思い出の定山渓鉄道
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札幌市中心部と定山渓温泉郷を結んでいた懐かしの定山渓鉄道。
右側運転台の電車、国鉄乗り入れ用気動車、湘南スタイルのスマートな電気機関車など、個性豊かな車両が揃っていた定山渓鉄道の思い出や廃線跡のお話などをお願いします。 >>153 いやーそれは 馬鹿な役人しかしない希望的観測じゃないの?
札幌郊外の人口は当時より減ってないか?東京集中で。
俺的には、エネルギー革命(国内炭と外国炭の価格に差が無いとかも)が起きず
夕張と札幌急行電鉄が具現化していたほうが面白い事になっていたと思う。 でも定鉄残ってたら準大手に成れたかどうかはさておき
南区の人口はもっと多いと思うよ 真駒内〜定山渓だけでも残ってたら・・・
って、やっぱり無理か。 真駒内以南がキモだけど、以北も東札幌連絡線プラス千歳旧線貨物化残存区間とセットで
残したら多大な威力を発揮していたと思う。
札幌直通は難しいにしても、苗穂まで自社線で直通していたらそれだけで地下鉄南北線が
かなり楽できてると思う。
札幌出身の鉄も一般人も、酒の席で沿線の話になると口を揃えて「あれが残ってたら…」という話になる。
石山とか簾舞あたりは今の悲惨な道路事情から解放されたらもっと発展しているだろうし、
定山渓温泉もここまで寂れないで済んだと思う。 >>159
千歳空港駅開業に合わせて交流電化して、空港直通快速とか走らせればすごいことになってたような気がする >>159
完全地元在住だが
>今の悲惨な道路事情
今は逆に過剰なくらい道路が太くなったから、もう実質要らないよ。
藤野地域も人口暫減でスーパーでさえも閑古鳥だ。
バスは相変わらず交通弱者をキチンと細かくフォローしているし
いま、駅にまで歩くと言う状況ではないな。
石山は逆に道が良くなった昭和53年から急速に寂れた。
いまや老人ホームが17件もある姥捨て山だ。
それだけ交通事情が良くなっちゃったんだよ。
定山渓も寂れているのはホテルのワンパッケージ化がメインで、ホテル外に人がでなくなったからだよ。
あと、豊羽鉱山の閉山も大きい。
まぁ、勢いもって藤野に地下鉄があったらよかったけど、恐らく赤字の大量発生原因になる空気輸送だったと思う。 豊羽鉱山の掘削全盛、ダム建設全盛のときには工員が定山渓に数ヶ月数年滞在した。
その頃が近代定山渓のピーク。
特に女買いが商売として成立していた。
働く男の性欲処理が花盛りだったし。それが賑やかにしていたからね。
いま、定山渓に女郎が入るなんて聞かない。
恐らくいないんだと思う。
デリすらいないかも。 >>161
鉄道が無くなって道路しかないから整備されたんであって
鉄道残ってたら逆に道路貧弱なままだったかもね 伊予鉄森松線の話と似ているなあ。
あっちは鉄道を廃止して道路が太くなったから、街が栄えたという点が違うけど。 >>163
うんにゃ。
昭和44年の前から30年計画が既にあった。
かなり遅れているけど進んでいる。
逆に人口増加のポイントの藤野団地一体は、定鉄保証金が元金なので、
廃止ありきは当然であり。 豊羽鉱山…採れていたのはいま話題のレアアースですね… 埋蔵はまだ在るのだけど、地熱が高くなりすぎたのだよね。
国家的に露天掘りすれば 豊羽鉱山は、地熱の原因となっている温泉の水脈を変えない限り、
あれ以上採掘出来ないから無理。
内地の者で門外漢ですが、たった数日のレースのためだけに恵庭岳の原生林つぶしたり、
道警が年間200万近くが利用している鉄道に廃止勧告したり、当時はまさに狂気の時代だったのですね。
時代の犠牲になった定鉄、もっとも東急系列化したおかげで保証金がたんまり引き出せたわけだし。
五島の犠牲になった定鉄といったほうがいいのかもしれませんね。
浅野社長が率いていたらその前にとっくに倒れていたんだけどな。
過重投資で回収不能な残貨が積まれていて、
実は東急が肩入れしなかったら倒産になっていた。
決して黒字でもなかったからね。
その決算書が出て、地域の株主は一斉に五島に売ったんだよ。
売買仲介も北交ハイヤーの柴野だ。
北海道人が手回ししてんだよ。 恵庭岳は当時から批判があったよね
手塚治虫のブラックジャックに恵庭岳の乱開発を批判してた話がある
定鉄は真駒内以南については確かにその通りだけど
真駒内以北については地下鉄になってよかったと思うんだが 171です。ご指摘ありがとうございます。
たしかに、昭和30年代初めの定鉄の設備投資は路線規模からみても
異常といえるほど活発でしたね。
掘れば掘るほど売れた石炭、唯一の楽しみが週末羽をのばすこと。
その絶好の対象が定山渓温泉。
準急「たるまえ」が乗り入れるとは道南からも定山渓に行楽に来たわけですね
そのころは関東でも週末の小田急の箱根特急の指定券の入手難は社会問題
になるほどだったとか。
長電が特急の座席指定制をやめたのも、お客さんが乗りすぎて指定席持ってるのに座れない人が出たためだとか。
そんな時代だったのですね。
毎年一割以上のペースでお客さんが増えていたわけですから、積極的な投資もうなづけます。
それが、まさか約10年後に廃止になるとは思っても見なかったでしょうね。
写真見ても単行列車ほとんどないですものね。3連4連が当たり前。
間違いなく戦後の廃止私鉄の雄でした。再生の道はあったでしょうに。
その再生の道が、地下鉄に真駒内まで譲ることだったのかもしれない。
札幌は「雪に負けない交通」がほしかったのだから、地上鉄道との乗り入れなどもってのほかだったろうし。 再生の道は無いに等しかったでしょうねぇ。
札幌市の発展の代理処分となって消える運命にはあった。
確かにキロ当たりの乗員1000名だったかの規模で廃止された数少ない鉄道のひとつではありますが、
それが存続には結ばないKともある証明といえるでしょうね。
東急グループが買収案に積極的になっていったのは紛れもない事実。
それは代償案が桁外れであったことも事実。
実際廃止されてからの札幌の発展は見てのとおり。
また、南区の収縮も起きているのもまた事実。
南区だけの鉄道ではジリ貧であり。
法人960社しかなくなっている土地でもあるし、老人世帯が散漫かつ比率の高さから経済量も無い。
公営交通で美味しい中心部輸送が代置されればドル箱を失い勝てる見込みも無いでしょう。
たとえ澄川真駒内間が並行してもと言う意味で。
輸送量があったゆえに、更に大きな輸送機関に置き換えられたと見るべきかと。
時節の後押しも大きかったわけで。 そもそも、
廃止直前の頃は、既に札幌〜定山渓方面の輸送は、
豊平川左岸を走るバスが主流だったんじゃ? 左岸と言うのがどちら確定しているかわからないが、現在の7系統は昭和53年の開設だよ。
廃止時に札幌市営に概ね委譲した定鉄バス路線のうち、定鉄バス側に生存した8番系統と12番系統に新たに追加された久しぶりの系統だった。
旧7番系統は平岸駅を基点とした現在の豊平区内路線だった。
12系統ももともと真駒内で切れる路線ではなく、もっと北進する路線だった。
札幌駅に国道230号線を北上する8系統も今の半分程度の本数だった。
それで主流とは少し言いがたい。
興味深いですね…
定鉄バスの路線の変遷に詳しい資料とかないですか 定鉄バスが昭和47年に市営買取を獲得するまでに、市営譲渡したのは9路線バス34台79名の職員と言う資料が散漫だが書き残されている。
そのときに現在の東光ストア自衛隊前店とドエル真駒内の敷地にあった車庫がボーリング場転換されているらしい。
しかし、昭和51年にはボーリング場をスーパー業態に転換。
どれも正式広報ではなく研究家による資料と、自分の目視確認事項、及び札幌東急ストア時代の資料であるので正確ではないかも知れぬ。
9路線と言うのに注目したい。
12系統までは現存数の上であるのに、9系統では実は数が合わない。
8番系統は9+1以上に内包するので、鉄道時代からあった路線であると仮定しておく。
実際、モノクロ写真には8の文字のあるバスと鉄道が石山陸橋でランデブーしている写真がある。
1系統は伝え聞いたところで、真駒内〜平岸〜豊平〜苗穂駅の鉄道補完路線で、市営になって平成年間まで生きていたことは知られている。
ただ、これも伝え聞いたところであるし、実際定山渓鉄道真駒内は今の地下鉄真駒内の場所ではないし、要衝であったかは?だと思う。
ここ真駒内で1系統と12系統が乗換えをして、2系統で鉄道並行路線だったのかと言うと少し疑問は残る。
少し手前にバス車庫があるのだから、定山渓鉄道慈恵学園前(東光自衛隊前斜向の消防署が当時の駅だったようだ。)で、接続だったのかもしれない。
>>178
8系統、当時30分間隔だったって何かで読んだことがあるけど、違うのかなあ・・・。
鉄道が18往復(約1時間ヘッド)だったわけだし。 >>180
ありましたねぇ。南91澄川苗穂線。
市営バス時代には、珍しく距離の長い路線だったので一日乗車券で
遊ぶときにはよく狙って乗りました。 >>182
定鉄通学だった父曰く
「バスは時間が読めない」
と言うことではあったようだ。
まぁそれはそうとしても昭和38年当時では12系統が無く、通貫はさせていないからこと札幌駅直通する需要以外は分散していたと思われるが。
時間的には、当時の繁華街「まるい前」までは豊平乗り換え市電とあまり変わらなかったそうだ。
それだけ石山通の道事情も悪かったということでしょうねぇ。
すくなくとも、自分は細くくねくねした石山通を知っているので、確かに均衡速度は遅かった。 内地モンですが、教えてください。廃止直前でも年間150万人くらいの輸送量があった定鉄、
これだけの人を運んでいたのによくバス化できましたね。
混乱しなかったのですか?マア、それが許された時代だったんでしょうね。
ん?
定鉄は知らない世代だけど、20年前高校時代バス通学していたが、
完全満員で積み残しはざらだった。
職についてからも最終バスは寿司詰め。
ただ、最近はそういう光景が無く
殿様じょうてつが続行を出すようになるなど細かくことが出来るようになってきている。
沿線公共交通人口減少は相当みたいだ。 >>185
輸送量が多い区間は地下鉄になった訳でしょ。
必要なところは上位代替され、バスで十分な区間がバス化されただけでは? 230号沿線というと、ひとたび雪が降れば街まで2時間という印象が未だにあるのだが
最近どうなの? 問題は地下鉄が従来規格と互換性の全くない札幌市交通局の道楽的シロモノってこと。
市営地下鉄が1067mm架空線で、定山渓電鉄との相互乗り入れ
(一部車両は交直両用車で国鉄とも乗り入れ)
だったら、定山渓電鉄は「変容」はすれど「消滅」はせずに済んだのに。
輸送力の少ない区間は従来の電車や気動車(電化廃止も選択肢)でまかなって
輸送力の多い区間は地下鉄直通電車で賄う。
雪害対策のシェルターや地下化も少しづつ進めていったってよかったんだし。
余談だけど市営地下鉄が1067mm架空線20m規格なら
電車とか汎用性のある規格品(要は走ルンです)or中古車でもまかなえたんだよね。
SSトラムの罪は重いと思う。 >>153
札幌に移り住むまで神鉄有馬線の沿線に住んでたが阪神大震災の頃までは宅地開発が活発で電車も冷房化や新車投入なども活発で発展してたが平成不況と都心回避で(粟生線ほどではないが)かなりジリ貧だよ(>_<)
あと某超大手宗教系国家議員が近年までいたせいで4両中1両まるごとが雌車のせいでマイカーや特急バス(高速バス)に流れたのもあるが…
なので発展したとしても厳しいのでは? >189
それはありえない。
地下鉄は雪をシャットダウンすることも目的だったから地上鉄道との直通という発想は建設時には無かっただろう。
>191
ゴムタイヤと鉄軌条の優柔と雪対策は何ら関係ないと思うが。
鉄軌条でもシェルターの整備は可能だし。
問題なのは、建設というか計画時に全く既存鉄道網との直通を考えなかったことと、
独自規格によるコスト高を考えてなかったであろうということ。
まぁあの時代の「無茶苦茶さ」に今更突っ込みいれても仕方ないけど。
ただ、定山渓電鉄の地下鉄化されなかった区間は残ってても
今は存亡を問われるような状態になってたとは思う。
>>190
ゴムタイヤ規格のことではなくて
>市営地下鉄が1067mm架空線で、定山渓電鉄との相互乗り入れ
これが、ありえない。 >>192
当時は自動車の隆盛で鉄道産業は斜陽化すると見做されてて、
自動車と一定の共通化が図れるゴムタイヤ式でないと生き残れない、
そんな風潮があったんよ。
そんな環境の中で生まれたのが、札幌のゴムタイヤ地下鉄だったり
各種モノレールだった訳で、当時の時代背景を考えれば順当な判断。
特に札幌の場合は都市圏輸送を行う鉄路が定鉄しかない状態で、
定鉄の都市圏輸送区間を置き換えてしまえば既存の鉄レールとは
決別できる環境があったので、他都市では為し得ない「全面置き換え」を
一気に進めた、という経緯でしょ。
当時の判断として、札幌市のそれは非難されるものではないと思うよ。 >>194
…という経緯でしょ。
という川重の口車に、市幹部がまんまと騙されたというのが真相じゃないの? >>195
昭和30年代〜40年代は、国策としてもゴムタイヤ式を推し進めた時代。
輸出も含め国の基幹産業として自動車産業を育てようとしていた時代な訳で、
その中において「自動車産業と一定の融和を図れる」ゴムタイヤ式の車両は
当時の将来像としては必須だったから、大量輸送機関としての札幌方式に、
中量規模向け(路面電車代替)のモノレール各方式が編み出されたんでしょ。
大量輸送機関については既存鉄道との融和が必要な都市が多かったので
札幌以外に採用事例がなかったけど(札幌の場合は定鉄置き換えが前提)、
モノレールは国裁定の標準規格としてゴムタイヤ式が選定されてるしね。 更にまた札幌市としてはオリンピック開催の見栄もあったことは事実。
オリンピックに向けて運動施設以外にも
・市電の大量整理(時代遅れだという風潮)
・市役所庁舎の新築
なんて湯水のように公共事業をやっていた(からね。
>>まぁあの時代の「無茶苦茶さ」
確かにすさまじい勢いだったそうだわ。
毎日街が変わっていったと、医大前に住んでいた母曰く。
>>今は存亡を問われるような状態になってた
今もそう感じられると思うけど、定鉄廃止が無ければ藤野の団地一体全部もなかったんだよね。
南区はジリ貧どころか本当にモエレの方面のような僻地で終わっていたと思う。
今でさえ、札幌市の過疎地域だがww
>>これが、ありえない。
たーだ、これの冷静さは欲しかったもんだなぁ。
ま、「意欲的な」市交通局の某部長の所為でもあるがw
>>そんな風潮があったんよ。
そういう文献がきちんとあるものな。
(当時の道新連載記事など)
>>時代背景を考えれば順当な判断
時代の仇花の貧乏くじを率先して引いたと、いうことには違いないんだけどな。
順当と言うより「しょうがない」
>>札幌以外に採用事例がなかったけど
南北線はともかく、東西線は違う事情あり。
昭和49年には、見直しが掛かったのに札幌は突き進んじゃったからなぁ・・・。 札幌市営地下鉄とJR線の直通って
妄想垂れ流してるヲタが多いのに辟易してるんだが、
基本的に、函館本線と市営南北線では利用者層がほぼ分離しているだろうに
JR利用者にとってせいぜい一駅、二駅の大通、すすきのまでにしか用は無い
それぞれ各方面からの需要は、
地下鉄とJR線の結節点である札幌都心(含む大通、すすきの)に
集中してるのであって、
真駒内ー手稲、真駒内−千歳、麻生−etcという需要はかなり少ない
そもそも地下鉄ベースで考えるとJR線の各方面列車が少なすぎて、
待ち時間考えたら、さっぽろ駅でおとなしく乗り換えるのと変わらないだろう JRと市営地下鉄の直通って、函館本線や千歳線じゃなくて
札沼線のほうだと思うんだが。 >>155 超遅レスですまん。
夕張は札幌乗り入れを熱望していた。車両を国鉄に提供しようと働きかけたくらい・・・
それ故の遺恨からか、夕張は国鉄を凌ぐ車両サービスに血道を注いできた。
当初は定鉄を介して国鉄札幌駅1番線乗り入れ やがて 両社の合資で発足の札幌急行が独自で札幌にターミナル新設で
後に電化の国鉄線と競合とかね。
定鉄の 日立製デーゼルカーや札幌市営地下鉄の(特に初期)独特のデザイイン意匠の車両って
ソ連の鉄道車両や サハリンの帝国車両製湘南型ディ−ゼルカー 妙に近似性を感じるよな。
ひょっとして当時の社会党や共産党がソ連の北海道占領計画を見越して関与したのか?(笑)
札幌ー夕張間を結ぶ鉄道とし >>200
おいおい
中途半端に切れてるけど大丈夫か? スレちがいですが、夕鉄の急行、無料だと思っていたのですが、
急行料金とった時代があったのですね。
あるサイトで栗山から野幌行きの急行乗車券の切符(硬券)
を見つけたもので。 >>201 ゴメン では続き
札幌ー夕張間を結ぶ鉄道として発達して夕張(迄とは云わないが夕鉄沿線が札幌の通勤圏内)になり
札幌急行鉄道と国鉄が競合するようになっていなかったかな?と・・・
少なくとも夕張市の破綻は回避できたような・・・
嫌な話だが、北海道道内の土地・街としての発展だけを考えたら。
ソ連が侵攻していた方がソ連邦の極東最南端の比較的温暖な地域として発達していたのかな?
★無論 我々日本人の(勿論 北海道民も含めて)には無縁か奴隷的な扱いの状況下だろうが・・・
>204
その後半の妄想は面白いし個人的には大好きだけど、問題が多すぎる。
ここより他スレのほうが。
ここのほうが未だ関連性あるかも。
【台湾朝鮮】外地総合スレ【樺太南洋】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1220883238/
ただ、この種の議論というか想定って得てして北朝鮮的悲劇を想定されることが
多いんだよなぁ。せめて東ドイツくらいを前提にして欲しいのだが。
分断国家と云っても西から東に行くことは出来る程度の分断ねw >>138に追加
そして、北海道新幹線が札幌まで延伸すると、定鉄が三線軌条化し、北海道新幹線が定鉄に乗り入れる。
要するに博多南線や越後湯沢〜ガーラ湯沢と同様の新幹線規格在来線扱い。
北海道新幹線の定鉄乗り入れ区間の停車駅は南平岸、真駒内、藤の沢、定山渓
これにより、首都圏から定山渓温泉に行けるようになる。 >>207 東急は東亜国内航空→日本エアシステム→JAL統合 抱えていたからソレは早期に航空会社を手放さなかった限りありえない。 それにしても何故キハ7000と7500は関東鉄道と茨城交通に売れなかったんだろう?
同日に廃止した江若鉄道の戦前のキハが7両も売れたのに・・・
湯口徹さんじゃないけど、どうしても解せない。 >>209 以前鉄ピクに、関東鉄道(当時常総?)の関係者の鹿島参宮とのキハ04払下獲得競争とか
の話や廃業私鉄からの中古車購入の際、「私鉄車両めぐり」の記事が、大変参考になった旨書いてあったな〜
(加越能15001が売れなかったのはこの辺が理由かな?)
今なら当時中古買い付けに地方行脚した人にまだ訊けるかもね。
俺は、江若廃業時の熊延からきた湘南形キハが売れなかったことも不可解。 rmライブラリーで近いうちに定山渓鉄道、旭川電軌、札幌市電、湧別鉄道
根室拓殖鉄道、花巻電鉄、仙台鉄道、秋保電鉄、秋田市電のどれか1つをやるそうです。
又今書いたすべての鉄道や全ての国鉄客車や全ての廃止された市電を数年以内にやる
事が決定した。以上
>>210
加越能15001は論外だったからなあ
実態知ってれば誰も買わないだろう >>212
電車用の重い車体と台車に機械式変速機つけて機関はパワー不足、おかげで車体は変形したという、凄まじい代物だからな。 売るとか買うとか言う以前に廃止を待たず潰しているしw >>209
あれは右側運転台だった・・・んじゃなかったっけ?
似たり寄ったりの世代や状態で改造不要(左側運転台)の車両があればそっちを買うわな。 加越能15001は、もしかして規格型? 親会社地鉄や長野電鉄、定鉄に日本車両が昭和20年代半ばにばら撒いた規格型に似ているのだが・・・
まあこの車の発想そのものは、企画モノだが・・・故に日本車両製ではなく輸送機工業なる会社製なのか。 豊平駅前の酒屋さんがまだ健在なのを最近知りました。
観楓会などで団体で定鉄電車に乗り込む時、
若手社員がそこで酒やビールを買い込んだものでした。 >>215
定鉄は中古の再販を基本的にしてはあんまり良くない雰囲気であったんだよ。
中古で流れた会社の、それぞれのオーナーの名前を調べ、
東急グループの啓蒙バイブル「小説・東急王国」を読めば謎は解けるぞ。 >>219
ああ、五島慶太―小佐野賢治つながりだな>>十和田。
長野電鉄はなんだろう? 定山渓EDもながの東急も赤蛙も神津―五島のラインだろうね。
で、更に転売した越後交通もこれまた五島繋がりで・・・
それはそうと、定山渓の様なしがらみの無かった筈の北海道拓殖鉄道キハ301が転売されなかったのは、
客車改造名目と言うのが引っ掛かったのだろうか? >>221 所詮 旧型客車台枠流用で国鉄型のパチ物(古いし重い!オマケに三流(泰和)メーカー改製)をはるばる道東から1両引っ張るのは、
不合理だよね。 出来も悪いけど規格外の小型車なのも痛かった>キハ301。
まあ道内メーカー製というだけで大抵の会社は引くだろうけど。
あと極端に予備車の少ない会社だったんで、酷使がかなり響いてた。
(あれが入線した時点で、元佐久の中古気動車2両と鋼体化中型客車1両が
旅客車の全てだったはず。日車レールカーは早い時期で事業用車状態だったし。)
>>216
下回りは栗原M151と同系列の初期の軽量ツリカケ用軸バネ台車。
>>210
あれは工作とかアコモ、材料がかなり粗悪だった。
同系列車を使ってた茨交や有田も車体の歪みとか老朽化に相当苦労してる。 >>222
現車は桑園の泰和車両に引き込まれて3年ほど放置されていた。
結局、粗悪品と言うのは売れにくかった理由になったと考えるのは自然なことだろうと思う。 中小メーカーや自社工場製の車輛は品質的に下と見られたと言うことか。
西武所沢や南海天下茶屋は別格として。
近江のクハ1212も車齢は若かったのに譲渡話はキャンセルされているし。
それを考えると、静鉄の中型車が良く売れたのは奇跡的か。 定山渓駅は温泉街よりも高い位置にあったから、帰りは坂を上るのがキツかったよ。 もう黴が生えた経験だが、父と北海道行きの時に豊平からモロ1100?青帯の
2等車に乗ったら道新の夕刊を呉れた。転換クロスだったが扇風機か無かった?
当時鉄では無かったので撮影しなかったのが惜しい。
断って措くが年齢とかの個人情報は開示御断。
>>216
加越能キハ15001は富山‐金沢間私鉄電車計画の車両で電車型車体で台車が
FS13鋳物台車で全体に重く、DMH17のギアチェンジに無理があった。
ギア欠損やクランク折れ故障が多く、乗り心地は良かったが乗務員が嫌っていた。
部内からトルコン取り付け希望が強かったが、親会社の富山地鉄がゼニを出さず、
最後にはDHM17がバテたうえに車体が歪んだので廃車になった。
廃車直前に車庫で見たがそれは酷い状態だった。
>>日本車両が昭和20年代後半にばら撒いた-----とは運輸省私鉄標準型車両の
A規格型か?地鉄14750、名古屋3800、定鉄1000か?それなら昭和23年-25年頃だが。
若し間違って居たら御免。
>>227 ご親切に有難うございます。 A規格型の事です。書籍「日本の内燃動車」を観た
あくまで見た目の印象ですが(・・・・コレ規格型電車みたいなじゃない?)
もしトルコンを載せても今度は、重すぎてトルコンの滑り、故障に悩んで結局散財では?
>>223 アゲ取りじゃないのですが、 熊延は、帝車 有田&茨城(ケハ401)は山鹿キャンセルでそれぞれ富士重と新潟 製とメーカーが違うと思うのですが・・・
キハ10系以前の国鉄型湘南キハの図面流用で似たりよったりで、初期のカルダン電車が短命なのと同じで耐久、腐食配慮不足と云う事でしょうか・・・? >>229
続レスで御免
キハ15001は自重28.8トン、キハ07が27.8トン、トルコン付のキハ10が
30トンだからそう重量超過ではないだろう。形態的には地鉄14750系統だ
けれど。現場もその辺を理解しての上でTC2A取り付け要求だったと----
A規格型には長野の1000も富山と同じ車体だった。 旭川電気の1001が売れなかったのも、1両だけ引っ張る手間(しかも電車は内地で好いタマが探せる)からかな? 地方私鉄事業者は一部を除いて、保守的なところが多いから、
新機軸を盛り込んだ特殊な電車は嫌う向きもあったのでは>旭川1001
既に類型車を使用していた会社でも、1輌だけ仕様が違うのは面倒だろうし。
1輌だけ回送する手間は、当時は甲種鉄道車輛でも1輌単位で一般貨物併結は
良くあったから、大した問題では無いと思う。
新しい車輛でも売れないのにも、何でこんなボロを掴んだんだ、と言う場合も、
それなりの理由と背景がある場合がほとんどだから、
そのあたりを色々推察してみるのもこれまた面白いかと。
例えば、名鉄は何故東急が提示した蛙5000を蹴って
ボロボロの規格型3700を買ったのとか。 >225
> それを考えると、静鉄の中型車が良く売れたのは奇跡的か。
しかしその実、海に近いので塩害により車体の痛みは酷かった、
とピクの譲渡先に関する記事で見た気がする。 日立だったたか熊本だったか、車体が歪んでドア開かなくなったって聞いたことがある。
普通の貨物列車に甲種輸送ぶら下げたのは、山形交通からコトデンへの写真を見たことがあるな。 静鉄の自作新車は、確かに(特に湘南型は)空調配慮とか工作が未熟な感じがする。
それでも売れたのは、同レベルの地方鉄道相手で価格等以外にも表に出ない配慮があったのだろうか?
>>233 3700形第二次譲渡の時ですか?
確か長電が東急に手頃な中古車供給を打診した時(つまり名鉄が第一次3700を譲り受けた後)は、まだ3450形を東急は長電に推奨してきた。
にも拘らず、相手が名鉄なら5000系とは、長電に失礼だな。
妥協する事なく5000系を東急から交渉で引っ張ったりパノラマ電車構想や2000新造の際
名鉄5000を参考に話を進めるなど長電の車両の人は賢いというか優秀だな。
>>237
名鉄に蛙提示は第一次の時だったと思った。
最初は東急が某業界紙に3700系を譲ります、という広告を出したことで始まり、
しかし、直ぐに一旦これを引っ込め代わりに蛙を出した。
ところが、名鉄は5000系の使用実績から直角カルダンに
余り良い印象を抱いていなかったのと、
3700系はMMが他のAL車と同じTDK528で保守上好都合だったから、だったはず。
廃車時も発生品を他のAL車に流用でしゃぶり尽せて二度美味しかったし。
静鉄の譲渡先で、日立電鉄と熊電は、日立と東急と言う共通項で
何となく類推できるのだけど、福鉄とはなかなか繋がらない…
当時合致するスペックの電車ってこれ位しか無かったのかな? >>239
架線電圧が600Vというのがあるんでは? >238併用軌道があり、車両限界(車両長と車両幅)の問題が決定的な要素では?
当時、もう大手私鉄には適当な小型車なかったしね。静鉄長沼と福鉄西武生といえばどちらも自社工場で車両を作る器用なところだったね。 >>241
いや、静岡鉄道のやつは全長17,8mだから、小型車ってわけじゃないよ。
当時(1986年)の大手私鉄で廃車になっていた18m級程度の車両を見ると、
東急の3000番台と、京急の600くらい。
車齢も若く、電気関係の改造も最小限で済む静岡鉄道車は魅力的だったんじゃないか? >>242
京王井の頭線のG車とか西武351、小田急2200に新京成100もあるな。
結局直角カルダン以外の新性能車でそのサイズで1Mで冷改済というのが効いた気が。
1M運用OKな小型冷房車って京王重機商法のない当時はかなり貴重だった。
京急600は冷房は乗ってるけど、オールMで定格速度が高すぎて電気食いすぎた。
あと路面区間での運用性に関してはむしろ劣悪だった。
併用軌道では中ドアしか客扱いできず、急行専従と諦めてたしステップの出来も悪かった。 >244
1986年ってのが、微妙なんだね。
京王井の頭のグリーン車は1984年全滅。京王線は伊予鉄にみんな取られちゃった。
西武の351は多摩湖線用の最低限のヤツを残して既に全滅。
小田急の2200は選択肢としてありえたかも。製造年が10年差があるけど。 >>244
300型は福鉄入線時に冷房化したんじゃなかったっけ? 延々スレ脱で申し訳ありませんが、こういう楽しい話が出来るところがないので続けさせてください。
静鉄や地鉄は、もとも大所帯で資本も技術もそれなりだけど、福井鉄道は自作は南越線の小型2両だけで後は連接改造実績のみ
福井の二代目140形連接車に種車は名鉄&長電と凄まじいものだった。
どういう理由か知らないが予算的に車両導入が相当厳しかったのかな?
親会社名鉄もアテにならあないし(他の子分達もあまり面倒見てもらえない、寧ろ支配下に収めようとし系列外の地鉄、琴電を厚遇散財!!)
涙ぐましい努力だよな。
>>246
そう。
しかし、路面電車用じゃなくて普通の東芝製集約分散クーラーを載せたけど
車体強度は大丈夫だったのかな? >>247
小林宇一郎さんは良い人だったよ。
OSカーを見たいと長野駅から電話したら、須坂まで一緒に行ってくれた。
そのとき阪急の1002がつけて居たアルストーム型のFS102?だったかの
「狭軌タイプが欲しい」と話されていた記憶がある。
当時は何か新しい事をやりたいお気持ちだと--------。 鉄ピクの私鉄車両めぐりに元定山渓の珍車載ってたの思い出した。
豊羽鉱山専用線で木造客車を動力化して通勤&入換に使ってたヤツ。
ゲテさ加減じゃ根室拓殖の銀龍号とイイ勝負なんだが、
これの詳細知っている人いませんか?
若葉の香り高き新緑の野に山に、陽光を浴びての郊外散策、そして綺麗な温泉の一浴こそ
什?にか心身を甦らせて、溌々の元気を養ふことでせう。殊に学校の遠足や休日を利用して
の一泊、或いは日帰りの団体旅行地は先ず山水絶勝の北耶馬渓行きをお奨めいたします。
弊社鉄道沿線は、已に已に御存知の景勝地ですが、温泉場の奥の原始林、青葉若葉に風
薫る山路を(良道にて婦人にても容易なり)北耶馬渓、大爺淵、千丈瀑、炭酸泉等へ歩を延
さるれば、北海唯一の仙境が今や淡緑、淡紅の色彩もて、自然を好愛する人々の来訪を期
待いたして居ります。
弊社はこの幽勝を探らるる五十名以上の団体には、御要求により、案内者を附して其の便を
図りますから、若しそうした修学御旅行の計画がありました節は、本社なり、停車場なり、市内
営業所なりに御相談下さい。必ず御意に叶ふやうに、列車の便はもとより、遊覧地の推薦、温
泉宿等万事に御助言申し上げます。
次に会社直経営の鉄道ホテル温泉場は五月一日より開業しました。大広間あり、食堂あり、
大浴槽は定山渓一にして遊泳も出来得て一時に三百名内外を収容し料金も頗る低廉、学生
団体には特に割引をいたします。尚且つ、他の温泉宿と遠ざかり、清楚にして眺め佳き静かな
る場所なれば、学生の浴場として是非に御利用下さい。
大正十二年五月
定山渓鉄道株式会社 >>251 私鉄車両めぐりの、写真図面 アレ以上のブツは、文献ではもう無いんじゃないの?
それこそ地元関係者の個人レベル。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています