思い出の定山渓鉄道
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札幌市中心部と定山渓温泉郷を結んでいた懐かしの定山渓鉄道。
右側運転台の電車、国鉄乗り入れ用気動車、湘南スタイルのスマートな電気機関車など、個性豊かな車両が揃っていた定山渓鉄道の思い出や廃線跡のお話などをお願いします。 >>18 廃止になるなら、もう少し早く廃止になり青息吐息の寿都や北海度拓殖に二束三文
で出してあげればよかったのに・・・と思うのは、俺みたいな鉄オタのお節介だろうか・・・
話は、変わるがゲロ電と東急車輛の入換え車 資料が乏しいのか余り知られてないみたい
だけど結構違うよ
ゲロ電・・・ヘッドライト埋め込み二灯・・・福島交通タイプ?
尾灯 埋め込み
側窓 その名の通り固定!!
入換車・・・屋根上 チョン付け?一灯
尾灯・・・旧型電車に多い引っ掛けタイプ
窓・・・・とりあえず開く(二段上昇?)
他に全長とかも入換車は、院電ベースだからゲロ電(2ドア)よりデカイと思う。
>>18
> 案外右側運転台が嫌われただけなのかもしれないけど。
実はそこが致命傷だった希ガス
>>18>>21
確かに、同時期に廃業した道内の炭鉄各社 = 留萌、羽幌、雄別など = の
店仕舞い品の車齡の若いのは茨城交通や関東鉄道が買い漁っていったのに…
定鉄キハには両社とも見向きもしなかった(?)のはやはり構造上の問題か。
あと、廃線に至った事情が札幌市の地下鉄建設に伴う『補償買収』という点も
関係あるかも。何せ公共事業だし地下鉄の場合は国から札幌市に対し補助金も
出ているはずなので、定鉄としても『中古車』として積極的に売りに出すほど
銭に困ってなかったのかもね。 琴電から玉野に里帰りした電車みたいに、
十和田観光への譲渡車が札幌に里帰りしてたら… そこでゲロ電のレプリカ作って定山渓温泉に設置ですよ 私も、小学校入る前に乗ったことあります。
豊平駅から慈恵学園前駅に行ったと思いますが。 そういえば、最近出た鉄道データファイルに定山渓鉄道の記事が載ってるね。 ここも有名な割には保存車とか一切無いねえ。
痕跡と言えばお決まりの廃線跡と、
駅舎がひとつ残ってるのが奇跡みたいなもんか。
ちょっと前まではもうひとつあったんだよね。あと子供のころには0番ホームがあったっけ。
資料も散逸してしまって、忘れられて歴史の中に埋もれていく運命なのかもね。 此処って、戦後は道内最有力民鉄だと思うけど、
戦後一時盛況していた。道内車両メーカー(運輸・泰和・釧路製作所・旭川鉄道同志社・・・田井自動車・・・大穴!)と用品・工事等でも一切取引なかったの? ゲロ電、初めて知りました
鉄ピクに現車の写真が「解説付きで」載ってら (゚д゚) ゲロ電こと2300形を、更新製造した時はひょっとして既に この鉄道の将来に暗雲が立ち込めはじめていたのだろうか・・・
夕張鉄道と共に道内でも、羽振よく優秀な車を購入してきたのに・・・・
でも、将来に明るい見通しがないなら東急から更に中古車供給を受けてもよさそうだし、
(最初の3600形譲受は、東急グループ入りにあたっての、お付き合い程度ものかなと・・・)
何故にこのような、安っぽい車を作ったのだろう・・・
そもそも、ゲロ電作成時 部品供給源として絶命した在来車の車体が、更新を受けお隣の旭川市街鉄道に
出向いたりしている位だ(丈夫だという事だ・・・)。
それと単なる偶然だろうが、この時期東急車輛が 地方鉄道向けに製造した
車は、みんな 短命だ・・・栃尾・仙北・札幌市等
・・・当時は、東急車両も駆出しメーカーで条件の悪い仕事でも積極的に請け負っていたのかな?
>>34
当時経営が傾きかけていたのは確かですけどゲロ電の種車は100じゃないし
東急車輛の短命車は路線や用途が無くなっただけですがな。
東急からの出物が無くて系列の割に入っていないのは上田丸子電鉄も一緒ですしね。 定鉄が残ってたら、東急5000から7000、現在は1000に置き換えが進行中、かな、
あおりを食って長野電鉄や福島交通などの車両にも変化があったかも。
長野や豊橋には西武の中古が走ってたりして。
ターミナルの立地は悪いが、並行路線が無いから西鉄宮地岳線以上にはなってたんじゃないかな。 北炭い1…1963年定鉄から寄贈を受けた国鉄が苗穂工で復元とか… 地下鉄との直通も可能だったのではないかと。
南北線が豊平−大通−麻生の経路で建設され
豊平で定山渓鉄道と直通。
豊平−苗穂は廃止だっただろうが。 >>22
定鉄はオリンピック誘致に燃える札幌市と北海道東急子会社網を東京の資金ではなく、道内の資金での回しをしたがっていた東急グループとの思惑が一致した賜物だよ。
定山渓鉄道は運輸密度1000を切ってはいなかったが、営業赤字に転落していたこと。
生き延びる方法はあったが、補助金漬けになるまえに定鉄が資金源にならないとならなかった。
札幌市は一方でオリンピック誘致に向けて意欲的高速鉄道も必要なインフラと考えていた。
で、鉄道を廃止して未来的思想の高速鉄道を引き換えにする金銭取引が成立したってこと。
鉄道の廃止ならまだしも、バス路線&バス機材の大量譲渡、乗務員も公務員化、土地の交換など、今からでは考えられない条件の資産トレードってこと。
定鉄は大きな金を手にし、市は運輸網の公営化推進を一気に進めて来るオリンピックに備えることができた。
売却資金を種に、南区、西区、豊平区の不動産開発に着手して資金を錬金し、北海道東急グループ網を強くし、鉄道にとどまらない北海道支配権の派遣を一時握ったことは事実でしょう。
名鉄グループ、西武グループに大きく差をつけたことは見てのとおり。
(まぁ東亜国内航空も握ったってのもでかい)
そういう役所とグルのようなレンキンのため、資材をあまりみだりに売却することはできなかったってこと。
鉄道機材の機能的な問題が多いとは言うけれど、譲渡先が自社影響系長野〜五島総帥の政友田中角栄の越後(当時は五島の側近田中均が出向中)、やはり慶太より懇意にすることを命じられた小佐野賢治の十和田観光鉄道と、
一般譲渡ではない次元のみに限られているね。
雄別などの廃止助成金目当てで解散し、資産をすべて金に清算したかった鉄道とはわけが違う。
ちなみに定鉄の存続条件で有名な「踏み切り7箇所設置」は裏があると考えられる。
当時の警視総監の清水氏、運輸大臣(失念)は、五島総裁の若き日の勉強仲間だ。
一見無理を言っているようにして定鉄を引っ込めさせる形を作ったものと考えられることもできる。
明確になっていない部分もあるが、書物の点と点をつなぎ合わせると、オリンピックを囲った政治的な経済動員であったのではないかと思う。
ちなみに、これらの動きが明らかになる昭和36年以降は慶太翁が亡くなり、昇総裁がくろがね自動車や東洋精糖だったかを撤退、自己色を強めた時期に一致する。 無駄に長い上に独特の文調
変な言い回し
読む気にならん >>41 マアそう言うなよ。
古い自動車や鉄道に関心を持ち調べてゆくと、その当時の社会背景・経済情勢・関係者の人脈
等もおのずと無視できなくなる。
無論そっちみたいに、そういう展開を好まない人もいるだろうが・・・・
やはり、疑問を突き詰めるにはある程度必要になると思う。
勿論 自分で積極的に調べる、調べない程度もあるけどね。
ゲロ電と東急車輛の101・東急の7000系東急車輛で、一期一会の顔あわせしたのかな?
気になる。 >40
おーい。EKKじゃなくて長電だぞ>>電気機関車。
バスの補償には、批判もあったようだね。
しかし、再度じょうてつに市営バスが移譲されるとは皮肉なものだ。
慶太の中央バスの乗っ取りが成功していたら、だいぶ違う展開だったんだろうな。 >>40
東亜国内航空は発足当時「ばんだい号事故」で痛い目に遭う >>40
国際興業・小佐野賢治はロッキードで捕まったが、
東急の大物は汚職が明るみに出なかったのはなぜ? 航空に詳しい訳でないけど東亜は、機材が根本的に違ていたからね。
YSの独壇場で買ってもらえる事を、端から期待せずでは・・・
それより五島慶太の魔の手を逃れた企業で完全勝利は、三越と北海道中央バスだけかな?
東京地下鉄道も結果的に、交通営団発足で東急○○線にならないで済んだだけで早川さん
失脚だし・・・
北海道中央バス 恐るべし 九州産業交通とともに、何か絶大な政治力でもあるの? >>46
> 北海道中央バス
本社が小樽だけに金融関係と密接な関係を築いていたのかも 中央バスは、慶太がよくやっていた迂回買収で攻めていたよ。
鉄砲玉になったのは小佐野賢治と、北交ハイヤーの柴野。
いずれも27%を取得して、五島名義に書き換えて買収終了になるところまで行っていた。
小佐野との関係はすでに経済舎弟にあったので自然だけど、柴野はバス事業への色気もあったので東急に一時加担したってわけ。
ところが柴野の裏に慶太ありがばれてしまい、道内経済界の観光関係から突き上げを喰らい、北海道銀行が加担して「柴野よ、そのまま持った株を五島に譲れば、北交を潰したろか?」
ということになり、柴野はビビッて株を道銀に預け五島の元から逃げる。
逃げるっても函館に隠遁しただけだが、五島の部下の安田に見つかり、五島の前に引きつりだされる。
柴野は「俺の株ですよ、俺の株を誰に売ろうが関係がない」と突っぱねて、慶太を激昂させる。
すでに柴野は道銀に頼んで株を再びばら撒いたあとだったので慶太は歯軋りするしかなかったらしい。
ここは小佐野が「五島さん、あんたが今回は負けだ、もうあきらめるべき。だから俺の集めた株もいったん引き取ってくださいよ。その後はどうするか考えればいい」
と、諭して、諦める。
慶太は柴野に憎しみを覚えたが、周りから諭されて仲直りする。
北海道の進出第一回目はこうやって失敗したらしい。
第二回目は、北海道グランドホテル社主を見方につけて、じょうてつを浅野一族から奪取することに成功したんだけど、
交通・観光・不動産・流通の全面征服までは行かなかったらしい。
昭和40年代前半、今も盛業中の「クレードル興農」事件を東急が前面無償救済することで北海道に残っていた反感が薄れて改めて全面進出するまで待ったんだと。
読みたい人だけ読めばいいと思うのでつらつら書いた。 >>45
黒いことはしていなかったというか、する必要がなかったのだと思う。
父の慶太は逮捕収監されているが、戦時裁判だからよいか悪いかはわからない。
2代目の五島昇の周辺で逮捕起訴された経済人は大変多いが、
田中角栄、小佐野賢治が有名なほか、逮捕されていないが石川六郎も疑獄引責しているな。
経営は苦しかった時期もあったが、上3人とは成り立ちがよかったので、正攻法でやれば何とかなったのだろう。
あとは電鉄が無尽蔵の利益を生み続けるので、普通いろいろな失敗をしたら潰れるが、金は貸してもらえている。
銀行もバックに強く張り付いてくれていたのは大きいだろうな。
三越も親父が失敗したのは慶応閥を怒らせたことだが、五島はしっかり慶応閥と仲を分かち銀行は慶応閥中心に結びなおすなど、
正直何をやってもうまくいくようになっていた。
ほかの人間はなにかギリギリのことをしないと成功できないというものはあったんでしょうな。
慶太がいろいろ経済犯罪ぎりぎりのことをしていたのは確かだが、息子の昇は継承したら一気にその灰色部分をカットして鮮やかに事業を整頓したのも、
手が出しにくかったのではないかな?
ただ、そんなのは血筋のよさと時代のよさと、ブレーンのよさと、本人の世間的価値。
何から何までうまくいったからだろうな。
3代目になるはずだった五島哲に至っては、
昇の死後、昇の番頭抗争が起きて担いでもらえず、あほ扱いされて早々に失脚、さらに追い討ちで時代の責任おっかぶらされて追い出され、
2年前、名誉職の挨拶しに岐阜に行ったときに59歳でポックリ逝って死んじまった。 >>46
あと、中央バスは当時、労働組合を作らずに永い事経営している。
一方で東急グループは労働組合の過激派で有名。
当時の北海道政権は自民党。
過激派がこれ以上入られては、北海道の経済界全体が困るという話はあったようだ。
東急グループは一方では買い漁るまでは企業・労働者の敵だが、買収した後は間接的に労働組合極左運動の拡大になるんで、単純に保守派や企業から嫌われたというのがある。
中央バス、近隣企業に労働組合が作られたら困る勢力もいろいろ加担したようだ。 札幌東急ストアがじょうてつグループから,純粋に東急グループになってひさしいけど,今度はアークスに譲渡されるそうで。
札幌から東急ストアの名が消えるのも少々さびしいですね。 >>39
せめて札幌市が南北線を普通の鉄道(3ft6in)で造っていれば…。
豊平で定鉄と繋げれば定鉄の豊平以南は活かせたかもしれないし
さらに新琴似で札沼線と繋げれば…。
スレ違いゴメソ。 >>52
ただ、当時の札幌市が地下鉄に拘った理由って
「雪に影響されない交通機関」を作るってことだと思うんだ。
だから、地上を走る鉄道との乗り入れって概念は無かったと思う。札幌都市圏も小さかったし。 >>48 こういう話好きです。「有難う!!」
批判・煽りだけで知識、情報無い人の書込みは、つまらない。
この時期の札幌市電の東急車輛入札受注は、何気に北海道進出へのアドバル−ンかな。
>>51
それどころか、じょうてつゆかりの職員の師弟が札幌東急ストアには多く入社しており、
いまの幹部クラスの一部は「定山渓鉄道の運転手の息子」とかが複数いる。
それらが今退社を迫られるようなリストラに晒されてんだよな。
いろんな意味で東急の北海道は終わったのかもなぁ。
残っている会社のほうが少なくなった。
北海道の東急核企業だったのがじょうてつだけど、今、その目的がずいぶん失われて、ローカルバス会社でしかないもんな。
あ、せいぜいマンションデベロッパー? >>52
それいうなら、札急が果たされていればってことになるんじゃね?
慶太が5年長く生きたら実現しただろうな。
札幌市・・・板垣はそもそも真駒内と大通を結ぶ以外消極的だったようだ。
東西線はあまり進めたくなかったらしいな。
もちろん定山渓までの鉄道を引き取るつもりも一切なし。
オリンピック〜未来的交通機関というアピールが果たされれば良かったんだから。
藤野まで伸ばさなくて結果的に正解だしそのつもりも実はなかったようだ。
自民党市議会議員だった青木護が質問してその回答を得て落胆していた。
延長構想は地盤を継いだ堀川が当初運動を大きくしたけどすぐ萎んだ。
まったく歯牙にも掛けられてもらえなかったらしいな。 東急は、労務問題の左傾化に比較的寛容で財界の一部に嫌われた。という事だが、
その東急のオーナー 五島昇 と 国鉄分割民営化の急先鋒中曽根康弘 が、親友同士
というのは、興味深い。西武 堤 と交友関係といい包容力のある人物だな。
話をそらしてすまん。
定鉄廃止に向けての工作が、道内官民の一部団体の働きがあったとは、考えられないだろうか?
例えば、電化区間撤去の見返りで始まった デーゼルカー札幌駅1番線乗入れ枠の権利とか・・・
後年 そのままだと必ず国鉄としては、邪魔になった筈だ。 >>57
五島昇の人脈はあまりに広いことで有名だね。
その力をフルに生かして北海道と長野、パンパシフィック開発を邁進したといってもいい。
(バブル崩壊後に生きていたら相当晩節を汚した可能性が高いが・・・ある意味最高の時期に亡くなった)
左傾化した労組との関係ははっきりしない。
ただ、五島自ら労組に加盟し「反動経営陣の即時撤退」の横断幕を書かされる恥辱を味わっている。
(もちろん反動経営陣とは父慶太のこと)
押しかけた労組幹部の前で立ち小便したという豪快な話も残っている。
逸れ話はともかく
定鉄廃止は言うとおり、東急・道内官民すべての総意だったと思っている。
鉄道が死ぬというショッキングなことだが、政策的な面で廃止されたと見て間違いないのではないかな。
それで無いと、輸送密度1000アッパーで廃止された全国唯一の鉄道という理由が成り立たない。
札幌乗り入れの懸念もおそらく合っている。
並行路線ならともかく、乗り入れがあまりに短距離だし、電化近代化を進む国鉄にとって邪魔になることは明白だったと考えられる。
今も残る上田交通や静岡鉄道(離脱したけど)と似た利用価値以上があっただけに、廃止に突き進んだのは利害の一致以外何者でもないでしょうね。 発足したての警察予備隊に入隊した叔父は
真駒内のキャンプクロフォードに配置になった。
そこでは、在日米軍士官の英語による号令を
通訳に日本語に翻訳してもらいながら訓練を行っていたという。
今となっては真偽のほどはわからない。 2年前まで札幌に住んでいたので定山渓温泉はよく行きました。車を持っていな
いので、当然、バスで行くことになるのですが、バスは本数も多く、鉄道が残っ
ていたならより便利だなと思っていました。
定山渓温泉も札幌の奥座敷として栄えたかと思いますが、もし鉄道が残ってい
たとしたらやはり採算の面では難しいでしょうか? 石山に駅舎が残っているとか? もうないかな。
誰かがグーグルマップに印しつけてくれてたので
近くに寄ったら(いつになるやら)ハズレ覚悟で見に行ってみるか。 >>64
いいこと思いついた
全線地下にすればいい
俺って天才 いいこと思いついた
線路に屋根をかければいい
俺って天才 そういえば「札幌の地下鉄の高架区間では積雪時にはゴムタイヤに
チェーンを巻くんだよ」というネタに引っ掛かりそうになった
のを思い出した… >>61
小金湯になにかあったのでは?
豊平の構内でC121というカマが長い間入換えをしていたが、私はこれは国鉄C12の
トップナンバーだと思っていた。悪いことに苗穂には本物のC122がいたし、手宮
にはC126がいた。製造銘板に昭和18年とあっても、そのころ苗穂にたくさんいた
C11の改良型でからと考えていた。
ところが苗穂のC122の製造銘板を見て、何これということなった。昭和8年製造と
ある。それでもC122の銘板はオリジナルのやつではなく、金属回収で取り付けら
れた小型の銘板だったので、その付け替えの時に間違えたのかとも考えた。
C121が実は定鉄のナンバーだと気がついたのは、かなりあとになってからだった。 小金湯は路建設で木っ端微塵に何も無くなった。
地形すら跡形も無いよ。
今あるのか〜?
石山駅はともかく、一個手前の駅ホームだろ、あとミスマイに橋の土台。
真駒内から緑ヶ丘の堤、自動車トンネルになった石山陸橋トンネル、その先の堤の一部、
石山2条8丁目周辺の廃道、
北海道博物館にある豊平駅の看板、
平岸の「家が全部裏口向いている道路」
真駒内駅駅前商店跡地(タイヤセンター)
慈恵学園駅前の商店跡地(選挙事務所)
たしかどっかの茂みにキロポスト
そんなもんかなぁ。 豊平の駅前広場はどうなっているでしょうか。あの駅前広場(といっていいか
どうか)は、1950年代の前半ころに整備され、市電はR36から右折して終点
となるようになりました。(自分で書いててちょっと日本語が変ですね)
定鉄を降りた人は駅前の道路を横切って市電に乗ったわけです。
あの駅前ができる前は、市電の線路はR36上にありました。
豊平の旧駅舎がなくなってしまうと、あの駅前の微妙な広場な存在が気になり
ます。
>>71
駅構内は既にマンション。
市電の入り欠けはあまり意味の無い雰囲気の道路。
ターンテーブルのあたりは先日売却された東急ストア。
残っているのは歩道橋。
36線に掛かる歩道橋には36線真ん中に電停があったころの下るアプローチをふさいだ違和感のある柵のまま。
豊平前後の廃線敷地は東札幌に抜ける線路後は昔すべて定鉄関連企業だったんだが。
近年いっせいに売却されて、もう殆どじょうてつのものではない。
駅から定山渓方面に、札幌東急ストア豊平店(先月売却)、ホームセンタービバホーム
駅そのものは本社だったが、近年マンションに立替売却
駅から東札幌方面に、定鉄興行のガソリンステーション(近年売却)、定鉄タクシー車庫(近年第一交通に売却)、札幌東急ストア本部(先月アークスグループに売却)、貨物運輸会社の株式会社じょうてつヤード(近年土地売却) >>73
71です。早速ありがとうございます。
私ごとですが、一時期美園に住んでいて、あの駅前まで歩いてきて来て、市電に
乗って通学したものでした。
しばらく札幌へは行っていません。まだあの豊平駅がなくなったあともみていま
せん。今度行ってみたいとは思っているのですが、いつのことになるやら。
社型のC12が大きな丸太を積んだ貨車の入れ替えをしていた日が懐かしく思い出
されます。 定山渓鉄道の電車の塗装は「白+赤」になる前は、
どんな色だったのでしょうか?
例えば、国鉄ぶどう色2号?、阪急マルーン?、近鉄マルーン?、とか、
ご存知の方、いらしゃいますか? >>76
どうも、75です。緑色ですか、それは知らんかった。 フェザントグリーン。
ということになっているが、じゃぁどういう色というと、
田宮カラーのブリリアントグリーンが良く似ている
外人が撮影したカラーと碑文谷工場での出荷待ちがカラーで残っているな
>>74
C12を知っているとなると、昭和37年以前ですね >>78
74です。そうです。昭和24年から34年まで、あの近くに住んでいました。
だから、C12だけでなく8100も見ています。その頃は妙に煙突が長いカマだな
と思っていました。
それから、豊平の構内のはずれに長い間放置されていたコロ1あれがそんな
由緒ある車両だとは手宮に保存されることになってはじめて知りました。
中学から高校にかけてのころのことです。
おお、それは相当な壮年の方でしたか。
ちょうど自分の祖父から父も定鉄を利用していたのですよ。
からっきし鉄道に興味は無くて、あんまりいい話しは聞けておりませんけれども(苦笑
父は昭和37年から41年まで通学で利用していたようです。
亡くなってしまいましたけれども祖父は昭和31年から35年頃まで商いの輸送で利用していた模様です。
私はいまちょうど、豊平のターンテーブルの周辺跡地で商いしてます。
当時の写真を集めてはいますが、なかなか無いですね。
コロ1はないねん出版の星先生の資料だと、選鉱場にも長く置かれていたようですね。 昔の鉄ファンでコロ1がED5100に曳かれて豊平去る写真が載ってたな。
エンドに仔熊のテールマーク掲げた姿で、見送りする人多数。
熊送りって言葉が浮かんだけど…気にするな。 地元のみなさんには何をいまさらと思われるかも知れませんが
石切山の駅舎を見に行ったところ、すぐにみつけることができました。
模造の駅名札も飾ってありますね。 >>80
いやいや、壮年というよりむしろ老年、もしくは「くそじじい」です。もう
70すぎですから。
さて、電車で特に印象深い車両といえば、クハ601いうのがありましたね。
これだけが、流線型の車体を持っていました。朝夕だけ定山渓方に連結され
て運用されていました。旧北海道鉄道(現JR千歳線)から引き継いだいわゆ
る買収気動車で、深緑色の塗色がよく似合う車両でした。
それから501、数少ない木造車で、昭和30年代前半すでに休車に近い状態で
した。吉野から来たとかで、川崎の銘板をつけていました。
ながながと古い話を失礼しました。 豊羽鉱山のインジウムは世界一の産出量を誇っていたが
現在の技術ではこれ以上掘りすすめられなくなり
2006年に閉山したという。
でも、これからもし仮に採掘が再開されたとしても
鉱石を鉄道で輸送することはもうなさそうだ… 定山渓のじょうてつバス案内所があるところが、駅跡地ですか? >>85
案内所の裏が定山渓駅。
いまの「定山渓」バス停留所名は元「定山渓駅前」。
鉄道廃止後もややしばらく、定鉄バスは「定山渓駅前」だった。 >>86
ありがとうございます。わかって嬉しいです。 親父は定鉄の車掌だったが、廃止後市営バスの運転手になった。
給料は下がったが、ボーナスや退職金は良かったと言っていた。
俺は、市営バスの運転士だったが数年前にじょうてつバスの運転士に変わった。
今年からは、定山渓温泉の某ホテルの送迎バスの運転手。 >>88
運転手と運転士がごちゃごちゃだけど、あまり気にしてないのかい? >>89
親父の時代は、拝命が「運転手」
俺の採用時の辞令は、「運転士」
今の職場では、送迎運転手なんだ。 >>90
失礼しました。
なるほど、鉄道が「士」バスが「手」と憶えていたが、一概にそうでもないんだね 今も現存していたら、札幌の交通事情はどの様に変化していたのかな? >>92
真駒内くらいまで複線電化。
電化された学園都市線と直通運転してたかも。 市電路線網と定鉄が共に残っていたらLRT化が
取り沙汰されていた鴨 地下鉄南北線を旧定鉄沿いに延伸する気はないのかね? >>92-93
札幌〜東札幌はどうなるだろうか?
国鉄千歳線別線複線化の際に旧線買って電化?
そして国鉄乗入れのために交直両用車両導入? >>96
旧型及びゲロ電淘汰のために思い切って交流転換…
仙山線かっ! 札幌駅乗り入れを意識するなら交流化も考える必要ありだっただろうな。
南北線がゴムに拘らなければ、平岸〜大通〜新琴似間を交通局、平岸以南を定鉄、新琴似以北を国鉄という運営もあったかも。
それでもオリンピック輸送出来ただろうし。 >98
以前、他刷れで聞いたときも回答なかったんだけど、札幌市交通局が
独自のゴムタイヤに固執した理由が分からないんだよねぇ、未だに。
まさか、「見栄」だけってわけじゃないよね?
1067mm架空線にしておけば定山渓・夕張鉄道・国鉄各線(ただし電車は交直流。
でもソウルの実例あるから非現実的ではない)との直通だって出来た。
予算ないときには、営団あたりから中古車買って誤魔化すことだってできる。
(そもそも量産品のふつーの電車と、特注品だらけのSSトラムじゃ値段も違うし) ○騒音防止
○今のシェルター部分は当初はシェルた−なしで建設して、
比較的雪に強いゴムタイヤ車両で運用すると言う予定もあった(くわえて郊外部は地下鉄じゃなくて高架にする予定だった)
○一部に急勾配がありゴムタイヤが望ましかった
△当時の国鉄は都市間輸送特化で、近郊及び市内の通勤通学用ではなく、相互乗り入れは全く問題外だった
△鉄軌道にすることによるコスト低下が重要視されていなかった >100
騒音・対雪あたり納得は出来るけど、決定打にはならないような。
やっぱり
「新しいもの好き・見栄」
「コスト意識の欠落」
がゴムタイヤ式を後押ししちゃったのかな……。
まぁそんな事情で導入されちゃった姫路モノレールとか
そんな事情に限りなく近そうな千葉モノレールとかあるから、
都市交通における合理的な判断というのは働きにくいんだろうねぇ。
三大都市圏にしか地下鉄がなかった時代に、
まだ一地方都市だった札幌に地下鉄を通す名分として
新交通的な要素が必要だった、といったようなことを
ずっと前だれかが書いてたよ。
霊園前の辺りの急勾配は鉄軌道じゃ無理目なほどの急勾配だから
それは決定打になるね
それから都心部を除いた郊外は高架の予定だったから
地下→高架部分は同様の急勾配になる予定だった
なのでゴムタイヤ導入だよ 結局、アイデアマン・大刀豊局長を始めとする交通局技術陣が
オリンピックの緊急性を背景に技術的暴走しちゃったのが実情ではなかろうか。 でも乗り心地はいいから○って感じ? 初めて乗ったときには感動すら覚えた。>ゴムタイヤ 当時の太刀交通局長は「法令が無ければ無いで、サッサと造ればいい。造っちまえば
法令など後からついてくる」が持論の人だったからね。 当時の地方私鉄ではすばらしい車輌をそろえ、有名な温泉をバックに抱えていたのに、
なくなって残念です。今も存在していればと思います。
ところで、当時の車輌の内装はどんな感じだったのでしょうか?座席の色とか内張とか、
北海道ゆえに暖色系とか。 >107
モロやクロは普通にニス塗だったと思う。写真の出処覚えてないスマソ。
他の電車もニス塗りだったんじゃないか。あの時代じゃ。
十和田観光にいった湘南顔のは(1207+1208)
十和田観光だと灰色塗装+緑のモケットだった。ただし
十和田観光で変更された可能性は当然にあるけど。
ご教示ありがとうございました。外観の写真は多くても内装はよくわかりませんよね。
つくづく現存していればどうなっていたかと思います。
星良助翁がほぼすべて撮り残してくれている。
著者に分散しているから、全部見るには著者に諭吉二枚ほど必要。
レイルno21、22・北線路
北国の汽笛1〜4
鉄道ピクトリアル232
位、買い集めて損なし。
どれも案外入手出来る。
キハ7000の転クロはスゲェの感嘆でておかしくない。
北国の汽笛からオススメ。
北海道私鉄に銭払った以上に深く魅せられること間違いなし?
遅レスすまんが>>99-102について
表向きの理由は>>100の通り
んで>>102の話は、
当時の運輸省が「地下鉄は三大都市圏以外は不要」と言って、頑として補助金をつけてくれなかったというもの。
一方、当時はモノレールやらの新交通システムが今より有望視されていたということもあり、五輪のからみもあって、そちらの枠なら補助金がつきそうな情勢だったという。
んで、「これは一部地下も走る新交通システム」と言い張るために、地上区間を設けることにした。もちろん、五輪までの工期日程的にも、地上区間を設けたほうが得策という事情もあったが。
この説はただの噂話なんで、残念ながらソースはない。当時の予算書でも見て補助金の費目を調べれば少しは分かるかも。
しかし、仮にこれが事実としても、東西線、東豊線の頃は事情が変わっているのだから、鉄軌道で作るべきだったわな。
この辺になると市の意地だけではなく、事実上一社独占の車両メーカーやタイヤメーカーとの癒着を疑われても仕方ないと思う。
いいんじゃね。定山渓の最後にはついてまわる影だし。
札幌市交通局のスレだと今の地下鉄のこととか、市電話とかで
この種の話題は埋もれると思うぞ。 >>96-98
国鉄が>>57のように思っていたとしたら、地下鉄直通を気に手を切るかもな。
車両面を考えても、定鉄・地下鉄(現行5000系基準)の18m直流規格にわざわざ合わせてくれるとも思わんし。 時系列じ考えてみると面白いのが、
東洋精糖事情〜五島慶太死去〜東洋精糖撤退〜伊豆急開業〜くろがね自動車撤退〜定鉄廃止
の順番であること。
実は東急グループは伊豆急と定鉄の間で経営危機になっている。
そのため、五島昇の努力で再建を目指し、瀬島龍三などの大物に相談役や非常勤役員を依頼して、銀行からの人材注入を避けた歴史がある。
定鉄の開業に際して、当時の大臣は五島慶太であり、テープカットをしている事実がある。
慶太の内心を考え、鉄道を継続していた向きが大きい。
また、東亜国以内航空結成目前にして、大きな資金を調達する必要があった東急グループは、
経営バックボーンが変わり、北海道東急グループを拡大継承したものの、資金を北海道内で回し、
事実上本体から金銭的な流れを切ることが必要であると考えたのが五島昇であると言われている。
そこで考えられたのが、定鉄を北海道東急グループの幹事会社として資金力を持たせ、成長分野の不動産中心に
資本中心化をさせる案があったらしい。
そのため、定鉄の鉄道廃止を取引条件に、五輪関係でつぎ込まれる資金を取り囲むことでの
北海道東急資金独立確保が計画されたと言う説がある。
五島が主宰したテンテン会のメンバーとも歩調をあわせたとも噂される。
テンテン会メンバーは、昭和40年代前半、瀬島の勧めで起きた政財界の青年集団で、
警視庁総監秦野章や、鹿島の石川六郎、廃止を決めたときの運輸大臣中曽根康弘が居るなど、何らかのにおいがする。
その直前に、財界の大物とも懇意になっていると言うか、住友銀行系慶応閥との和解をしている。
あまりに出来すぎていると言うか・・・。
私見だが、定鉄廃止は、上手に五輪資金の一部が東急グループに流れるように警察政治金融経済界がやんわりとタッグを組んだ結果ではないかと思うのだが・・・。
まぁ、確かに、定鉄へのいきなり7箇所立体交差化のほかにも、昭和30年代の警察は札幌市電親子電車に対しても「交差点通過時間がかかりすぎる」というイチャモンにちかい勧告をしていたりして、
訳の判らない交通取締りをしているのだけれども。 ちなみにテンテン会の結成の発端となったキャピトル東急開業が1963年であり、
その1010号室が会合の場だった。というのは記録に残っている。
昭和38年から定鉄廃止決定の昭和42年までに、秦野と中曽根と懇意にあり、
不動産開発&建設を拡大の種に伸びて、更に真駒内アイスアリーナなどの五輪施設を後に建設する鹿島建設の石川六郎がいるというのは
あまりにも出来過ぎではないかと。
結局、鉄道の規格や運輸成績もろもろなど関係なく、そういった人脈から定鉄は廃止になったのではないかと推測している。 続けると、
昭和40年代中半から後半にかけて、
秦野は政治家への路を進み始め、石川は五輪建設の大きなものを手がけたことを切欠にメガゼネコンの地位を確立、
東急は北海道に定鉄を中心とした不動産と観光ネットワークを確立、中曽根はキャリアを重ねて田中角栄の次席を狙う基礎派閥の開始、
着実に成果をものにしている。
テンテン会は15人位居たらしいが、ほかにもそういった上手にカルマを伸ばしたものが多い。
ちなみに小佐野賢治や田中角栄はテンテン会には入っていないので、また別の五島人脈であったようだね。
(どちらかというと慶太が昇に与えた人脈のようだ) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています