むかし鈍行の寝台車があってな
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/ /\ \つ つ、ヽ. ダカダカダカ!! 三○三○.____ダカダカダカ!!
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ヽヽ レ \ \フ / /< ナ >. < #`Д´>三○ ||. | ナン20|
\ `[電波禁止]'/< ン > ┌三○三○三○||/ ̄ ̄ ̄/
ヽ、 ____,, / < 2 > | ヽ三○二二二」二二二二二|
─────────< 0 >──── ∧_∧────────
カタカタ ∧_∧ < 悪 の > γ(⌒)・∀・ ) ナン20め!!!
<`Д´ ;;> < 寒 > (YYて)ノ ノ
_| ̄ ̄||_)_ < !!! > .|\  ̄ ̄ ̄ ̄\
../旦|――||// /| /VVVVVV\ ||ヽ|| ̄ ̄ ̄ ̄.| 他に、定期列車だけでも、
からまつ、函館線夜行、上越夜行、中央線夜行、大垣夜行、土讃線夜行なんかがありました。 >>7
その中には寝台車が繋がってなかったのもあるよなw ここは
各自がそれぞれの思い出の中で懐かしく振り返る板だから、
『時代を遡ればある』
などと言っては
実も蓋もない。 S49,3に乗った423レ(当時「からまつ」の愛称はまだなし。)
小樽から釧路まで向かいたかったのだが急行「狩勝」がG車以外満員。
423レのB寝台のお世話になったのだが当時スハネ30。当時「こんなボロなの」なんて
思ったりもしたが今となっては思い出。
「狩勝」が満員だったせいか指定券のとれない客が流れてきたようでこちらも釧路
までほぼ満員。
池田を過ぎたあたりから寝台の解体が始まり、それから外の景色に興味津々に見入
っていたが釧路までやたら時間がかかったように思えた。
当時の寝台券はマルスにも入っていなかったので手書きで今でも大事に保管して
いる。 山陰の寝台に奮発して乗ったら朝、何か騒がしくて目が覚める。
カーテンの隙間から通路覗くと学帽かぶった頭が一杯。
寝台車通路に通学の高校生集団が押し寄せていた。 ナン20脳:捏造したことを事実に変換する灰色の脳細胞だ
/
,ヘ / ,rァ
/ '、 / ,/ ,i
| '──--' {
ナン20マウス___ / ヽ L_/ /--i----ナン20アイ:自分に都合の
謝罪と / ̄ ̄ ̄l ,/ i, 悪いことは見えないぞ
賠償を 'i し 丿――ナン20フェイス:見るからに気持ち悪いぞ
要求する \ __,/
ぞ く ̄~~ ――-―――カプサイシン袋:カプサイシンを貯めている袋
^-ァ __,ノ――ナン20アーム:すぐ他人の物を盗む便利な腕だ
ナン20ハート ̄i' ̄ ̄ 'l
毛で ! ---|---ナン20ストマック:人が食えないものも
できている !, ,_ ,!_ 消化できる不思議な胃袋
\ l,~|^''‐--::,,⊃――ナン20フット:極めて貧弱
ー' |
|
ナン20ペニス:腐っていて役に立たない
*カプサイシン袋の隣にカプサイシン燃焼炉があり、それでカプサイシンを燃焼させ
火病モードに変化、ナン20マウスから大量の嘘を吐いたりするんだ え!
鈍行に寝台車なんかあるの?
通勤客とか乗って寝台に座ることない? 鮮鐵の京城発木浦行
大田ブルースに出てくる列車の元祖 山陰
かいもん
ながさき
はやたま
このくらいだったはずだよ 寝台つなぐような鈍行だとたいがい一部通過駅があったみたいだね。
完全に各駅停車なんてのはあった? 18切符で大阪から東京へ帰るのに、はやたまの残骸の
新宮夜行乗ったなぁ。
すでに寝台車はなく、EF58+12系だったな。
早朝の新宮でさんま寿司食って、乗り継ぎの多気行きのDCが
キハ58+キハ35なんていう意味不明の編成だったり。
金はないけど、時間だけはあった学生時代だったよな。 急行から普通に変わる寝台車なら十数年前に乗ったことあるなー。
大阪〜出雲市だったっけな。 究極の破格の安さ!詐欺か!?と疑いたくなる安さ
ソニー VAIO TypeL VGC-LV72JGBが新品で税送料込みで20,000円
新品のTシャープAQUOS LC-32DE5が消費税送料込みで30,000円
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エアコンもなんでもある。
オークションよりも安く電化製品は在庫多数
詳しくはこちら
http://blog.goo.ne.jp/kototo_001_may/ 普通列車の寝台って発車するごとに衝撃で起こされそうな感じがする。
それと置き引きに遭ったら最後。 おきびき(隠岐+くにびき、じゃないよ)は普通列車の寝台車
固有の問題ではないのでは?
俺はカネと切符は枕カバーの中に入れて寝てた。 >>22
特急から寝台付で普通列車にかわる列車もあってだな
>>27
・南海サハ4801
難波→(特急)→和歌山市→(鈍行)→新宮
・国鉄ハネ
天王寺→新宮 なるほどな。
寝台特急が途中から普通列車になる話だったんだけどな。 >>30
普通から寝台特急に変わったのはなかったと思うがな…。
寝台特急から普通に変わったものは、一時期車両基地までの回送を客扱いした「出雲3号」の
出雲市−知井宮というのがあったが。
東京駅で発車案内や車両のサボに表示された「知井宮」というのには、違和感あったけどね。 普通から寝台特急に変えると
通学学生が食い散らかしたマクドのゴミのあとに寝ることになる >>30
オマイはいつも「あったはず」で実例示した験しが無ぇな
妄言乙 >>35
今の西出雲が元は知井宮(ちいみや)だった。 たしかに24系の方向幕には
知井宮ってあったよ。
都城の次に出てくる >>37
シャワースレで負けたのがよっぽど悔しかったんだな。
出雲3号は14系。 たしかに14系の方向幕には
知井宮ってあったよ。
佐世保の次に出てくる
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\|lノl /└-‐ヽ-‐' ヽ i あたまがいいわけではない
l、 ゙| / ,,---'ニ=メ i .|
ヽ-i i' /-l「ヽ┼+// ;; /
ヽ、 ヽ=ヽ─++-''ノ /、
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特急、急行用の寝台車ならまずまずだったとは思うが普通用寝台車はどうだったんだろうね 山陰とかの寝台車の寝台料金は急行・特急と同じ?浴衣とかも付いてた?冷暖房は?車掌室は付随してたのかな?無人ローカル駅とかでも寝台車のドアは開いた?
十年早く産まれていれば乗りに行ったがな。
リアル乗車してないと分からない事ばかりだな >>46
寝台料金は特急急行の3段式B寝台と同じ。
浴衣は付いてなかったんじゃないのかな。
冷暖房は完備(晩年の10系寝台の場合)。
ドアはもちろん開く。ついでに窓も開く。 >>47
サンクス。
今の列車で一番イメージが近いのは「きたぐに」の三段寝台なのかな。新潟行きの末端は快速に変わるし。 客車三段寝台には当初は浴衣はありませんでしたが、後に標準装備になりました。
ただ、ここに出てくる鈍行に連結されていた寝台車に装備されたかは調べてみないとわかりません。
ただ、自分が利用した時には浴衣はありませんでした。
小樽−釧路を走っていた「からまつ」には寝台車が2両ついていました。
うち1両の営業は小樽−池田になっていました。
しかし、車両は池田−釧路は締切扱いになっただけで、分割併合はありませんでした。
十勝地方の利用者と釧路地方の利用者を分ける目的もあったでしょうが、実際はホームが短く、
客扱い上問題があったからです。
ただ、釧路方面には寝台車主体の「狩勝」が時間帯も良く設定されていたので、
寝台車自体は回送列車みたいなものでした。
実際に何回か利用した時にも、ほとんど乗客は乗ってなくて、車内放送も必要ない駅ではカットされていたので、
人気がなく、不気味に静かだったのを覚えています。
寝台車が2両ついていた普通寝台列車は、他には「はやたま」がシーズンを中心につけられていました。
こちらは、大半が釣り客の利用者で賑わっていましたね。 「からまつ 寝台」でググッてみた・・・
ttp://www.karamatsu-train.co.jp/kiroku/kiroku.htm 826レに出雲市から京都まで乗った時は、長方形の列車番号が書かれた
寝台券だったな。
浴衣はなく子供2人なら1枚の寝台券で1つの寝台を利用できるとのこと
だったが、どうやっても52cm幅の10系ハネに子供2人で寝ることが
できなかった。
鈍行の割には各駅の車内放送はなかった気がする。
寝台だけ放送カットできたのかな。 急行でも寝台車と座席車が混ざる編成では寝台車の放送は、
一斉放送と座席車両のみの放送とに分けて放送できるようになっていた。
寝台車連結の普通列車は、始発駅付近では通勤輸送の使命も担っていたから、
当然各駅ごとに放送をする必要があるが、寝台車の乗客には不要であるから、
そのための選択スイッチは備わっていた。
今でも「はまなす」「きたぐに」などでは、そういう機能は使われているはずです。 >>50
結局、宣伝部長乙!
でも知らんかったから、今度のぞいてみるわ!
でも「高杉やろ!」とか言いながら何も買わずに出てきそうw >>51
夜行列車は基本的に車内放送省略だろ。
それに昼行客レ普通列車でも主要駅到着前と発車後くらいしか放送ないことは多い。 昼行鈍行でも確かに放送は適当にはしょっていたね。
大きな駅を発車した時にこれからの停車駅を告げて、あとは交換待ちでもなければ省略。
そして大きな駅になると、例のオルゴールと共に放送が始まる…って感じだった。
夜行だと、夜明け後の大きな駅が近付いた時の“おはよう放送”のオルゴールが、
まさに一夜の終わりを告げたものだったね。 廃止直前の清水港線の放送はすげーウザかった。
いちいち可動橋の説明しなくてもいいよって感じ。
静鉄局にしてみれば、サービスなんだろうけど・・・・。
スレチすまん。 53-10あたりだと、からまつ、山陰、はやたま(旧:南紀)、ながさきの4つ
マルス対応前は列車番号で呼んでなかったかい?
懐かしの10系寝台、当時はまだ旧客急行もあったけど、
急行の末端普通は別だよ。 愛称の付いていない時代にはスハネ30が連結されていたものもあったね。
まだ現役で走っていた時代だったけど、乗る機会がないまま終わってしまった。
いかにも旧態のスタイルは、今なら大騒ぎだろうけど、当時はやっぱり同じ寝台料金払うなら、
新しい車両に乗りたかったからね。
10系寝台車の良かったのは窓が開くこと。
朝起きて、通路側の窓を下ろせば、もたれ掛かるには丁度いい所で止まって、
爽やかな朝の空気を受けるのが良かったね。 10系寝台良かったねえ。
窓が開く。読書灯が蛍光灯じゃない。ドアも手動。ユカタなんかねえ。
「ながさき」に乗った時はまだ子供だったが、乗っておいてよかった。
車掌に「オルゴール好きです」って言ったら、浦上到着前に2回鳴らしてくれたな。
>オルゴール2回鳴らしてくれた
そういう小さな気遣いこそ、真のファンサービスではないかと思う。良い時代であった。 わずか1年間だけ設定され
短命に終わった
寝台車連結の普通列車だ
-64.10 寝台車なし
65.10- 急行列車に格上げ 亀山から「はやたま」に乗った時、乗務員から
「自分たちは『はやたま』を、921列車だから『クニイチ』と呼んでる」
って話を聞いた。
「南紀」と呼べなくなったからだったのかな。
天王寺発は何て呼んでたんだろう。
肥薩線・山陽線・東海道線・磐越西線・池北線・名寄線にも
寝台車連結した普通列車がありましたね
懐かしいですな 父が若い頃、ナハネ10(オハネ12)を出張で時々使っていたみたいです。
私には直接の覚えがないのですが、急行夕月でスハネ16に乗った筈です。
オロネ10は別格。2度だけ乗ったのを良く覚えています。
ナハネ20は子どもには長距離でも十分使えました。
今ならあの幅の3段は遠慮します。
ナハネ10で夏の鈍行の夜を悩まされた父は、寝台車には郷愁とともに怨みを
持っているようですw
富士ぶさの廃止記念に、下りぶさ上り富士に由布院温泉を挟んで乗せてみま
したが、個室A寝台にもかかわらず、あまりご機嫌はよくありませんでした。
サンライズのAかカシオペアなら旧寝台の怨みを晴らしてもらえたかもしれま
せん。ちょっと残念でしたw
小学生のとき阪和線の沿線に住んでいたが、はやたまの存在は知っていた。
ガキだからそんな遅い時間に天王寺の駅とかにいれなかった。
一度実物を見ておきたかったなあ。
大学生ぐらいになると、そのあとの新宮夜行(165系)に何度も乗ったよ。 >>72
「はやたま」の愛称がつく前は、列車番号だけの天王寺―名古屋夜行普通列車があり、
私の知っている時代はED60が阪和線内を牽引していました。
寝台車・合造車・座席車に冬は暖房車と、バラエティーに富んだ編成でした。 門司港〜都城だっけ?
リバイバルやるんだったらそんなのもやってほしい。 カッコつけたがりのJR九州がそんな泥臭い企画やるわけがない。
末期は
ながさき、山陰、はやたま、からまつ
でok 昔大垣号という夜行寝台普通列車があってな
その列車に連結されたオシ16で売っていた
静岡県一色産天然ウナゲを使った弁当は
大変人気があったとな
ミーが言うんだから間違いない ワシは小倉から長崎まで寝台列車「ながさき」に乗った。
車掌さんがまわって来たけど乗車券、寝台券を見ないで行ってしまった。
朝起きたら列車は混んでいた。 >>82
今なら1つ1万円で売れそうな高級品だな。w
昔はビュッフェで寿司食えたし、列車内で食える物も随分劣化しちまった。、 ウナゲ弁当は時価ですた。
ウナゲ弁当は時価ですた。
ウナゲ弁当は時価ですた。
YOUの実力はそれがイッパイイッパイだろ? >>88
自分のネタ切れを他人に押し付けるなウナゲの脳味噌が γ´`ヽ
_ゝ -''` ー- _
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l:::::::::::::::::.... / 、(⌒ ;;;:;´'从 ;' ;:;;) ;⌒ ;; :) )、 ヽ
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}::::::::::::::::...`ヽ_人,ノ{ `:::、 ノ ...;:;_) ...::ノ ソ ...::ノ
 ̄:::::::::::::::.:::::::::::::::::::..  ̄ ー- _
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::.... \ リバイバル運転が難しいと思われ。
14系寝台車を使えば可能かもしれないが普通列車に6300円のB寝台料金を足すのは現代人にとって抵抗が大きいのでは? 急行【日南】の普通列車として運行する宮崎以南は、時刻表上では寝台車を切り離した様に見えるが、実際にはそのまま西鹿児島まで直通していた時期がある。
一応回送扱いだったが宮崎以北の急行寝台券を持っていれば乗車は可能だった。
20系時代に乗車した事もあるし、旧客時代も対向の気動車急行の車内から目撃した事がある。
時刻表に載っていない寝台車の例も有った、と言う事でご参考まで。 誰だかの書いた本に、
日南のB寝台に乗っていたら宮崎から普通列車になって、
寝台車にも高校生が乗り込んできた。
浴衣姿でトイレに行こうとしたら、きゃーって言われた、
なんてのがあったな。
宮脇俊三のだったかな。 小学生のときに、朝早くに見慣れない列車が走っていた、それが普通夜行列車ながさきだった。 そうはやたまっていわれても・・・。
愛称ない時代に乗ったことあります。 小遣い貯めて乗れるようになった時期には、からまつは消え失せ
はやたま、山陰、ながさきが残るのみだった
中学卒業記念旅行に乗ったのが、ながさきスハネ16 62
次に高2夏休みに、山陰オハネフ12 2094
残るは、はやたま
できればオハネ12に乗りたかったが、受験等で乗れずじまい
でも、中2の夏休みに多気→松阪ながらはやたま崩れには乗っていたし
横川に保存されたのがオハネ12
ちょっと奇遇を感じた
ちなみに、ながさきで乗ったのが俺が最後に乗った開放下段
以後、どんなガラガラの寝台列車でも、上段か中段にしている >>97
そりゃ昭和のJKが悪いんだけどなぁ。
今だと下り「きたぐに」の末端(新津→新潟)で
起こりうるかな。
そういえば15年くらい前、鹿児島線のダイヤが乱れ
香椎に「さくら」が臨時停車して博多まで乗れたが
さすがに浴衣姿は居なかった。 >>104
東京ブルトレは、行きは夕方発、帰りは午前中遅く到着だから
さすがに、浴衣姿の乗客を外から目撃する機会は少なかったね。
ましてや、遅れているときは。
関西ブルトレは、駅で見ていると浴衣姿多かった。
帰りは、皆が起き出す頃、降りる準備を済ませておく必要がある早朝到着。
帰りに「なは」とかに乗っていると大抵、車掌が
「あと15分で博多でございます」と、起こしに来てくれた。
懐かしい。 金がないからデッキで寝てたら車掌に蹴られて起こされたな。 >>107
そりゃ本当ならむごいなぁ
鈍行じゃないけど、旧客八甲田に乗った時は車内通路まで満杯だったから、デッキで寝たよ。
三沢を過ぎてから、やっと座席に座れたなぁ〜 >>96
日南の寝台車はずっと西鹿児島まで行ってたのでは?少なくとも20系時代までは全区間連結してた。
また急行妙高も普通列車になる長野―直江津も寝台車はそのまま連結してた。
その一方で急行きそは長野で寝台車を切り離し、長野―直江津の普通列車区間は座席車だけだった。 東京からの寝台車が1両だけC58のあとに連結され、その次にオハ61系で編成を組んだ普通列車が和歌山線に走っていた。
起点は王子。朝早いので寝台車以外は客はガラガラ。和歌山付近では寝台車にも通勤客が乗ったのかもしれない。 訂正、
それほど朝は早くなかった。
和歌山付近ではすでに通勤客はいない。 >>116
>>114
昭和37年3月10日〜昭和43年9月30日
S42.9時点で
下りで和歌山市着11:44。「大和」の天王寺着9:08なので和歌山市へは
そこから阪和線に乗り換えた方がダントツに早い。
和歌山線内への便宜を図る目的だな。 >>117
大阪着の夜行から環状線天王寺乗り換え、阪和線経由の方がもっと早く着く件 地方都市(奈良・和歌山)は東京からの直通列車がほしかったのだよ。 >119
普通に大半の利用者が近鉄や阪和線使ってるのに馬鹿なやつもいたんだな。 一度10系寝台の上段に乗ってみたかったな…
冷房化後は、夏は冷凍寝台だったらしいしw 10系ハネは空調機の突起があるので、上段はかなり圧迫感があった >>123
でも中段よりまし。と思ってたのは俺だけか? 暖房使用時は下段もロクなもんじゃなかったぞ。
電暖の10系B寝台はヒーターが真ん中あたりにあって、クッションも薄いから背中がやたら熱かった。
蒸気暖房ならこれが足元に変わる。
こっちは足元にヒーターが有る20系B寝台も大差無かったが、いずれにせよ10系電暖車よりはマシだった。 >>65
列車番号ではないが、学生のころ合宿(もちろん鉄研の)に南紀に行ったとき
天王寺発の「たやたま」は「天たま」、反対方向は「亀たま」(亀山からフリー
区間だからかな)と言っていた。
新宮で寝台切り離しか。5時杉着。朝、早すぎ。 >>125
そうだね、俺は10系寝台は中段がいいかと。
冬の電暖中の下段は凄かったらしいね。
友人と2人で真冬に北陸へ行ったが、下段の友人は「暑くて死ぬかと思ったプンスカ」、暖房だなと直感してそれ以来10系下段は避ける様にしました。
後刻、(坂本衛氏の本かな?)知ったけど、10系電暖寝台は寝台列毎に電暖回路が2系統あって、
1.途中駅からの乗客が寒いと言うから電暖は切れない
2.猛烈に暑いので乗客から苦情がくると、系統AをOFFしてBをONする
3.暫くすると系統Bから(ry、で系統Aに切替
4.以降繰り返し
と、知りました。
もっとも知った時には10系寝台車は全廃してましたが。 寝台ネタでは無いのですが…。
下り『ながさき』号に乗ったとき、車内を見て回ったら長崎行きの車内はガラガラなのに、
後ろ2両の佐世保行き車内は原水力船『むつ』の過激派で満席になっていて肝を潰した事がある。
>>128
大垣夜行から鈍行乗り継ぎだと「ながさき」に余裕で乗れるからな。
おかげで公安関係者も大垣夜行には散々お世話になったと警察庁OBの書いた物にあった。 さっき椎名町で見たライオンズラッピングの電車が旧客に見えて一瞬自分が天に召されたかと思った…
いやちょうどロゴの部分が隠れててさ… >>121
鉄道が繋がっている本州と九州の県庁所在地都市の中で、
東京(上野・新宿)からの直通列車がなかったのは山口と
和歌山の2市だけ。和歌山県はその解消にこだわったが、
当時の天王寺駅は頭端式で他線への直通が不可能なため、
時間がかかっても和歌山線経由で、最後は現在廃止された
短絡線(本来の和歌山線)を使って和歌山(現紀和)へという
経緯だったはず。
天王寺の短絡線は1989年供用だから使えない。「あすか」の
ような阪和貨物線経由だと東和歌山(現和歌山)で方向転換
しないと和歌山へ入れない。ならば、湊町編成との解結と
同時に処理できる王寺で、という選択だったんじゃないか? >>132
当時すでに電車と準急・急行気動車メインで構成されてた阪和線の高速ダイヤに、
客車つっこもうとしたら、かなりメドかったんじゃないのかね。
電機にしても蒸機にしても貨物線回りでは手配や機関車交換が面倒そうだし、
C57もDF50も山中渓を越えるのは苦労するだろう。
阪和線はその生い立ちからして、今も昔も、かなり特殊な条件の路線だ。
スハネフ1両ごとき、王寺で切り離して鈍行にくっつけてC58牽引で和歌山線転がしていくのが無理ない、という判断も
それなりに妥当だと思うよ。 信じられないだろうが、鈍行の寝台車は、自由席だったからな。
寝台で寝れるか否かの賭けをもった寝台争奪戦だったな。
下段なんか狙っていたらハブられるので上中段狙いだったよ。
もっとも冬の10系寝台車は、下段はヒーターが暑くて、寝られたものでは無かったが。 >>135
え、そうなの?寝台券とか無かったの?
「はやたま」とか「ながさき」が愛称を付けられたのは、
寝台券をマルス売りする為みたいな事を聞いたことがあるのだけど、
それって予約をしていたって意味ではないの? マルスに入ってない時代の寝台車が自由席て…訳ないよ(笑)
ちゃんと地元の駅売りだったり車掌が車内で販売していたりしていたんだよ。
それをマルスに入れて全国発売するために愛称を付けたんだ。
寝台車が“自由席”だったのは、網棚を使った俗に言う“C寝台”の話じゃないのか?
真面目な話として、繁忙期に車両が足らず、寝台車を座席使用にして走らせた臨時急行はいくつかあったけどな。 寝台券の愛称欄には826列車とスタンプが押してあり
寝台も指定されている。
1枚の寝台券でおとな一人、子供一人使用可能とのことだったが
10系ハネ中段でどうすれば2人が寝られるのかわからなかった。 問題:C寝台は次のうちどれですか?
@ あみだなの上で
A 4人掛けクロスシートを1人で占領して
B 床に新聞を敷いて >>141
オハフ50のロングがC寝台で網棚は混雑時は無理、 >>141
オハフ50やオハ41のロングがC寝台で網棚とボックス占拠はDクラスだな。床に新聞は山男、洗面所に体育座りの俺は…コジキ
夜行鈍行なんて貧乏だから乗るもんだと思っていたが。
だから、寝台車を連結した奴にも何度も乗ったが、いつも自分は座席車。
そういえば、宮脇俊三も鈍行寝台を「ぜいたく寝台車」とか称した文章を書いていたっけ? 山陰には何回か乗ったけど
貧乏学生には寝台なんか縁がなかった。
旧型の寝台一回乗っとけばよかった。 山陰だけど、Bネ不連結の日があったね。
鈍行でないがきたぐにのA・Bネ不連結の日程とも近い。
捻出した寝台車は定期列車の増結にでも用いたのだろうか。 >>146
検査や修理時に代替え車がなく
欠車になったのかも? >>147
1976/11小型時刻表より
山陰は12/25〜1/1発、きたぐには12/26〜12/31の間が対象となっている。
年末輸送の只中にあって、逆にハ車をつなげたとか? 定期列車には寝台車の代わりに普通車を繋げて輸送力増強
捻出した寝台車を繋げて臨時列車増発や定期列車に増車
76年という時期だと、東北方面に使われたんじゃないかと思う すいてるこだまの3人掛けで、肘掛け上げて、横になりたいと思ったことはないかい?ノシ ■_I_■_I_■_
=<X>○
Π⌒⌒⌒Π
こんな感じで… 「山陰」の下り寝台は高校生に頃に乗った。
到着が遅いので「はやたま」と違い起きてからも旧型寝台を楽しめると思ったから。
6人区画に俺一人だったので起きてから勝手に寝台を解体して座席を堪能。
夜の白熱電球照明が良い感じで、
窓が開くのと、天井にポッコリ突き出たクーラーも印象的だった。 2歳と6歳(幼稚園年長)と10歳の時にB寝台に乗ったことがありB寝台のことはわかるのですが
A寝台が座席状態から寝台に切り替わる瞬間がわからず子供のころからの疑問でした。
今日思いついてネットで探して
とりあえず下段のメカニズムはわかったのですが
上段やカーテン・仕切りなどがどのように切り替わるのかがわかりません。
そのあたりが分かるサイトがあれば教えてください。
お願いいたします。 追加
私は1962年生まれです。
幼稚園の時まではまだ1等寝台、2等寝台の呼び名でした。
それで3回とも、B寝台は片側3人掛×2のクロスシート、
A寝台は座席状態しか見たことないのですが通路が中央で両側にクロスシートという
いわゆる普通の座席でこれが何で寝台車なのか?と思ったものでした。
続く それで先ほどこれを見つけました。
http://www.youtube.com/watch?v=_em7cUZ06qY
かつて見たA寝台の型が3段だったとはじめて知りました。
カーテンと梯子は分かりませんが、仕切りまでは分かりました。
そして新たな疑問が生まれました。
自分が経験したB寝台は3人×2で3段なので人数はいいのですが
当時のA寝台やつべのタイプは2×2=4人掛けですよね。
これで3段だと1人はどうなるのですか?
下段だけ2人で寝るということですか?
それともはじめから3人しか座らせないということですか? 書き忘れましたが
>>154
のB寝台は片側がシートで、片側が通路です。 >>157
昨晩はお騒がせしました。
確かに寝台車が「鈍行から特急に切り替わる」話題はありでも
「座席から寝台に切り替わる」のはスレチのようですね。
寝台について小学校のころから知識も時代認識も変わってないまま
急に疑問が呼び覚まされて書いてたもので・・
その後もサイトを漁ってだいたいわかりました。
最初にA寝台と書いたのは、開放式・中央通路式・ブルマン式寝台のことで
でもまあ当時のA寝台はこのタイプが多かったようですね。
未だにのこる疑問は
>>155の犬吠号が
座席の時は1ボックス4人掛けなのに寝台になると3段になり
1人はどこに逝ってしまうのかということだけです。 >>160
583系の話題なら583系のスレに書けばいいだろ >>160
そんなものはこの板の住人の大半には珍しくも何ともないようなことなので、わざわざ貼るには及ばない
最初は仕方ないとはいえ、スレチとわかっても、なお書き込み続ける頑迷さ
年寄りは手に負えないものだ “鈍行の寝台列車”というものとは微妙に違うが、一応「快速」も普通列車と見れば、
定期列車以外に臨時列車として走った“寝台快速列車”(寝台料金だけで乗車できる列車)もあった。
「ムーンライト八重垣」や、列車ホテルとして運転された「エキスポドリーム」「エキスポ鷲羽」
「唐津くんちトレイン」「ナインドリーム甲子園」なんかが思い出す。 タイ国鉄の旧型客車に乗ったとき、短尺レール特有の騒々しいジョイント音が延々と何時間も続いたのは印象的だったな。
当然、路盤が弱いことが災いし、今に台車が壊れてしまうほどの揺れだったそうだ。 甲子園の特別列車は毎年新聞やNHKのニュースに取り上げられてたので
記憶に残ってます。 「ムーンライト八重垣」ってこのスレの年齢層と微妙にズレるような気がするけど、
2段寝台まで進化した、鈍行寝台の最後をかざる列車・・・とも言える。 >>157
敢えてマジレスすると…
寝台使用時の583系列車は1ボックス3人で使用。上中下段。
翌朝ヒルネになったら更にD席を売る場合はあった由。
たぶんA席下段B席中段C席上段…の扱いだったのでは? >>168
ヒルネって立席特急券だから席の指定はしないでしょ さてスレッドの趣旨に合わせて寝台車付きの鈍行列車に戻ると…
乗車経験のあるのは2種。「ながさき」と「山陰」。しかしいずれも利用は座席車のみ。
とうとう寝台車は利用出来なかった。
(20系・14系・24系25型そして583系は乗車経験があるが10系寝台車及び在来型寝台車は未経験)
また、「山陰」号は出雲市〜京都間乗り通したけど(出始めの青春18のびのび切符=当時は2日券があった=使用)、
「ながさき」号は門司〜香椎間と筑前新宮(現福工大前)〜門司港間(あ?筑前新宮〜遠賀川間の利用もあった)の
途中区間のみ。もっと体験したかった…
(ナハフ1117は良く揺れた。ナハフ102002・2003はそうでもなかったが床は傷んでいた。オハ46は揺れなかった。スハフ42301は…
青塗アルミサッシのクセに車内はニス塗りそれもどす黒いこげ茶色だった。茶塗りのままのスハフ42302の方がまだ明るかった…)
四半世紀〜30年前の話。当時の若造も今やロ―トル(笑)。 ナイトドリーム甲子園ってのは駅のホームに停めっぱなしなの? >>171
そう。停めっぱなし。大阪駅に約6時間、甲子園口駅に約2時間半。 「列車ホテル」があった時は、さすがに“垂れ流し”の時代じゃないよ!
ちゃんと処理装置、タンク装備の時代だよ! >>166
近年はだいぶ減ったな。秋田支社管内(青森・秋田)はここ3年ほど運用がないらしいし、JR九州管内も南部(宮崎・熊本・鹿児島)からは10年近くないな。 「南紀」は短区間ながら釣り客などでそれなりの需要があったんだな。
「からまつ」もそれなりに利用者がいた。
ただ2両のうち1両は客扱いが小樽−池田で、池田−釧路は回送締め切り扱いになっていた。
帯広、池田あたりの十勝地区の利用者と、釧路地区の利用者を分けて運用されていたね。 >>130
こんなスレで椎名町という言葉をみるなんて、西武スレに見えて一瞬自分が天に召されたかと
http://www.siinan.com/diary/slog.php?id=1329
ライオンズラッピングのラッピング前はこんな感じです。 普通夜行の寝台で夜の幹線をまったり乗車なんて、今考えるとすごく贅沢だったと思う。
夜中にほぼ各駅に停まる夜行ねえ・・・
寝台でもしんどかったはずだぜ 足のばせず、エアコンなし、減光なしの座席車に比べれば
ずっと楽だった。 「山陰」の寝台車で熟睡しました。もう27年も前の夏の事です。 >>186
それ両方とも地獄だよなw
夏は言うまでもなく、冬の下段は座席暖房で灼熱地獄だからな。
鈍行の寝台車というのは、指定になる前の大垣行きみたいなもんでなぁ、特に夏冬は早くに並ばないと良い席が取れなかったから大変よ。
寝台を取り損ねたら翌朝まで座席車の通路で雑魚寝だからな。
普通列車の寝台が指定席になったのは国鉄末期の数年だけだったしね。 >>186
並ばないといい席が取れない寝台車ってどういうこと?号車指定で寝台の番号は未指定?
マルスで寝台券を発券するために山陰とかはやたまとかの列車名がついている、
と聞いた記憶があるから当然「*号車*番*段」と指定されると思ってたんだけど
山陰の座席車に何回か乗ったが
通路で雑魚寝なんてことはなかった。
新宿発の山岳夜行では通路に寝てた人はいたけど。 ながさきのスハネ16が
俺が寝台として使った最後の開放下段
以後、下段は避けている
っつか、その旅行の往路で乗った
筑豊本線経由あかつきと、ながさきの2回しか
開放下段は寝台として使った事は無い 「からまつ」の寝台車に乗って釧路まで行った時、朝になってふと気がついたら、
寝台車に自分以外誰も残っていない!
列車は池田を出て朝もやの中をトコトコ走っては停まり、走っては停まりしているが、
何の車内放送もないし、車掌さんも回って来ない!
札幌を発車した時はそれなりに乗客はいたはずだが、池田まででみんな降りてしまったようだ。
人気がなく、列車の走行する音だけの釧路までの時間が長く感じたもんだよ。 >>192
・廊下を歩く人のコツコツ音が気になって仕方なかった
・頻繁にいる通路を歩く人の股より下に頭があると考えると嫌だった
・今まで座っていた所に階段も使わずに寝るのは変化に乏しく、単純につまらなかった
その後、山陰で初めて上段寝台を利用し
・寝台車で「寝る」に関して、下段に比べ圧倒的な安心感
・下段に比べ静か
・枕元に荷物置き場のある安心感
・階段の昇降がある事による「寝る」に関するメリハリ
もう、下段なんて利用したく無い ながさきでスハネ16 62に乗り
山陰でオハネフ12 2094に乗車
残るはオハネ12だが
はやたま乗車も、再度のながさき乗車も果たせずに消えた
ところが
横川でながさきに使われていたオハネ12 29が保存
列車としては無理だったが、曲がりなりにも念願(?)は果たせた
はやたまは乗車できなかったが、はやたま崩れには多気→松阪で乗車した
車番は失念したが、茶色いオハフ33
実質的保存車を除き、俺の唯一の茶色い旧客乗車
からまつは全く縁が無かった >>187
826レ(山陰なんて愛称がない頃)のB寝に乗ったが
寝台は当然指定。
恥ずかしい書き込みはやめよう。
>>197
> 普通列車の寝台が指定席になったのは国鉄末期の数年だけだったしね。 南紀とか山陰とかいった愛称が付く前は
第▽◇△列車寝台券という形で、地元程度でしか寝台券は買えなかったらしい
全国から買えるよう
マルスに入れるために愛称が付けられた
という訳で
普通列車の寝台車も指定だった訳で
自由席では無く>>187>>198はガセ >>201
間違った事を書くのが問題じゃないかと。 >>202
心病んでるからしかたない。
同一人物かどうかわからないが、東北スレで急行同士の待避(一方は通過)で
車掌が急ぐ客に先発列車への乗り換えを案内したと書いてるやつがいた。
車掌が飛び込み奨めるわけないのに。
でも普通に考えたら、寝台の自由席なんかありえない。
途中から乗った人は、空席見つけるの大変だよ。 >>201
放っておくと>>198のように引用されて
まるで事実かのように一人歩きされても困るからね マルスにはいっていない指定は枠付マークだったね。
定期列車で枠付指定の最後は上り急行「ときわ」の普通列車区間の平〜水戸間だったかなー。 >>205
懐かしいですね。
今から35年ぐらい前になりますが、
その列車(ときわ4号だったかな?)に関することを雑誌に投稿したことがあります。
(雑誌の方は、水戸鉄道管理局からの回答で、水戸での停車時間が短いから、平より指定席として営業している。と掲載)
平から乗車したのですが、水戸から座席指定となる1号車、外見は車体に指定席のサボが差し込まれていて、デッキから車内にあるドアにも指定席の表示、車内に入ると、車掌さんが1人ぽつんと座席に座っており、開口一番
車掌さん
”お客さん、水戸より先まで行くんですか?この車は座席指定なんですが”
私
えっ!水戸までですが、時刻表には水戸までの普通列車として運転する区間に指定席のマークがついていませんでしたけど?
車掌さん
それでも指定なんですよ。 私
普通列車として運転されている水戸までの乗車はできないのか?
車掌さん
お客さんには悪いんですが、
この車(1号車)は水戸より先まで行く(乗り通す旅客であって、水戸より先の急行券を含む指定席券が必要。ただし、座席の指定は普通列車区間からの乗車であっても、乗車駅から指定する。加えて、普通列車として運転する区間のみの指定席券は販売しない。)
お客さん専用の車で、それ以外のお客さんは利用できないんですよ。済みませんが・・・。
と、まぁ、こんな感じでしたね。 そこで可笑しいと思い、後日、雑誌に投稿するとともに、
自分からも当時、国鉄本社に問い合わせました。
(問い合わせ内容は、Q1.この列車には、時刻表で普通列車として運転する区間に普通車の座席指定表示がないにもかかわらず、
現実には、水戸よりも先まで乗車する旅客専用の指定席として営業されており、
当該区間のみの利用をする旅客を締め出すのは可笑しい。
Q2.このままの状態で営業するならば、普通列車として運転される区間のみの乗車(指定席券が必要)を認めた上で、時刻表にもその旨表示してほしい。)
国鉄本社からの回答はすぐにありました。
回答内容は、
A1.水戸駅での停車時間が僅かであるため自由席とした場合、利用するお客様が混乱を起こす恐れがあるために、始発駅から座席指定車で運用しています。
A2.時刻表への表示はすぐにさせていただきます。
このような内容で、問い合わせから2ヶ月後の時刻表より、平〜水戸間についても普通車の指定席が連結されている旨表示されるようになりました。(記憶ですと、表示されるようになってから、その後、1年ぐらいでこの列車は無くなりましたね。) >>207-208
俺だと、説明を受けた段階で「あ、そっか。なるほどしゃーない」となるかなぁ。 昔はあちこち乗り鉄をしていた経験から書くが、急行で発車した列車が末端区間で快速や普通に変わる場合、
時刻表上では快速や普通区間に指定席表示がなくなっても、マルスでは終着駅まで指定券が出せるケースが多かった。
例えば、急行「はるな」は末端区間の前橋→小山は快速になったが、指定券は上野→小山で発券できた。
時刻表上では快速区間は全車両自由席で、実際もそのように運用されていた。
しかし、逆の場合は指定券は急行列車となる前橋→上野でしか発券出来なかった。
このような扱いが全国でも一般的だったが、全てがそうだともいう訳でなかったので、
どういう基準なのかは定かではないが。
なお、始発の快速や普通区間から指定席が生きている場合には、時刻表上にもマークが表記されていたし、
扱いもそうなっていた。 囲みが付いた指定席を連結した列車だけれど、
165系を使用した列車で、普通車自由席、指定席、※グリーン車指定席を連結した、
夏季の臨時快速くじらなみ号の指定券は乗車日前日までの販売で、
乗車日当日の駅での販売はしなかったね。
※当時、普通列車や快速列車のグリーン車指定席に乗車する場合は、
普通列車用グリーン券の他に指定席券が必要だった。
つまり、グリーン車指定席を利用する場合、
乗車距離によっては、急行や特急のグリーン券より高額だった。 国鉄時代に、両毛線から直通して
小山から上野行き急行になる普通電車に乗ったが、
時刻表にはグリーン車に関する記載が無かったので
グリーン車に座ったら、車掌に追い出された。 天王寺から新宮までの寝台車ありましたね。
別名を釣り列車だそうで、寝台に乗る乗客の全てと言って良いのが釣り客。
寝台車の中で仕掛けをチェックするのが常識だったとか聞きますがどうなんでしょ? 仕掛けをチェックする・・・中段の仕切り壁の上げ下げ うちの親父も常連でしたが、仕掛けの準備は家を出る前にやっておき、車内では
早朝からの釣りに備えて寝ていたと聞きました。
片道は普通列車で、帰りは「くろしお」や「きのくに」というのが、いつものパターン
でした。 >>210
多かったというかそれが基本。指定券の着駅が旅客の下車駅でないと混乱するからな
今でも下りきたぐにがそうだろ。当然亀田や新潟まで買える 「きたぐに」は寝台・グリーン車は新潟までが「指定」だから買えるのは当然。
座席解放はもともと自由席の部分だからこの主旨とは違う。 >>219
時刻表を見てから言いましょうね。スレの趣旨がどうとかじゃなくて俺は>>210のレス内容に対して返してるの。
新津→新潟だけの寝台券やG券は買えませんので。 よくよく読み返したら「普通車指定席」の話だったな。
その点のみたしかに趣旨に反してるから謝る。 無指定の寝台なんか寡聞にして聞いたことがない
現在にでも過去にでも本当に実在したなら、ぜひ詳しいお話を伺わせていただきたい もしかして、夜行普通列車の通称C寝台を
勘違いしてるんじゃね? >>187
>普通列車の寝台が指定席になったのは国鉄末期の数年だけだったしね。
どうしても意味がわからん。
「自由席寝台券」 みたいな切符があって、寝台券を購入して乗車しても
満席だと利用できなかったのか?
また、途中で「ここで下車するんですか?」 なんて聞いて
若い女性が「ええ、この駅で降りますわ」 なんて答えたら
まだ体の温もりが残る寝具や毛布を、そのまま利用出来たんですかねぇ。 >>227
多分、昭和51年3月に普通列車の寝台をマルスに組み込む為に愛称を付けたのを間違って解釈してるんだろうな
それでも「国鉄末期の数年だけ」はおかしいけど
しかし、寝台の割り当てをどうしていたかっていうのは歴史的によく分からんね
特急の場合は最初から全車指定だったけど
急行以下で座席指定って戦後になってからだよね?
寝台も最初は座席指定と言うか寝台を指定して発行してないんじゃないか?
定員分販売して車内で寝台を割り当てだったと推測してるんだけど
どうなんだろう? マルス以前の、昭和30年頃の指定席管理は、対象列車の始発駅の
管理局で簿冊による閲覧書き込みじゃなかったかな?
東北本線の上野→釧路の指定券だと、「東京鉄道管理局」と「青函(船)鉄道管理局」
この上りだと「釧路鉄道管理局」と「盛岡鉄道管理局」
だから愛称の無い、同じ列車番号でも管理局が違うから発券できてたんだと思うな。 >>228
深夜の普通寝台列車
温もりのある寝床
訳ありそうな女が峠の駅で暗いホームへ一人列車を降りる
改札の向こうは未明の夜道
吹雪が舞っている・・・
寝台列車では先程まで女の寝ていた寝台の取り合いで色餓鬼共が争奪戦w >>230
そして彼女に>>1ことシマウイビール小僧上永谷ボボの魔の手が… >>222
高木ブーの持ちネタだな。
そういやドリフのコントで寝台列車の車内のセットを見ると、
プルマン式の2段寝台が多かったな。
コントのやりやすさから言って開放A寝台車がちょうどよかったんだろう。 昼ネは別として 一晩で同一の寝台を区間の違う別の客に売ることあったの? >>228
マルス導入以前の指定席の発売の様子、プロジェクトXで見たことない?
「100万座席への苦闘 みどりの窓口・世界初鉄道システム」としてDVD化されてる >>206
実はあのときの旅鉄の記事をみて平〜水戸間の指定席券が買えるかと思って
平駅で「前売り」を頼んだら,最初は助役らしき人呼んでその人がどこかに電話して
あれやこれやででてきた券はオレンジ地の補充券で1号車1番A席。
あとで聞いた話によると始発駅ではなく車掌区管理だったみたい。
でも本当に水戸からマルス券買って利用する人がいたらかえって混乱しただろう。 鈍行夜行の山陰とか長崎にのったことある人いる?
ほぼ各駅停車だから、しょっちゅう加減速して寝にくいように思うけど、
実際のとこはどうだったんだろ。 ながさきは二度ほど乗ったかな。確かに寝にくかったよ。
まあ寝台車なんて眠るもんじゃない、座るよりマシくらいに思ってた方がいい。
といいつついびきをかいて熟睡している人がうらやましいけどな。 >>240
サンクスコ。
時刻表で鈍行寝台を見つけて、「大きくなったら乗りに行ってみるんだ」、
なんて思っていたら、一人旅が出来る頃には廃止www
ちまちま停まられると、やっぱ寝づらいもんだったのね。
昔は寝台でも熟睡できたけど、最近はどうにも寝付けなくてね。
年だな。
>>242
交通公社時刻表1980年1月号
門司港2242発421レ「ながさき」
通過駅は新中原、水巻、東福間、箱崎、白木原、水城、田代、肥前麓、伊賀屋、東園、本川内のみ。
ほとんど全ての駅に容赦なく停車してるw
しかしこの頃は長崎本線の普通列車にグリーン車が付いてたんだなあ( ゚д゚)ポカーン >>243
急行の間合い運用だな。>長崎本線の普通列車にグリーン車
そのころは全国的にけっこう多かったよね。
G車扱いせず普通車扱いで開放だったところも多いけど。 > ほとんど全ての駅に容赦なく停車してるw
終発乗り遅れの救済じゃなかろうか。新幹線もよく遅れたし。
夜行急行でも臨時停車・急行券不要になるケースがあった。 山陰には乗りましたが、結構熟睡した記憶があります。廃止前年でしたが、夏休みでもあって
満員でした。
寝台灯として使われていた、小さな白熱灯のやわらかな明かりが、今は懐かしいです。 山陰の826レ寝台車に乗った際、大駅以外車内放送がなかった気がする。
38年前なので記憶があいまいだ。 夜行列車の寝台車は深夜は原則として車内放送は休止していた。
もっとも、山陰の鈍行列車は、大きな駅以外は車内放送を省いていたことが多かった。 からまつにはよく乗った。
帯広から広尾線に乗り換えるのに時間が良かった。 山陰に何回か乗ったけど
寝台なんかに乗れる身分じゃなかった。 昔の鈍行寝台には賄いが付いていて
朝になるとおにぎりと味噌汁を配ってくれたな
鈍行寝台の醍醐味だった >>252
何しろまだ鈍行寝台が指定制になる前の話だから
この賄い(急行ではボーイと言われた)のじいさんと懇意になっていると
多客期でもどうしてか寝台が取れたもんだよ
じいさんは鰤が好物だったので、氷見の寒鰤を自宅で押し寿司にして差し入れたものさ
もうだいぶん昔の話だけんどな・・・ >>253
はいはい
いい加減嘘八百並べるのは止めにしようね
迷惑だからさ >>243
長崎編成も早岐から大村線・長与経由だった。なかなか寝つけなかったが、目覚めると大村湾にそってのんびり走ってた。
本川内に停まるためにはスイッチバックが必要ということも車窓から確かめた。 >>249
あれは広尾線組と士幌線組に分かれたんだよな。 鈍行列車に連結される様になった頃の10系寝台車の枕元灯は100円コインで3時間点灯だったな
スイッチを消しただけだと消灯していても3時間で点灯しなくなるから、旅慣れた人は電球を外していたね
これだとタイマーが作動しないから、まるまる3時間寝台灯が利用できたな >>258
またおまえかよ
しかしよくもまあそこまでくだらないこと考えつくな >>258
そうそう、まだ鈍行列車の寝台が指定制じゃなかった頃は
金を入れる前に電球の玉をひねって点くかどうか試したな。
運が良ければ、前の客のおこぼれに与ったしな。
客の中には、残った時間が悔しくて電球のカサの部分を苦労して
玉を外して持ち帰ったそうだ。
しかし、その電球は48Vなので家庭でも自動車でも使用できなくて
がっかりだったとかね。 260です、すみません つい合いの手を入れてしまいました。
しかし、寝台の枕元灯が電球式の頃は
夏休みなんかで上や隣が子供だと、スナップスイッチの
パチンパチンと言う音がうるさかったですね。
面白いんだろうが、何回も何回もパチンパチンパチンパチン… >>262-263
おいおい
もういい加減にしてくれよ >>264
まあまあ、sageておくので許してくださいませ・・・
>>263
パチンパチンワロタ >>265
いい加減な嘘書く奴を許すとか無いだろ?
sageておくので許してってのも意味分からん
書きこまなきゃいいだけだ >>266
キチガイと会話しても無駄って気付けよ・・・
【テニス/全豪オープン】錦織圭、フルセットの末に再び第6シードのツォンガを破り自身初の四大大会ベスト8!テニス男性日本史上初の全豪4勝★6
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1327323725/
そういえば、ハネ以前にはマロネロ38繋いでた夜行普通列車もあったんだっけ?
マロネロ自体が地方路線の準急行・普通列車での木造寝台車置き換え用だったという
ツーリスト寝台の旧C寝台車の場合、夏以外は寝心地はいいだろうが、昼間は座席に移らないと退屈しそうだな 停車駅は乗降のニーズだけやなくて朝刊の降ろしの
関係もあったのでは
逆に、夜行特急で寝台セットしない全座席のゆうづるや
明星ってのもあったわな
木の芽時だね。
冬の間おとなしくしてた(病気が安定してた)
基地外が騒ぎだした。(病気が増悪してきた)
精神病院は患者にネット繋げないでくれ。 >>270
深夜2時ころ敦賀駅前に新聞輸送のトラックが到着し、複数の地元販売店が
小分けした新聞を引き取っていた。
わざわざ駅前でそんな事をするのは客レきたぐにの頃の名残だろうか?
ながさき・・・
懐かしい肥前山口に住んでいましたので
佐賀市の友人宅で遅くまで遊んでいた時の帰宅便でした
寝台には乗った事が有りませんが
B寝台の明かりが羨ましかった〜
まあ、佐賀→肥前山口では寝台利用は意味が有りませんが・・・ 良いなぁ、そういう利用の仕方。
今は終電逃すと、大枚払ってタクシー乗るか、
安くするならマンキツとかだもんなぁ。 亀レスですが
>>98サン
当時大村市に親戚がいるが絶賛義務教育中の佐世保市民のあっしには憧れのままでした
線路沿いではなかったので見かけたことも無く…
>>278
あぼーん済
首都圏だとあとは上野口だけ? そういや夜行「日南」も急行になったのはかなり遅かったような。
>>279
スレの趣旨から離れるけど、近鉄名古屋線でもやってる 寝台鈍行のリバイバル運転は難しいんじゃないか?
14系のB寝台車を使えば可能だが普通運賃+6300円は鉄ヲタでも躊躇するレベル 鈍行の寝台車って、18きっぷ+寝台券で乗れたのかな。18きっぷが発売開始したときは、まだ山陰やながさきは走ってた。 >>285
はやたまもねむろもあったが青春18きっぷでは無理だ 寝台車でなければ18きっぷで乗れたんだね。10系客車乗ってみたかったな。現存数が旧客より少ない。 前から気になっていたが10系って旧客に含まれないの? 山陰に寝台車が付いてたのは新幹線接続の使命もあったからと思う。
特に上りは京都で朝一番の東京行きひかりに接続してたからな。 >>289
ワイド周遊券で「狩勝」に乗った…とあるが、いつの話だろう。
「からまつ」の走っていた時代は、昼行ならともかく、夜行の「狩勝」には自由席が連結されていなかった。
A寝台、B寝台、グリーン指定、普通指定の全車両指定席の列車だった。
だからワイド周遊券で乗るには、最低でも急行券+普通指定席券が必要になるからワイド周遊券の旨みがなく、
どうしてもという時以外は「からまつ」を使ったもんだ。
余談だが、「からまつ」が発着する釧路で接続する釧路−根室の列車(441、444列車)は、
この夜行の「狩勝」の普通指定席車両が充当され、
本州から継走されたコンテナ貨車も連結した「混合列車」としても知られた列車だった。 いい席を確保しようと早い時間から札幌で並んでる客がいましたね
小樽からくるのに >>294
想像上の懐かしの北海道旅行なんだよきっと
からまつの列車名知らなかったわけだし
からまつ廃止で代替のために夜行狩勝に自由席ついたんだよね >>293
北海道にスハネ16が保存されていますね。かなり状態良い筈。 青春18ができたころからまつってまだあったっけ…
日本国有鉄道旅客局が増収策の一環として企画し、1982年3月1日に「青春18のびのびきっぷ」として発売を開始。1983年春季発売分から現名称に改称した。
昭和57年春から設定だから、からまつはもう無かったはず
>>299
その話の発端は>>285だけど
>まだ山陰やながさきは走ってた
で、からまつは含まれてない 寝台鈍行には、18きっぷ+寝台券では乗れなかったんですね。グリーン指定券では使えないのと同じ考え方なのかな。 >>301
昔は特別車両は一切不可だったからな
普通車だけ グリーン車乗れるようになったのは結構最近なんだよね。 青春18で指定券が併用できるようになったのと、普通列車のグリーン自由に乗れるようになったのはいつだったっけ >>304
指定券併用可は最初から
グリーンは2004年の冬期から
だったと思う 共産党北海道比例区の はたやま和也
が
はやたま に見えて困る >>308
そりゃまあ、重なって使えば幅は一人分だもんな。 なぜか白糠線の国鉄バスを往復したあと白糠から小樽まで「からまつ」に乗った
スハネ16だったんだろうか
薄暗くなった鄙びたホームにDD51が寝台車付きで威風堂々と入ってくる
ああ、これで1週間ぶりに横になって都会までいけるのか
う〜ん贅沢すぎる、極楽だ
上段に登って巨大クーラーに圧倒されつつも冷房の効きと上段特有の揺れが
心地よく小樽までスコッと寝てしまった もったいない >>311
からまつの寝台も何度か利用したけど
座席車両も含めて冷房つきの車両には当たった事なかったです。 10系寝台って、最後は夜行鈍行にしか使われてなかったのかな?JRには引き継がれなかったよね。 >>311
上段、嫌いじゃなかったな
隔離されてるようで荷物も置けたし
昔のことだなあ >>317
9月の「ながさき」だったけれど気にならなかったなあ
おととしの11月、「きたぐに」下段はやや暑かった記憶あり はやたま無き後に12系の夜行に乗ったけど、運転士がものすごいヘタクソで、
発車の度に物凄い振動があり眠れなかった。
もうそれが途中から、発車の度にまた振動が来る、と恐怖に変わって行った。 >>318
ナハネ10登場時は、イネ・ロネは戦前の車両が残っていたけどハネは戦時中に全廃されており、
庶民向けの寝台車がなかったという事情があった。
そのため、横になれると言うだけで当時は十分高級だった。
だから完全新造のナハネ10、11だけでは足りずに旧客の足回りを流用した
オハネ17も作られた。(数は後者の方が多くなったんだが) >>313,314
急行の10系寝台車の運用が終了したのは昭和58年6月。(最後は「まりも」)
「きそ」は前年11月に14系化されている。
10系寝台車の運用が終了したのは昭和60年3月のダイヤ改正の「山陰」の廃止をもって。
JRに引き継がれた10系客車は事業用車代わりのナハフ11が2両だけ。(尾久配置だった) >>324
ああ、天井からシャワーが降ってくるやつなww 自由席寝台車には、さすがに温水暖房は無かったな
あの温水式暖房のお湯(水)は再循環されてたのかね? 「きそ」は57年11月改正で、寝台無しの12系座席車オンリーに変わったんじゃなかったかな?
寝台使用で、という話なら>>314さんの、最後まで10系寝台使用で、合ってると思います。 10系寝台車、乗ってみたかったな。横川にあるのか最後の生き残りかと思ったら、新潟の守門村という所にもあるようですね。 >>330
ttp://seichiro0.blog.ocn.ne.jp/photos/uncategorized/2012/07/14/tou1q3.jpg >>329
事実関係はあってても
>>313へのレスとしてはズレてるんだけどな 高校生のころ「山陰」に乗りに行ったが
昼間に乗りまくった旧型客車のほうが印象強い >>339
荷棚はD寝台、背骨が痛くなるから「ホネ」と何かにかいてあったな…落ちるなよ… A寝台=ロネ、B=ハネから推測すると
C=ニネ、D=ホネ じゃね? 大阪〜青森の長距離鈍行は2夜行する奴あったな
現代の水準だと拷問に近いが 10系客車は最初冷房が無かったので夏は暑苦しかったのでは?
鋼板が薄く断熱もいい加減だったような気がする 山陰なんて乗ってみたかった。あの時代に5000円は捻出出来なかった。当時小6 昭和50年代だと3500円くらいじゃなかった? B寝台って。
どっちにしろ、そんな料金払わなくても「はやたま」とか田辺過ぎた頃には
ボックス2人分くらいは占領でけた。 「な」で始まる夜行列車が早岐・長与経由で時間稼ぎ。 「な」は荷物や郵便輸送の役割もあったからっつぅのもあるんでないの? 関係ないがよく長与経由の線路は無くさなかったな。不思議。 >>357
まあ、長与までは沿線に団地もあって旅客需要が結構あるから。
あと、新線区間の途中駅は肥前古賀駅を除いて実質信号所で、
開業当時はほとんど乗降客がなかったと言うのもある。
(当初は普通列車の設定も少なかったし) >>350
普通列車は寝台下段が自由席だったよな。
懐かしい。 「はやたま」の前身「南紀」に乗った
しかし、鈍行からいきなり特急とはすげ〜出世だw 昔の特急は列車名もそれなりに格式、重みのあるものをあてていたけど、
鈍行の列車名をいきなり特急に使うことにためらいはなかったのかな。
まぁ特急の重みが本格的に薄れてきた時期ではあるんだけど。 田舎の準急や急行がいきなり新幹線の名前になっちゃった例があるんだから、特には。 >>362
ひかり:豊肥線の準急
あさひ:急行「べにばな」の前身 >むかし鈍行の寝台車があってな
鈍行の食堂車連結もあってな
京都から乗って大阪で降りるのに食堂車に入って
食うから早く、という客に振り回されたと食道車乗務の人が書いていた 急行の食堂車はきたぐにとかにあったが
1972昭和47年北陸トンネル火災で全滅に >>366
>>368で書かれてるけど、それ、多分新幹線。で、メニューはカキフライ。 京都から大阪というと、北陸方面の乗継ぎ割引目的かな。 鈍行寝台の上段って各駅ごとの車内放送がやかましそう。 普通列車の寝台車は必要最小限しかしていなかった。
一般車両と寝台車両の放送は別個にやっていたような気がするが、単に寝台車両の放送を切っていたのかもしれない。
例えば、下り「からまつ」だと札幌発車後は釧路到着前までは一切なかった。
まあ当たり前と言えばそうなんだけどな。 >>373
下り「からまつ」は帯広や池田の降車客が多かったから、到着アナウンスを
していたと思うのだが、どうだったのだろうか。
(急行狩勝だと帯広・池田の到着があまりにも早すぎるため、士幌・広尾・地北線
乗り換え客も含め、十勝エリアの人たちは主に「からまつ」を利用していた)
あと、深夜帯のアナウンスを中止するのは今も昔も変わらず。
(ムーンライトだって深夜帯はアナウンスなし) からまつ という名称、なんだか寒そうなイメージがw 「からまつ」は寝台車が2両ついていたが、うち1両は小樽−池田の区間で客扱いをしていて、
池田−釧路は締切回送になっていた。
自分はいつも釧路まで乗り通したけど、帯広や池田の到着アナウンスは一度も聞いていない。
ただ、途中駅で下車する乗客には、車掌が声をかけていた。
いつぞや、目が覚めたら乗客は自分だけ!釧路の手前までシーンとした寝台車で過ごしていた。
釧路到着前になって、車掌が初めてやってきたのを覚えている。
「はやたま」「山陰」「ながさき」などの普通列車の寝台車にも乗ったが、やはり主要駅を出ると、深夜の車内放送はなかった。 はやたま+臨時きのくに臨時はやたまか
はやたま天王寺和歌山間ノンストップで旧型客車きのくに架線下DC臨時はやたま
12系快速113系このカオスがたまらない 鈍行寝台って採算合うのか?
14系使えば「はやたま」「山陰」のリバイバルは可能だが現在の料金水準だと普通運賃+B寝台料金6300円になるが追加で寝台料金払うのに抵抗がある人多いのでは? 確かに鈍行の寝台車は三段寝台の料金と周遊券のセットで初めて成立だと思う。
ただ日本海縦貫線の夜行寝台列車が今やトワイライトエクスプレスしかなくかつ日本海もきたぐにもなくトワイライトも廃止報道やテレビ放送で今やB寝台さえ入手が困難になってしまってる現状では青森行きの鈍行の寝台車はありかと思う
況んや3月あけぼの廃止以降おいてをや >>380
特急のB寝台料金6300円なら抵抗ないのか? >>380
リバイバルは可能じゃないだろ、
夜じゃあそれらの路線の駅では係員が寝ちゃってるだろ >>384
そこで、夜行ちどりの隔駅ちどり停車ですよ。 りんごうクブラ無配バンクレテナア宅備読流ラーメン
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横浜駐車近代らーめん 三段寝台だと物凄い圧迫感があって
よく眠れんかったなあ 「ながさき」に愛称名が付く前に乗った爺さんが来ましたよ。
列車が混んでいる時は自由席だから52センチの寝台に何人も乗ってくるかと心配でした。
流石に他人は乗ってこなかったけどどうやって切符買ったか覚えていません。
マルスに入っていなかったとすれば当日、硬券で買ったのでしょうか?
お盆の時でしたが当日買えたのはラッキーだったのかどうかもわかりません。
若かったので満員だったら座席車と考えていたんだと思います。
ちなみに20系は勿論、10系寝台も乗り心地がいいという記憶があるのですが、
この列車に限り深夜にめちゃくちゃ揺れて寝れなかったことを覚えています。 >>389
贅沢言っちゃいかん
毎朝超満員の通勤電車で押し潰されそうになりながら
立ったままで寝ることも慣れればできるw >>224
自分が乗った自由席寝台車。
1986年の急行宗谷(昼行)。
たしか夜行利尻の車両使いまわしてて、ネのそのまま連結して自由席開放。
夏休みシーズンこれがものすごい人気で、音威子府→名寄だけJDに貸してあげたよ。 からまつ:これだけ乗車経験なし
南紀/はやたま:天王寺・和歌山市⇔新宮/亀山/名古屋
山陰
ながさき(門司港⇔長崎/佐世保)
函館⇔札幌
上野⇒長岡
新宿⇔長野
東京⇔大垣
高松⇔窪川・中村
からまつだけ残念ながら乗れませんでした
もう少し早く北海道に行っていれば・・・、あとの祭りです
ただし前部座席車だけ、寝台の経験はゼロ、これも乗っておけばよかった・・・ 列車番号の末尾にMが電車でDがディーゼル
何もつかないのが機関車?
片仮名のレがつくのはどんな電車ですか? >>398 片仮名のレがつくのはどんな電車ですか?
大きな釣り針に誰も反応しないけど、機関車+客車+気動車併結、機関車+気動車併結、気動車+客車併結の
事例は思いついたけど、調べたら昔の豊肥本線で未電化区間の特急有明が機関車+電源車+電車で運用されていたらしいが、
列車番号にレが付いていたかは不明です。
あとは北斗星、トワイライトの食堂車が元電車というのは例外ですよね。 >>389
おお、ご同輩。
いくら鉄分旺盛でもこの圧迫感は無理でしょう
あと振動と騒音も。 時刻表2万キロによるとこまめに停まるので寝台でもあまり眠れなかったとか >>402
中古のオンボロで三段寝台で、おまけに途中何度か止まるから衝撃で
寝れたもんじゃなかった、とはムーンライト八重垣に乗ったことがあるイトコの談 >>404
ムーンライト八重垣ですら眠れなかったとはなあ >>406
シャワールームなんて贅沢な物は、有りまっしぇん。 他に幾つも交通手段が有る中、鈍行寝台を選んでる時点で「寝台で眠る」ことが目的になってるのだから
振動がどうとかいうのは反則だな
それも織り込み済で楽しむべきじゃないのかな >>413
そもそも10系寝台車には更衣室なんてものはない ここでは関係ないけどオロネ10にはあったから
>そもそも10系寝台車には更衣室なんてものはない
というのも正しくはない 山陰はよく乗ったな
B寝台に乗るのが夢で高校生のとき初めて乗った
10系だからナハネ10だったか?
それまでは座席車しか乗ったことがなく寝台車の冷房には感動したw https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足ウソ製作費定義)
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算me-ka-
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田ピク底ファンド
頭皮成分不透明ベンチスタートドナルドストラテジエイト(40代弥勒ソフト >>416
ナハネ10は緩急車化改造でナハネフ10に
冷房化改造でオハネフ12になってる >>378
おー、懐かしい
いいなあ、この流れ星マーク 昭和30年代後半、北海道に421、422列車に寝台車が連結されていたようだ。
我が家に寝台券がある。
昭和40年の424列車寝台券ってのもある。 >>423
421レ 昭和38年7月 札幌から 22:14発 8月にも同じ時間で札幌発
422レ 昭和38年7月 帯広から 22:40発 12月にも同じ時間で帯広発
422レ 昭和39年2月 釧路から 19:07発
421レ 昭和40年1月 札幌から帯広 22:14発 3月にも同じ時間で札幌釧路間
424レ 昭和42年11月 帯広札幌間 22:30発
他員も何枚かあるが省略
他にも寝台券が沢山あるが列番表示の券は上のだけだな。
原券は持ってないが切符の本に紀勢線の921列車寝台券というのがある。
昭和46年3月 新宮発 22:40 門司港発で日豊本線回り鹿児島行・鹿児島本線回り鹿児島行・長崎/佐世保行
の順番で名無し寝台つき鈍行が出ていた。
'70夏に都城までハネ上段に乗ったが宮崎で寝台解体後、しばらく御当地高校生の通学列車化していた。
あれが→普レみやざき→急日南、カゴ線回りが急開聞になったのだろうか?…
前泊の安芸ハネ上段に続きマルス軟券で吉祥寺のみどりの窓口で買えたぞ 小学校のころクラスに北海道から転校してきた子が「からまつ」くんという名で、
当時鉄ちゃんの道に差し掛かっていた自分は狂喜乱舞して彼を迎えたw からまつ の寝台に他のお客さんが乗ってるとこ、見たこと無い 門司から824レで福知山まで完乗して、折り返しで「山陰」のBハネで福知山->出雲市まで乗ったけど、
早朝からの長距離鈍行で疲れ果てていたので、寝台に入ったら終点まで爆睡で記憶がないんだよなぁ。 その昔ムーンライト八重垣に乗った時、寝台料金ケチって乗らなかったのが今でも悔やまれる。 ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーンロンロンローーン
https://www.youtube.com/watch?v=uWLnfkOLmfk京都京野菜ぼったくり取引価格
ダイエットニュース (アリババダイエット40代偽装結婚プロ級世代(ヤフージャパンタイ資金洗浄(40代ブラックバラエティ道路公団談合)
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ヤフージャポンマイノリティ社員「日本とロシアは仲良くさせてはいけないーhondasouichirouー」(在日中国人3月決算)
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティーマスク女問題駅内マスクオンNACNN向け原文ダビンチ月刊(ニッカン)中國春文渋谷区木の葉崩しニュース7億5千万 はやたまは廃止直前に一回乗った
名無しの始発から乗って新宮につく頃には眠すぎて座席のままでいいかなと思ったぐらい
寝台に移ったはいいがトイレ行きたいと同時に眠すぎて30分ぐらい寝てからトイレ行こうと思って 14系新型寝台と旧型寝台は同じ料金体系で、19時間乗れる「さくら」と6時間半しか乗れない「はやたま」は寝台料金が同額だった >>440
30分寝て起きたつもりが終点だった。旅情を雰囲気も感じられずに終わった。よくある話。 からまつの名無しの頃、昭和51年に札幌から釧路まで乗った。安眠できた。 小樽始発の夜行列車に1時間以上前から並ぼうとしてた大学生らしき女性グループに、桑園?まで行ったほうが席をとりやすいよとアドバイスした
礼を言われたが、きちんとそのような行動できるか不安になった、逆に乗り遅れなかっただろうか
アドバイスしたことを後悔した >>446
なかなかそこまでできる人はいないよ
素晴らしいことだ 鈍行夜行でハネ2両というのがあるが
それほど需要があったのだろうか? 南紀は釣り人による多客かもしれないが
からまつは途中で締め切ったはず。 停車駅は南小樽、銭函、手稲、札幌、白石〜とか言うオチだと怖かったり
10系寝台は横川でしか知らんが真ん中盛り上がり気味の52センチだと肩幅広い俺は多分落ちる 寝台 ながさき 懐かしい。上り列車は、博多界隈では夜行列車というより
通勤列車、普通車は満員でした。 36年前の夏休み中、山陰線の鈍行列車に安来駅から朝乗った。
寝台車が付いていたので、京都から来たヤツだとわかった。
松江駅での停車時間が30分以上あって、東京育ちの俺は呆れて唖然としていたが、現地の子は当然といった顔で待っていた。
出雲大社へ参拝へ行って、帰りの出雲市で乗りかえたのも旧型客車だったが、どこから来て、どこまで行ったヤツかは覚えてない。
伯備線電化直後で、知井宮まで新型電車が走っていたそれに乗れなくて、当時は損した気がしたが、今となってはボロ客車に乗ったのは良い思い出。
あっ、寝台車には乗ってないからスレ違いだった。
一応、寝台車内を覗いたら冷房が効いていて、寝間着姿の客と目が合った。
おしまい 宮脇先生は快速「からまつ」を宿代わりにして、最長片道切符の旅を開始した。 昭和55年10月ダイヤ改正までは札幌と釧路を結ぶ急行狩勝には自由席の連結は
なかった(10両編成中、2両のみの普通座席指定車の内、1両が自由席化)ので
ワイド周遊券利用で夜行列車を宿の代わりをする旅人は自由席が5両も連結してた
鈍行夜行からまつ(小樽2116→9:17釧路・釧路1900→642小樽)ばかり利用した。
ワイド周遊券でのローカル夜行列車はチープな自由席が殆どだけど昭和53年の夏に
北海道旅行で列車名が記された硬券寝台券が欲しいのと乗りたい気持ちが多くて
バイトで貯めた金から当時3000円したB寝台を購入して買ったけど普段なら下り
からまつに乗れば帯広下車で広尾線や士幌線へ、池田で池北線へ、白糠駅で白糠線
へ、乗り継ぐのにこの日は終点釧路まで乗って標津線に廻った。
ながさき と 南紀〜はやたま のB寝台は乗る機会が無かったけど山陰は末期だけど
乗る事が出来た。3段寝台の52pベッドだったけど当時を振り返ると懐かしい。 すぐにオ級になったってことは結構すごいことだと思う。 20年後に準備工事のまま消えた103系もあったことを考えれば。 山陰は便利だったな
大阪も乗ろう思えば乗れたし福知山から 寝台は多く利用したが
一番寝られたのが
ながさきのオハネだったよ 昔の長距離鈍行列車には「和食堂車」があってな・・・
と書こうと思ったら、
時代を百年間違えていた。 1964(昭和39)年10月改正で急行「しまね(→65年おき→68年だいせん)」に格上げされるまで、
ロネを連結していた大阪〜大社間の鈍行717・718列車。
格上げされる直前は、どんな編成だったかが気になる。 ムーンライト八重垣にも寝台連結されてたな。
指定は18きっぷ持ちでいっぱいだったけど寝台は空いてたなぁ。 一晩寝てても移動距離は大したことない…気が遠くなる苦行ね 空調もなく隣の客と肩が触れ合う窮屈で硬い座席に較べたら
寝そべって居られる寝台車は天国だろう。 お金がなくて貧乏学生だったので、
ながさき、山陰、はやたまは、何回もお世話になったが、寝台車は一度も乗れず、でした 根室線「からまつ」と山陰線「山陰」の Bネに乗ったけど、長旅の疲れで結構爆睡できたよ。
上段・中段には「敷シーツ」が無かったため、なんとなく不潔感満載だった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています