思い出の定山渓鉄道
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
札幌市中心部と定山渓温泉郷を結んでいた懐かしの定山渓鉄道。
右側運転台の電車、国鉄乗り入れ用気動車、湘南スタイルのスマートな電気機関車など、個性豊かな車両が揃っていた定山渓鉄道の思い出や廃線跡のお話などをお願いします。 どちらも更新を担当した日本車両で処分扱いのものを再生したものですねぇ。
処分したものが長生きしたという稀有な例で。 改造前
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/70/910034c3463dd4d190c7433404338607.jpg
改造後
ttp://1003.amigasa.jp/1003%20HITACHI%20(12).jpg
ttp://homepage3.nifty.com/m_horikoshi/3_2Sitetu/_Rs_02_04_asahikawa_011-22_yojyou.JPG
特に101は定鉄と日立で比較すると面白いですねぇ。 >>121
ついでに言うなら、転籍車だけで追うと、
DD4501が定鉄(豊羽)〜北海道拓殖〜旭川通運
寿都に8105と8108
藤田炭鉱に8104
C12が一部部品だけだけれどもいずこかに持っていかれたとか。 >>123
日立の車両なら、鉄コレ第1弾の改造で作れそうな感じですね。 鉄コレで定山渓ネタは何時かくるのかな……。
1200の定山渓と十和田観光仕様両方とか。
あとはモロとゲロ電。
これだけじゃ足りないから北海道の私鉄電車という括りにして
旭川電軌の1001も。 基本的に日本車両のものがとても多い (というか図面集のがことごとく網羅されてきた) ので、
可能性が無いわけではなさそうなんだけど、
富山地鉄特急と遠鉄30とのバトルかw
ゲロ電より1200のほうが「若干」可能性が高そうだ。 定山渓の某温泉宿の浴室入口に現役時代の定山渓駅の写真が展示されており、写ってた車両がキハ56・27に見えた。
多客期には国鉄の車両乗り入れてたの? >129
色で見間違えてない? 末期は急行型気動車に近い配色だったから。
定山渓のキハ7000/7500は濃赤に白帯だったけど。
国鉄車乗り入れは初耳。 国鉄の客車が、定鉄のELに曳かれているのは豊平で見た。 >>130
その写真を携帯で撮影してたの再確認したら、あの運転台窓と側面窓配置は紛れもなくキハ56系列だった。
ちなみに時代は昭和38年頃らしい。 定鉄線内でのキハ56の写真、自分も見たことあるよ。
確かレイルマガジンから出てる「消えた轍1」だったかな、それに載ってた。 終戦ちょっと前か直後に樺太にいた傷痍軍人輸送で、
稚内発定山渓行という汽車が出たことがあると聞いたことがある。
>>134
真駒内南町3丁目バス停(滝野方向)付近でなかったか。 >>133
下藤野駅を通過する3両編成のキハ56・キハ27の臨時列車という写真が
掲載されてますね。 >>93
そうなると他の札幌の地下鉄にも影響が出て、東西線と東豊線も通常鉄道になってた。
もし札幌地下鉄がゴムタイヤではなく普通レール式だったら、建設費は安くなってて、札幌の財政は少しは浮いていた。
定鉄は存続、高架化、複線化されてシェルター化、南北線は南平岸までで、そこから定山渓まで乗り入れ、現在は地下鉄直通の特急列車もある
札沼線は医療大学まで電化され、南北線は麻生から札沼線に乗り入れて石狩当別まで乗り入れて、一部は北海道医療大学まで
東西線は手稲辺りから函館本線に乗り入れて小樽まで乗り入れ
菊水辺りで旧千歳線跡地から高架化、シェルター化され、厚別区で分岐して、上野幌から千歳線新千歳空港、一部苫小牧まで乗り入れ、地下鉄経由の快速エアポートも存在する。
分岐線は森林公園から函館本線に乗り入れて岩見沢まで乗り入れ
東豊線は経済関係でリニア地下鉄。
あいの里公園を起点にして、豊平公園から違うルートになり、羊ヶ丘通りを走り、札幌ドームや美しが丘を経由して、大曲のアウトレットパークまで。 JNMAでキハ7000と7500、モハ800、1000、1100、クハ1010、1110発売されるらしい。 >138
前も話でてたけど、やっぱり札幌市のあの交通部長がA級戦犯か……。
当時は定鉄も札沼線も、見向きもされなかったんだね。
非電化単線だった筑肥線の活用を、昭和40年代から計画していた福岡とは対照的。 まあ正直なところ、地下鉄が普通鉄道規格だったとしても
定鉄との乗り入れは実施されてなかっただろうけどね。
想定される輸送量の段差があっただろうし、結果としては
福岡の貝塚みたいな分断駅がどこかに出来ただけかと。 真夏のゲロ電に一度乗ってみたかった。
せめて乗った人の話し聞きたい。 >>143
今なら秩父鉄道モハ1100で同様の体験ができる。
真夏なのに窓が閉まっている車両が多く、車内温度は41度位。 名鉄のモ600はかなりゲロ電に近かったぞ。
開く窓がかなり少ない上、運転台とその周辺は構造上完全に温室状態になる。
おまけに沿線の暑さがガチだったし。
新関行きの電車に乗ってたら、競輪場前ですれ違った対向電車の運転士が
「さっき50度超えたぞ…」と汗ダラダラ垂らしながらこぼしてたの思い出した。
モ870も似たような状況だった。 >>29
遅レスだけど田井自動車って根室拓殖の2以外にも鉄道車両手がけていたのね。
十勝清水だかどっかの日本甜菜糖の移動機も作ってるんだね。
調べれば他にも小物とか保線車両とかありそう。 >>121
モ100が機器を譲ったのはモ2100
モ2300に機器を譲ったのはモ201と301
ちなみに金属キットなら
銘ワークスからモ100
キッチンからモ801、モ802、モ1001+ク1011、モロ1101+クロ1111、モ2200
マスターピースからED500タイプ
あと名前忘れたけどどっかから十和田1207が出てる
鉄コレ13弾が北海道祭りになりそうだったから期待したけど残念な結果にorz 鉄コレ13弾、定山渓の気動車も出して欲しかったよな。 定鉄が存在していたら、5000系や7000系が来てたかな。 東西線6000って窓割り東急7000と似てるから
(ってか南北線2000もある意味似てる)
乗り入れる事になってたら7000投入されたかもな 東急7000の車体に、足回りに札幌5000とか素敵過ぎる もし札幌市営地下鉄が普通の地下鉄で、定鉄と相互直通運転してたら、
定鉄沿線は札幌のベッドタウン化が進み、温泉電車から都市通勤路線に
変貌した神戸電鉄有馬線のようになってただろう。
ひょっとしたら今頃は準大手の一角を占めてたかもしれない。
そういや神鉄も少し前まで準大手だったしな。 >>153 いやーそれは 馬鹿な役人しかしない希望的観測じゃないの?
札幌郊外の人口は当時より減ってないか?東京集中で。
俺的には、エネルギー革命(国内炭と外国炭の価格に差が無いとかも)が起きず
夕張と札幌急行電鉄が具現化していたほうが面白い事になっていたと思う。 でも定鉄残ってたら準大手に成れたかどうかはさておき
南区の人口はもっと多いと思うよ 真駒内〜定山渓だけでも残ってたら・・・
って、やっぱり無理か。 真駒内以南がキモだけど、以北も東札幌連絡線プラス千歳旧線貨物化残存区間とセットで
残したら多大な威力を発揮していたと思う。
札幌直通は難しいにしても、苗穂まで自社線で直通していたらそれだけで地下鉄南北線が
かなり楽できてると思う。
札幌出身の鉄も一般人も、酒の席で沿線の話になると口を揃えて「あれが残ってたら…」という話になる。
石山とか簾舞あたりは今の悲惨な道路事情から解放されたらもっと発展しているだろうし、
定山渓温泉もここまで寂れないで済んだと思う。 >>159
千歳空港駅開業に合わせて交流電化して、空港直通快速とか走らせればすごいことになってたような気がする >>159
完全地元在住だが
>今の悲惨な道路事情
今は逆に過剰なくらい道路が太くなったから、もう実質要らないよ。
藤野地域も人口暫減でスーパーでさえも閑古鳥だ。
バスは相変わらず交通弱者をキチンと細かくフォローしているし
いま、駅にまで歩くと言う状況ではないな。
石山は逆に道が良くなった昭和53年から急速に寂れた。
いまや老人ホームが17件もある姥捨て山だ。
それだけ交通事情が良くなっちゃったんだよ。
定山渓も寂れているのはホテルのワンパッケージ化がメインで、ホテル外に人がでなくなったからだよ。
あと、豊羽鉱山の閉山も大きい。
まぁ、勢いもって藤野に地下鉄があったらよかったけど、恐らく赤字の大量発生原因になる空気輸送だったと思う。 豊羽鉱山の掘削全盛、ダム建設全盛のときには工員が定山渓に数ヶ月数年滞在した。
その頃が近代定山渓のピーク。
特に女買いが商売として成立していた。
働く男の性欲処理が花盛りだったし。それが賑やかにしていたからね。
いま、定山渓に女郎が入るなんて聞かない。
恐らくいないんだと思う。
デリすらいないかも。 >>161
鉄道が無くなって道路しかないから整備されたんであって
鉄道残ってたら逆に道路貧弱なままだったかもね 伊予鉄森松線の話と似ているなあ。
あっちは鉄道を廃止して道路が太くなったから、街が栄えたという点が違うけど。 >>163
うんにゃ。
昭和44年の前から30年計画が既にあった。
かなり遅れているけど進んでいる。
逆に人口増加のポイントの藤野団地一体は、定鉄保証金が元金なので、
廃止ありきは当然であり。 豊羽鉱山…採れていたのはいま話題のレアアースですね… 埋蔵はまだ在るのだけど、地熱が高くなりすぎたのだよね。
国家的に露天掘りすれば 豊羽鉱山は、地熱の原因となっている温泉の水脈を変えない限り、
あれ以上採掘出来ないから無理。
内地の者で門外漢ですが、たった数日のレースのためだけに恵庭岳の原生林つぶしたり、
道警が年間200万近くが利用している鉄道に廃止勧告したり、当時はまさに狂気の時代だったのですね。
時代の犠牲になった定鉄、もっとも東急系列化したおかげで保証金がたんまり引き出せたわけだし。
五島の犠牲になった定鉄といったほうがいいのかもしれませんね。
浅野社長が率いていたらその前にとっくに倒れていたんだけどな。
過重投資で回収不能な残貨が積まれていて、
実は東急が肩入れしなかったら倒産になっていた。
決して黒字でもなかったからね。
その決算書が出て、地域の株主は一斉に五島に売ったんだよ。
売買仲介も北交ハイヤーの柴野だ。
北海道人が手回ししてんだよ。 恵庭岳は当時から批判があったよね
手塚治虫のブラックジャックに恵庭岳の乱開発を批判してた話がある
定鉄は真駒内以南については確かにその通りだけど
真駒内以北については地下鉄になってよかったと思うんだが 171です。ご指摘ありがとうございます。
たしかに、昭和30年代初めの定鉄の設備投資は路線規模からみても
異常といえるほど活発でしたね。
掘れば掘るほど売れた石炭、唯一の楽しみが週末羽をのばすこと。
その絶好の対象が定山渓温泉。
準急「たるまえ」が乗り入れるとは道南からも定山渓に行楽に来たわけですね
そのころは関東でも週末の小田急の箱根特急の指定券の入手難は社会問題
になるほどだったとか。
長電が特急の座席指定制をやめたのも、お客さんが乗りすぎて指定席持ってるのに座れない人が出たためだとか。
そんな時代だったのですね。
毎年一割以上のペースでお客さんが増えていたわけですから、積極的な投資もうなづけます。
それが、まさか約10年後に廃止になるとは思っても見なかったでしょうね。
写真見ても単行列車ほとんどないですものね。3連4連が当たり前。
間違いなく戦後の廃止私鉄の雄でした。再生の道はあったでしょうに。
その再生の道が、地下鉄に真駒内まで譲ることだったのかもしれない。
札幌は「雪に負けない交通」がほしかったのだから、地上鉄道との乗り入れなどもってのほかだったろうし。 再生の道は無いに等しかったでしょうねぇ。
札幌市の発展の代理処分となって消える運命にはあった。
確かにキロ当たりの乗員1000名だったかの規模で廃止された数少ない鉄道のひとつではありますが、
それが存続には結ばないKともある証明といえるでしょうね。
東急グループが買収案に積極的になっていったのは紛れもない事実。
それは代償案が桁外れであったことも事実。
実際廃止されてからの札幌の発展は見てのとおり。
また、南区の収縮も起きているのもまた事実。
南区だけの鉄道ではジリ貧であり。
法人960社しかなくなっている土地でもあるし、老人世帯が散漫かつ比率の高さから経済量も無い。
公営交通で美味しい中心部輸送が代置されればドル箱を失い勝てる見込みも無いでしょう。
たとえ澄川真駒内間が並行してもと言う意味で。
輸送量があったゆえに、更に大きな輸送機関に置き換えられたと見るべきかと。
時節の後押しも大きかったわけで。 そもそも、
廃止直前の頃は、既に札幌〜定山渓方面の輸送は、
豊平川左岸を走るバスが主流だったんじゃ? 左岸と言うのがどちら確定しているかわからないが、現在の7系統は昭和53年の開設だよ。
廃止時に札幌市営に概ね委譲した定鉄バス路線のうち、定鉄バス側に生存した8番系統と12番系統に新たに追加された久しぶりの系統だった。
旧7番系統は平岸駅を基点とした現在の豊平区内路線だった。
12系統ももともと真駒内で切れる路線ではなく、もっと北進する路線だった。
札幌駅に国道230号線を北上する8系統も今の半分程度の本数だった。
それで主流とは少し言いがたい。
興味深いですね…
定鉄バスの路線の変遷に詳しい資料とかないですか 定鉄バスが昭和47年に市営買取を獲得するまでに、市営譲渡したのは9路線バス34台79名の職員と言う資料が散漫だが書き残されている。
そのときに現在の東光ストア自衛隊前店とドエル真駒内の敷地にあった車庫がボーリング場転換されているらしい。
しかし、昭和51年にはボーリング場をスーパー業態に転換。
どれも正式広報ではなく研究家による資料と、自分の目視確認事項、及び札幌東急ストア時代の資料であるので正確ではないかも知れぬ。
9路線と言うのに注目したい。
12系統までは現存数の上であるのに、9系統では実は数が合わない。
8番系統は9+1以上に内包するので、鉄道時代からあった路線であると仮定しておく。
実際、モノクロ写真には8の文字のあるバスと鉄道が石山陸橋でランデブーしている写真がある。
1系統は伝え聞いたところで、真駒内〜平岸〜豊平〜苗穂駅の鉄道補完路線で、市営になって平成年間まで生きていたことは知られている。
ただ、これも伝え聞いたところであるし、実際定山渓鉄道真駒内は今の地下鉄真駒内の場所ではないし、要衝であったかは?だと思う。
ここ真駒内で1系統と12系統が乗換えをして、2系統で鉄道並行路線だったのかと言うと少し疑問は残る。
少し手前にバス車庫があるのだから、定山渓鉄道慈恵学園前(東光自衛隊前斜向の消防署が当時の駅だったようだ。)で、接続だったのかもしれない。
>>178
8系統、当時30分間隔だったって何かで読んだことがあるけど、違うのかなあ・・・。
鉄道が18往復(約1時間ヘッド)だったわけだし。 >>180
ありましたねぇ。南91澄川苗穂線。
市営バス時代には、珍しく距離の長い路線だったので一日乗車券で
遊ぶときにはよく狙って乗りました。 >>182
定鉄通学だった父曰く
「バスは時間が読めない」
と言うことではあったようだ。
まぁそれはそうとしても昭和38年当時では12系統が無く、通貫はさせていないからこと札幌駅直通する需要以外は分散していたと思われるが。
時間的には、当時の繁華街「まるい前」までは豊平乗り換え市電とあまり変わらなかったそうだ。
それだけ石山通の道事情も悪かったということでしょうねぇ。
すくなくとも、自分は細くくねくねした石山通を知っているので、確かに均衡速度は遅かった。 内地モンですが、教えてください。廃止直前でも年間150万人くらいの輸送量があった定鉄、
これだけの人を運んでいたのによくバス化できましたね。
混乱しなかったのですか?マア、それが許された時代だったんでしょうね。
ん?
定鉄は知らない世代だけど、20年前高校時代バス通学していたが、
完全満員で積み残しはざらだった。
職についてからも最終バスは寿司詰め。
ただ、最近はそういう光景が無く
殿様じょうてつが続行を出すようになるなど細かくことが出来るようになってきている。
沿線公共交通人口減少は相当みたいだ。 >>185
輸送量が多い区間は地下鉄になった訳でしょ。
必要なところは上位代替され、バスで十分な区間がバス化されただけでは? 230号沿線というと、ひとたび雪が降れば街まで2時間という印象が未だにあるのだが
最近どうなの? 問題は地下鉄が従来規格と互換性の全くない札幌市交通局の道楽的シロモノってこと。
市営地下鉄が1067mm架空線で、定山渓電鉄との相互乗り入れ
(一部車両は交直両用車で国鉄とも乗り入れ)
だったら、定山渓電鉄は「変容」はすれど「消滅」はせずに済んだのに。
輸送力の少ない区間は従来の電車や気動車(電化廃止も選択肢)でまかなって
輸送力の多い区間は地下鉄直通電車で賄う。
雪害対策のシェルターや地下化も少しづつ進めていったってよかったんだし。
余談だけど市営地下鉄が1067mm架空線20m規格なら
電車とか汎用性のある規格品(要は走ルンです)or中古車でもまかなえたんだよね。
SSトラムの罪は重いと思う。 >>153
札幌に移り住むまで神鉄有馬線の沿線に住んでたが阪神大震災の頃までは宅地開発が活発で電車も冷房化や新車投入なども活発で発展してたが平成不況と都心回避で(粟生線ほどではないが)かなりジリ貧だよ(>_<)
あと某超大手宗教系国家議員が近年までいたせいで4両中1両まるごとが雌車のせいでマイカーや特急バス(高速バス)に流れたのもあるが…
なので発展したとしても厳しいのでは? >189
それはありえない。
地下鉄は雪をシャットダウンすることも目的だったから地上鉄道との直通という発想は建設時には無かっただろう。
>191
ゴムタイヤと鉄軌条の優柔と雪対策は何ら関係ないと思うが。
鉄軌条でもシェルターの整備は可能だし。
問題なのは、建設というか計画時に全く既存鉄道網との直通を考えなかったことと、
独自規格によるコスト高を考えてなかったであろうということ。
まぁあの時代の「無茶苦茶さ」に今更突っ込みいれても仕方ないけど。
ただ、定山渓電鉄の地下鉄化されなかった区間は残ってても
今は存亡を問われるような状態になってたとは思う。
>>190
ゴムタイヤ規格のことではなくて
>市営地下鉄が1067mm架空線で、定山渓電鉄との相互乗り入れ
これが、ありえない。 >>192
当時は自動車の隆盛で鉄道産業は斜陽化すると見做されてて、
自動車と一定の共通化が図れるゴムタイヤ式でないと生き残れない、
そんな風潮があったんよ。
そんな環境の中で生まれたのが、札幌のゴムタイヤ地下鉄だったり
各種モノレールだった訳で、当時の時代背景を考えれば順当な判断。
特に札幌の場合は都市圏輸送を行う鉄路が定鉄しかない状態で、
定鉄の都市圏輸送区間を置き換えてしまえば既存の鉄レールとは
決別できる環境があったので、他都市では為し得ない「全面置き換え」を
一気に進めた、という経緯でしょ。
当時の判断として、札幌市のそれは非難されるものではないと思うよ。 >>194
…という経緯でしょ。
という川重の口車に、市幹部がまんまと騙されたというのが真相じゃないの? >>195
昭和30年代〜40年代は、国策としてもゴムタイヤ式を推し進めた時代。
輸出も含め国の基幹産業として自動車産業を育てようとしていた時代な訳で、
その中において「自動車産業と一定の融和を図れる」ゴムタイヤ式の車両は
当時の将来像としては必須だったから、大量輸送機関としての札幌方式に、
中量規模向け(路面電車代替)のモノレール各方式が編み出されたんでしょ。
大量輸送機関については既存鉄道との融和が必要な都市が多かったので
札幌以外に採用事例がなかったけど(札幌の場合は定鉄置き換えが前提)、
モノレールは国裁定の標準規格としてゴムタイヤ式が選定されてるしね。 更にまた札幌市としてはオリンピック開催の見栄もあったことは事実。
オリンピックに向けて運動施設以外にも
・市電の大量整理(時代遅れだという風潮)
・市役所庁舎の新築
なんて湯水のように公共事業をやっていた(からね。
>>まぁあの時代の「無茶苦茶さ」
確かにすさまじい勢いだったそうだわ。
毎日街が変わっていったと、医大前に住んでいた母曰く。
>>今は存亡を問われるような状態になってた
今もそう感じられると思うけど、定鉄廃止が無ければ藤野の団地一体全部もなかったんだよね。
南区はジリ貧どころか本当にモエレの方面のような僻地で終わっていたと思う。
今でさえ、札幌市の過疎地域だがww
>>これが、ありえない。
たーだ、これの冷静さは欲しかったもんだなぁ。
ま、「意欲的な」市交通局の某部長の所為でもあるがw
>>そんな風潮があったんよ。
そういう文献がきちんとあるものな。
(当時の道新連載記事など)
>>時代背景を考えれば順当な判断
時代の仇花の貧乏くじを率先して引いたと、いうことには違いないんだけどな。
順当と言うより「しょうがない」
>>札幌以外に採用事例がなかったけど
南北線はともかく、東西線は違う事情あり。
昭和49年には、見直しが掛かったのに札幌は突き進んじゃったからなぁ・・・。 札幌市営地下鉄とJR線の直通って
妄想垂れ流してるヲタが多いのに辟易してるんだが、
基本的に、函館本線と市営南北線では利用者層がほぼ分離しているだろうに
JR利用者にとってせいぜい一駅、二駅の大通、すすきのまでにしか用は無い
それぞれ各方面からの需要は、
地下鉄とJR線の結節点である札幌都心(含む大通、すすきの)に
集中してるのであって、
真駒内ー手稲、真駒内−千歳、麻生−etcという需要はかなり少ない
そもそも地下鉄ベースで考えるとJR線の各方面列車が少なすぎて、
待ち時間考えたら、さっぽろ駅でおとなしく乗り換えるのと変わらないだろう JRと市営地下鉄の直通って、函館本線や千歳線じゃなくて
札沼線のほうだと思うんだが。 >>155 超遅レスですまん。
夕張は札幌乗り入れを熱望していた。車両を国鉄に提供しようと働きかけたくらい・・・
それ故の遺恨からか、夕張は国鉄を凌ぐ車両サービスに血道を注いできた。
当初は定鉄を介して国鉄札幌駅1番線乗り入れ やがて 両社の合資で発足の札幌急行が独自で札幌にターミナル新設で
後に電化の国鉄線と競合とかね。
定鉄の 日立製デーゼルカーや札幌市営地下鉄の(特に初期)独特のデザイイン意匠の車両って
ソ連の鉄道車両や サハリンの帝国車両製湘南型ディ−ゼルカー 妙に近似性を感じるよな。
ひょっとして当時の社会党や共産党がソ連の北海道占領計画を見越して関与したのか?(笑)
札幌ー夕張間を結ぶ鉄道とし >>200
おいおい
中途半端に切れてるけど大丈夫か? スレちがいですが、夕鉄の急行、無料だと思っていたのですが、
急行料金とった時代があったのですね。
あるサイトで栗山から野幌行きの急行乗車券の切符(硬券)
を見つけたもので。 >>201 ゴメン では続き
札幌ー夕張間を結ぶ鉄道として発達して夕張(迄とは云わないが夕鉄沿線が札幌の通勤圏内)になり
札幌急行鉄道と国鉄が競合するようになっていなかったかな?と・・・
少なくとも夕張市の破綻は回避できたような・・・
嫌な話だが、北海道道内の土地・街としての発展だけを考えたら。
ソ連が侵攻していた方がソ連邦の極東最南端の比較的温暖な地域として発達していたのかな?
★無論 我々日本人の(勿論 北海道民も含めて)には無縁か奴隷的な扱いの状況下だろうが・・・
>204
その後半の妄想は面白いし個人的には大好きだけど、問題が多すぎる。
ここより他スレのほうが。
ここのほうが未だ関連性あるかも。
【台湾朝鮮】外地総合スレ【樺太南洋】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1220883238/
ただ、この種の議論というか想定って得てして北朝鮮的悲劇を想定されることが
多いんだよなぁ。せめて東ドイツくらいを前提にして欲しいのだが。
分断国家と云っても西から東に行くことは出来る程度の分断ねw >>138に追加
そして、北海道新幹線が札幌まで延伸すると、定鉄が三線軌条化し、北海道新幹線が定鉄に乗り入れる。
要するに博多南線や越後湯沢〜ガーラ湯沢と同様の新幹線規格在来線扱い。
北海道新幹線の定鉄乗り入れ区間の停車駅は南平岸、真駒内、藤の沢、定山渓
これにより、首都圏から定山渓温泉に行けるようになる。 >>207 東急は東亜国内航空→日本エアシステム→JAL統合 抱えていたからソレは早期に航空会社を手放さなかった限りありえない。 それにしても何故キハ7000と7500は関東鉄道と茨城交通に売れなかったんだろう?
同日に廃止した江若鉄道の戦前のキハが7両も売れたのに・・・
湯口徹さんじゃないけど、どうしても解せない。 >>209 以前鉄ピクに、関東鉄道(当時常総?)の関係者の鹿島参宮とのキハ04払下獲得競争とか
の話や廃業私鉄からの中古車購入の際、「私鉄車両めぐり」の記事が、大変参考になった旨書いてあったな〜
(加越能15001が売れなかったのはこの辺が理由かな?)
今なら当時中古買い付けに地方行脚した人にまだ訊けるかもね。
俺は、江若廃業時の熊延からきた湘南形キハが売れなかったことも不可解。 rmライブラリーで近いうちに定山渓鉄道、旭川電軌、札幌市電、湧別鉄道
根室拓殖鉄道、花巻電鉄、仙台鉄道、秋保電鉄、秋田市電のどれか1つをやるそうです。
又今書いたすべての鉄道や全ての国鉄客車や全ての廃止された市電を数年以内にやる
事が決定した。以上
>>210
加越能15001は論外だったからなあ
実態知ってれば誰も買わないだろう >>212
電車用の重い車体と台車に機械式変速機つけて機関はパワー不足、おかげで車体は変形したという、凄まじい代物だからな。 売るとか買うとか言う以前に廃止を待たず潰しているしw >>209
あれは右側運転台だった・・・んじゃなかったっけ?
似たり寄ったりの世代や状態で改造不要(左側運転台)の車両があればそっちを買うわな。 加越能15001は、もしかして規格型? 親会社地鉄や長野電鉄、定鉄に日本車両が昭和20年代半ばにばら撒いた規格型に似ているのだが・・・
まあこの車の発想そのものは、企画モノだが・・・故に日本車両製ではなく輸送機工業なる会社製なのか。 豊平駅前の酒屋さんがまだ健在なのを最近知りました。
観楓会などで団体で定鉄電車に乗り込む時、
若手社員がそこで酒やビールを買い込んだものでした。 >>215
定鉄は中古の再販を基本的にしてはあんまり良くない雰囲気であったんだよ。
中古で流れた会社の、それぞれのオーナーの名前を調べ、
東急グループの啓蒙バイブル「小説・東急王国」を読めば謎は解けるぞ。 >>219
ああ、五島慶太―小佐野賢治つながりだな>>十和田。
長野電鉄はなんだろう? 定山渓EDもながの東急も赤蛙も神津―五島のラインだろうね。
で、更に転売した越後交通もこれまた五島繋がりで・・・
それはそうと、定山渓の様なしがらみの無かった筈の北海道拓殖鉄道キハ301が転売されなかったのは、
客車改造名目と言うのが引っ掛かったのだろうか? >>221 所詮 旧型客車台枠流用で国鉄型のパチ物(古いし重い!オマケに三流(泰和)メーカー改製)をはるばる道東から1両引っ張るのは、
不合理だよね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています