思い出の定山渓鉄道
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札幌市中心部と定山渓温泉郷を結んでいた懐かしの定山渓鉄道。
右側運転台の電車、国鉄乗り入れ用気動車、湘南スタイルのスマートな電気機関車など、個性豊かな車両が揃っていた定山渓鉄道の思い出や廃線跡のお話などをお願いします。 >>46
> 北海道中央バス
本社が小樽だけに金融関係と密接な関係を築いていたのかも 中央バスは、慶太がよくやっていた迂回買収で攻めていたよ。
鉄砲玉になったのは小佐野賢治と、北交ハイヤーの柴野。
いずれも27%を取得して、五島名義に書き換えて買収終了になるところまで行っていた。
小佐野との関係はすでに経済舎弟にあったので自然だけど、柴野はバス事業への色気もあったので東急に一時加担したってわけ。
ところが柴野の裏に慶太ありがばれてしまい、道内経済界の観光関係から突き上げを喰らい、北海道銀行が加担して「柴野よ、そのまま持った株を五島に譲れば、北交を潰したろか?」
ということになり、柴野はビビッて株を道銀に預け五島の元から逃げる。
逃げるっても函館に隠遁しただけだが、五島の部下の安田に見つかり、五島の前に引きつりだされる。
柴野は「俺の株ですよ、俺の株を誰に売ろうが関係がない」と突っぱねて、慶太を激昂させる。
すでに柴野は道銀に頼んで株を再びばら撒いたあとだったので慶太は歯軋りするしかなかったらしい。
ここは小佐野が「五島さん、あんたが今回は負けだ、もうあきらめるべき。だから俺の集めた株もいったん引き取ってくださいよ。その後はどうするか考えればいい」
と、諭して、諦める。
慶太は柴野に憎しみを覚えたが、周りから諭されて仲直りする。
北海道の進出第一回目はこうやって失敗したらしい。
第二回目は、北海道グランドホテル社主を見方につけて、じょうてつを浅野一族から奪取することに成功したんだけど、
交通・観光・不動産・流通の全面征服までは行かなかったらしい。
昭和40年代前半、今も盛業中の「クレードル興農」事件を東急が前面無償救済することで北海道に残っていた反感が薄れて改めて全面進出するまで待ったんだと。
読みたい人だけ読めばいいと思うのでつらつら書いた。 >>45
黒いことはしていなかったというか、する必要がなかったのだと思う。
父の慶太は逮捕収監されているが、戦時裁判だからよいか悪いかはわからない。
2代目の五島昇の周辺で逮捕起訴された経済人は大変多いが、
田中角栄、小佐野賢治が有名なほか、逮捕されていないが石川六郎も疑獄引責しているな。
経営は苦しかった時期もあったが、上3人とは成り立ちがよかったので、正攻法でやれば何とかなったのだろう。
あとは電鉄が無尽蔵の利益を生み続けるので、普通いろいろな失敗をしたら潰れるが、金は貸してもらえている。
銀行もバックに強く張り付いてくれていたのは大きいだろうな。
三越も親父が失敗したのは慶応閥を怒らせたことだが、五島はしっかり慶応閥と仲を分かち銀行は慶応閥中心に結びなおすなど、
正直何をやってもうまくいくようになっていた。
ほかの人間はなにかギリギリのことをしないと成功できないというものはあったんでしょうな。
慶太がいろいろ経済犯罪ぎりぎりのことをしていたのは確かだが、息子の昇は継承したら一気にその灰色部分をカットして鮮やかに事業を整頓したのも、
手が出しにくかったのではないかな?
ただ、そんなのは血筋のよさと時代のよさと、ブレーンのよさと、本人の世間的価値。
何から何までうまくいったからだろうな。
3代目になるはずだった五島哲に至っては、
昇の死後、昇の番頭抗争が起きて担いでもらえず、あほ扱いされて早々に失脚、さらに追い討ちで時代の責任おっかぶらされて追い出され、
2年前、名誉職の挨拶しに岐阜に行ったときに59歳でポックリ逝って死んじまった。 >>46
あと、中央バスは当時、労働組合を作らずに永い事経営している。
一方で東急グループは労働組合の過激派で有名。
当時の北海道政権は自民党。
過激派がこれ以上入られては、北海道の経済界全体が困るという話はあったようだ。
東急グループは一方では買い漁るまでは企業・労働者の敵だが、買収した後は間接的に労働組合極左運動の拡大になるんで、単純に保守派や企業から嫌われたというのがある。
中央バス、近隣企業に労働組合が作られたら困る勢力もいろいろ加担したようだ。 札幌東急ストアがじょうてつグループから,純粋に東急グループになってひさしいけど,今度はアークスに譲渡されるそうで。
札幌から東急ストアの名が消えるのも少々さびしいですね。 >>39
せめて札幌市が南北線を普通の鉄道(3ft6in)で造っていれば…。
豊平で定鉄と繋げれば定鉄の豊平以南は活かせたかもしれないし
さらに新琴似で札沼線と繋げれば…。
スレ違いゴメソ。 >>52
ただ、当時の札幌市が地下鉄に拘った理由って
「雪に影響されない交通機関」を作るってことだと思うんだ。
だから、地上を走る鉄道との乗り入れって概念は無かったと思う。札幌都市圏も小さかったし。 >>48 こういう話好きです。「有難う!!」
批判・煽りだけで知識、情報無い人の書込みは、つまらない。
この時期の札幌市電の東急車輛入札受注は、何気に北海道進出へのアドバル−ンかな。
>>51
それどころか、じょうてつゆかりの職員の師弟が札幌東急ストアには多く入社しており、
いまの幹部クラスの一部は「定山渓鉄道の運転手の息子」とかが複数いる。
それらが今退社を迫られるようなリストラに晒されてんだよな。
いろんな意味で東急の北海道は終わったのかもなぁ。
残っている会社のほうが少なくなった。
北海道の東急核企業だったのがじょうてつだけど、今、その目的がずいぶん失われて、ローカルバス会社でしかないもんな。
あ、せいぜいマンションデベロッパー? >>52
それいうなら、札急が果たされていればってことになるんじゃね?
慶太が5年長く生きたら実現しただろうな。
札幌市・・・板垣はそもそも真駒内と大通を結ぶ以外消極的だったようだ。
東西線はあまり進めたくなかったらしいな。
もちろん定山渓までの鉄道を引き取るつもりも一切なし。
オリンピック〜未来的交通機関というアピールが果たされれば良かったんだから。
藤野まで伸ばさなくて結果的に正解だしそのつもりも実はなかったようだ。
自民党市議会議員だった青木護が質問してその回答を得て落胆していた。
延長構想は地盤を継いだ堀川が当初運動を大きくしたけどすぐ萎んだ。
まったく歯牙にも掛けられてもらえなかったらしいな。 東急は、労務問題の左傾化に比較的寛容で財界の一部に嫌われた。という事だが、
その東急のオーナー 五島昇 と 国鉄分割民営化の急先鋒中曽根康弘 が、親友同士
というのは、興味深い。西武 堤 と交友関係といい包容力のある人物だな。
話をそらしてすまん。
定鉄廃止に向けての工作が、道内官民の一部団体の働きがあったとは、考えられないだろうか?
例えば、電化区間撤去の見返りで始まった デーゼルカー札幌駅1番線乗入れ枠の権利とか・・・
後年 そのままだと必ず国鉄としては、邪魔になった筈だ。 >>57
五島昇の人脈はあまりに広いことで有名だね。
その力をフルに生かして北海道と長野、パンパシフィック開発を邁進したといってもいい。
(バブル崩壊後に生きていたら相当晩節を汚した可能性が高いが・・・ある意味最高の時期に亡くなった)
左傾化した労組との関係ははっきりしない。
ただ、五島自ら労組に加盟し「反動経営陣の即時撤退」の横断幕を書かされる恥辱を味わっている。
(もちろん反動経営陣とは父慶太のこと)
押しかけた労組幹部の前で立ち小便したという豪快な話も残っている。
逸れ話はともかく
定鉄廃止は言うとおり、東急・道内官民すべての総意だったと思っている。
鉄道が死ぬというショッキングなことだが、政策的な面で廃止されたと見て間違いないのではないかな。
それで無いと、輸送密度1000アッパーで廃止された全国唯一の鉄道という理由が成り立たない。
札幌乗り入れの懸念もおそらく合っている。
並行路線ならともかく、乗り入れがあまりに短距離だし、電化近代化を進む国鉄にとって邪魔になることは明白だったと考えられる。
今も残る上田交通や静岡鉄道(離脱したけど)と似た利用価値以上があっただけに、廃止に突き進んだのは利害の一致以外何者でもないでしょうね。 発足したての警察予備隊に入隊した叔父は
真駒内のキャンプクロフォードに配置になった。
そこでは、在日米軍士官の英語による号令を
通訳に日本語に翻訳してもらいながら訓練を行っていたという。
今となっては真偽のほどはわからない。 2年前まで札幌に住んでいたので定山渓温泉はよく行きました。車を持っていな
いので、当然、バスで行くことになるのですが、バスは本数も多く、鉄道が残っ
ていたならより便利だなと思っていました。
定山渓温泉も札幌の奥座敷として栄えたかと思いますが、もし鉄道が残ってい
たとしたらやはり採算の面では難しいでしょうか? 石山に駅舎が残っているとか? もうないかな。
誰かがグーグルマップに印しつけてくれてたので
近くに寄ったら(いつになるやら)ハズレ覚悟で見に行ってみるか。 >>64
いいこと思いついた
全線地下にすればいい
俺って天才 いいこと思いついた
線路に屋根をかければいい
俺って天才 そういえば「札幌の地下鉄の高架区間では積雪時にはゴムタイヤに
チェーンを巻くんだよ」というネタに引っ掛かりそうになった
のを思い出した… >>61
小金湯になにかあったのでは?
豊平の構内でC121というカマが長い間入換えをしていたが、私はこれは国鉄C12の
トップナンバーだと思っていた。悪いことに苗穂には本物のC122がいたし、手宮
にはC126がいた。製造銘板に昭和18年とあっても、そのころ苗穂にたくさんいた
C11の改良型でからと考えていた。
ところが苗穂のC122の製造銘板を見て、何これということなった。昭和8年製造と
ある。それでもC122の銘板はオリジナルのやつではなく、金属回収で取り付けら
れた小型の銘板だったので、その付け替えの時に間違えたのかとも考えた。
C121が実は定鉄のナンバーだと気がついたのは、かなりあとになってからだった。 小金湯は路建設で木っ端微塵に何も無くなった。
地形すら跡形も無いよ。
今あるのか〜?
石山駅はともかく、一個手前の駅ホームだろ、あとミスマイに橋の土台。
真駒内から緑ヶ丘の堤、自動車トンネルになった石山陸橋トンネル、その先の堤の一部、
石山2条8丁目周辺の廃道、
北海道博物館にある豊平駅の看板、
平岸の「家が全部裏口向いている道路」
真駒内駅駅前商店跡地(タイヤセンター)
慈恵学園駅前の商店跡地(選挙事務所)
たしかどっかの茂みにキロポスト
そんなもんかなぁ。 豊平の駅前広場はどうなっているでしょうか。あの駅前広場(といっていいか
どうか)は、1950年代の前半ころに整備され、市電はR36から右折して終点
となるようになりました。(自分で書いててちょっと日本語が変ですね)
定鉄を降りた人は駅前の道路を横切って市電に乗ったわけです。
あの駅前ができる前は、市電の線路はR36上にありました。
豊平の旧駅舎がなくなってしまうと、あの駅前の微妙な広場な存在が気になり
ます。
>>71
駅構内は既にマンション。
市電の入り欠けはあまり意味の無い雰囲気の道路。
ターンテーブルのあたりは先日売却された東急ストア。
残っているのは歩道橋。
36線に掛かる歩道橋には36線真ん中に電停があったころの下るアプローチをふさいだ違和感のある柵のまま。
豊平前後の廃線敷地は東札幌に抜ける線路後は昔すべて定鉄関連企業だったんだが。
近年いっせいに売却されて、もう殆どじょうてつのものではない。
駅から定山渓方面に、札幌東急ストア豊平店(先月売却)、ホームセンタービバホーム
駅そのものは本社だったが、近年マンションに立替売却
駅から東札幌方面に、定鉄興行のガソリンステーション(近年売却)、定鉄タクシー車庫(近年第一交通に売却)、札幌東急ストア本部(先月アークスグループに売却)、貨物運輸会社の株式会社じょうてつヤード(近年土地売却) >>73
71です。早速ありがとうございます。
私ごとですが、一時期美園に住んでいて、あの駅前まで歩いてきて来て、市電に
乗って通学したものでした。
しばらく札幌へは行っていません。まだあの豊平駅がなくなったあともみていま
せん。今度行ってみたいとは思っているのですが、いつのことになるやら。
社型のC12が大きな丸太を積んだ貨車の入れ替えをしていた日が懐かしく思い出
されます。 定山渓鉄道の電車の塗装は「白+赤」になる前は、
どんな色だったのでしょうか?
例えば、国鉄ぶどう色2号?、阪急マルーン?、近鉄マルーン?、とか、
ご存知の方、いらしゃいますか? >>76
どうも、75です。緑色ですか、それは知らんかった。 フェザントグリーン。
ということになっているが、じゃぁどういう色というと、
田宮カラーのブリリアントグリーンが良く似ている
外人が撮影したカラーと碑文谷工場での出荷待ちがカラーで残っているな
>>74
C12を知っているとなると、昭和37年以前ですね >>78
74です。そうです。昭和24年から34年まで、あの近くに住んでいました。
だから、C12だけでなく8100も見ています。その頃は妙に煙突が長いカマだな
と思っていました。
それから、豊平の構内のはずれに長い間放置されていたコロ1あれがそんな
由緒ある車両だとは手宮に保存されることになってはじめて知りました。
中学から高校にかけてのころのことです。
おお、それは相当な壮年の方でしたか。
ちょうど自分の祖父から父も定鉄を利用していたのですよ。
からっきし鉄道に興味は無くて、あんまりいい話しは聞けておりませんけれども(苦笑
父は昭和37年から41年まで通学で利用していたようです。
亡くなってしまいましたけれども祖父は昭和31年から35年頃まで商いの輸送で利用していた模様です。
私はいまちょうど、豊平のターンテーブルの周辺跡地で商いしてます。
当時の写真を集めてはいますが、なかなか無いですね。
コロ1はないねん出版の星先生の資料だと、選鉱場にも長く置かれていたようですね。 昔の鉄ファンでコロ1がED5100に曳かれて豊平去る写真が載ってたな。
エンドに仔熊のテールマーク掲げた姿で、見送りする人多数。
熊送りって言葉が浮かんだけど…気にするな。 地元のみなさんには何をいまさらと思われるかも知れませんが
石切山の駅舎を見に行ったところ、すぐにみつけることができました。
模造の駅名札も飾ってありますね。 >>80
いやいや、壮年というよりむしろ老年、もしくは「くそじじい」です。もう
70すぎですから。
さて、電車で特に印象深い車両といえば、クハ601いうのがありましたね。
これだけが、流線型の車体を持っていました。朝夕だけ定山渓方に連結され
て運用されていました。旧北海道鉄道(現JR千歳線)から引き継いだいわゆ
る買収気動車で、深緑色の塗色がよく似合う車両でした。
それから501、数少ない木造車で、昭和30年代前半すでに休車に近い状態で
した。吉野から来たとかで、川崎の銘板をつけていました。
ながながと古い話を失礼しました。 豊羽鉱山のインジウムは世界一の産出量を誇っていたが
現在の技術ではこれ以上掘りすすめられなくなり
2006年に閉山したという。
でも、これからもし仮に採掘が再開されたとしても
鉱石を鉄道で輸送することはもうなさそうだ… 定山渓のじょうてつバス案内所があるところが、駅跡地ですか? >>85
案内所の裏が定山渓駅。
いまの「定山渓」バス停留所名は元「定山渓駅前」。
鉄道廃止後もややしばらく、定鉄バスは「定山渓駅前」だった。 >>86
ありがとうございます。わかって嬉しいです。 親父は定鉄の車掌だったが、廃止後市営バスの運転手になった。
給料は下がったが、ボーナスや退職金は良かったと言っていた。
俺は、市営バスの運転士だったが数年前にじょうてつバスの運転士に変わった。
今年からは、定山渓温泉の某ホテルの送迎バスの運転手。 >>88
運転手と運転士がごちゃごちゃだけど、あまり気にしてないのかい? >>89
親父の時代は、拝命が「運転手」
俺の採用時の辞令は、「運転士」
今の職場では、送迎運転手なんだ。 >>90
失礼しました。
なるほど、鉄道が「士」バスが「手」と憶えていたが、一概にそうでもないんだね 今も現存していたら、札幌の交通事情はどの様に変化していたのかな? >>92
真駒内くらいまで複線電化。
電化された学園都市線と直通運転してたかも。 市電路線網と定鉄が共に残っていたらLRT化が
取り沙汰されていた鴨 地下鉄南北線を旧定鉄沿いに延伸する気はないのかね? >>92-93
札幌〜東札幌はどうなるだろうか?
国鉄千歳線別線複線化の際に旧線買って電化?
そして国鉄乗入れのために交直両用車両導入? >>96
旧型及びゲロ電淘汰のために思い切って交流転換…
仙山線かっ! 札幌駅乗り入れを意識するなら交流化も考える必要ありだっただろうな。
南北線がゴムに拘らなければ、平岸〜大通〜新琴似間を交通局、平岸以南を定鉄、新琴似以北を国鉄という運営もあったかも。
それでもオリンピック輸送出来ただろうし。 >98
以前、他刷れで聞いたときも回答なかったんだけど、札幌市交通局が
独自のゴムタイヤに固執した理由が分からないんだよねぇ、未だに。
まさか、「見栄」だけってわけじゃないよね?
1067mm架空線にしておけば定山渓・夕張鉄道・国鉄各線(ただし電車は交直流。
でもソウルの実例あるから非現実的ではない)との直通だって出来た。
予算ないときには、営団あたりから中古車買って誤魔化すことだってできる。
(そもそも量産品のふつーの電車と、特注品だらけのSSトラムじゃ値段も違うし) ○騒音防止
○今のシェルター部分は当初はシェルた−なしで建設して、
比較的雪に強いゴムタイヤ車両で運用すると言う予定もあった(くわえて郊外部は地下鉄じゃなくて高架にする予定だった)
○一部に急勾配がありゴムタイヤが望ましかった
△当時の国鉄は都市間輸送特化で、近郊及び市内の通勤通学用ではなく、相互乗り入れは全く問題外だった
△鉄軌道にすることによるコスト低下が重要視されていなかった >100
騒音・対雪あたり納得は出来るけど、決定打にはならないような。
やっぱり
「新しいもの好き・見栄」
「コスト意識の欠落」
がゴムタイヤ式を後押ししちゃったのかな……。
まぁそんな事情で導入されちゃった姫路モノレールとか
そんな事情に限りなく近そうな千葉モノレールとかあるから、
都市交通における合理的な判断というのは働きにくいんだろうねぇ。
三大都市圏にしか地下鉄がなかった時代に、
まだ一地方都市だった札幌に地下鉄を通す名分として
新交通的な要素が必要だった、といったようなことを
ずっと前だれかが書いてたよ。
霊園前の辺りの急勾配は鉄軌道じゃ無理目なほどの急勾配だから
それは決定打になるね
それから都心部を除いた郊外は高架の予定だったから
地下→高架部分は同様の急勾配になる予定だった
なのでゴムタイヤ導入だよ 結局、アイデアマン・大刀豊局長を始めとする交通局技術陣が
オリンピックの緊急性を背景に技術的暴走しちゃったのが実情ではなかろうか。 でも乗り心地はいいから○って感じ? 初めて乗ったときには感動すら覚えた。>ゴムタイヤ 当時の太刀交通局長は「法令が無ければ無いで、サッサと造ればいい。造っちまえば
法令など後からついてくる」が持論の人だったからね。 当時の地方私鉄ではすばらしい車輌をそろえ、有名な温泉をバックに抱えていたのに、
なくなって残念です。今も存在していればと思います。
ところで、当時の車輌の内装はどんな感じだったのでしょうか?座席の色とか内張とか、
北海道ゆえに暖色系とか。 >107
モロやクロは普通にニス塗だったと思う。写真の出処覚えてないスマソ。
他の電車もニス塗りだったんじゃないか。あの時代じゃ。
十和田観光にいった湘南顔のは(1207+1208)
十和田観光だと灰色塗装+緑のモケットだった。ただし
十和田観光で変更された可能性は当然にあるけど。
ご教示ありがとうございました。外観の写真は多くても内装はよくわかりませんよね。
つくづく現存していればどうなっていたかと思います。
星良助翁がほぼすべて撮り残してくれている。
著者に分散しているから、全部見るには著者に諭吉二枚ほど必要。
レイルno21、22・北線路
北国の汽笛1〜4
鉄道ピクトリアル232
位、買い集めて損なし。
どれも案外入手出来る。
キハ7000の転クロはスゲェの感嘆でておかしくない。
北国の汽笛からオススメ。
北海道私鉄に銭払った以上に深く魅せられること間違いなし?
遅レスすまんが>>99-102について
表向きの理由は>>100の通り
んで>>102の話は、
当時の運輸省が「地下鉄は三大都市圏以外は不要」と言って、頑として補助金をつけてくれなかったというもの。
一方、当時はモノレールやらの新交通システムが今より有望視されていたということもあり、五輪のからみもあって、そちらの枠なら補助金がつきそうな情勢だったという。
んで、「これは一部地下も走る新交通システム」と言い張るために、地上区間を設けることにした。もちろん、五輪までの工期日程的にも、地上区間を設けたほうが得策という事情もあったが。
この説はただの噂話なんで、残念ながらソースはない。当時の予算書でも見て補助金の費目を調べれば少しは分かるかも。
しかし、仮にこれが事実としても、東西線、東豊線の頃は事情が変わっているのだから、鉄軌道で作るべきだったわな。
この辺になると市の意地だけではなく、事実上一社独占の車両メーカーやタイヤメーカーとの癒着を疑われても仕方ないと思う。
いいんじゃね。定山渓の最後にはついてまわる影だし。
札幌市交通局のスレだと今の地下鉄のこととか、市電話とかで
この種の話題は埋もれると思うぞ。 >>96-98
国鉄が>>57のように思っていたとしたら、地下鉄直通を気に手を切るかもな。
車両面を考えても、定鉄・地下鉄(現行5000系基準)の18m直流規格にわざわざ合わせてくれるとも思わんし。 時系列じ考えてみると面白いのが、
東洋精糖事情〜五島慶太死去〜東洋精糖撤退〜伊豆急開業〜くろがね自動車撤退〜定鉄廃止
の順番であること。
実は東急グループは伊豆急と定鉄の間で経営危機になっている。
そのため、五島昇の努力で再建を目指し、瀬島龍三などの大物に相談役や非常勤役員を依頼して、銀行からの人材注入を避けた歴史がある。
定鉄の開業に際して、当時の大臣は五島慶太であり、テープカットをしている事実がある。
慶太の内心を考え、鉄道を継続していた向きが大きい。
また、東亜国以内航空結成目前にして、大きな資金を調達する必要があった東急グループは、
経営バックボーンが変わり、北海道東急グループを拡大継承したものの、資金を北海道内で回し、
事実上本体から金銭的な流れを切ることが必要であると考えたのが五島昇であると言われている。
そこで考えられたのが、定鉄を北海道東急グループの幹事会社として資金力を持たせ、成長分野の不動産中心に
資本中心化をさせる案があったらしい。
そのため、定鉄の鉄道廃止を取引条件に、五輪関係でつぎ込まれる資金を取り囲むことでの
北海道東急資金独立確保が計画されたと言う説がある。
五島が主宰したテンテン会のメンバーとも歩調をあわせたとも噂される。
テンテン会メンバーは、昭和40年代前半、瀬島の勧めで起きた政財界の青年集団で、
警視庁総監秦野章や、鹿島の石川六郎、廃止を決めたときの運輸大臣中曽根康弘が居るなど、何らかのにおいがする。
その直前に、財界の大物とも懇意になっていると言うか、住友銀行系慶応閥との和解をしている。
あまりに出来すぎていると言うか・・・。
私見だが、定鉄廃止は、上手に五輪資金の一部が東急グループに流れるように警察政治金融経済界がやんわりとタッグを組んだ結果ではないかと思うのだが・・・。
まぁ、確かに、定鉄へのいきなり7箇所立体交差化のほかにも、昭和30年代の警察は札幌市電親子電車に対しても「交差点通過時間がかかりすぎる」というイチャモンにちかい勧告をしていたりして、
訳の判らない交通取締りをしているのだけれども。 ちなみにテンテン会の結成の発端となったキャピトル東急開業が1963年であり、
その1010号室が会合の場だった。というのは記録に残っている。
昭和38年から定鉄廃止決定の昭和42年までに、秦野と中曽根と懇意にあり、
不動産開発&建設を拡大の種に伸びて、更に真駒内アイスアリーナなどの五輪施設を後に建設する鹿島建設の石川六郎がいるというのは
あまりにも出来過ぎではないかと。
結局、鉄道の規格や運輸成績もろもろなど関係なく、そういった人脈から定鉄は廃止になったのではないかと推測している。 続けると、
昭和40年代中半から後半にかけて、
秦野は政治家への路を進み始め、石川は五輪建設の大きなものを手がけたことを切欠にメガゼネコンの地位を確立、
東急は北海道に定鉄を中心とした不動産と観光ネットワークを確立、中曽根はキャリアを重ねて田中角栄の次席を狙う基礎派閥の開始、
着実に成果をものにしている。
テンテン会は15人位居たらしいが、ほかにもそういった上手にカルマを伸ばしたものが多い。
ちなみに小佐野賢治や田中角栄はテンテン会には入っていないので、また別の五島人脈であったようだね。
(どちらかというと慶太が昇に与えた人脈のようだ) >116-118
なるほどね。
鵜呑みにするのは危険な類な情報だけど、面白い話だと思う。
長文書き込み感謝。 散発だが、五島慶太と五島昇は親子2代に渡って、北海道の勢力拡大に尽力したが、手法にいささかの違いが見られる。
慶太は定鉄を幹として、夕鉄を取り込み夕張定山渓千歳をつなぐ札幌急行電鉄構想を持っていたのは有名だが、
昇は東亜国内航空樹立(昭和40年代の第一次JAL併合を回避成功している)、そして観光の足回りにはバスであると見ていた節が多い。
実際のことらしいが、慶太の最初の危篤の報を受け取ったのは、確か腹心の田中均とともに北見バスと東亜航空買収を手がけていた北見で一報を聞きつけ、
北見から東京に帰った記述が見られる。
どうも東亜国内航空をつくるには、北見の有力者の味方が必要であったらしく、有力者が首長選挙での当選手土産として華を持たせるべく、五島昇は大学設立資金を提供したらしい。
(それが国公立の北見工業大学なのか、現在の北海商科大学なのかおぼろげ)
札幌急行電鉄構想は昇の時代になり姿を消していること、その後はバス事業を定鉄資金で積極的に購入しているので、
鉄道>バスが
見えてくる気はする。
(しかも観光路線以外の路線バスには余り手を出していない、むしろ生活重視路線は手放している)
ちなみに有名な話だが、北海道中央バスを慶太の時代に買収しかけているが、資金は東急、使った放ち駒は小佐野賢治と北交ハイヤーの柴野初代社長だが、
両者あわせて51%まで買い進めたものの、柴野の裏切りで売り払われてしまい、頓挫したようだ。
慶太はむしろその後は北海道・東北のバスについて小佐野に斡旋することはあっても自らでは進めていない。
確かに私見・妄想の中だけであるけど、点と点はつじつまが合うことが多いのが楽しい部分。
昭和38年に2300型電車を東急車両で作らせているが「例」の構造。
東急車輛に修行に長く居た昇が、そのような極端な方針の車両のことを知らないとは思えない。
実際、伊豆急電車については色について細かく意見している。
(たかが定鉄通勤電車に熟考したとも思えないけれども)
そのころから長く営業しないつもりで居たんじゃないだろうか? 定鉄の車、廃止時には長野にEL2両、十和田観光に1200が2両売れたのみ
でしたが、昭和32年、2300に機器を譲って廃車になったモハ100の車体は一両が旭川電気軌道に
行きデハ501となり、もう一両は弘南鉄道に行きモハ2210になった。さらに弘南がS36年、1500v昇圧に伴って
2210は日立電鉄に譲渡され、昭和54年まで活躍しました。短命車が多かった定山渓で思わぬ長命車がいました。
日立の廃車直後の現車を実見しましたが、「よくぞここまで」といいたくなるようなボロボロでした。
前硬軟
が後年意7のあ
山渓 どちらも更新を担当した日本車両で処分扱いのものを再生したものですねぇ。
処分したものが長生きしたという稀有な例で。 改造前
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/70/910034c3463dd4d190c7433404338607.jpg
改造後
ttp://1003.amigasa.jp/1003%20HITACHI%20(12).jpg
ttp://homepage3.nifty.com/m_horikoshi/3_2Sitetu/_Rs_02_04_asahikawa_011-22_yojyou.JPG
特に101は定鉄と日立で比較すると面白いですねぇ。 >>121
ついでに言うなら、転籍車だけで追うと、
DD4501が定鉄(豊羽)〜北海道拓殖〜旭川通運
寿都に8105と8108
藤田炭鉱に8104
C12が一部部品だけだけれどもいずこかに持っていかれたとか。 >>123
日立の車両なら、鉄コレ第1弾の改造で作れそうな感じですね。 鉄コレで定山渓ネタは何時かくるのかな……。
1200の定山渓と十和田観光仕様両方とか。
あとはモロとゲロ電。
これだけじゃ足りないから北海道の私鉄電車という括りにして
旭川電軌の1001も。 基本的に日本車両のものがとても多い (というか図面集のがことごとく網羅されてきた) ので、
可能性が無いわけではなさそうなんだけど、
富山地鉄特急と遠鉄30とのバトルかw
ゲロ電より1200のほうが「若干」可能性が高そうだ。 定山渓の某温泉宿の浴室入口に現役時代の定山渓駅の写真が展示されており、写ってた車両がキハ56・27に見えた。
多客期には国鉄の車両乗り入れてたの? >129
色で見間違えてない? 末期は急行型気動車に近い配色だったから。
定山渓のキハ7000/7500は濃赤に白帯だったけど。
国鉄車乗り入れは初耳。 国鉄の客車が、定鉄のELに曳かれているのは豊平で見た。 >>130
その写真を携帯で撮影してたの再確認したら、あの運転台窓と側面窓配置は紛れもなくキハ56系列だった。
ちなみに時代は昭和38年頃らしい。 定鉄線内でのキハ56の写真、自分も見たことあるよ。
確かレイルマガジンから出てる「消えた轍1」だったかな、それに載ってた。 終戦ちょっと前か直後に樺太にいた傷痍軍人輸送で、
稚内発定山渓行という汽車が出たことがあると聞いたことがある。
>>134
真駒内南町3丁目バス停(滝野方向)付近でなかったか。 >>133
下藤野駅を通過する3両編成のキハ56・キハ27の臨時列車という写真が
掲載されてますね。 >>93
そうなると他の札幌の地下鉄にも影響が出て、東西線と東豊線も通常鉄道になってた。
もし札幌地下鉄がゴムタイヤではなく普通レール式だったら、建設費は安くなってて、札幌の財政は少しは浮いていた。
定鉄は存続、高架化、複線化されてシェルター化、南北線は南平岸までで、そこから定山渓まで乗り入れ、現在は地下鉄直通の特急列車もある
札沼線は医療大学まで電化され、南北線は麻生から札沼線に乗り入れて石狩当別まで乗り入れて、一部は北海道医療大学まで
東西線は手稲辺りから函館本線に乗り入れて小樽まで乗り入れ
菊水辺りで旧千歳線跡地から高架化、シェルター化され、厚別区で分岐して、上野幌から千歳線新千歳空港、一部苫小牧まで乗り入れ、地下鉄経由の快速エアポートも存在する。
分岐線は森林公園から函館本線に乗り入れて岩見沢まで乗り入れ
東豊線は経済関係でリニア地下鉄。
あいの里公園を起点にして、豊平公園から違うルートになり、羊ヶ丘通りを走り、札幌ドームや美しが丘を経由して、大曲のアウトレットパークまで。 JNMAでキハ7000と7500、モハ800、1000、1100、クハ1010、1110発売されるらしい。 >138
前も話でてたけど、やっぱり札幌市のあの交通部長がA級戦犯か……。
当時は定鉄も札沼線も、見向きもされなかったんだね。
非電化単線だった筑肥線の活用を、昭和40年代から計画していた福岡とは対照的。 まあ正直なところ、地下鉄が普通鉄道規格だったとしても
定鉄との乗り入れは実施されてなかっただろうけどね。
想定される輸送量の段差があっただろうし、結果としては
福岡の貝塚みたいな分断駅がどこかに出来ただけかと。 真夏のゲロ電に一度乗ってみたかった。
せめて乗った人の話し聞きたい。 >>143
今なら秩父鉄道モハ1100で同様の体験ができる。
真夏なのに窓が閉まっている車両が多く、車内温度は41度位。 名鉄のモ600はかなりゲロ電に近かったぞ。
開く窓がかなり少ない上、運転台とその周辺は構造上完全に温室状態になる。
おまけに沿線の暑さがガチだったし。
新関行きの電車に乗ってたら、競輪場前ですれ違った対向電車の運転士が
「さっき50度超えたぞ…」と汗ダラダラ垂らしながらこぼしてたの思い出した。
モ870も似たような状況だった。 >>29
遅レスだけど田井自動車って根室拓殖の2以外にも鉄道車両手がけていたのね。
十勝清水だかどっかの日本甜菜糖の移動機も作ってるんだね。
調べれば他にも小物とか保線車両とかありそう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています