ、有名な温泉をバックに抱えていたのに、
なくなって残念です。今も存在していればと思います。
ところで、当時の車輌の内装はどんな感じだったのでしょうか?座席の色とか内張とか、
北海道ゆえに暖色系とか。 >107
モロやクロは普通にニス塗だったと思う。写真の出処覚えてないスマソ。
他の電車もニス塗りだったんじゃないか。あの時代じゃ。
十和田観光にいった湘南顔のは(1207+1208)
十和田観光だと灰色塗装+緑のモケットだった。ただし
十和田観光で変更された可能性は当然にあるけど。
ご教示ありがとうございました。外観の写真は多くても内装はよくわかりませんよね。
つくづく現存していればどうなっていたかと思います。
星良助翁がほぼすべて撮り残してくれている。
著者に分散しているから、全部見るには著者に諭吉二枚ほど必要。
レイルno21、22・北線路
北国の汽笛1〜4
鉄道ピクトリアル232
位、買い集めて損なし。
どれも案外入手出来る。
キハ7000の転クロはスゲェの感嘆でておかしくない。
北国の汽笛からオススメ。
北海道私鉄に銭払った以上に深く魅せられること間違いなし?
遅レスすまんが>>99-102について
表向きの理由は>>100の通り
んで>>102の話は、
当時の運輸省が「地下鉄は三大都市圏以外は不要」と言って、頑として補助金をつけてくれなかったというもの。
一方、当時はモノレールやらの新交通システムが今より有望視されていたということもあり、五輪のからみもあって、そちらの枠なら補助金がつきそうな情勢だったという。
んで、「これは一部地下も走る新交通システム」と言い張るために、地上区間を設けることにした。もちろん、五輪までの工期日程的にも、地上区間を設けたほうが得策という事情もあったが。
この説はただの噂話なんで、残念ながらソースはない。当時の予算書でも見て補助金の費目を調べれば少しは分かるかも。
しかし、仮にこれが事実としても、東西線、東豊線の頃は事情が変わっているのだから、鉄軌道で作るべきだったわな。
この辺になると市の意地だけではなく、事実上一社独占の車両メーカーやタイヤメーカーとの癒着を疑われても仕方ないと思う。
いいんじゃね。定山渓の最後にはついてまわる影だし。
札幌市交通局のスレだと今の地下鉄のこととか、市電話とかで
この種の話題は埋もれると思うぞ。 >>96-98
国鉄が>>57のように思っていたとしたら、地下鉄直通を気に手を切るかもな。
車両面を考えても、定鉄・地下鉄(現行5000系基準)の18m直流規格にわざわざ合わせてくれるとも思わんし。 時系列じ考えてみると面白いのが、
東洋精糖事情〜五島慶太死去〜東洋精糖撤退〜伊豆急開業〜くろがね自動車撤退〜定鉄廃止
の順番であること。
実は東急グループは伊豆急と定鉄の間で経営危機になっている。
そのため、五島昇の努力で再建を目指し、瀬島龍三などの大物に相談役や非常勤役員を依頼して、銀行からの人材注入を避けた歴史がある。
定鉄の開業に際して、当時の大臣は五島慶太であり、テープカットをしている事実がある。
慶太の内心を考え、鉄道を継続していた向きが大きい。
また、東亜国以内航空結成目前にして、大きな資金を調達する必要があった東急グループは、
経営バックボーンが変わり、北海道東急グループを拡大継承したものの、資金を北海道内で回し、
事実上本体から金銭的な流れを切ることが必要であると考えたのが五島昇であると言われている。
そこで考えられたのが、定鉄を北海道東急グループの幹事会社として資金力を持たせ、成長分野の不動産中心に
資本中心化をさせる案があったらしい。
そのため、定鉄の鉄道廃止を取引条件に、五輪関係でつぎ込まれる資金を取り囲むことでの
北海道東急資金独立確保が計画されたと言う説がある。
五島が主宰したテンテン会のメンバーとも歩調をあわせたとも噂される。
テンテン会メンバーは、昭和40年代前半、瀬島の勧めで起きた政財界の青年集団で、
警視庁総監秦野章や、鹿島の石川六郎、廃止を決めたときの運輸大臣中曽根康弘が居るなど、何らかのにおいがする。
その直前に、財界の大物とも懇意になっていると言うか、住友銀行系慶応閥との和解をしている。
あまりに出来すぎていると言うか・・・。
私見だが、定鉄廃止は、上手に五輪資金の一部が東急グループに流れるように警察政治金融経済界がやんわりとタッグを組んだ結果ではないかと思うのだが・・・。
まぁ、確かに、定鉄へのいきなり7箇所立体交差化のほかにも、昭和30年代の警察は札幌市電親子電車に対しても「交差点通過時間がかかりすぎる」というイチャモンにちかい勧告をしていたりして、
訳の判らない交通取締りをしているのだけれども。 ちなみにテンテン会の結成の発端となったキャピトル東急開業が1963年であり、
その1010号室が会合の場だった。というのは記録に残っている。
昭和38年から定鉄廃止決定の昭和42年までに、秦野と中曽根と懇意にあり、
不動産開発&建設を拡大の種に伸びて、更に真駒内アイスアリーナなどの五輪施設を後に建設する鹿島建設の石川六郎がいるというのは
あまりにも出来過ぎではないかと。
結局、鉄道の規格や運輸成績もろもろなど関係なく、そういった人脈から定鉄は廃止になったのではないかと推測している。 続けると、
昭和40年代中半から後半にかけて、
秦野は政治家への路を進み始め、石川は五輪建設の大きなものを手がけたことを切欠にメガゼネコンの地位を確立、
東急は北海道に定鉄を中心とした不動産と観光ネットワークを確立、中曽根はキャリアを重ねて田中角栄の次席を狙う基礎派閥の開始、
着実に成果をものにしている。
テンテン会は15人位居たらしいが、ほかにもそういった上手にカルマを伸ばしたものが多い。
ちなみに小佐野賢治や田中角栄はテンテン会には入っていないので、また別の五島人脈であったようだね。
(どちらかというと慶太が昇に与えた人脈のようだ) >116-118
なるほどね。
鵜呑みにするのは危険な類な情報だけど、面白い話だと思う。
長文書き込み感謝。 散発だが、五島慶太と五島昇は親子2代に渡って、北海道の勢力拡大に尽力したが、手法にいささかの違いが見られる。
慶太は定鉄を幹として、夕鉄を取り込み夕張定山渓千歳をつなぐ札幌急行電鉄構想を持っていたのは有名だが、
昇は東亜国内航空樹立(昭和40年代の第一次JAL併合を回避成功している)、そして観光の足回りにはバスであると見ていた節が多い。
実際のことらしいが、慶太の最初の危篤の報を受け取ったのは、確か腹心の田中均とともに北見バスと東亜航空買収を手がけていた北見で一報を聞きつけ、
北見から東京に帰った記述が見られる。
どうも東亜国内航空をつくるには、北見の有力者の味方が必要であったらしく、有力者が首長選挙での当選手土産として華を持たせるべく、五島昇は大学設立資金を提供したらしい。
(それが国公立の北見工業大学なのか、現在の北海商科大学なのかおぼろげ)
札幌急行電鉄構想は昇の時代になり姿を消していること、その後はバス事業を定鉄資金で積極的に購入しているので、
鉄道>バスが
見えてくる気はする。
(しかも観光路線以外の路線バスには余り手を出していない、むしろ生活重視路線は手放している)
ちなみに有名な話だが、北海道中央バスを慶太の時代に買収しかけているが、資金は東急、使った放ち駒は小佐野賢治と北交ハイヤーの柴野初代社長だが、
両者あわせて51%まで買い進めたものの、柴野の裏切りで売り払われてしまい、頓挫したようだ。
慶太はむしろその後は北海道・東北のバスについて小佐野に斡旋することはあっても自らでは進めていない。
確かに私見・妄想の中だけであるけど、点と点はつじつまが合うことが多いのが楽しい部分。
昭和38年に2300型電車を東急車両で作らせているが「例」の構造。
東急車輛に修行に長く居た昇が、そのような極端な方針の車両のことを知らないとは思えない。
実際、伊豆急電車については色について細かく意見している。
(たかが定鉄通勤電車に熟考したとも思えないけれども)
そのころから長く営業しないつもりで居たんじゃないだろうか? 定鉄の車、廃止時には長野にEL2両、十和田観光に1200が2両売れたのみ
でしたが、昭和32年、2300に機器を譲って廃車になったモハ100の車体は一両が旭川電気軌道に
行きデハ501となり、もう一両は弘南鉄道に行きモハ2210になった。さらに弘南がS36年、1500v昇圧に伴って
2210は日立電鉄に譲渡され、昭和54年まで活躍しました。短命車が多かった定山渓で思わぬ長命車がいました。
日立の廃車直後の現車を実見しましたが、「よくぞここまで」といいたくなるようなボロボロでした。
前硬軟
が後年意7のあ
山渓 どちらも更新を担当した日本車両で処分扱いのものを再生したものですねぇ。
処分したものが長生きしたという稀有な例で。 改造前
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/70/910034c3463dd4d190c7433404338607.jpg
改造後
ttp://1003.amigasa.jp/1003%20HITACHI%20(12).jpg
ttp://homepage3.nifty.com/m_horikoshi/3_2Sitetu/_Rs_02_04_asahikawa_011-22_yojyou.JPG
特に101は定鉄と日立で比較すると面白いですねぇ。 >>121
ついでに言うなら、転籍車だけで追うと、
DD4501が定鉄(豊羽)〜北海道拓殖〜旭川通運
寿都に8105と8108
藤田炭鉱に8104
C12が一部部品だけだけれどもいずこかに持っていかれたとか。 >>123
日立の車両なら、鉄コレ第1弾の改造で作れそうな感じですね。 鉄コレで定山渓ネタは何時かくるのかな……。
1200の定山渓と十和田観光仕様両方とか。
あとはモロとゲロ電。
これだけじゃ足りないから北海道の私鉄電車という括りにして
旭川電軌の1001も。 基本的に日本車両のものがとても多い (というか図面集のがことごとく網羅されてきた) ので、
可能性が無いわけではなさそうなんだけど、
富山地鉄特急と遠鉄30とのバトルかw
ゲロ電より1200のほうが「若干」可能性が高そうだ。 定山渓の某温泉宿の浴室入口に現役時代の定山渓駅の写真が展示されており、写ってた車両がキハ56・27に見えた。
多客期には国鉄の車両乗り入れてたの? >129
色で見間違えてない? 末期は急行型気動車に近い配色だったから。
定山渓のキハ7000/7500は濃赤に白帯だったけど。
国鉄車乗り入れは初耳。 国鉄の客車が、定鉄のELに曳かれているのは豊平で見た。 >>130
その写真を携帯で撮影してたの再確認したら、あの運転台窓と側面窓配置は紛れもなくキハ56系列だった。
ちなみに時代は昭和38年頃らしい。 定鉄線内でのキハ56の写真、自分も見たことあるよ。
確かレイルマガジンから出てる「消えた轍1」だったかな、それに載ってた。 終戦ちょっと前か直後に樺太にいた傷痍軍人輸送で、
稚内発定山渓行という汽車が出たことがあると聞いたことがある。
>>134
真駒内南町3丁目バス停(滝野方向)付近でなかったか。 >>133
下藤野駅を通過する3両編成のキハ56・キハ27の臨時列車という写真が
掲載されてますね。 >>93
そうなると他の札幌の地下鉄にも影響が出て、東西線と東豊線も通常鉄道になってた。
もし札幌地下鉄がゴムタイヤではなく普通レール式だったら、建設費は安くなってて、札幌の財政は少しは浮いていた。
定鉄は存続、高架化、複線化されてシェルター化、南北線は南平岸までで、そこから定山渓まで乗り入れ、現在は地下鉄直通の特急列車もある
札沼線は医療大学まで電化され、南北線は麻生から札沼線に乗り入れて石狩当別まで乗り入れて、一部は北海道医療大学まで
東西線は手稲辺りから函館本線に乗り入れて小樽まで乗り入れ
菊水辺りで旧千歳線跡地から高架化、シェルター化され、厚別区で分岐して、上野幌から千歳線新千歳空港、一部苫小牧まで乗り入れ、地下鉄経由の快速エアポートも存在する。
分岐線は森林公園から函館本線に乗り入れて岩見沢まで乗り入れ
東豊線は経済関係でリニア地下鉄。
あいの里公園を起点にして、豊平公園から違うルートになり、羊ヶ丘通りを走り、札幌ドームや美しが丘を経由して、大曲のアウトレットパークまで。 JNMAでキハ7000と7500、モハ800、1000、1100、クハ1010、1110発売されるらしい。 >138
前も話でてたけど、やっぱり札幌市のあの交通部長がA級戦犯か……。
当時は定鉄も札沼線も、見向きもされなかったんだね。
非電化単線だった筑肥線の活用を、昭和40年代から計画していた福岡とは対照的。 まあ正直なところ、地下鉄が普通鉄道規格だったとしても
定鉄との乗り入れは実施されてなかっただろうけどね。
想定される輸送量の段差があっただろうし、結果としては
福岡の貝塚みたいな分断駅がどこかに出来ただけかと。 真夏のゲロ電に一度乗ってみたかった。
せめて乗った人の話し聞きたい。 >>143
今なら秩父鉄道モハ1100で同様の体験ができる。
真夏なのに窓が閉まっている車両が多く、車内温度は41度位。 名鉄のモ600はかなりゲロ電に近かったぞ。
開く窓がかなり少ない上、運転台とその周辺は構造上完全に温室状態になる。
おまけに沿線の暑さがガチだったし。
新関行きの電車に乗ってたら、競輪場前ですれ違った対向電車の運転士が
「さっき50度超えたぞ…」と汗ダラダラ垂らしながらこぼしてたの思い出した。
モ870も似たような状況だった。 >>29
遅レスだけど田井自動車って根室拓殖の2以外にも鉄道車両手がけていたのね。
十勝清水だかどっかの日本甜菜糖の移動機も作ってるんだね。
調べれば他にも小物とか保線車両とかありそう。 >>121
モ100が機器を譲ったのはモ2100
モ2300に機器を譲ったのはモ201と301
ちなみに金属キットなら
銘ワークスからモ100
キッチンからモ801、モ802、モ1001+ク1011、モロ1101+クロ1111、モ2200
マスターピースからED500タイプ
あと名前忘れたけどどっかから十和田1207が出てる
鉄コレ13弾が北海道祭りになりそうだったから期待したけど残念な結果にorz 鉄コレ13弾、定山渓の気動車も出して欲しかったよな。 定鉄が存在していたら、5000系や7000系が来てたかな。 東西線6000って窓割り東急7000と似てるから
(ってか南北線2000もある意味似てる)
乗り入れる事になってたら7000投入されたかもな 東急7000の車体に、足回りに札幌5000とか素敵過ぎる もし札幌市営地下鉄が普通の地下鉄で、定鉄と相互直通運転してたら、
定鉄沿線は札幌のベッドタウン化が進み、温泉電車から都市通勤路線に
変貌した神戸電鉄有馬線のようになってただろう。
ひょっとしたら今頃は準大手の一角を占めてたかもしれない。
そういや神鉄も少し前まで準大手だったしな。 >>153 いやーそれは 馬鹿な役人しかしない希望的観測じゃないの?
札幌郊外の人口は当時より減ってないか?東京集中で。
俺的には、エネルギー革命(国内炭と外国炭の価格に差が無いとかも)が起きず
夕張と札幌急行電鉄が具現化していたほうが面白い事になっていたと思う。 でも定鉄残ってたら準大手に成れたかどうかはさておき
南区の人口はもっと多いと思うよ 真駒内〜定山渓だけでも残ってたら・・・
って、やっぱり無理か。 真駒内以南がキモだけど、以北も東札幌連絡線プラス千歳旧線貨物化残存区間とセットで
残したら多大な威力を発揮していたと思う。
札幌直通は難しいにしても、苗穂まで自社線で直通していたらそれだけで地下鉄南北線が
かなり楽できてると思う。
札幌出身の鉄も一般人も、酒の席で沿線の話になると口を揃えて「あれが残ってたら…」という話になる。
石山とか簾舞あたりは今の悲惨な道路事情から解放されたらもっと発展しているだろうし、
定山渓温泉もここまで寂れないで済んだと思う。 >>159
千歳空港駅開業に合わせて交流電化して、空港直通快速とか走らせればすごいことになってたような気がする >>159
完全地元在住だが
>今の悲惨な道路事情
今は逆に過剰なくらい道路が太くなったから、もう実質要らないよ。
藤野地域も人口暫減でスーパーでさえも閑古鳥だ。
バスは相変わらず交通弱者をキチンと細かくフォローしているし
いま、駅にまで歩くと言う状況ではないな。
石山は逆に道が良くなった昭和53年から急速に寂れた。
いまや老人ホームが17件もある姥捨て山だ。
それだけ交通事情が良くなっちゃったんだよ。
定山渓も寂れているのはホテルのワンパッケージ化がメインで、ホテル外に人がでなくなったからだよ。
あと、豊羽鉱山の閉山も大きい。
まぁ、勢いもって藤野に地下鉄があったらよかったけど、恐らく赤字の大量発生原因になる空気輸送だったと思う。 豊羽鉱山の掘削全盛、ダム建設全盛のときには工員が定山渓に数ヶ月数年滞在した。
その頃が近代定山渓のピーク。
特に女買いが商売として成立していた。
働く男の性欲処理が花盛りだったし。それが賑やかにしていたからね。
いま、定山渓に女郎が入るなんて聞かない。
恐らくいないんだと思う。
デリすらいないかも。 >>161
鉄道が無くなって道路しかないから整備されたんであって
鉄道残ってたら逆に道路貧弱なままだったかもね 伊予鉄森松線の話と似ているなあ。
あっちは鉄道を廃止して道路が太くなったから、街が栄えたという点が違うけど。 >>163
うんにゃ。
昭和44年の前から30年計画が既にあった。
かなり遅れているけど進んでいる。
逆に人口増加のポイントの藤野団地一体は、定鉄保証金が元金なので、
廃止ありきは当然であり。 豊羽鉱山…採れていたのはいま話題のレアアースですね… 埋蔵はまだ在るのだけど、地熱が高くなりすぎたのだよね。
国家的に露天掘りすれば 豊羽鉱山は、地熱の原因となっている温泉の水脈を変えない限り、
あれ以上採掘出来ないから無理。
内地の者で門外漢ですが、たった数日のレースのためだけに恵庭岳の原生林つぶしたり、
道警が年間200万近くが利用している鉄道に廃止勧告したり、当時はまさに狂気の時代だったのですね。
時代の犠牲になった定鉄、もっとも東急系列化したおかげで保証金がたんまり引き出せたわけだし。
五島の犠牲になった定鉄といったほうがいいのかもしれませんね。
浅野社長が率いていたらその前にとっくに倒れていたんだけどな。
過重投資で回収不能な残貨が積まれていて、
実は東急が肩入れしなかったら倒産になっていた。
決して黒字でもなかったからね。
その決算書が出て、地域の株主は一斉に五島に売ったんだよ。
売買仲介も北交ハイヤーの柴野だ。
北海道人が手回ししてんだよ。 恵庭岳は当時から批判があったよね
手塚治虫のブラックジャックに恵庭岳の乱開発を批判してた話がある
定鉄は真駒内以南については確かにその通りだけど
真駒内以北については地下鉄になってよかったと思うんだが 171です。ご指摘ありがとうございます。
たしかに、昭和30年代初めの定鉄の設備投資は路線規模からみても
異常といえるほど活発でしたね。
掘れば掘るほど売れた石炭、唯一の楽しみが週末羽をのばすこと。
その絶好の対象が定山渓温泉。
準急「たるまえ」が乗り入れるとは道南からも定山渓に行楽に来たわけですね
そのころは関東でも週末の小田急の箱根特急の指定券の入手難は社会問題
になるほどだったとか。
長電が特急の座席指定制をやめたのも、お客さんが乗りすぎて指定席持ってるのに座れない人が出たためだとか。
そんな時代だったのですね。
毎年一割以上のペースでお客さんが増えていたわけですから、積極的な投資もうなづけます。
それが、まさか約10年後に廃止になるとは思っても見なかったでしょうね。
写真見ても単行列車ほとんどないですものね。3連4連が当たり前。
間違いなく戦後の廃止私鉄の雄でした。再生の道はあったでしょうに。
その再生の道が、地下鉄に真駒内まで譲ることだったのかもしれない。
札幌は「雪に負けない交通」がほしかったのだから、地上鉄道との乗り入れなどもってのほかだったろうし。 再生の道は無いに等しかったでしょうねぇ。
札幌市の発展の代理処分となって消える運命にはあった。
確かにキロ当たりの乗員1000名だったかの規模で廃止された数少ない鉄道のひとつではありますが、
それが存続には結ばないKともある証明といえるでしょうね。
東急グループが買収案に積極的になっていったのは紛れもない事実。
それは代償案が桁外れであったことも事実。
実際廃止されてからの札幌の発展は見てのとおり。
また、南区の収縮も起きているのもまた事実。
南区だけの鉄道ではジリ貧であり。
法人960社しかなくなっている土地でもあるし、老人世帯が散漫かつ比率の高さから経済量も無い。
公営交通で美味しい中心部輸送が代置されればドル箱を失い勝てる見込みも無いでしょう。
たとえ澄川真駒内間が並行してもと言う意味で。
輸送量があったゆえに、更に大きな輸送機関に置き換えられたと見るべきかと。
時節の後押しも大きかったわけで。 そもそも、
廃止直前の頃は、既に札幌〜定山渓方面の輸送は、
豊平川左岸を走るバスが主流だったんじゃ? 左岸と言うのがどちら確定しているかわからないが、現在の7系統は昭和53年の開設だよ。
廃止時に札幌市営に概ね委譲した定鉄バス路線のうち、定鉄バス側に生存した8番系統と12番系統に新たに追加された久しぶりの系統だった。
旧7番系統は平岸駅を基点とした現在の豊平区内路線だった。
12系統ももともと真駒内で切れる路線ではなく、もっと北進する路線だった。
札幌駅に国道230号線を北上する8系統も今の半分程度の本数だった。
それで主流とは少し言いがたい。
興味深いですね…
定鉄バスの路線の変遷に詳しい資料とかないですか 定鉄バスが昭和47年に市営買取を獲得するまでに、市営譲渡したのは9路線バス34台79名の職員と言う資料が散漫だが書き残されている。
そのときに現在の東光ストア自衛隊前店とドエル真駒内の敷地にあった車庫がボーリング場転換されているらしい。
しかし、昭和51年にはボーリング場をスーパー業態に転換。
どれも正式広報ではなく研究家による資料と、自分の目視確認事項、及び札幌東急ストア時代の資料であるので正確ではないかも知れぬ。
9路線と言うのに注目したい。
12系統までは現存数の上であるのに、9系統では実は数が合わない。
8番系統は9+1以上に内包するので、鉄道時代からあった路線であると仮定しておく。
実際、モノクロ写真には8の文字のあるバスと鉄道が石山陸橋でランデブーしている写真がある。
1系統は伝え聞いたところで、真駒内〜平岸〜豊平〜苗穂駅の鉄道補完路線で、市営になって平成年間まで生きていたことは知られている。
ただ、これも伝え聞いたところであるし、実際定山渓鉄道真駒内は今の地下鉄真駒内の場所ではないし、要衝であったかは?だと思う。
ここ真駒内で1系統と12系統が乗換えをして、2系統で鉄道並行路線だったのかと言うと少し疑問は残る。
少し手前にバス車庫があるのだから、定山渓鉄道慈恵学園前(東光自衛隊前斜向の消防署が当時の駅だったようだ。)で、接続だったのかもしれない。
>>178
8系統、当時30分間隔だったって何かで読んだことがあるけど、違うのかなあ・・・。
鉄道が18往復(約1時間ヘッド)だったわけだし。 >>180
ありましたねぇ。南91澄川苗穂線。
市営バス時代には、珍しく距離の長い路線だったので一日乗車券で
遊ぶときにはよく狙って乗りました。 >>182
定鉄通学だった父曰く
「バスは時間が読めない」
と言うことではあったようだ。
まぁそれはそうとしても昭和38年当時では12系統が無く、通貫はさせていないからこと札幌駅直通する需要以外は分散していたと思われるが。
時間的には、当時の繁華街「まるい前」までは豊平乗り換え市電とあまり変わらなかったそうだ。
それだけ石山通の道事情も悪かったということでしょうねぇ。
すくなくとも、自分は細くくねくねした石山通を知っているので、確かに均衡速度は遅かった。 内地モンですが、教えてください。廃止直前でも年間150万人くらいの輸送量があった定鉄、
これだけの人を運んでいたのによくバス化できましたね。
混乱しなかったのですか?マア、それが許された時代だったんでしょうね。
ん?
定鉄は知らない世代だけど、20年前高校時代バス通学していたが、
完全満員で積み残しはざらだった。
職についてからも最終バスは寿司詰め。
ただ、最近はそういう光景が無く
殿様じょうてつが続行を出すようになるなど細かくことが出来るようになってきている。
沿線公共交通人口減少は相当みたいだ。 >>185
輸送量が多い区間は地下鉄になった訳でしょ。
必要なところは上位代替され、バスで十分な区間がバス化されただけでは? 230号沿線というと、ひとたび雪が降れば街まで2時間という印象が未だにあるのだが
最近どうなの? 問題は地下鉄が従来規格と互換性の全くない札幌市交通局の道楽的シロモノってこと。
市営地下鉄が1067mm架空線で、定山渓電鉄との相互乗り入れ
(一部車両は交直両用車で国鉄とも乗り入れ)
だったら、定山渓電鉄は「変容」はすれど「消滅」はせずに済んだのに。
輸送力の少ない区間は従来の電車や気動車(電化廃止も選択肢)でまかなって
輸送力の多い区間は地下鉄直通電車で賄う。
雪害対策のシェルターや地下化も少しづつ進めていったってよかったんだし。
余談だけど市営地下鉄が1067mm架空線20m規格なら
電車とか汎用性のある規格品(要は走ルンです)or中古車でもまかなえたんだよね。
SSトラムの罪は重いと思う。 >>153
札幌に移り住むまで神鉄有馬線の沿線に住んでたが阪神大震災の頃までは宅地開発が活発で電車も冷房化や新車投入なども活発で発展してたが平成不況と都心回避で(粟生線ほどではないが)かなりジリ貧だよ(>_<)
あと某超大手宗教系国家議員が近年までいたせいで4両中1両まるごとが雌車のせいでマイカーや特急バス(高速バス)に流れたのもあるが…
なので発展したとしても厳しいのでは? >189
それはありえない。
地下鉄は雪をシャットダウンすることも目的だったから地上鉄道との直通という発想は建設時には無かっただろう。
>191
ゴムタイヤと鉄軌条の優柔と雪対策は何ら関係ないと思うが。
鉄軌条でもシェルターの整備は可能だし。
問題なのは、建設というか計画時に全く既存鉄道網との直通を考えなかったことと、
独自規格によるコスト高を考えてなかったであろうということ。
まぁあの時代の「無茶苦茶さ」に今更突っ込みいれても仕方ないけど。
ただ、定山渓電鉄の地下鉄化されなかった区間は残ってても
今は存亡を問われるような状態になってたとは思う。
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