東武・西武・南海に電機牽引の客レの時代があったら
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
汽車発祥の大手私鉄では、電化とともに旅客列車は電車化され、
貨物列車は蒸機の時代が続いたあと、電化よりかなり遅れて電機が導入された。
しかしもし、電化と同時に電機が導入され、電機が客車や貨車を牽いて走っていたらどうなっただろうか。 東武がそうだとしても、空間が限られた浅草に乗り入れたかったので
結局、電車がメインになってた。 西武がやってたら糞尿運搬貨車との混合列車になって客はパニックだったろう ヨーロッパで見られるような最後尾に制御客車を連結しての推進運転が実用化されてたかも。 >>5
孝子の峠を登りきれない
登れても止まれない>< >>4
まあ実際蒸機牽引の混合列車はあったけどね>西武
脱線事故おこしてあわや「大惨事」になりかけたはず。 >>9
E851形が牽いた12系のイベント列車ですっけ? 国鉄〜JRと軽便を除いて日常的に電気機関車が客車を牽いていた
ところなんて片手で数えられるくらいでは? >>7
ED5201とかが貨車数両とサハ4801けん引する姿は乙かも >>7
南海の客車って1両しかなかったみたいだけど、故障や検査の時は運休してたの? >>14
国鉄からオハフ33かナハフ10を借りて充当 >>7
国鉄乗り入れの黒潮号だったかな?国鉄のスハ43に準じたサハ。
それ以前に戦後の電力の供給不安定な時期に南海の電車を無動力扱いとして国鉄借入れの蒸機で運行したことが有ったと思う。 東武が客車を温存したなら
亀戸の機回し線を延ばしてそこから伊勢崎線が発車、
日光線は浅草から、とかね。 暖房は電気式にでもだったろうか。
だいたい電車に暖房設置が当たり前になったのはいつ頃だろう。 >>16
南海は元々、狭軌電鉄には珍しく2001形みたいなバカデカいのが走っていたから
国鉄蒸機でもC58やC11や8620あたりなら入線可能だった。
戦時中に小田急で国鉄からC58と木造客車を借りて試運転をしたことがあったが
特に小径間の鉄橋で強度に問題があり結局営業運転には至らなかった。 そういえば関東の某大手私鉄のプレートガーダー橋に
耐荷重 KS-12とか書いてありました。
4軸車なら48d超えでアウトなんですかね? 東武は機関車列車ばかりだったら、浅草乗り入れを諦めていた可能性がある。
この場合、亀戸線が茅場町あたりまで延伸されていたか、あるいは西板線ができて、池袋に伊勢崎線が乗り入れていた可能性がある。 私鉄のターミナル駅の中には鉄道省から
土地を借りているところも多かったため、
拡張がしづらかったからか電車にシフトした
と仮説を投げてみたりして。
昭和に入る前後にできた目蒲、東横、小田原急行などの勾配をみると
いかにも電車運転が前提ならでは、という感じがします。 西武が客レなら戦後すぐあたりに戦災復旧の客車(特に電車崩れ)を大量購入して走らせたと思う。 西武池袋は1970年代まで貨物扱いがあったくらいだし、
戦前なら拡張も容易だった(戦前の池袋は場末、都電が乗り入れたのも1938年)だろうから、機関車列車の多数発着を前提にした、南海難波並みのターミナルができていた可能性もある
西武新宿線はずっと高田馬場ターミナルか、歌舞伎町を堤パワーで買収しまくって西武新宿を巨大ターミナルにしたかだな。 >>19
手元の資料のなかに南海本線天ヶ茶屋付近で撮られた、難波発和歌山市のハチロクの列車発見。
スキャナーやデジカメないのでうP出来ないが勘弁。 まともな本線用電気機関車より先に、実用的な電車が開発されてしまった
ということなのでしょう。
ちとずれるけど、民鉄の電機といえばパワー1位の西武E851(国鉄機がベース)と
2位の秩父のヤツとでは出力で倍以上も開きがある。 阪和電鉄が開通した頃は、電機牽引の列車を想定していなかったでしょうね。
そして今は、つわものどもが夢の跡…せっかく作った阪和貨物線も… 南海の場合、天王寺線が本線になっていたかも。難波のりいれはしていただろうが、天下茶屋以北は複線のままだったか。
天王寺に南海系の大型商業施設ができていたかな むしろ、関東大震災が無かったら省線の国府津電化時に
東京から電車が走っていたかもしれない。 東武の蒸機のさよなら運転のときは
佐野線でナンと電車を牽引した
…らしい… >>11
>国鉄〜JRと軽便を除いて日常的に電気機関車が客車を牽いていた
>ところなんて片手で数えられるくらいでは?
3'6"以上の軌間を持つ私鉄で国鉄発足以降に電機の客レというと…
・青い森/岩手銀河(Яし機乗り入れ)
・上信(臨時・乗り入れの国鉄客車牽引)
*銚電
・伊豆急(臨時とお召し・国鉄機乗り入れ)
*大井川(電蒸/電内)
*(三井三池専用線)
・(西武(E851引退イベントで借り入れの12系牽引))
秩鉄もできるけれど乗り入れ列車の設定が無い
自社の客車≒定期運用となると、*の2(3)社まで絞られる >>18
>暖房は電気式にでもだったろうか。
>だいたい電車に暖房設置が当たり前になったのはいつ頃だろう。
戦前の段階で、高速鉄道の電車には電熱器を設置していた。
反面、軌道や地下鉄では未だに暖房のない車両が。
ちなみに客車の電気暖房は、東海道線の東京口が戦前からDC1.5KVで。
南海と阪和へ乗り入れる黒潮号の客車も、東海道と同一仕様の電暖設置車。 >>22
>拡張がしづらかったからか電車にシフトしたと仮説を投げてみたりして。
拡張もだけれど免許の違いによる人員のやりくりや養成が問題、
機関士と運転手で操縦免許が違う。
国鉄時代に地方でローカル列車の電車化が進まなかった理由の一つでもある。
>昭和に入る前後にできた東横、目蒲、小田原急行などの勾配をみると
>いかにも電車運転が前提ならでは、という感じがします。
でも、東急や小田急は国鉄になっても貨車乗り入れがあり、電機が貨レで活躍。
都市部での電鉄経営は頻繁運転と短い駅間による集客を前提にしていたので、
線形よりも付け換えや加減速に難がある客レを考えなかったのでしょう。 鉄道の運転免許が国家資格になったのは戦後だと思いますが
甲種とか乙種の電気車操縦者免許って別に機関車とか電車に分かれて
いませんから各鉄道の車内資格なんでしょうね。 すれ違いだけれど昭和20年の東京大空襲で送電系統がやられた中央線、
京浜東北線の電車線にハチロクの引く客車列車が走ったらしい。
見た人は明治かよwって思ったらしい。 京成では終戦後、電動車不足を補う為デキが付随車を牽引した。その為デキには車掌スイッチが設置されていた。 終戦直後なのか、EF53が電車牽いてる写真を見たことがある。
私鉄ではないけど。 >>23-24
その時代西武がもし客レ主体だったら、
かの有名な、伝説の(?)貨物列車に客車繋いで“混合列車”に
してたかも知れませんね。 銚子の澪つくしは電車牽引でしたっけ?
現代なら都営浅草線で作業車改造して電機に牽かせてトロッコとかw 南海には戦後の混乱期、南海型電機牽引の列車があったと聞いてる。
確か「関西の鉄道」南海特集に載ってた。 この20日まで、秩父のパレオはデキ牽引だそうだ。ある意味貴重。 東武は浅草乗り入れを断念して、業平橋に百貨店を造ったかも。
京成のターミナルである押上(上野開業は昭和になってから)も隣接しているし、
東武と京成の頑張り次第ではあの地区が城東の商業中心になっていた可能性もあるな。
そうなれば、地下鉄も史実より早く来ていた(もしかして銀座線が押上まで?)と考えられる。 >>44
それだと浅草線が、東武とドッキングした可能性も。
標準軌化が必要だったのは京成にしても同じわけで。
地下鉄直通を機に上位優等以外は電車化。
一般電車は業平橋地下ホーム発着で、特急、急行、快速、貨物が地上ホーム発着。
ただし長大な東武の路線を全面改軌するのはきわめて困難だっただろうから、
野田線や大師線、東上線系は狭軌のままだったかも(佐野線や小泉線は貨物の関係で改軌しただろうが) 南海を走った国鉄借り入れ客車の例
ttp://hokuso.com/juubako/html-juubako-n013.html
ttp://www.eonet.ne.jp/~m-hayasi/sirahama%20exp.jpg >>29
天王寺MIOは南海も3分の1出資している >>32
あと松尾鉱山鉄道。あそこは電化しても電機はすぐ入れたものの、かなり長い間
電車が入らず、貨客分離もしないで混合列車をはしらせていた。貨物主体の鉄道だ
ったからだね。 国鉄でも直流電化区間で普通列車のEL牽引は少なかった。
東海道・山陽本線はヨンサントオで客車の普通列車は全廃され、
山陰本線が伯耆大山-出雲市電化の時点では客車の普通はあったが、架線の下をDLに牽かれて走っていた。
中央本線もゴーゼロサンで客レの普通は消滅。
EF65が牽く上野〜長岡の旧型客車の普通列車は80年代に入ってもあったと記憶しているが、
これも50系に置き換えられることはなく、上越新幹線開通の改正で姿を消した。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています