【キハ】相模線【砂利】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>83 まずは線路跡を歩いてみればと・・・
>>84 写真に在るのは保線用の機械車両が置いてある
だけの線路かと 今は無いのかな? 東側のは保線用の平トロなどを待避させておく場所だったのでは。
この写真の時代に数回乗り降りしてますが西側の側線跡には
気づきませんでした。東側には駅舎の基礎の遺構はありましたが、、 >>85_86さん、早速のレスありがとうございます。
そうですか、保線用の待避線だったんですね。ナットクです。 入谷駅を国土地理院の変遷地図みると1942年だと
西側に貨物駅みたいなのがありますね
ttp://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=R569&photono=10 連投スミマセン
1942年と書きましたが1949年でした 厚木駅の横にも小田急との連絡線が使われなくなった後もずっと残っていましたね。
小田急下り列車車内からよく見えた。
その後ろに立っていた「小田急 女子学生ハイツ」だったかな、の表記にはキレイな
おねえさんが沢山住んでいるイメージがあって、子ども心になんだか癒されたww
番田のトイレは、今も昔と大して変わらず?
ふと気になった。
改札を出ないと行けない…実質「公衆便所」だな。 相模原麻溝公園のグリーンタワー展望台のギャラリーで、
「県央の相模線物語」を展示中なので見て来ました。
国鉄時代の懐かしい写真がいっぱいありました。
殆どがモノクロ写真でしたが、タラコ色のキハが写っている入谷駅のカット
(何故かこれにはキャプション無し)にはホームの先に待避線が写っていましたよ。 相模線を走った蒸気機関車って、どんな型式やナンバーがあったのでしょうか? 相模鉄道初期の新造機、1形は、トミーのCタンクとほぼ同形。
※開業時には鉄道省5100の払い下げを受けて間に合わせたらしい。 >>84
昭和52年入谷付近の空撮。下は昭和63年
ttp://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/77/ckt-77-1/c3b/ckt-77-1_c3b_2.jpg
ttp://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/88/ckt-88-3/c3/ckt-88-3_c3_16.jpg 相模線西ハチの気動車運用はどうなっていたんでしょうか・・・?
たとえばキハ10とキハ30は共通運用?
トイレは一列車に一箇所入れる前提でキハ35は運用されていて、キハ36とも
別運用だったとか・・・?
電車と違い一両単位で成立する気動車の運用そのものが良くわかっていないので
すが、どなたか当時の実情をご存知の方ご教授お願い致します。 >>99
どれでも繋げられるのに、一々キハ10と30で運用分けたりしない罠。
お隣の八高線だと、増結運用は両運車限定にしたり、2連運用には必ずトイレ付車を最低1両入れてたりしてたけど。
相模線の場合、トイレについてはあまり考慮してなかったような。電化直前に、キハ30の2連とか見た記憶があるし >>100
2連以上の運用のほとんどは、最低1両はキハ35を入れていたみたい。
ただ、1運用だけキハ30の2連(3連)限定運用があったことは覚えている。
また、茅ヶ崎で2段階切り落としをする運用もあり、それは橋本方から
30+30+35(時に30)の2連だったような。 >>102-103
電化直前はキハ30が17両、キハ35が21両の陣営だった。
キハ30:14,25,26,29,30,41,42,46,49,62,67,77,80,97,100,505,506
※62,100は、90年頃に車体更新施行。
キハ35:59,81,97,100,101,103,109,110,127,134,158,
163,165,166,170,210,211,212,519,531,904
※下り(橋本方)向きは、81,100,101,134,158,165,170,210,519,904の10両。
1989年時点では、キハ35は107・520・524も在籍していたみたいだけど、
107は相模線塗装化されずに?1990年時点で廃車、520・524は八高線へコンバート。
少なくとも、自分の記憶では107だけ乗ったことがない。 >>96
真岡のC11325は相模線で砂利貨物牽いてたらしい。
どっかに画像があったよ。 真岡の駅に放置状態で置かれている首都圏色の2両のうちキハ20213も長い期間相模線を走っていた車両ですね。
年代が統一してないな
西ハチの頃と電化直前では車両の配置はかなり違うと思う >>110
何を伝えたいのか意味不明なんですが・・・。 >>111
そいつ(鉄模板荒らしの気違い田豚幼児)
頭の中が意味不明だから。 相模線に首都圏色第一号のキハ1061が来た時は衝撃だった。
ピカピカの艶のあるオレンジで違和感ありまくりで一発で消える試験塗装と思ったが、その後全国普及したのは驚きだった。
でもキハ35系統ではそんなに違和感感じなかったな。 寒川神社初詣臨には
DD13+旧客が使われました。 過当キハ35姪食うアップパーツに、相模線の幕が入ってるね。
相模色も出ないかな? 気動車の相模線色が出た時、非タラコとして話題になった。
タラコの流れを作った相模線から地域色の流れが作られた。 ガキの頃、川崎から母の実家の門沢橋まで行くのに茅ヶ崎からよく乗ったな。
当時(1968年頃)既に東海道線は113系15連で冷房こそなかったが幹線の貫禄十分だったから、相模線との格差があまりに極端で楽しかった。
その頃の記憶ではバス窓のキハもいた。運転室と客室との仕切りもパイプだった。スプリングポイントを初めて見たのも相模線だった。
あれから40年。今じゃ東海道も相模線も大して変わらない車両になった。 天賞堂のキハ17を買った。
一回だけ乗車した西ハチにいた357番にしたいが、資料が全く無い…(泣) まだキハ10があった1978年頃、厚木の駅名標にいたずら書きされて、隣接駅名が「いかりや」「しもやけ」になっていたのが笑えた(現在はJRも海老名駅を開設)
ちょうどキハ17 357が廃車された直後だったか…?
キハ10系の数少ない集結線区として、何回となく通うようになった。
当時、キハ10は大多数がシールドビーム2灯化。最若番12や23、あと50以上は蛍光灯化と扇風機取り付けされていたと記憶している。
それ以外のキハ10は白熱灯照明扇風機なしだったものも多かったし、孤塁を守っていたキハ16 24も同様だった。
ほかに金ナナから転入のキハ20 281も白熱灯扇風機なしだった。
のちにやってきたバス窓でDT19C装備のキハ20 56は蛍光灯化されていて扇風機も付いていた。
JR化後は塗装が変更され、キハ35 904もこの塗装になった。
エンジンパワーアップ換装と更新が同時に行なわれた第1号車キハ30 62もあった。
しかし、電化以降は画一化された205系に興味がわかず、用務での利用にとどまるようになってしまった。 おぉ、俺も「いかりや」「しもやけ」厚木駅で見た記憶がありますよ!! JR化後の相模線カラーって、センスあるようで無かった気がする。 >>3
なつかしい。
昭和の終わり頃の電化工事が始まったまで置いてあった記憶が。
相武台下で変わっていないのは、駅西側に見える日産位かな?
厚木日産と言う会社で、昔からあの場所にある。
厚木の信号所は、電化と同時になくなったんだっけ? >>125
> 厚木の信号所は、電化と同時になくなったんだっけ?
定期営業列車の交換がなくなっただけで、信号所(厚木本屋)は
今でもバリバリ活用中。(海老名止の引き上げ等でも使用) 今日発売のピク(アーカイブスの方)に、昔の相模線の記事が出てるね。
朝も原当麻折り返しがあったことが、ダイヤから分かる。 久留里線と木原線の路線図貼ったまま走ってたのいたなぁ。 >>129
キハ30 46だったっけ?新塗装化後も車内に一部付いていた記憶がある。 >>131
最終日頻繁に寒川折り返しで臨時出してたんだな。 相模線から一度も他に移動せず廃車になったキハ10も何両かいたはず。 キハ30系が転入するまで、車両の仕様やバリエーションがあって観察が楽しかった路線でしょうか? 米タン、懐かしいす。
企業名とか書いてなく5から始まる10桁くらいの数字が
書いてあり不気味だった。 原当麻のボロボロの日産ク5000の葬列も不気味だった。 >>134
キハ30系だけの時代でも、細かいバリエーションは多数だった。
電化直前は、キハ36以外の全形式・番台が在籍していたし。
(国鉄分割前には、キハ36もいたけど)
ヘッドライト3種(交換で後に2種)、前面補強の有無、半自動装置の有無…
20年近く前に毎日乗っていたうる覚えでも、少なくともこれだけのバリエーションがあった。
電化して205系500番台に統一されてから、車両面では味気なくなったけどね。 >>137
そうでした。
相武台下でした。
ご指摘深謝。 昭和53年春
相模線専用
八王子機関区配置
10代形式気動車
【キハ10】
12・13・23・24・25・26・47・48・49・50・60・61・62
【キハ16】
24
※キハ10の12・23と50以降は蛍光灯照明・扇風機取り付け改造車
※その他の10代形式とキハ20 281は白熱灯照明・扇風機なし
この時点では、ほかにキハ20(200番台のみ/のちに一時的に56が使用されたことはある)・30・35・36が配置されていた
キハ26400番台相模線貸し出しの記録はどこかにありませんかね? そんなことあったの?
昔(昭和45年頃)、八王子から茅ヶ崎までの「しらほ」という海水浴臨時があったが、それ用かな? 相武台下駅構内に、貨物用の留置線がいっぱいあったけど、近くに陸軍士官学校があった頃に使われたのかな? 昔倉見駅だったっと思うが、大改正で不要になった南シナのナシ20やオロ11が解体待ち留置されていたな。 たまにキハ20が来たが嬉しかったな。
キハ10は足も狭いし、背ずりもぺらぺらで後ろの人の重さが直に感じられて嫌だったな。 >>144
「しらほ」は子供の頃だが実際に乗ったので、かすかに記憶にあるが、基本的に全車自由席の普通列車で、車両もキハ10・20・30等の普通の組成だったと思う
キハ26400みたいな明確に違う設計かつ塗装(当時は急行塗装だったはず)なら、いかに子供とはいえ強烈に印象があったはずと思う 「農薬散布のため窓をお閉めください」という車内放送。
@北茅ヶ崎・香川間
他でもあったけど区間は忘れた。
っていうかむかしはどこも田んぼだらけだったよね。 非電化時代は10系から30系まで混在してたよな。
今の住宅地域拡張に伴い電化したんだろうけど、電車ものろいし無意味だな。 快適性は今の方が上だと思います
夏、灼熱のキハは暑かった…、特に停車中ね あれは400番台だったのか? 昭和50年だと記憶している 房総流れか? キハ04が走っていたのはいつ頃までですか?
また 相模線電化時に一時、噂になった相鉄線との乗り入れは何故沙汰止みになったのですか? >>152
トイレ前のボックス席で「夏の昼間に」窓を開けたら、
涼しい風どころが熱風が吹き込んできた記憶がwww
キハ35900、正式配置はJR化以降だけど(904)、
昭和50年頃にも貸出で走っていたみたいだね。
「世界の鉄道」誌で写真を見た記憶が。 >>155
トイレ付近の座席で窓を開けていたら、良い天気なのに
窓から雫が入って来た事があったよ。トイレから流した水だったみたい。
上溝のガード辺りでトイレに入り、わざと水を流している馬鹿がいたっけ。 >>156
20年前までは日常的だったよねw
茅ヶ崎や橋本の、キハ35のトイレ位置直下には、妙なものが鎮座ましましていたりw
「停車中は使用しないで下さい」とのプレートも出ていたけどね。
今の205系500番台も、間もなく20年選手なんだなぁ。
自分の感覚では未だに「ピカピカの新車」なんだけどw >>155
ゴメン、キハ35 900@茅ヶ崎が載ってた写真、
86年のピク(キハ35・45系特集号)だった。
1975年・八王子区貸出だそうな。(905号) 500番台は正面デザインが斬新(当時)だったからね。 私鉄では当たり前だけど・・・
今思えば少数派の京浜東北や総武緩行の205も撮っておけば・・・・って関西にまだ居るか 今じゃ想像つかないけど、橋本駅から
国鉄バス工場への引込線が延びていた時代もあったのね
橋本周辺の工場もどんどんつぶれてマンションやショッピングセンターだらけになってる >>160
引込み線は、京王が買収した津久井方面の線路用地と同じ方向に伸びていたの?
そのバス工場の跡地が、橋本郵便局だっけ?
俺は偽厚木で初めて小田急に乗り換えた時、確か小田急の売店があってビックリした記憶が。 >>156
もしかして通行人の頭に降ってくるんですか? >>163-164
ここだけ見て、お札(紙幣)が通行人の頭に降ってくるように見えた…
正月早々、目も頭もおめでたくなっているようだw 相模線のキハ30系統の前面方向幕にはオリジナルの相模線系統の幕が入っていたらしいが、使われているのを見た事が無い。 >>166の補足
言ってるのは、JNR時代の昭和の頃ね。
相模線新塗装になってからは「⇔幕」がいつも出ていたのは知っている。 >>167
ついでに補足すると、相模色になる直前のタラコ時代から使われてる
海老名駅開業からかな? 166>>
全車確認したのではないですが、新製時から相模線配置だった車には布製の幕で、
上から順に 西寒川・寒川・厚木・茅ヶ崎・橋本・原当麻・八王子・回送・試運転
の幕が装備されていました。雑誌の古い写真とかで、表示されているのを見掛た事
がありますが、使用実績までは分かりません…。転属車は幕無しや表示器ごと無し、
白幕表示であっても、幕は旧区所のままがほとんどでした。新潟地区からの転属車
で一時期に「直江津」が半分出ていたのもありました。S60年3月改正頃(だったと
思います)から矢印表示の幕を表示して、海老名開業の62年3月に幕交換、気動車
末期の頃に「橋本⇔南橋本」表示に対応する為に再度交換したと記憶しています。 >>169
相模線生え抜き…キハ30-41・42・67・77・97の5両か。
新塗装登場が、昭和61年夏頃だったか?
確か、キハ30-25・49の2両が皮切りだったはず。
(新塗装化時点で、矢印幕は間違いなく使ってた。)
末期幕は「10 海老名」(矢印ではなく、行先だけ)の記憶が強烈。
電化直前では、茅ヶ崎16:10発頃の海老名行でたまに使ってた。
当時に撮影してればなぁ… 東海道線も茅ヶ崎に来ると相模線のディーゼルが停まっていて、
それなりに旅情を感じたもんだ。
いまはすっかり都会の駅になった。 手元の国鉄時代・タラコ色・キハ10存在時代の相模線キハ30・35・36
の写真をあらためて見てみたが、前面行き先表示幕は
@空、もしくはどちらかに巻き上がってしまってる・・・?
A幕はあるが、煤けた白幕状態
ばかりで、残念ながらなんらかの文字は確認出来なかった。
当時橋本とか茅ヶ崎の停車時に幕を回してもらえばよかった・・。
スレチだが、富山港線のクモハ73に横浜線の方向幕、御殿場線のクハ79
に常磐線の方向幕が入ってるのが回してもらって判明して、回した車掌氏共々
驚いたことがあったのに、相模線キハではそれをお願いしなかったよ。 御殿場線は、
3ドア・4ドアとも松戸転属が多かったから、
一部関西からも。 >>169 の者です。
相模線での幕回しですが、折り返し時に時間のある乗務員氏に依頼した事
があります。旧区所の幕には厚狭・美濃太田・千葉地区・水戸・新潟地区
等がありました。綺麗な白幕…と思ったら、本当に10コマ程度の長さの白
幕だけっていうもありました。
>>174
おぉ、面白い内容ですね。
相模線で廃車になった車両の各新製配置区を見てみると・・・。
亀山 :キハ30:1・3・4・5・9・10
千葉 :キハ30:14・46、キハ35:59・81・97・100・101・103・904、キハ36:37
福井 :キハ30:25・26
厚狭 :キハ30:29
加古川:キハ30:49
勝浦 :キハ30:61
多治見:キハ30:80
吉田 :キハ30:505・506
新潟 :キハ35:514・517〜519・531
大宮 :キハ35:107・109・163
高崎 :キハ35:110・134
奈良 :キハ35:127、キハ36:2・3・37
となりました。
もちろん新製から相模線までにはその他の移動遍歴もあるでしょう(上記
では水戸は出てこない)が、とりあえず本州各地から来てますね。
これらの方向幕も殆ど灰燼に帰してしまったかと思うと実に勿体無いです・・。
>>175
生暖かい「茶色の」固体が頭上から…
想像したくないw >>176
凄いです…
末期に在籍していた車両が一部いないのは、「相模線で」廃車になった
車両と言うことだから?
電化まで生え抜きの5両(30-41・42・67・77・97)以外では…
30-30・62・100(後2両は今も現役)、35-158・165・166・170・210〜212・520・524、
905(1975年頃千葉から貸出)が漏れているのかも。
上に記した後、例のメモノートが出てきたので、新製配属に追加。
30-62;勝浦/30-100;亀山
158;常陸太子、165・166;大宮、170;広島、210〜212;千葉、520・524;新潟
水戸関連は、恐らく35-158の持っていたものかと。 久々に「メモノート」に目を通して気になったもの…
・キハ35-165の前面方向幕、末期は自動化されていた?
・キハ30の前面補強板、80だけRがなく、14・505はRがあった
(キハ35の補強はメモしてない…)
・キハ30の生え抜き(77以外)・更新車は、銘板上でクリーム・青が塗り分けられていた
(あとは白/青一色)
20年前にネットがあったらなぁ… 相模線のキハ末期だけど、いくつかメモしておいたのに、どっかいちゃったなあ。
全面補強板なしの車のうち、30ー46と30ー49の全面の青い塗り分け位置が他車より少し高くなっていたっけ。
35−519は、テールライト脇にあるはずのステップが無かった。
30−26(25も?)はタイフォンが行先表示窓の反対側幕部にあった。
とか思い出したことを書き出してみました >>180
さらに記憶の彼方から。
・30-46の塗り分けがやや高い;確かに。
・30-25・26のオデコタイフォン;元福井所属車の仕様
※25は関鉄に譲渡されたが、譲渡後の改造で撤去されたかは未確認
・30-505;テールは35-158〜と同仕様
(旧仕様からの外ハメ改造版は、一部炭酸飲料のペットボトルみたいに
「2段突起」の形状をしているが、505はそうではなかった)
・35-109・127;ATS作動音が独特(127はスロー、109はホント独特)
・30-97;運転台内部にも形式板があった
(30-62・100は更新時に取付、その他車両は塗り表記) いや〜ディープな内容だ。
地方私鉄好きの俺でも惹き付けられる。
当時を知る人(俺は電化以降に転居)にとっちゃ今の相模線は退屈 極まりないんだろうな。
ところで電化前後で取り扱い車種が大きく変わるわけですが、運転士はどうなんですか?
相模線のように単一運用のソコソコ距離の非電化線区だと内燃免許のみ所持で専属乗務してきた人が多数いたような気もするのですが・・・
事情等電気車免許を取らなかった人は、下車勤・八高、久留里等広域転属? >>182
電化前から今まで相模線沿線住民(橋本口・相模原市民)。
> 当時を知る人にとっちゃ今の相模線は退屈 極まりないんだろうな。
車両面では味気ないけど、電化前と比べれば、特に夏は数段快適になった。
で、駅施設もそれなりに充実し、京王線のお陰で都心には出やすいし、
日常使う面では便利になってる。(運転間隔がやや長いのと、交換待ちが多いのが難点)
でも、既に電化から20年近くも経つんだよね…205-500にはまだ古さを感じないけど。
ただ、相模原に住むには、車がないと色々不便だけどね。 >>179
>>180
>>181
趣味的には無味乾燥に見えるキハ35系統も実は色々と面白そうだったんですね〜。 >>184
結局、電化直前には全国各地から集ったからねぇ…
補強・ヘッドライトの形態など、各地で改造されていたこともあって、
同一形式でも個体差が出てしまったと言うことかと。
そして、相模線のオリジナルカラーに塗装変更されたことも相まって、
そのことが自分にとってのキハ30系の魅力でもあったんだけど。
(当時は、日常の足として利用していたこともあるんだけどね)
形態メモはしていても、写真で記録を残せていなかったのがホント心残り。
模型で再現する上でも、極めて重要なデータであるだけに。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています