思い出の定山渓鉄道
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札幌市中心部と定山渓温泉郷を結んでいた懐かしの定山渓鉄道。
右側運転台の電車、国鉄乗り入れ用気動車、湘南スタイルのスマートな電気機関車など、個性豊かな車両が揃っていた定山渓鉄道の思い出や廃線跡のお話などをお願いします。 華麗に2get!
個性豊かと言えば、廃止前に導入した固定窓の車両が一番だなw 真駒内以南だけでも残すわけにはいかなかったのだろうか…
ま、無理か。
今でも残ってたら、近代化されて新車が(あるいは東急のお古のステンレスカー?)定山渓へ向かう鉄路を走っただろうか? 定山渓鉄道の事を土かかの出版社で9月21日に販売するみたいです。
本の名はRMラ・・ 廃線後他社で生き延びた車両って長野電鉄へ行った電機2両と、十和田観光へ
行ったMT各1両、他に何かあったっけ?
国鉄乗り入れ用のDC、もし右側運転台じゃなかったら、それこそ茨城交通や
関東鉄道辺りがウハウハ言いながら買ったんだろうな。。。 あの定鉄のステンレスもどき固定窓電車に似た車体の車両が、東急車輌の入替車になってたような… 国鉄乗り入れ用気動車といい、固定窓車といい、短命に終わって勿体なかった… >>10 ちがうよ。ゲロ電(固定窓車)は、日立製 デイーゼルカー共にこの地で絶命!
東急車輛の入換え車 101だったかな?は、木造院電の鋼改車。
東急から行った3600形が一番ボロかったのかもね。
3600形の国電台枠流用車って早くから伊豆急に貸し出されたり使用線区制約の兼ね合いとかで、結構持余してたのかな?
本家より先に線路もろとも消滅したのは、移民労働者の強制労働、野垂れ死みたいで可哀相だな。
本家より先に 定山渓鉄道の車両で、譲渡車も含めて現存する車両は皆無なのか? 札幌市がSSトラム(ゴムタイヤ地下鉄)なんて独自規格やらかさなきゃ、
地下鉄(DC1500V架空線)相互乗り入れで生き残れたのになぁ。末端は
廃止されたかもしれないし、気動車はお役ごめんだろうけど。
>13
湯口氏が「なぜ譲渡されなかったのか理解に苦しむ」とか書いてたなぁ。
ニ軸駆動だったっけ? そこが嫌われたのか?
案外右側運転台が嫌われただけなのかもしれないけど。
>>18 廃止になるなら、もう少し早く廃止になり青息吐息の寿都や北海度拓殖に二束三文
で出してあげればよかったのに・・・と思うのは、俺みたいな鉄オタのお節介だろうか・・・
話は、変わるがゲロ電と東急車輛の入換え車 資料が乏しいのか余り知られてないみたい
だけど結構違うよ
ゲロ電・・・ヘッドライト埋め込み二灯・・・福島交通タイプ?
尾灯 埋め込み
側窓 その名の通り固定!!
入換車・・・屋根上 チョン付け?一灯
尾灯・・・旧型電車に多い引っ掛けタイプ
窓・・・・とりあえず開く(二段上昇?)
他に全長とかも入換車は、院電ベースだからゲロ電(2ドア)よりデカイと思う。
>>18
> 案外右側運転台が嫌われただけなのかもしれないけど。
実はそこが致命傷だった希ガス
>>18>>21
確かに、同時期に廃業した道内の炭鉄各社 = 留萌、羽幌、雄別など = の
店仕舞い品の車齡の若いのは茨城交通や関東鉄道が買い漁っていったのに…
定鉄キハには両社とも見向きもしなかった(?)のはやはり構造上の問題か。
あと、廃線に至った事情が札幌市の地下鉄建設に伴う『補償買収』という点も
関係あるかも。何せ公共事業だし地下鉄の場合は国から札幌市に対し補助金も
出ているはずなので、定鉄としても『中古車』として積極的に売りに出すほど
銭に困ってなかったのかもね。 琴電から玉野に里帰りした電車みたいに、
十和田観光への譲渡車が札幌に里帰りしてたら… そこでゲロ電のレプリカ作って定山渓温泉に設置ですよ 私も、小学校入る前に乗ったことあります。
豊平駅から慈恵学園前駅に行ったと思いますが。 そういえば、最近出た鉄道データファイルに定山渓鉄道の記事が載ってるね。 ここも有名な割には保存車とか一切無いねえ。
痕跡と言えばお決まりの廃線跡と、
駅舎がひとつ残ってるのが奇跡みたいなもんか。
ちょっと前まではもうひとつあったんだよね。あと子供のころには0番ホームがあったっけ。
資料も散逸してしまって、忘れられて歴史の中に埋もれていく運命なのかもね。 此処って、戦後は道内最有力民鉄だと思うけど、
戦後一時盛況していた。道内車両メーカー(運輸・泰和・釧路製作所・旭川鉄道同志社・・・田井自動車・・・大穴!)と用品・工事等でも一切取引なかったの? ゲロ電、初めて知りました
鉄ピクに現車の写真が「解説付きで」載ってら (゚д゚) ゲロ電こと2300形を、更新製造した時はひょっとして既に この鉄道の将来に暗雲が立ち込めはじめていたのだろうか・・・
夕張鉄道と共に道内でも、羽振よく優秀な車を購入してきたのに・・・・
でも、将来に明るい見通しがないなら東急から更に中古車供給を受けてもよさそうだし、
(最初の3600形譲受は、東急グループ入りにあたっての、お付き合い程度ものかなと・・・)
何故にこのような、安っぽい車を作ったのだろう・・・
そもそも、ゲロ電作成時 部品供給源として絶命した在来車の車体が、更新を受けお隣の旭川市街鉄道に
出向いたりしている位だ(丈夫だという事だ・・・)。
それと単なる偶然だろうが、この時期東急車輛が 地方鉄道向けに製造した
車は、みんな 短命だ・・・栃尾・仙北・札幌市等
・・・当時は、東急車両も駆出しメーカーで条件の悪い仕事でも積極的に請け負っていたのかな?
>>34
当時経営が傾きかけていたのは確かですけどゲロ電の種車は100じゃないし
東急車輛の短命車は路線や用途が無くなっただけですがな。
東急からの出物が無くて系列の割に入っていないのは上田丸子電鉄も一緒ですしね。 定鉄が残ってたら、東急5000から7000、現在は1000に置き換えが進行中、かな、
あおりを食って長野電鉄や福島交通などの車両にも変化があったかも。
長野や豊橋には西武の中古が走ってたりして。
ターミナルの立地は悪いが、並行路線が無いから西鉄宮地岳線以上にはなってたんじゃないかな。 北炭い1…1963年定鉄から寄贈を受けた国鉄が苗穂工で復元とか… 地下鉄との直通も可能だったのではないかと。
南北線が豊平−大通−麻生の経路で建設され
豊平で定山渓鉄道と直通。
豊平−苗穂は廃止だっただろうが。 >>22
定鉄はオリンピック誘致に燃える札幌市と北海道東急子会社網を東京の資金ではなく、道内の資金での回しをしたがっていた東急グループとの思惑が一致した賜物だよ。
定山渓鉄道は運輸密度1000を切ってはいなかったが、営業赤字に転落していたこと。
生き延びる方法はあったが、補助金漬けになるまえに定鉄が資金源にならないとならなかった。
札幌市は一方でオリンピック誘致に向けて意欲的高速鉄道も必要なインフラと考えていた。
で、鉄道を廃止して未来的思想の高速鉄道を引き換えにする金銭取引が成立したってこと。
鉄道の廃止ならまだしも、バス路線&バス機材の大量譲渡、乗務員も公務員化、土地の交換など、今からでは考えられない条件の資産トレードってこと。
定鉄は大きな金を手にし、市は運輸網の公営化推進を一気に進めて来るオリンピックに備えることができた。
売却資金を種に、南区、西区、豊平区の不動産開発に着手して資金を錬金し、北海道東急グループ網を強くし、鉄道にとどまらない北海道支配権の派遣を一時握ったことは事実でしょう。
名鉄グループ、西武グループに大きく差をつけたことは見てのとおり。
(まぁ東亜国内航空も握ったってのもでかい)
そういう役所とグルのようなレンキンのため、資材をあまりみだりに売却することはできなかったってこと。
鉄道機材の機能的な問題が多いとは言うけれど、譲渡先が自社影響系長野〜五島総帥の政友田中角栄の越後(当時は五島の側近田中均が出向中)、やはり慶太より懇意にすることを命じられた小佐野賢治の十和田観光鉄道と、
一般譲渡ではない次元のみに限られているね。
雄別などの廃止助成金目当てで解散し、資産をすべて金に清算したかった鉄道とはわけが違う。
ちなみに定鉄の存続条件で有名な「踏み切り7箇所設置」は裏があると考えられる。
当時の警視総監の清水氏、運輸大臣(失念)は、五島総裁の若き日の勉強仲間だ。
一見無理を言っているようにして定鉄を引っ込めさせる形を作ったものと考えられることもできる。
明確になっていない部分もあるが、書物の点と点をつなぎ合わせると、オリンピックを囲った政治的な経済動員であったのではないかと思う。
ちなみに、これらの動きが明らかになる昭和36年以降は慶太翁が亡くなり、昇総裁がくろがね自動車や東洋精糖だったかを撤退、自己色を強めた時期に一致する。 無駄に長い上に独特の文調
変な言い回し
読む気にならん >>41 マアそう言うなよ。
古い自動車や鉄道に関心を持ち調べてゆくと、その当時の社会背景・経済情勢・関係者の人脈
等もおのずと無視できなくなる。
無論そっちみたいに、そういう展開を好まない人もいるだろうが・・・・
やはり、疑問を突き詰めるにはある程度必要になると思う。
勿論 自分で積極的に調べる、調べない程度もあるけどね。
ゲロ電と東急車輛の101・東急の7000系東急車輛で、一期一会の顔あわせしたのかな?
気になる。 >40
おーい。EKKじゃなくて長電だぞ>>電気機関車。
バスの補償には、批判もあったようだね。
しかし、再度じょうてつに市営バスが移譲されるとは皮肉なものだ。
慶太の中央バスの乗っ取りが成功していたら、だいぶ違う展開だったんだろうな。 >>40
東亜国内航空は発足当時「ばんだい号事故」で痛い目に遭う >>40
国際興業・小佐野賢治はロッキードで捕まったが、
東急の大物は汚職が明るみに出なかったのはなぜ? 航空に詳しい訳でないけど東亜は、機材が根本的に違ていたからね。
YSの独壇場で買ってもらえる事を、端から期待せずでは・・・
それより五島慶太の魔の手を逃れた企業で完全勝利は、三越と北海道中央バスだけかな?
東京地下鉄道も結果的に、交通営団発足で東急○○線にならないで済んだだけで早川さん
失脚だし・・・
北海道中央バス 恐るべし 九州産業交通とともに、何か絶大な政治力でもあるの? >>46
> 北海道中央バス
本社が小樽だけに金融関係と密接な関係を築いていたのかも 中央バスは、慶太がよくやっていた迂回買収で攻めていたよ。
鉄砲玉になったのは小佐野賢治と、北交ハイヤーの柴野。
いずれも27%を取得して、五島名義に書き換えて買収終了になるところまで行っていた。
小佐野との関係はすでに経済舎弟にあったので自然だけど、柴野はバス事業への色気もあったので東急に一時加担したってわけ。
ところが柴野の裏に慶太ありがばれてしまい、道内経済界の観光関係から突き上げを喰らい、北海道銀行が加担して「柴野よ、そのまま持った株を五島に譲れば、北交を潰したろか?」
ということになり、柴野はビビッて株を道銀に預け五島の元から逃げる。
逃げるっても函館に隠遁しただけだが、五島の部下の安田に見つかり、五島の前に引きつりだされる。
柴野は「俺の株ですよ、俺の株を誰に売ろうが関係がない」と突っぱねて、慶太を激昂させる。
すでに柴野は道銀に頼んで株を再びばら撒いたあとだったので慶太は歯軋りするしかなかったらしい。
ここは小佐野が「五島さん、あんたが今回は負けだ、もうあきらめるべき。だから俺の集めた株もいったん引き取ってくださいよ。その後はどうするか考えればいい」
と、諭して、諦める。
慶太は柴野に憎しみを覚えたが、周りから諭されて仲直りする。
北海道の進出第一回目はこうやって失敗したらしい。
第二回目は、北海道グランドホテル社主を見方につけて、じょうてつを浅野一族から奪取することに成功したんだけど、
交通・観光・不動産・流通の全面征服までは行かなかったらしい。
昭和40年代前半、今も盛業中の「クレードル興農」事件を東急が前面無償救済することで北海道に残っていた反感が薄れて改めて全面進出するまで待ったんだと。
読みたい人だけ読めばいいと思うのでつらつら書いた。 >>45
黒いことはしていなかったというか、する必要がなかったのだと思う。
父の慶太は逮捕収監されているが、戦時裁判だからよいか悪いかはわからない。
2代目の五島昇の周辺で逮捕起訴された経済人は大変多いが、
田中角栄、小佐野賢治が有名なほか、逮捕されていないが石川六郎も疑獄引責しているな。
経営は苦しかった時期もあったが、上3人とは成り立ちがよかったので、正攻法でやれば何とかなったのだろう。
あとは電鉄が無尽蔵の利益を生み続けるので、普通いろいろな失敗をしたら潰れるが、金は貸してもらえている。
銀行もバックに強く張り付いてくれていたのは大きいだろうな。
三越も親父が失敗したのは慶応閥を怒らせたことだが、五島はしっかり慶応閥と仲を分かち銀行は慶応閥中心に結びなおすなど、
正直何をやってもうまくいくようになっていた。
ほかの人間はなにかギリギリのことをしないと成功できないというものはあったんでしょうな。
慶太がいろいろ経済犯罪ぎりぎりのことをしていたのは確かだが、息子の昇は継承したら一気にその灰色部分をカットして鮮やかに事業を整頓したのも、
手が出しにくかったのではないかな?
ただ、そんなのは血筋のよさと時代のよさと、ブレーンのよさと、本人の世間的価値。
何から何までうまくいったからだろうな。
3代目になるはずだった五島哲に至っては、
昇の死後、昇の番頭抗争が起きて担いでもらえず、あほ扱いされて早々に失脚、さらに追い討ちで時代の責任おっかぶらされて追い出され、
2年前、名誉職の挨拶しに岐阜に行ったときに59歳でポックリ逝って死んじまった。 >>46
あと、中央バスは当時、労働組合を作らずに永い事経営している。
一方で東急グループは労働組合の過激派で有名。
当時の北海道政権は自民党。
過激派がこれ以上入られては、北海道の経済界全体が困るという話はあったようだ。
東急グループは一方では買い漁るまでは企業・労働者の敵だが、買収した後は間接的に労働組合極左運動の拡大になるんで、単純に保守派や企業から嫌われたというのがある。
中央バス、近隣企業に労働組合が作られたら困る勢力もいろいろ加担したようだ。 札幌東急ストアがじょうてつグループから,純粋に東急グループになってひさしいけど,今度はアークスに譲渡されるそうで。
札幌から東急ストアの名が消えるのも少々さびしいですね。 >>39
せめて札幌市が南北線を普通の鉄道(3ft6in)で造っていれば…。
豊平で定鉄と繋げれば定鉄の豊平以南は活かせたかもしれないし
さらに新琴似で札沼線と繋げれば…。
スレ違いゴメソ。 >>52
ただ、当時の札幌市が地下鉄に拘った理由って
「雪に影響されない交通機関」を作るってことだと思うんだ。
だから、地上を走る鉄道との乗り入れって概念は無かったと思う。札幌都市圏も小さかったし。 >>48 こういう話好きです。「有難う!!」
批判・煽りだけで知識、情報無い人の書込みは、つまらない。
この時期の札幌市電の東急車輛入札受注は、何気に北海道進出へのアドバル−ンかな。
>>51
それどころか、じょうてつゆかりの職員の師弟が札幌東急ストアには多く入社しており、
いまの幹部クラスの一部は「定山渓鉄道の運転手の息子」とかが複数いる。
それらが今退社を迫られるようなリストラに晒されてんだよな。
いろんな意味で東急の北海道は終わったのかもなぁ。
残っている会社のほうが少なくなった。
北海道の東急核企業だったのがじょうてつだけど、今、その目的がずいぶん失われて、ローカルバス会社でしかないもんな。
あ、せいぜいマンションデベロッパー? >>52
それいうなら、札急が果たされていればってことになるんじゃね?
慶太が5年長く生きたら実現しただろうな。
札幌市・・・板垣はそもそも真駒内と大通を結ぶ以外消極的だったようだ。
東西線はあまり進めたくなかったらしいな。
もちろん定山渓までの鉄道を引き取るつもりも一切なし。
オリンピック〜未来的交通機関というアピールが果たされれば良かったんだから。
藤野まで伸ばさなくて結果的に正解だしそのつもりも実はなかったようだ。
自民党市議会議員だった青木護が質問してその回答を得て落胆していた。
延長構想は地盤を継いだ堀川が当初運動を大きくしたけどすぐ萎んだ。
まったく歯牙にも掛けられてもらえなかったらしいな。 東急は、労務問題の左傾化に比較的寛容で財界の一部に嫌われた。という事だが、
その東急のオーナー 五島昇 と 国鉄分割民営化の急先鋒中曽根康弘 が、親友同士
というのは、興味深い。西武 堤 と交友関係といい包容力のある人物だな。
話をそらしてすまん。
定鉄廃止に向けての工作が、道内官民の一部団体の働きがあったとは、考えられないだろうか?
例えば、電化区間撤去の見返りで始まった デーゼルカー札幌駅1番線乗入れ枠の権利とか・・・
後年 そのままだと必ず国鉄としては、邪魔になった筈だ。 >>57
五島昇の人脈はあまりに広いことで有名だね。
その力をフルに生かして北海道と長野、パンパシフィック開発を邁進したといってもいい。
(バブル崩壊後に生きていたら相当晩節を汚した可能性が高いが・・・ある意味最高の時期に亡くなった)
左傾化した労組との関係ははっきりしない。
ただ、五島自ら労組に加盟し「反動経営陣の即時撤退」の横断幕を書かされる恥辱を味わっている。
(もちろん反動経営陣とは父慶太のこと)
押しかけた労組幹部の前で立ち小便したという豪快な話も残っている。
逸れ話はともかく
定鉄廃止は言うとおり、東急・道内官民すべての総意だったと思っている。
鉄道が死ぬというショッキングなことだが、政策的な面で廃止されたと見て間違いないのではないかな。
それで無いと、輸送密度1000アッパーで廃止された全国唯一の鉄道という理由が成り立たない。
札幌乗り入れの懸念もおそらく合っている。
並行路線ならともかく、乗り入れがあまりに短距離だし、電化近代化を進む国鉄にとって邪魔になることは明白だったと考えられる。
今も残る上田交通や静岡鉄道(離脱したけど)と似た利用価値以上があっただけに、廃止に突き進んだのは利害の一致以外何者でもないでしょうね。 発足したての警察予備隊に入隊した叔父は
真駒内のキャンプクロフォードに配置になった。
そこでは、在日米軍士官の英語による号令を
通訳に日本語に翻訳してもらいながら訓練を行っていたという。
今となっては真偽のほどはわからない。 2年前まで札幌に住んでいたので定山渓温泉はよく行きました。車を持っていな
いので、当然、バスで行くことになるのですが、バスは本数も多く、鉄道が残っ
ていたならより便利だなと思っていました。
定山渓温泉も札幌の奥座敷として栄えたかと思いますが、もし鉄道が残ってい
たとしたらやはり採算の面では難しいでしょうか? 石山に駅舎が残っているとか? もうないかな。
誰かがグーグルマップに印しつけてくれてたので
近くに寄ったら(いつになるやら)ハズレ覚悟で見に行ってみるか。 >>64
いいこと思いついた
全線地下にすればいい
俺って天才 いいこと思いついた
線路に屋根をかければいい
俺って天才 そういえば「札幌の地下鉄の高架区間では積雪時にはゴムタイヤに
チェーンを巻くんだよ」というネタに引っ掛かりそうになった
のを思い出した… >>61
小金湯になにかあったのでは?
豊平の構内でC121というカマが長い間入換えをしていたが、私はこれは国鉄C12の
トップナンバーだと思っていた。悪いことに苗穂には本物のC122がいたし、手宮
にはC126がいた。製造銘板に昭和18年とあっても、そのころ苗穂にたくさんいた
C11の改良型でからと考えていた。
ところが苗穂のC122の製造銘板を見て、何これということなった。昭和8年製造と
ある。それでもC122の銘板はオリジナルのやつではなく、金属回収で取り付けら
れた小型の銘板だったので、その付け替えの時に間違えたのかとも考えた。
C121が実は定鉄のナンバーだと気がついたのは、かなりあとになってからだった。 小金湯は路建設で木っ端微塵に何も無くなった。
地形すら跡形も無いよ。
今あるのか〜?
石山駅はともかく、一個手前の駅ホームだろ、あとミスマイに橋の土台。
真駒内から緑ヶ丘の堤、自動車トンネルになった石山陸橋トンネル、その先の堤の一部、
石山2条8丁目周辺の廃道、
北海道博物館にある豊平駅の看板、
平岸の「家が全部裏口向いている道路」
真駒内駅駅前商店跡地(タイヤセンター)
慈恵学園駅前の商店跡地(選挙事務所)
たしかどっかの茂みにキロポスト
そんなもんかなぁ。 豊平の駅前広場はどうなっているでしょうか。あの駅前広場(といっていいか
どうか)は、1950年代の前半ころに整備され、市電はR36から右折して終点
となるようになりました。(自分で書いててちょっと日本語が変ですね)
定鉄を降りた人は駅前の道路を横切って市電に乗ったわけです。
あの駅前ができる前は、市電の線路はR36上にありました。
豊平の旧駅舎がなくなってしまうと、あの駅前の微妙な広場な存在が気になり
ます。
>>71
駅構内は既にマンション。
市電の入り欠けはあまり意味の無い雰囲気の道路。
ターンテーブルのあたりは先日売却された東急ストア。
残っているのは歩道橋。
36線に掛かる歩道橋には36線真ん中に電停があったころの下るアプローチをふさいだ違和感のある柵のまま。
豊平前後の廃線敷地は東札幌に抜ける線路後は昔すべて定鉄関連企業だったんだが。
近年いっせいに売却されて、もう殆どじょうてつのものではない。
駅から定山渓方面に、札幌東急ストア豊平店(先月売却)、ホームセンタービバホーム
駅そのものは本社だったが、近年マンションに立替売却
駅から東札幌方面に、定鉄興行のガソリンステーション(近年売却)、定鉄タクシー車庫(近年第一交通に売却)、札幌東急ストア本部(先月アークスグループに売却)、貨物運輸会社の株式会社じょうてつヤード(近年土地売却) >>73
71です。早速ありがとうございます。
私ごとですが、一時期美園に住んでいて、あの駅前まで歩いてきて来て、市電に
乗って通学したものでした。
しばらく札幌へは行っていません。まだあの豊平駅がなくなったあともみていま
せん。今度行ってみたいとは思っているのですが、いつのことになるやら。
社型のC12が大きな丸太を積んだ貨車の入れ替えをしていた日が懐かしく思い出
されます。 定山渓鉄道の電車の塗装は「白+赤」になる前は、
どんな色だったのでしょうか?
例えば、国鉄ぶどう色2号?、阪急マルーン?、近鉄マルーン?、とか、
ご存知の方、いらしゃいますか? >>76
どうも、75です。緑色ですか、それは知らんかった。 フェザントグリーン。
ということになっているが、じゃぁどういう色というと、
田宮カラーのブリリアントグリーンが良く似ている
外人が撮影したカラーと碑文谷工場での出荷待ちがカラーで残っているな
>>74
C12を知っているとなると、昭和37年以前ですね >>78
74です。そうです。昭和24年から34年まで、あの近くに住んでいました。
だから、C12だけでなく8100も見ています。その頃は妙に煙突が長いカマだな
と思っていました。
それから、豊平の構内のはずれに長い間放置されていたコロ1あれがそんな
由緒ある車両だとは手宮に保存されることになってはじめて知りました。
中学から高校にかけてのころのことです。
おお、それは相当な壮年の方でしたか。
ちょうど自分の祖父から父も定鉄を利用していたのですよ。
からっきし鉄道に興味は無くて、あんまりいい話しは聞けておりませんけれども(苦笑
父は昭和37年から41年まで通学で利用していたようです。
亡くなってしまいましたけれども祖父は昭和31年から35年頃まで商いの輸送で利用していた模様です。
私はいまちょうど、豊平のターンテーブルの周辺跡地で商いしてます。
当時の写真を集めてはいますが、なかなか無いですね。
コロ1はないねん出版の星先生の資料だと、選鉱場にも長く置かれていたようですね。 昔の鉄ファンでコロ1がED5100に曳かれて豊平去る写真が載ってたな。
エンドに仔熊のテールマーク掲げた姿で、見送りする人多数。
熊送りって言葉が浮かんだけど…気にするな。 地元のみなさんには何をいまさらと思われるかも知れませんが
石切山の駅舎を見に行ったところ、すぐにみつけることができました。
模造の駅名札も飾ってありますね。 >>80
いやいや、壮年というよりむしろ老年、もしくは「くそじじい」です。もう
70すぎですから。
さて、電車で特に印象深い車両といえば、クハ601いうのがありましたね。
これだけが、流線型の車体を持っていました。朝夕だけ定山渓方に連結され
て運用されていました。旧北海道鉄道(現JR千歳線)から引き継いだいわゆ
る買収気動車で、深緑色の塗色がよく似合う車両でした。
それから501、数少ない木造車で、昭和30年代前半すでに休車に近い状態で
した。吉野から来たとかで、川崎の銘板をつけていました。
ながながと古い話を失礼しました。 豊羽鉱山のインジウムは世界一の産出量を誇っていたが
現在の技術ではこれ以上掘りすすめられなくなり
2006年に閉山したという。
でも、これからもし仮に採掘が再開されたとしても
鉱石を鉄道で輸送することはもうなさそうだ… 定山渓のじょうてつバス案内所があるところが、駅跡地ですか? >>85
案内所の裏が定山渓駅。
いまの「定山渓」バス停留所名は元「定山渓駅前」。
鉄道廃止後もややしばらく、定鉄バスは「定山渓駅前」だった。 >>86
ありがとうございます。わかって嬉しいです。 親父は定鉄の車掌だったが、廃止後市営バスの運転手になった。
給料は下がったが、ボーナスや退職金は良かったと言っていた。
俺は、市営バスの運転士だったが数年前にじょうてつバスの運転士に変わった。
今年からは、定山渓温泉の某ホテルの送迎バスの運転手。 >>88
運転手と運転士がごちゃごちゃだけど、あまり気にしてないのかい? >>89
親父の時代は、拝命が「運転手」
俺の採用時の辞令は、「運転士」
今の職場では、送迎運転手なんだ。 >>90
失礼しました。
なるほど、鉄道が「士」バスが「手」と憶えていたが、一概にそうでもないんだね 今も現存していたら、札幌の交通事情はどの様に変化していたのかな? >>92
真駒内くらいまで複線電化。
電化された学園都市線と直通運転してたかも。 市電路線網と定鉄が共に残っていたらLRT化が
取り沙汰されていた鴨 地下鉄南北線を旧定鉄沿いに延伸する気はないのかね? >>92-93
札幌〜東札幌はどうなるだろうか?
国鉄千歳線別線複線化の際に旧線買って電化?
そして国鉄乗入れのために交直両用車両導入? >>96
旧型及びゲロ電淘汰のために思い切って交流転換…
仙山線かっ! 札幌駅乗り入れを意識するなら交流化も考える必要ありだっただろうな。
南北線がゴムに拘らなければ、平岸〜大通〜新琴似間を交通局、平岸以南を定鉄、新琴似以北を国鉄という運営もあったかも。
それでもオリンピック輸送出来ただろうし。 >98
以前、他刷れで聞いたときも回答なかったんだけど、札幌市交通局が
独自のゴムタイヤに固執した理由が分からないんだよねぇ、未だに。
まさか、「見栄」だけってわけじゃないよね?
1067mm架空線にしておけば定山渓・夕張鉄道・国鉄各線(ただし電車は交直流。
でもソウルの実例あるから非現実的ではない)との直通だって出来た。
予算ないときには、営団あたりから中古車買って誤魔化すことだってできる。
(そもそも量産品のふつーの電車と、特注品だらけのSSトラムじゃ値段も違うし) ○騒音防止
○今のシェルター部分は当初はシェルた−なしで建設して、
比較的雪に強いゴムタイヤ車両で運用すると言う予定もあった(くわえて郊外部は地下鉄じゃなくて高架にする予定だった)
○一部に急勾配がありゴムタイヤが望ましかった
△当時の国鉄は都市間輸送特化で、近郊及び市内の通勤通学用ではなく、相互乗り入れは全く問題外だった
△鉄軌道にすることによるコスト低下が重要視されていなかった >100
騒音・対雪あたり納得は出来るけど、決定打にはならないような。
やっぱり
「新しいもの好き・見栄」
「コスト意識の欠落」
がゴムタイヤ式を後押ししちゃったのかな……。
まぁそんな事情で導入されちゃった姫路モノレールとか
そんな事情に限りなく近そうな千葉モノレールとかあるから、
都市交通における合理的な判断というのは働きにくいんだろうねぇ。
三大都市圏にしか地下鉄がなかった時代に、
まだ一地方都市だった札幌に地下鉄を通す名分として
新交通的な要素が必要だった、といったようなことを
ずっと前だれかが書いてたよ。
霊園前の辺りの急勾配は鉄軌道じゃ無理目なほどの急勾配だから
それは決定打になるね
それから都心部を除いた郊外は高架の予定だったから
地下→高架部分は同様の急勾配になる予定だった
なのでゴムタイヤ導入だよ 結局、アイデアマン・大刀豊局長を始めとする交通局技術陣が
オリンピックの緊急性を背景に技術的暴走しちゃったのが実情ではなかろうか。 でも乗り心地はいいから○って感じ? 初めて乗ったときには感動すら覚えた。>ゴムタイヤ 当時の太刀交通局長は「法令が無ければ無いで、サッサと造ればいい。造っちまえば
法令など後からついてくる」が持論の人だったからね。 当時の地方私鉄ではすばらしい車輌をそろえ、有名な温泉をバックに抱えていたのに、
なくなって残念です。今も存在していればと思います。
ところで、当時の車輌の内装はどんな感じだったのでしょうか?座席の色とか内張とか、
北海道ゆえに暖色系とか。 >107
モロやクロは普通にニス塗だったと思う。写真の出処覚えてないスマソ。
他の電車もニス塗りだったんじゃないか。あの時代じゃ。
十和田観光にいった湘南顔のは(1207+1208)
十和田観光だと灰色塗装+緑のモケットだった。ただし
十和田観光で変更された可能性は当然にあるけど。
ご教示ありがとうございました。外観の写真は多くても内装はよくわかりませんよね。
つくづく現存していればどうなっていたかと思います。
星良助翁がほぼすべて撮り残してくれている。
著者に分散しているから、全部見るには著者に諭吉二枚ほど必要。
レイルno21、22・北線路
北国の汽笛1〜4
鉄道ピクトリアル232
位、買い集めて損なし。
どれも案外入手出来る。
キハ7000の転クロはスゲェの感嘆でておかしくない。
北国の汽笛からオススメ。
北海道私鉄に銭払った以上に深く魅せられること間違いなし?
遅レスすまんが>>99-102について
表向きの理由は>>100の通り
んで>>102の話は、
当時の運輸省が「地下鉄は三大都市圏以外は不要」と言って、頑として補助金をつけてくれなかったというもの。
一方、当時はモノレールやらの新交通システムが今より有望視されていたということもあり、五輪のからみもあって、そちらの枠なら補助金がつきそうな情勢だったという。
んで、「これは一部地下も走る新交通システム」と言い張るために、地上区間を設けることにした。もちろん、五輪までの工期日程的にも、地上区間を設けたほうが得策という事情もあったが。
この説はただの噂話なんで、残念ながらソースはない。当時の予算書でも見て補助金の費目を調べれば少しは分かるかも。
しかし、仮にこれが事実としても、東西線、東豊線の頃は事情が変わっているのだから、鉄軌道で作るべきだったわな。
この辺になると市の意地だけではなく、事実上一社独占の車両メーカーやタイヤメーカーとの癒着を疑われても仕方ないと思う。
いいんじゃね。定山渓の最後にはついてまわる影だし。
札幌市交通局のスレだと今の地下鉄のこととか、市電話とかで
この種の話題は埋もれると思うぞ。 >>96-98
国鉄が>>57のように思っていたとしたら、地下鉄直通を気に手を切るかもな。
車両面を考えても、定鉄・地下鉄(現行5000系基準)の18m直流規格にわざわざ合わせてくれるとも思わんし。 時系列じ考えてみると面白いのが、
東洋精糖事情〜五島慶太死去〜東洋精糖撤退〜伊豆急開業〜くろがね自動車撤退〜定鉄廃止
の順番であること。
実は東急グループは伊豆急と定鉄の間で経営危機になっている。
そのため、五島昇の努力で再建を目指し、瀬島龍三などの大物に相談役や非常勤役員を依頼して、銀行からの人材注入を避けた歴史がある。
定鉄の開業に際して、当時の大臣は五島慶太であり、テープカットをしている事実がある。
慶太の内心を考え、鉄道を継続していた向きが大きい。
また、東亜国以内航空結成目前にして、大きな資金を調達する必要があった東急グループは、
経営バックボーンが変わり、北海道東急グループを拡大継承したものの、資金を北海道内で回し、
事実上本体から金銭的な流れを切ることが必要であると考えたのが五島昇であると言われている。
そこで考えられたのが、定鉄を北海道東急グループの幹事会社として資金力を持たせ、成長分野の不動産中心に
資本中心化をさせる案があったらしい。
そのため、定鉄の鉄道廃止を取引条件に、五輪関係でつぎ込まれる資金を取り囲むことでの
北海道東急資金独立確保が計画されたと言う説がある。
五島が主宰したテンテン会のメンバーとも歩調をあわせたとも噂される。
テンテン会メンバーは、昭和40年代前半、瀬島の勧めで起きた政財界の青年集団で、
警視庁総監秦野章や、鹿島の石川六郎、廃止を決めたときの運輸大臣中曽根康弘が居るなど、何らかのにおいがする。
その直前に、財界の大物とも懇意になっていると言うか、住友銀行系慶応閥との和解をしている。
あまりに出来すぎていると言うか・・・。
私見だが、定鉄廃止は、上手に五輪資金の一部が東急グループに流れるように警察政治金融経済界がやんわりとタッグを組んだ結果ではないかと思うのだが・・・。
まぁ、確かに、定鉄へのいきなり7箇所立体交差化のほかにも、昭和30年代の警察は札幌市電親子電車に対しても「交差点通過時間がかかりすぎる」というイチャモンにちかい勧告をしていたりして、
訳の判らない交通取締りをしているのだけれども。 ちなみにテンテン会の結成の発端となったキャピトル東急開業が1963年であり、
その1010号室が会合の場だった。というのは記録に残っている。
昭和38年から定鉄廃止決定の昭和42年までに、秦野と中曽根と懇意にあり、
不動産開発&建設を拡大の種に伸びて、更に真駒内アイスアリーナなどの五輪施設を後に建設する鹿島建設の石川六郎がいるというのは
あまりにも出来過ぎではないかと。
結局、鉄道の規格や運輸成績もろもろなど関係なく、そういった人脈から定鉄は廃止になったのではないかと推測している。 続けると、
昭和40年代中半から後半にかけて、
秦野は政治家への路を進み始め、石川は五輪建設の大きなものを手がけたことを切欠にメガゼネコンの地位を確立、
東急は北海道に定鉄を中心とした不動産と観光ネットワークを確立、中曽根はキャリアを重ねて田中角栄の次席を狙う基礎派閥の開始、
着実に成果をものにしている。
テンテン会は15人位居たらしいが、ほかにもそういった上手にカルマを伸ばしたものが多い。
ちなみに小佐野賢治や田中角栄はテンテン会には入っていないので、また別の五島人脈であったようだね。
(どちらかというと慶太が昇に与えた人脈のようだ) >116-118
なるほどね。
鵜呑みにするのは危険な類な情報だけど、面白い話だと思う。
長文書き込み感謝。 散発だが、五島慶太と五島昇は親子2代に渡って、北海道の勢力拡大に尽力したが、手法にいささかの違いが見られる。
慶太は定鉄を幹として、夕鉄を取り込み夕張定山渓千歳をつなぐ札幌急行電鉄構想を持っていたのは有名だが、
昇は東亜国内航空樹立(昭和40年代の第一次JAL併合を回避成功している)、そして観光の足回りにはバスであると見ていた節が多い。
実際のことらしいが、慶太の最初の危篤の報を受け取ったのは、確か腹心の田中均とともに北見バスと東亜航空買収を手がけていた北見で一報を聞きつけ、
北見から東京に帰った記述が見られる。
どうも東亜国内航空をつくるには、北見の有力者の味方が必要であったらしく、有力者が首長選挙での当選手土産として華を持たせるべく、五島昇は大学設立資金を提供したらしい。
(それが国公立の北見工業大学なのか、現在の北海商科大学なのかおぼろげ)
札幌急行電鉄構想は昇の時代になり姿を消していること、その後はバス事業を定鉄資金で積極的に購入しているので、
鉄道>バスが
見えてくる気はする。
(しかも観光路線以外の路線バスには余り手を出していない、むしろ生活重視路線は手放している)
ちなみに有名な話だが、北海道中央バスを慶太の時代に買収しかけているが、資金は東急、使った放ち駒は小佐野賢治と北交ハイヤーの柴野初代社長だが、
両者あわせて51%まで買い進めたものの、柴野の裏切りで売り払われてしまい、頓挫したようだ。
慶太はむしろその後は北海道・東北のバスについて小佐野に斡旋することはあっても自らでは進めていない。
確かに私見・妄想の中だけであるけど、点と点はつじつまが合うことが多いのが楽しい部分。
昭和38年に2300型電車を東急車両で作らせているが「例」の構造。
東急車輛に修行に長く居た昇が、そのような極端な方針の車両のことを知らないとは思えない。
実際、伊豆急電車については色について細かく意見している。
(たかが定鉄通勤電車に熟考したとも思えないけれども)
そのころから長く営業しないつもりで居たんじゃないだろうか? 定鉄の車、廃止時には長野にEL2両、十和田観光に1200が2両売れたのみ
でしたが、昭和32年、2300に機器を譲って廃車になったモハ100の車体は一両が旭川電気軌道に
行きデハ501となり、もう一両は弘南鉄道に行きモハ2210になった。さらに弘南がS36年、1500v昇圧に伴って
2210は日立電鉄に譲渡され、昭和54年まで活躍しました。短命車が多かった定山渓で思わぬ長命車がいました。
日立の廃車直後の現車を実見しましたが、「よくぞここまで」といいたくなるようなボロボロでした。
前硬軟
が後年意7のあ
山渓 どちらも更新を担当した日本車両で処分扱いのものを再生したものですねぇ。
処分したものが長生きしたという稀有な例で。 改造前
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/70/910034c3463dd4d190c7433404338607.jpg
改造後
ttp://1003.amigasa.jp/1003%20HITACHI%20(12).jpg
ttp://homepage3.nifty.com/m_horikoshi/3_2Sitetu/_Rs_02_04_asahikawa_011-22_yojyou.JPG
特に101は定鉄と日立で比較すると面白いですねぇ。 >>121
ついでに言うなら、転籍車だけで追うと、
DD4501が定鉄(豊羽)〜北海道拓殖〜旭川通運
寿都に8105と8108
藤田炭鉱に8104
C12が一部部品だけだけれどもいずこかに持っていかれたとか。 >>123
日立の車両なら、鉄コレ第1弾の改造で作れそうな感じですね。 鉄コレで定山渓ネタは何時かくるのかな……。
1200の定山渓と十和田観光仕様両方とか。
あとはモロとゲロ電。
これだけじゃ足りないから北海道の私鉄電車という括りにして
旭川電軌の1001も。 基本的に日本車両のものがとても多い (というか図面集のがことごとく網羅されてきた) ので、
可能性が無いわけではなさそうなんだけど、
富山地鉄特急と遠鉄30とのバトルかw
ゲロ電より1200のほうが「若干」可能性が高そうだ。 定山渓の某温泉宿の浴室入口に現役時代の定山渓駅の写真が展示されており、写ってた車両がキハ56・27に見えた。
多客期には国鉄の車両乗り入れてたの? >129
色で見間違えてない? 末期は急行型気動車に近い配色だったから。
定山渓のキハ7000/7500は濃赤に白帯だったけど。
国鉄車乗り入れは初耳。 国鉄の客車が、定鉄のELに曳かれているのは豊平で見た。 >>130
その写真を携帯で撮影してたの再確認したら、あの運転台窓と側面窓配置は紛れもなくキハ56系列だった。
ちなみに時代は昭和38年頃らしい。 定鉄線内でのキハ56の写真、自分も見たことあるよ。
確かレイルマガジンから出てる「消えた轍1」だったかな、それに載ってた。 終戦ちょっと前か直後に樺太にいた傷痍軍人輸送で、
稚内発定山渓行という汽車が出たことがあると聞いたことがある。
>>134
真駒内南町3丁目バス停(滝野方向)付近でなかったか。 >>133
下藤野駅を通過する3両編成のキハ56・キハ27の臨時列車という写真が
掲載されてますね。 >>93
そうなると他の札幌の地下鉄にも影響が出て、東西線と東豊線も通常鉄道になってた。
もし札幌地下鉄がゴムタイヤではなく普通レール式だったら、建設費は安くなってて、札幌の財政は少しは浮いていた。
定鉄は存続、高架化、複線化されてシェルター化、南北線は南平岸までで、そこから定山渓まで乗り入れ、現在は地下鉄直通の特急列車もある
札沼線は医療大学まで電化され、南北線は麻生から札沼線に乗り入れて石狩当別まで乗り入れて、一部は北海道医療大学まで
東西線は手稲辺りから函館本線に乗り入れて小樽まで乗り入れ
菊水辺りで旧千歳線跡地から高架化、シェルター化され、厚別区で分岐して、上野幌から千歳線新千歳空港、一部苫小牧まで乗り入れ、地下鉄経由の快速エアポートも存在する。
分岐線は森林公園から函館本線に乗り入れて岩見沢まで乗り入れ
東豊線は経済関係でリニア地下鉄。
あいの里公園を起点にして、豊平公園から違うルートになり、羊ヶ丘通りを走り、札幌ドームや美しが丘を経由して、大曲のアウトレットパークまで。 JNMAでキハ7000と7500、モハ800、1000、1100、クハ1010、1110発売されるらしい。 >138
前も話でてたけど、やっぱり札幌市のあの交通部長がA級戦犯か……。
当時は定鉄も札沼線も、見向きもされなかったんだね。
非電化単線だった筑肥線の活用を、昭和40年代から計画していた福岡とは対照的。 まあ正直なところ、地下鉄が普通鉄道規格だったとしても
定鉄との乗り入れは実施されてなかっただろうけどね。
想定される輸送量の段差があっただろうし、結果としては
福岡の貝塚みたいな分断駅がどこかに出来ただけかと。 真夏のゲロ電に一度乗ってみたかった。
せめて乗った人の話し聞きたい。 >>143
今なら秩父鉄道モハ1100で同様の体験ができる。
真夏なのに窓が閉まっている車両が多く、車内温度は41度位。 名鉄のモ600はかなりゲロ電に近かったぞ。
開く窓がかなり少ない上、運転台とその周辺は構造上完全に温室状態になる。
おまけに沿線の暑さがガチだったし。
新関行きの電車に乗ってたら、競輪場前ですれ違った対向電車の運転士が
「さっき50度超えたぞ…」と汗ダラダラ垂らしながらこぼしてたの思い出した。
モ870も似たような状況だった。 >>29
遅レスだけど田井自動車って根室拓殖の2以外にも鉄道車両手がけていたのね。
十勝清水だかどっかの日本甜菜糖の移動機も作ってるんだね。
調べれば他にも小物とか保線車両とかありそう。 >>121
モ100が機器を譲ったのはモ2100
モ2300に機器を譲ったのはモ201と301
ちなみに金属キットなら
銘ワークスからモ100
キッチンからモ801、モ802、モ1001+ク1011、モロ1101+クロ1111、モ2200
マスターピースからED500タイプ
あと名前忘れたけどどっかから十和田1207が出てる
鉄コレ13弾が北海道祭りになりそうだったから期待したけど残念な結果にorz 鉄コレ13弾、定山渓の気動車も出して欲しかったよな。 定鉄が存在していたら、5000系や7000系が来てたかな。 東西線6000って窓割り東急7000と似てるから
(ってか南北線2000もある意味似てる)
乗り入れる事になってたら7000投入されたかもな 東急7000の車体に、足回りに札幌5000とか素敵過ぎる もし札幌市営地下鉄が普通の地下鉄で、定鉄と相互直通運転してたら、
定鉄沿線は札幌のベッドタウン化が進み、温泉電車から都市通勤路線に
変貌した神戸電鉄有馬線のようになってただろう。
ひょっとしたら今頃は準大手の一角を占めてたかもしれない。
そういや神鉄も少し前まで準大手だったしな。 >>153 いやーそれは 馬鹿な役人しかしない希望的観測じゃないの?
札幌郊外の人口は当時より減ってないか?東京集中で。
俺的には、エネルギー革命(国内炭と外国炭の価格に差が無いとかも)が起きず
夕張と札幌急行電鉄が具現化していたほうが面白い事になっていたと思う。 でも定鉄残ってたら準大手に成れたかどうかはさておき
南区の人口はもっと多いと思うよ 真駒内〜定山渓だけでも残ってたら・・・
って、やっぱり無理か。 真駒内以南がキモだけど、以北も東札幌連絡線プラス千歳旧線貨物化残存区間とセットで
残したら多大な威力を発揮していたと思う。
札幌直通は難しいにしても、苗穂まで自社線で直通していたらそれだけで地下鉄南北線が
かなり楽できてると思う。
札幌出身の鉄も一般人も、酒の席で沿線の話になると口を揃えて「あれが残ってたら…」という話になる。
石山とか簾舞あたりは今の悲惨な道路事情から解放されたらもっと発展しているだろうし、
定山渓温泉もここまで寂れないで済んだと思う。 >>159
千歳空港駅開業に合わせて交流電化して、空港直通快速とか走らせればすごいことになってたような気がする >>159
完全地元在住だが
>今の悲惨な道路事情
今は逆に過剰なくらい道路が太くなったから、もう実質要らないよ。
藤野地域も人口暫減でスーパーでさえも閑古鳥だ。
バスは相変わらず交通弱者をキチンと細かくフォローしているし
いま、駅にまで歩くと言う状況ではないな。
石山は逆に道が良くなった昭和53年から急速に寂れた。
いまや老人ホームが17件もある姥捨て山だ。
それだけ交通事情が良くなっちゃったんだよ。
定山渓も寂れているのはホテルのワンパッケージ化がメインで、ホテル外に人がでなくなったからだよ。
あと、豊羽鉱山の閉山も大きい。
まぁ、勢いもって藤野に地下鉄があったらよかったけど、恐らく赤字の大量発生原因になる空気輸送だったと思う。 豊羽鉱山の掘削全盛、ダム建設全盛のときには工員が定山渓に数ヶ月数年滞在した。
その頃が近代定山渓のピーク。
特に女買いが商売として成立していた。
働く男の性欲処理が花盛りだったし。それが賑やかにしていたからね。
いま、定山渓に女郎が入るなんて聞かない。
恐らくいないんだと思う。
デリすらいないかも。 >>161
鉄道が無くなって道路しかないから整備されたんであって
鉄道残ってたら逆に道路貧弱なままだったかもね 伊予鉄森松線の話と似ているなあ。
あっちは鉄道を廃止して道路が太くなったから、街が栄えたという点が違うけど。 >>163
うんにゃ。
昭和44年の前から30年計画が既にあった。
かなり遅れているけど進んでいる。
逆に人口増加のポイントの藤野団地一体は、定鉄保証金が元金なので、
廃止ありきは当然であり。 豊羽鉱山…採れていたのはいま話題のレアアースですね… 埋蔵はまだ在るのだけど、地熱が高くなりすぎたのだよね。
国家的に露天掘りすれば 豊羽鉱山は、地熱の原因となっている温泉の水脈を変えない限り、
あれ以上採掘出来ないから無理。
内地の者で門外漢ですが、たった数日のレースのためだけに恵庭岳の原生林つぶしたり、
道警が年間200万近くが利用している鉄道に廃止勧告したり、当時はまさに狂気の時代だったのですね。
時代の犠牲になった定鉄、もっとも東急系列化したおかげで保証金がたんまり引き出せたわけだし。
五島の犠牲になった定鉄といったほうがいいのかもしれませんね。
浅野社長が率いていたらその前にとっくに倒れていたんだけどな。
過重投資で回収不能な残貨が積まれていて、
実は東急が肩入れしなかったら倒産になっていた。
決して黒字でもなかったからね。
その決算書が出て、地域の株主は一斉に五島に売ったんだよ。
売買仲介も北交ハイヤーの柴野だ。
北海道人が手回ししてんだよ。 恵庭岳は当時から批判があったよね
手塚治虫のブラックジャックに恵庭岳の乱開発を批判してた話がある
定鉄は真駒内以南については確かにその通りだけど
真駒内以北については地下鉄になってよかったと思うんだが 171です。ご指摘ありがとうございます。
たしかに、昭和30年代初めの定鉄の設備投資は路線規模からみても
異常といえるほど活発でしたね。
掘れば掘るほど売れた石炭、唯一の楽しみが週末羽をのばすこと。
その絶好の対象が定山渓温泉。
準急「たるまえ」が乗り入れるとは道南からも定山渓に行楽に来たわけですね
そのころは関東でも週末の小田急の箱根特急の指定券の入手難は社会問題
になるほどだったとか。
長電が特急の座席指定制をやめたのも、お客さんが乗りすぎて指定席持ってるのに座れない人が出たためだとか。
そんな時代だったのですね。
毎年一割以上のペースでお客さんが増えていたわけですから、積極的な投資もうなづけます。
それが、まさか約10年後に廃止になるとは思っても見なかったでしょうね。
写真見ても単行列車ほとんどないですものね。3連4連が当たり前。
間違いなく戦後の廃止私鉄の雄でした。再生の道はあったでしょうに。
その再生の道が、地下鉄に真駒内まで譲ることだったのかもしれない。
札幌は「雪に負けない交通」がほしかったのだから、地上鉄道との乗り入れなどもってのほかだったろうし。 再生の道は無いに等しかったでしょうねぇ。
札幌市の発展の代理処分となって消える運命にはあった。
確かにキロ当たりの乗員1000名だったかの規模で廃止された数少ない鉄道のひとつではありますが、
それが存続には結ばないKともある証明といえるでしょうね。
東急グループが買収案に積極的になっていったのは紛れもない事実。
それは代償案が桁外れであったことも事実。
実際廃止されてからの札幌の発展は見てのとおり。
また、南区の収縮も起きているのもまた事実。
南区だけの鉄道ではジリ貧であり。
法人960社しかなくなっている土地でもあるし、老人世帯が散漫かつ比率の高さから経済量も無い。
公営交通で美味しい中心部輸送が代置されればドル箱を失い勝てる見込みも無いでしょう。
たとえ澄川真駒内間が並行してもと言う意味で。
輸送量があったゆえに、更に大きな輸送機関に置き換えられたと見るべきかと。
時節の後押しも大きかったわけで。 そもそも、
廃止直前の頃は、既に札幌〜定山渓方面の輸送は、
豊平川左岸を走るバスが主流だったんじゃ? 左岸と言うのがどちら確定しているかわからないが、現在の7系統は昭和53年の開設だよ。
廃止時に札幌市営に概ね委譲した定鉄バス路線のうち、定鉄バス側に生存した8番系統と12番系統に新たに追加された久しぶりの系統だった。
旧7番系統は平岸駅を基点とした現在の豊平区内路線だった。
12系統ももともと真駒内で切れる路線ではなく、もっと北進する路線だった。
札幌駅に国道230号線を北上する8系統も今の半分程度の本数だった。
それで主流とは少し言いがたい。
興味深いですね…
定鉄バスの路線の変遷に詳しい資料とかないですか 定鉄バスが昭和47年に市営買取を獲得するまでに、市営譲渡したのは9路線バス34台79名の職員と言う資料が散漫だが書き残されている。
そのときに現在の東光ストア自衛隊前店とドエル真駒内の敷地にあった車庫がボーリング場転換されているらしい。
しかし、昭和51年にはボーリング場をスーパー業態に転換。
どれも正式広報ではなく研究家による資料と、自分の目視確認事項、及び札幌東急ストア時代の資料であるので正確ではないかも知れぬ。
9路線と言うのに注目したい。
12系統までは現存数の上であるのに、9系統では実は数が合わない。
8番系統は9+1以上に内包するので、鉄道時代からあった路線であると仮定しておく。
実際、モノクロ写真には8の文字のあるバスと鉄道が石山陸橋でランデブーしている写真がある。
1系統は伝え聞いたところで、真駒内〜平岸〜豊平〜苗穂駅の鉄道補完路線で、市営になって平成年間まで生きていたことは知られている。
ただ、これも伝え聞いたところであるし、実際定山渓鉄道真駒内は今の地下鉄真駒内の場所ではないし、要衝であったかは?だと思う。
ここ真駒内で1系統と12系統が乗換えをして、2系統で鉄道並行路線だったのかと言うと少し疑問は残る。
少し手前にバス車庫があるのだから、定山渓鉄道慈恵学園前(東光自衛隊前斜向の消防署が当時の駅だったようだ。)で、接続だったのかもしれない。
>>178
8系統、当時30分間隔だったって何かで読んだことがあるけど、違うのかなあ・・・。
鉄道が18往復(約1時間ヘッド)だったわけだし。 >>180
ありましたねぇ。南91澄川苗穂線。
市営バス時代には、珍しく距離の長い路線だったので一日乗車券で
遊ぶときにはよく狙って乗りました。 >>182
定鉄通学だった父曰く
「バスは時間が読めない」
と言うことではあったようだ。
まぁそれはそうとしても昭和38年当時では12系統が無く、通貫はさせていないからこと札幌駅直通する需要以外は分散していたと思われるが。
時間的には、当時の繁華街「まるい前」までは豊平乗り換え市電とあまり変わらなかったそうだ。
それだけ石山通の道事情も悪かったということでしょうねぇ。
すくなくとも、自分は細くくねくねした石山通を知っているので、確かに均衡速度は遅かった。 内地モンですが、教えてください。廃止直前でも年間150万人くらいの輸送量があった定鉄、
これだけの人を運んでいたのによくバス化できましたね。
混乱しなかったのですか?マア、それが許された時代だったんでしょうね。
ん?
定鉄は知らない世代だけど、20年前高校時代バス通学していたが、
完全満員で積み残しはざらだった。
職についてからも最終バスは寿司詰め。
ただ、最近はそういう光景が無く
殿様じょうてつが続行を出すようになるなど細かくことが出来るようになってきている。
沿線公共交通人口減少は相当みたいだ。 >>185
輸送量が多い区間は地下鉄になった訳でしょ。
必要なところは上位代替され、バスで十分な区間がバス化されただけでは? 230号沿線というと、ひとたび雪が降れば街まで2時間という印象が未だにあるのだが
最近どうなの? 問題は地下鉄が従来規格と互換性の全くない札幌市交通局の道楽的シロモノってこと。
市営地下鉄が1067mm架空線で、定山渓電鉄との相互乗り入れ
(一部車両は交直両用車で国鉄とも乗り入れ)
だったら、定山渓電鉄は「変容」はすれど「消滅」はせずに済んだのに。
輸送力の少ない区間は従来の電車や気動車(電化廃止も選択肢)でまかなって
輸送力の多い区間は地下鉄直通電車で賄う。
雪害対策のシェルターや地下化も少しづつ進めていったってよかったんだし。
余談だけど市営地下鉄が1067mm架空線20m規格なら
電車とか汎用性のある規格品(要は走ルンです)or中古車でもまかなえたんだよね。
SSトラムの罪は重いと思う。 >>153
札幌に移り住むまで神鉄有馬線の沿線に住んでたが阪神大震災の頃までは宅地開発が活発で電車も冷房化や新車投入なども活発で発展してたが平成不況と都心回避で(粟生線ほどではないが)かなりジリ貧だよ(>_<)
あと某超大手宗教系国家議員が近年までいたせいで4両中1両まるごとが雌車のせいでマイカーや特急バス(高速バス)に流れたのもあるが…
なので発展したとしても厳しいのでは? >189
それはありえない。
地下鉄は雪をシャットダウンすることも目的だったから地上鉄道との直通という発想は建設時には無かっただろう。
>191
ゴムタイヤと鉄軌条の優柔と雪対策は何ら関係ないと思うが。
鉄軌条でもシェルターの整備は可能だし。
問題なのは、建設というか計画時に全く既存鉄道網との直通を考えなかったことと、
独自規格によるコスト高を考えてなかったであろうということ。
まぁあの時代の「無茶苦茶さ」に今更突っ込みいれても仕方ないけど。
ただ、定山渓電鉄の地下鉄化されなかった区間は残ってても
今は存亡を問われるような状態になってたとは思う。
>>190
ゴムタイヤ規格のことではなくて
>市営地下鉄が1067mm架空線で、定山渓電鉄との相互乗り入れ
これが、ありえない。 >>192
当時は自動車の隆盛で鉄道産業は斜陽化すると見做されてて、
自動車と一定の共通化が図れるゴムタイヤ式でないと生き残れない、
そんな風潮があったんよ。
そんな環境の中で生まれたのが、札幌のゴムタイヤ地下鉄だったり
各種モノレールだった訳で、当時の時代背景を考えれば順当な判断。
特に札幌の場合は都市圏輸送を行う鉄路が定鉄しかない状態で、
定鉄の都市圏輸送区間を置き換えてしまえば既存の鉄レールとは
決別できる環境があったので、他都市では為し得ない「全面置き換え」を
一気に進めた、という経緯でしょ。
当時の判断として、札幌市のそれは非難されるものではないと思うよ。 >>194
…という経緯でしょ。
という川重の口車に、市幹部がまんまと騙されたというのが真相じゃないの? >>195
昭和30年代〜40年代は、国策としてもゴムタイヤ式を推し進めた時代。
輸出も含め国の基幹産業として自動車産業を育てようとしていた時代な訳で、
その中において「自動車産業と一定の融和を図れる」ゴムタイヤ式の車両は
当時の将来像としては必須だったから、大量輸送機関としての札幌方式に、
中量規模向け(路面電車代替)のモノレール各方式が編み出されたんでしょ。
大量輸送機関については既存鉄道との融和が必要な都市が多かったので
札幌以外に採用事例がなかったけど(札幌の場合は定鉄置き換えが前提)、
モノレールは国裁定の標準規格としてゴムタイヤ式が選定されてるしね。 更にまた札幌市としてはオリンピック開催の見栄もあったことは事実。
オリンピックに向けて運動施設以外にも
・市電の大量整理(時代遅れだという風潮)
・市役所庁舎の新築
なんて湯水のように公共事業をやっていた(からね。
>>まぁあの時代の「無茶苦茶さ」
確かにすさまじい勢いだったそうだわ。
毎日街が変わっていったと、医大前に住んでいた母曰く。
>>今は存亡を問われるような状態になってた
今もそう感じられると思うけど、定鉄廃止が無ければ藤野の団地一体全部もなかったんだよね。
南区はジリ貧どころか本当にモエレの方面のような僻地で終わっていたと思う。
今でさえ、札幌市の過疎地域だがww
>>これが、ありえない。
たーだ、これの冷静さは欲しかったもんだなぁ。
ま、「意欲的な」市交通局の某部長の所為でもあるがw
>>そんな風潮があったんよ。
そういう文献がきちんとあるものな。
(当時の道新連載記事など)
>>時代背景を考えれば順当な判断
時代の仇花の貧乏くじを率先して引いたと、いうことには違いないんだけどな。
順当と言うより「しょうがない」
>>札幌以外に採用事例がなかったけど
南北線はともかく、東西線は違う事情あり。
昭和49年には、見直しが掛かったのに札幌は突き進んじゃったからなぁ・・・。 札幌市営地下鉄とJR線の直通って
妄想垂れ流してるヲタが多いのに辟易してるんだが、
基本的に、函館本線と市営南北線では利用者層がほぼ分離しているだろうに
JR利用者にとってせいぜい一駅、二駅の大通、すすきのまでにしか用は無い
それぞれ各方面からの需要は、
地下鉄とJR線の結節点である札幌都心(含む大通、すすきの)に
集中してるのであって、
真駒内ー手稲、真駒内−千歳、麻生−etcという需要はかなり少ない
そもそも地下鉄ベースで考えるとJR線の各方面列車が少なすぎて、
待ち時間考えたら、さっぽろ駅でおとなしく乗り換えるのと変わらないだろう JRと市営地下鉄の直通って、函館本線や千歳線じゃなくて
札沼線のほうだと思うんだが。 >>155 超遅レスですまん。
夕張は札幌乗り入れを熱望していた。車両を国鉄に提供しようと働きかけたくらい・・・
それ故の遺恨からか、夕張は国鉄を凌ぐ車両サービスに血道を注いできた。
当初は定鉄を介して国鉄札幌駅1番線乗り入れ やがて 両社の合資で発足の札幌急行が独自で札幌にターミナル新設で
後に電化の国鉄線と競合とかね。
定鉄の 日立製デーゼルカーや札幌市営地下鉄の(特に初期)独特のデザイイン意匠の車両って
ソ連の鉄道車両や サハリンの帝国車両製湘南型ディ−ゼルカー 妙に近似性を感じるよな。
ひょっとして当時の社会党や共産党がソ連の北海道占領計画を見越して関与したのか?(笑)
札幌ー夕張間を結ぶ鉄道とし >>200
おいおい
中途半端に切れてるけど大丈夫か? スレちがいですが、夕鉄の急行、無料だと思っていたのですが、
急行料金とった時代があったのですね。
あるサイトで栗山から野幌行きの急行乗車券の切符(硬券)
を見つけたもので。 >>201 ゴメン では続き
札幌ー夕張間を結ぶ鉄道として発達して夕張(迄とは云わないが夕鉄沿線が札幌の通勤圏内)になり
札幌急行鉄道と国鉄が競合するようになっていなかったかな?と・・・
少なくとも夕張市の破綻は回避できたような・・・
嫌な話だが、北海道道内の土地・街としての発展だけを考えたら。
ソ連が侵攻していた方がソ連邦の極東最南端の比較的温暖な地域として発達していたのかな?
★無論 我々日本人の(勿論 北海道民も含めて)には無縁か奴隷的な扱いの状況下だろうが・・・
>204
その後半の妄想は面白いし個人的には大好きだけど、問題が多すぎる。
ここより他スレのほうが。
ここのほうが未だ関連性あるかも。
【台湾朝鮮】外地総合スレ【樺太南洋】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1220883238/
ただ、この種の議論というか想定って得てして北朝鮮的悲劇を想定されることが
多いんだよなぁ。せめて東ドイツくらいを前提にして欲しいのだが。
分断国家と云っても西から東に行くことは出来る程度の分断ねw >>138に追加
そして、北海道新幹線が札幌まで延伸すると、定鉄が三線軌条化し、北海道新幹線が定鉄に乗り入れる。
要するに博多南線や越後湯沢〜ガーラ湯沢と同様の新幹線規格在来線扱い。
北海道新幹線の定鉄乗り入れ区間の停車駅は南平岸、真駒内、藤の沢、定山渓
これにより、首都圏から定山渓温泉に行けるようになる。 >>207 東急は東亜国内航空→日本エアシステム→JAL統合 抱えていたからソレは早期に航空会社を手放さなかった限りありえない。 それにしても何故キハ7000と7500は関東鉄道と茨城交通に売れなかったんだろう?
同日に廃止した江若鉄道の戦前のキハが7両も売れたのに・・・
湯口徹さんじゃないけど、どうしても解せない。 >>209 以前鉄ピクに、関東鉄道(当時常総?)の関係者の鹿島参宮とのキハ04払下獲得競争とか
の話や廃業私鉄からの中古車購入の際、「私鉄車両めぐり」の記事が、大変参考になった旨書いてあったな〜
(加越能15001が売れなかったのはこの辺が理由かな?)
今なら当時中古買い付けに地方行脚した人にまだ訊けるかもね。
俺は、江若廃業時の熊延からきた湘南形キハが売れなかったことも不可解。 rmライブラリーで近いうちに定山渓鉄道、旭川電軌、札幌市電、湧別鉄道
根室拓殖鉄道、花巻電鉄、仙台鉄道、秋保電鉄、秋田市電のどれか1つをやるそうです。
又今書いたすべての鉄道や全ての国鉄客車や全ての廃止された市電を数年以内にやる
事が決定した。以上
>>210
加越能15001は論外だったからなあ
実態知ってれば誰も買わないだろう >>212
電車用の重い車体と台車に機械式変速機つけて機関はパワー不足、おかげで車体は変形したという、凄まじい代物だからな。 売るとか買うとか言う以前に廃止を待たず潰しているしw >>209
あれは右側運転台だった・・・んじゃなかったっけ?
似たり寄ったりの世代や状態で改造不要(左側運転台)の車両があればそっちを買うわな。 加越能15001は、もしかして規格型? 親会社地鉄や長野電鉄、定鉄に日本車両が昭和20年代半ばにばら撒いた規格型に似ているのだが・・・
まあこの車の発想そのものは、企画モノだが・・・故に日本車両製ではなく輸送機工業なる会社製なのか。 豊平駅前の酒屋さんがまだ健在なのを最近知りました。
観楓会などで団体で定鉄電車に乗り込む時、
若手社員がそこで酒やビールを買い込んだものでした。 >>215
定鉄は中古の再販を基本的にしてはあんまり良くない雰囲気であったんだよ。
中古で流れた会社の、それぞれのオーナーの名前を調べ、
東急グループの啓蒙バイブル「小説・東急王国」を読めば謎は解けるぞ。 >>219
ああ、五島慶太―小佐野賢治つながりだな>>十和田。
長野電鉄はなんだろう? 定山渓EDもながの東急も赤蛙も神津―五島のラインだろうね。
で、更に転売した越後交通もこれまた五島繋がりで・・・
それはそうと、定山渓の様なしがらみの無かった筈の北海道拓殖鉄道キハ301が転売されなかったのは、
客車改造名目と言うのが引っ掛かったのだろうか? >>221 所詮 旧型客車台枠流用で国鉄型のパチ物(古いし重い!オマケに三流(泰和)メーカー改製)をはるばる道東から1両引っ張るのは、
不合理だよね。 出来も悪いけど規格外の小型車なのも痛かった>キハ301。
まあ道内メーカー製というだけで大抵の会社は引くだろうけど。
あと極端に予備車の少ない会社だったんで、酷使がかなり響いてた。
(あれが入線した時点で、元佐久の中古気動車2両と鋼体化中型客車1両が
旅客車の全てだったはず。日車レールカーは早い時期で事業用車状態だったし。)
>>216
下回りは栗原M151と同系列の初期の軽量ツリカケ用軸バネ台車。
>>210
あれは工作とかアコモ、材料がかなり粗悪だった。
同系列車を使ってた茨交や有田も車体の歪みとか老朽化に相当苦労してる。 >>222
現車は桑園の泰和車両に引き込まれて3年ほど放置されていた。
結局、粗悪品と言うのは売れにくかった理由になったと考えるのは自然なことだろうと思う。 中小メーカーや自社工場製の車輛は品質的に下と見られたと言うことか。
西武所沢や南海天下茶屋は別格として。
近江のクハ1212も車齢は若かったのに譲渡話はキャンセルされているし。
それを考えると、静鉄の中型車が良く売れたのは奇跡的か。 定山渓駅は温泉街よりも高い位置にあったから、帰りは坂を上るのがキツかったよ。 もう黴が生えた経験だが、父と北海道行きの時に豊平からモロ1100?青帯の
2等車に乗ったら道新の夕刊を呉れた。転換クロスだったが扇風機か無かった?
当時鉄では無かったので撮影しなかったのが惜しい。
断って措くが年齢とかの個人情報は開示御断。
>>216
加越能キハ15001は富山‐金沢間私鉄電車計画の車両で電車型車体で台車が
FS13鋳物台車で全体に重く、DMH17のギアチェンジに無理があった。
ギア欠損やクランク折れ故障が多く、乗り心地は良かったが乗務員が嫌っていた。
部内からトルコン取り付け希望が強かったが、親会社の富山地鉄がゼニを出さず、
最後にはDHM17がバテたうえに車体が歪んだので廃車になった。
廃車直前に車庫で見たがそれは酷い状態だった。
>>日本車両が昭和20年代後半にばら撒いた-----とは運輸省私鉄標準型車両の
A規格型か?地鉄14750、名古屋3800、定鉄1000か?それなら昭和23年-25年頃だが。
若し間違って居たら御免。
>>227 ご親切に有難うございます。 A規格型の事です。書籍「日本の内燃動車」を観た
あくまで見た目の印象ですが(・・・・コレ規格型電車みたいなじゃない?)
もしトルコンを載せても今度は、重すぎてトルコンの滑り、故障に悩んで結局散財では?
>>223 アゲ取りじゃないのですが、 熊延は、帝車 有田&茨城(ケハ401)は山鹿キャンセルでそれぞれ富士重と新潟 製とメーカーが違うと思うのですが・・・
キハ10系以前の国鉄型湘南キハの図面流用で似たりよったりで、初期のカルダン電車が短命なのと同じで耐久、腐食配慮不足と云う事でしょうか・・・? >>229
続レスで御免
キハ15001は自重28.8トン、キハ07が27.8トン、トルコン付のキハ10が
30トンだからそう重量超過ではないだろう。形態的には地鉄14750系統だ
けれど。現場もその辺を理解しての上でTC2A取り付け要求だったと----
A規格型には長野の1000も富山と同じ車体だった。 旭川電気の1001が売れなかったのも、1両だけ引っ張る手間(しかも電車は内地で好いタマが探せる)からかな? 地方私鉄事業者は一部を除いて、保守的なところが多いから、
新機軸を盛り込んだ特殊な電車は嫌う向きもあったのでは>旭川1001
既に類型車を使用していた会社でも、1輌だけ仕様が違うのは面倒だろうし。
1輌だけ回送する手間は、当時は甲種鉄道車輛でも1輌単位で一般貨物併結は
良くあったから、大した問題では無いと思う。
新しい車輛でも売れないのにも、何でこんなボロを掴んだんだ、と言う場合も、
それなりの理由と背景がある場合がほとんどだから、
そのあたりを色々推察してみるのもこれまた面白いかと。
例えば、名鉄は何故東急が提示した蛙5000を蹴って
ボロボロの規格型3700を買ったのとか。 >225
> それを考えると、静鉄の中型車が良く売れたのは奇跡的か。
しかしその実、海に近いので塩害により車体の痛みは酷かった、
とピクの譲渡先に関する記事で見た気がする。 日立だったたか熊本だったか、車体が歪んでドア開かなくなったって聞いたことがある。
普通の貨物列車に甲種輸送ぶら下げたのは、山形交通からコトデンへの写真を見たことがあるな。 静鉄の自作新車は、確かに(特に湘南型は)空調配慮とか工作が未熟な感じがする。
それでも売れたのは、同レベルの地方鉄道相手で価格等以外にも表に出ない配慮があったのだろうか?
>>233 3700形第二次譲渡の時ですか?
確か長電が東急に手頃な中古車供給を打診した時(つまり名鉄が第一次3700を譲り受けた後)は、まだ3450形を東急は長電に推奨してきた。
にも拘らず、相手が名鉄なら5000系とは、長電に失礼だな。
妥協する事なく5000系を東急から交渉で引っ張ったりパノラマ電車構想や2000新造の際
名鉄5000を参考に話を進めるなど長電の車両の人は賢いというか優秀だな。
>>237
名鉄に蛙提示は第一次の時だったと思った。
最初は東急が某業界紙に3700系を譲ります、という広告を出したことで始まり、
しかし、直ぐに一旦これを引っ込め代わりに蛙を出した。
ところが、名鉄は5000系の使用実績から直角カルダンに
余り良い印象を抱いていなかったのと、
3700系はMMが他のAL車と同じTDK528で保守上好都合だったから、だったはず。
廃車時も発生品を他のAL車に流用でしゃぶり尽せて二度美味しかったし。
静鉄の譲渡先で、日立電鉄と熊電は、日立と東急と言う共通項で
何となく類推できるのだけど、福鉄とはなかなか繋がらない…
当時合致するスペックの電車ってこれ位しか無かったのかな? >>239
架線電圧が600Vというのがあるんでは? >238併用軌道があり、車両限界(車両長と車両幅)の問題が決定的な要素では?
当時、もう大手私鉄には適当な小型車なかったしね。静鉄長沼と福鉄西武生といえばどちらも自社工場で車両を作る器用なところだったね。 >>241
いや、静岡鉄道のやつは全長17,8mだから、小型車ってわけじゃないよ。
当時(1986年)の大手私鉄で廃車になっていた18m級程度の車両を見ると、
東急の3000番台と、京急の600くらい。
車齢も若く、電気関係の改造も最小限で済む静岡鉄道車は魅力的だったんじゃないか? >>242
京王井の頭線のG車とか西武351、小田急2200に新京成100もあるな。
結局直角カルダン以外の新性能車でそのサイズで1Mで冷改済というのが効いた気が。
1M運用OKな小型冷房車って京王重機商法のない当時はかなり貴重だった。
京急600は冷房は乗ってるけど、オールMで定格速度が高すぎて電気食いすぎた。
あと路面区間での運用性に関してはむしろ劣悪だった。
併用軌道では中ドアしか客扱いできず、急行専従と諦めてたしステップの出来も悪かった。 >244
1986年ってのが、微妙なんだね。
京王井の頭のグリーン車は1984年全滅。京王線は伊予鉄にみんな取られちゃった。
西武の351は多摩湖線用の最低限のヤツを残して既に全滅。
小田急の2200は選択肢としてありえたかも。製造年が10年差があるけど。 >>244
300型は福鉄入線時に冷房化したんじゃなかったっけ? 延々スレ脱で申し訳ありませんが、こういう楽しい話が出来るところがないので続けさせてください。
静鉄や地鉄は、もとも大所帯で資本も技術もそれなりだけど、福井鉄道は自作は南越線の小型2両だけで後は連接改造実績のみ
福井の二代目140形連接車に種車は名鉄&長電と凄まじいものだった。
どういう理由か知らないが予算的に車両導入が相当厳しかったのかな?
親会社名鉄もアテにならあないし(他の子分達もあまり面倒見てもらえない、寧ろ支配下に収めようとし系列外の地鉄、琴電を厚遇散財!!)
涙ぐましい努力だよな。
>>246
そう。
しかし、路面電車用じゃなくて普通の東芝製集約分散クーラーを載せたけど
車体強度は大丈夫だったのかな? >>247
小林宇一郎さんは良い人だったよ。
OSカーを見たいと長野駅から電話したら、須坂まで一緒に行ってくれた。
そのとき阪急の1002がつけて居たアルストーム型のFS102?だったかの
「狭軌タイプが欲しい」と話されていた記憶がある。
当時は何か新しい事をやりたいお気持ちだと--------。 鉄ピクの私鉄車両めぐりに元定山渓の珍車載ってたの思い出した。
豊羽鉱山専用線で木造客車を動力化して通勤&入換に使ってたヤツ。
ゲテさ加減じゃ根室拓殖の銀龍号とイイ勝負なんだが、
これの詳細知っている人いませんか?
若葉の香り高き新緑の野に山に、陽光を浴びての郊外散策、そして綺麗な温泉の一浴こそ
什?にか心身を甦らせて、溌々の元気を養ふことでせう。殊に学校の遠足や休日を利用して
の一泊、或いは日帰りの団体旅行地は先ず山水絶勝の北耶馬渓行きをお奨めいたします。
弊社鉄道沿線は、已に已に御存知の景勝地ですが、温泉場の奥の原始林、青葉若葉に風
薫る山路を(良道にて婦人にても容易なり)北耶馬渓、大爺淵、千丈瀑、炭酸泉等へ歩を延
さるれば、北海唯一の仙境が今や淡緑、淡紅の色彩もて、自然を好愛する人々の来訪を期
待いたして居ります。
弊社はこの幽勝を探らるる五十名以上の団体には、御要求により、案内者を附して其の便を
図りますから、若しそうした修学御旅行の計画がありました節は、本社なり、停車場なり、市内
営業所なりに御相談下さい。必ず御意に叶ふやうに、列車の便はもとより、遊覧地の推薦、温
泉宿等万事に御助言申し上げます。
次に会社直経営の鉄道ホテル温泉場は五月一日より開業しました。大広間あり、食堂あり、
大浴槽は定山渓一にして遊泳も出来得て一時に三百名内外を収容し料金も頗る低廉、学生
団体には特に割引をいたします。尚且つ、他の温泉宿と遠ざかり、清楚にして眺め佳き静かな
る場所なれば、学生の浴場として是非に御利用下さい。
大正十二年五月
定山渓鉄道株式会社 >>251 私鉄車両めぐりの、写真図面 アレ以上のブツは、文献ではもう無いんじゃないの?
それこそ地元関係者の個人レベル。 >>252
昔の地方私鉄って、力があったんだなーとつくづく感じられる宣伝文句ですねぇ。
>御要求により、案内者を附して其の便を図ります
>必ず御意に叶ふやうに、列車の便はもとより、遊覧地の推薦、温泉宿等万事に御助言申し上げ
>会社直経営の鉄道ホテル温泉場 やはり鉄道って自動車が普及する以前は、旗艦産業だから・・・
まして地元有力者が出資している訳だし。
路線長こそ買収された私鉄に敵わないが、高速電車の定鉄は運炭鉄道台頭前の戦前は、それこそ道内随一では・・・。
地方では斜陽とはいえ、いまだにその土地土地の地方鉄道はそれなりの地位(一流企業としての扱い)を得ている処が多いよ。
マア他にさしたる産業が芽生えない事情もあるが・・・。
>>252
>会社直経営の鉄道ホテル温泉場
これがどのあたりにあったのか気になる 定山渓ホテルと章月グランドホテルは大株主ではあったけどたぶん違うな。
>>261
なるほど、確かに「他の温泉宿と遠ざかり、清楚にして眺め佳き静かなる場所」だww でもあれ駅構内なんじゃないの?
まだ鉄道線が残ってたら鉄ヲタ絶賛の宿になってたろうなw >>263
定山渓駅の車庫の横に確かに大きな宿が見える写真がある。 定山渓の遊客が車で旅館に直行する現代、
旅館の外の美しい原生林や渓谷を散策する人は少なくなった。
鉄道があった時代には、定山渓に来る人々はよく散策した。
昔の定鉄のパンフレットの名文を読むと、
身近な場所に、文人墨客が愛した絶景があることに
ハッと気付かされる。
【定山渓の舟遊び(大正15年ごろのパンフレットより)】
定山溪温泉の絶景錦橋の下流に電氣會社が大堰堤を築いてより、溪流忽ち淀んで
紺碧静寂の深淵となり舞鶴瀞の稱あり。浴後など舟を■ふて探勝せんか奇■並び連なりて
碧水回る處緑樹影相映じて、静かなること鏡の如く舟行往復にて約三十丁半日の清遊には
頗るよい。
【豊平峡(同上)】
温泉附近の溪山は豊平川を遡るにつれ愈々奇にして今や豊平峡は北海唯一の仙境として
膾炙せらる豊平峡とは青崖國分先生の命名である。往年大町桂月先生此の地に遊び
定山溪山水大観に記して曰く「十数の樓臺直に豊平川の清溪に接す。水清くして
断崖深く且つ奇なり。二里の上流溪畔に炭酸泉湧出す。一掬しれば清風腋下に生ず
途中溪を見卸せば深しとも深し。巌峰を仰げば高しとも高く。飛流天より落つ(後略)」
とあり以て如何に其奇勝たるかを伺ひ知るに足るべし。 >>267
おお!画像サンクスです。
やはり位置的に山渓苑か瑞苑ですね。 あの公園になってる敷地が鉄道施設の跡か。
上手くやればホテルの建物に取り込む形で1階に駅、改札出てロビーでチェックイン
とか出来そう。 ミリオーネはつぶれたホテルあけぼのの跡。
まさか万世閣になるとはね。
ちょっと前まで残ってたときわ旅館も今は無いし、
当時を知る建物は章月の宴会場くらい? かっぱがすむとこいい所
山と川とがあるところ
かっぱ好きだという人は
いいとこある人もてるひと このスレを読んでたら、久しぶりに定山渓に行きたくなった。 >>274定山渓スレにいろいろレジャースポットがでてたな。
結構面白そうだな。 >>251
以前、サッポロファクトリーにあった、
札幌市写真ライブラリーに、
その車両のモノクロ写真が、2枚あった(色がわからん)。
真横からの写真と、斜め前から「ワ」らしき貨車を1両牽いている写真。 >>276
って事は、札幌市文化資料室収蔵写真のHPで検索できるはずと思ったら、
出てきましたよ
定山渓鉄道ロ10形だね
こいつは、あやしぃ・・・
後ろ半分と台枠は明らかに木造2軸客車だけど、
運転台より前は割と新しげかつ怪しげなボンネットスタイルに改装されとる >>277
札幌市文化資料室ですか、
札幌市写真ライブラリーにあった写真はここに移っていたのですね。
昔の定山渓鉄道の貴重な写真がたくさんありますなぁ。
札幌市写真ライブラリーが閉鎖になると聞いて、沢山、複写に通いました。
>>279
太美温泉ならその内できるようになるな。
あ、今でも江部乙温泉は電車で行けるか。 定山渓電鉄 本当に廃止すべきでは無かった。
せめて真駒内から定山渓までは存続して欲しかった この区間は近年人口が増えているので
だから鉄道がないと不便
そして近い時期にRMライリブラリーで定山渓鉄道 旭川電軌 夕張鉄道
花巻電鉄のいずれかを紹介するみたいなので、楽しみにしています >>281
鉄道が無いのに人口が増えているんだから
鉄道がないと不便ってのは違うと思うなあ >281
懐かし板のあちこちで妄想書き散らすな馬鹿。 RMライブラリーで定山渓電鉄を今年か来年やることは100パーセント確実
旭川電軌や湧別鉄道 夕張鉄道も同じ >>286
RMライブラリーであれやる、これやるって毎月妄想撒き散らしに出てくるお客さんだから
ほうっておきましょう >>288
青木護〜堀川素人と連代での地元市議の主張からもついに外れたから、もうナッシング。 昭和63年第1回定例市議会
社会党富田新一
南北線約29キロに対して,北は麻生から花畔までと,南は真駒内から藤の沢までの区間約15キロメートルがカットされた状態のままなのであります。
ただし,第2南北線,すなわち元町地区から山鼻地区までの約11キロメートルは,現在,路線を変えて,東豊線として約16キロの建設計画が推進されております。
なぜ,私がこのようなことを持ち出すかと言いますと,この長期総合計画が初めて市民の前に示されたとき,現在5期目の板垣市長が最初の選挙を展開しながら,
市長が各地の演説会で長期総合計画を訴え,その結果選挙に勝利したものであります。しかし,そのわずか5年後に,市長は新たな長総を示し,
この時点で,当初の長総で示した地下鉄の建設の基本計画を大きく変更させてしまったのであります。
さらに指摘しなければならないことは,新長期総合計画の中でも,なお南北線南方面の真駒内・藤野間の交通計画が触れられていないという点であります。
このことは,その計画対象から外された地域に昔から住んでいる人たちはもちろんのこと,板垣市長になってからその地域に土地を求めた人,あるいは家を建てた人たちは,
一日千秋の思いで交通計画が示されることを願っているのであります。
私は,地下鉄の当初計画から取り残されたこの南地域に対し,当初計画にかわる具体策を早急に示しつつ,地域住民の協力を得ることこそ市長の取るべき責任ある態度だと思いますが,
この点についてのご所見をお伺いしたいのであります。 市長・板垣武四の回答
本市におきましては,新年度から2ヵ年をかけて,総合都市交通体系調査の一環として,新交通システム調査を実施する予定でございます。
この結果,実用化が可能であるとの結論が出た場合には,札幌市総合交通対策調査審議会にお諮りをして,その意向を,
北海道運輸局長の諮問機関である北海道地方交通審議会に反映させたいと考えております。
したがいまして,今後,新交通システム調査の結果を踏まえて開催されます札幌市総合交通対策調査審議会におきまして,前にもいろいろとご要望がございましたが,
それらもろもろの要望の趣旨を含めてご審議をお願いしたいと考えております。
要約 「知らんがな」 昭和63年 第4回定例市議会
公明党 春原良雄
南北線真駒内駅と自衛隊前駅間に中間駅とバスターミナルの新設を強く望まれるわけであります。
ご承知のとおり,地下鉄南北線は,昭和47年冬季オリンピック大会を目標に,工事着工から開業までわずか33ヵ月間という短期間で札幌市が建設した東京以北初の地下鉄であり,
昭和46年12月に開業して以来約18年間を経たところでありますが,これを契機として,札幌市のまちづくりは急テンポで整備されてきたのではないかと考えております。
特に,南北線の平岸駅以南の高架周辺地域は新市街地の形成が進み,その傾向は,駅勢圏のみならず,周辺地区にも拡大している現状にあります。
その中にあって,藻岩地区及び西岡地区からの交通手段は,真駒内駅からのバス短絡が主流となっておりますが,地下鉄とのアクセスに都心部からやや逆戻りという不備な点が見受けられるのであります。
この要因として考えられることは,現在の真駒内駅と自衛隊前駅の区間距離が1,747メートルと,普通の駅間の2倍弱に相当する,本市地下鉄全線の中で最長区間となっているため,
バス短絡便が藻岩地区及び西岡地区からの場合,合理的かつ便利な接続となっていないこと,及び真駒内駅にこれらの短絡バスが集中していることが大きいのではないかと考えております。
仮に,現在南車両基地のある平岸街道と道道清田真駒内線の交差する場所に中間駅とバスターミナルが設置されれば,五輪橋経由のさきに述べました藻岩地区及び西岡地区への重要な交通中継拠点となり,
地域に果たす役割はきわめて大きなものになるとともに,近隣地域の活性化が図られ,ひいては乗客の増にもつながるものと考えまずが,いかがなものでしょうか。
また,この財源についてでありますが,昨今の厳しい交通事業の財政状況を勘案いたしますと,交通局単独での新設は非常に難しいことだと思います。
そこでお尋ねしますが,現南車両基地の整備工場施設は,年数の経過とともに当然のことながら旧式化し,作業効率の観点からも,更新はいずれ必要なものと考えられますので,
交通局側としては,南車両基地のうち,西側にある重要部全般検査用工場棟を東側に移築し,この跡地を含めた約1万平方メートル程度を一体的に再開発するよう,
当用地を第三セクターに提供し,中間駅,バスターミナル,さらには工場棟を新設してはいかがなものでしょうか。
なお,第三セクターは民間活力の導入を図り,中間駅バスターミナルも一体化した高層建築物を建設し,その中の住宅,店舗スペースを販売することで資金をつくれるのではないかと考えますが,
いかがなものでしょうか,簡潔にお答えをお示し願いたいと思います。
市長・板垣武四の回答
地下鉄中間駅の設置の問題でございますけれども,これにつきましては,建設に要する多額な費用,営業を続けながらの工事の問題,
さらには,関係諸官庁との調整等,一朝一タには解決できない多くの問題がございます。
また,ご提案の前提となる南車両基地の工場の移築でございますが,これは建設以来18年程度たっておりますけれども,
なお相当期間の使用に耐え得る状態でございます。さらに,現時点では,建設当時の財源である企業債の償還がまだ半分程度でございまして,
企業債の繰上償還,さらには,国庫補助金の返還が必要になること等,非常に難しい問題がございます。
要約 「金がないって言うとろうが」 平成2年第 3回定例会市議会
社会党富田新一
地下鉄真駒内駅の朝ラッシュ時には,約90本ものバスが発着しているのを考えると,
これ以上バスを短絡させることは,駅周辺の交通混雑,環境の悪化を招くおそれがあることから,地下鉄を石山方面に延長し,
新たな端末駅にバスを効率的に短絡させ,バスターミナル等の乗り継ぎ施設を整備することで利用者の利便性の向上を図ることが重要だと考えます。
また,現在真駒内駅へ至る真駒内通,平岸通といった幹線道路の交通混雑のため,バスの乗車時間はかなり長時間を要しておりますが,
地下鉄を延長することによって通勤通学の定時性が大きく確保され,また時間も短縮されることから,大幅な公共交通の利用推進と市民生活の向上が可能になってくるのであります。
地下鉄の延長については,免許取得に当たり,これまで経営収支がネックであるということは,一つの理屈として十分承知しておりますが,南方面の交通の現状と市民生活を考えたとき,
この問題は,地下鉄事業の採算性という問題だけではなく,都市の社会基盤の整備という観点からも,将来を見越してしっかり考えることが最も重要であると言わなければなりません。
さらに,この地下鉄延長については,地域住民から過去何度も要望が出されており,まさに住民の悲願であります。
また,地下鉄延長にかかる建設費については,すでに購入取得して20年にもなるじょうてつ跡地を利用し,
高架構造を延ばすことにより,これまでの東西線,東豊線などに比べ,かなり経費を軽減できるのはいまさら言うまでもありません。
そこで伺いますが,この地下鉄延長については,その必要性について十分ご認識いただいているものと思いますが,
市長としては,この実現化についてどのようにお考えなのかお伺いしたいのであります。
最後に去る9月27日夜,南北線で発生した地下鉄車両のシャフト落下の問題であります。
これは,信号機の故障をもたらし,利用客には思わぬ大きな混乱と迷惑を及ぼしたのでありますが,
これは,施設が古くなったことによるのか,製品上の欠陥なのか,それとも何か技術的に問題があったのかどうか。
その原因を明らかにすべきと思います。また,今後の未然防止のためにどのような検討がなされているのかお伺いします
要約・「延長どうなのよ」 市側回答 助役
独立採算を建前とする地下鉄事業でありますので,
街づくりを目的とした駅舎建設事業に巨額の費用・経費を投入することは,一般会計・高速電車会計とも,いささか無理があるのではなかろうかと考えます。
当該事故車は昭和50年に購入したものであり,一般的には老朽化が原因と考えにくいところであります。
抜本的な対策は事故原因を解析をした上で対応いたしますが,当面の緊急対策としましては,
同型式の車両のすべてについて,色素を利用しました浸透深傷及び磁気を応用した磁粉探傷検査を実施しているところでございます
要約・「話にもできん。金がない」 平成3年 第3回定例会
社会党西村茂樹
延長工事が進められておりますが,さらに地下鉄延長を望む市民の気持ちとは裏腹に,
本市の交通局財政の中でも特に高速事業会計の累積欠損金が約1,085億円を生じ,
また,企業債においても4,800億円にも上っており,
一般会計にも大きな影響を与えているのであります。このような状況にある高速事業会計であるがゆえに,一日も早い財政の立て直しと
地下鉄延長工事をスムーズに進めるためにも,超過課税の役割も大きく,35億4,000万円もの減収になるような改正案は市民の期待を裏切るものと考えるのであります。
したがって,超過課税については,現行の基準で地下鉄建設事業を目的として施行すべきものと考えますが,いかがでしょうかお尋ねいたします。
市長・桂信雄の回答
次に,交通事業並びに高速電車事業会計についての質問にお答えいたします。
まず,交通事業の財政問題に対する基本的な考え方についてでございますが,交通事業の健全化につきましては,
現在,健全化対策委員会の中で全庁を挙げて取り組んでおりますが,種々の方策を講じたとしてもなお財政収支に見通しが立たない場合には,
一般会計からの財政支援をしていかなければならない,このように考えております。
要約・「なんとかしろ・・・!」
「がんばっているんだけどねー、やる気ないの」 平成3年 第3回定例市議会
自民党 丹野勝
南北線の車両について,ほかの2線に比べ騒音や車内温度が高いなどの問題があるが,改良及び更新の計画はどうなっているのか。
市側回答
サラっとなし。 平成4年第 3回定例会市議会
社会党富田新一
わが党は,従来から,地下鉄延長については,東豊線の苦い経験もあり,需要喚起策については,国も納得する具体的な計画を立てるよう委員会等でたびたび申し上げてきたところであります。
その意味で,いままさに手稲東のまちづくり計画の実現性が問われているところであり,12月の大蔵内示までの限られた期間内で,札幌市のまちづくり計画実現へのかたい意思をあらためて強く訴えていく必要があると存じます。
質問の第2点目は,地下鉄計画等の将来的なあり方と見直しについてであります。
ご存じのように,現在の札幌の地下鉄計画であるいわゆる50キロ計画は,1979年に出された札幌市総合交通対策調査審議会の答申によるものであります。
この計画は,当時のパーソントリップ調査のデータをもとに,1995年を目標年次として地下鉄需要の見込みなどの検討を行い,策定されたものとして,議会の承認を求めてきたものであります。
その後,交通事情の変化を伴いながら10数年も経過し,JR中間駅の設置,東豊線北方面の開通,鉄道高架の完成,周辺市街地開発の進展などがあったことを考え合わせると,
人と車の流れは,当時と比べ大きく変貌しているものと言わざるを得ません。
また,1995年を目標に地下鉄50キロ構想の建設が続けられてきたわけですが,
現在工事中の東豊線豊水すすきの駅から福住間が完成すれば,50キロ計画のうち約45キロ,すなわち全体の約9割が達成されたことになり,計画はまさに仕上げの時期に来ているものと考えられます。
そこでお伺いしますが,本市では,これまで大半の5年計画が4年で終結し,1年繰上げ,新しい計画に入ったように,
現在の地下鉄50キロ計画の目標年次である1995年が迫ったいま,桂市長の手による新しい計画に着手すべきと思いますが,いかがでありましょうか。
また,1979年の段階では,南北線真駒内駅から石山方面への延長は,将来必要があるとして,議会に提出をされました請願が趣旨採択をされてきておりますが,
地下鉄を建設する場合の国の補助制度が,これからの新免許認可事業から,従来の運営費補助から建設費補助に改められ,キロ当たり建設費の借入れが少なくて済むこと,
そのことにより,当然支払利息が小さくて済むことなどから,大幅に改善されたと言えます。
そこで,東西線延長計画においても,従来のキロ当たり2万人を必要とした需要客が,1万3,800人の需要客を見込むことでよくなったように,
この石山方面への延長を望む市民の立場に立って,新しい制度に適合させて利用人員を割り返した場合,十分実現性が出てくると同時に,
必要な土地は,以前の地下鉄延長計画がオイルショックで白紙撤回となったとはいえ,20年も前に取得していることから,
延長は高架の継続でもあり,いまでも十分実現の可能性があると思うのですが,いかがでありましょうか。
要約・「昭和54年に撤回になった石山延長なんとかしてよ」 市長・桂信雄の回答
地下鉄計画等の見直しについてでございますが,
まず,新たな地下鉄等の大量輸送機関の計画策定につきましては,現在の計画策定時の交通状況,社会環境,その後の変化を考えますと,
都市圏レベルでの人や車の流れを把握する必要がありますので,
平成6年度から3ヵ年をかけて,国や道など関係機関と共同で第3回目の
道央都市圏パーソントリップ調査を実施する予定であります。
したがいまして,これらの調査結果や地下鉄50キロ計画の達成の見込み,さらには地域の交通動向,輸送需要の見込み等を踏まえ,
新たな計画の必要性について検討してまいりたいと考えております。
また,地下鉄南北線の石山方面への延長につきましても,ただいま申し上げましたとおりの状況でございますので,
全市的な視点で検討してまいりたいと考えております。
要約 「やる気ない・今度一応調査をするけどね、それは全市レベルで個別じゃないよ」 平成8年 予算委員会
自民党 堀川素人
南区の真駒内駅なのですけれども,真駒内駅というのは,地下鉄南北線ができたときに,真駒内で終わるのではなくて,藤の沢,今の藤野なのですけれども,そこまで地下鉄が延長する予定になっておりまして,
そのために,あそこはターミナルの機能を持った駅になってないわけでございます。
一方,230 号線というのは,皆さんもご存じのように,大変渋滞がひどい線の一つでございます。そのために,あの地域というのは,もう朝の7時前後から渋滞が始まる。
特にことしの大雪には,もう大変な状態でございまして,車で出かけてもなかなか街に着かないから,バスに乗ろうとする。
バスに乗ろうとしても,そういう人がたくさんいるので,今度バスにも乗れない。たくさんの人が,バスに乗れないで,苦情が私のところにもたくさん入っていたわけでございます。
それで,僕の友人で,交通量調査なんかやっている友人がいるのですけれども,230 号線の渋滞を称しまして,都市の機能を既に破壊していると,そういう断定の仕方をしております。
例えば,バスに乗れないということもそうなのですけれども,子供方が,一つは就職なんかにしましても,定時性が確保できないので,就職に大変不利な条件になっている。
それから,子供方が通学するにも,時間が間に合わなくて大変だと,こういう状態になっております。
先ほどの,地下鉄南北線ができて,藤野まで延びるというそういう構想,それでもって,実際に役所で出した図面の中に,その線が入っていたのです。
ところが,もう既にそれがいつの間にか消えていっている状態。それを当てにいたしまして,あの藤野地域に家を求めて,そこに住んでいる方々がたくさんおります。
もう一つそこで問題なのは,先ほどから話題になっていました,行政の連続性という意味で,いつの間にかその線が消えていって,そして,今,渋滞ということで,大変厳しい状況にあります。
それと,今言うパーク・アンド・ライド構想のことを考えますと,あの地下鉄を一駅延ばしまして,あそこに警察学校のグラウンドがございますし,旧定鉄の跡地があります。
そして,そこにパーク・アンド・ライドの駐車場をつくったならば,今,冬は大変な状態,夏ももちろん大変でございますけれども,
そこに車を置いて街に出てくる人たちが,あそこの地域ではたくさんおりまして,今まで渋滞によっていらいらしながら通勤をする,
そして,そこにとまりながら排気ガスをまき散らす,そしてむだなガソリンを使う,こういう状況がパーク・アンド・ライドの駐車場をあそこにつくりますと,僕は一気に解決をするのじゃないかと。
そしてまた,ちょうどいいことに,駒岡にはごみの処理場があります。そのごみの処理場の熱を使って,あそこに雪の積もらない駐車場が可能になる,そう思っております。
そうするならば,なお一層あそこに駐車場をつくっておくことによって,幾つもの問題が解決できるような気がしております。
それで,ぜひともパーク・アンド・ライド構想というものの積極的な政策,それに重点を移していただいて,
今の真駒内のパーク・アンド・ライドの駐車場を大きくつくり変えると,そして,地下鉄の一駅延長をしていただくという形の中でできないかどうか。
また,それに対して取り組む意思があるかどうか,このことを,先ほど言いました行政の整合性との関係の中でどうかしっかりとお答えになっていただきたいと思います。まず,そこで一つ質問を終わります。
要約・「いつの間にか消えた藤野延長だが、その延長を見越して家を買った人のためにも、(緑が丘周辺まで)一駅延長して大駐車場付ターミナルはどうよ」 藤林総合計画部長の回答(既に市長でも事務方トップでもない)
地下鉄の問題といいますのは,非常にお金がかかる割には,
実際に供用化してみますと,残念な現象ではありますけれども,期待したほど利用されていない面があるというのが現状でありまして,
平成9年 第一回定例市議会
自民党 堀川素人
石山−定山渓沿線がこのような状況に今日あることに,札幌市は大きな責任を負っております。かつて,この地域は,定山渓鉄道が走り,観光客とともに地域住民の足として大きな役割を果たしてまいりました。
ところが,昭和40年の札幌市都市交通機関計画により,札幌市は定山渓鉄道を廃止し,その線路跡地を札幌市が購入し,藤の沢まで地下鉄を建設することを決めました。
ところが,それから30年間,札幌市は定山渓鉄道を廃止したまま地下鉄は延長せず,公共交通機関としての住民の足を民営バスに任せたまま今日に至っております。
札幌市は,市営交通事業会計に一般会計から多額の繰り入れを行っております。市営交通事業からの恩恵が少ない沿線地域住民は,そのことを一体どのように思っておりますでしょうか。
不公平な行政と思っているのであります。私が札幌市からいただいた資料の中に,市は,昭和51年に藤の沢までの地下鉄南北線延伸計画を白紙化としたと記した資料をいただきました。
白紙というのは,藤の沢までの延長計画をやめたということなのか,やるかやらないかまだ決めていないから白紙ということなのか,白紙の内容を明確にしていただきたいと思います。
何となれば,平成8年1月17日付で,地元町内会からの地下鉄延長要望に対し,
桂札幌市長名の回答文書では,白紙化などとは一言も言っておらず,「将来的な地下鉄等の大量輸送機関の計画については,今後,地域の開発動向や財政事情を十分勘案しながら全市的な観点で検討してまいりたい」と回答しております。
これは,真駒内以遠の地下鉄延長要望に対し,引き続き検討していくとの回答であります。
そもそも地元住民は,札幌市が藤の沢までの地下鉄南北線延伸計画を白紙化していたことについて,一度も市から説明を受けていないのであります。
板垣前市長は,選挙のたびに,地下鉄延長は困難な課題でありますが頑張りましょうと言っていたそうであります。桂市長が板垣市政を継承する者として,沿線住民は一日も早く地下鉄が来ることを待ち望んでいるのであります。
ところで,昭和51年に藤の沢までの地下鉄南北線延伸計画を白紙化との決定は,本当にあったのでありましょうか。
地下鉄南北線の真駒内以遠の延長について,札幌市の決定の経過を私なりに調べてみました。一番最初に地下鉄建設を決めたのが,
先ほども言いました札幌市都市交通機関計画,昭和40年7月の7日です。昭和44年10月,定山渓鉄道を廃止し,札幌市交通局が藤の沢までの跡地を買収いたしました。
昭和46年に札幌市長期総合計画が発表され,そこには地下鉄南北線藤の沢までの建設が昭和65年度を目標に建設する計画であることは,きちんと述べられております。
昭和51年12月に新しく誕生した板垣市長のもとで,昭和70年を目標とした新札幌市長期総合計画が決定されます。まさに,札幌市が白紙化を決定したその年であります。
そこでは,地下鉄の整備について,土地利用との整合性に配慮して新たな路線を計画し,その建設を推進すると述べております。
藤の沢までの地下鉄南北線延伸計画を白紙化したとは,どこにも書いていないのであります。
札幌市が決めた計画や構想,これは,市民に対する行政の公約であると思うのであります。
それらの文書では,藤の沢までの地下鉄南北線延長は取りやめにしたとは,先ほども言いましたが,一言も言っていないばかりか,推進,検討と言っており,
住民は,地下鉄の採算がとれる地域になるように発展に努力をしているのであります。
市長は,地下鉄南北線の真駒内以遠の延長について,現在どのようにお考えになっているかをお聞かせ願います。
堀川素人 続き
採算の問題について触れたいと思います。
この沿線地域には南区の人口の31.6%,4万 9,000人が住んでおります。地元町内会が行いましたアンケート調査をもとに計算しますと,
現在,自家用車を主たる交通手段としている人が約2万人おります。地下鉄が延長された場合に,自家用車をやめて,はっきりと地下鉄にかえるという人が 7,000人,バスから地下鉄にかえるという人がやはり 7,000人います。
そのほかに,かえるかもしれないという人が,自家用車で 8,000人,バスで 2,000人もいます。全部合計しますと,この地域だけで2万 4,000人の新規需要を見込めるのであります。
そのうち,通勤・通学の数字は1万 1,000人です。この需要見込みは,既に札幌市が用地を取得している定山渓鉄道跡地を生かし,
シェルターで地上を走らせるならば建設費も少なくて済み,十分に採算のとれるものと考えるのでありますが,いかがでありましょうか。
それこそ,きちんと検討をしてみるお考えがありませんか,このことについて,前向きなご答弁をお願いしたいのであります。
もし地下鉄が延長されたならば,自家用車の使用が2万台から, 7,000から1万 5,000台減少して,これは,交通渋滞を解消し,排気ガスによる公害の防止にも役立つと考えるのでありますが,市長はいかがお考えでしょうか。
最後に,定山渓鉄道跡地を生かして地下鉄の延長を求める声に,沿線一帯は固まっておりますが,最近,定山渓鉄道跡地を都市公園にする計画が持ち上がり,地域住民を驚かせております。
堀川素人の要約
「聞く耳持たないんだろうけど、あえてもう一度言う。出来るできると言い続けて嘘ついたようになっているから白黒つけろ。ダメと言わないで違う計画立ててんじゃねーよ」 桂信雄市長の回答
地下鉄南北線の問題でありますが,地下鉄南北線の真駒内以遠の延長とその採算性等につきましては,一括してお答えをさせていただきます。
地下鉄南北線の延長につきましては,昭和46年の長期総合計画の中で藤の沢地区までの計画がございましたが,
昭和51年の札幌市長期総合計画審議会の答申を受けて,昭和54年の札幌市総合交通対策調査審議会において具体的な検討をいただいた結果,
地下鉄を必要とする需要が見込まれないことなどから,真駒内駅までの区間に計画を縮小したものであります。
そこで,新たな地下鉄計画につきましては,現在,長期総合計画の改定に向けて,審議会の中で,地域の開発動向や採算性等に加え,地域環境などの視点から審議を進めていただく予定でありますので,
本市としては,この答申を踏まえ,全市的な観点から検討してまいりたいと考えております。
次は,定山渓鉄道跡地の利用計画についてであります。
定山渓鉄道跡地利用計画につきましては,これまでも地域の方々との話し合いを行いながら進めてきたところであります。
今後とも,南区の交通問題のうち,緊急性の高い石山陸橋五差路の渋滞緩和を図るためのバイパス道路整備や,地域に身近な近隣公園整備など,
定山渓鉄道跡地の活用を住民の方々と話し合いをしながら進めていきたいと考えております。
以上です。
要約・「今頃グダグダ言うな、諦めろって言ってるじゃないか」 急に伸びたと思ったら詳細d
まぁ石山陸橋辺りが道路になったりしてたからほぼ諦めてたが 初めて俺でも嫌になる長文レス(政治屋の詭弁だからというのが、濃厚な理由だが)
何故エラーにならないのか? >>307
リンク貼ってくれればそれでいいのに
もしかして紙媒体から書き写したとか? ゲロ電乗った人いる?
乗りたかったんだけど、真夏・・・ ゲロ電もいいですが、クハ501は昭和40年代でも動いていたのでしょうか?
クハ600の検査時には代走したのかな?
この車、ピクの私鉄車両めぐりの履歴でみると、
吉野鉄道に新車として入線しながらわずか4年で
売却されているのね、何があったんでしょう?
>>311
リンクからこの文書見つけるのは大変だぞーっと、ググッて解ったけど
議事録系って、抜粋してもコレ。
抜粋しなかったら「どこよ?」ってくらい見つけにくいしろもん。 >>313
昭和8年の車を33年譲渡のはずだから、
25年経過したおんぼろだったはずだけど?
しかも吉野鉄道は今車新製翌年に大軌に買収されて継子になっとる。 >>313 木造クハは、冬場は寒々しそうだね。
でも元ガソリンカーのクハと共に軽量だろうから、予備や多客で結構重宝したんじゃないかな?
一連の東急系の車の方が持余したのでは? >315ピクの私鉄車両めぐり見直しました。T13製造でS8に定鉄が譲受してます。
すんません、続きです。吉野鉄道の同系車は他にも短命が多いです。
やっぱり315さんご指摘のように大軌で継子扱いされていたようですね
東急車の3両は戦災復旧車でしたが、当時の車両レベルからみて
東急の中でも「中の上」のランクにありました。今ならさしずめ9000どころか
5080を放出するようなものでしょう。まあ、五島慶太から系列化に対する
ご褒美みたいなものだったのでしょう。
ということで、定鉄でも結構重宝していたようですよ。
もし定鉄が生き残ってたら5000やら7000が来てたんだろうか >>318 3600形って大柄だから(台枠流用車、車体更新前の鋼体復旧車)東急で使用線区に制約があり持余してません?
国電だから補修部品調達に不自由しないけど・・・電気喰いそうだし・・・
まあ 台枠流用でも上物の車体は新造なので車齢は、新しいが・・・
伊豆急に車体更新前の3608が貸し出さていた事とか何か訳ありなような・・・。
>>319 当然入っているでしょう?5000、7000、8000、8500辺りが。
それか、7000に対するゲロ電に相当する 8000の単車バージョンとか。 >>320
20メートル4扉ステンレス釣掛車ですか?
実現してれば相鉄2100(20メートル4扉アルミ釣掛車)を
上回る下手物っ振りだった鴨。 >>321 イヤ吊りかけや20mとは、限らないでしょ。
車両に関してはかなり投資していた定鉄なんだから。
18mで8000タイプの車体新造や5000を数年後ステンレス化
勿論純粋な新造車が導入されている可能性もある。
今は無き泉北の100系みたいな電車かも・・・。
>>322
>車両に関してはかなり投資していた
ん?
東急傘下になってからはほぼ投資は止めたぞ。
傘下直後の増備がされたのは浅野時代過剰発注の後落成だ。
機関車も含めて。
東急時代はキハ7501とモハ2200とモハ2300との6台だけ。
あとは浅野時代の発注。 たしかに昭和30年代初番の定鉄の設備投資はすごい勢いですね。
掘れぼ掘るだけ石炭が売れ、それこそ北海道中から人々が定山渓に遊びに来た
のね、年間10%以上のペースで乗客も増え、北海道唯一かつ随一ともいえた娯楽地が定山渓
積極投資もうなづけます。 それが10年後にはよもや廃止になろうとは・・・・
地下鉄との有機的な連携で新時代の札幌の交通事業の基盤・・とはいかなかったでしょうねえ
中央資本への拒否感ですか?
道警に国道36号の踏切解消(豊平駅のところ)を迫られたのが引き金と聞いたが
そういうのは9:1で地元が金を出すものじゃないのか >>323 じょうてつは、東急とって北海道での進出の足がかり旗艦企業でしょ。
東急傘下に入ってからの収支の悪化だけならや国道36号踏み切りの問題、オリンピックのハナシだけなら収支改善に努め鉄道も育てていると思うよ。
他に北海道中央バスみたいな有力な企業が、傘下に入ったならまたハナシは変わると思うが・・・。 訂正 問題解消に、渡りに船のオリンピックによる地下鉄建設のハナシ がなければ やっぱり東急が進出した時点で「中央資本に札幌を好きなようにさせてたまるか」
という流れはあったんですね。
今の新札幌地区の発展見ると、定鉄が東部地区の基幹として活躍する余地はあったですよね
真駒内からは札幌駅発の地課鉄が乗り入れてきて・・・・
違うって。
浅野社長陣営はまだまだ経営する気だった。
けど、まぁ、一杯喰わされたというか、五島としては北海道中核企業が欲しかったわけ。
物色していたんだが中央バス、北交、定鉄が候補に上がった。
北交は柴野社長が逆に中央バス買収に協力したので、子分にした。
中央バスは北海道いすゞが小佐野賢治配下だったので協力をしてもらったが、2度買収に失敗した。
中央バスは当時労組がない分、逆に地元企業と結びつきが強くて、東急から買収に合っていることを相談、
柴野を逆に、企業陣で取り囲み「北海道で生きられなくしてやろうか!?」と騒ぐ。
柴野は慌てて函館に逃げた。
まとまりかけた株もあちこちから反対に回ってダメだった。
で、懲りずに小佐野と、戻ってきた柴野を通じて定鉄を買収しにかかった。
理由は五島慶太が官僚時代、開業式に出席した縁があるからという理由。
小佐野はいすゞルートで、柴野はホテル経営者関係のルートがあったから定山渓ホテルと章月グランドホテルを口説いて、
浅野社長の金屏風を剥いだ。
結果、
買収成功。
最後まで浅野陣営の金屏風として動かなかった定山渓ホテルと章月の社主が落ちたのは、浅野社長の経営放蕩性を訴えたから。
経営の放蕩性は、「投資を重ねて失敗したという事実」が必要だった。
で、先の以前に五島は鉱山関係の金も調整していた大蔵官僚・企画院長でもあった松田令輔に手回しして鉱山需要があると浅野に間接吹き込みした。
浅野は鉱山需要があると踊りたって機関車や人員需要の増大を目論んで電車まで新製したけど、結局それは嘘というか形上頓挫した形になって、
一気に投資金額が回収できないピンチに陥るようになっていた。
それを見せつけて、両ホテル社主は浅野社長を見限り、株を東急に渡した。 >>325
そこで五島人脈ですよ。
当時の警察庁長官は鈴木良一。
鈴木氏はのちに東急入りしている。
つまり、そういうこった。
かたち上、警察の仰ぎがあったということ。
其れをもとにオリンピックでの定鉄買収の資金を有利に進めてということ。 >>326
微妙に異なる。
>オリンピックのハナシだけなら収支改善に努め鉄道も育てていると思うよ。
ではなくて、観光基板を急ぎたいので「北海道の事業は北海道の金でやる」ということで、
観光にさしてあまり大きくなれない定鉄を見切って、買収益で東亜国内航空の合併買収、北海度各地のバス買収、ホテル建設に使った。
間接的に不動産運用資金にも当てた。
藤野の東急団地開発、ドエル他マンション事業は定鉄廃止後でしょ? >>328
>やっぱり東急が進出した時点で「中央資本に札幌を好きなようにさせてたまるか」
>という流れはあったんですね。
それは凄いあった。
東急に好きなコトやられ放題でどうする!と某主筆が騒ぎたてたのもある。
それがころっと変わってしまったのは、クレードル興農事件が大きい。
とうもろこしやアスパラの先買い作付け事業で伸びていたクレードル興農があるとき大型倒産した。
北海道経済界は軽いパニックになったんだが、
それは
「クレードルに5億円も貸し付けていた大債権社の東急百貨店が、クレードルだけではなく、ほかの債権者側にも弱みにつけ込んで身ぐるみ剥がすに違いない」というもの。
ところが、五島は其れをチャンスだと言い放ち、5億をチャラにして、なおかつ翌年分の資金まで用意してしまった。
クレードルは破産を免れ、北海道農産物はその後も出荷を滞り無くすすめることになり、
東急反対派は一気に萎んでしまったのさ。
なんせほかの債権者分も支払ってしまったので、大損を免れた投資家などが東急マンセーになり、味方が一気に増えてしまったから。 ただ、東急はもう北海道に興味がないからね。
五島が死んで20年以上。もう東急に大企業ロマン的経営者はイない。
五島家も長男は東急建設クーデターで閑職に入ったあと2007年に岐阜で死去、長娘は資産管理だけ、次男は全く別の道に。三男は東急グループの一般社員のまま。
2007年から2009年にかけて「東急に寄与しない企業は去れ」の号令一下で、全国の子会社400社を一斉切り離ししたときに、
じょうてつ以外のバス会社総切り、じょうてつの子会社も2社残して総切り。
ほかでは草軽交通もまるごと切った。
札幌東急ストア切り、定鉄商事切りもその一環。 東急観光が、斬られて
鬼っ子の東急不動産が残れるのは、多摩田園都市の力かな?(よそ者に廻すと完全に敵対しかねない!)
東急百貨店を後生大事にするのは、日本エアーを守ってきたのと同じくらい愚策に思うのだが・・・
109だけを、手元に残し放り出すことが、無理なのか? 文化村というイメージ戦略に繋がっているからでは?<百貨店
最早じょうてつと全く関係ねぇのでsage >>東急百貨店を後生大事にするのは
五島昇八奉行の生き残り、三浦守が顧問とはいえ生きている。
ということに尽きるかもしれないな。
支店では三浦が初代社長を務めたさっぽろ東急百貨店だけリストラ対象外だったから。
今は合併したけど、子会社として長く三浦が守ってきていた。
上層部には三浦の子分も未だいる。まだ仮にも遠慮があるんだろう。
三浦は今でこそさして経営には力発揮できていないけど、
紫に染めた髪で本社に今でもたまに現れる。
ただ、三浦がどんな男かを知るものは百貨店でもかなり減った。
三浦が死んだら、さっぽろは処分され手もおかしくはないし、百貨店自体も苦境だからまるごとポイかもしれんな。
新社長の二橋は伊勢丹からの事実上派遣だし、山本宗二も伊勢丹から引っ張ってきた人材。
側流の伊勢丹に渡すこともあっても驚くことはないんじゃないか?
そうなると札幌は伊勢丹系3つ?余るな。
定鉄はあまり関係ないので端書き程度で。 ただ、百貨店と関係がないかというと微妙。
じょうてつは北海道東急グループの中核・幹事会社だったけど、
いまやTDAや東急観光、函館・宗谷・斜里・早来・北紋・網走・北見の各バス会社、きたみ東急、さっぽろ東急、定鉄商事、札幌東急ストア諸々の
本体子会社や子会社、孫会社はほぼ全滅。
ホテルも一部精算。
じょうてつや現・網走交通、百貨店、エクセル、ニチレン北海道、なんかは事業連動性すらなくなったから、中核でも幹事でも何でもない。
網走交通も流通物流から基本的に外れたから、百貨店とじょうてつ幹事下の子会社とも疎遠。
それでも百貨店が撤退したら、北海道完全撤退の総締めじゃないのかな。
じょうてつだって、バス専業に小さくされたわけだし、観光貸切事業も限定再開したけど、北友地元ツアーバス会社と連携するくらいスリムにしている。
じょうてつを東急が持っている意味はシガラミ的不動産関係以外、事実上ない。
東京からの出向組一般社員はじょうてつ不動産部の家に住むのは不文律だけど、それだってね・・・
出向先がどんどん無くなってんだし。
北海道東急の旗印的イベントで五島の肝いりだった、とうきゅうオープンゴルフもとっくになくなっちゃったし。
じょうてつが切り離されるのだって、そう遠くないかもよ。
または静岡のように株は持っても経営にタッチしなくなるとか。 札幌急行鉄道が実現しなかったのは五島と、北炭の萩原が仲が悪かったせいとも云うが? 札幌急行鉄道にはあまり文献が残っていないんだが、
当の延長計画については少なくとも五島慶太は北海道経済界にぶち上げたことは事実のようで、
それが昭和32年が最初と言われている。
東急が買収したのは32年末だから、その前後と思われる。
ところが慶太は34年に没しているが、昇は札幌急行電鉄について一言も発しては居ない。
(慶太危篤のその時、北見付近の山間の温泉で八奉行の一人である田中正佐と過ごしていたけれど、それはバス会社と北日本航空買収の段取りだったようだ)
東洋精糖、くろがね撤退、東急の財政危機と波をかわすのに精一杯の時期をそのような膨大な計画を推進できる体力はなかったと思う。
それが「道内の金を道内で回す」という方針に導いたのは自然な解釈。
また、定鉄の買収を、慶太の指示で昇が推進したのも確かだが、決して良い買収とは思っていなかったようだ。
だから、北海道東急観光立国の軸となる企業としては価値を見出しても、鉄道としては価値を見出していなかったと思う。
昇の目はパン・パシフィック構想に向いており、サイパン・バリ・ハワイなどの海外観光開発には力を注いだけれど
北海道は旅行会社+航空機+ホテル+バスによる観光開発以外は特に目立った動きはない。
いわば定鉄の鉄道部分には興味はなかったと思われる。
瀬島龍三に後見人になって貰い、財政危機を乗り切ったあとは、更に北海道への観光の東急化には力を注いだけれど、
バス会社は買収済みで、あとはまとめるだけだったんだろう。
札幌に本社を持つ定鉄はそれだけの価値だったと思われる。
全国的配下企業の鉄道廃止にも割と躊躇しなかった。
伊豆急だけは慶太の夢として開業に持ち込んだけれど。
(開業列車の貫通扉窓に慶太の巨大な遺影を掲げ走らせたくらい)
静岡鉄道の経営ノータッチ化や草軽の強化しないでの廃止、定鉄の躊躇無き廃止、越後交通関連一式の田中角栄への予想通りの譲渡を見ると
「鉄道は資本が係る割に儲からん」という感じに受け止められる。
萩原吉太郎とは無理も無いのは、萩原は三井系の人間であり、三越買収事件で五島慶太には恨みというか忌避があっただろう。
昇がとばっちりを受けたのも無理は無い。
また、某主筆と萩原吉太郎は懇意だった。
クレードル事件以前の某主筆による悪評宣伝は萩原吉太郎も噛んでいたかもしれないね。
札幌急行電鉄には慶太の放言の一つとして捉えていたっぽい。 相鉄の件もそうだが、三井って何かと東急の買収工作の対抗側の盾になるな。
その割には、東急系の商業施設(駅ビルとか)にも結構旧三井銀行とか三井系企業が入居していたが・・・(無論 無視拒絶できないほどの財閥だが) 数年前、どこかの雑誌でみたのですが、土曜の午後の定山渓行きの
典型的な編成はMc+Tc+Ms+Ts(1000+1010)の4連、
さらにこれに準急樽前のPC1〜2両を併結。
う〜ん、古きよき時代の札幌?平日は真っ黒に働き、
週末は道内随一の行楽地定山渓へ・・・・
豊平駅で改札を待つ笑顔あふれる家族連れの姿が眼に浮かびそうです。
年間350万人運んだ頃のお話ですね。今の津軽鉄道の10倍以上ですよ・・・・
1200も後1年遅かったらカルダン車だったかも・・・・
モロクロは地鉄か長電で引き取れなかったのかな?
どちらも戦後規格型を主力としていたし、大型モーターで都合いいはずだし
やっぱり右運転台がネック? >>344 長電は、もう当時地下化構想が揚がってなかった?(当時もっとも同じよう北陸鉄道が金沢駅地下化構想が在る一方 全線廃止意向や名鉄の中古を沢山受け入れるなど迷走してたが・・・)
もっとも、中小でも比較的規模・余力のある 地鉄や長電にとって特に資本・協力関係の無い(購入の際あまり優遇される訳※でもない)トコロから
昭和20年代の(20年代と30年代製造車では、デザイン等アコモ上の革新格差が大きく)戦前からのデザイン意匠を受け継いだ電車は古臭く(観光需要を考えると)もはや中古購入対象としては論外だったのでは?
※地鉄の名鉄3800系大量投入は、当初名鉄の貸し出しだし、性能は優れても地鉄的には、格安で恩着せがましく押し付けられたくらいの
ので使うか程度の代物では? 当時津軽は一応車両の近代化を達成していて(2軍扱いのキハ2400なんかは、先細り重要を考えたら更新する必要ナシの判断)
需要低迷のため極力 設備投資を控えたかったのでは? まあ、キハはやっぱり何故関鉄が引き取らなかった?に尽きるんじゃね?
同じ日に廃止した江若の車を引き取るだけで十分だったのかね?
江若の車を茨交が引きとらなかったところを見ると、茨交にはその頃はまだ茨城線の廃止に手一杯で、
湊線の今後の計画が具体化していなかったのでは?
電車については、346さんのいうとおり長電も地鉄も戦前スタイルの車を4両引き取っても持て余すだけだったろうね。
琴電は「琴平線しか入れない非貫通車はイラネ」だったろう。、
あと6年遅かったら長尾線の昇圧で深刻な車両不足に陥り、なりふり構わぬ車両物色していたので、
間違いなく購入したでしょうが、最も「ロ」の2両は買わなかったろう。
※地鉄は3800はずいぶん重宝したよこのおかげで雑多な戦前車を一挙に廃車できたし、立山線に特急新設したくらいだし、まだ10年たってないクハ90を廃車にしたのが典型例。
戦後江若唯一の新造気動車キハ30(雑多だし1形式1両)を、かってのライバル関東鉄道が引き取ったのは
ある意味 戦国武将が敵陣武将の生首を取ったようなものだな。
完全スレ地 失礼! 最近は、定山渓を観光する人が少なくなった。
ホテルに直接、車で乗り付け、帰りも車で市内に直行。
定鉄があった時代のような、そぞろ歩きをしなくなった。 >>347-348
ちょっとは過去スレくらい読もうよ・・・。
>>351 ストレートに、その問題に触れてないんじゃないか?
たった一言でレスが過疎っちゃったじゃないか。
札幌郊外とは云え、戦前の北海道で何故に軌間以外全てオーバースペックな電気鉄道にしたのだろう?
電気運転による降雪に対するトラブルの不安とか無かったのだろうか? ・譲渡が少なかった背景
そもそもが手回し系で官民合作の廃線だったこともあって、補償額が大きく、また同時に行われたバス事業の移管に際しても
バス33台(諸説あり)と社員70名程度が定山渓鉄道から札幌市に移籍(公務員件付与の破格)しているところに鍵もある。
(その路線のほとんどは2002年の市バス移譲の際に戻っているが、極僅かに残っていた元定鉄職員は戻らなかった)
形としては「札幌市の発展のため諸条件があるが、定山渓鉄道を丸ごと買い上げて札幌をオリンピックのある近代都市にしよう」という号令を出したのが大刀豊とも言われる(伝聞・市長が唱えて大刀が奮い立ったという話もある)
市と交通局で丸ごと買い上げるということであるので、あまり廃線の惨めさはないし、
また余計に定山渓鉄道が資産売却されて太られたと見られてはも困る。・・・ということで基本的に譲渡販売活動は無かった。
譲渡されたのはいずれも五島の懇意系であり、譲渡金品授与の正式書類が見当たらないことから「くず鉄、部品扱い」で譲渡されほとんどロハだったようである。
廃線前に譲渡されたDD4501やC12(のボイラ)などは異なると見て良い。
解体も市の入札歴のある業者に定山渓鉄道が依頼する形が取られており(現在は廃業済み)、部品市場にほとんど流通していないのが実態でほぼ完全滅却させられている。
(3枚ほど車体の銘板と数葉の方向板が出たぐらいである・・・但し切符については未使用品・回収品が大量に流出している。)
・電化について
電化したのは東急以前、更に王子製紙グループ時代の話であるので五島とは関係ないことだが、「電化鉄道としては」それほどオーバスペックでもなかったと考えられる。
設備としてはグループの北海水力電気株式会社の活用のたぐいなので、北海道以外でもよくある事例なのであまり単独的に慎重に電化したというものではないと考えられる。
だから最低限の脆弱な部類であり、それが故に国鉄から苗穂駅構内までの区間においては
「国家財産上に私有設備を設けたまま買収してしまった」ことの悔いはあり(第一回買収時の手際の悪さが原因)
度々撤去要請をしていた。
「脆弱な設備によって国有鉄道が脅かされている、すみやかに撤去を判断して私企業の利益より国有鉄道の公共性を優先すべきである」
というような勧告が国鉄から定鉄に通達されていたという。(著名者からの伝聞)
国鉄としては北海道鉄道買収前の設備、しかも買収背景で一度目の買収時に5私鉄買収疑獄があったことなのでバツも悪く無碍にも出来ず、国有化されたあとに「勧告・要請」しか出来なかったということ。
度々架線断線もあったようで、国鉄目線としも苦い設備、脆弱な設備という判断は理解できる。
ちなみにED500の重連を画作したが変電所がオーバーして断念。SLを残す羽目になったりDD4501を「入れ替え線用名目・・実態は機関車予備兼務」で新製せざる得ないということも起きている。
ちなみに電化資金は北海水力電気株式会社から出たことになっていて、利用金額で償還する方式。
現在でもその方式は法人企業のガス配管などで「設備貸与」という名目で無料でインフラを引き、利用料金相殺で使うことでもあり一般的なことである。
北海水力電気株式会社が安定した売上を得るように定鉄を顧客にするよう王子グループで取り回したという見方で良いと思う。 電化部分の年表。
1929年東札幌-定山渓電化
1931年東札幌-苗穂電化延伸
1942年北海水力電気株式会社は北電に統合
1943年北海道鉄道札幌線は国鉄に買収
1948年GHQより王子製紙が定鉄経営から強制撤退
1956年より東急による買収開始
1957年買収活動中に国鉄苗穂駅乗り入れ廃止。
1957年買収完了。
国鉄線上非電化の動きの中で電車は活発に新製され、電気機関車も発注されている。
車両を発注していたのは浅野氏川の経営陣だが、その頃既に国策企業は撤退しているから、単純に中小民間vs国鉄の饋電設備争議にはなっている。
浅野氏の経営の末期にドタバタと廃止になっていることから、戦後突っぱねていた非電化要求をこの時期に、
浅野氏側が国鉄の強まる要請を飲まざるえない包囲網があったのかもしれない。
脱線しているが、電化はあくまで国策企業のなかの大きな動きだと考えられ、その設備は最小限。
金屏風が外れて一単独地方私鉄になったらあっという間に電化既得権も奪われるような状態だから、
後年の姿だけ見れば「北海道の地方私鉄に豪華な電化設備はなぜ?」となっても不思議ではないかと思う。 ありがとうございます。当時の事情がよくわかりました。
どこかの趣味誌で呼んだのですが、廃止に当たっての保証金が17億円でしたっけ。
ずいぶん手厚い補償だなあ、と思ったものでした。
今回の御解説で納得いきました。 http://www.youtube.com/watch?v=frPov6eYJ-c
「定山渓森林鉄道(昭和11年)」となってるけど、林鉄の営業開始は昭和16年だし、
動画を見ても定鉄だか林鉄だかよくわからんかった。 これは本体。
簾舞駅と思われるカットがある。
藤の沢駅かもしれないが。 ttp://blog.hokkaido-np.co.jp/tamatetsu/archives/2011/11/2_1.html
道新のブログでこんな連載してたのか 石山ギャラリー(札幌市南区石山2条7丁目12−32、2条8丁目バス停すぐ近く、
Tel:011−398−3926)に於いて、
『いにしえの定山渓鉄道パネル展』開催中
今や、定山渓鉄道を知らない人の方が多いだろうな。
バスに表記された「じょうてつ」の「てつ」が何を意味するのか、考えもしない人が圧倒的多数だろう。 九十九里鉄道バスも・・・
中国鉄道バスの標記なら チャイナ資本進出と誤解される。 てんてつが天塩鉄道だって気付いたのは大人になってからだったわ >365
>チャイナ資本進出
それよりもマージャンパイの方が…… >>362
ttp://sakurasite.homeip.net/imgboard/img-box/img20111215185715.jpg 定鉄の高額な廃止保証金は、札幌駅1番線乗り入れ使用立ち退き料の意味もあると思う。 (ここまでの書き込みは、ひととおり読んでいます)
>>369
札幌オリンピックという「国策」のために、廃止しなくても済んだかもしれない路線を廃止させたためでは?
もし定鉄が残っていれば、オリンピック選手村のすぐ横を、みすぼらしい(と思われるかもしれない)電車が通る事になり、
それを各国の選手や報道陣が目にする事になる。
自分が行政の担当者なら、こういう状況は避けたいと思うでしょ?
東急が大投資して、見た目だけでも東横線レベル位にすれば話は別でしょうが、
それならば、廃止して地下鉄を建設した方がいい、ということでしょうね。
ちなみに今日は、地下鉄開業40周年。 >>369 昭和40年代初頭まだまだ欧米文化一辺倒崇拝でパクリ文化全盛の日本だからなあ〜
今の中国の事情を揶揄や批判なんて到底出来たものじゃないな。
しかし現存していれば、恐らく東急グループ内でも有力な交通事業者の定鉄線の廃止は残念だな。
残っていたら上田や伊豆急を凌ぐ車輌水準を維持していたかもしれない?
それとも静鉄や越後交通みたいに系列外で友好的な関係に移行していただろうか? >>371
>残っていたら上田や伊豆急を凌ぐ車輌水準を維持していたかもしれない?
残っていたらって仮定が意味無いと思うんだが 東急の新検測車に数年で廃車になったゲロ電の亡霊の怨霊が、宿居るを感じた。 >>370
定鉄に圧力かけたの、札幌市より寧ろ道警だったんだけどね
当時の警察は、自動車交通優先、それを阻害するような鉄道は邪魔!
という思想だったから 道警が定鉄にドケーか・・・。
単なる偶然かも知れないが、地方私鉄の分際で電車も気動車も電気機関車も湘南で揃えたのは
洒落ていたよな。
昭和30年代の鮮やかの時代つかの間の繁栄を謳歌して走り去った鉄道だな。 >>374
それを30年後にやらかして名鉄岐阜市内線を葬ったのが岐阜県警 県警本部長でも独断で圧力をかけることは不可能
当然行政トップである知事の理解、同意は不可欠 >>379
そう言えばあの頃の知事って町村だったか。 >>138訂正
東豊線は財政関係でリニア地下鉄。
石狩市や屯田を起点にして、豊平公園から違うルートになり、羊ヶ丘通りを走り、札幌ドームや美しが丘を経由して、大曲のアウトレットパークまで。 電車廃止して自動車へ転換させることで
産業界からの献金、天下りと甘い汁吸うことができたからね
国策ぐるみで地方で道路作って自動車
今や地方は年寄りばかりで自家用車なんかは売れない
交通政策なんて名ばかりだったからな
俺はばあちゃんといっしょに小金湯までよく通った >産業界からの献金、天下りと甘い汁吸うことができたからね
具体的に 定鉄と夕鉄が繋がっていれば夕張の観光開発もうまくいったのでは? 定鉄とつながるかどうかじゃなくて札幌まで延ばせるかどうかだろ おっ!久々に盛り上がっているね。
電車とキハの塗装が無関係に(誤乗防止なら色違いで同じ塗分け でもいい筈)別塗装なのは何故?
寧ろキハと電機の塗分けの方が共通性がある。 >387
電機とキハのメーカーの提案じゃね?
どっちも日立だったと思う。
しかしキハが売れなかった理由が気になって(ループ? >389
スマソ恥さらした。少し調べりゃわかることだったのに。
いやあの電機の顔って日立っぽいし。三菱+新三菱とは思わなかった。
(角度がゆるめの湘南系ってやつね)
キハ売れなかったのは二軸駆動が相当に調子悪かったからかも?
あの時代の気動車で二軸駆動って他にはキハ60くらいしか無いよね。
あれも失敗作だし。 >>390
留萌のキハ1000も2軸駆動でこれも日立製
ちなみに日立が戦後に作った私鉄向け気動車は定山渓と留萌だけだそうな
ソースはレイルNo22
留萌は茨城交通に売れたから2軸駆動が失敗だったとは言えないかも 当初は市電の代替とするためには停留所の間隔を詰めなければならないと考えられていて
それには加減速度が高いゴムタイヤ式が不可欠と見なされたんだとさ >札幌の地下鉄 >>394
当初の計画では高架橋は剥き出しの予定だった >>391
定鉄の場合、気動車では日本唯一と思われる右運転台が致命傷だったのでは >>396
そのシェルター自体に積もった雪の始末には苦しめられてるけどねw
素人考えなんだけど軌道が露天だった場合、第三軌条方式だと架空線より集電がシビアになるって事はないのかな?
トンネル断面を小さく出来て建設費が抑えられるってメリットはあるけど。
ところで定山渓鉄道って雪には強かったの?
それとも遅延・運休のオンパレード? >>404
減少傾向にはあった
あと豊羽鉱山の貨物輸送が無くなったのも大きい >>402
第三軌条方式に雪は関係無く、踏切など平面交差で、人がむやみに第三軌条に接触、感電するなどが問題となるだけ。
モスクワ地下鉄のフィリョーフスカヤ線は7駅に渡る地上区間があるし、ブートフスカヤ線は路線の3/2が地上線を走る。
ホイ、モスクワ地下鉄の冬
http://www.youtube.com/watch?v=7PfFTE165HE&NR=1&feature=endscreen
http://www.youtube.com/watch?v=Klqg2Rweoq8&NR=1&feature=fvwp
おまけでウクライナ・キエフ地下鉄
http://www.youtube.com/watch?v=G_dpmZoMaM8&feature=endscreen&NR=1 >>402
定鉄に関する本色々読んだけど特に雪に弱いって記述は無かったような 上信、上毛、国電席巻前の西武(武蔵野系) 着座のままのタブレット交換の都合を考えて
右運転席だったよ。
上信も上毛もプロパー車は他所に売却したことはない!
西武は、周知の通り(但し アフター充実、改造もお手の物だからユーザー希望で左に改めたケースも有るだろ。)
余談だが、着座まま?移動せずタブレット交換可能の為の右運転席だが、
ヒューマンエラーによる信号暴進を誘発しそうで便利なようで危険でもある。
同様の主旨で俺の居る会社では、入換信号の進行現示確認と場内信号が停止現時の場合必ず
起立し車掌台側で進行現時を待ち確認しなくてはいけない規則になっている。 実に面白いスクープな動画です。
この動画に高評価をください。
京王線の女性専用車両内で起きた事件のスクープ映像で
痴漢被害を受けるわけがないようなブスな女が男性客を追い出そうとするという、
なんとも本末転倒な珍事です。
http://www.youtube.com/watch?v=7QyHmAe2c-0&list=PLzeFCSP7xRziIIipBhtKgGQ-aCrLXq8Hi
男性のお客様に対して接客精神に欠けた無礼な車掌と
下品な女の暴言をご覧ください ED500形は長野電鉄→越後交通に流れたが解体か… どなたか無知な私に2200・2300形の事を詳しく教えてくださいませ。 >>415
正直な話、個人の方の地方私鉄探訪サイトに掲載されていた写真でしか見た事がありません。
2200形は湘南電車風のマスクで片側2扉、少し腰板部が広い感じがする1段窓の全金車(?)と思しき車体を有し同系車と編成を組んで車庫に停まっているものでした。
これがロマンスカーと呼ばれているものかとは思うのですが車内のスナップは無く、また足回りも黒く潰れ明瞭に写っていないので如何なる台車を履いていたかも解りません。
見た目だけなら初期の高性能車にも見えるのですが、この車両について述べられている文献も私の検索のし方が悪いのか探し当てる事が出来ません。
2300形の方はステンレス車体を思わせるコルゲートの巻かれた固定窓の車両ながら足回りには私の見間違いでなければイコライサー風の台車と極めてミスマッチ。
いくら北海道とはいえ今日のように冷房も装備しないまま窓の開かない構造からゲロ電の異名を賜ってしまったのだろうという事くらいしか察する事が出来ません。
基本的に私の知識は某サイトで見た写真&ここでの書き込みからの類推の域を出ず、はっきり申しまして何も知らないのに等しいという状態なのです。
各車両の概要・車内設備・定山渓鉄道での扱い、また両形式に纏わるエピソードなど御教示いただければ幸いです。
青森に渡った同僚には存命だった頃に対面した事がありますが、その十鉄も今は亡く彼らの事すら今は「かつて在籍していた」で片付けられてしまう今日この頃。
こんな個性的な車両達が北の大地を駆け抜けていた頃に思いを馳せ、彼らの活躍を記憶の中にだけでも留めておきたいと存じます。 >>416
湘南電車風のマスクで十和田行ったやつなら2200じゃなくて1200 お詫び
2200形 ⇒ 2100形
>>417
同僚という単語は同一形式という意味ではなく一緒に働いていた仲間という意味で使わせて頂きました。
十鉄に行ったのは確かに1200形ですが、あれって両運車ですよね?
私が見た2100形の写真は片運車だったように思うのですが車両形式を含め私の見間違いだったという事でしょうかね?
その可能性も私の記憶が曖昧なので充分に有り得るんですけど。 >>418
2100なら片運であってる
2100は電化時に新製されたモ100の車体更新車
2300はモ201とモ301の車体更新車 >>419
ありがとうございます。
すると2100形も2300形と同様にクラシカルな台車を履いていたということですね。
他にも両車に関して何かありましたら思い出されたついでで結構ですので色々と教えてくださると嬉しく思います。 >>420
とりあえずネコパブリッシングの消えた轍をオススメしとく >>422
見たら
2100形は「新潟ボールドウィン系」
2301号は日車 D-16、2302号は汽車 TR-14だったそうです 【女性専用の寝台車両がある寝台特急あけぼのが廃止になるので大歓迎】
JR東日本が行った男性客に対する悪質な乗車拒否作戦
JR東日本の本社職員・支社職員・駅員が行った
寝台特急あけぼののレディースゴロンとシートに乗車者する男性客への乗車拒否バリケードです。
男性を侮辱した人権侵害の一連の模様をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=taqjOajeu5E&feature=channel&list=UL
http://www.youtube.com/watch?v=RJDXzoXs490&feature=channel&list=UL キハが売れなかったのって保障金のカネ合い以外に、
定鉄線内で電車に牽かれることで気動車の機関やトルコンに余計な負担というか痛みが生じるような問題があったんじゃね? >>426
関係無いと思う。
キハを電機+客車の後尾に付けて牽引、なんて国鉄でもごく普通にやってた。 >>426
定山渓のキハ、右運転台じゃなかったっけ? DCの色が印象に残ってる。
電車がローカル線にありがちな配色だったのに クラッシックプラグマティストアブラカレー
クラッシックプラグマティストアブラカレー
クラッシックプラグマティストアブラカレー ここの車の湘南顔が井笠の軽便気動車の顔とよく似ていた というか湘南顔なんてほとんどが似通ってしまうものでしょう >>433 井笠の類似キハは、遠州奥山→花巻のキハ1803 生まれも一緒(日車製)だから間違いない。 電車がDCを牽引してたんだっけ
重たかっただろうな キハ7000、7500譲渡の件だが、ピクトリアルのキハ20系特集(1995年の方ね)で
さんざん既出な右側運転台と電車併結回路の問題に触れていたわ >>438
物理的に引けないとかじゃなくて、思いから電気をよく食うとか、そんな疑問じゃないの? >>440 津軽の増車は基本 新潟鉄工に委ねていたのでは?・・・過去の経営危機の際の取引対応に感謝して・・・
コレは茨交にも言えたコトだが・・・
で山鹿のクルマの件(マア これも新潟の口利きもあったのだろうが・・・)で中古購入には懲りていたのでは? 廃止日が偶然にも江若鉄道と全く同じなんだよな。
鉄ヲタが北と西に分散して最終日は意外と盛り上がらなかったみたいだ。 豊平駅近くの国道36号線を跨ぐ歩道橋も電線の地中化工事で廃止されてしまった
辛うじて分離帯だけは残っている
定山渓鉄道当時の建物は旧石切山駅舎だけになってしまった 撤去されないうちに訪問しておかないといけないかもね
廃線遺構巡りはズルズル先延ばしにしてるといつの間にか無くなってるということが
往々にして起こり得ます。 おお、ご同輩。
俺は東野の「ふみきりちゅうい」の警告柱の撮影を先送りにして
泣きを見るハメになりやした… 某所にリクエストして紙製でモロ1100をキット化してもらった
今度注文しないと なんだか沼尻が今際の際に磐梯急行に改称したのを連想してしまったw あれはピュアな意図をもった改称ではないので
ちょっと区別して考えないとね 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否「お前ら何や」[
トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル株式会社)30代好評人気連載漫画「ヒカルの碁スキンケア」
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員稲田籠池豊田
40代社会人集団ストーカー対策ーhondasouichirouー 横浜マドリッドスペイン上西フライングトルネードオーバードライブシュート西口
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース ∩___∩ /゙ミヽ、,,___,,/゙ヽ
| 丿 ヽ i ノ `ヽ'
/ ○ ○ | / `(○) (○)´i、 先生助けてっ!、
| U ( _●_) ミ 彡,U ミ(__,▼_)彡ミ うちの子が
彡、 |∪| ,,/ ,へ、, |∪| /゙ 息をしてないの!!
/ ヽ ヽノ ヾ_,,..,,,,_ / ' ヽノ `/´ ヽ
| ヽ ./ ,' 3 `ヽーっ / |
│ ヾ ヾl ⊃ ⌒_つ ソ │
│ \,,__`'ー-⊃⊂'''''"__,,,ノ | >>460 その時刻表には出てないけど、当時は鉱山からの貨物輸送が中心だったのでは? あれは「私の定山渓鉄道」。白黒写真のイメージ彩色、モデルの使用など残念な本。 定鉄は興味あっていろいろ調べてきたけど、そんな自分が恥ずかしくなった。とにかく、すさまじい情報量。執念を感じる本だった。定鉄に関してまとめた本はこれ以上の本は出ないと思う。 資料的価値は少なくとも写真については無いよね。
あとあちこちに散らばる筆者撮影の女性写真が謎。 >>470
ああそれも多いに疑問。それなら画質調整に全力上げた方が良かった。
資料性高い写真に限ってタイルの一枚になってたりもして。
本当にオナニー全開のク○編集。 NHK特番「定山渓鉄道誕生100年!大都市・札幌をつくった鉄道をたどる旅」
11月17日(土)10:25〜11:08の間に放送予定
出演:石原良純、三戸なつめ 本州の人間が短絡的に考えると札幌駅から直接発着してすすきのとか都心部から徒歩圏内を走っていれば今でも残っていたかな?
貨物の為だと思うけどわざわざ市街地避けるルートにしたから詰んだとしか思えない。 元々は豊平川沿いを走る予定だったが台風で豊平川が氾濫しその後の護岸工事で予定したルートに引けなくなった
さらに変更後も地主の反対などで用地買収に手間取りあのルートになった 熊もいなくなったことだしゆっくり廃線歩きができるな
あの熊二年ほど前に国道沿いで目撃された個体かな 北海道行った時小樽の博物館で買ったスイッチバックってDVDで定山渓鉄道の映像見て気付いた。
今日が最終列車の日からちょうど50年なのか。 名古屋市内の本屋で鉄道コーナー見てたら地方新聞が出した鉄道書籍が結構あって定山渓鉄道の本もあったので買ってしまった。 美晴幼稚園→東園小学校→八条中学校というヤクザな環境で育ったんだが、子供のころは定鉄の線路に耳付けて音聞いてたわ。
豊平駅のターンテーブルの近くにラッセル車が留置してあったと思うけど、そこに忍び込んだりしてた。
ターンテーブルから道を挟んだ向かい側に豚小屋があったと思う。
いま東京の某大学で経営学を教えてるけど、定鉄の廃線は歴史の必然だったね。
鉄オタとしては寂しい限りだけど、人口密度の低い札幌では国鉄と相互乗り入れしても無理だったろう。 一部引き継がれた地下鉄南北線は建設費の償却も終わった数少ない本当の黒字路線だけど定鉄のままのルートだとすすきのとか大通通らないから厳しいかもね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています