>>22
定鉄はオリンピック誘致に燃える札幌市と北海道東急子会社網を東京の資金ではなく、道内の資金での回しをしたがっていた東急グループとの思惑が一致した賜物だよ。

定山渓鉄道は運輸密度1000を切ってはいなかったが、営業赤字に転落していたこと。
生き延びる方法はあったが、補助金漬けになるまえに定鉄が資金源にならないとならなかった。

札幌市は一方でオリンピック誘致に向けて意欲的高速鉄道も必要なインフラと考えていた。

で、鉄道を廃止して未来的思想の高速鉄道を引き換えにする金銭取引が成立したってこと。
鉄道の廃止ならまだしも、バス路線&バス機材の大量譲渡、乗務員も公務員化、土地の交換など、今からでは考えられない条件の資産トレードってこと。

定鉄は大きな金を手にし、市は運輸網の公営化推進を一気に進めて来るオリンピックに備えることができた。
売却資金を種に、南区、西区、豊平区の不動産開発に着手して資金を錬金し、北海道東急グループ網を強くし、鉄道にとどまらない北海道支配権の派遣を一時握ったことは事実でしょう。

名鉄グループ、西武グループに大きく差をつけたことは見てのとおり。
(まぁ東亜国内航空も握ったってのもでかい)

そういう役所とグルのようなレンキンのため、資材をあまりみだりに売却することはできなかったってこと。
鉄道機材の機能的な問題が多いとは言うけれど、譲渡先が自社影響系長野〜五島総帥の政友田中角栄の越後(当時は五島の側近田中均が出向中)、やはり慶太より懇意にすることを命じられた小佐野賢治の十和田観光鉄道と、
一般譲渡ではない次元のみに限られているね。

雄別などの廃止助成金目当てで解散し、資産をすべて金に清算したかった鉄道とはわけが違う。

ちなみに定鉄の存続条件で有名な「踏み切り7箇所設置」は裏があると考えられる。
当時の警視総監の清水氏、運輸大臣(失念)は、五島総裁の若き日の勉強仲間だ。
一見無理を言っているようにして定鉄を引っ込めさせる形を作ったものと考えられることもできる。

明確になっていない部分もあるが、書物の点と点をつなぎ合わせると、オリンピックを囲った政治的な経済動員であったのではないかと思う。

ちなみに、これらの動きが明らかになる昭和36年以降は慶太翁が亡くなり、昇総裁がくろがね自動車や東洋精糖だったかを撤退、自己色を強めた時期に一致する。